コラム「正論」(その二)

 5月13日に岡崎久彦氏が、14日に村田晃嗣氏が私に先立って北朝鮮関連を産経コラム「正論」欄で論じているのをあらためて読んだ。

 岡崎氏は日朝正常化を目標として掲げ、手段として一兆円の代償を提言して、次のように言っている。

 私の提案はこれ(一兆円)を日米同盟の共同財産とすることである。即(すなわ)ち、日米による北との正常化交渉を一体化して、核計画の全廃と拉致事件の完全解決を一歩も譲れない条件として、米国が日韓両国を代表して交渉を行うことである。

 韓国は米朝、日朝国交正常化の最大の利益関係者であり、また、日韓正常化の際の補償との均衡の問題にも関心があろうから、参加は当然である。

 それだけ明確かつ大義名分のある目標があるならば、その実現まで今回のミサイル実験を契機として、いかなる厳しい(経済)制裁であっても、これを実施し継続する正当な理由がある。

文:岡崎久彦

 あくまで外交交渉で解決を図るという考えである。日本の一兆円を米国に委ねて、「米国が日韓両国を代表して交渉を行う」のだそうである。そして、この方法には「明確かつ大義名分のある目標がある」ので、今後北へのいかなる厳しい経済制裁をしても正当な理由があるから非難されないですむというのである。

 北朝鮮は一兆円をもらったら「核計画の全廃と拉致事件の完全解決」を必ずやってくれると信じている。米国まかせで、一兆円を米国の手を経てあの国に奉納しましょうという話である。

 何年も前に逆戻りしたような話である。村田氏も外交交渉で問題を解決するのが「現実的外交」であると言っている点には同じ考え方である。

 26日付の私のコラム「正論」を次に掲げておく。

■【正論】評論家・西尾幹二 敵基地調査が必要ではないか

 《《《戦争と背中合わせの制裁》》》

 東京裁判でアメリカ人のウィリアム・ローガン弁護人は、日本に対する経済的圧力が先の戦争の原因で、戦争を引き起こしたのは日本ではなく連合国であるとの論証を行うに際し、パリ不戦条約の起案者の一人であるケロッグ米国務長官が経済制裁、経済封鎖を戦争行為として認識していた事実を紹介した。日米開戦をめぐる重要な論点の一つであるが、今日私は大戦を回顧したいのではない。

 経済制裁、経済封鎖が戦争行為であるとしたら、日本は北朝鮮に対してすでに「宣戦布告」をしているに等しいのではないか。北朝鮮がいきなりノドンを撃ち込んできても、かつての日本のように、自分たちは「自衛戦争」をしているのだと言い得る根拠をすでに与えてしまっているのではないか。

 勿論(もちろん)、拉致などの犯罪を向こうが先にやっているから経済制裁は当然だ、という言い分がわが国にはある。しかし、経済制裁に手を出した以上、わが国は戦争行為に踏み切っているのであって、経済制裁は平和的手段だなどと言っても通らないのではないか。

 
《《《北の標的なのに他人事?》》》

 相手がノドンで報復してきても、何も文句を言えない立場ではないか。たしかに先に拉致をしたのが悪いに決まっている。が、悪いに決まっていると思うのは日本人の論理であって、ロシアや中国など他の国の人々がそう思うかどうか分からない。武器さえ使わなければ戦争行為ではない、ときめてかかっているのは、自分たちは戦争から遠い処にいるとつねひごろ安心している今の日本人の迂闊(うかつ)さ、ぼんやりのせいである。北朝鮮が猛々(たけだけ)しい声でアメリカだけでなく国連安保理まで罵(ののし)っているのをアメリカや他の国は笑ってすませられるが、日本はそうはいかないのではないだろうか。

 アメリカは日米両国のやっている経済制裁を戦争行為の一つと思っているに相違ない。北朝鮮も当然そう思っている。そう思わないのは日本だけである。この誤算がばかげた悲劇につながる可能性がある。「ばかげた」と言ったのは世界のどの国もが同情しない惨事だからである。核の再被爆国になっても、何で早く手を打たなかったのかと、他の国の人々は日本の怠惰を哀れむだけだからである。

