『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(一)

戦前の日本人が見抜いた中国の本質

目次

第一章 シナの国民性あれこれ(1)
第二章 シナの国民性あれこれ(2)
第三章 シナ軍閥の徴税・徴兵・略奪
第四章 シナ政治の裏を描くほんとうの歴史
第五章 大正年間のシナ――民衆の生活様々
第六章 今日の反日の原点を見る――蒋介石時代の排日
第七章 歴史を動かしたのは「民族」ではないか
第八章 移住と同化 シナ人の侵略の仕方
第九章 満州事変前の漢民族の満洲侵略
第十章 いかに満人は消去され、蒙古人は放逐され、朝鮮人は搾取されたか
第十一章  支那事変――漢民族が仕掛けてきた民族戦争
付論 戦後ある翻訳書に加筆された「南京」創作の一証拠
あとがき
文献一覧

あとがき

 本書は長野朗(1888-1975)のいわば特集号である。といっても、『支那の眞相』(昭和5年/1930年)、『民族戦』(昭和16年/1941年)、『支那三十年』(昭和17年/1942年)のわずか三冊に光を当てたにとどまる。事実の衝撃性と分析の鮮烈性ゆえにもっぱら後の二書に焦点を絞って、本書ではできるだけ多くの彼の文章を提示したいと考えた。

 どのページも目を奪う驚くような事実指摘に溢れているが、わけても本書の第九章「満州事変前の漢民族の満洲侵略」は現代の東アジアの情勢を予言していて、本書制作の途中で私は深く考え込まされてしまった。

 満州事変はいまなお続いているし、これからも起こり得ると読めるのである。満州事変といえば日本があの地域の混乱を力づくで解決しようとした出来事と解されているが、長野朗はそういう見方をしていない。満洲の地にしたたかなパワーをもって侵入したのは漢民族(シナ人)であった。このことを彼は最重要視している。しかも清王朝の時代に大勢は決していたという。蒙古人、朝鮮人、ロシア人、日本人が入ってくる前に、彼らは白アリが建物の土台を食い尽くすように満洲の大地に入り込み、住みつき、事実上そこを支配していた。彼らは生存するためには何でもする生命力を持っていて、利己的で、愛国心などひとかけらもないが、不思議な集合意思を持っていた。

 ロシアが鉄道でカネを落とせばそれで肥り、日本が産業近代化を進めれば利益の大半は自分たちに落ち、やがてできあがった成果は横取りできると最初から踏んでいる。満洲人、蒙古人、朝鮮人はいじめ抜き迫害し搾取する対象でしかない。漢民族(シナ人)と他の民族とでは頭数が桁外れに違いすぎる。マンパワーは恐ろしい。満州事変はこの彼らの民族主義と日本の民族主義とが衝突した事件と長野朗は考えている。支那という国家の意思が発動されて衝突したのではなく、白アリ軍団の集合意思が外にはみ出し、摩擦を重ね、やがて日本と衝突したのである。

 漢民族にとって満洲は東方である。今なお日本も彼らから見れば東方にある。同じである。膨張し拡大する白アリ軍団の進出には理窟も何もない。いわば盲目の意思があるのみである。満州事変はまだ終わっていない。まだまだ続くし、これから違った形で勃発する可能性があるというのが長野の予言に違いない、と私は読みながらしきりに考え、恐怖を覚えた。

 当時の日本人は支那は独力では近代統一国家にはなれないと見ていた。日本の協力なしでは治安もままならないし、貨幣経済ひとつ思うに任せない。日本人は「上からの目線」で大陸を見ていた。しかし1911年から三十年間この土地を自分の足で歩き、つぶさに現実に接していた長野朗は、一貫して「下からの目線」で日本と支那の関係を見ていた。日本の軍人や指導階級とは異なる見方が自ずと確立されていた。長野は愛国者だが、祖国に幻想を持たない。はっきりは言っていないが、日本の大陸政策には知恵がなく、白アリ軍団を統御できずに、バカを見る結果になるだろうと考えていた節がある。昭和16年~17年の時点でこのような内容の本の刊行が許されていたわが国出版界の懐の深さ、あるいはわが国軍事体制のある種のしまりのない暢気(のんき)さが偲ばれる一件である。

 『GHQ焚書図書開封5』の第八章、第九章は長野朗『日本と支那の諸問題』(昭和四年/1929年)を、また第十一章は「世界知識」という当時の雑誌の増刊号(昭和7年)に収められた長野の一論文「満蒙今後の新政権」をとり上げていることに、あらためて注意を促したい。したがって本書は二度目の扱いであり、内容的にはある程度重なっている。ただ、本書との兼ね合いで読者に新しい観点を与えるのは論文「満蒙今後の新政権」のほうである。これはたった今述べた、軍人や指導階級とは異なる満洲への長野の思い入れ、日本の政策への不安がさながら彼の溜息のように聞こえる、人間長野の心の奥深さを垣間見せてくれる論考である。ぜひこれも併読していただきたい。

