自分の殻をこわしたい

 すでにお気づきになった方もいるかもしれませんが、近頃の私の仕事の周辺に私より若い共同研究者、あるいは知的協力者の名前が何かと目立つようになってきています。わざと心掛けてそうなったのではなく偶然なのですが、協力して下さる友人たちに恵まれて私自身は有難いことだと思っています。

 『GHQ焚書図書開封 3』では北大工学部出身のエンジニアとして新日鉄で定年まで活動された溝口郁夫氏が、全十章のうち一章を分担して下さいました。氏が畑違いの現代史に関心をお寄せになったのは50歳台で南京戦参加の元軍人の話を郷里で聞いて、南京事件の虚報なることをとくと知って、秘かに心に思う所あってのことのようです。氏は焚書図書に関する独自の研究を進めておられます。拙著にご考察の一端を発表して下さいました。これを切っ掛けにご自身の研究を拡大、発展していただけたら大変うれしいです。

 満五十歳になった評論家の平田文昭氏は、間もなく刊行される私との対談本『保守の怒り――天皇、戦争、国家の行方』でその才能を全面開花させました。私はそう判断しています。氏もこれを汐どきにして大きく起ちあがってくださると思います。

 『WiLL』1月号で柏原竜一、福地淳、福井雄三の三氏と始めた「現代史を見直す研究会」は三回目を迎え、今回は話題の書、加藤陽子東大教授の『それでも日本人は「戦争」を選んだ』をとり上げました。われわれはこの思わせぶりな題名の本の無内容かつ有害である所以を語り尽くしました。今月号は前編で、次号にもつづきがあります。

 三人の中の福地、福井の両氏はすでに知られた方ですが、柏原竜一氏は最近『インテリジェンス入門』(PHP研究所)を出したばかりで、注目されている新人です。国際政治学の知見に秀でていて、今回も日清・日露をめぐる外交史上の知られざる豊富な知識をもって、加藤陽子女史の見識の低さをいかんなく暴露することに成功しています。

 なぜ最近にわかに私の仕事の周辺にこのように共同研究者が多くなったか、自然にそうなっただけなので私自身にもよく分らないのですが、近頃年齢のわりに仕事量が多く、しかもマンネリを恐れる私はつねに同じテーマを二度書かない原則を守ろうとしているうえに題材を広げる欲ばりのため、手が回らなくなってしまった、だから人の手を借りるほかなくなってしまったのかもしれません。そういう見易い理由も勿論ありますが、たゞそればかりではないような気もしているのです。

 私は自分が小さな殻にこもって固定するのがつねに恐いのです。私は自分で自分の殻を壊したいという衝動に突き動かされて生きてきたように自覚しています。自分を破壊することは自分の手では出来ません。他人の知見に自分をさらすことが必要です。私が共同研究者を求めるのは私の内的欲求に発していることなのです。

 勿論私とお付き合い下さる方の発展や成長も同時に心から期待しています。しかしそれだけではないのです。自分を教育しようとしない人は他人を教育することもできません。私は私を教育するために私より若い人の力で私を壊してもらいたいという欲求を強く持っているのです。既成の出来あがった有名人との共同作業を私が必ずしも望まない理由もそこにあります。

 『保守の怒り』という今度の新しい政治的な本の「あとがき」を私は次のようなまったく政治的でない言葉で書き始めていて、これが今述べたことに関係がありますので、冒頭の部分を引用してみます。

 私は昔から知りたがり屋で、本からだけではなく、人との対話からの知識にも関心を抱くほうだが、近頃一段とその傾向は強くなった。私より若い三人の歴史学者と現代史を見直す研究を企画し、討議内容をある雑誌に載せていただくことになったのも最近だ。ほかにも似た計画をあれこれ考えている。

 価値観が私とはほぼ同心円で重なる人との対話は、思考の食い違いからくる負担を省いてくれるが、それだけでなく、思考の微妙な違いは当然あって、それが生産的に脳を刺激してくれる。遠い人よりも近い人との間に橋を架けるほうが困難だ、はある古人の言葉だが、遠い人よりも近い人との間に横たわる溝のほうが深く、大きく、嵐を孕んでいるからである。そして、それだけに価値観の近い人との対話は思いがけぬ結果をもたらし、発見も多い。右記の現代史を見直す会も価値観が互いに近い四人が討議し、互いの小さな相違点からかえって豊かな内容を得ることに成功している例であるが、平田文昭さんとの対話をまとめた本書は、さらに一段とこの趣旨で成果を挙げた一書になったといっていい。

 世の中には他人には危険だが、自分には危険でない言葉が溢れています。自分を危うくしないような批評は批評ではないという意味のことを小林秀雄が言っています。小林さんが自分を危うくするような批評を言いつづけた人かどうかは別問題ですが、ともあれこれは大切なことです。

 ものを書いて行く人間にとって一番の危険は思考のマンネリズムで、あゝまた同じことを言っているなと思われたらおしまいです。読者にはバカも多いので、気がつかないで同じ芝居をくりかえし見て飽きないという読者もいるにはいるのですが、書いている自分を恥しく感じなくなったらさらにも危ういのです。

 文章を書くということは一つの特権です。ましてやそれで金をもらえるということは恐ろしいことです。しかしそれが習慣になり、職業になると特権であることを忘れます。自分の前作の模倣をくりかえす「自分だまし」をどうやったら防止できるか、まともなもの書き手ならそれぞれ工夫をこらしているはずです。

 私が最近信頼できる友人との共同行動を試みているのも、さして自分では意図してそうなったわけでは必ずしもないのですが、今にして思えば「自分だまし」を避けようとする私なりの本能の働きの一つであるといえるように思います。