 拉致被害者は経済制裁の手段では取り戻せない、と分かったとき、経済制裁から武力制裁に切り替えるのが他のあらゆる国が普通に考えることである。武力制裁に切り替えないで、経済制裁をただ漫然とつづけることは、途轍(とてつ)もなく危ういことなのである。

 『Voice』6月号で科学作家の竹内薫氏が迎撃ミサイルでの防衛不可能を説き、「打ち上げ『前』の核ミサイルを破壊する以外に、技術的に確実な方法は存在しない」と語っている。「独裁国家が強力な破壊力をもつ軍事技術を有した場合、それを使わなかった歴史的な事例を見つけることはできない」と。

 よく人は、北朝鮮の核開発は対米交渉を有利にするための瀬戸際外交だと言うが、それはアメリカや他の国が言うならいいとしても、標的にされている国が他人事(ひとごと)のように呑気(のんき)に空とぼけていいのか。北の幹部の誤作動や気紛れやヒステリーで100万単位で核爆死するかもしれない日本人が、そういうことを言って本当の問題から逃げることは許されない。

 
《《《2回目の核実験を強行》》》

 最近は核に対しては核をと口走る人が多い。しかし日本の核武装は別問題で、北を相手に核で対抗を考える前にもっとなすべき緊急で、的を射た方法があるはずである。イスラエルがやってきたことである。前述の「打ち上げ『前』の核ミサイルを破壊する」用意周到な方法への準備、その意志確立、軍事技術の再確認である。私が専門筋から知り得た限りでは、わが自衛隊には空対地ミサイルの用意はないが、戦闘爆撃機による敵基地攻撃能力は十分そなわっている。トマホークなどの艦対地ミサイルはアメリカから供給されれば、勿論使用可能だが、約半年の準備を要するのに対し、即戦力の戦闘爆撃機で十分に対応できるそうである。

 問題は、北朝鮮の基地情報、重要ポイントの位置、強度、埋蔵物件等の調査を要する点である。ここでアメリカの協力は不可欠だが、アメリカに任せるのではなく、敵基地調査は必要だと日本が言い出し、動き出すことが肝腎(かんじん)である。調査をやり出すだけで国内のマスコミが大さわぎするかもしれないばからしさを克服し、民族の生命を守る正念場に対面する時である。小型核のノドン搭載は時間の問題である。例のPAC3を100台配置しても間に合わない時が必ず来る。しかも案外、早く来る。25日には2回目の核実験が行われた。

 アメリカや他の国は日本の出方を見守っているのであって、日本の本気だけがアメリカや中国を動かし、外交を変える。六カ国協議は日本を守らない。何の覚悟もなく経済制裁をだらだらつづける危険はこのうえなく大きい。(にしお かんじ)

平成21年 (2009) 5月26日[火] 先勝

6月のシアターテレビジョン

6月のシアターテレビジョンの各題目

 
     1、いい子ぶりっ子のアメリカの謎

     2、ヨーロッパの打算的合理性、アメリカの怪物的非合理性

     3、中国はそもそも国家ではなかった

     4、日本を徒に不幸にした「中国の保護者」アメリカ

     5、ソ連と未来の夢を共にできると信じたルーズベルト政権

【放送日 放送時刻】

西尾幹ニ/日本のダイナミズム #6

放送日
放送時刻

06月01日
07:30  17:25  25:40 

06月08日
07:30  25:40 

06月15日
07:30  25:40 

06月16日
25:40 

06月19日
24:20 

06月22日
07:30  25:40 

06月29日
07:30  25:40 

シアターテレビ:スカイパーフェクテレビ262チャンネル

コラム「正論」(その一)