 長野朗は陸軍士官学校の出身で、石原莞爾と同期であった。陸軍大尉で中国の地に派遣され、いわゆる国民革命軍の動向、民衆の抗日行動を現地で観察した。中国問題の研究に専念するために1921年に軍を辞め、共同通信や国民新聞の嘱託になったり、『中央公論』や『改造』に寄稿したりした。大川周明らと交わり、猶存社、行地社に加盟した。しかし路線の相違に気づき、ここを離れ、農村運動に打ち込むようになった。1938年(昭和13年)に大陸の戦場を視察し、シナ人避難民の悲惨さを見て心を痛めたと伝えられる。彼の思想上の立脚点は農本主義で、国家主義とは異なる道を歩んだ。のちに農本連盟、自治農民協議会を組織した。彼は戦後もずっと活動をつづけ、昭和28年に全国郷村会議委員長になった。1975年(昭和50年)に87歳で没した。

 伝記的事実については以上の略史を伝え得るのみで、私は多く知る者ではない。

(後略)

ある友からの手紙

 西尾幹二先生

 先日、西尾幹二全集第三回配本の『悲劇人の姿勢』ちょうど読み終えた、まさにそのときに、第四回の『懐疑の精神』が配本されてきました。冒頭25~36頁の「私の受けた戦後教育」、身につまされる思いで読みふけりました。

 「要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行われていたのである。先生は教えるのではなく生徒とともに考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。どうもそういうことだったらしい。終始先生は私たちの考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行ったが、子供に確固とした考えがあるわけでなく、私たちは教師の
暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。私たちは決して一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。
 
 子供はそんなに単純ではない。ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能かもしれない。しかし大人が大人らしくなく振る舞えば、それが何を意味するかはわからないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。そこには不自然さがある。というより嘘がある。先生が先生らしくなく
振る舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒の間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があるのを誰よりもよく知っているのは子供である」

 私がこの一文になぜそれほどの衝撃を受けたかというと、実は私自身の受けた教育と大きな関係があるのです。私は昭和41年4月~44年3月、私の故郷鳥取県の某中学校で学びました。この中学校は自主学習という世にも珍しい教育法で全国にその名を知られた有名校であり、日本全国津々浦々から教育関係者がひきもきらず参観に訪れていました。自主学習というのは生徒の主体性を最大限に
尊重し、授業は原則として生徒の自主運営に任せる、というやり方です。生徒たちが自分で主体的に学習カリキュラムを作成し、それに従ってグループごとに黒板に板書し、発表する。生徒たちで選んだ司会や委員の主導の下にクラス全員による質疑応答が行われ、討論し合う。教師はそれを傍観しながらときたま口をはさみ適切なアドバイスを行う。教師のアドバイスは必要最小限に限られ、極力口
をはさまないのが望ましいとされる。
 
 これは戦後しばらくたった昭和三十年代初頭、地元のある校長が発案し、有志の教師たちを巻きこみ、PTAを説得して、半ばゴリ押し的に強行し実現してしまったものなのです。このような現実を無視した、常軌を逸した教育が(志を同じくする者が集まって結成した私塾や新興宗教教団ならいざ知らず)義務教育の公立中学校で成り立つはずがないのです。その不自然さは誰が見ても一目瞭然で
す。これを発案した校長はおそらく、自分の名を後世に残したいという功名心に駆られていたのでしょう。
 
 私は中学に入ったとき、この教育方法に対して子供心におどろおどろした違和感を感じ、この違和感は薄らぐどころか強まる一方で、中学三年間は苦痛以外の何ものでもありませんでした。主体性どころか、これほど生徒の個性を無視したやり方はなく、これは教育に名を借りた精神の暴力、一種の拷問だったと言ってもよい。かつて文化大革命で十代の少年紅衛兵たちが、自己批判せよと迫りなが
ら、大衆団交という名の人民裁判で被告をつるしあげる、あの方式を彷彿とさせるものがあります。私はふてくされ、反抗的になり、浮き上がってしまいました。不良で成績の悪い落ちこぼれの生徒ならいざ知らず、私のようないわゆる勉強のよくできた生徒からそのような反抗的な態度をとられると、教師の立場はなく、教師から見れば私は扱いにくい、憎たらしい生徒だったことでしょうね。

 先生の指摘されるごとく、子供ほど敏感なものはないのです。小学校に入ったばかりの六歳の児童ですら、教壇に立つ教師の人間性を本能的に直感で見抜いています。私は中学校には不快な思い出しかないが、小学校時代は無性に懐かしい。なぜならそこには秩序と権威があったからです。威厳と慈愛に満ちた教師の指導のもとで、思考力と感性の基礎がしっかりと育まれました。
 
 35頁の、大江健三郎に対する先生の批判は胸のすく思いでした。

 「大江さん、嘘を書くことだけはおよしなさい。私は貴方とまったく同世代だからよくわかるのだが、貴方はこんなことを本気で信じていたわけではあるまい。ただそう書いておくほうが都合がよいと大人になってからずるい手を覚えただけだろう。「戦後青年の旗手」とかいう世間の通念に乗せられて、新世代風の発言をしていれば、新思想、新解釈が得られるような気がしているだけである。大江さん、子供の時のことを素直な気持ちで思い起こしてほしい。子供の生活は観念とは関係ない。あるいは大人になっていく過程で、幼稚な観念は脱ぎ捨てていくものだ。貴方の評判のエッセイ集『厳粛な綱渡り』の中から一例。「終戦直後の子供たちにとって戦争放棄という言葉がどのように輝かしい光を備えた憲法の言葉だったか」。こんなことをこんな風に感じた子供があのときいたとは思えないし、いまも決していないだろう」

