「吉本隆明氏との接点」(四)

 吉本氏はラディカルである。根源的である。しかしどこか閉ざされている。

 私は氏の戦争観がずっと気になっていて、今度、「文学者の戦争責任」(1956年)と、「文学者と戦争責任について」(1986年)の二編を取り寄せて、拝読した。ほぼ同じ内容だが、後者は三〇年経っている情勢の変化で、やや視野が広くなっている。

 氏は戦争に協力しなかった文学者なんか一人もいなかった。戦争に反対した文学者も、抵抗した文学者も皆無であり、厳密に考えれば戦争責任の告発は成り立たないという認識に立っていた。そこで左翼の文学組織に属さない文学者をもっぱら戦争犯罪として告発するたぐいの、戦後、氏が目撃した左翼の文学組織による、戦争責任の追及の仕方に、氏は激しく異議を申し立てた所以である。その自己欺瞞の摘発には説得力があり、胸を打つものがある。告発者自身は、自分たちは戦争下でひそかに抵抗していたとか、戦争そのものにじつは反対していたのだとか、手前味噌な評価をつねに用意していたものだった。吉本氏の追及は手厳しい。文学者の戦争責任は文学作品それ自体によってしか弁明ないし表白できない。文学作品はウソをつかない。氏のその方法態度も正しい。

 1986年の論文では、ファシズムとスターリニズムとの間にはわずかな相違しかないという認識にまで進んでいて、左翼の正義も否定されている。

 いまではもう昭和21年(1946年)に左翼の文学組織(民主主義文学運動)によって告発された文学者の戦争責任も、昭和30年(1955年)ころ、わたしたちによって提起されたそれに対する批判も、すべてそれ自体が無効になり解体してしまったというべきだ。ひとつの理由は、戦争責任を問うべき中心的な前衛理念、あるいは優位にたって戦争を裁く前衛理念が存在しないことが、誰の眼にも明確になってしまったことだ。もうひとつ理由をあげれば、「戦争」も「平和」も古典的な概念とまったく異なってしまったことだ。わたしが「戦争」を裁くとすれば、わたし自身のうちにある理念によるだけだし、「戦争」と「平和」について言及するとすれば、自身の定義した概念においてだけだ。

 それなら、吉本氏において戦争はどのように定義した概念として捉えられているだろうか。

 「戦争」は人間が直に砲弾を打ちあい、ミサイルをとばして、陣地や領土を併合することで、「平和」はときに、銃や凶器で殺しあうことがあっても、日常生活の繰り返しが中断したり、切断されたりすることがない状態のことだという考えは捨てられるべきだ。兵士は現在では補助機械であるにすぎない。戦争は米ソ両支配層の演じるボタン押しの電子ゲーム以外のものではない。「戦争」状態をシュミレーションしている平和もあれば「平和」そシュミレーションしている「戦争」状態もあるというように概念は変えられてしまっている。

 米ソ対立の極限状況にあった1980年代のいわゆる「ボタン戦争」の概念が吉本氏を支配していたことがここから伺える。現代戦争のこのニヒルな認識が文学者の戦争責任論など吹き飛ばしてしまったことはまず間違いない。しかしこの認識はまた、日本が米ソ冷戦の谷間にあって「安定」していた、束の間の幸運な時代に許された甘い特権であったことが氏に認識されていない。氏は左翼の党派的欺瞞に対してはたしかに倫理的に厳しかったが、氏の内部に巣くっていた左翼的イデオロギーの残滓が何となく世界を素直に、自然に見ることの邪魔をして、動いていく現代の中で、日本と自分の置かれた位置を冷徹に直視することを不可能にしている。

 現代ではすべての戦争が核戦争になるとは限らない。米ソ冷戦が終わって「不安定」になった世界では核兵器は使えない兵器となり、代わりに通常兵器を用いた戦争の可能性はずっと大きくなった。バルカン半島の戦乱以来明らかになったことである。そういう現実の世界の微妙な変化を吉本氏はどの程度意識していただろうか。

