内部をむしばむ国民の深い諦め

 平成30年9月7日 産經新聞「正論」欄より

≪≪≪ 深刻さを増す組織の機能麻痺 ≫≫≫

 スポーツ界の昨今の組織の機能麻痺(まひ)は日本相撲協会の横綱審議委員会の不作為に始まった。横綱の見苦しい張り手や変化、酒席での後輩への暴行、相次ぐ連続休場。その横綱の品位を認め、人格を保証したのが横綱審議委員会なのだから、彼らも責任を取らなければならないのに、誰もやめない。
 
 モンゴル人力士の制限の必要、年間6場所制の無理、ガチンコ相撲を少し緩める大人の対応をしなければけが人続出となる-素人にも分かる目の前の問題を解決せず、臭い物に蓋をして組織の奥の方で権力をたらい回ししている。
 
 そう思いつつファンは白けきっていると、日大アメフト問題、レスリングのパワハラ問題、アマチュアボクシングの会長問題、そして18歳の女子選手による日本体操協会の内部告発と来た。止(とど)まる所を知らない。各組織の内部が崩壊している。
 企業にも言えるのではないか。東芝の不正会計問題、神戸製鋼の品質データ改竄(かいざん)問題、日産の排ガス検査改竄問題と枚挙にいとまがない。政界や官界や言論界も無傷なはずはない。財務省の国有地売却をめぐる公文書改竄はどう見ても驚くべき書き換えで、担当者が自殺までしている。その父親の手記は涙なしに読めなかった。事件の原因が安倍晋三内閣への忖度(そんたく)だといわれても仕方がないだろう。
 『文芸春秋』の内紛は左翼リベラルに傾いて内容希薄になっていたこの雑誌の迷走の結果であって、「自滅」の黄ランプを会社の門口にぶら下げた事件にも例えられよう。
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≪≪≪ 日本に蔓延する現状維持ムード≫≫≫

 このような状況下で、日本が何か外から予想もつかない大きな衝撃を受けて、外交的・軍事的に国家が動かなければならないような事態が起こったら恐ろしい。少しでも正論を唱えるとボコボコにやられる。オリンピックが終わった段階で何かありそうだ。

 世の中が祭典で浮かれている今こそ“オリンピック以後をどう考えるか”を特集する雑誌が現れなくてはいけないのに、そういう気配がない。この無風状態こそ、横綱審議委員会から自民党内閣をも経て、『文芸春秋』にまで至る、何もしない、何も考えない今日の日本人の現状維持第一主義のムードを醸す。自分だけが一歩でも前へ出ることを恐れ、他人や他の組織の顔色をうかがう同調心理の中で、時間を先送りするその日暮らし愛好精神のいわば母胎である。
 今の日本人は国全体が大きく動き出すことを必死になって全員で押さえている。仮に動き出すことはあっても、自分は先鞭(せんべん)をつけないことを用心深く周囲に吹聴している。世界の動きに戦略的に先手を打つことは少なく、世界の動きを見てゆっくり戦略を考えるのが日本流だ、といえば聞こえはいいが、戦略がまるっきりないことの表れであることの方が多い。

 国家を主導している保守政治とは残念ながら、そういう方向に落ち着いている(堕落しているともいえる)が、国防をアメリカに依存しているわが国の現実を見るならば仕方がない。これが、保守政権を支持する大半の国民の条件付き承認の本音である。問題は「さしあたりは仕方がない」の本音が国民から勇気を奪い、社会生活の他の領域、政治・外交とは直接関係のない生活面にまで強い影響を及ぼしてしまうことなのである。
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≪≪≪ 政府の行動に責任はあるか ≫≫≫

 今のアメリカは日本を守るつもりもないけれども、手放すつもりもなく、自由にさせるつもりもないという様子見の状態である。日本も様子見でいけばいいのだが、強い方は何もしないでも黙って弱い方を制縛する。弱い方はよほど意識的に努力しても、なかなか様子見しているほどの自由の立場には立てない。今の日米関係がまさにそれである。国民は諦めてこの現実を認めている。安倍政権支持はこの諦めの表現である。

 昔と違って今の日本人は政治的に成熟し、大人になっている。「さしあたりは仕方がない」は明日、自民党に代わる受け皿になる政党が現れれば、あっという間に支持政党を変えてしまう可能性を示唆している。国民は何かを深く諦めているのである。政府がアメリカに対して、国防だけでなく他のあらゆる分野で戦略的に先手を打てないでいる消極性は、国民生活のさまざまな面で見習うべき模範となり現状維持ムード、その日暮らしの同調心理を育てている。

 スポーツ団体から企業社会までそういう政府のまねをする傾向が強くなる。組織は合理性も精神性も失い、それぞれが表からは見えない「奥の院」を抱え、内部でひそかに一部の人々が権力をたらい回ししている。財務省の国有地売却に関する公文書改竄を見て、国民は「こんなことまでやっていたのか」と驚き、恐らく将来違った形で、似たようなことがもっと大規模に繰り返されるだろう。