 大江のあののっぺりとした顔が、これを読んで目をぱちくりしている光景を想像すると、溜飲が下がります。
 
 先生がこれを書かれたのは昭和40年7月、30歳のときだったのですね。私が小学六年で、中学に入る前年の年です。私がもしも当時この論文を読んでいれば、精神的に救われていたかもしれません。それにしても先生の文体というか論理展開のスタイルは、30歳のときと現在と寸分変わっていませんね。50年近く前に書かれた先生の文章が、現在読み返しても新鮮さをまったく失っていない
ばかりか、ますます説得力を増しているのはどういうわけなのでしょうか。 

                                    
   平成24年8月3日
                                    
 東京国際大学教授  福井雄三
 

西村幸祐放送局

 「西村幸祐放送局」という、西村さんが主催する個人広報のYou Tube中心のブログが立ち上がり、すでに活動を開始しています。今度そこに「西尾幹二の世界」という新しい企画が始まり、第一回が放送されました。このような取り組みがなされたことに対し、謹んで西村さんに感謝します。

お知らせ

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」 の刊行を記念して、下記の

要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。

 

                        記

 

演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)

日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分

                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加

     いただけます。 (事前予約は不要です。)

     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 

お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421

         FAX 03-5970-7427

          E-mail: sales@kokusho.co.jp

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(三)

わしズム 文明批評より

(三)行き詰る略奪資本主義

 アメリカが中国大陸でしたことは商品経済ではなく、鉄道や橋や工場を作って、高利の利ざやを稼ぐ投資経済だった。ベストは鉄道建設だが、有利な路線はすべてイギリスが押さえていたし、満洲は日本とロシアが握っていたので、アメリカがしたのは金融による間接システム支配だった。が、必ずしも成功したとはいえない。あれほど大きな援助を惜しまなかった蒋介石政権を、戦後あっという間に見限って、大陸を毛沢東支配に委ねて知らん顔をしてしまった。このアメリカの行動の不可解さは、ひとえに「領土」に関心がないという動機に由(よ)るのではないだろうか。反共という政治の原理からは説明できないし、理解もできない。

 他国の領土と住民を支配するのは容易ではなく、コストもかかるし血も流す。1945年以後も世界はその不合理にしばらく気がつかなかった。フランスやオランダは植民地支配の継続にこだわった。しかし金融資本主義の道をひた走っていたアメリカは脱領土的なシステム支配の方式をもって世界に範を示し、GNPやGDPといった経済指標が領土の広さに代わる国力の表徴であることを証明してみせた。

 スペインを皮切りに、オランダ、イギリス、フランスへと展開した資本主義は、基本的に「領土」に執着し、そのためにたびたび戦争が起こった。それは低開発地域で少しでも安い資源を手に入れ、先進国が加工して高く売ることに、狙いがあったからだ。イギリスがインドを統治し、綿花を作らせ、本国で加工して植民地に高く売りつける等は露骨な直接支配だった。資源だけでなくマーケットもまた囲いこまれた略奪のシステムだった。「略奪資本主義」が資本主義というものの本来の姿なのかもしれない。そしてそれは今に至るまでずっとつづいているのは石油の争奪に現われている。

石油産出国の反乱と先進諸国の巻き返し

 永い間石油生産国には価格決定権がなかった。価格はいわゆるメジャーが決めていた。1945年以後ごく最近までは石油の時代、石油を支配したアメリカの時代がつづいた。石油に関しても他の資源と同様に産出国に自主決定権のない「略奪資本主義」が成立していたのである。

 1973年に石油危機が起きた。産油国が価格決定を自分たちの手で握ろうとして結集し、OPEC(石油輸出国機構)を建ち上げた。先進国にとり「領土」はなくてもよいが「資源」が重大であることは変わらない。資源の中の資源ともいうべき石油が必ずしも先進国側の自由にならなくなり始めた。OPECの成立は略奪資本主義の歴史の中で革命的なことであった。

 スペイン帝国からこのかたずっと、イギリス、フランス、オランダの東インド会社を経て五百年間も、遅れた国や地域から先進国が安い資源を買い上げて、これを加工して、付加価値をつけて高く売ることで成り立っていた資本主義の支配構造に初めてNO!をつきつけたのがOPECであった。歴史をゆるがすような出来事なのだ。

 日本を含む先進国側はこれに対し巻き返しを図ってきて、一定の歯止めをかけているが、あの頃から資源国はたしかに有利になっている。世界の先進国の企業は次第に儲らなくなっている。資源の高騰した分だけ従業員の賃金がしぼりこまれているこの二十年間の統計表を見たことがある。日本の長期低落傾向もこの必然の流れに沿っている。

ユーロによる支配からドルを守るためだったイラク戦争

 日本が戦後六十年、モノづくりの総力を結集してせっせと勤勉に働いてためた資産は15兆ドル、仮に分り易く1ドル100円とすれば1500兆円である。これだけあるから、政府が赤字国債を積み上げて1000兆円を越えても、民間資金がまだそれを上回っているから何とか辛うじて破局にいたらないで済むのだとしばしば説明されるあの額、ひところ世界からたいへんに羨ましがられた国民の血と汗の結晶の総額である。

 ところがモノづくりで勝てないアメリカは金融資本主義の道をひた走って、今度は何とか新たに脱資源的システム支配を目指し、EUもまきこんで過去十三年間の短い期間で何と100兆ドル、1ドル100円とすれば1京円、しかもレバレッジをかけて倍増させ200兆ドル、2京円の根拠なきカネを空(くう)につくり出した。七十年前にアメリカ通の山本五十六司令長官にも見えなかったアメリカの暴走が、歳月を経てまたまた急転回している。