 そもそも先の戦争を意識するときにいきなり「戦争責任」という言葉につかまえられたということに問題があると私は考える。文学者のであれ誰のであれ、「戦争責任」などというものは初めから存在しない。この言葉は敗戦国を無力化するための一方的な宣伝語である。もし日本やドイツにこの語が当て嵌められるなら、それと同時に、同資格において、旧戦勝国の連合国にも当て嵌められなければならないのが「戦争責任」という語の本来の意味である。しかし吉本氏は「具体的に日本国の戦争は、ドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズムとの同盟による天皇制下の軍部の主導で推進された理念的な悪だから、これに参加したものに戦争責任がある」というようなことを書き記している思想家である。

 氏は歴史が善悪の彼岸にあり、戦争は地上から永遠になくならないだけでなく、明日にもわが国を襲わないとも限らない。それゆえ政治を防衛問題から考えるべきだという苦い認識に直面しないオプティミストの一面を持っている。先の引用につづけて氏は次のように言う。

 そこでは〈戦争〉の企ては不可能だし、〈戦争〉が悪だということは、現在まで存在するどんな体制や理念にも保留や区別なしに適用されるべきだ。〈平和〉が善であることも、どんな体制や理念にも、保留や区別なしに適用できるはずだ。現在の体制や理念の相違は、世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない。これははっきり言い切っておいた方がいい。

 ここで大切なのは、「世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない」と書かれている個所である。戦争は何らかの「意味」を訴えて初められているだろうか。意味は後から付けられはするが、わけが分からなく始まり、どうにもならない力に衝き動かされるのが常ではないだろうか。

 氏はつづけて「人間が地を這いつくばって戦い、銃器を手にし、血を流し、死を賭してやっていることは、現在では、どこでどんな崇高そうな理由が付けられていても、ただの暴力行為にすぎない。」と書いている。それはその通りである。私はそうであることを否定はしない。しかし「ただの暴力行為」はなくならないし、人類の愚劣は終らないし、それゆえにこそ国防問題を措いて政治は考えなれない。政治と文学などという暢気なことを言っても始まらない局面は、現代日本に迫っていると私は考えている。

 さりとて、思えばこれは吉本氏に限った話ではない。戦後の思想界は最初は圧倒的に文学者がリードした。知っての通り小林秀雄は戦争について利口なやつはたんと反省するがいいさ、私は反省なんかしないよ、と言った。この言葉は有名になり、戦後の保守思想界を動かす語り草となった。似たような発言は後の「政治と文学」(昭和26年12月)に出ていて、日本人がもっと聡明だったら、もっと文化的だったら、あんなことは起こらなかった、というようなことを言う知識人に向かって、小林は日本を襲ったのは正真正銘の悲劇であり、悲劇の反省など誰にも不可能だ、と喝破した。

 当時は「戦争責任」という言葉が吹き荒れていた。「反省」というのと同じ意味である。左翼の党派的欺瞞も横行していたのは先に述べた通りである。福田恆存「文学と戦争責任」(昭和21年11月)も、吉本隆明「文学者の戦争責任」(昭和31年)も、そこを正確に撃っているのは確かなのだが、しかしこれは小林とほぼ同じ認識でしかない。すなわち「反省」して歴史を変えられると思っている愚を戒めることにおいて三者はじつに峻厳だったが、そこに止まっていて、そこから先がない。あるいはそれ以前がない、と言ってもよかった。文学者の戦争に関するこれらの観念には何かが足りない。「反省」とか「戦争責任論」の虚妄を突いていることは確かで、間違った内容を述べているわけではないのだが、不足感が漂っているのである。すなわち、あの時代の日本の選択、開戦に至る必然性、戦争指導の理想的あり方が他にあったのではないかという可能性の追求、そういうことがなされていない。

 吉本隆明氏も他の同時代の保守系文学者も、日本の戦争の正しさの認識を歴史を遡って検証する意思を抱いていなかった。私は13歳、中学一年の昭和23年に東京裁判の判決文を新聞から切り抜いて日記帖にはりつけ、日本が勝っていたらマッカーサーが絞首刑になるはずだった、と書いていた。私は子供の言葉で歴史は善悪の彼岸にあり、敗北したがあの戦争は正しかったと言っていたのだ。その頃からずっと同じ認識でいる。「戦争責任」というような言葉は終戦まで存在せず、占領軍が持ち込んだ言葉だったことを子供心に知っていた。戦前戦中派はどうしても宿命的に「戦争責任」などという語に囚われるが、そこから先があるはずだ。そんな言葉はもうどうでもいい。私はそう認識していたし、今もそう考えている。