 足立誠之さんから以下のようなお励ましのおことばを頂戴しました。
感謝して掲示させていただきます。

西尾幹二先生

 前略、本日のコラム「正論」拝読いたしました。
 
 雑誌「正論」6月号で鋭くご指摘されたと同様、北朝鮮問題の本質を鋭くご指摘されたことで目を覚ます日本人もでてくると信じます。
 
 残念なことに、今日本が北朝鮮の核施設を破壊しなければ米国も中国もなにもしないで時を過ごし、核を搭載したノドンの前に日本が屈服するかたちに追い込まれるということを、政治家の誰一人口にしないのです。議員の一人としてそうした声を発するものがいなければ、アメリカも中国も北の核武装解除に動くはずはないのにです。こうしたことすら口にしない議員しかいないのは残念です。

 5月13日のコラム「正論」では岡崎久彦氏が、日朝国交正常化を日米共通の武器として対北交渉に当たれと論じました。その翌日名前は忘れましたがどこかの教授が、保守主義者に現実的になれと述べていました。これを読んで産経新聞はもう終わりだと思った次第です。
 
 特に岡崎氏にはあれほどアメリカに裏切られながら、日本の貴重な外交カードを裏切って間もないアメリカと日朝国交正常化を持ち出すという神経では、もう岡崎さんもおしまいだと思いました。

 先生の論文が世論を動かし、議会を動かし、政府を動かし、日本を動かすように我々も努力しなければならないと思います。
                                       足立誠之拝

 足立さん、ありがとうございました。
 本日のコラム「正論」の大意は10日ほど前にこの日録に書きました。丁寧に論を整えて先々週の終末に新聞社に渡しましたが、なかなかのせません。
 
 最初ゲラについていた見出しは「覚悟なき北制裁継続こそ危険」で、まあいいと思っていました。そして、昨日核実験の報道があったので、新聞社はやっとのせてくれました。

 ただし、見出しは承諾なしに変更されていました。
 
 新聞でご覧のとうり、「敵基地調査が必要ではないか」になっています。私の趣旨は、経済制裁はすでに日本の宣戦布告に等しく、明日ノドンを打ち込まれても不思議はない、日本人の大量核爆死を防ぐには敵基地破壊のほかに方法はなく、アメリカや国連に期待する時期はおわりつつあり、覚悟なき経済制裁はかえって危険である、したがって敵基地調査が必要であり、専門筋から知りえた限りでは、自衛隊の戦闘爆撃機で十分に対応できる、というものです。
 
 「専門筋」とは田母神さんのことです。
 
 足立さんがご推察のとうり、産経新聞は見出しの表現をわざとずらして、やっとのせてくれたのです。
 
 経済制裁は戦争行為という思想はパリ不戦条約の発案者からきています。私の論理を新聞で確認してください。
 

雑誌正論西尾論文「日本の分水嶺・危機に立つ保守」を読んで

ゲストエッセイ 
石原隆夫(いしはらたかお)
坦々塾会員

 

   西尾先生が「つくる会」を辞められて久しいが、当初は創業者としてその様な決断をされた事を私は訝しく又、不満に思ったものである。だが、辞められてからの西尾先生の多くのご論考を顧みれば、つくる会の箍を外れて自由奔放であり、それは左右を問わず日本人にとって眞に刺激的であり、似非保守の正体を白日の下に晒し、正に先生の面目躍如というべきであった。

 特に昨年の皇室問題に対する「直言」は、タブーであった分野に風穴を開けただけではなく、舟と乗客の喩えでご皇室と国民の関係を改めて問い直す重い問題提起であった事は、ご皇室に関心の深い層にはパニックを、比較的無関心な層にもそれ相応の関心を呼び起した事からも覗えるのである。

 西尾先生が懸念する左翼に取込まれたご皇室など考えたくもないのだが、一連の「直言」を読みながら感じた事は、保守の油断と御皇室への盲目的な信仰の陰で、日本の根本のところに仇なそうとする勢力が、密かに何事かを起しつつあるのではないかと言う事であり、そこから唐突に憲法第1条を想起したのである。

 言うまでもなく憲法第1条では、天皇の地位は国民の総意に基づくと書かれている。

 即ち、戦争や革命を起さなくとも国民の総意が変れば天皇の地位も危うくなると憲法は規定しているのだが、もしも天皇家に下世話な庶民と同様のトラブルが起るようなことになれば、国民のご皇室への特別な感情に変化が生じ、それに乗じた勢力が憲法第1条を悪用して國体を毀損しようとする可能性を否定できないのである。
 