 今度もまたしてもアメリカと西欧諸国との間では歩み方に微妙な違いがある。イラク戦争はユーロとドルの通貨戦争の趣きがあった。イラクの石油の直接支配は必ずしもアメリカの戦略の中になかった。アメリカの中東石油依存度は10パーセントぐらいで、決定的な大きさではない。中東の石油売買がユーロ建てになって、基軸通貨としてのドル支配が壊れるのは破局だという危機感がアメリカにはあった。これがイラク戦争の原因である。ユーロからドルを守るために、戦争を起こしながら、世界を間接支配しようとするアメリカ一流の戦略であったと考えられる。

 七十年前とは異なり、アメリカは今度はイギリスと組んで、ドイツやフランスが主導するEUをゆさぶる戦法に出ているかにみえる。また石油産出国による「略奪資本主義」に対する革命的挑戦にどう対応するかが、目下のあだ疎(おろそ)かにできない焦眉(しょうび)の急である。いったん産油国に握られかかった価格決定権は、知恵ある金融資本家たちの手に再び取り戻され、「先物取引」という手が用いられて、先進国に押さえられ、価格はニューヨークとロンドンが決めるという金融支配のシステムがさしあたり確立している。

実態からかけ離れ以上の膨張したカネ

 しかし地道なモノづくりから離れた金融資産はどんどんふくらむ一方で、数字的に異常な規模になっていることは先に見た通りである。これは2008年のリーマンショックを招いた。EUはアメリカ以上に空虚なカネづくりをしたので、ついに2011年のギリシアに端を発する現下の崩落寸前の危機に至った。

 実態経済からかけ離れた空虚なカネが足許に逆流し、アップアップして溺れかかっているのはアメリカも同様である。むしろアメリカに始まったのである。五百年の歴史を持つスペイン帝国以来の「略奪資本主義」は間違いなく行き詰っている。現代は近代以前からの歴史の大転換期といっていい。日米戦争よりすでにあったアメリカの病的な膨張拡大志向がこのままつづくか途絶えるかの屈折点である。

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(二)

わしズム 文明批評より

(二) 領土を必要としないアメリカ

 話題はとぶが、2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロで、一極集中を誇っていた超大国アメリカがにわかに浮き足立つ事態から21世紀は始まった。2003年3月にイラクで戦争が始まり、五年後の2008年にリーマンショックと呼ばれた金融危機が起こった。このごろ中国の台頭が目立つ一方、2011年にEUに金融不安が飛び火した。目まぐるしい現代史のこのわずか十年間の動きが、山本五十六の生きたあの時代の世界史の動きとどこでどう関連していたかを大胆に推理し、考察してみたい。

 19世紀のアメリカはまだ一等国ではなく、産業資本主義国家としてもイギリスやフランスに遅れをとっていた。アメリカがイギリスに追い迫ったのは1898年に米西戦争でスペインを打ち破ってフィリピンを領有し、ハワイを併合して以来だった。イギリスは西太平洋に艦隊を撤退させてアメリカに太平洋の覇権を譲った。日本は日清戦争で台湾をかち得ていたので、このとき早くも日米対決の序幕が切って落とされたかたちだ。けれどもアメリカが若いエネルギーで成し遂げようとしていたことは、さし当りまずイギリスを追い越すことであり、そのためにイギリス、ロシア、フランス、ドイツが分割を開始していた中国大陸への進出を果すことだった。アメリカは中国大陸への関与に出遅れていた。大陸へ向かう途中にあってみるみる実力をつけ台頭していた日本の海軍力がともあれ目障りだった。はじめ軽く考えていたが、容易ならざる相手であることに気づいた後も、インディアンやフィリピンを掃蕩(そうとう)してきた遣(や)り方と同じ方針を根本的に変えるつもりはなかった。

なぜアメリカは中国大陸を目前にして侵略しなかったか

 とはいえこの点で興味深いのは、フィリピン支配まではストレートに武力にもの言わせたアメリカの侵略行動は、中国大陸をいよいよ目の前にしたときに、あるためらい、というより方針変更を余儀なくされたことだった。主にロシアとイギリスが西方からすでに大きく進出していた大陸では、武力を用いるのに有効な時期を失していた。アメリカはここで屈折し、足踏みした。で、三つのルートから大陸に迫ることとなる。(一)満洲進出を手掛かりとする北方コース、(二)上海を中心とする中国の中央部に文化侵略するコース、(三)フィリピン、グアムを拠点にイギリス、オーストラリア、オランダとの合作による南太平洋の制覇を通じて南方から軍事介入するコース、いずれのコースでも邪魔な障害物は日本であった。(三)がもちろん日米衝突の最終局面である。

 白人文明はスペイン、ポルトガルの覇権時代から、自国の外に略奪の土地、奴隷的搾取の領土を求めることを常道とする。これをもって最初は重商主義国家として、オランダ、イギリス、フランスの覇権時代には産業資本主義国家として勢威を確立した。植民地主義とはそういうものと理解できるが、アメリカは例外で、自国の外に奴隷の地を確保する必要がまったくなかった。下層労働力は国内で充当されていた。それにアメリカはすでに最初から領土広大で、資源豊富、しかも人口は西欧や日本に比べてなお稀薄で、そもそも膨張する必要のない国であった。