「吉本隆明氏との接点」(三)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 四度目の接点は、最近の原発事故をめぐってである。吉本氏の発言はいわゆる保守派を喜ばせた。さすが吉本さんだ、偉いの声もあった。これに反し、私の脱原発発言はいわゆる保守派の中で孤立し、今も孤立している。ここで保守派というのは石原慎太郎、櫻井よし子、渡部昇一、中西輝政、西部邁、小堀桂一郎、森本敏、田母神俊雄などまだまだたくさんいる国家主義的保守言論人のことで、名の無い、無言の保守的一般社会人のことではない。

 私は「現代リスク文明論」(『WiLL』2011年11月号に次のように書いている。

 過日、NHKのテレビ討論で原子力安全委員の奈良林直さんという方が「使用済核燃料の再処理の技術は、人類の2500年のエネルギー問題を一挙に解決する道である」と、胸を張って高らかに宣言するように語ったのを、私は呆気にとられて見守った。大きく出たものだと思った。プロジェクトが現に目の前で行き詰っているというのに、あまりに楽天的なもの言いに、他の発言者たちからただあちに反論がなされていたが、この言葉は私には、戦後ずっと原子力の平和利用にかかわってきた人々の、幻想的進歩信仰をさながら絵に描いたような空言空語に思われた。これこそまさに、中国の鉄道官僚にどこか通じる、足許を見ないで先を急ぐ前進イデオロギーの抽象夢にほかならないと私は思った。

 私が本稿で語った「現代リスク文明」は、工業社会の失敗なのではなく、その成功ないし勝利の帰結としての自己破産にほかならない。現代はいろいろな分野で「進歩の逆転」ということが起こっている。便利なものを追い求めた結果、便利が不便に、自由が不自由に転じるケースは無数にみられる。貧しい時代に「学校」は解放の理念だったが、いつしか抑圧の代名詞になった。「脱学校」という解放の理念からの解放が求められる逆転が起こっている。

 同じようなことが多数ある。原子力の平和利用も鉄腕アトムの時代には解放の理念だったが、自己逆転が生じた。発達が自己破壊をもたらした。

 1938年に『「反核」異論』を書いた吉本隆明氏は最近、「技術や頭脳は高度になることはあっても元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発はやめてしまえば新たな核技術も成果もなくなってしまう。事故を防ぐ技術を発達させるしかない」(毎日2011年5月27日)と語った。これは正論である。

 かつて、文学者が集団で反核運動を行い、アメリカのパーシングⅡ配備には反対しつつ、ソ連のSS-20には何も言わなかった中野孝次氏らの単眼性を戒めた吉本氏らしい言葉であり、私も「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍(わざわい)はその技術のより一層の進歩でしか解決できない」と書いたことがあり、原則的に同じ意見ではある。鉄道や航空機等の事故はたしかにこの範疇(はんちゅう)に入り、失敗は進歩の母であり得るが、しかし原子力技術はそういう類の技術ではないのではないか。

 どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がつきまとう。失敗のない実験はない。失敗から学んで次の進歩に繋ぐ。しかし、唯一回の失敗が国家の運命にかかわるような技術は技術ではないのではないか。吉本氏は、「進歩の逆転」が起こり得る現代の特性にまだ気がついていないのではないか。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ――そんな確立はあり得ないが――リスクは無限大に等しい。それが原発事故なのである。

 私は宇宙開発にも、遺伝子工学にも、生体移植手術にも疑問を抱いている人間である。今詳しくは述べないが、人類は神の領域に立ち入ることを許されていなかったはずだ。制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に墜ちていうるのを、まだこの程度で食い止めていられるのは、偶然の幸運にすぎない。

           記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

吉本隆明氏との接点(二)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 二度目の氏との接点は私からの依頼原稿であった。白水社版ニーチェ全集の『偶像の黄昏』『アンチクリスト』が全集から切り離してイデー選書という名でやはり白水社から1991年3月に刊行された際に、私は吉本氏に解説をお願いした。