 西尾先生の一連の「直言」は、その危険性を世に知らしめ、良からぬ勢力に警告を発し、國体の存続の為に天皇家のご覚悟をも促されたものと私は理解している。

 雑誌「正論」6月号の西尾先生の「日本の分水嶺/危機に立つ保守」は、昨今の日本を取巻く環境の激変とその原因について縷々述べられ、その鋭い論考は国家権力と天皇のあるべき姿に到達する。

 即ち、環境の激変は凋落する米国の中国への傾斜に原因があるが、日本の問題としては、1991年に冷戦が崩壊した時点で日米安保の必要条件が消え、日本は軍事的、政治的、外交的に自立する好機であったにも関わらず、実際には更なる対米従属の方向へ進んでしまった結果、自衛隊は米軍の機構に取込まれてしまい、権力の象徴たる軍事力を失った日本は世界の奇観だという。

 なけなしの軍事力である自衛隊が米軍の機構に組込まれても平気な日本は、軍事力の統率者が国家権力の掌握者であるという観点から見れば、力の源泉をアメリカに握られた日本には権力者がいないという逆説が成立つのだ。

 更に、ご皇室と権力との関係についても、歴史的に皇室を守ってきたのは常に権力であったが、いまやその権力がアメリカに握られているとすれば、ご皇室を守っているのはアメリカか?と、際どい日本の現実を曝け出してみせる。

 たしかに、外交も金融政策もアメリカの指示がなければ動けないばかりか、北朝鮮に国民を拉致され国家主権を侵されたというのに、「宣戦布告」して被害者を取戻し主権を回復する意志も力もないのだから、もはや国家とは言えない。

 そんな1億2千万の集団は危険な存在であり、世界秩序の観点からは、意志の明確な国家権力による統率は避けようがなく、戦後体制の復活で日本を永久に封じ込めたい米中の思惑が一致して日本の再占領となる、と西尾先生は予言する。

 三段論法的に言うならば納得せざるを得ない論理であるが、その冷徹な論理にはたじたじとするばかりである。ご皇室の守護者がアメリカだとの論理的帰結は日本人としては信じたくはないが、昭和20年の昭和天皇とマッカーサーの会見で、連合国の一部の反対を押切って最終的に安堵されたとも言える天皇家の存続を考えれば、あの時期、実質的にアメリカがご皇室の守護者であったと認めざるを得ない。
 
 その事がご皇室の記憶の中にその後もずっと残っているのかどうか、或はその関係がずっと続いているのかどうか、保守は今迄、誰も触れようとはしなかったが、西尾先生はその事の重大さを我々にこのご論考で提示しているのだ。

 悪辣なアメリカは日本統治のために守護者としてご皇室を利用し、一方では昭和憲法を日本に押しつけ、国民主権のもとで天皇の地位は国民の総意によるという象徴天皇制を時限爆弾のように仕掛け、いつでもご皇室を廃棄できるようにしたのである。

 西尾先生は昭和天皇について、<昭和天皇は占領時においてアメリカを受け入れるような姿勢をお示しになると同時に、うまく日本の伝統的な考え方を手放さずに、受容しかつ拒否する対応をなさいました。そのいい例はいわゆる「人間宣言」に際して、明治天皇の五個条のご誓文をも同時に提示して、明治からこのかたわが国には独自の民主主義があったことをアメリカ人にも日本人にも等しく暗示されました。>と、敗軍の将とは言え気概を示された事に言及している。

 上記のように気概を示された一方で、終戦前後に有った御退位の問題は複雑である。国内では終戦前の昭和二十年二月に、近衛公と高松宮が敗戦必至と見て天皇のご退位を密議し、木戸幸一内大臣が終戦前に将来退位問題が起るだろうと天皇に進言している。戦後では芦田均首相が退位論者であったようだ。

 一方国外では、御退位どころか終戦前からアメリカ始め連合国側は昭和天皇の訴追を規定の事実としていた。終戦2ヶ月前のアメリカ国民の世論調査では、天皇の戦争責任について「天皇処刑」33%、「裁判にかけろ」17%、終身刑11%という結果であり、天皇訴追は避けられない状況だった。

