「GHQ焚書図書開封 10」の感想

ゲストエッセイ
 河内隆彌:坦々塾会員、小石川高校時代の旧友 元銀行員
 『超大国の自殺』パトリックブキャナンの翻訳者
zenbukyanan.jpg

 遅ればせながら、「GHQ焚書図書開封10-地球侵略の主役イギリス」拝読いたしました。毎度のことなのですが、今回は、自身でいささか生活に触れましたインドも大きく取りあげられ、大変興味深く読ませていただきました。

 イギリスの搾取と分割支配の爪痕は小生在勤中のカルカッタ(現コルコタ)の街なかのいたるところに刻み込まれていました。19世紀の中ごろまで、中国、インドのGDPが当時の欧米各国のそれを大幅に上回っていたことの知識はありましたが、たとえばインドの識字率がかつて60%だったことなどには目から鱗の落ちる思いでした。

 小生はいつぞや貴兄に、インドはイギリスによって外側から統一された、と申し上げました。しかし、それはインドがバラバラの国だった、という趣旨とは少々違います。かつて南アジア、印度亜大陸に一つまとまった、ムガール帝国ほか藩王国から成る小宇宙があったことには間違いありません。ただそれは「一つの(いまで言う国家の)主権」のもとにあったわけではなく、たとえばヨーロッパを一つの小宇宙として見たときと同じようなものと言うことができましょう。いずれにせよ、ほかの各国と同じように、インドを一つの国(a nation)として片づけてしまうとちょっと理解が行き届かなくなるのではないか、という気がするのです。インドは連邦制で、29州(一番新しい州はなんと昨年、州として独立したテラン・ガーナー州)と7直轄地域で構成されています。一番人口の多い州はウッタラ・プラデーシュ州で、1億9900万。1億以上の州には、ビハール、マハラシュトラ州があり、5000万以上の州も七つほどあります。言葉の面で見れば、連邦憲法上の公用語はヒンドゥー語、准公用語は英語ですが、各州が認める州公用語は22言語です。また紙幣(インド準備銀行発券)には単位ルピーを示す言葉が17言語で記されています(中国とは異なって、各言語は「字」も違います)。というと驚く人も多いのですが、インドの面積はEU圏の72%、人口はEU5億に対する12億、インドの大きな州はヨーロッパ各国、ドイツ82(単位百万、以下同じ)、フランス、イギリス62、イタリア60、スペイン46よりずっと大きい、また言葉にしてもヨーロッパには英語、仏語、独語、イタリア語、スペイン語などがあるので、インドの事情をこう説明すると納得していただけます。小生はやや言葉足らずで、インドは統一国家ではない、などと申し上げましたが、国際的に、連邦制国家インドはむろん統一主権を持ったひとつの国家です。

 英国は海からやってきて、この小宇宙を、ご著書が示される奸智と策謀を駆使して一つの植民地にまとめました。そして英国が去った後、インドはそのままの形(パキスタンとそこから独立したバングラデシュ、スリランカとなったセイロン、ネパールなどは分離したが・・)で独立国となりました。この広大な地域は、むしろ統一国家であることの方が不思議で、歴代政権の国家運営の努力は並大抵のものではないように思われます。印パ(ヒンズー教対イスラム教)紛争、バングラデシュ独立、スリランカにおけるシンハリ人、タミル人の確執などなど、深刻なトラブルがかつてあり、現在進行形のものがあるにせよ、インドが世界最大の民主主義国家としてまずまずの成長を続けている点は大いに評価されましょう。

 イギリスは植民地時代にも分割統治、宗教対立、民族対立を煽りましたが、去るにあたっても紛争のタネを蒔き続け、現在の印パ核兵器保持競争にもつながっています。日本人にとっての近現代史における句読点は、たぶん「明治維新」と「敗戦」だと思うのですが、インド人にとっては「the Mutiny(反乱)」と「the Partition(分離)」である、とインド人から聞いたことがあります。前者は1857年のいわゆる「セポイの反乱」であり、後者はイギリスの置き土産である、1947年の血を血で洗うような「インド・パキスタンの分離」でいずれの事件にも深くイギリスが絡んでいます。