 解説「テキストを読む――思想を初源と根底とから否定する」は約25枚の分量のしっかりした内容の評論であった。この機会に氏に直にお目にかかっておけばよかったのに、と思うが、編集者を介しての挨拶で終わり、私から接近しようとあえてしなかったのはいつもの私の悪い癖、いずれそのうち機会があるだろうと先送りする怠惰なためらいのせいだった。

 氏のこのニーチェ論に対する私の評文は残されていない。ただ今一読して、問題を孕んだ、深い内容の充実した一文であることを証言しておく。異見は紙幅がないのでここでは述べられない。

 吉本氏と私の三度目の接点は、オウム真理教事件をめぐってで、「『吉本隆明氏に聞く』への意見(上)」と題した短文(『産経新聞』1995年9月25日夕刊)である。新聞記事だから、麻原被告に対する「理解の表明は不要」「麻原の混乱に手貸すだけ」の見出しがついていた。全文を紹介する。

 詩人・評論家の吉本隆明氏が四回にわたって麻原被告の思想を産経新聞紙上で分析したことに対し、同紙から意見を求められた。

 吉本隆明氏は麻原彰晃について、その「存在を重く評価している」「マスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」「現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないか」とさえ言っている。これに多くの新聞読者が愕然とし、いらだっているようだ。私は愕然とはしていないが、三点ほど氏に申し上げてみたい。

 麻原が氏の言う仏教の系譜上、「相当重要な地位を占める」「相当な思想家」であるなら、氏が新聞という公器を使ってあえて評価し、応援しなくても、麻原の思想はいつか必ず蘇るだろう。邪教でなく本物の宗教なら、十年後にでも二十年後にでも発掘する者が出て、再生するだろう。

 しかし麻原は今は、史上例のないテロリストの首謀者として裁かれようとしている。吉本氏も「彼の犯罪は根底的に否定する」と言っている。だとしたら、今はすべて法の裁きの必然に任せ、果たして彼が法的に否定された後でイエスのようの宗教的に蘇るか否か――誰の助けを借りずとも蘇るときはそうなる――黙って判断を未来に委ねれば良いのではないか。

 吉本氏のように、麻原に裁判の過程中に宗教的世界観を語って欲しいなど願望を述べる必要はないのではないか。語るべき世界観が麻原にあるなら、彼は確然と語るであろう。なければそれまでであろう。外野席で応援する必要はない。つまり外から理解を示してやる必要はないということだ。理解の表明は彼の犯罪行動の規模から見て、彼のこれからの覚悟の形成にも本物の宗教であるか否かの論証にも、有害でさえある。

 私自身は麻原の宗教上の教義に立ち入る関心を持っていない。大半の国民は私と同じだと思う。吉本氏が思想家として、教義内容に関心を持つのは自由だが、それを公表するか否かには、時宜と所を得なくてはならない。麻原には「本当はまだ不明なところはたくさんある」と氏自身が留保をつけている以上、関心と関心の表明とは別でなくてはならない。新聞紙上の氏の関心の示し方は、明らかに麻原の肯定であり、評価であり、礼賛でさえある。留保の程度をはるかに超えている。

 次いで、吉本氏は親鸞の造悪論を取り上げ、「善人より悪人のほうが浄土に行ける」という言葉を重視しているが、しかし親鸞は弟子たちに次々に殺人の実行を勧めたわけでも、自ら殺人計画の立案者になったわけでもないだろう。弟子達が悪を犯したほうが浄土に行けるのかとストレートな疑問を述べたとき、「良い薬があるからと言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう」と親鸞がたしなめた、と吉本氏自身が過日述べている。つまり親鸞は、自らの内部に問いを立て、その問いの前に立ち尽くしている。一つの答を出してもそれは直ちに否定される。罪を犯したほうが救われるのではないか。これはどこまでも問いであって、安易な答などあろうはずがない。答えが新たな問いを誘発し、果てしなく繰り返される。それが真の信仰者の態度ではないだろうか。そして吉本氏自身がそのように親鸞を語っているのではないのか。

 一体どうして殺人は悪なのかと疑問に思い、そういう問いを問い続けていくことは哲学的にも大切だが、そのことと実際に殺人を犯すこととの間には無限の距離がある。ラスコーリニコフはついに実行してしまうが、実行後にも果てしない問いが彼の後を追いかけてくるのは周知の通りである。いとも簡単に他人の生命を次々ほいほい葬るよう命じたと伝えられる麻原の行動は、親鸞にも、ラスコーリニコフの誰にも似ていない。ここには宗教上の自覚的行為とは別の問題がある。