『保守の怒り』の目次

 『保守の怒り――天皇・戦争・国家の行方』(草思社)の目次を紹介します。

 慣例に従い「まえがき」は平田文昭氏が、「あとがき」は私が書いています。この本の成り立ちの由来と同書にこめた二人の思いが語られています。以下の目次をご覧ください。

保守の怒り 目次

第一章 保守の自滅

はじめに
自民党の自滅史と小沢一郎
中曽根内閣以来の保守の自己欺瞞が、保守の没落をもたらした
レーガン・サッチャーの保守革命、新自由主義とはなんだったのか
「よく教育された土人」
安倍晋三氏への期待で沈黙させられた保守
保守の卑屈
アメリカへの恐怖と文藝春秋文化人の役割
警戒すべきは米中旧味方同士の感情の回復
田母神事件とはなんだったのか
日本を抑え込む左右の壁
「戦後の戦争」とアメリカという異常国家

第二章 皇室の危機

誰も指摘しない陛下の重大な発言
天皇の「戦争責任」とは
異様に政治的な天皇発言の意味するもの
皇后陛下のご発言の衝撃
どのような憲法に改正されようとしているのだろうか
血と宗教
距離と時間に恵まれたがゆえの日本文化
アイデンティティーの起源は神武東征か縄文か
平成皇室とはなんなのか
皇室の危機再び
伝統より重いもの
最高の国家機密
カルト化した皇室礼賛派への疑問
平成流への危惧
「美智子様天皇制」崩壊の兆し

第三章 保守よ娑婆(しゃば)に出よ

靖國神社危うし
神道・神社・神道指令
恒例の8月15日の戦没者慰霊は靖國神社を危うくしないか
英霊に恥ずかしい靖國神社
戦争の時代が来る
保守はカルト汚染を克服できるか
神社本庁よ、カルトと同席するなかれ
住みにくくなる日本
奪われる国民の自由と独立と権利
誰も気づかない道州制の危険性
医療と水の危機
差別禁止法の恐怖
民主党の最もあぶない点
保守オヤジを叱る
あとがき

新刊『保守の怒り』のお知らせ

 今年最後の新刊が11月末に出ます。今度は共同著作です。新進気鋭の評論家平田文昭氏との対談本です。

 いま日本が落ちこんでいる精神状況を根底から問い直してみようという試みです。

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 広告用に過日作成され、すでに一部が講演会などの会場で散布されたチラシを以下にご紹介します。

いま率直に語りつくす
戦後「保守」の自己欺瞞・時代への警鐘
祖国日本再建の指針
保守よ、日本よ、 正道にかえれ! よみがえれ!
『保守の怒り ―天皇・戦争・国家の行方―』
対談 西尾幹二 × 平田文昭
刊行 草思社 予価1800円 11月下旬発売予定

混乱・荒廃・騒擾、そして戦争の時代が来ます
日本国と皇室は、昭和20年以来の、存亡の危機に立っています
その存続と再生は保守にかかっています
しかしその「保守」がいま自滅しようとしています

平成21年夏の衆議院議員選挙後に、「保守」にただようこの虚脱感
それは「保守」が空虚だったことの証明です
「保守」とは政治家ばかりではなく言論人・運動家も含みます
冷戦終了後のフィリピンのマルコス政権のように落ちぶれたのがいまの「保守」です

こうなったのは、朝日・NHK・日教組のせいでしょうか?
いいえ
「保守」は「反」のみが生甲斐だった昔の社会党のようになってはいませんか
「保守」の芯はいつしか溶けさり
思想も、時代への対応力も、実務能力も失い
「保守」はいつしか愛国ゴッコ利権となり
知も智も、信も誠も哀も愛も、断も勇も、すべてを亡くしていたから
虚名と虚勢と虚構と以外のすべてを無くしていたから
「保守」はここまで無力化し、いま崩落しつつあるのです

「ご皇室ありがたや念仏」を唱えていても問題は解決しません
「朝鮮台湾にはいいこともした史観」に酔っていても日本の明日は切り拓けません
「保守」が隠しても世間は知ります

左翼に道をつけてきたのは、自称保守なのです!
保守の覚醒と再生なくして、日本の生存と再生はありません
「保守」よ、娑婆に出よう! 現代の現実に生きよう!

衝撃の言葉、真実の言葉、魂の言葉に満ちた
衝撃の対談、この秋11月刊行です

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『「権力の不在」は国を滅ぼす』について

 『「権力の不在」は国を滅ぼす』(ワック刊)という題の本を出したのは、8月10日ごろでした。一、二を除いて書評は現われないし、本も売れたのかどうかよく分りません。私としては現実を正眼で見据えた書、のつもりですが、書名もよくなかったのかもしれません。

 「『権力の不在』っていったい何だろう?」と店頭で読者を考えこませてしまうような題はダメなんですよ、今は単純でストレートな題でないと読者は手を出さないんです、とある編集者の友人から言われました。事実、「権力の不在」は河合隼雄流の「中空構造」のことで、日本神話をめぐる文化論の本だと最初一瞬間違えたと告白した友人がいました。

 「・・・・・は国を滅ぼす」も陳腐でよくないのですね。このあいだは『学校の先生は国を滅ぼす』という本の広告をみました。いろんな人が使う常套句なんです。私はむかし『外国人労働者は国を滅ぼす』という本の題にせよ、と編集者にいわれて、最後まで抵抗して『労働鎖国のすすめ』という新語を発明して、これは成功しました。

 だから今度ももっと抵抗すればよかったのですが、他に思いついたのが『日本の分水嶺』で、イメージ曖昧なのでこれもよくなく、編集担当者にやむなく押し切られました。

 しかし本の反響を呼ばないのは題名のせいだというのは卑怯な逃げ口上です。内容や論旨が今の時代にフィットしなかったからだ、と考えるのが著述家の礼節でしょう。

 私の本はどこまでも少数派向きなのかもしれません。長谷川三千子さんがこの本の贈呈に対し丁寧な返書をくださり、第Ⅱ部第3章にぞっとするリアリティを感じた、とありました。本をお持ちの方は開いてみて下さい。