アメリカによる新しい支配の方式とは

 膨張する必要がないのに「西進」という宗教的信条に基いて膨張する国だった。西へフロンティアを求めて拡大するこのことは「マニフェスト・ディスティニー(明白なる宿命)」という神がかりのことばで呼ばれていたが、これは厄介で危険な精神である。列強が中国大陸で争って根拠地を占めようとすることに、アメリカは冷淡だった。その必要がなかったからで、列強同士の競争はアメリカには不便だった。そこでこの国は独自の対中政策を割り出し、脱領土的支配の方式、ドルの投資による遠隔統治の方針を考え出した。

 アメリカは20世紀の前半に三回、国際社会にこの方式を訴えて、軍事力で威圧しつつ、外交的勝利を収めた。第一回目が1899年の国務長官ジョン・ヘイによる三原則、中国における領土保全、門戸開放、機会均等の、日本を含む六カ国への提案である。第二回目は第一次大戦後のパリ講和会議における民族自決主義の提唱、第三回目は第二次大戦直前のルーズベルト=チャーチル船上会談で結ばれた大西洋憲章の締結である。ひとつひとつは事情を異とし、日本に與影響もそれぞれ異なるが、面白いのはイギリス潰しということで一貫して共通していたことが、今のわれわれの時代になってはっきり見えてきたことだ。すなわち西欧列強の植民地主義を不可能にしていく有効な「毒薬」だった。しかもアメリカ一流の正義に基く「きれいごと」でこれを宣伝し要請した。

 イギリスを倒すのに武力を用いる必要はない。アメリカは自分が必要としない「領土」「下層労働力」「直接的搾取」を西欧各国に美しいヒューマニズムの名において封印することにより、にわかに「いい子ぶり」を示す明るいアメリカニズムの旗の下(もと)に、西欧各国を弱体化させることに成功した。西欧諸国が二つの大戦で疲弊したという事情もある。ユダヤ金融資本がイギリスからアメリカに『移動したという条件の変化があり、これが決定的だったかもしれない。

 大戦前日本の指導者にイギリスの行動は理解し易かったが――少し前まで同盟国で、互いに利にさといギブ・アンド・テイクで結ばれていた――、アメリカの出方がまったく先読みできなかったのは、利害関係で判断できない、覇権願望国の「心の闇」が見えなかったからである。イギリス人にも読めなかったアメリカの「心の闇」が日本人に読めるわけがない。日露戦争のあと、1907年頃から日米関係が悪化したことはよく知られている。ワシントン会議(1922年)からロンドン軍縮会議(1930年、35年)を経て、日本は正義のきれいごとを唱えるアメリカ、そのじつ武力と金融力とで世界を遠隔操作する新しいシステム支配を目指すアメリカに翻弄されつづけることになる。

つづく

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(一)

わしズム 文明批評より

(一) はじめは、互いに戦争するつもりのなかった日米

 『聯合艦隊司令長官山本五十六』という映画を見た。いくたびも映画になった人物であるが、今回は原作本(半藤一利氏)のせいもあって、平和をひたすら願っていたが果たせなかった悲運の将として描かれていた。画像の全体に日本の戦争を歪(ゆが)めて描くようなわざとらしい自虐的解釈がなかったのはせめてもの救いだった。

 気になったのは、一貫して山本は歴史の悲劇的結末を見通していたと言わんばかりの、時代を超越した自由な人物のように扱われていた点である。そんなことはあり得ない。日独伊三国同盟に対する彼の反対がくどいほどに強調され、英米支持の平和派だったのが心ならずも開戦の鍵を托(たく)された、という筋立てに描かれていたが、それならなぜパールハーバー襲撃だったのか。彼以外の海軍中枢は日本列島周辺をがっちり固める守りの陣形を考えていたはずである。それなのに、大空のような広い太平洋に日本の主要兵力をばらまいてしまうあんな無謀な戦略を考えつき、国家の破局を早めてしまったのは山本ではなかったか。

 詳しい戦史に通じていない私でも、納得できないのはアメリカに留学し海軍随一のアメリカ通として知られていた山本が、かの国の久しい戦意、かねてから日本の狙い撃ちを図っていた殲滅戦(せんめつせん)への意志を見落としていたことである。それからもう一つは、日本はどうせ火蓋を切ったのならなぜハワイ占領を考えなかったのか。あるいはパナマ運河の破壊までやらなかったのか。当時アメリカ側にも日本軍の行動の予想をそこまで考えていた記録がある(拙著『GHQ焚書図書開封』参照)。山本のやったことは気紛(きまぐ)れで、衝動的で、不徹底であった。私が遺憾とするのはその点である。しかも太平洋を攪乱しておきながら「平和」を願っていたなどというのは噴飯ものである。

イギリスとは戦争になるかもしれない

 山本の失敗といえば、その後のミッドウェーやガダルカナルの惨敗もあり、私は彼を名将とも英雄とも考えることはできない。しかし、本稿は山本五十六論ではない。彼のようなアメリカ通にも当時の日本人がアメリカの出方を読むことはできなかったのが私の目を引くのである。短期決戦の「限定戦争」でできるだけ早期に講話にもちこむつもりで開戦したのがあの頃の大半の日本人の予測である。しかし日本人がそう思わざるを得ないような(迷わざるを得ないような)理由が当時の国際情勢にはそれなりにあった。日本人は昭和14年(1939年)くらいまで、アメリカが対日戦争に本気で踏み込んで来るとは思っていなかった。