 ところが昭和20年9月の天皇マッカーサー会談の後、本国へのマッカーサーの進言により、連合国の天皇に対する処遇は、日本統治に欠くべからざる存在として徹底的に利用する方針に変ったのである。東京裁判が終った時、日本側の退位論に対し、マッカーサーが天皇に退位はなさらないでしょうねと聞いてきたが、天皇は側近を通じて退位しない旨マッカーサーに伝え、今、退位すると言っては信義に悖ることになる、と述懐されている。(昭和45年4月24日に稲田侍従長が承った要旨による)

 昭和天皇とマッカーサーとの間でどの様な話が交されたかは未だ不明だが、御退位がマッカーサーに対して信義に悖る行為であるという昭和天皇のご認識は、国際法無視の復讐劇だった出鱈目な東京裁判が終った時点でのマッカーサーに、日本統治の上でこの上ない自信をもたらしたことは疑いない事実だと思う。

 歴史にIFは禁物だが、連合国が当初の方針に従って昭和天皇を訴追し、仮にもA級戦犯として処罰したとすれば、マッカーサーの日本統治は失敗したに違いない。

 或は、東京裁判の後、昭和天皇が御退位されていれば、マッカーサーに対する国民の感情は敵対的になり、日本統治は成功しなかっただろう。そうであれば東京裁判史観が受入れられることもなく、アメリカに従属することもない代りに経済大国にもなれないが、自前の憲法を持った気迫に溢れた国家として国際社会でそれなりの地位を占めることが出来たのではないかと思うのだ。

 戦後の日本人には、アメリカの真意はどうあれ、天皇とご皇室を戦勝国の訴追願望から守ってくれたという錯覚があり、原爆や無差別空襲などのアメリカの残虐に目をつぶってきたのではないだろうか。しかし行き場のなくなった無念さの解消は結局、自傷行為にならざるを得ず、戦前の日本を痛めつける風潮が国民に広く支持されて、未だにその錯覚から醒めていないのが我国の悲劇なのだ。

 同様にその思いがご皇室にも有るとすれば、アメリカが憲法に仕込んだ時限爆弾の恐ろしさを関知することは困難であろう。現に今上陛下は、ご成婚50周年のご会見で、日本国憲法下の天皇のあり方が、天皇の長い歴史や伝統的な天皇のあり方に沿うものである、と述べられている。今上陛下のお言葉であるだけに、アメリカに押しつけられた問題の多い昭和憲法にお墨付を与えたことになり、政治向きの話題には今迄慎重であった筈の今上陛下のご発言だけに、その政治的な発言に驚きを禁じ得ない。

 保守陣営に程度の差はあっても、現行憲法の改正は悲願であり、安倍政権では国民投票法を成立させて憲法改正の下準備は整えたのだが、今上陛下の今回のご発言は保守にとっては大きな痛手である。天皇ご自身のお考えなのかどうかも気になるところである。

 西尾先生は上記の今上陛下のご発言に対し、天皇は権威であり象徴であって、権力を握ってきたのは武家であった、という「権権二分論」を念頭に置いてのお言葉ではないかと思われるが、「権力を握ってきた武家」が昭和二十年以来アメリカであり、しかも冷戦が終わった平成の御代にその「武家」が乱調ぎみになって、近頃では相当に利己的である、という情勢の急激な変化をどうお考え下さるのか、と問い、続いて、権力が消えてしまった情ない国に今なっていればこそ、今上陛下にこの国と国民を救ってもらいたいという思いは一方において切実です、と訴える。

 敗戦以来この方、昭和天皇から今上天皇の現在まで、日本の権力者はアメリカであり、従ってご皇室を守ってきたのはアメリカであったという目まいがするような西尾先生のご皇室に対する冷徹な論考であるが、一方では、困った時の神頼みならぬご皇室に期待し、この国と国民を救って欲しいと真情を吐露するのだ。