 第Ⅱ部第3章の末尾の部分を掲げてみます。長谷川さんがこの数行について言っていたのかどうかは分りませんが・・・・・。

 戦前のアメリカ、戦前のイギリス、戦前の諸外国と、戦前の日本は利害を争奪しあってぶつかっていました。今その時代が再び近づいています。

 外交と軍事はアメリカに預けっぱなしで、考えることを放棄するというのは、いわゆる戦後思想です。この戦後民主主義思想は、敗北的平和主義と言ってもよいでしょう。

 これは自分の国のことを考えない、という状態を指しますが、これからは戦前のあの感覚が蘇ってきます。そうしなければ生き残れないからです。

 日本が自立しなければならないという状況の中で、国民と天皇陛下の関係、国民と皇室の関係は、また新たな局面を迎えるでしょう。それがどういうものになるのかは分りません。

 日本の権力はアメリカにあった。しかし、アメリカが衰退して権力としての体をなさなくなったとします。その時、日本の皇室はどの権力がお守りすればよいのか。日本の中枢以外に権力がどこかへ移行するという最悪の状況が私は恐ろしくてなりません。

 たまたま公明党の赤松正雄議員のブログに思いもかけない拙著へのコメントがあったので紹介します.

2009年11月07日(土)
————————————-赤松正雄の読書録ブログ

「真正・保守」の原点と向きあって

  「この10年間というもの、公明党は改めて自民党から国益の大事さを学び、自民党は公明党から改めて民衆益の重要性を学んだと思う」―先の選挙期間中に様々な機会を通じて私は、国家を統治する観点と庶民目線からのいわゆるリベラルな政治姿勢との違いをあえて対比させ、わかりやすく述べ、自民、公明両党がお互いの足らざるを補い合う関係で、政権運営にあたってきたことを訴えた。相反する二つの側面から政権担当能力の大事さを述べたつもりである。

 西尾幹二『「権力の不在」は国を滅ぼす』は、この総選挙の真っ最中に出版された。極めつけの保守論客としてつとに有名な西尾幹二氏の本は、かねてあれこれ読んできたのだが、このところ一段と“憂国の士”の風を強めておられ、これもまた強烈に刺激的な内容であった。「この選挙は国家の核を守るのが存在理由である保守政党がその自覚を失ったがゆえに苦戦を強いられ、他方、勢いづく野党は国家意識を持っているのかどうかすら怪しい」―こう結論付けている。

 とくに前航空幕僚長の田母神俊雄氏の論文について「あまりに自明な歴史観といえるこの線に沿った政府見解を今まで出せなかった政府の怠慢こそが問題」だとし、いわゆる「村山談話」をこき下ろされているところなど、いささか過激すぎで、事実誤認だというのが私のスタンス。先の大戦をめぐっては、米英に対しては日本の「自衛」、中国などアジアには日本が「侵略」、そしてソ連には「侵略された」というべきだろう。ともあれ、「真正・保守」の原点ともいうべきものを改めて勉強するのにはいい教材になる。西尾幹二という人物を毛嫌いしないで、国家とは何かを考える向きには読まれることをおすすめしたい。

(ご本人からの要望により、全文掲載しました)

 次の書評は若い論客岩田温氏のものです。

  

西尾幹二著『「権力の不在」は国を滅ぼす-日本の分水嶺』

   イデオロギーに対する警告

 日本を代表する評論家西尾幹二の評論集。近年発表した雑誌論文を収録したものゆえに内容は多岐にわたるが、全編にわたって闘志漲る戦闘的な評論集である。

 著者が真に闘いを挑むのは旧態依然とした左翼だけではない。思考停止に陥った右翼だけでもない。そういった人々を当然含むが、著者が闘うのは現実をみつめようとしない人々、狭隘なイデオロギーを信仰する人々である。

 イデオロギーとは、マルクス主義の独占物ではなく、常に知識人に付きまとう危険な麻薬のようなものである。著者はイデオロギーに溺れる人々を「手っ取り早く安心を得たいがために、自分好みに固定された思考の枠組みのなかに、自ら進んで嵌り込む」人々だと評するが、実に的を射た指摘だと言ってよい。知識人が自らに対する懐疑を閑却し、自らの立場に安住することを望み始めたとき、知識人の体内にイデオロギーの毒が回り始めるのだ。

 イデオローグは闇雲に徒党を組み、「敵の敵は味方」、「数は力だ」とばかりの安直な政治主義に陥る。彼らにとって重要なのは勢力拡大のみであって、狭い領域での友敵関係、力関係が全てを決するのだ。やむにやまれぬ真理の追求や孤独な懐疑を政治を理解せぬ児戯と嘲笑い、時には「利敵行為」として指弾する。往々にして思想家を気取りながら思想を最も軽蔑するのがイデオローグの特徴である。

 また、かつてのマルクス主義者のように自覚的なイデオロギーの虜も存在するが、イデオロギーとは無縁のような顔をして、どっぷりと無自覚なイデオロギーに侵されている人々も存在する。

 無自覚なイデオローグの代表として著者が批判して止まないのが秦郁彦、保坂正康、半藤一利といった「昭和史」の専門家を自称する「実証主義者」に他ならない。

 当然の話だが、歴史において単純な実証主義は成立しない。いかに細かな実証を積み重ねて小さな部分を明らかにしようとも、単純な実証主義からは歴史の全体像が見えてこないからである。実証主義は究極的に突き詰めれば、自らの信ずるパラダイムを擁護する護符にしか過ぎない。実証はあくまで歴史の全体像を補強、確認するための手段にしか過ぎないのだ。従って、実証を盲信する人々は、無自覚のうちに、自らの安住するパラダイムを守るためのイデオローグとなりはてる。何故なら、彼らは自らのパラダイムそのものに対する懐疑の念をいささかなりとも有してはいないからである。著者はこうした無自覚のうちに半ば公式化されたパラダイム、イデオロギーと闘うことの必要性を説くのだ。