 最後に「開いた」社会、自由な文明にはつきものの、現代テロリズムの恐怖について一考しておきたい。

 現代はあまりにも自由で、ぶつかっても抵抗の起こらない無反応社会、声をあげても応答のない沈黙社会である。人はあえて、意図的に違反に違反を重ね、自ら「抑圧」を招き寄せようともする。そうでもしなければのれんに腕押しで、自分をしかと受け止めてくれるいかなる「仕切り」にもぶつかりそうにない。としたら、自ら平地に波乱を起こして、敵のない世界に敵を求め、「仕切り」に突き当たるまで暴れてみるしかない。オウム真理教の出現した背景はこれである。そのような社会で、吉本氏のように、テロリストに対してやさしい理解、心ある共感を示すことは、ひたすら彼らと当惑させるだけであろう。彼らは固い、強い「仕切り」をむしろ欲しているのだ。「地下鉄サリン」をやってさえも理解を示す知識人のいる甘い社会に彼らは実は耐えられない。その甘さがついに「地下鉄サリン」を誘発したのではなかったか。吉本氏の発言は、逆説的な言い方だが、麻原を理解しているのではなく、彼の混乱に手を貸しているだけである。

つづく

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
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吉本隆明氏との接点(一)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 私は吉本隆明氏の必ずしも熱心な読者ではなかった。書棚に『共同幻想論』や『自立の思想的拠点』などを置いているが、若い頃、食い入るように読んだという記憶がない。

 それでも、長い評論生活で吉本氏をときに賞賛し、ときに批判するという接点があった。そのまま幾例かを紹介する。要約ではなく、引用する。

 私が文芸雑誌に初めて書いた評論は、「政治と文学の状況」(「文学界」1968年9月号)で、ドイツ留学を終えて帰国した一年後、33歳であった。

(前略)政治の文学化という「政治主義」の立場ではなく、文学の政治化という「政治」の立場をいま一度文学化へと逆転するパラドックスをくぐり抜けない限り、政治を主題にしたあらゆる文学は所詮空しい政治主義文学に転落するであろう。という意味は、現在の日本で政治はここ当分文学の素材になりえないという意味に解してもよい。

 この点で、最近の雑誌の記事のなかで私が興味深く読んだのは、吉本隆明氏と高橋一巳氏との対談(「群像」昭和43年5月号)である。両者の間に微妙なズレがあって、最後まで平行線を辿っているのは、このパラドックスの自覚の有無にかかっている。

 端的に言えば、吉本氏にとって「政治」は自分自身の問題であって、他人の問題ではない。60年安保のときの氏の身をもってした「実行」と比して著しく目立つ最近の氏の政治的沈黙は、それがすでに無言の行動になっているのだが、氏によれば、ベトナムという他国の戦争は「原理的な関心をひかない」のである。日本では「他人の国で起こっていることについては、大いに関心を働かせ、かつ行動をするけれども、自分の国家権力のもとで起こっていることについては、あまり関心をもたなかったり、よく戦えなかったりという、伝統的な苦々しさがある」ためで、それを「自分がどうやって主体的に克服していくのかという問題」以外氏にはあまり興味がなく、「自分ができないならやるなということなんですよ」という以上、ベトナム反戦などは「あんなものはアブクみたいなもの」という揶揄にさえなる。

 ここの所が高橋氏にはどうしても解らないらしい。氏は反戦の動機に賛成なら、自分はなにも出来ないでもせめて応援の言葉をもって協力すべきだという文字通り、「政治主義」の態度を暴露しているからである。これでは政治をただ戦術的に顧慮しているだけであって、政治は自分の問題にはならないであろう。文学の原理に関わってこない。こういう態度は作品に必ず反映するものである。従って、高橋氏の『邪宗門』は、吉本氏によれば、「高度なインテリ向けの大衆小説じゃないかというような面白さなんです」という、まさしく適切な、「政治主義文学」の定義を与えられることになるのである。高橋氏にせよ、大江(健三郎)氏にせよ、誠実を売り物にし、思想と実生活の不一致に無自覚である点では精神のパターンはどこか共通しているように見える。

