吉本隆明氏との接点(二)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 二度目の氏との接点は私からの依頼原稿であった。白水社版ニーチェ全集の『偶像の黄昏』『アンチクリスト』が全集から切り離してイデー選書という名でやはり白水社から1991年3月に刊行された際に、私は吉本氏に解説をお願いした。

 解説「テキストを読む――思想を初源と根底とから否定する」は約25枚の分量のしっかりした内容の評論であった。この機会に氏に直にお目にかかっておけばよかったのに、と思うが、編集者を介しての挨拶で終わり、私から接近しようとあえてしなかったのはいつもの私の悪い癖、いずれそのうち機会があるだろうと先送りする怠惰なためらいのせいだった。

 氏のこのニーチェ論に対する私の評文は残されていない。ただ今一読して、問題を孕んだ、深い内容の充実した一文であることを証言しておく。異見は紙幅がないのでここでは述べられない。

 吉本氏と私の三度目の接点は、オウム真理教事件をめぐってで、「『吉本隆明氏に聞く』への意見(上)」と題した短文(『産経新聞』1995年9月25日夕刊)である。新聞記事だから、麻原被告に対する「理解の表明は不要」「麻原の混乱に手貸すだけ」の見出しがついていた。全文を紹介する。

 詩人・評論家の吉本隆明氏が四回にわたって麻原被告の思想を産経新聞紙上で分析したことに対し、同紙から意見を求められた。

 吉本隆明氏は麻原彰晃について、その「存在を重く評価している」「マスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」「現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないか」とさえ言っている。これに多くの新聞読者が愕然とし、いらだっているようだ。私は愕然とはしていないが、三点ほど氏に申し上げてみたい。

 麻原が氏の言う仏教の系譜上、「相当重要な地位を占める」「相当な思想家」であるなら、氏が新聞という公器を使ってあえて評価し、応援しなくても、麻原の思想はいつか必ず蘇るだろう。邪教でなく本物の宗教なら、十年後にでも二十年後にでも発掘する者が出て、再生するだろう。

 しかし麻原は今は、史上例のないテロリストの首謀者として裁かれようとしている。吉本氏も「彼の犯罪は根底的に否定する」と言っている。だとしたら、今はすべて法の裁きの必然に任せ、果たして彼が法的に否定された後でイエスのようの宗教的に蘇るか否か――誰の助けを借りずとも蘇るときはそうなる――黙って判断を未来に委ねれば良いのではないか。

 吉本氏のように、麻原に裁判の過程中に宗教的世界観を語って欲しいなど願望を述べる必要はないのではないか。語るべき世界観が麻原にあるなら、彼は確然と語るであろう。なければそれまでであろう。外野席で応援する必要はない。つまり外から理解を示してやる必要はないということだ。理解の表明は彼の犯罪行動の規模から見て、彼のこれからの覚悟の形成にも本物の宗教であるか否かの論証にも、有害でさえある。

 私自身は麻原の宗教上の教義に立ち入る関心を持っていない。大半の国民は私と同じだと思う。吉本氏が思想家として、教義内容に関心を持つのは自由だが、それを公表するか否かには、時宜と所を得なくてはならない。麻原には「本当はまだ不明なところはたくさんある」と氏自身が留保をつけている以上、関心と関心の表明とは別でなくてはならない。新聞紙上の氏の関心の示し方は、明らかに麻原の肯定であり、評価であり、礼賛でさえある。留保の程度をはるかに超えている。

 次いで、吉本氏は親鸞の造悪論を取り上げ、「善人より悪人のほうが浄土に行ける」という言葉を重視しているが、しかし親鸞は弟子たちに次々に殺人の実行を勧めたわけでも、自ら殺人計画の立案者になったわけでもないだろう。弟子達が悪を犯したほうが浄土に行けるのかとストレートな疑問を述べたとき、「良い薬があるからと言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう」と親鸞がたしなめた、と吉本氏自身が過日述べている。つまり親鸞は、自らの内部に問いを立て、その問いの前に立ち尽くしている。一つの答を出してもそれは直ちに否定される。罪を犯したほうが救われるのではないか。これはどこまでも問いであって、安易な答などあろうはずがない。答えが新たな問いを誘発し、果てしなく繰り返される。それが真の信仰者の態度ではないだろうか。そして吉本氏自身がそのように親鸞を語っているのではないのか。

 一体どうして殺人は悪なのかと疑問に思い、そういう問いを問い続けていくことは哲学的にも大切だが、そのことと実際に殺人を犯すこととの間には無限の距離がある。ラスコーリニコフはついに実行してしまうが、実行後にも果てしない問いが彼の後を追いかけてくるのは周知の通りである。いとも簡単に他人の生命を次々ほいほい葬るよう命じたと伝えられる麻原の行動は、親鸞にも、ラスコーリニコフの誰にも似ていない。ここには宗教上の自覚的行為とは別の問題がある。

 最後に「開いた」社会、自由な文明にはつきものの、現代テロリズムの恐怖について一考しておきたい。

 現代はあまりにも自由で、ぶつかっても抵抗の起こらない無反応社会、声をあげても応答のない沈黙社会である。人はあえて、意図的に違反に違反を重ね、自ら「抑圧」を招き寄せようともする。そうでもしなければのれんに腕押しで、自分をしかと受け止めてくれるいかなる「仕切り」にもぶつかりそうにない。としたら、自ら平地に波乱を起こして、敵のない世界に敵を求め、「仕切り」に突き当たるまで暴れてみるしかない。オウム真理教の出現した背景はこれである。そのような社会で、吉本氏のように、テロリストに対してやさしい理解、心ある共感を示すことは、ひたすら彼らと当惑させるだけであろう。彼らは固い、強い「仕切り」をむしろ欲しているのだ。「地下鉄サリン」をやってさえも理解を示す知識人のいる甘い社会に彼らは実は耐えられない。その甘さがついに「地下鉄サリン」を誘発したのではなかったか。吉本氏の発言は、逆説的な言い方だが、麻原を理解しているのではなく、彼の混乱に手を貸しているだけである。

つづく

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

「吉本隆明氏との接点(二)」への1件のフィードバック

  1. 吉本隆明の罪(5)

    吉本に影響を与えた最も重要な思想が『実存主義』である。「大衆の原像」という概念は、生の充実を与えることのできない知の虚しさに対する批判であり、自戒から生れたということは周知の事実である。国民とは自分自身のことであり、現にここにこうして生きている実感がある、対して国家は見ることも触ることも出来ない、ただ概念としてあるのみである。しかし、概念を生き概念に生きる知識人にとって概念を完全に消し去ることはできない。そこで、吉本が考えた姑息な戦術が自己幻想→対幻想→共同幻想という「程度問題」の提示である。吉本は「国民は国家のために死ねない」といって国民の実在性にこだわるが、「国民は国民のために死ねない」、生身の人間が自殺することもまた至難であるということを忘れている。こんな中学生レベルの単純なロジックがわかってはいない。

    「国民は国家のために死ねない」VS「国民は国民のために死ねない」、さて、どちらが真実なのか?

    (まだまだつづく)

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