 思想家は読者に安直な解答を与えない。問いそのものを読者に突きつけ、悩ませ、より複雑な問いの展開へと導く。本書はまさしく思想家の書物である。

     文責:岩田 温 『撃論ムック』より

 赤松議員の反応は政治的ですが、岩田温氏は知識人、言論人の姿勢を主題として取り上げています。この本にはたしかに両面があります。

 本年3-4月の秦郁彦氏と私との歴史論争等は後者のテーマでした。岩田氏が私のモチーフを正確に捉えて下さったのを嬉しく思いました。

 田母神問題に触発された秦氏との論争は、歴史の本質をめぐる学問論の一環なのです。私が現代の日本の学問の概念に若いころから疑問を呈してきた、その流れの中にあります。岩田氏の指摘に感謝します。

シアターテレビの11月後半の放送予定

 今日シアターテレビから私の放送内容のDVDを送ってきたので11月放送分を自分でもあらためて見た。自分で言うのも妙だが、ご覧いたゞいて恥しくない内容のものなのでお奨めする。

 この番組は当日録から直接クリックして見ることができるのに、友人の中でまだ「スカパーのアンテナを買っていないから見られない」などと言う人がいて驚いた。

 もし分らなかったら日録の9月28日の「シアターテレビジョンの歴史講座」をもう一度開いてほしい。WEB会員登録(無料)をする若干のお手数さえしていたゞければ、あとはサイドバーから自由にみられるはずである。

 11月後半の題目は「日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代」である。

 尚12月以後には放送の予定はない。

日本のダイナミズム 放送日のお知らせ

■放送:スカイパーフェクTV! 262ch 「シアター・テレビジョン」

■配信:シアター・テレビジョンHP http://www.theatertv.co.jp/movie/

※上記頁内にて動画配信中

シアター・テレビジョンホームページのトップページ右端にございます

番組検索で「西尾幹二」と検索すると、全番組が出てきます。
■お問合せ:シアター・テレビジョン03-3552-6665(平日10時~18時)

■チャンネルURL:http://www.theatertv.co.jp
■番組名:西尾幹二監修「日本のダイナミズム」(各20分番組)

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り

#21 「日本国改正憲法」前文私案
#22 仏教と儒教にからめ取られる神道
#23 仏像となった天照大御神
#24 皇室への恐怖と原爆投下

#25 神聖化された「膨張するアメリカ」
●シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代

#26 和辻哲郎「アメリカの国民性」
#27 儒学から水戸光圀『大日本史』へ
#28 後期水戸学の確立
#29 ペリー来航と正氣の歌
#30 歴史の運命を知れ

●各話一挙放送

#21~#25 一挙放送

#26~#30 一挙放送

【放送日 放送時刻】

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#21 「日本国改正憲法」全文私案

放送日
放送時刻

11月02日
07:30  25:40 

11月04日
25:00 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#22仏教と儒教にからめ取られる神道

放送日
放送時刻

11月03日
07:30  25:40 

11月04日
25:20 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#23 仏像となった天照大御神

放送日
放送時刻

11月04日
07:30  25:40 

11月05日
25:20 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#24 皇室への恐怖と原爆投下

放送日
放送時刻

11月04日
27:30 

11月05日
07:30  25:40 

● シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#25 神聖化された「膨張するアメリカ」  

放送日
放送時刻

10月30日
07:30  25:40 

11月04日
27:50 

11月06日
07:30  25:40 

●シリーズ: か弱き日本の神の怒り/#21~#25 一挙放送

放送日
放送時刻

11月01日
17:00 

11月07日
10:20 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#26 和辻哲郎「アメリカの国民性」

放送日
放送時刻

11月09日
05:30 

11月16日
05:30 

11月23日
05:30 

11月30日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#27 儒学から水戸光圀『大日本史』へ

放送日
放送時刻

11月10日
05:30 

11月24日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#28 後期水戸学の確立

放送日
放送時刻

11月11日
05:30 

11月18日
05:30 

11月25日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#29 ペリー来航と正氣の歌

放送日
放送時刻

11月12日
05:30 

11月19日
05:30 

11月26日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#30 歴史の運命を知れ

放送日
放送時刻

11月13日
05:30 

11月20日
05:30 

11月27日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代

/#26~#31 一挙放送

放送日
放送時刻

11月14日
05:20 

11月21日
05:20 

11月28日
05:20                       

GHQ焚書図書開封感想文

ゲストエッセイ 
大月 清司  
坦々塾会員

反滑稽読書・孤峰の熱き論説より

GHQ焚書図書開封(3)

GHQ焚書図書開封(2)

GHQ焚書図書開封
 
 ひとり西尾幹二だけが、思弁の丈を孤峰になっても、知性の壁を打ち破り論説を、老骨をやすらぐことなく、熱く、勁(つよ)く語りつづける。
 
 だから、冷徹な分析、論旨だけでは、ベースにそれをおいていても、いまの曖昧模糊とした、しかも美名に飾られた情緒に流される世情の中では、大きな響きを谺(こだま)のように伝えることはできないことを知り尽くしている。

 そして、文学のもつリアリティを知るゆえに、それが軍人の美談でも、些細(ささい)なことの積み重ね、基盤にひととしての血と涙が流れているもの、いまにつづく日本人の人情、情感を手繰り寄せる。高所から見下げるのを嫌い、低い視点から焚書された書籍と向き合っていく。
 それは、歴史家の語る知性、繰り返される愚かしさを、菊池寛が著した当時を生きてきた文学性によって、その歴史のツボを心得てものとして、その本と向き合っていくことにつながっていく。

 更に、敗戦後の米国流の時流に迎合し、ただ安易に流されるままに、世渡りのすべとして、学識、評論、知性、学問までもが、なすすべもなく迎合していくさまを一刀のもとに斬る。いまなお深く根づき、無意識のままに刷り込まれていることへ、容赦のない批判の切っ先を向ける。

 いまも昭和初期と同じ情況にあり、アメリカと北京政府の挟み撃ちに合いながらも、日本の内部からすすんで同調、協力していく、そういう論調に黙してはいられない。

 日本は昭和史のためにあるのでもなければ、その前史もあり、いまにつづき、更に未来へと、島国としての温かみのある人びとの連続性を維持しながら生きつづけている。

 現在の出版界も、実は「焚書の世界」に、すっぽりと飲みこまれている。あたりさわりのない、時の勢いをただただ追い求め、読者にいっとき、迎合、提供することばかりにうつつをぬかしてはいまいか。二一世紀へと残すにたり得る書籍があるだろうか。

 本書で第三弾になる、西尾幹二『GHQ焚書図書開封3』(徳間書店・新刊)は、それに反して、きわめて例外的で、重厚なシリーズの一冊である。この出版社の損得抜きの勇気ある英断と、氏の渾身の著書、健筆に心から感謝したい。それを待ちこがれている、わたしは次なる名著を愉しみに、活字人間たる幸福をひたすら感じている。

反滑稽読書・孤峰の熱き論説 つき指の読書日記 by 大月清司 より

『GHQ焚書図書開封 3』の刊行

GHQ焚書図書開封3 GHQ焚書図書開封3
(2009/10/31)
西尾幹二

商品詳細を見る

 少し刊行がおくれた。すでに「4」が半分ほど出来あがっているのである。どんどん後を追いかけて進行している。

 「3」はとても詠み易い内容になった。そのわけは冒頭の「はじめに」に次のように書かれていることから察していただきたい。

はじめに

 『GHQ焚書図書開封 3』は今までとがらっと様相を変えて、歴史の記録ではなく、昭和の戦争時代における日本人の心を直(じか)に扱うことにしました。心を直に扱うなんてできない話で、ここで言う意味は要するに、あの時代にどんな気持ちで人が生きていたかが伝わる体験記や物語を取り揃えてみたということです。具体的で読みやすく、分かりやすい文章が並ぶ結果になりました。私自身が思わず涙ぐんでしまった母と子のシーンもあるし、敵の城砦を落としてよくやった、と私までが万歳を叫んでしまったシーンもあります。戦後まったく知らされなかった新事実、奇談、珍談の類いもあります。これらは戦後になって回想された反省の文章ではありません。あの時代の人間があの時代のことを語った率直な生活感覚、というより生死へのきわどい思いが綴られた文章で、今読んでも切実さは、哀感を伴って伝わってきます。

 どうかどんな理屈も予備知識もなしで、以下の文章に、黙って素直に入って行っていただきたい。自分があの時代の人間になり切った経験をきっと手にすることができるでしょう。それが言葉の正確な意味で歴史を経験するということになるのだと思います。

 目次は次のようになっている。

 目次

章  戦場が日常であったあの時代

章  戦場の生死と「銃後」の心

章  空の少年兵と母

章  開戦直後に真珠湾のそばをすり抜け帰国した日本商船

章  中国兵が語った「日中戦争」最前線

章   匪賊になって生き延びた中国逃亡兵

章  忘れられている日本軍部隊内の「人情」

章  菊池寛の消された名著『大衆明治史』(一)

章  菊池寛の消された名著『大衆明治史』(二)

章  「侵略」や「侵略戦争」の語はいつ誰によって使われだしたのか 
     溝口郁夫

あとがきに代えて――平成二十一年夏のテレビに見る「戦争」の扱い

 ご覧の通り第十章を溝口郁夫氏に分担していたゞいた。氏は焚書7000冊余の全データをパソコンにとりこみ、数多くの有益な発見を示唆してくれたが、それだけでなく、章題に示したような歴史的解明をも試み成功している。

 溝口氏は昭和20年生れ、北海道大学工学部出身のエンジニアで、新日鉄を定年までお勤めになった、いわば戦後日本の繁栄を支えたお一人である。氏がなぜ現代史に関心をもつようになったかのわけも本書あとがきに記されている。篤実な人生を歩んだ方の晩年における愛国の思い、日本の歴史を歪める者への秘かな憤りには胸をうたれるものがある。

 本書は日経、読売、産経にそれぞれ広告が出た直後なので、いま丁度書店の店頭でお手に入れやすいはずである。以上ご案内する。

「決定版 国民の歴史 上・下」 感想文

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

 ちょうど一週間で読了した。お腹をすかせた子供がご飯をかき込むようにして読んだ。本当は、上等なお酒をじっくり味わうような読み方があってもよかったと思うが、それはできなかった。

 文庫本を読むのに先立って、あのずしりと重たい単行本の奥付を見て、この本が世に出されて早くも10年の年月が流れたことを改めて感じた。この間、無作為を繰り返すばかりだった自民党はついに自壊した。「冷戦の推移に踊らされた自民党」の章で指摘されているように、理念なき政党は国民から見放された。

 「国民の歴史」は私が30代の最後の最後に読んだ本である。若い頃、きちんとした読書をしてこなかった私は、その頃になってあせりのような気分を抱いていた。それ以降、何ら系統立った目的もなく、雑然と本を読み散らかして来た。

 私の読書は、中学時代の北杜夫「幽霊」が原体験となっている。北杜夫からトーマス・マンを知り、マンからワーグナーとショーペンハウエルを知り、西尾先生が翻訳された「意志と表象としての世界」を読んだときは、すでに26歳になっていた。私はその哲学書にまったく歯が立たなかった。ただ、こんなにも難解な書物を翻訳してしまう知の巨人がこの世の中にはいるのかという、恐れとも驚きともつかない当時の感情は今もはっきりと思い出すことができる。それ以来私の中では、「西尾幹二」という名前は特別な響きを持っている。それからほぼ四半世紀が経った。

