訃報を受けて(四)

産経新聞令和6年11月18日付「正論欄」より

藤岡信勝(新しい歴史教科書をつくる会」副会長

西尾幹二氏の教科書への思い

 日本を代表する言論人であり、新しい歴史教科書をつくる会の創立者(初代会長)だった西尾幹二氏が去る11月1日、老衰のため亡くなられた。89歳。つくる会の会員、とりわけ氏の謦咳(けいがい)に接したことのある古参会員の喪失感は並大抵のものではない。心からご冥福をお祈り申し上げる。

教科書問題の始まり

 私が西尾幹二氏と初めてお目にかかったのは平成8年1月、氏が主催する「路の会」という言論人のサロンの場であった。この会は月例で開催され、西尾氏がその時々に一番注目した人物を講師として招き、講演と討論、そして二次会での激論へと続くユニークな会である。

 この直前の1月15日に、産経新聞紙上で「教科書が教えない歴史」の連載が始まっていた。この連載は当時の編集局長・住田良能(ながよし)氏の求めに応じて、小中高の現場教師からなる「自由主義史観研究会」のメンバーが執筆するという異例の企画だった。西尾氏はこの記事を目に留めて会の代表であった私を路の会に誘ってくださったのである。

 その年の6月に中学校教科書の文部省(当時)による検定結果が発表され、「従軍慰安婦」が全ての歴史教科書に記載されたことがわかった。私は許せなかった。戦場の慰安婦が「強制連行」された「性奴隷」であったとするような根も葉もない、しかし反証には困難を伴う反日プロパガンダ作者の底知れぬ悪意と狡知(こうち)に戦慄しつつ、これに戦いを挑む決意をした。全教科書に噓が書かれているなら、それを書かない歴史教科書を自分たちでつくるほかないではないか。歴史教科書問題はこうして始まったのである。

自ら筆を執って牽引

 私は路の会のメンバーでもあった教育研究者の高橋史朗氏に思いを打ち明けて相談した。高橋氏は西尾氏に持ちかけることを提案し、3人の会合をセットしてくださった。西尾氏は直ちに問題の意味を理解され、政治思想史の坂本多加雄氏に参加を呼びかけることにした。こうしてこの4人が幾度となく会合を重ねて会の構想が次第に形を成していった。

 新しい歴史教科書をつくる会という会の名称は岡崎久彦氏(元駐タイ大使)の発案である。これはそのものズバリのネーミングで余計な説明がいらない。

 設立趣意書を執筆したのは西尾氏であった。その書き出しは次のようになっている。

「私たちは、21世紀に生きる日本の子どもたちのために、新しい歴史教科書をつくり、歴史教育を根本的に立て直すことを決意しました。世界のどの国民も、それぞれ固有の歴史を持っているように、日本にもみずからの固有の歴史があります。日本の国土は古くから文明をはぐくみ、独自の伝統を育てました」

 これからつくる新しい歴史教科書の一番大切なコンセプトが見事に表現されている。全体の構成といい個々の表現といい、名文である。趣意書は平成9年1月30日の創立総会で決定した。

 次いで、教科書を執筆する段階では、私が指名され西尾氏と単元の構成から組み立てた。そして、オトタチバナ姫の伝承など多くの箇所を自ら筆を執って書き下ろされた。西尾氏は会の責任を背負い、敢然と役割を果たされた。

思索と行動の対照性

 西尾氏の中には現状に対する燃えるような怒りと、特定の結論に安住しない懐疑の精神の二つの魂が同居していたように思われる。「最後の知識人」(小浜逸郎氏)と評された西尾氏の巨大な業績については今後多くの「西尾幹二論」が書かれるだろうが、思索のプロセスにおいては時に難解と思えるほど用意周到で慎重だった。

 他方、「教育という分野では論よりも事実をつくり出さなければ意味がない」とおっしゃられたことがあり、なぜそれがお分かりになるのか不思議な思いをした。実際、十の評論よりも一つの確かな事実(授業・実践)をつくりだすほうがはるかに価値がある。

 このような「教育における実践の優位性」の理解とおそらく同質のことなのだろうが、時々の政治的判断においてはストレートな主張を進んで表明された。

 アメリカの大統領選挙では、トランプ氏の当選を熱望しておられた。わずか5日違いで、結果をお知らせすることができなかった。

 日本の政治家では高市早苗氏を明確に支持されていた。私の記憶にある限り、政治家で路の会の講師に招かれた人は高市氏だけである。近親者のみで行われたお通夜には高市氏の姿があった。

 西尾氏は誰であろうと相手の社会的地位や肩書に関わりなく、その人の発言の内容に耳を傾けた。そして、よいところは褒め、励まし、多くの言論人を育てた。

 亡くなる数日前、すでに声を発することは難しかったが、意識は明瞭で、実に4時間にわたって内外の情勢を身近な人に語ってもらっていた。西尾氏は命が尽きる最期まで、世界への瑞々(みずみず)しい関心を失うことはなかった。(ふじおか のぶかつ)

訃報を受けて(三)

週刊新潮 令和6年11月14日号より

墓碑銘 歴史教科書だけではない西尾幹二さんの現実的視点

 西尾幹二さんと言えば、独自の歴史教科書作りを進めた保守派の論客として、まず紹介されることが多い。

 だが、その名が広く知られるようになったのは、1980年代後半、外国人労働者の受け入れに反対を表明した時だ。当時、好景気による人手不足で、不法滞在の外国人が就労するケースが増えていた。