 ご著書、日英同盟の項にある1915年、シンガポールにおけるインド兵の反乱を帝国海軍がイギリスの要請によって鎮圧した、という話、Colin Smith “Singapore Burning”の冒頭の章に結構詳しく載っているんです。インド兵の反乱を煽ったのは、シンガポールで捕虜となっていたドイツの軽巡洋艦エムデンの乗組員ほかドイツ人捕虜たちでした。駐屯していたイギリスの正規兵が欧州、中東戦線に出払ってしまったあと、イスラム教徒主体のインド兵に捕虜の監視をさせていたところ、インド兵がドイツの友邦トルコに好感を持っていることにドイツ人が気づき、君たちはトルコ人と戦うことになる(すなわちマホメットを敵にすることになる)と裏切りを使嗾したのが事の発端だったようです。

 このシリーズで戦前の立論に直接触れられることは本当に貴重です。ご著書「あとがき」にあるように、それらは「今かえって非常に鮮明に感じられ」ます。ソ連崩壊後、冷戦時代に見えなかったもの、本質的に隠されていたものが見えてきたせいでしょうか?こちらが馬齢を加えたため既視感が積み重なってきたせいでしょうか?「歴史」が「いま」と交錯する局面が本当に多くなった様に思われます。今後とも焚書図書のご紹介をよろしく。

 昨今の話題、映画「ザ・インタビュー」、仏週刊誌「シャルリー・エブド」などの下品なdefamationのプロパガンダを、「言論の自由、表現の自由」の名のもとに徹底して擁護する欧米の姿勢に改めて白人の傲慢さを垣間見ます。このところ欧米の首脳は、同性婚問題でソチ五輪をボイコットしたり、「私はシャルリー」とパリに相集ったり(オバマは行かなかったことで非難を浴びているようですが・・)何かつまらぬこと?に熱心で、どこかヘンですね。まがまがしさを感じています。以上ご著書拝読感想まで、乱文お赦しください。

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(四)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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宮崎正弘氏の書評

西尾幹二『GHQ焚書図書開封9 アメリカからの宣戦布告』(徳間書店)
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 このシリーズ、はやくも第九巻である。初巻から愛読してきた評者としては一種の感慨がある。今回、焦点が当てられるのは、GHQがまっさきに没収した『大東亜戦争調査会』叢書である。

 これが日本国民に広く読まれるとまずい、アメリカにとって不都合なことが山のようにかかれていて、戦争犯罪がどちらか、正義がどちらにあるかが判然となるので焚書扱いしたのだ。

 ところが、GHQ史観にたって戦後、アメリカの御用学者のような、歴史をねじ曲げた解釈が横行し、いまもその先頭に立って占領軍史観を代弁しているのが半藤一利、北岡伸一、加藤陽子らである、と西尾氏は言う。かれらの主張は『語るに値しない』と断言されている。

 当時のシナは「内乱」状態であり、さらにいえば「いまの中国だって、内乱状態にあるといっても言い過ぎではありません。

1960-70年代の毛沢東の文化大革命だって内乱のうちに入ります。ところが戦後に書かれた日本の歴史書は中国をまともな国家として扱っています。

中国を主権をもったひとつの国家であるがごとく扱っています。しかしシナとはそんなところではなかった。日本はなんとかしてシナを普通の国にしようと努力した」というのが歴史の真相に近いのである。

 アメリカは端から日本に戦争をしかける気で石油禁輸、在米資産凍結、パナマ運河通行禁止などと戦争とは変わらない措置を講じた。ルーズベルト大統領が狂っていたからだ。だから「悪魔的であった」と『大東亜戦争調査会』の叢書は書いた。

 同書には次の記述がある。
 「通商条約は破棄され、日米関係は無条約状態に入ったとはいえ、外交交渉は引き続き継続されていたのである。その最中において、かくも悪辣きわまる圧迫手段を実行した米国の非礼と残虐性とは、天人ともに許されざるところである」
と。

 けっきょく、アメリカの悪逆なる政治宣伝と強引な禁輸政策によって日本は立ち上がらざるを得ないところまで追い込まれた。日本は自衛のために、そしてアジア解放のために立った。

 だからアジア解放史観を絶対に認めないアメリカは、その「宿痾」に陥った。しかし「アメリカがこれを認める日がこない限り、真の意味での、すなわち両国対等の『日米同盟』は成立しない」のである。

 いま、世界中で反日プロパガンダを展開しているのは中国と韓国だが、『正しい歴史』をもってアメリカ人を説得するために、国家を挙げて日本はお金を使えと西尾氏は提言される。

 つまり「国家を挙げて外交戦略とプロパガンダを繰り広げること。いいかえれば、外務省が『戦う外務省』となること、それが必要です。これを措いては、中韓の反日宣伝に対抗する方法はない」

 事態はそこまできた。日本の主張を声高に正々堂々と世界に発信する必要があり、外務省はそのために粉骨砕身努力せよ!
         