 この国と国民を国家破綻の縁から救い出すには、軍事力に裏打された国家権力を持たない政府にはなにも期待できないが、世界唯一の万世一系である天皇家の権威だけがそれを為すことが出来るのではないかと、西尾先生はご皇室にそのご決断を迫っていると私には思えるのである。

 ご決断とは守護者たるアメリカからのご皇室の自立である。その意思表示とは、アメリカの押しつけ憲法の破棄であり、改正憲法に於いては天皇の地位を元首とし、確固たる政治的責任を内外に明確に示し、国民に範を垂れる事である。謂わば、明治天皇と昭和天皇が述べられた「五箇条のご誓文」の精神を取戻すことではないのか。

 西尾先生は最後にこう述べる。
<しかし「象徴」が古代以来の日本の歴史によりふさわしいのであれば、アメリカに権力を奪われている国家の現状が日増しに不安定を増す恐れもあるので、皇室の安泰のためには、江戸時代のように京都にお住居をお移し下さり、より一段と非政治的存在に変わっていく方針をおとり下さり、改正憲法もそのような方向で考えていくべきではないでしょうか。いずれにせよ、わが国の体制、権力機構がこの儘でいくはずはないのです。動乱から皇室をどう守るかも、いち早く考えておくべき時代になってきたように思えてなりません。>と。

 憲法に於いて天皇の規定が「象徴」か「元首」かどちらが日本とご皇室の為になるのか、厳しい洞察を伴った問い掛けである。

 元首でない象徴天皇であっても、日本に於いては依然として天皇のお言葉は重い。

 だからこそ左翼は「天皇制」を批判し、「女系天皇」に賛成して天皇制の自然消滅を謀り、「開かれた皇室」と称して下世話なトラブルで失望を誘い、「昭和憲法死守」に賛成して国民総意の下にご皇室の法律的消滅を謀るのである。
だからこの度の今上陛下による昭和憲法第1条擁護のお言葉は、アメリカや左翼からは大歓迎に違いない。もしもこのお言葉で日本が憲法改正が出来ないならば、日本の運命は最早極まったと言っても過言ではないだろう。

 天皇とご皇室に、日本の危機は同時にご皇室の危機であるとのお覚悟がなければ、西尾先生のご提案のように,政治的環境の東京から文化伝統の京都へご遷座なさるのが日本の為なのかも知れない。しかし幕末から昭和20年迄の約90年に亘ってご皇室が政治の中心に御座した時代は、天皇と国民が一体になって日本に栄光を齎した時代でもある。時代錯誤と言う批判はあるかもしれないが、自立した日本を再生するには、天皇主権は無理としても、明治憲法を基にした改正憲法の下で天皇に主権の行使を幅広く委譲し、君臣一体の國体を再構築することではないかと愚考するものである。

あとがき
 雑誌「正論」6月号の西尾先生の「日本の分水嶺/危機に立つ保守」を読んで触発され、先生のご論考を下敷にして思うところを書いてみた。

 実はNHKのJAPANデビュー第2回「天皇と憲法」についての私の感想文をお読み戴いた先生からのメールで、正論のご論考についてどう思うかとのご質問があった。この拙文はご質問へのお答でもあるが、先生の怖ろしいほどの洞察力に狼狽えながら書いたものであり、ご皇室への思いが千々に乱れ途中で何度も止めようと思いながら書いたものである。従って文章としては纏りもなくまことに読みづらいものになってしまった。素人には荷が重すぎる宿題だった。

 この度のご論考は、皇室への直言に続く西尾先生のご皇室と日本に対する深い洞察と危機感に溢れた真の愛国の書である。保守はこの先生の問いかけに答える義務があるのではないか。

文:石原隆夫

経済制裁はすでに戦争行為

 パリ不戦条約(1928年)の提案者の一人であるケロッグ国務長官が「経済封鎖は戦争行為である」と証言していることを前提に、先の大戦では大々的に対日経済封鎖を行ってきたアメリカのほうが日本より先に攻撃をし掛けてきた侵略者であった、という考え方が成り立つという一文を最近読んだ。日米開戦をめぐる数多くの議論の一つである。