 単行本から10年、私に起こった最大の変化の一つは、坦々塾の会員として西尾先生から直接教えを受けるという僥倖に恵まれたことである。若いとき、知の巨人と仰いだ人から、名前を覚えていただく日が来るなどということは、夢想だにできないことであった。

 大著を再読するということは滅多にない。読まなくてはならない本がたくさんある、という強迫観念から未だ脱することができないからだ。
 今回再読して感じた初読との一番の違いは、文章が以前より明瞭に理解でき、すんなりと頭に吸収される感覚を味わったことである。10年で利口になるわけはないから、これは間違いなく、坦々塾の勉強会の成果である。

 西尾先生の主張は一貫して揺るぎがない。私は前回この本を、恐らく多くの読者がそうであったように、自国の歴史の失地回復、名誉挽回の本として読んだ。いわば知識の吸収を目的として読んだ。

 西尾先生は歴史に向かう姿勢として、「事実に対する認識を認識する」という哲学的な態度の重要さを説かれた。また、人間の織りなす歴史を認識するということは、文学、哲学、宗教といった人間の本質を究明する教養が基礎にあって初めて可能なことであるともいった。また、歴史とは各国が相互に影響し合い、利害を衝突させながらそれによって翻弄されるものである以上、日本史もまた、世界史の視野をもって考察されなければならないという視点も示された。

 そういった西尾先生の、哲学、史学感を直接耳にしてきたことで、私の歴史に対する向き合い方が、坦々塾以前と以降とでは明らかに違った。もちろんまったくの勉強不足ではあるが、単なる年代記としての歴史、実証主義に呪縛された歴史、洗脳され修正された歴史、こういった我が国にはびこっている歴史観からは決別できた。10年前には、こうした視点から読むことはできなかった。そういう意味で、今回の文庫化は私にとって、大変いいタイミングであった。単行本を再読するという方法もあるが、今回は「決定版」である。迷わず買った。

 本書の上巻では中国に関する記述が多くを占める。我が国では、国の成り立ちの根本を成す多くの要素を、中国から学び、受容してきたとされている。漢字、仏教、儒教、稲。そういった中華大文明に対する負い目が、いかに幻想であるかが、圧倒的な筆致をもって描かれている。特に、文字を持たなかった縄文一万年の、記録に残らなかった歴史に言及する部分は圧巻である。先生は縄文語という言葉を使い、その当時間違いなく話されていた言葉があったという。今も我が国に残る意味不明な日本語の中にもそういった縄文時代から語られてきた言葉があるのではないかと思う。

 私の故郷、信州諏訪には、古事記に登場するタケミナカタノミコト(オオクニヌシの子)を祀る諏訪大社が鎮座するが、この地にも国譲り神話があり、諏訪から見たタケミナカタは征服者であり、土着の神は「ミシャグチ」と呼ばれている。

 この「ミシャグチ」が何を意味するのか、今ではまったく解らない。室町初期、すでに解らなかったという。私は密かに、縄文時代、諏訪の古神道によって信仰されていた、何か偉大な存在を昔から伝えてきた言葉でないかと考えていた。余談だが、諏訪では国譲りの際、権権二分を採用することで、両者の存続を計った。

 タケミナカタは地勢権を譲渡され、政治の実務を担当し、その血を受け継いだ人間が後の諏訪藩主となった。
土着神ミシャグチは祭祀権を継承し、幼い童に神霊を憑依させて祭祀を執り行う。

 現在大方の日本人は、中国に対して愛憎相半ばする感情を抱きつつ、こころの奥底の部分では、偉大なる師、文明の先達といった憧憬と、ある種抜きがたい劣等感を併せ持っているのではないかと思う。彼の国は歴史が古く、面積は広大であり、大事なことはほとんど中国から教えてもらったと漠然と考えている日本人が多い。

 我が国は教義の確立した大宗教も、文字も発明しなかったが、それらを受容して発展させていく過程において、偉大なる事跡を残した。現在の中国では近代概念を書き表すのに多くの日本語を使わなくては成り立たなくなっている。国名「中華人民共和国」も、中華以外は日本語である。
 また、稲を宗教的シンボルとした。各地に伝わるお田植え祭りや、豊饒祈願、秋の感謝祭に見られるように、日々の糧である米を、単なる食料の一つではなく、霊性をもった神からの献げものであるとして大切にしてきた。

 伊勢や宮中の新嘗祭がそれを端的に象徴している。私が子供時代の祖母は、天皇陛下が新米を食べるまでは口にしてはいけないといって、新嘗祭(勤労感謝の日)がすぎるまで新米を買うことを許さなかった。東北の農家に産まれた彼女は、そういったしきたりの中に育って来たのであろう。

 本書に稲妻についての言及がある。雷が田んぼの稲と交合することによって、稲穂が実るという思考は、とてつもなく壮大で、ロマン的である。雷を、天が稲の受胎のため使わす鳴動と捉えた。光と音による神の使い。その想像力とスケールの大きさには、ただ圧倒されるばかりだ。梅雨明け間際にはよく雷が鳴る。ちょうど稲が実り始めるころである。

 古神道の解釈を巡って、神はまれ人信仰か、祖先崇拝か、といった論争があるが、そのどちらでもあって構わないと思う。我が国の宗教観は、祖先崇拝、先祖慰霊を最も大切に考える。先生がおっしゃったように、この神道的な慰霊の心が、仏教においても取り込まれ、我が国独自の信仰を生み出した。我々の仏教儀礼といえば、葬式、法事、墓参りに尽きる。現世利益は、どちらかというと神道が担う。

 さて、キリスト教に関して、なぜ日本では信者が国民の1%以下にとどまっているのか、といった問題に、先生は一神教の持つ原理主義にその原因を求める。日本人は基本的に大まかで、何でも受け容れては加工することで自家薬籠としてしまい、肌に合わないとなれば放り出してしまうといった国民性を持つ。一つの神しか認めず、聖書に書いてあることを絶対の教義とするキリスト教はまったくなじまない。戦争に敗れた占領期は、アメリカにとって日本人を改宗する絶好の機会であったにも関わらず、成功しなかった。