 あるいはイギリスとは戦争になるかもしれない、と考えていた人は多かったであろう。アメリカとイギリスとは今とは違い、まったく別の国だった。イギリスのほうが超大国だった。日米間には貿易などの数量も大きく、アメリカが経済上の利益を捨てて、さして理由のない対日戦争(今考えても目的や意味の見出せない日米戦争)に敢えて踏み込むとは考え難(にく)かった。『日米もし戦わば』というような不気味な題名の書物が両国でもよく出版され、売れていたが、半ば面白半分であって、両国ともに「まさか・・・・本当に?」と疑わしい気持ちだったのが現実である。

つづく

シアターテレビ再放送

 『天皇と原爆』の元になったシアターテレビの『日本のダイナミズム』が次の日程で再放送されることになりました。本には入りきらなかった内容もあり、本とは違った理解もなされるでしょう。動画は活字とはまた異なるインパクトを与えると思います。ご期待ください。

#1 マルクス主義的歴史観の残骸

放送日 放送時間
8月6日 25:05
8月12日 18:30

#2 すり替わった善玉・悪玉説
8月6日 25:25
8月12日 18:50

#3 半藤一利『昭和史』の単純構造
8月6日 25:45
8月12日 19:10

#4 アメリカはなぜ日本と戦ったのか
8月6日 26:05
8月12日 19:30

#5 日本は「侵略」していない
8月6日 26:25
8月12日 19:50

#6 いい子ぶりっ子のアメリカの謎
8月8日 25:05
8月12日 20:10

#7 ヨーロッパの打算的合理性、アメリカの怪物的非合理性
8月8日 25:25
8月12日 20:30

#8 中国はそもそも国家ではなかった
8月8日 25:45
8月12日 20:50

#9 日本を徒に不幸にした「中国の保護者」アメリカ
8月8日 26:05
8月12日 21:10

#10 ソ連と未来の夢を共にできると信じたルーズベルト政権
8月8日 26:25
8月12日 21:30

#11 アメリカの突然変異
8月10日 25:05
8月12日 21:50

#12 アメリカの「闇の宗教」
8月10日 25:25
8月12日 22:10

#13 西部開拓の正当化とソ連との共同謀議
8月10日 25:45
8月12日 22:30

#14 第一次大戦直後に第二次たいせんの裁きのレールは敷かれていた
8月10日 26:05
8月12日 22:50

#15 歴史の肯定
8月10日 26:25
8月12日 23:10

#16 神のもとにある国・アメリカ
8月13日 25:05
8月19日 18:30

#17 じつは日本も「神の国」
8月13日 25:25
8月19日 18:50

#18 二つの「神の国」の衝突
8月13日 25:45
8月19日 19:10

#19 「国体」論の成立と展開
8月13日 26:05
8月19日 19:30

#20 世界史だった日本史
8月13日 26:25
8月19日 19:50

#21 「日本国改正憲法」前文私案
8月15日 25:05
8月19日 20:10

#22 仏教と儒教にからめ取られる神道
8月15日 25:25
8月19日 20:30

#23 仏像となった天照大御神
8月15日 25:45
8月19日 20:50

#24 皇室のへの恐怖と原爆投下
8月15日 26:05
8月19日 21:10

#25 神聖化された「膨張するアメリカ」
8月15日 26:25
8月19日 21:30

#26 和辻哲郎「アメリカの国民性」
8月17日 25:05
8月19日 21:50

#27 儒学から水戸光圀『大日本史』へ
8月17日 25:25
8月19日 22:10

#28 後期水戸学の確立
8月17日 25:45
8月19日 22:30

#29 ペリー来航と正氣の歌
8月17日 26:05
8月19日 22:50

#30 歴史の運命を知れ
8月17日 26:25
8月19日 23:10

坦々塾夏の納涼会(平成24年)

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 7月28日ホテルグランドヒル市ヶ谷で行なわれた坦々塾夏の納涼会の私のスピーチについて、メンバーの渡辺望さなんが感想を書いて下さいました。この日私はメンバーの皆様から喜寿のお祝いをしていたゞきました。厚くお礼申し上げます。

 7月28日、ホテルグランドヒル市ヶ谷白樺の間で、西尾先生の喜寿のお祝い、そのお祝いに坦々塾の納涼祭を兼ねた会が開かれました。参加された方で、「暑い」という言葉を朝から一度も言わなかった人はもしかして一人もいなかったのではないか、と思えるほど猛暑の一日でした。

 しかし、白樺の間に入り、会席の始まりとしておこなわれた先生の講演を聞いて、どの人も、汗を拭く手を次第次第にやめていくのが私にはよくみてとれました。そのことは別に、建物の中の冷房だとか、部屋の中の冷たい飲み物だとかのせいではありません。
 
 小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫版)の解説文で江藤淳は、「・・・ところで、この本の読者は、どのページを開いてみても、読むほどに、いつの間にかかつてないようなかたちで、精神が躍動しはじめるのを感じておどろくにちがいない。それは、いわば、ダンスの名人といっしょに踊っているような、あるいは一流の指揮者に指揮されてオーケストラの演奏をしているような体験である。これが自分のステップだろうか、自分のヴァイオリンがこんなに鳴るのだろうか、といぶかりつつも、いつになく軽やかに動く脚に快い驚きおどろきを感じ、いつもより深い音色を響かせる学器に耳を澄ませはじめる」と記しました。当日の西尾先生の言葉の流れから、私はその比喩を連想しました。
 
 西尾先生の言葉に耳を傾ける人もまた、知らず知らずのうちに西尾先生の言葉によって、考えさせられはじめている。江藤は音楽を比喩に出しましたが、音楽でなくてもよい、水の流れでも空気の流れでもよい、それに触れる人を思考に知らず知らずに誘うもの、そういうものです。そういう力をもっているものは、涼やかで風通しのよいものに他なりません。
 
 考えが優れて進むことは古来より「冴える」「冴ゆる」と表現されてきました。「冴える」「冴ゆる」とは、頭の中が涼やかになり、そして澄んでいき、さえ(冴え)渡っていくことを意味する。白樺の間に響く西尾先生の言葉は、どんな冷風や冷たい飲み物よりも涼やかなもの、聞いている人間を考えさせていくものでした。冴えさせられることによって、汗を拭く手のことをいつのまにか忘れてしまう。そのことが私には見て取れたのです。

 さて、三十分余りと、それほど長いものでなかった先生の講演は、「戦後から戦後を批判するレベルにとどまってはならない」と題されたものでした。これは刊行が迫っているご自身の著作『GHQ焚書図書開封第七巻』の内容紹介を兼ねてのものでしたが、その内容紹介については今回の報告では割愛させていただきます。

 まず先生は、日本人の戦後におけるアメリカ観の急速な崩壊が進んでいること、しかし崩れ行くアメリカ観の中で、新しいアメリカ観をなかなか確立できない日本人の精神的停滞を指摘されました。西尾先生はこの停滞の根幹に、保守派の守護神的存在である小林秀雄、福田恆存、竹山道雄の諸氏の歴史観の間違いがある、とお話をはじめられました。

 これはどういうことなのでしょうか。従来、保守派と左派の間に一線をおいて、両者を切断する捉え方が絶対的といっていいほど多数派であり、その保守派が依存してきたのが、小林たちの言説でした。たとえば西尾先生が引用されたように、小林秀雄が戦後繰り返し、「自分は(戦争を)反省しない」と言い切り、戦争の反省を強いる革新派知識人を軽蔑したことはよく知られています。そういう言葉を吐く小林の心情は「悲劇は反省できるものではない」ということにありました。先生は福田恆存の親米主義も例にあげられましたが、そのような精神的地点は、『ビルマの竪琴』を書くことによって、「悲劇は反省しえない」ということを宗教的心情に逸脱させた竹山道雄も同じということがいえるのではないかと私は思います。
 
 だからこそ、小林達の戦後保守派の史観と、左派史観には重要な共通点がある、と先生は言われます。つまり大東亜戦争というものを「避けるべきもの」だったというふうに考えていたということです。だから「悲劇」という表現を小林秀雄は使う。小林秀雄は、大東亜戦争に歴史的必然の意味を与えようとした親友・林房雄を揶揄しているというようなこともしていることを、今回の先生のお話ではじめて知りました。
 
 もちろん、小林秀雄たちは、戦後平和主義やマルクス主義派知識人とは本質的にはまったく違う。しかし彼らの歴史観に「何か」が足りないのです。その「何か」の不足のせいで、我々は今や、保守革新を問わず不自由に陥っている。その「何か」を把握することが、崩壊するアメリカ観や世界観に直面する私達に必要なのではないか。西尾先生の戦後保守派知識人への批判はここに始まります。西尾先生の批判を敷衍すれば、悲劇を安易に感受することは、歴史における思考停止を招きかねない、ということになるでしょう。

 では、「大東亜戦争は避けるべき悲劇だった」という戦後保守派と左派に共通するパラダイムから脱するヒントはどこにあるのでしょうか?
 
 西尾先生はそれを、戦時下において政府に積極的な協力を見せた知識人の何人かの言説から探し出そうとします。それがここ数年の西尾先生の思想的営為でもある。彼ら知識人は軽々しいオポチュニズムで政府や軍部の片棒を担いだのではない。世界史の流れにおいて、運命、使命、あるいは必然ということと真剣に格闘することによって、戦争を積極的に受け入れ担おうとしたのです。

 仲小路彰、大川周明、保田與重郎など先生があげられるこの方面の知識人はしかし、戦時下に協力したということによって、表現の世界から追放に等しい評価をされ、戦後の保守派からも傍流の扱いを受けつづけることになり、その仕事の多くは依然として埋もれたままになっています。しかし彼らの知的精神がもっている「自由」の幅は計り知れないものがある。

 この「自由」こそが今必要とされているのではないか、ということです。彼らはたかだか二十世紀の一事件として大東亜戦争を把握するのではなく、時間的・空間的に巨視的にそれを把握し、その意味付けをしていた。ゆえに、戦後世界的なアメリカ把握、ヨーロッパ把握、アジア把握から全く自由であったのです。

 先生のお話を聞かれた人の中には、たとえば、戦時下における西谷啓治や高坂正顕たち京都学派の世界秩序構築論の理論的作業の例がすでにあるではないか、といわれる方もいるかもしれません。これら京都学派の諸氏も、戦後、追放処分の憂き目をみた人物たちです。

 しかし京都学派の理論的作業は、近代やヨーロッパ文明を超克するといいながら、ヘーゲル主義その他、ヨーロッパ文明下の思想教科書を前提にした枠組みの中、それらの範囲でしか考えていないという物足りなさがあるといわねばならないように私には思います。学者的学者の限界、と言ったら酷でしょうか。いずれにしてもやはり京都学派の思想家たちも、「何か」が足りないように思われます。

 仲小路彰に関しては西尾先生の本格的な発堀まで、忘れさられていた存在でした。著作『太平洋侵略史』などに表されているその歴史観は地球全体と、近代以前からの時間を視点においた壮大なものでした。それは学者的学者の史観ではありえない巨視的なものです。

 また西尾先生が言われるように、「東京裁判の狂人」というイメージが戦後日本で一般的である大川周明に『日本二千六百年史』という堂々たる全体的歴史書があることは今の日本人にほとんど知られていない。大川もまた、専門分野にまったく拘束をされない非学者的知識人でした。大川の歴史観には面白い躓きもあり、彼は鎌倉時代の扱い方に苦労して失敗していると先生は指摘されました。優れた思想家には、その知的正直さがゆえに、興味深い躓きをするという逆説があるのです。

 この鎌倉時代こそは、戦後の左翼史観が巧みに悪用してきた時代です。左翼史観にしてみれば、この時代こそが反皇室の萌芽だからですね。平泉澄なども鎌倉時代に焦点をあてた歴史論を考えており、西尾先生にしてみると、大川の躓きをはじめとする、戦前と戦後における鎌倉時代・中世の問題ということに非常な関心がある、ということでした。
 
 「戦後」ということから自由であり、また「専門」ということからも自由であるこれらの知識人の知的精神が、現代の日本人の組み立て直しに資するに違いない、それが当日の西尾先生の講演の結論でした。

 西尾先生のお話が終わったあと、坦々塾会員である足立誠之さんが乾杯の音頭をとってくださいましたが、乾杯の音頭に際しての足立さんのスピーチもまたたいへん歯切れのよい記憶に残るものでした。

 足立さんはかつて北米大陸に長く滞在されお仕事をされいた経歴をお持ちの方です。つまり、アメリカという国の本当のすさまじさというものを、実感として知られている。足立さんがいわれるには、戦時下の特攻隊員の中には、アメリカという国は決して蔑ろにするべき対象でもないし、もちろん甘い幻想を抱く対象でもない、日本という国を根絶やしにするおそろしい国なのだ、だから自分はそのアメリカと戦う、と言い残していった若者もいた。この足立さんの言葉は、実は戦前戦中の日本人の中には、仲小路や大川のように、巨視的な意味で日米戦争をとらえていた人物が知識人以外の層にもきちんといたのだ、ということを意味しています。

 私は、足立さんのお話から、ローマの歴史家タキトウスの「戦争は、悲惨なる平和よりよし」という言葉を思い出しました。あるいは哲学者カントは、自身の平和論の中で、「お墓が一番平和なのだ」と実に見事な皮肉をいいました。戦後日本人の多くは(よほどの共産党系知識人を除いて)ソビエトの衛星国になった東欧諸国の「悲惨な平和」をみて、日本の戦後を「幸福な平和」の国と考えていた。しかし、日本の戦後もまた、見えにくい形で「悲惨な平和」が進行しているのではないか。あるいは「お墓の平和」に近づいているのかもしれない。西尾先生は講演の中で、「ソフト・ファシズム」ということを言われましたが、「ソフト」というのは、見えにくく、見えにくいがゆえに、抵抗がむずかしい分、「ハード・ファシズム」よりも遥かにおそろしいのです。 
 
 アメリカの巧みな、しかも長い時間をかけた戦後の対日解体戦略の中で、先日の大津いじめ事件に見られるような日本人の骨抜きが進んでいると足立さんは当日のスピーチの中で嘆かれました。それで思い出したのですが、私は何年か以前に、足立さんが坦々塾で「ガラスの中の蟻」という題名でされたお話の内容が、たいへん強く印象に残っています。

 北米大陸でも子供の「いじめ」はたくさんある。しかし親はいじめられた自分の子供たちをすぐに手助けするのではなく、「戦いなさい」と返すのだ、と足立さんはそのときに語られました。日本人は、そうした日常レベルから、アメリカ人のそうした生き方にかなわないように腑抜けにされてしまっている。そのことがどれだけ深刻なことなのか日本人はわからない。それが足立さんのお話の主張だったと記憶しております。「戦い」の気持ちを抱く人間はもはや少なく、あるいは「戦い」を決意しても、共感や共闘をしてくれる人間がますます少ない、というのが日本の現状なのでしょう。日常の「いじめ」に対して戦えない人間が、国際政治で戦えるはずはないのです。

 「だからこそ」と足立さんは当日のスピーチで強調されました。「この厳しく、ある意味で情けない日本の現状で、本当のことをいい、真剣に思索と戦いを演じられる知識人は西尾先生以外にいない」ということ、そのためにも、「西尾先生にいつまでも頑張ってもらいたい、心身ともに健康でいていただきたい」足立さんはスピーチをそう締めくくられて、乾杯の音頭をとられました。

 和やかな会の進行の中で、西尾先生の喜寿のお祝いに、日本でただ一つだけの「清酒・西尾幹二」を先生に手渡され、先生もたいへんに喜ばれ寛がれていらっしゃいました。坦々塾にはじめて参加される方も何人かいましたが、二次会に至るまで、先生との会話を楽しまれ、「冴え」の気分と「戦い」の精神の坦々塾の雰囲気を存分に吸収されたように思われました。

文:渡辺 望