 政府の行動は学校の先生が生徒に与えるのと同じような教育効果がある。だから怖いのである。今日の出来事は明日は消えても、明後日は違った形で蘇(よみがえ)るであろう。(にしお かんじ)

牛久大佛を訪れて

 東京からさほど遠くないところに途方もない巨きさの大佛像が建っていると聞いて、一度近寄ってみたいと思っていた。私の住む街区からでもマンションの高い階からならば見えるのかもしれない。

 友人たちを誘って出かけることになり、たまたま一年で一番暑い日といわれた梅雨あけの7月14日が選ばれた。このところ盛んに吹いていた風もなく、朝からジリジリ照りつける熱暑の日だった。友人の一人が十数人乗れる大型のレンタカーを用意してくれた。朝8時に友人たちは約束どおり杉並の西荻窪の駅近くに集合した。

 私がこの巨大佛像を見たいと思ったのは多少の童心からと多少の美学的動機からだった。車に乗り込んでからすぐに一座の仲間に後者の動機について話をした。「葛飾北斎ですよ。遠近法で見慣れた通例の景色を意図的に壊すために北斎は寸尺の合わないものを並べることをよくやりました。富士山を遠景にして、手前にバカでかい舟や木樽を置いて近景をクローズアップさせ、思い切って中景を省いたショッキング画法はよく知られていますよね。あれですよ。」といささか怪しげな美学の講釈をした。

 私の目論見ではこの現代にピラミッド級の巨大な佛像が建立されれば、近隣に住む人にはえらく目障りに違いないアンバランスな光景が至る処に出現しているだろう、私はそれを見たいと思った。山中湖や河口湖の富士山にはこの驚きはない。甲府の町から見る富士山にはこの視覚上のショッキングがある。私は同じ驚きをカナディアン・ロッキーやドロミーテで経験した。私は牛久にもそれを期待した。だから像そのものに興味はない。周辺の光景との不釣り合いを見たいのだ、と行きがけの車中で一息にしゃべった。同乗の友人たちは狐につままれたような不可解な顔をしていた。

 近寄って分ったのは佛像の周りの環境は森林に覆われた地形が多く、現代的な建造物と重ね合わせるシーンが少ない。写真撮影の機会にも乏しい。それでも何度かシャッターチャンスはあった。皆さんが工夫して撮った数々の面白い映像とそれに伴うこの日の感想の言葉が今日から当ブログを賑わすことになるだろう。同じような似た画像が繰り返されてもよいことにしていただきたい。

 参加したのは次の方々である。
 阿由葉秀峰、伊藤悠可、岡田敦夫、岡田道重、佐藤春生、松山久幸、行澤俊治(現地参加)、吉田圭介の各氏である。

 なお私は病後にもめげず熱暑の中を歩きつづけ、一晩寝ただけで疲れも取れ、体力の自信を回復したことをご報告する。テレビの天気予報は「高齢者は安静にしていても熱中症になる恐れのある日だ」と警告していたので心配していた。

 天気予報は言い過ぎだ。ここまで言うのはかえって不安になるだけで良くない。

「トランプ外交」は危機の叫びだ

平成30年6月8日産經新聞「正論」欄より

 やや旧聞に属するが、昨年の東京都議会選挙で自由民主党が惨敗し、続く衆議院選挙で上げ潮に乗った小池百合子氏の新党が大勝利を収めるかと思いきや、野党に旗幟(きし)を鮮明にするよう呼びかけた彼女の「排除」の一言が仇(あだ)となり、失速した。そうメディアは伝えたし、今もそう信じられている。

≪≪≪「排除」は政治的な自己表現≫≫≫

 私は失速の原因を詮索するつもりはない。ただあのとき「排除」は行き過ぎだとか、日本人の和の精神になじまない言葉だとか、しきりに融和が唱えられたのはおかしな話だと思っていた。「排除」は失言どころか、近年、政治家が口にした言葉の中では最も言い得て妙な政治的自己表現であったと考えている。

 そもそも政治の始まりは主張であり、そのための味方作りである。丸く収めようなどと対立の露骨化を恐れていては何もできない。実際、野党第一党の左半分は「排除」の意思を明確にしたので立憲民主党という新しい集団意思を示すことに成功した。右半分は何か勘違いをしていたらしく、くっついたり離れたりを重ね、意思表明がいまだにできていない。
今の日本の保守勢力は政党人、知識人、メディアを含め、自己曖昧化という名の病気を患っている。今後の新党作りの成功の鍵は、自民党の最右翼より一歩右に出て、「排除」の政治論理を徹底して貫くことである。小池氏はそれができなかったから資格なしとみられたのだ。
 