 むろん作品には手のこんだ複雑な意匠がほどこされている。知識人の苦悩をさながら検察官のように冷やかに追及する高橋氏はいかにも苦しんでいるようにみえるが、そのじつ作者はいささかも傷ついていない。むしろ作品の人物の苦悩で、作者が自分の誠実を正当化し、救済しようとする手付きが私には先に見えてしまう。が、詳細な作品分析は後日に譲りたい。

 いわゆる教養人の偽善に対して吉本隆明氏にはそもそも自分の苦悩に対する感傷はなく、はるかに男性的で、ひたむきである。非寛容であっても、不誠実ではない。国家という原理を超えようとする氏の自由への無限の意志は、中途半端な、曖昧な立場をことごとく破壊して進む。が、政治と個人道徳とを同次元に置く吉本氏には、ただ無を意志するのでないのなら、どこかやはり政治の「善」を信じているところが感じられる。氏がどんな「体制」をも信じないというのは勝手だが、「体制」に規定され、拘束されている氏の実生活のある部分を信じないわけにはいくまい。従って吉本氏における個人の完全自律への意志は、論理的に見れば、革命か、さもなければ自己分裂か、に行き着くほかないだろう。

 今日、希薄化した日本の空洞文化の中で、「政治」に激突しり生命感を文学化しようとすれば、かように論理的には初めから破綻している以上、自己錯乱に直面するか、共同社会にフィクションとしての神話空間を仮構するか、道は二つに一つであるように思える。吉本氏の最近の沈黙がこの前者になにほどか関係があり、三島由紀夫氏の神格天皇制の提出がこうした自己矛盾を克服するための必要に発しているのではないかという問題がある。芸術の政治化を「実行」しなければ、政治の芸術化もあり得ないという生の逆説に突き当たっている人は、戦時に青年期を送った世界の中では、ともあれこの二人を置いていないのである。

 人間にとって完全な自由、完全な自律はあり得ない。私は現代に生きる私自身の「自己」などというものを信じていない。私は自己の外に、もしくは自己を超えたところに、奉仕と義務の責めを負わねば「自己」そのものが成り立たぬことを考える。「体制」としての左翼を痛罵して止まなかった吉本氏が、今直面している困難は、絶対自我の追求者であった氏を支えているものはそもそも「敵」であり、身をもって孤立の代償を覚悟してなし得た実際行動であったことだ。その意味では「他」に抗して自分を支えるものである以上、それは消極的であることを避けられない。

 個人の完全自律への意志などは可能なことだろうか?それはほとんど狂気に境を接し兼ねぬ。(以下略)

 私は吉本氏における自立への悲劇的意志に感銘すると共に、その目指す方向の空漠たる無目的性に不安を抱いているのである。

つづく

『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(二)

宮崎正弘さんの書評より

 現代日本はなにを甘っちょろいシナ観察をして敵性国家を誤断しているのか
  戦前の長野朗は、国益の視点、鋭敏な問題意識と稀な慧眼でシナを裁断していた
  ♪

西尾幹二『GHQ焚書図書開封7
 戦前の日本人が見抜いた中国の本質』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 戦前の陸軍には「シナ通」が沢山いたが、大方は軍のプリズムがあるため観察眼がねじれ歪んでいた。「シナ通」は現代日本のマスコミ用語でいえば「中国学者」か。

 これという快心の中国分析は戦争中も少なかった。満鉄調査部のそれはデータに優れ、しかし大局的戦略性におとり、誤断の元にも成りかねなかった。そもそも草柳大蔵の『満鉄調査部』を読めば分かるが、かのシンクタンクには社会主義者が多数混入していた。
 
 当時、あれほどの日本人がシナの各地にありながら、中国を冷静かつ冷酷に客観的にみていたのは長野朗、大川周明、内田良平ら少数の学者、インテリ、ジャーナリストだけであった。
 
 芥川龍之介の江南旅行記(『上海遊記』『江南遊記』(講談社学術文庫))もじつに面白いが、上海から南京までを駆けめぐった、地域限定であり、滞在も短く、しょせんは現象的観察という側面が否めない。しかし芥川の観察眼は作家の目であり、鋭い描写力があった。

