気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(2)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・つくる会会員・石原 隆夫

6)「つくる会」の分裂騒ぎとは何だったのか

保守が大同団結して始まった「つくる会」は、第1回と第2回の採択で思わしい成果を上げることが出来なかったことから、参加者の思惑の違いが表面化し、平成18年4月組織は分裂した。
当時会長だった八木氏と日本会議に所属する理事や学者が一斉に「つくる会」から退場した。
八木会長の退場は、理事会に諮ることなく中国社会科学院と会談したことが原因だった。中国社会科学院といえば、「つくる会」の教科書に反対し、日本政府に是正を要求した中国政府の反日の司令塔であり、歴史戦の尖兵である。後に、八木氏が立ち上げた教育再生機構の機関誌の対談で、中国社会科学院のメンバーが、日中戦争は日本の侵略である事を認めろ、と日本側に迫っていたことを思い出す。分裂騒ぎでは、露骨な採択妨害の韓国に代わって密やかな中国の影が垣間見えるようになった。平成18年6月、八木氏が教育再生機構を立ち上げた際に、「朝日新聞に文句を言われない教科書を作る」とコメントしたが、これは「つくる会」の教科書のように、自虐史観教科書に対抗するものではなく、左翼の牙城である朝日新聞さえ納得する教科書を作るという宣言だったのだ。この言葉を聞いて、分裂の本当の原因と意味が理解出来た。「つくる会」の教科書では中国や韓国の内政干渉を誘い、その結果、採択数も伸びず商売にならないのであり、朝日新聞が文句を言わない教科書とは当然、中国も韓国も容認する教科書と言うことだったのである。あくまでも設立時の「趣意書」に書かれた理念を守り、誇り有る日本人たれとの思いを子供達に伝えようとする教科書作りをめざす「つくる会」にとっては、八木氏との協同はあり得ない選択肢であった。分裂で「つくる会」は産経グループのバックアップと扶桑社という出版社を失い、一部の会員も失った。それにも拘わらず、「つくる会」と残った会員は意気軒昂だった。「つくる会」発足時に掲げた「趣意書」に沿ってより良い教科書を作り、いずれは教育界から自虐史観を一掃しようと決意を新たにしたのである。だがこの分裂は、当事者間の微妙な路線や歴史観の違い、バックアップする企業の思惑、更に言えば垣間見える中韓の巧妙な工作が、あれほど盛り上がった教科書運動という大義名分や理念を簡単に忘却させ、変質させてしまう現実を国民の前に晒した事件であり、この結果、「つくる会」は孤高の道を歩まざるを得なくなったのだ。

7)「つくる会」の絶頂と混迷

平成19年5月、分裂前に教科書出版社だった扶桑社は「つくる会」に関係解消を通達し、教科書業界から撤退した。扶桑社を失った「つくる会」は新たに出版社として自由社を設立し、フジサンケイグループは新たに3億円を支援して扶桑社の子会社として育鵬社を立ち上げた。
平成21年4月、第3回目の採択戦を迎えたが、横浜市の中田宏市長の下で「つくる会」教科書の採択が実現した。横浜市側は完璧な情報封鎖であったので「つくる会」にとってはサプライズであった。継続採択も含め、この3回目の戦いは、初めて採択率1%を突破した記念すべき採択戦だった。採択率50%超のガリバー出版社である東京書籍から比べれば微々たる実績だったが、首都圏の東京都一貫校に続き横浜市で取ったのは、今後の「つくる会」の教科書運動に光明をみる思いであった。ただ、杉並区の場合と同様に、横浜市も東京都も時の首長自身の「つくる会」教科書の採択に賭ける強い思いが結果をもたらしたのであり、会員の働きかけが直接功を奏したわけではなかったのだ。だからこそサプライズなニュースであった。

平成23年4月、「つくる会」の歴史と公民の教科書が無事検定合格し、第4回目の採択戦に突入した。分裂後初めての教科書作成と出版を経験したが、扶桑社に依存していた出版の細部のノウハウを短期間に吸収確立するのが困難だったこともあり、年表盗用というとんでもないミスが発生してしまった。ルーティンワークとして誰かが責任を持って年表のチェックを怠らなければ、起こりえなかったミスである。本来、年表には著作権が認められていない。従って、出版社の編集者が従来の書式を使って作成するのが慣習であり、余程のことが無い限り大幅に書き換える必要の無い作業である。従って教科書作成に携わった誰もが、出来上がった年表が従来通りに出来ていると思い込み何の疑問も抱かなかったのである。現実は、編集担当者に参考としてわたされた某社の年表を編集担当者が完成品だと誤解し、そのまま教科書に載せてしまったのである。
5月に、育鵬社を応援する人達が、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」が「朝鮮侵略」と書かれていることに気付き、某社の年表盗用だとして大々的にネットに発信し大騒ぎになった。その後、反「つくる会」の組織が非難声明を出し、8月1日には全ての新聞が取り上げた。8月は採択戦の山場であり「つくる会」は混乱を極めた。発覚と同時に「つくる会」は謝罪表明をし、文科省に年表の差し替えを申請したのだが、「つくる会」の年表盗用として広まった負のイメージはいかんともしようがなく、横浜市や東京都は次善の選択として育鵬社の教科書を採択したのである。
「つくる会」のオウンゴールとも言える大失態だった。我々のミスに乗じて採択戦の早い時期から、育鵬社が「つくる会」の年表盗用を喧伝して回ったことを知ったが、すべて後の祭りだった。
採択結果は『新しい歴史教科書』が0.08%、『新しい公民教科書』が0.05%と惨敗だったが、育鵬社は歴史が3.9%、公民が4.1%と大躍進だった。「つくる会」の敵失を奇貨として利用した育鵬社は昨年の採択で大きな躍進を遂げ、反対に「つくる会」はどん底を見ることとなったのだ。その後、年表は新しい工夫を盛り込み使いやすいものに改善され、盗用年表と差し替えられたが、この事件が「つくる会」教科書を採択しないもう一つの言い訳を採択権者に与えてしまったことは確かである。

8)採択惨敗で再認識した「つくる会」の存在意義

昨年は5回目の採択の年だった。4回目の惨敗を挽回するために「つくる会」に残された道は、
「つくる会」発足時の趣意書にあるように、『世界史的な視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写することで、祖先の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語を語り合える』教科書作りに愚直に邁進することだった。
以前からの中韓による歴史改竄と謀略に満ちた日本への誹謗と中傷は、慰安婦問題や南京事件を通じて日増しに強まり、いわゆる歴史戦の様相を呈し、国民の間にも中韓に対する疑問が抱かれるようになった。その結果として嫌韓・嫌中本が本屋のベストセラーになったのである。「つくる会」は以前から歴史戦がもたらす危険に気付き、南京問題や慰安婦問題に対応する組織を立ち上げ、シンポジウムや出版物を通じて国民への啓蒙を図ってきたが、このような運動は教科書関係の保守団体としては「つくる会」が唯一の存在であった。教科書は次世代の子供達を育てる手段だが、歴史戦への挑戦は、今の日本と日本人の国益と誇りを守るとともに、次世代を担う子供達をも守る重大な使命を帯びた活動である。その活動を通して、『新しい歴史教科書』が世に問うたのは、日中関係では無かったことが証明された「南京事件」を記述せず、逆に歴史的事実である「通州事件」を記述し、日米関係ではマッカーサーの東京裁判を否定した談話を、コラムという形ではあるが、記述したことである。幸いにしてこの試みは、文科省の検定をパスすることができ、「つくる会」の教科書執筆陣は教科書記述の可能性が大きく広がったと喜んだのである。歴史戦の最中にあってこれは教科書業界にあっては特筆すべき事であった。このような「つくる会」の先進的な試みが、必ずや「つくる会効果」として、次の各社の教科書に影響を与え、結果として各教科書から自虐的表現が無くなっていくことを我々は期待していたからである。

ところが期待していた採択は、1)「つくる会」の惨敗に終わった5回目の採択戦で述べたように公立学校ではゼロ、私立が僅かばかり採択という信じられないほどの惨憺たる結果に終わったのだ。一方で、売れる教科書を目指した育鵬社は前回を大幅に上回る6%の採択率を確保し、経営的に安定といわれる5%の大台を超えたのである。一部の「つくる会」会員の間からは、「つくる会」から別れた同じ保守系の育鵬社が伸びたことを喜ぶ風潮もあったが、大方の会員には深い挫折感を味わう結果であった。この結果を受けて10月に急遽開かれた「つくる会」総会は、本部の責任を追及する紛糾の場となるかと思われたが、総会に出席した会員の総意は、「つくる会」の存続を賭けても自虐史観是正のために教科書出版を諦めずに運動を継続すること、また、国益のために歴史戦を継続して戦う「つくる会」の方針も満場一致で承認されたのであった。会員がこの苦境に直面して絶望感と挫折感を味わいながらも、一致団結して「つくる会」の存続を決意した理由は、営利団体ではなくボランティア団体であるという他の教科書会社とは異なる「つくる会」の特殊性もさることながら、逆境に遭って「つくる会」の使命を改めて再認識した個々の会員の意識の高さにこそ求められるべきであろう。当時、危機に瀕していた財政を救ってくれたのは、呼びかけに応じてくれた全国の会員からの緊急の寄付であったが、これこそ会員の意識の高さを証明するものだった。

つづく

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