阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十四回」

(8-66)文部省は、もともと通俗道徳にきわめて弱い官庁で、いい子ぶり、何もかも善と美で語るという性格がある。人間の心の暗部を見ようとしない。おそらくそのせいであろうが、自由だ平等だと言われると、その瞬間に思考力が停止し、自由や平等は放任しておくと不自由になり、不平等をもたらすという人間社会の逆説を先取りして予防的な政策を立案するということがまったくできない官庁である。

(8-67)真の意味での才能や個性が開花するためには、子ども時代の独創的な生活が大事であり、少年時代に自由な個性ある生活を経験した者、基礎経験を積んだ者だけが、やがて国際競争に耐えうるような学問能力にだんだんと転化できるのだと思うのです。

(8-68)いわゆる一流大学の学生は自分で勉強し研究課題を見つけ立派に育っていくので、日本の社会だけを見ている限り、欠損には誰も気がつきません。しかし四年間で日本の大学生は確実に国際競争力を失っているのです。一流の学者がきちんと厳しく育てるということをしないでいれば、その学生は四年間でアメリカやドイツやフランスの学生に比べてたいへんな損をしていると言えるのです。優秀な学生を優秀な教授スタッフが真剣に教育しないことの国家的損失もまた小さくありません。

(8-69)世間は盲目的に「格差是正」を正義の御旗のように言うが、じつを言うと「格差」が国民の黙約となっているからこそ、約二百万人もの人間が同時に同資格の「大学生」であることが可能になっているのである。

(8-70)外国にモデルがあれば安心してそれに従うというのが、日本の官僚の習性

(8-71)教育制度は善かれ悪しかれ、その国民の持っている賢さと愚かさのすべてを反映した国民性の縮図である。繰り返すようだが、外国にあるモデルは、いかに理想的にみえてもそのまま自国に接木は出来ない。日本の教育の困難は日本の現実の内側から改善されなければならないのである。

(8-72)私は初等中等教育においては能力についてすべてを余りはっきりさせないのがいいという考えに立っている。一線を引かないのがいいと言っているのだ。教育における「自由」とは何か。現実において自由でなくても可能性において自由であると子供に思わせるのはただの夢想への誘いでも、思いやりでもない。成長期の教育においてはこの両者の厳密な区別はなし難いからだ。可能性において自由であればそれが明白にも現実における自由につながらないとはいえない所に、若い心を教育する不思議があるのである。

出展 全集第八巻
「Ⅵ 大学改革への悲願」
(8-66) P738 上段「大学を活性化する「教育独禁法」」より
(8-67) P746 下段「大学の病理」より
(8-68) P760 下段から761上段「大学の病理」より

「Ⅶ 文部省の愚挙「放送大学」
(8-69) P780 上段「文部省の愚挙「放送大学」」より
(8-70) P782 下段「文部省の愚挙「放送大学」」より
(8-71) P763 下段「文部省の愚挙「放送大学」」より
(8-72) P800 「後記」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十三回」

(8-61)教育の中に分からないもの、及ばないものが入ってきてはいけないという考えが、教育を狭めてしまうことになる。

(8-62)文化の最奥、生動する未知の世界、未解決・困難な部分に、できるだけ多くの人が開かれていること、誰でもがそれに近づく可能性において自由であること―それが私の考える〝教育と自由〟のテーマにおける「自由」の真の意味だということである。

(8-63)日本の大学制度はドイツやアメリカのそれを模範として創られたはずだ。ところが建物や組織形態は真似たが、その運営の仕方は少しも学んでいない。

(8-64)日本人だから日本人的に生きて構わないし、またそれ以外には誰だって生きようがない。ただ、自分が学んでいる西洋の学問と自分の日々の生き方との間に生ずる微妙なズレだけは、終始意識していなくてはならないであろう。

(8-65)いま日本が最も必要としているのは、世界をリードする思想の力、知的先駆性、情報の発信力、科学技術でいえば基礎開発力である。日本はこれまでその部分を欧米の知性に頼ってきた。自分で世界像を組み立てる努力を必要としなかった。しかし今われわれは自分のパースペクティヴで世界像を描き出す能力を国内からだけでなく、国外からも求められている。

出展 全集第八巻
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-61) P667 上段「終章 競争はすでに最初に終了している」より
(8-62) P667 下段「終章 競争はすでに最初に終了している」より
(8-63) P684 上段「終章 競争はすでに最初に終了している」より
(8-64) P684 下段「終章 競争はすでに最初に終了している」より
(8-65) P685 下段「終章 競争はすでに最初に終了している」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十二回」

(8-54)人間は努力し向上を目指す一面を持つ存在だが、それと同時に何もしない安逸と現状への満足に埋没する一面を持つ存在である。

(8-55)私学の中からなぜ早慶を凌ぐ有力大学が出現しないのか。〝私学の時代〟の到来を叫ぶ今日にしては矛盾した話である。

(8-56)本当の意味での学問は、明日必ずしも実利に結びつくとは限らないものを、楽しみながら熱愛する一種の貴族的精神、あるいは遊戯(ゲーム)の精神を必要とするはずだが、