 実際、日本の保守勢力は自民党の左に立てこもり、同じ所をぐるぐる回っているだけで「壁」にぶつからない。新しい「自己」を発見しない。今までの既成の物差しでは測れない「自己」に目覚めようとしない。

≪≪≪秩序の破壊は危険水域を越えた≫≫≫

 世界の現実は今、大きな構造上の変化に直面している。かつてない危機を感じ取り、類例のない手法で泥沼の大掃除をすべく冒険に踏み出そうとしている人がいる。米国のトランプ大統領である。

 彼はロシアと中国による世界秩序の破壊が危険水域を越えたことを警鐘乱打するのに、他国から最もいやがられる非外交政策をあえて取ってみせた。中国を蚊帳の外にはずして、急遽(きゅうきょ)、北朝鮮と直接対話するという方針を選んだ4月以降、彼は通例の外交回路をすべてすっとばして独断専行した。

 同時に中国には鉄鋼とアルミに高関税を課す決定を下した。それは当然だが、カナダや欧州やメキシコなど一度は高関税を免除していた同盟国に対し、改めてアメリカの国防上の理由から高関税を課す、と政策をより戻したのは、いかな政治と経済の一元化政策とはいえ物議を醸すのは当然だった。

 彼はなぜこんな非理性的な政策提言をしたのだろうか。世界の秩序は今、確かに構造上の変化の交差路に立たされている。アメリカ文明はロシアと中国、とりわけ中国から露骨な挑戦を受け、軍事と経済の両面において新しい「冷戦」ともいうべき危機の瀬戸際に立たされている。トランプ政権は、北朝鮮情勢の急迫によってやっと遅ればせながら中国の真意を悟り、この数カ月で国内体制を組み替え、反中路線を決断した。

 トランプ氏は人権や民主主義の危機などという理念のイデオロギーには関心がない。しかし軍事と経済の危うさには敏感である。アメリカ一国では支えきれない現実にも気がつきだした。そのリアリズムに立つトランプ氏がアメリカの「国防上の理由」から高関税を遠隔地の同盟国にも要求する、という身勝手な言い分を堂々と、あえて粉飾なしに、非外交的に言ってのけた根拠は何であろうか。

≪≪≪日本は「自己」に目覚めよ≫≫≫

 トランプ氏はただならぬ深刻さを世界中の人に突きつけ、非常事態であることを示したかったのだ。北朝鮮との会談に世界中の耳目が集まっているのを勿怪(もっけ)の幸いに、アメリカは不当に損をしている、と言い立てたかった。自国の利益が世界秩序を左右するというこれまで言わずもがなの自明の前提を、これほど露骨な論理で、けれんみもなく胸を張って、危機の正体として露出してみせた政治家が過去にいただろうか。

 政治は自己主張に始まり、「排除」の論理は必然だと私は前に言ったが、トランプ氏は世界全体を排除しようとしてさえいる。ロシアと中国だけではない。西側先進国をも同盟国をも排除している。いやいやながらの同盟関係なのである。それが今のアメリカの叫びだと言っている。アメリカ一流の孤立主義の匂いを漂わせているが、トランプ氏の場合は必ずしも無責任な孤立主義ではない。北朝鮮核問題は逃げないで引き受けると言っているからだ。

 ただ彼の露悪的な言葉遣いはアメリカが「壁」にぶつかり、今までの物差しでは測れない「自己」を発見したための憤怒と混迷と痛哭(つうこく)の叫びなのだと思う。日本の対応は大金を支払えばそれですむという話ではもはやない。日本自身が「壁」にぶつかり、「自己」を発見することが何よりも大切であることが問われている。
(評論家・西尾幹二 にしお かんじ)

 六月八日付産經新聞正論欄に「トランプ外交は危機の叫びだ」を出しましたので、九日より以降、どうかコメント欄への自由な書き込みにご活用下さい。

 宮崎正弘氏の最新刊『アメリカの「反中」は本気だ!』(ビジネス社)を読みました。米中政治対決が明確化したという私の予測と理解にそれまでかすみがかかっていた迷いがあったのに、この本で拭い去られました。それが三日前です。二日前に藤井厳喜氏からファクスで、トランプがロシア疑惑を克服したこと、ロシア疑惑はヒラリー陣営をむしろ危うくしているという新情報を与えられました。この二つのニュースを個人的に手に入れて熟読し、八日の産經コラムのあの内容を決定しました。宮崎、藤井両氏の名を挙げるスペースはありませんでした。両氏にここで御礼申し上げます。

 産經コラムの前半の小池百合子氏による「排除」の一語云々の私の政治解釈は、コラムの話を面白くするために例として出しただけで、特別の意味はありません。直接つながらない無関係な二つの主題をあえて結ぶとたぶん面白い刺激になるだろう、という思い付きでやったまでで、うまく行ったかどうか私にも分かりません。今の保守は「壁にぶつからない」とか、「今までの物指しでは測れない『自己』に目覚めようとはしない」等の保守を批判した言葉遣いは、夜中に寝入る前に思いつき、枕元の紙にメモしておきました。

 この産經コラムはいつもそうするのですが、字数合わせもあるので、ペンで二度清書して、大抵三~四行くらいマイナスに削って、夜書き上げ、早朝もう一度見直し、さいごの修正をしてファクス器にかけます。

 なぜ今回はこんな詳しい内情をお話しするのかというと、短文でもこれだけ苦心するのだということ、否、短文だからこそかえって時間がかかるのだということをお知らせしたかったからです。三日を要しています。私はたぶん非能率な人間なのでしょう。

ユネスコ記憶遺産登録

ユネスコ記憶遺産登録の無法ぶりに対しずっとわれわれはなすすべなく、自らの無力に歯ぎしりしていました。しかし次のニュースに接し、ついに無法に切り込んでくれる日本人の実行者が現れたこと、そしてともあれ一太刀あびせることができたらしいことをうれしく思いました。実行者の皆さまに御礼申し上げます。

日本政府には期待できません。民間団体によるこの登録申請は、歴史戦に対する日本側からの初めての挑戦で、日本の歴史にとってまことに画期的なことと思います。

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(一社)新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会

つくる会FAX通信

第390号 平成28年(2016年)6月3日(金)  送信枚2枚

TEL 03-6912-0047 FAX 03-6912-0048 http://www.tsukurukai.com 

ユネスコ記憶遺産に

「通州事件・チベット侵略」「慰安婦」を登録申請

歴史戦の新しい展開を「つくる会」は支援

5月31日、日本、チベット、アメリカの民間団体が共同して、ユネスコの記憶遺産に2つのテーマを共同申請しました。共同申請とは、一つの国の枠を越えて、複数の国の団体や個人が共同で申請する記憶遺産のルールにもとづくものです。

第一のテーマは、「20世紀中国大陸における政治暴力の記録:チベット、日本」というタイトルで、1937年7月29日に起こった日本人虐殺事件(通州事件)と、戦後の中国によるチベット民族消滅化政策を、中国の政治暴力の犠牲者として位置づけた申請です。

第二のテーマは、「慰安婦と日本軍規律に関する文書」というタイトルで、日米の共同申請です。慰安婦制度の正しい姿を知ることの出来る資料を登録する内容です。

それぞれの申請書の概要部分は下記のとおりです。

なお、この中で、申請の主体となっている「通州事件アーカイブズ設立基金」は、通州事件についての資料の発掘、調査、保存、普及のためのNGO団体で、5月に発足しました。

会見は、「通州・チベット」側から、基金の藤岡信勝代表、皿木喜久副代表、ペマギャルポ、三浦小太郎の各氏、「慰安婦」側から山本優美子、藤木俊一、藤井実彦の各氏が出席しました。今後は年内におおよその結論を出すとみられる小委員会と対応し、来年10月の登録を目指します。

これらの申請の登録が実現するよう、当会も全面的にバックアップをしてまいります。

(1)「20世紀中国大陸における政治暴力の記録:チベット、日本」

<申請者>日本:通州事件アーカイブズ設立基金

チベット:Gyari Bhutuk

<概要> 20世紀の中国大陸では、他国民あるいは他民族に対する政治暴力がしばしば行使された。この共同申請は、対チベットと対日本の事例についての記録であり、東アジアの近代史に関する新たな視点を示唆するとともに、人類が記憶すべき負の遺産として保存されるべきものである。以下、事件の概要を、時間順に従い、(A)日本、次いで(B)チベットの順に述べる。

(A) 日本: 1937年7月29日に起こった通州虐殺事件の記録である。この事件は暴動によって妊婦や赤ん坊を含む無辜の日本人住民200人以上が最も残虐なやり方で集団的に殺害されたもので、日本人居住者を保護する立場にあった冀東自治政府の中の治安維持を担当する保安隊を主体とした武装集団がやったことであった。

(B)チベット: 中華人民共和国建国直後の1949年から始まったチベットに対する侵略行為の記録である。それから1979年までに、1,207,387人のチベット人が虐殺された。犠牲者の中には、侵略者に対する抵抗運動の中で殺された者や、収容所や獄中で拷問の末に殺された者などがいた。チベット仏教の文化は消滅の危機にさらされている。チベットのケースは、日本とは規模は大きく異なるが、残虐行為の実態は驚くほど共通している。

(2)「慰安婦と日本軍規律に関する文書」

<申請者>日本:なでしこアクション、慰安婦の真実国民運動

     アメリカ:The Study Group For Japan’s Rebirth

<概要> 慰安婦comfort womenについて誤解が蔓延しています。正しく理解されるべきであり、記憶遺産に申請します。慰安婦とは、戦時中から1945年終戦までは日本軍向け、戦後は日本に駐留した連合軍向けに働いた女性たちで、民間業者が雇用、法的に認められた仕事でした。他の職業同様、住む場所・日常行動について制限はありましたが、戦線ではあっても相応な自由はあり、高い報酬を得ていました。彼女らは性奴隷ではありません。申請した文書には、日本人33人の証言集があります。これは当時、慰安婦らと直に会話し取材したものです。また、慰安所のお客が守る厳格な決まり、占領地の住民を平等に扱ったこと、ヒトラーのドイツ民族優位論を否定するなど、日本軍の規律や戦争に対する姿勢などが記されている文書もあります。慰安婦制度が現地女性の強姦や、性病の防止に効果があったこと、日本軍は規律正しかったことも記されています。

謹賀新年(2)

 また一年が経ちました。皆様にはいかゞお過ごしですか。

 最近私は時事評論が書きにくくなりました。経済が世界を動かし、政治以上に政治であるようになり、従来保守の普通の感覚で国際政治は語れません。

 経済と政治の両方を見て書いている人に、田村秀男氏、宮崎正弘氏、藤井巌喜氏、三橋貴明氏、渡辺哲也氏等がおり、私はいつも丁寧に拝読しています。政治のことだけ言っている人は、なぜか現実の半分しか語っていないように思われてなりません。

 ですから私も両面のリアリティを語りたいと思うのですが、これが難しい。難しいだけでなく、自分の柄にも合っていない。やはり私は人文系で、人間にのみ関心があり、数理の世界は苦手です。

 経済は本当に分らない処がある。シティとウォール街はつながっていて、イギリスはアメリカの永遠の同調者だと思っていたら、中国をめぐる対応が余りに違う。金融が政治を支配しているのは間違いないが、金融と政治とは別ではなく、金融の動きが政治なのです。さりとて金融はよく言われるように果して国家を超えているでしょうか。

 国家の果す役割は小さくなったと語る人がいますが、世界はいぜんとして国家単位で動いています。EUが壊れかけてからますます国家中心です。冷戦時代の方がむしろ今よりグローバリズムでした。ことに日本は国家中心で考えないと、どうにもならない唯一性に支えられています。

 「西欧の没落」(シュペングラー)が出て100年近くですが、西欧は没落なんかしていません。私見では、1600年代初頭に「海」のグローバルな秩序を西欧が抑えることに決し、たゞし東アジアは圏外に置くとした認定が300年つづいたのです。そして二度の戦争でこの認定は排されました。「圏外」はなくすということになったのです。今もこれがつづいています。イスラムとロシアが抵抗していますが、日本は抵抗をやめました。冒険を捨て安全を選んだのは、独自性を捨て凡庸性を選んだのと同じことです。

 それでいてあき足らないものがある。そこで何かと日本の文化、日本人らしさ、和風を主張する声があちこちに聞こえます。ラグビーやノーベル賞をよろこぶ一方で、日本の技はこんなに素晴らしいと賞めちぎるテレビ番組が氾濫しています。なぜか自然に日本文化が主張されているようには思えません。いったん世界性という凡庸な価値観をくぐり抜けた「和」の再評価、つくられた偽装の自己主張のようにみえてなりません。

 今の若い人風にいえば日本は「可愛いい」国になりつつあり、なろうとしているようにみえます。オリンピック競技場のデザインも例外ではないでしょう。やはり17世紀以来の特権、地球上の特別指定席、秩序の圏外に置かれた枠を廃止されたことは大きい。自分で新しい秩序をつくろうとしましたが失敗し、圏内に押さえこまれてしまったのです。

 アメリカのことを言っているのではありません。欧と米を合わせたキリスト教文化圏のことです。ロシア(ギリシャ正教)とイスラムは抵抗しています。中国も抵抗しています。たゞし中国は昔の日本と同じやり方で一つの圏を守り、新しい秩序をつくろうとしていますが、いつも世界の評判を気にし、アメリカ方式の模倣に走り、「可愛いい」日本が出すだけの文化の魅力、独自性を発揮することにもなりそうにありません。時代遅れの軍事パレードが古い世界システムの追認以外のなにものでもないことを明かしました。これでは支那文化の主張にはなりません。視野が狭く、心が共産主義以前のままに閉ざされているのです。

 それならば日本は世界に先がけて既成の秩序とは別のもう一つの独自な花を咲かせることができるのでしょうか。「可愛いい日本」を打ち破れるでしょうか。

 独自性は特殊性とは違います。例外的であることではないのです。外の世界との違いに気づいて、自分をあらためて発見するのは良いことでしょうが、違うにこだわるのは独自性の発見ではありません。独自性は特異性ではないのです。

 世界のルールや物指し(尺度)に反することは愚かなことですが、かくべつ異をてらわず、活動や努力をしつづけているうちに、それが世界のルールや物指しの中に数え入れられるようになっていることが独自性ということでしょう。日本にはそういう事例がすでにいくつもあると思います。具体的に何がそうであるかは敢えて言わないことにします。

日本人は少しおかしいのでは?

 ときどき日本人はどうしてこんなにおかしい民族なのだろうかと思うことがある。わずか12年前に、今から信じられないあまりに奇怪な言葉が書かれて、本気にされていた事実を次の文章から読み取っていたゞこう。

 最近出たばかりの私の全集第12巻『全体主義の呪い』の576ページ以下である。自分の昔の文章を整理していて発見した。

 この作品は初版から10年後の2003年に『壁の向こうの狂気』と題を変えて改版されたが、そのとき加筆した部分にこの言葉はあった。私もすっかり忘れていたのだった。

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全集第12巻P576より

 北朝鮮の拉致家族五人の帰国は、私たち日本人の「壁」の向こうからの客の到来が示す深刻さをはじめて切実に感じさせました。向こう側の社会はまったく異質なのだという「体制の相違」を、日本人は初めて本格的に突きつけられました。それは相違がよく分っていないナイーヴすぎる人が少なくないということで、かえって国民におやという不可解さと問題を考えさせるきっかけを与えました。

 北朝鮮が他の自由な国と同じ法意識や外交常識をもつという前提で、この国と仲良くして事態の解決を図ろうという楽天的なひとびとが最初いかに多かったかを思い出して下さい。「体制の相違」を一度も考えたことのない素朴なひとびとの無警戒ぶりを一つの意図をもって集め、並べたのは、五人が帰国した10月末から11月にかけての朝日新聞投書欄「声」でした。

「じっくり時間をかけ、両国を自由に往来できるようにして、子供と将来について相談できる環境をつくるのが大切なのではないでしょうか。子どもたちに逆拉致のような苦しみとならぬよう最大限の配慮が約束されて、初めて心から帰国が喜べると思うのですが」(10月24日)
「彼らの日朝間の自由往来を要求してはどうか。来日したい時に来日することができれば、何回か日朝間を往復するうちにどちらを生活の本拠にするかを判断できるだろう」(同25日)

 そもそもこういうことが簡単に出来ない相手国だから苦労しているのではないでしょうか。日本政府が五人をもう北朝鮮には戻さないと決定した件についても、次のようなオピニオンがのっていました。

「24年の歳月で築かれた人間関係や友情を、考える間もなく突然捨てるのである。いくら故郷への帰国であれ大きな衝撃に違いない」(同26日)

「ご家族を思った時、乱暴な処置ではないでしょうか。また、北朝鮮に行かせてあげて、連日の報道疲れを休め、ご家族で話し合う時間を持っていただいてもよいと思います」(同27日)

 ことに次の一文を読んだときに、現実からのあまりの外れ方にわが目を疑う思いでした。

「今回の政府の決定は、本人の意向を踏まえたものと言えず、明白な憲法違反だからである。・・・・・憲法22条は『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない』と明記している。・・・・・拉致被害者にも、この居住の自由が保障されるべきことは言うまでもない。それを『政府方針』の名の下に、勝手に奪うことがどうして許されるのか」(同29日)

 常識ある読者は朝日新聞がなぜこんなわざとらしい投書を相次いでのせるのか不思議に思い、次第に腹が立ってくるでしょう。あの国に通用しない内容であることは新聞社側は百も知っているはずであります。承知でレベル以下の幼い空論、編集者の作文かと疑わせる文章を毎日のようにのせ続けていました。

 そこに新聞社の下心があります。やがて被害者の親子離れが問題となり、世論が割れた頃合いを見計らって、投書の内容は社説となり、北朝鮮政府を同情的に理解する社論が展開されるという手筈になるのでしょう。朝日新聞が再三やってきたことでした。

 何かというと日本の植民地統治時代の罪をもち出し、拉致の犯罪性を薄めようとするのも同紙のほぼ常套のやり方でした。

 鎖国状態になっている「全体主義国家」というものの実態について、かなりの知識が届けられているはずなのに、いったいどうしてこれほどまでに人を食ったような言論がわが国では堂々と罷り通っているのでしょうか。誤認の拉致被害者をいったん北朝鮮に戻すのが正しい対応だという意見は、朝日の「声」だけでなく、マスコミの至る処に存在しました。

「どこでどのように生きるかを選ぶのは本人であって、それを自由に選べ、また変更できる状況を作り出すことこそ大事なのでは」(「毎日新聞」)12月1日)

 と書いているのは作家の高樹のぶ子氏でした。彼女は「被害者を二カ月に一度日本に帰国させる約束をとりつけよ」などと相手をまるでフランスかイギリスのような国と思っている能天気は発言をぶちあげてます。

 彼女は「北朝鮮から『約束を破った』と言われる一連のやり方には納得がいかない」と、拉致という犯罪国の言い分を認め、五人を戻さないことで
「外から見た日本はまことに情緒的で傲慢、信用ならない子供に見えるに違いない」とまでのおっしゃりようであります。

 この最後の一文に毎日新聞編集委員の岸井成格氏が感動し(「毎日新聞」12月3日)、一日朝TBS系テレビで「被害者五人をいったん北朝鮮に戻すべきです」と持論を主張してきたと報告し、同席の大宅映子さんが「私もそう思う」と同調したそうです。同じ発言は評論家の木元教子さん(「読売新聞」10月31日)にもあり、民主党の石井一副代表も「日本政府のやり方は間違っている。私なら『一度帰り、一か月後に家族全部を連れて帰ってこい』という」(「産経新聞」11月21日)とまるであの国が何でも許してくれる自由の国であるかのような言い方をなさっている。

 いったいどうしてこんな言い方があちこちで罷り通っているのでしょう。五人と子供たちを切り離したのは日本政府の決定だという誤解が以上みてきた一定方向のマスコミを蔽っています。

 「体制の相違」という初歩的認識を彼らにもう一度しっかりかみしめてもらいたい。

 日本を知り、北朝鮮を外から見てしまった五人は、もはや元の北朝鮮公民ではありません。北へ戻れば、二度と日本へ帰れないでしょう。強制収容所へ入れられるかもしれません。過酷な運命が待っていましょう。そのことを一番知って恐怖しているのは、ほかならぬ彼ら五人だという明白な証拠があります。彼らは帰国後、北へすぐ戻る素振りをみせていました。政治的に用心深い安全な発言を繰り返していたのはそのためです。二歩の政府はひょっとすると自分たちを助けないかもしれない、とずっと考えていたふしがあります。北へ送還するかもしれないとの不安に怯えていたからなのです。

 日本政府が永住帰国を決定した前後から、五人は「もう北へ戻りたくない」「日本で家族と会いたい」と言い出すようになりました。安心したからです。日本政府が無理に言わせているからではありません。政府決定でようやく不安が消えたからなのでした。これが「全体主義国家」とわれわれの側にある普通の国との間の「埋められぬ断層」の心理現象です。

引用終わり
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 いかがであろう。読者の皆様には多分びっくりされたであろう。

 「朝日」や「毎日」がおかしいというのは確かだが、それだけではない。日本人はおかしいとも思うだろう。

 これらの言葉を私はむろん否定的に扱っているが、まともに付き合って書いている。狂気扱いはしていない。これらが流通していた世の中の現実感覚を私も前提にしている。間違った内容だと言っているが、気違いだとは言っていない。しかし今からみれば、私だけではない、「朝日」の読者だって自分たちが作っていた言葉の世界は精神的に正気ではない世界だったと考えるだろう。

 日本人はやはりどこか本当に狂っているのだろうか。

言語を磨く文学部を重視せよ

産經新聞9月10日正論欄より

 自国の歴史を漢字漢文で綴(つづ)っていた朝鮮半島の人々が戦後、漢字を捨て、学校教育の現場からも漢字を追放したと聞く。住人は自国の歴史が原文で読めないわけだ。

 私はそのことが文化的に致命傷だと憂慮しているが、それなら今の日本人は自国の歴史の原文を簡単に読めるだろうか。漢文も古文も十分に教育されていない今の日本人も、同様に歴史から見放されていないか。

 ≪≪≪ 未来危うくする文科省の通達 ≫≫≫

 学者の概説を通じて間接的に自国の歴史を知ってはいるが、国民の多くがもっと原点に容易に近づける教育がなされていたなら、現在のような「国難」に歴史は黙って的確な答えを与えてくれる。

 聖徳太子の十七条憲法と明治における大日本帝国憲法を持つわが国が第3番目の憲法を作ることがどうしてもできない。もたもたして簡単にいかないのは何も政治的な理由だけによるのではない。

 古代と近代に日本列島は二つの巨大文明に襲われた。二つの憲法はその二つの文明、古代中国文明と近代西洋文明を鏡とし、それに寄り添わせたのではなく、それを契機にわが国が独自性を発揮したのである。しかしいずれにせよ大文明の鏡がなければ生まれなかった。今の日本の困難は自分の外にいかなる鏡も見いだせないことにある。米国は臨時に鏡の役を果たしたが、その期限は尽きた。

 はっきり見つめておきたいが、今の我が国は鏡を自らの歴史の中に、基軸を自らの過去の中に置く以外に、新しい憲法をつくるどんな精神上の動機も見いだすことはできない。もはや外の文明は活路を開く頼りにはならない。

 そう思ったとき、自国の言語と歴史への研鑚(けんさん)、とりわけ教育の現場でのその錬磨が何にもまして民族の生存にかかわる重大事であることは、否応(いやおう)なく認識されるはずである。ところが現実はどうなっているのか。