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(三)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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アマゾンレビューより

By 真実真理

 本書は、日本を苦しめることになる1922年の9カ国条約の成立、ワシントン体制以後の史実を、第1部において、米英の東亜攪乱(毎日新聞社、昭和18年9月)、満州の過去と将来(長野朗 昭和6年10月)を参照し、第2部において、米英挑戦の真相(毎日新聞社、昭和18年6月)、米国の世界侵略(同、5月)を引用して、著者が解説した本である。

 日本は、日清戦争後のロシアの満州への領土拡張に自国防衛の危機を感じ、満州及び朝鮮からロシアを排斥する日露戦争を戦い勝利した。日本は、1905年のポーツマス講和条約により、南満州(関東州)、南満州鉄道及びその付属地に対する権益を得た。

 元来、満州は、清王朝を建国した満州民族の土地であり、清朝時代には行政権は及ばず、漢民族は万里の長城を超えて満州に入ることが禁止されていた(封禁の地)。1911年の辛亥革命により清朝が崩壊し、支那本土及び満州、内モンゴルは、各地で匪賊、軍属が支配し政府のない混沌とした状態であった。

 資源や生産物がなく、人口過剰の日本は、生命線を求めて、この満州に投資を拡大させた。1930年における投資比率は、日本70%、ソ連26%、米国1%、英国1%であった。また、1928~30年に掛けて、世界恐慌による米国の日本からの輸入品排斥のための高関税(ホーリースムート法)の実施、英国領への輸入禁止(ブロック経済)により、ブロックを持たない日本は、生きて行くため満州への投資を拡大させざるを得なかった。

 この間、1917年に、米国は満州及び内モンゴルにおける日本の特殊権益を認めるという石井-ランシング協定が米国との間で成立した。しかし、国際連盟に加入しなかった米国は、1921~22年に、日本を抑圧し、自らの海軍力を増強し要塞の整備のために、ワシントン会議を主催した。

 この会議において、米国は、満州における権益獲得のため、石井-ランシング協定を破棄し日英同盟を破棄させ、支那における機会均等、門戸開放、主権尊重を提唱する9カ国条約を成立させた(ワシントン体制)。

 しかし、このワシントン体制は、満州における権益の獲得を目指す米国が支那に加担し、これが支那を増長させ支那を条約無視(革命外交)に走らせた。これにより、ワシントン体制は1927年頃には崩壊して行くことになる。

満州は、日本人による満州鉄道及び付属地の発展、工業化により豊かになると、混乱の極みにある支那本土から豊かで平和な生活を求めて多くの漢民族が流入してきた。それにより漢民族が繁栄すると、漢民族は、満州人、蒙古人、朝鮮人、日本人を排斥し、多くの反日運動、匪賊による暴動が、支那及び満州において頻発した(この時の支那の事情は、満州事変と重光駐華公使報告書に詳しい)。

 このような混乱の中、1931年9月18日に、満州の安寧を目的として満州事変が起こるべくして起こった。その後、満州に、政治行政を至らしめるため、1932年に、5民族の共和による満州国が建国された(この時の日本人の情熱を持った公正な国造りは、見果てぬ夢 満州国外史 星野直樹 ダイヤモンド社に詳しい。)。

 この日本の行為に対して国際連盟は、リットン調査団(米国は連盟加盟国でないにもかかわらず団員が任命されている)を派遣して、満州事情を調査させた。

 報告書によると、満州は特殊な土地であり、単に日本が侵略占領したという単純な問題ではない、満州の事情に精通した者のみが適正な判断をする資格を有するとしているが、満州を国際連盟による管理とすることを結論とした。

 これに対して、日本の松岡全権は、「匪賊や不逞漢の跳梁するこの国を連盟管理で治安が維持できるとすることは、事情を熟知している日本から見ると荒唐無稽であり、有り得ないことである。人類は2000年前にナザレのイエスを十字架に懸けたが、今ではそれを後悔し世界はイエスを理解している。諸君は日本の行為を誤解し、日本をイエスと同じく十字架に懸けようとしているが、いずれ後悔し日本の行為は理解される日が来るであろう。」という各国代表に強い感銘を与えた有名な十字架演説を連盟総会で行っている。

 1937年7月7日に、支那側の挑発により支那事変が勃発したが、連盟を主導する英国は、非同盟国の米国を引きづり込むため、9カ国条約会議を開催し、日本を9ケ国条約違反として断罪するつもりであった。

 しかし、日本は、支那事変は支那側の挑発に対する自衛行動であるので、9ケ国条約の範囲外である、解決の要諦は支那が自粛自省し、日本との提携政策に転向することである、支那の事情を知らない東亜に関係の薄い諸国が会議において解決を図るのは却って有害であると、会議への参加を拒絶した。英国は米国ばかりでなくソ連も利用して日本を抑圧しようとしたが、英国と支那の連盟工作は実質上失敗に終わった、とある。

 また、本書第2部においては、米国の対日経済圧迫、対日石油圧迫、経済封鎖、資産封鎖、国際連盟の名を借りた英米の世界制覇、世界の1/3を占めた覇権国家・英米への日本の正当なる反逆について記述されている。

米国は、1939年7月26日、30年間、友好親善の礎となってきた日米通商条約の破棄を、突然、一方的に日本に通告した。これは、日本への輸出を自由に禁止できるようにするためであった。

 以後、米国は、1941年8月1日に石油の全面輸出禁止に至るまで、航空機燃料、機械、屑鉄、非鉄金属などほぼ全ての材料、商品につき、漸次、日本への輸出を禁止した。この間、米国は、自国からの輸出だけでなく、フィリピン、南米から日本への輸出を禁止させ、英国、オランダに対して東南アジアから日本へのゴム、錫などの資源の輸出を禁止させ、米の輸出を妨害した。また、米国は、日本とオランダとの石油輸入交渉を妨害し、オランダ領インドネシアからの石油の輸出を禁止させ、日本船のパナマ運河の通行を禁止した。また、支那及び米国本土において、日本製品を排斥し、第2次上海事変(1937年8月)でのプロパガンダ写真を流布するなど、反日世論の形成に手段を選ばなかった。航空機及びその部品の日本への輸出禁止は、通商条約破棄前に既に行われていた。

 遂に、米国は、1941年7月25日に在米日本資産を完全に凍結し日本の商業活動を完全に停止させ、8月1日には全面対日石油輸出禁止に踏み切きる一方、中立法を改正し武器貸与法を成立させ、資金、武器、軍人などの蒋介石への援助を増大させ、南京から日本本土への空爆を立案している(予備役、退役米軍人フライングタイガーの南京への派兵、ルーズベルトは出撃同意書に署名している)。

 このとき、米国は、日本を窒息させる政策を行えば、日本を容易に屈伏させることができると考えていた。これにより、日本は、戦力と経済力が日々低下する中、否応なしに屈伏か、決起かの決断を強要されたとある。

 最後に、経済封鎖について、次のように記述している。
 平時封鎖は、戦闘が行われていないにも係わらず、強国がその専横を欲しいままにするため牽強付会の理屈を付けて弱国を虐げる用具としたもので、本質上敵性を有していることは議論の余地がない。したがって、被封鎖国は、当然に、これを何時でも戦争原因と見做し得るのである。
 逆に、弱小国が強国の港湾を単に封鎖しただけでも、強国は、直ちに、戦争を開始するのは必定である。
 このような我が儘な慣行は、建設されるべき世界秩序において容認できない。現実に即して考えれば、かくのごとき圧迫手段のために苦痛を蒙るものは、持たざる国とその国民のみである。
 豊富な資源と強力な海軍力を有するアングロサクソンは、この種の圧迫に対して何ら痛痒をも感じることはない。

 経済封鎖は、米英が自己保持のため、帝国主義的進出のために、仮借なき経済戦争を極力普及させて、世界制覇の夢を実現する手段とするものである。
 係る利己的制度は、国際連盟そのものと共に、新秩序下においてはこれを解消せしむべきこと勿論である。と記載している。

米国が連盟加盟国と結託して、日本を完全に経済封鎖し、外国から資源、材料が日本に完全に輸入されなくなったことが戦争の原因であるとする。

 本書に記載された米英の日本への軍事、経済圧迫は、東條英機の宣誓供述書の内容と完全に一致する。

 本書は、歴史の真実を追究し、日本の自虐史観を改めるに必須の書籍である。戦後、日本は一方的に侵略戦争を仕掛けて、アジアに迷惑を掛けてきたと教育され、それを疑わないできた日本人、特に、政治家、評論家、ジャーナリスト、学者などは、本シリーズ第5巻~8巻を合わせて、必読すべきである。
 多くの日本人が是非とも読まれることを薦める。

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(二)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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アメリカは、どのように「対日宣戦布告」をしたのか?, 2014/3/25

By閑居人

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) (単行本)

「GHQ焚書図書開封」も九巻目を迎えた。日本人が二度と「白人」と「キリスト教文明」に立ち向かわないために、GHQが秘密裏に行った「日本人からの歴史の簒奪」は、本シリーズでの開示によって、隠されていた真実が静かに読者に浸透していきつつある。

本巻では、前巻に引き続き、「日米百年戦争」の一環として「ワシントン会議から始まる英米主導の第一次大戦後の国際関係の中で起きた様々な出来事」が主題とされる。「ワシントン体制と満州事変、満州国成立と国際連盟脱退、支那事変とその拡大、そして日米開戦に至るプロセス」が語られていく。
著者は、全体を二つに分け、前半では歴史的事件の概略を紹介する。後半では、昭和十八年に毎日新聞から公刊された「大東亜戦争調査會篇」叢書をもとに、アメリカが計画的に日本を追い詰め、「経済戦争」に踏み切ることによって、日本が軍事的に「先制攻撃」を仕掛けざるをえないところに、《いかに巧妙に、そしていかに執拗に》追い込んでいったかを語ろうとする。
「戦後われわれの視野から隠されてきた(或いは日本人が忘れようとして眼を塞いできた)、我が国が開戦せざるを得なかったあのときの国際情勢、気が狂ったようなアメリカの暴戻と戦争挑発、ぎりぎりまで忍耐しながらも国家の尊厳をそこまで踏みにじられては起つ以外になかった我が国の血を吐く思い」(本書まえがき)が、この「大東亜戦争調査會篇『米英挑戦の真相』」に、具体的に、冷静な筆致で描かれている。
解説を交えて、このことを語ろうとする著者の口調も冷静そのものである。それは、恐らく、著者が、「大東亜戦争の真実」について、公正で、深い洞察に充ち満ちた分析と考察を残した「大東亜戦争調査會」への敬意を禁じ得ないからだろうと思われる。

本シリーズの「第一巻」で、著者は、GHQが秘密裏に没収した「連合国軍総司令指令『没収指定図書総目録』」の存在とGHQの動機を解明している。
GHQが行っていた「検閲」については、江藤淳の一連の著作によって知られていたが、没収された図書については、つい最近まで着目されなかった。著者は、十数年前にこの事実に気づき、また、既に千数百点収集していた水島聡氏に勧められて本シリーズの刊行を決意した。
(参考までに言えば、隔月刊行雑誌「歴史通」2013,5は、七千冊以上の没収本のうち六千冊を、鎌倉の自宅の書庫に集めた澤瀧氏をグラビアと関連記事で紹介している。)
著者が書くように、この「没収図書の選定」に、法学界の長老牧野英一(刑法)、若き東大助教授尾高邦雄(社会学)、金子武蔵(哲学・倫理学) が関与していた事実は衝撃的なことだった。なぜなら、本シリーズを読めば理解できる通り、没収された書物は、いずれも当時の日本人の観察力の高さと知性と洞察力を証明するものであるからである。いわば「日本人の誇りと存在証明」というべきものを抹殺することが何を意味するか、「分からなかった」とは口が裂けても言えないことであるからである。
著者も触れているが、最近、渡辺惣樹氏が丁寧な解題をつけて翻訳した「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」(米国陸軍戦略研究所、ジェフリー・レコード)は、戦前のアメリカ政治の正当性を擁護する「歴史正統派の論理」で、「経済戦争を仕掛けたアメリカは真珠湾以前に実質的に宣戦布告をしたも同然だ」という「歴史修正派」と同じ結論を述べている。「修正派」はアメリカでは少数派であるが、戦前の日本の主張とほぼ同様の考察を示している。こういったことは注目すべきことだ。

本書は、「GHQに没収された図書」を通して「日本を取り戻そうとする試み」の一環である、と捉えることもできるだろう。

「戦中の日本人は戦後のアメリカの世界政策を知り尽くしていた」(GHQ焚書図書開封、第125回)

 4月13日の慰安婦問題への私の意見陳述に対し、今日までに多数のコメントを寄せて下さりありがとうございました。すべて丁寧に拝読し、学ぶ処多いことを発見しました。その中に英訳文がほしい、英訳があればアメリカで戦うのに役に立つ、というコメントがありましたので、ある方の協力を得て、急遽英文も提示することができました。

 あの戦争について戦後に書かれたすべての文章は、どんなに自国思いの文章、当時の日本を主張している文章でも、私の見るところ半分はアメリカの立場をとり入れて書かれています。日本は自分を閉ざしていて余りに愚かで、アメリカ文明の秀れた特徴が見えていなくて判断を間違えたのだ、と。

 そうではないのです。日本は戦後のアメリカの政策、NATOも日米安保の成立の可能性もある意味で見抜いていました。すべて運命を知っていて、それでも戦わざるを得なかったのです。それほどアメリカ(ルーズベルト)は理不尽で、道理を超えていました。日本人はこのことが今でもまだ分っていません。

 そのことをみなさんに知ってもらいたく、「GHQ焚書図書開封」第125回(4月24日放映)の「戦中の日本人は戦後のアメリカの世界政策を知り尽くしていた」(日本人が戦った白人の選民思想)をお届けします。1時間かかりますが、しっかり見て下さい。

『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(二)

宮崎正弘さんの書評より

 現代日本はなにを甘っちょろいシナ観察をして敵性国家を誤断しているのか
  戦前の長野朗は、国益の視点、鋭敏な問題意識と稀な慧眼でシナを裁断していた
  ♪

西尾幹二『GHQ焚書図書開封7
 戦前の日本人が見抜いた中国の本質』(徳間書店)
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 戦前の陸軍には「シナ通」が沢山いたが、大方は軍のプリズムがあるため観察眼がねじれ歪んでいた。「シナ通」は現代日本のマスコミ用語でいえば「中国学者」か。

 これという快心の中国分析は戦争中も少なかった。満鉄調査部のそれはデータに優れ、しかし大局的戦略性におとり、誤断の元にも成りかねなかった。そもそも草柳大蔵の『満鉄調査部』を読めば分かるが、かのシンクタンクには社会主義者が多数混入していた。
 
 当時、あれほどの日本人がシナの各地にありながら、中国を冷静かつ冷酷に客観的にみていたのは長野朗、大川周明、内田良平ら少数の学者、インテリ、ジャーナリストだけであった。
 
 芥川龍之介の江南旅行記(『上海遊記』『江南遊記』(講談社学術文庫))もじつに面白いが、上海から南京までを駆けめぐった、地域限定であり、滞在も短く、しょせんは現象的観察という側面が否めない。しかし芥川の観察眼は作家の目であり、鋭い描写力があった。

 さて本シリーズは七冊目。

 いよいよこうなると全体で何冊になるのか、想像もつくようになるが、本巻はほぼ全巻が戦前の中国観察の第一人者、長野朗のシナ分析につきる。付け足しに内田良平があるが、本巻ではほぼ付録的である。

 長野の著作は膨大で合計二十作品もあって、ほぼ全てが焚書図書となり、戦後古本屋からも消えた。好事家か、個人蔵書しかなく、それも戦後67年も経てば長野朗の名前を知っている人は中国特派員のなかにさえ稀である。

 評者は、ところで長野の著作を一冊保有しており、それも某大学図書館にあったもののコピィである。もっと言えば、それがあまりにも面白いので、某出版社に復刻を推奨したら、編集者の手元へ移り、そのまま五年か六年が経ってしまった。それが『シナの真相』、しかもこの本だけは焚書にならなかった。だから某大学図書館にあったのである。

 というわけで、このシリーズで西尾さんがほかの参冊をさっと読まれて重要部分を抜粋された。
まずは『シナの真相』のなかに長野朗が曰く。

 「かの利害打算に明らかなシナ人も、ときに非常に熱してくる性質も持っている。シナ人の民衆運動で野外の演説等をやっているのを見ると、演説して居る間にすっかり興奮し、自分の言っていることに自分が熟してくる。その状態はとても日本人等には見られない所である。彼らは興奮してくると、血書をしたり、果ては河に飛び込んだりするのがある。交渉をやっていても、話が順調に進んだかと思っている時に、なにか一寸した言葉で興奮して、折角纏まりかけたのがダメになることがある。シナ人の熱情は高まり易いが又冷めやすいから、シナ人は之を『五分間の熱情』と呼び、排日運動等のときには、五分間熱情ではいけない。この熱情を持続せよといったようなことを盛んに激励したものである」。

 ▼「シナ人の五分間の熱情」と「気死」

 この文言をうけとめて西尾氏は、

 「思い当たる節があります。日本にきている中国人のものの言い方を見ていると、口から泡を吹いているようですね」と指摘されている。

 つい先日の尖閣問題でも、「五分間の熱情」でデモ行進をやり、「日本人を皆殺しにせよ」(殺光)と横断幕に掲げ、シナ人の所有する「日本車」を打ち壊し、シナ人が経営する「日本料理店」を破壊し、シナ人が経営するラーメンやのガラスを割った。

 そして、「五分間の熱情」は、かの尖閣へ上陸した香港の活動家らの凶暴な風貌、掴まっても演説をつづける興奮気味のパフォーマンスに象徴される。以前の尖閣上陸のおりは、海に飛び込んで死んだ反日活動家もいた。

 この自己制御できない熱情を長野朗は「気死」と定義し、次のように言った。

 「日本人は憤って夢中になるくらいのことはあるが死にはしない。シナ人の興奮性から見れば、或いはその極心臓麻痺くらい起こして死んだかもしれない」

 西尾氏は、これを『愛国無罪』とひっかけて興奮する中国製デモの興奮的熱情に見いだし、「日本レストランを襲撃したり、日本大使館に投石したり、やることが非常にヒステリックです。尖閣諸島の騒ぎの時も同じでした。国中が湧きたって、それこそ『気死』していましそうになる。じつに厄介な隣人たちです」
と指摘される。

 また長野朗は『支那の真相』のなかで、こうも言う。

 「しかしシナの混乱した状態を治めるには、最も残忍を帯びた人が出なければダメだと言われている。或るシナの将軍は、いまのシナには非常な有徳者か、それとも現在の軍閥に数十倍する残酷性を帯びた者が出なければ治まらぬと言ったが、シナが治まるまでには、莫大な人間が殺されて居る」

 そう、そうして残酷性を数十倍おびた毛沢東が出現して軍閥のハチャメチャな群雄割拠の凄惨な国を乗っ取った。

 ほかにメンツの問題、衛生の問題、歴史観、人生と金銭感覚などに触れ、シナ人を裁断してゆくのである。

 この長野朗こそ、現代日本人はすべからく呼んで拳々服膺すべし。しかし長野の著作はまだ復刻されていないから、本書からエッセンスをくみ取るべし。

文:宮崎正弘

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(一)

戦前の日本人が見抜いた中国の本質

目次

第一章 シナの国民性あれこれ(1)
第二章 シナの国民性あれこれ(2)
第三章 シナ軍閥の徴税・徴兵・略奪
第四章 シナ政治の裏を描くほんとうの歴史
第五章 大正年間のシナ――民衆の生活様々
第六章 今日の反日の原点を見る――蒋介石時代の排日
第七章 歴史を動かしたのは「民族」ではないか
第八章 移住と同化 シナ人の侵略の仕方
第九章 満州事変前の漢民族の満洲侵略
第十章 いかに満人は消去され、蒙古人は放逐され、朝鮮人は搾取されたか
第十一章  支那事変――漢民族が仕掛けてきた民族戦争
付論 戦後ある翻訳書に加筆された「南京」創作の一証拠
あとがき
文献一覧

あとがき

 本書は長野朗(1888-1975)のいわば特集号である。といっても、『支那の眞相』(昭和5年/1930年)、『民族戦』(昭和16年/1941年)、『支那三十年』(昭和17年/1942年)のわずか三冊に光を当てたにとどまる。事実の衝撃性と分析の鮮烈性ゆえにもっぱら後の二書に焦点を絞って、本書ではできるだけ多くの彼の文章を提示したいと考えた。

 どのページも目を奪う驚くような事実指摘に溢れているが、わけても本書の第九章「満州事変前の漢民族の満洲侵略」は現代の東アジアの情勢を予言していて、本書制作の途中で私は深く考え込まされてしまった。

 満州事変はいまなお続いているし、これからも起こり得ると読めるのである。満州事変といえば日本があの地域の混乱を力づくで解決しようとした出来事と解されているが、長野朗はそういう見方をしていない。満洲の地にしたたかなパワーをもって侵入したのは漢民族(シナ人)であった。このことを彼は最重要視している。しかも清王朝の時代に大勢は決していたという。蒙古人、朝鮮人、ロシア人、日本人が入ってくる前に、彼らは白アリが建物の土台を食い尽くすように満洲の大地に入り込み、住みつき、事実上そこを支配していた。彼らは生存するためには何でもする生命力を持っていて、利己的で、愛国心などひとかけらもないが、不思議な集合意思を持っていた。

 ロシアが鉄道でカネを落とせばそれで肥り、日本が産業近代化を進めれば利益の大半は自分たちに落ち、やがてできあがった成果は横取りできると最初から踏んでいる。満洲人、蒙古人、朝鮮人はいじめ抜き迫害し搾取する対象でしかない。漢民族(シナ人)と他の民族とでは頭数が桁外れに違いすぎる。マンパワーは恐ろしい。満州事変はこの彼らの民族主義と日本の民族主義とが衝突した事件と長野朗は考えている。支那という国家の意思が発動されて衝突したのではなく、白アリ軍団の集合意思が外にはみ出し、摩擦を重ね、やがて日本と衝突したのである。

 漢民族にとって満洲は東方である。今なお日本も彼らから見れば東方にある。同じである。膨張し拡大する白アリ軍団の進出には理窟も何もない。いわば盲目の意思があるのみである。満州事変はまだ終わっていない。まだまだ続くし、これから違った形で勃発する可能性があるというのが長野の予言に違いない、と私は読みながらしきりに考え、恐怖を覚えた。

 当時の日本人は支那は独力では近代統一国家にはなれないと見ていた。日本の協力なしでは治安もままならないし、貨幣経済ひとつ思うに任せない。日本人は「上からの目線」で大陸を見ていた。しかし1911年から三十年間この土地を自分の足で歩き、つぶさに現実に接していた長野朗は、一貫して「下からの目線」で日本と支那の関係を見ていた。日本の軍人や指導階級とは異なる見方が自ずと確立されていた。長野は愛国者だが、祖国に幻想を持たない。はっきりは言っていないが、日本の大陸政策には知恵がなく、白アリ軍団を統御できずに、バカを見る結果になるだろうと考えていた節がある。昭和16年~17年の時点でこのような内容の本の刊行が許されていたわが国出版界の懐の深さ、あるいはわが国軍事体制のある種のしまりのない暢気(のんき)さが偲ばれる一件である。

 『GHQ焚書図書開封5』の第八章、第九章は長野朗『日本と支那の諸問題』(昭和四年/1929年)を、また第十一章は「世界知識」という当時の雑誌の増刊号(昭和7年)に収められた長野の一論文「満蒙今後の新政権」をとり上げていることに、あらためて注意を促したい。したがって本書は二度目の扱いであり、内容的にはある程度重なっている。ただ、本書との兼ね合いで読者に新しい観点を与えるのは論文「満蒙今後の新政権」のほうである。これはたった今述べた、軍人や指導階級とは異なる満洲への長野の思い入れ、日本の政策への不安がさながら彼の溜息のように聞こえる、人間長野の心の奥深さを垣間見せてくれる論考である。ぜひこれも併読していただきたい。

 長野朗は陸軍士官学校の出身で、石原莞爾と同期であった。陸軍大尉で中国の地に派遣され、いわゆる国民革命軍の動向、民衆の抗日行動を現地で観察した。中国問題の研究に専念するために1921年に軍を辞め、共同通信や国民新聞の嘱託になったり、『中央公論』や『改造』に寄稿したりした。大川周明らと交わり、猶存社、行地社に加盟した。しかし路線の相違に気づき、ここを離れ、農村運動に打ち込むようになった。1938年(昭和13年)に大陸の戦場を視察し、シナ人避難民の悲惨さを見て心を痛めたと伝えられる。彼の思想上の立脚点は農本主義で、国家主義とは異なる道を歩んだ。のちに農本連盟、自治農民協議会を組織した。彼は戦後もずっと活動をつづけ、昭和28年に全国郷村会議委員長になった。1975年(昭和50年)に87歳で没した。

 伝記的事実については以上の略史を伝え得るのみで、私は多く知る者ではない。

(後略)