(8-57)最高度の天才にしても、この自己の限界に対する自覚がなければ、決して創造的にはなり得ない。自己の置かれている不平等―神に対する不平等も含む―との戦いが、始めて人間を創造的にする。

(8-58)いわゆる有名大学は優秀な学生が集まるから、悪い教育をしても許され、学生たちは〝競争の精神(アゴーン)〟を忘れ、知らぬ間に、日本の学問は無間地獄に堕ちて行く、

(8-59)教え子の出口の義務さえ負わないで、無限の自由の中に生きている組織は、自らの生産物(学問)の質にまで腐食が及ぶ。

(8-60)大学が世界に例のないタテ並び序列構造を示したままなので、現実には幼い子供たちにまで迷惑をかけている。大学の衰弱が日本の教育全体の生産性を引き下げている。大学と大学教授が現状の温室暮しを自ら壊し、自己改革しない限り、「教育」は先細りし、明治以来日本が誇りにしてきた教育主導の国造りはいったい何処の話かということになろう。

出展 全集第八巻
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-54) P629 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-55) P634 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-56) P636 下段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-57) P649 下段から650上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-58) P656 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-59) P658 下段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-60) P661 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十一回」

(8-48)順位の高い大学は入学者選抜においてはじつに大幅な自由を楽しむことが出来る。序列順位トップの大学は100パーセント完璧な自由―他の業界では存在しない自由、この世のものとも思えぬ自由を握りしめている。この自由が、とりも直さず、大学間の無競争状態をもたらすと同時に、高校以下の日本の学校教育を著しく不自由にしている。

(8-49)東大を母艦にし他の有力大学が周りを取り巻いて、東大の追い落としを決して考えないで、利益を分ち合うもたれ合い、馴れ合いの〝護送船団方式〟を組み、明治以来今日まで進んできた序列構造。「大学の自治」でガードが固く、文部省もひたすらこれの温存維持に手を貸す以外に智恵がない。

(8-50)真実の認識、絶望的な困難に面と向かわないでいる限り、半歩の前進もじつは望めまい。壁の硬さを知る者だけが、たとえ小さな穴でもよい。実際に穴のあく鑿(のみ)の振るい方を心得ている。

(8-51)自治とは何をやってもいいということでは勿論ない。自分で自分をちゃんと管理できて、世の中に責任を問えるということでなくてはならないであろう。それに耐えるだけの行動をしなければ、自治の名に値しない。

(8-52)人間は余りに自明な、はっきりと目に映る、不合理な社会意識に、理由もなく自分が縛られ、支配されている事実をなるべく見たがらない存在である。言っても仕方がない。だから言葉にしたくない。そういう感情も働いているであろう。
 けれども、逆にいうとこれは、不合理な社会意識の圧倒する力の存在を認めてしまうことである。

(8-53)しょせん受験生の偏差値、入学試験の難易度で競争の勝敗が決められる。そうして出来上がった序列にむしろ教授たちが無反省にぶら下がっているのが実情である。教授が学生に、大人が子供に依存している構図である。

出展 全集第八巻
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-48) P567 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-49) P581 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-50) P582 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-51) P585 下段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-52) P604 下段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-53) P626 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十回」

(8-43)教育界は真実を見まいとする病いにかかっている。

(8-44)何か一つを権威として祭り上げる者は、その何か一つを批判されると、自分自身の権威までが脅かされたように感じるのであろう。侵すべからざる自分の聖域に土足で踏み込まれたかのように感じた苦痛は、一時的に人を興奮させ、わけのわからぬ怒りに駆り立てる。

(8-45)九十九匹を救済した理想案は、理想的であればあるほど、それにさえも参加できない迷える一匹の小羊の不幸と苦悩を倍化させる。

(8-46)百人のうち九十九人を満足させようとする制度より、五、六十人を満足させる制度の方が、じつは百人全員の幸福につながる、

(8-47)日本には西欧的な意味での自由がない。封建社会の遺風がまだ残っているからだ、と。しかし、私はそうは考えない。そうではなく、自由を維持するにはそれなりの努力を要すること、ある自由を守るためには別の自由を犠牲にする必要があること、この認識が日本の社会には欠けているのである。

出展 全集第八巻 
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-43) P534 下段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-44) P546 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-45) P554 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-46) P555 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-47) P563 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十九回」

(8-38)世界と人生において、われわれの出会う問題のすべては複雑だが、解決の手口がすべて複雑だとは限らない。否、単純な解決を目指して一直線に進む情熱がなければ、どんな問題も解決には至らない。そのためには問題の形態が単純にみえてこなくてはならない。

(8-39)いわゆる教育の世界では、人間性の暗い側面や、社会の発展に逆行する価値に権利を与えるという考えがそもそもない。死への心構えも近代の教育学のテーマにはならない。悪の魅力にも正面から目を向けることはしない。これでは人間性の半分に目をつむっているにも等しいのだ。教育という言葉に信頼が寄せられない所以である。