 文部科学省は6月8日、「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知を各国立大学長などに出した。冒頭で「人文社会系学部・大学院については(中略)組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換を積極的に取り組むように努めることとする」とあり、現にその方向の改廃が着手されていると聞く。先に教育課程の一般教育を廃止し、今度リベラルアーツの中心である人文社会科学系の学問を縮小する文科省の方針は、人間を平板化し、一国の未来を危うくする由々しき事態として座視しがたい。

 ≪≪≪ 国家の運命を動かした文学者≫≫≫

 文学部は哲学・史学・文学を中心に据え、西欧の大学が神学を主軸とするように(ドイツでは今でも「哲学部」という)、言語教育を基本に置く。文学部が昔は大学の精神のいわば扇の要だった。

 言語は教養の鍵である。何かの情報を伝達すればそれでよいというものではない。言語教育を実用面でのみ考えることは、人間を次第に非人間化し、野蛮に近づけることである。言語は人間存在そのものなのである。言語教育を少なくして、理工系の能力を開発する方に時間を回すべきだというのは「大学とは何か?」を考えていないに等しい。言語の能力と科学の能力は排斥し合うものではない。

 ことにわが国では政治危機に当たって先導的役割を果たしてきたのは文学者だった。ベルリンの壁を越える逃亡者の事実を最初に報告したのは竹山道雄(独文学)であり、北朝鮮の核開発の事実をつげたのは村松剛(仏文学)だった。その他、小林秀雄(仏文学)、田中美知太郎(西洋古典学)、福田恆存(英文学)、江藤淳(英文学)など、国家の運命を動かす重大な言葉を残した危機の思想家が、みな文学者だということは偶然だろうか。

 ≪≪≪訴える言葉を失ったデザイン≫≫≫

 本欄の執筆者の渡部昇一(英語学)、小堀桂一郎(独文学)、長谷川三千子(哲学)各氏もこの流れにある。言葉の学問に携わる人間は右顧左眄せず、時局を論じても人間存在そのものの内部から声を発している。

 人文系学問と危機の思想の関係は戦前においても同様で、大川周明(印度哲学)、平泉澄(国史)、山田孝雄(国語学)、和辻哲郎(倫理学)、仲小路彰(西洋哲学)などを挙げれば、文科省の今回の「通知」が将来、いかに我が国の知性を凡庸化せしめ、自らの歴史の内部からの自己決定権を奪う、無気力な平板化への屈服をもたらすことが予想される。

 今のことと直接関係はないが、オリンピックの新国立競技場とエンブレムの二つ続いた白紙撤回は、組織運営問題以上の不安を国民に与えている。基本には二つのデザインに共通する無国籍性がある。北京オリンピックのエンブレムが印璽をデザインして民族性を自然に出しているのに、今度の失敗した二つのデザインには一目見ても今の日本の魂の抜けた、抽象的な空虚さが露呈している。

 大切なのは言語である。自国の歴史を読めなくしている文明ではデザインにおいても訴える言葉が欠けている。

2015年の新年を迎えて(一)

 やっと年末から正月にかけての雑用が終った。年賀状が約700枚。これの処理が毎年とてつもなく重い仕事である。これでも200枚ほど減らしたのだ。

 年賀状はもう止めようかと何度も思った。しかしながら小さな交信の言葉、短い文章が伝えてくるサインに、心を轟かせる。私は厭世家ではない。結局、人間好きなのだと思う。

 今年の私の年賀状は業者にたのんで次の文章を活版印刷させた。パソコンでは私の技術の拙さもあって、きれいに印刷できないからである。

賀正 私は今年八十歳を迎えます。最近は長寿の方が多いので、自分もその一人と呑気にしていますが、老衰で死ぬのは滅多にないこと、それは異常な例外で、自然は二、三百年にたった一人という割合でこの特典を与えている。自分が今達している年齢そのものが普通はあまりそこまで到達できない年齢だと考えるべきではないか、と言ったのはじつはモンテーニュなのです。そのとき彼は四十七歳で、三年後に死亡しています。十六世紀のヨーロッパの平均年齢は二十一歳でした。そして、彼は自分の知る限り、今も昔も人間の立派な行いは三十歳以前のものの方が多いような気がする、と付言しています。

平成二十七年 元旦 西尾幹二

 ご覧の通り、内容は厭世的である。自分で自分の晩年は蛇足だよと言っているようなものである。それなのに、私は夢中で生きている。人生を投げてはいない。体力は衰えつつあるが、気力は衰えていない。

 私はいったい何を信じて生きているのだろう。自分でも分らない。歩一歩、終末に向かっていることに紛れもないのであるが・・・・・。

 年末に刊行した『GHQ焚書図書開封 10』(地球侵略の主役イギリス)を自ら読み直してみて、意外に読み易い、説得的な文章になっていて、そう悪くないな、と思っている。