 我が国の巨大構造物についての記述も、興味を引いた。仁徳天皇陵とエジプト・クフ王のピラミッドを同縮尺で図解し、我が国が模倣と精密加工に特化した縮み思考の国であるという通念を覆す。出雲の巨大空中神殿は、近年地下から巨木を三本束ねた柱の遺構が発掘されて、その実在が証明されたが、大林組によると縄文時代の土木技術で建立は可能であるということである。大林組では、出雲神殿再現プロジェクトチームを発足させて、現代土木技術・機械を一切使わないで、建築が可能かどうかのシミュレーションを行い、出版した。そこには、必要日数、人足、工法、現在価値に換算した必要経費も算出されている。大社裏山の中腹にロクロ(柱を建てるために、回転させながらロープを巻き付ける装置)を設置して、縄を結わえることで、このような巨大な柱を建てることも可能であるという。

 諏訪の御柱祭では、最後の御柱曳き建てを今でも重機を使わず、ロクロと人力だけで行っている。出雲と諏訪は親子神なので、お互い巨木信仰に対する親和性があるのではないかと思う。ある本には、古代日本に巨大建造物が多いのは、文字を持たなかったからではないかという推定が書いてあった。偉大な人物の事跡を文字で残せなかった時代には、その存在を古墳の大きさで表したのではないかというものである。4世紀を境に、巨大古墳は姿を消していくという。

 西尾先生は6月の坦々塾で、「思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに疑うことを不必要とした」、というお話しをされた。先生のこの短い言葉の中に、大河の奔流のような、我が国近代の歴史の悲劇と栄光がぎっしりと詰まっていると思う。それは運命でもあり、歴史の必然でもあった。白人による世界分割統治の最終局面において、日本は敢然と立ち上がり、防波堤となり、彼らの壮大な野望を挫いた。日本は神国として、世界と対峙した。江戸時代の国学者達は、よもや自らの思想が後の世で我が国が世界と戦う上でのバックボーンになろうとは思いもしなかったに違いない。

 時代の必要が、人材を輩出した。しかも、江戸中期という早い段階から周到に用意され、時間と共に思想は深化し、明治の自覚を待った。開国維新から、大東亜戦争敗北にいたる百年の歴史の何というダイナミズム。
「江戸のダイナミズム」があってこそ初めて成し遂げた偉業であった。まるで細い支流を幾本も呼び込むことで、大河が形成されるように、ゆったりと、静かに、そして着実に、明治の自覚を待った。肇国以来の危機がこうして回避された。

 下巻では近代世界が語られる。明治以降三つの大きな戦争を戦い、最後に破れた日本。そこに至るまでの世界の動きと、各国のエゴイズムは凄まじいの一言である。ナイーブな日本人は、そういった荒波に翻弄され続けた。

 アメリカの中国に対する幻想も災いした。蒋介石を支援しつつ、結果的に毛沢東を勝利させることで、人類に大きな厄災をもたらした。後に数千万人の人間が、命を奪われた。それは確かに結果論かもしれないが。

 日系人収容所に関しては今夏、「東洋宮武が覗いた世界」というドキュメンタリー映画が上映されている。

 その中に大変印象深いシーンがあった。インタビュアーが日系2世、3世に「収容所に入れられたことについて父母や祖父母はどんなことを話していたか」とたずねる。2世、3世はもはや日本語を話さないため、質問は英語である。その質問に対して、彼らの両親や祖父母が語った中に「仕方がない」という言葉が何度も出てきた。しかもこの「仕方がない」だけは日本語で発音していた。英語にはそれに相当する言葉がないのだろうかと思った。地道に働き、やっとその土地に生きる場を見つけ、結婚もし、あるいは小商店の主となってささやかに生きていこうとしていた彼らにとって、日本人であるというただそれだけの理由で、キャンプに収容される。ナチスのように殺さなかったから、アメリカの方が人道的であるという理屈は通用しまい。まったくの理不尽な仕打ちである。そういった運命に対して、「仕方がない」といって従容と受け容れる日本人。ここに我が同胞の民族性がよく表れていると思う。

 映画では、写真館主として成功していた宮武の、キャンプ内での撮影の様子が再現され、職業がこの方面に近い私は、そういった面での感動もあった。カメラの持ち込みは厳禁であったが、アメリカ人の中にも、協力者がいたようである。若い青年が年老いた父親(祖父?)に向かって、「どうして父さん達は、抗議の声を上げなかったのだ。広く国民に訴えれば、必ず賛同者を得られたはずだ。アメリカは自由と民主主義の国ではないか。」といって食ってかかるシーンがあった。記憶は曖昧だが、そんな息子に対して父は「人種差別というものが確かに存在した時代があった」、という意味のことを語ったように思う。

 建前として、人種差別は現在の地球上には存在しないことになっているが、そんなことは真っ赤な嘘である。

 一人我が国だけが、こうした偽善を信じている。政治家も官僚もマスコミも教師も、建前を本音と信じ、偽善を真実であると信じて疑わない。この極端なナイーブさはまったく変わっていない。我が国の大きな弱点、宿痾ですらあると思う。一定の品格を求められる大新聞が、ある程度建前をいうのは仕方ないのかもしれない。それは我々も、日々の社交という場面で繰り返している。ただしその裏にある、真実を見抜くもう一つの目を持たなくては、いいように手玉にとられてしまうであろう。人は善悪を共に内包する存在である。そのことをきちんと認識しない限り、我が国はこれからも世界の孤児として蹂躙され続けるであろう。

 商人は、卑屈に頭を下げて、無理難題もごもっともと聞いて、利のあるところに群がるが、最後は財布を開かせて金を受け取る。我が国は、卑屈に頭を下げて、無理難題もごもっともと聞いて、さらにお金も払っている。

 敗戦以降、精神の荒廃は止まず明治の光輝は完全に否定された。神話は忘れられ、歴史は貶められ、祖国は悪いことばかりしてきた、どうしようもない国だと定義されてしまった。丸山昌男の8.15革命説のように、原爆の光によって、戦後日本という新しい国が誕生したという錯覚に陥っている。

 アメリカ占領期の洗脳工作が、戦後64年を経てもなお一向に溶けないのはなぜであろうか。すでに世代は、占領国民の2世、3世の時代になっているにも関わらず、状況は悪化するばかりである。

 こんなにも、きれい事で現実を糊塗するような風潮は、一体いつから染みついたのであろうか。大衆が、大きな流れに漂ってしまうのは、これは仕方がないのかもしれない。ただし、一定のエリートや指導者には確乎とした人間洞察力がなくてはならない。これを養うためには、先生が言うように、文学、哲学、歴史、宗教に触れ、そこから学び、自らの血肉とする以外にない。私の回りにも、かつての偏差値秀才が、中学生レベルの正義感のまま、大人になったとしか思えない人間が何人もいる。先生はこうした現象を、福島瑞穂現象と喝破した。辻元ほど騒々しくなく、土井ほど憎たらしくなく、発言は一応正論。こういった人間は、民主党の多数をなし、やがて自民党の多数にもなろうとしている。驚くべきことに、実利を何よりも重視する実業界においても、こういった人間が多くなったように思う。私の先輩世代にあたる戦後創業者達は、皆一様に欲望に正直で、脂ぎった体質と強面の風貌をしており、風圧すら感じさせた。そういった人達が一線から去り、あるいは亡くなっていって、二代目が後を継ぐケースが増えている。彼らはおしなべて高学歴で、留学経験があったり、外国語を習得したりと、父親に較べて上品ではあるが、気迫には欠ける。何か日本人全体を象徴しているように思えてならない。行き着くところは、「唐様で売り家と書く三代目」であろうか。我が子の世代には、日本は売りに出ているのかもしれない。

 今の体たらくを見ていれば、これがあながち冗談とも思えない。

 勤勉、優秀、山紫水明、規律的、倹約、忍耐。日本を定義するこれらの美徳の、一体どれだけがその時残っているだろうか。

 戦後、金科玉条として来たスローガンに、平和、憲法遵守、民主主義、人権尊重と並んで平等という観念があった。偽悪的な言い方になってしまうが、私は人間のどうにもならない不平等をこそ教えるべきではないかと思う。少なくとも中学生ともなれば、そういったことは自らの人生を通して経験して来ている。

 私はこの10年間で通史と呼ばれるものを、日本史(16巻)、明治開国100年(10巻)、世界史(23巻)、古代ローマ史(28巻)と読んできた。二種類の日本史はどちらも階級闘争史観、マルクス主義史観で書かれている巻も多く、その部分は楽しくない読書であった。西尾先生の大著二冊「国民の歴史」と「江戸のダイナミズム」は、これらの通史とは明らかに違う。何よりも読んでいて楽しい。江戸のダイナミズムに関しては、難解であったという感想を何人かから聞いた。確かに易しい本ではないが、先生のいう、読みやすいことが良書の条件という基本は外れていなかったと思う。今回、感想を書くつもりが、ほとんどそれ以外の個人の世迷い言になってしまった。

 「決定版 国民の歴史」は、これ一冊を読めば、コンパクトに我が国の通史が理解できるという便利な本ではない。そもそも、そんな本は存在しない。私は今回この本を、歴史の本質とは何であるかということを、考えながら読み進んだ。そして先生がいつも講義で話し、ご著書で書かれている人間洞察のない歴史理解は、不可能であるという点にも注意した。さらに、人間はそれぞれ異質であるということを、異質には異質の正義があるということにも思いを馳せた。善意、正直といった価値観は、普遍でも真理でもない。ヨーロッパにもアメリカにも中国にも、それぞれの価値があり正義があり利害がある。ただ、それだけである。

 私達は日本に生まれた。特に私のように戦後(昭和34年)に生まれた世代は、歴史上誰も経験したことのないような、平和で豊かな生活を送って来た。ただし、わずかな時間をさかのぼれば、我が国もまた大きな国難に何度も見舞われて、必死に戦って来た。総力戦を戦うためには、軍備だけではなく、国学、思想といった知をも総動員した。先生はこの本で、何が何でも日本を礼賛しているわけではない。そう、歴史もまた是々非々で見るべきだと思う。先生の視点は、我が国の長い歴史を語りながら、つねに現在へのまなざしを忘れていないのではないだろうか。歴史に学ぶということを、我が国では過去の悪を繰り返さないと定義してしまったが、そこに大きな不幸があったと思う。本当に歴史から学ぶということは、人間が起こした歴史から、人間の本質を探り、現在のあるべき姿に反映させることではないかと思う。異質を理解するということは、その異質を育んだ文化の基底を知ることでもある。日本人も海外から見たら異質であろう。それで構わない。すぐれた点も、どうしようもない欠点もある。それらをすべて受け継ぐかたちで今の日本人がいる。近代文明を生み出し、文理にわたる近代学問を確立したと自負するヨーロッパにも、歴史の暗部はある。より多くあるといってもよい。歴史といわれているものの多くが、実は戦争の記述である。古代の英雄譚も戦史であり、NHKの大河ドラマも半分くらいは、内戦の物語ではないだろうか。権力闘争は、人間のどうにもならない本能であろう。現在はたまたま経済による代理戦争を戦っているが、戦争もまた、権力闘争であり、かつ経済闘争でもあるという側面を持つ。これも古代から変わらない原則ではないかと思う。

 人間のみがつねに過剰への欲求を持つ。蕩尽への飽くなき渇望がある。これがある限り、争いがなくなることはないであろう。

      文責:浅野 正美
(坦々塾のブログより転載