(8-40)教育学者や教育官庁や教育関係者に失望してもいいが、日本の子供たちに失望してしまうわけにはいかない。日本の学校教育に絶望してもいいが、子供の未来に絶望するわけにはいかない。日本の社会をみすみすそうと分っている病理の淵から救い出さないでおくわけにもいかない。
 ここにある意味でわれわれのディレンマがあり、問題の発端がある。

(8-41)文部省は、実際には、「明日にも」対応し解決しなくてはならない課題に取り巻かれているはずなのである。ただその課題を見ていないだけである。

(8-42)十八歳以下の子供たちも、できるだけ他人と同じ学歴を得ようとして受験競争をするのだとしたら、それはじつは競争心理ではない。他の存在と同じでありたいと思うのは、要するに競争回避心理だからである。

出展 全集第八巻
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-38) P495 下段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-39) P496 下段から497上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-40) P497 下段から498上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-41) P518 上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」うpろ
(8-42) P534 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十八回」

(8-33)要するに知能指数の高い高度能力の所有者を、十八歳段階で、幾つかの特定の大学(最近では有力私大もこの中に入りますが)がほぼ完全に独占してしまう構造に、日本の教育組織の最大の難点があるのです。だからこそ予備校や塾は繁昌し、進学競争が幼稚園児からスタートするという日本の最悪の教育環境が国民を苦しめつづけているのです。

(8-34)競争を鎮めるために、学校の数を増やせば増やすほど、「格差」は逆に大きくなり、ヒエラルヒーの上下の差は広がり、上を不必要に押し上げ、下を無意味に押し下げるという力学が働くように思えます。

(8-35)日本の教育から自由競争はすでに完全に消え失せているのである。大学の固定した序列構造に群がる非生産的な競争はみられるが、真に公平で、健康な自由競争はすでに存在していない。

(8-36)例えば、私は否定でしか語らない。否定しなければ現実を明確に捉えることが出来ないからですが、同時に、ある事を否定することで私は何か別のことを肯定しています。私の肯定の仕方はいつもそういう性格のものです。従って最初からストレートに希望や期待を語ることを好みません。

(8-37)学問は認識の世界だが、教育は認識の対象で終わって良いのだろうか。教育は文献学や歴史学と違って、一歩行動に踏み込んで初めて分かってくる世界ではないだろうか。教育についていくら正しい認識を持ち得ても、現実を少しでもその正しい認識に近づけなければ意味がないともいえるのではないか。

出展 全集第八巻
「Ⅳ 第十四回中央教育審議会委員として」
(8-33) P424 下段から425上段「飯島宗一氏への公開状」より
(8-34) P447 下段「日本の教育の平等と効率」より

「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-35) P469 下段「中教審答申を終えて」より
(8-36) P478 下段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-37) P491 上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十七回」

(8-27)先生に殴り掛かって来るような子は、じつは先生を頼りにしているとも言えるのであって、少なくともそこには指導の取掛かりがまだある筈なのである。問題のない子がかえって問題だとも言える。子供は問題行動を起こすものなのである。そういう基本的な考え方から出発する教師が少ないことに、校内暴力発生の主要原因の一つがあるのではないだろうか。

(8-28)災いだけを取り除いて、長所の部分だけを残すなどという器用なことが、人間に果たして出来るだろうか。社会人を含めた日本人全体の生き方が改まらなくて、教育だけを良くしようというのは虫がいいし、不可能なことだ。

(8-29)日本人がいい学歴を身につけたがるのは、個人の競争を避け、企業という集団内部に身を隠し安心したいがために外ならない。逆に言えば企業社会人の全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争のすべてを高校三年生に押しつけているのではないだろうか。

(8-30)他人より抜きん出るためではなく、他人と同じような資格を得たいがために進学熱が高まっているのが一般的な実情だが、そもそも他人と同じような存在でありたいと思うのは競争心理では決してなく、むしろ競争回避心理である。

(8-31)けれども他人と同じ存在になろうとして競争し、その揚句、微妙な差別に悩まされるくらいなら、他人と違う存在になろうと最初から決意し、微妙な差別から逃れようとするのではなく、むしろそれを逆手に取って、差別される存在にむしろ進んでなるという決意でそれを乗り超えていく生き方だってあり得るのではないだろうか。また、子供たちに接する折の先生の態度もまたここに極まるのではないだろうか。

(8-32)視野が鎖されていたとき人間は強かった。情報の拡大が地球を透明にしていくこの時代に、情熱の高揚は難しい。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」

(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-27) P341 下段「校内暴力の背後にあるにがい事実」より
(8-28) P348 上段「「教育の自由化」路線を批判する」より
(8-29) P353 上段「「競争」概念の再考」より
(8-30) P367 下段からP368上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-31) P376 下段から377頁上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-32) P400 上段「「自由化」論敗退の政治的理由を推理する」より