 さて本シリーズは七冊目。

 いよいよこうなると全体で何冊になるのか、想像もつくようになるが、本巻はほぼ全巻が戦前の中国観察の第一人者、長野朗のシナ分析につきる。付け足しに内田良平があるが、本巻ではほぼ付録的である。

 長野の著作は膨大で合計二十作品もあって、ほぼ全てが焚書図書となり、戦後古本屋からも消えた。好事家か、個人蔵書しかなく、それも戦後67年も経てば長野朗の名前を知っている人は中国特派員のなかにさえ稀である。

 評者は、ところで長野の著作を一冊保有しており、それも某大学図書館にあったもののコピィである。もっと言えば、それがあまりにも面白いので、某出版社に復刻を推奨したら、編集者の手元へ移り、そのまま五年か六年が経ってしまった。それが『シナの真相』、しかもこの本だけは焚書にならなかった。だから某大学図書館にあったのである。

 というわけで、このシリーズで西尾さんがほかの参冊をさっと読まれて重要部分を抜粋された。
まずは『シナの真相』のなかに長野朗が曰く。

 「かの利害打算に明らかなシナ人も、ときに非常に熱してくる性質も持っている。シナ人の民衆運動で野外の演説等をやっているのを見ると、演説して居る間にすっかり興奮し、自分の言っていることに自分が熟してくる。その状態はとても日本人等には見られない所である。彼らは興奮してくると、血書をしたり、果ては河に飛び込んだりするのがある。交渉をやっていても、話が順調に進んだかと思っている時に、なにか一寸した言葉で興奮して、折角纏まりかけたのがダメになることがある。シナ人の熱情は高まり易いが又冷めやすいから、シナ人は之を『五分間の熱情』と呼び、排日運動等のときには、五分間熱情ではいけない。この熱情を持続せよといったようなことを盛んに激励したものである」。

 ▼「シナ人の五分間の熱情」と「気死」

 この文言をうけとめて西尾氏は、

 「思い当たる節があります。日本にきている中国人のものの言い方を見ていると、口から泡を吹いているようですね」と指摘されている。

 つい先日の尖閣問題でも、「五分間の熱情」でデモ行進をやり、「日本人を皆殺しにせよ」(殺光)と横断幕に掲げ、シナ人の所有する「日本車」を打ち壊し、シナ人が経営する「日本料理店」を破壊し、シナ人が経営するラーメンやのガラスを割った。

 そして、「五分間の熱情」は、かの尖閣へ上陸した香港の活動家らの凶暴な風貌、掴まっても演説をつづける興奮気味のパフォーマンスに象徴される。以前の尖閣上陸のおりは、海に飛び込んで死んだ反日活動家もいた。

 この自己制御できない熱情を長野朗は「気死」と定義し、次のように言った。

 「日本人は憤って夢中になるくらいのことはあるが死にはしない。シナ人の興奮性から見れば、或いはその極心臓麻痺くらい起こして死んだかもしれない」

 西尾氏は、これを『愛国無罪』とひっかけて興奮する中国製デモの興奮的熱情に見いだし、「日本レストランを襲撃したり、日本大使館に投石したり、やることが非常にヒステリックです。尖閣諸島の騒ぎの時も同じでした。国中が湧きたって、それこそ『気死』していましそうになる。じつに厄介な隣人たちです」
と指摘される。

 また長野朗は『支那の真相』のなかで、こうも言う。

 「しかしシナの混乱した状態を治めるには、最も残忍を帯びた人が出なければダメだと言われている。或るシナの将軍は、いまのシナには非常な有徳者か、それとも現在の軍閥に数十倍する残酷性を帯びた者が出なければ治まらぬと言ったが、シナが治まるまでには、莫大な人間が殺されて居る」

 そう、そうして残酷性を数十倍おびた毛沢東が出現して軍閥のハチャメチャな群雄割拠の凄惨な国を乗っ取った。

 ほかにメンツの問題、衛生の問題、歴史観、人生と金銭感覚などに触れ、シナ人を裁断してゆくのである。

 この長野朗こそ、現代日本人はすべからく呼んで拳々服膺すべし。しかし長野の著作はまだ復刻されていないから、本書からエッセンスをくみ取るべし。

文:宮崎正弘

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp