戦前の日本人が見抜いた中国の本質
目次
第一章 シナの国民性あれこれ(1)
第二章 シナの国民性あれこれ(2)
第三章 シナ軍閥の徴税・徴兵・略奪
第四章 シナ政治の裏を描くほんとうの歴史
第五章 大正年間のシナ――民衆の生活様々
第六章 今日の反日の原点を見る――蒋介石時代の排日
第七章 歴史を動かしたのは「民族」ではないか
第八章 移住と同化 シナ人の侵略の仕方
第九章 満州事変前の漢民族の満洲侵略
第十章 いかに満人は消去され、蒙古人は放逐され、朝鮮人は搾取されたか
第十一章 支那事変――漢民族が仕掛けてきた民族戦争
付論 戦後ある翻訳書に加筆された「南京」創作の一証拠
あとがき
文献一覧
あとがき
本書は長野朗(1888-1975)のいわば特集号である。といっても、『支那の眞相』(昭和5年/1930年)、『民族戦』(昭和16年/1941年)、『支那三十年』(昭和17年/1942年)のわずか三冊に光を当てたにとどまる。事実の衝撃性と分析の鮮烈性ゆえにもっぱら後の二書に焦点を絞って、本書ではできるだけ多くの彼の文章を提示したいと考えた。
どのページも目を奪う驚くような事実指摘に溢れているが、わけても本書の第九章「満州事変前の漢民族の満洲侵略」は現代の東アジアの情勢を予言していて、本書制作の途中で私は深く考え込まされてしまった。
満州事変はいまなお続いているし、これからも起こり得ると読めるのである。満州事変といえば日本があの地域の混乱を力づくで解決しようとした出来事と解されているが、長野朗はそういう見方をしていない。満洲の地にしたたかなパワーをもって侵入したのは漢民族(シナ人)であった。このことを彼は最重要視している。しかも清王朝の時代に大勢は決していたという。蒙古人、朝鮮人、ロシア人、日本人が入ってくる前に、彼らは白アリが建物の土台を食い尽くすように満洲の大地に入り込み、住みつき、事実上そこを支配していた。彼らは生存するためには何でもする生命力を持っていて、利己的で、愛国心などひとかけらもないが、不思議な集合意思を持っていた。
ロシアが鉄道でカネを落とせばそれで肥り、日本が産業近代化を進めれば利益の大半は自分たちに落ち、やがてできあがった成果は横取りできると最初から踏んでいる。満洲人、蒙古人、朝鮮人はいじめ抜き迫害し搾取する対象でしかない。漢民族(シナ人)と他の民族とでは頭数が桁外れに違いすぎる。マンパワーは恐ろしい。満州事変はこの彼らの民族主義と日本の民族主義とが衝突した事件と長野朗は考えている。支那という国家の意思が発動されて衝突したのではなく、白アリ軍団の集合意思が外にはみ出し、摩擦を重ね、やがて日本と衝突したのである。
漢民族にとって満洲は東方である。今なお日本も彼らから見れば東方にある。同じである。膨張し拡大する白アリ軍団の進出には理窟も何もない。いわば盲目の意思があるのみである。満州事変はまだ終わっていない。まだまだ続くし、これから違った形で勃発する可能性があるというのが長野の予言に違いない、と私は読みながらしきりに考え、恐怖を覚えた。
当時の日本人は支那は独力では近代統一国家にはなれないと見ていた。日本の協力なしでは治安もままならないし、貨幣経済ひとつ思うに任せない。日本人は「上からの目線」で大陸を見ていた。しかし1911年から三十年間この土地を自分の足で歩き、つぶさに現実に接していた長野朗は、一貫して「下からの目線」で日本と支那の関係を見ていた。日本の軍人や指導階級とは異なる見方が自ずと確立されていた。長野は愛国者だが、祖国に幻想を持たない。はっきりは言っていないが、日本の大陸政策には知恵がなく、白アリ軍団を統御できずに、バカを見る結果になるだろうと考えていた節がある。昭和16年~17年の時点でこのような内容の本の刊行が許されていたわが国出版界の懐の深さ、あるいはわが国軍事体制のある種のしまりのない暢気(のんき)さが偲ばれる一件である。
『GHQ焚書図書開封5』の第八章、第九章は長野朗『日本と支那の諸問題』(昭和四年/1929年)を、また第十一章は「世界知識」という当時の雑誌の増刊号(昭和7年)に収められた長野の一論文「満蒙今後の新政権」をとり上げていることに、あらためて注意を促したい。したがって本書は二度目の扱いであり、内容的にはある程度重なっている。ただ、本書との兼ね合いで読者に新しい観点を与えるのは論文「満蒙今後の新政権」のほうである。これはたった今述べた、軍人や指導階級とは異なる満洲への長野の思い入れ、日本の政策への不安がさながら彼の溜息のように聞こえる、人間長野の心の奥深さを垣間見せてくれる論考である。ぜひこれも併読していただきたい。
長野朗は陸軍士官学校の出身で、石原莞爾と同期であった。陸軍大尉で中国の地に派遣され、いわゆる国民革命軍の動向、民衆の抗日行動を現地で観察した。中国問題の研究に専念するために1921年に軍を辞め、共同通信や国民新聞の嘱託になったり、『中央公論』や『改造』に寄稿したりした。大川周明らと交わり、猶存社、行地社に加盟した。しかし路線の相違に気づき、ここを離れ、農村運動に打ち込むようになった。1938年(昭和13年)に大陸の戦場を視察し、シナ人避難民の悲惨さを見て心を痛めたと伝えられる。彼の思想上の立脚点は農本主義で、国家主義とは異なる道を歩んだ。のちに農本連盟、自治農民協議会を組織した。彼は戦後もずっと活動をつづけ、昭和28年に全国郷村会議委員長になった。1975年(昭和50年)に87歳で没した。
伝記的事実については以上の略史を伝え得るのみで、私は多く知る者ではない。
(後略)