 話題は変わるが、私はこれを読んでふと不安になった。経済封鎖が戦争行為であるとしたら、日本は北朝鮮に対して、すでに「宣戦布告」をしているに等しいのではないか。北朝鮮がいきなりノドンを撃ち込んで来ても、かつての日本のように、自分たちは「自衛戦争」をしているのだと言い得る十分の根拠をすでに与えてしまっているのではないか。

 勿論、拉致などの犯罪を向こうが先にやっているから経済制裁を加えたのは当然だ、という言い分が日本にはある。しかし、経済制裁を加えた以上、日本は戦争行為に踏み切っているのであって、経済制裁は平和的手段だなどと言っても通らないのではないか。

 相手がノドンで報復してきても、何も文句を言えない立場ではないか。たしかに先に拉致をしたのが悪いに決まっている。が、悪いに決まっていると思うのは日本人の論理であって、ロシアや中国などの他の国の人々がそう思うかどうかは分らない。

 武器さえ使わなければ戦争行為ではない、ときめてかかっているのは、自分たちは戦争から遠い処にいるとつねひごろ安心している、今の日本人の迂闊さのせいである。北朝鮮がたけだけしい声でアメリカだけでなく国連安保理まで罵っているのをアメリカは笑ってすませられるが、日本はそうはいかないのではないだろうか。

 アメリカは日米のやっている経済制裁を戦争行為の一つと思っているに相違ない。北朝鮮も当然そう思っている。そう思わないのは日本だけである。この誤算がばかげた悲劇につながる可能性がある。

 「ばかげた」と言ったのは、世界のどの国もが同情しない惨事だからである。核の再被爆国になっても、何で早く手を打たなかったのかと、他の国の人々は日本の怠慢を哀れむだけだからである。

 拉致被害者は経済制裁の手段では取り戻せない、そう判ったとき、経済制裁から武力制裁に切り換えるのが他のあらゆる国が普通に考えることである。武力制裁に切り換えないで、経済制裁をたゞ漫然とつづけることは危ういことなのである。なぜそれが分らないのか。

 『Voice』6月号で科学作家の竹内薫氏が迎撃ミサイルの防衛不可能を説き、「打ち上げ『前』の核ミサイルを破壊する以外に、技術的に確実な方法は存在しない」と語っている。「『科学技術の歴史』という視点から見ても、独裁国家は強力な破壊力をもつ軍事技術を有した場合、それを使わなかった歴史的な事例を見つけることはできない。」と。

 北朝鮮の核開発は対米交渉を有利にするための瀬戸際外交だと人はよく言うが、この通説は、真実から目を逸らす逃げの口実であるから、もうわれわれはいっさい口にすまい。たとえそういう一面があるにしても、アメリカがそう考えるのは許されるが、北の幹部の誤作動や気紛れやヒステリーで100万単位の可能性で核爆死する日本人がそういうことを言って問題から逃げることは許されない。

 あえて9条の改正をしないでも防衛のための先制攻撃は合憲の範囲である。パック3を100台配置しても間に合わない時が必ず来る。しかも案外、早く来る。イスラエルのような自己防衛の知恵と意志の結集が求められている。

 自己防衛力は民族の生命力の表現である。イスラエルにあって、日本民族にないはずはないだろう。

 4月1日の『中国新聞』に広島市立大広島平和研究所の浅井基文所長が「米国の脅威にさらされ続けた北朝鮮が、最後のよりどころとして核兵器を持っていることを理解すべきだ。」と北朝鮮に味方するもの言いをしているのを読んで、日本人は誰も何でこんなひっくり返ったバカな発言をする人間が同じ民族の中にいるのかと訝み、怪しんだ。しかしよく考えると北の言い分を代弁している浅井の言葉には、核の脅威の裏づけがあり、日本の経済制裁には何の軍事的裏づけもない。

 浅井の言葉を怪しみ、憐れみ、かつ笑うことができるのは、明日にも北の核基地を先制攻撃で破壊することに賛成している人だけである。経済制裁は平和的だからこの程度でさし当りまぁいいや、と中途半端に考えている人には浅井を笑うことは決してできないはずである。