 西尾さんは、彼らを日本の労働力に組み込めば、依存する状況がやがて固定化され、日本人が避けるきつい仕事を押しつけることで“階級社会”も生まれると唱えた。そして言語、宗教、日常習慣のような違いが許容限度を超えると日本人との摩擦も起こると懸念した。かつて留学した西ドイツでの体験をもとに、目先の経済合理性のために日本が余計な災いを背負う必要はないと警句を発したのだ。

 現在生じつつある問題を約35年前に西尾さんは明確にとらえていた。だが当時、経済大国となった日本は、外国の失業者の救済という人道面も考慮して責任を果たすべきだとの意見が大勢を占めていた。

 作家の石川好さんと月刊誌の対談で論争し、討論番組「朝まで生テレビ」では“鎖国派”として孤軍奮闘。国際化で文化の多様性が深まるとの楽観論に抗し、後世に禍根を残すと主張して一歩も譲らなかった。

 長年親交があった評論家の宮崎正弘さんは振り返る。「西尾さんは欧米を基準に置いたり賛美したりしません。日本が異質な存在だとも考えなかった。観念的で詭弁を弄する人を許さない姿勢が一貫していました」

 1935年、東京生まれ。東京大学文学部に進み大学院を修了。ニーチェなどドイツ思想を研究し、65年から67年にかけて西ドイツに留学。この経験をもとにした論考は三島由紀夫に称賛された。ニーチェ研究を専門とする一方、福田恆存に師事し文芸評論でも活躍。外国人労働者問題で時の人となる。「ニーチェ研究が根底にあった。徹底して調べ、現実逃避をせず本質に迫ろうとしていた」(宮崎さん)

 97年、「新しい歴史教科書とつくる会」の設立にかかわり、初代会長に就任。従来の歴史教科書の記述が日本を貶める“自虐史観”に陥っているとして、実際に教科書作りを始める。同会の委嘱を受けて西尾さんが99年に上梓した『国民の歴史』は70万部を超えるベストセラーとなった。

 もはや動かない「過去」と、人の心の動きによって変わって見える「歴史」は別物と考えた。日本の戦争は短い時間の幅でとらえず、数百年にわたる世界の出来事の中に置いて考察しなければ理解できないと語り、単純で一方的な「歴史」観に異議を唱えた。

 大阪大学名誉教授の加地伸行さんは思い返す。

 「時代の流行や気分で発言する人ではありませんでした。左翼が大手を振っていた時代に彼らの幻想や空理空論に全く同調しなかった。保守派とひとくくりされましたが、自分が考え抜いたことに基準を置き続けた」

 つくる会が作った歴史教科書は検定に合格したが、内紛から西尾さんは2006年に離脱。その後も言論活動を続け、時には自民党や皇室も容赦なく批判した。

 「講師を呼び議論する勉強会“路の会”を90年代半ばから主宰していました。好奇心の塊で、自分と異なった意見、初めて聞く意見に異様な興味を示す。居酒屋でも議論が続いた時には、割り箸の袋にメモを書き留めていましたね。何げないことから考えを深める構想力の持ち主です。よく喋り、カラオケでは小学唱歌を歌っていました。」(宮崎さん)

 近年は膵臓癌を患うが回復し、今年『日本と西欧の五〇〇年史』を刊行した。

 11月1日、89歳で逝去。

 自由とは自らが最大の価値と信じるものを選び取り、引き受けるという決断のために存在する。自由への覚悟はあるか、と晩年も日本人に対して問いかけていた。

訃報を受けて(二)

宮崎正弘氏

■訃報■
西尾幹二氏
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 けさ(11月1日午前四時)、息を引き取られた。個人全集二十四巻、あと一巻で完結というところだった。編集は終わっており、年譜を作成中で、じつは小生もちょっとお手伝いをした。それは西尾さんがたった一度だけ三島由紀夫とあった日付けのことだった。
 

 西尾全集はわが書架の福田恆存全集のとなりに並んでいる。よく拙著から引用され、評価していただいた。氏の特技は長電話。朝九時か十時頃にかかってくる。最低一時間のお喋りになる。

 思い起こせば三十年に及ぶおつきあいのなかで、私と会うときは、話題は三島由紀夫であり、国際情勢だが、ニーチェの話は殆どしたことがない。拙著『青空の下で読むニーチェ』には、感想がなかった(苦笑)。 
 

 『江戸のダイナミズム』で出版記念会をやりませんか、と提案すると真剣に応じられ、準備状況、発言者、当日用意する冊子など、およそニケ月の準備の時間は殆ど毎日、氏の自宅や版元の会議室で膝つき合わせ、あるいは会場での打ち合わせに費やされた。当日は四月というのに小雪が舞い、出足を心配したが、会場は四百人以上の熱気で埋まった。

 二次会はカラオケだった。氏は♪「湖畔の宿」を、小生は♪「紀元は二千六百年、病に伏される前まで毎年、忘年会は高円寺の居酒屋にお招きいただき、周囲構わず大声で論議風発、愉しい時間だった。大いなる刺激をいただいた。
 

 氏が主催する「路の会」は四半世紀続いた。月に一度、保守系の論客を講師にお招きして、ああだこうだと激論を闘わせる知的昂奮の場だった。西尾氏が急用時には、小生が二回代役の司会をつとめた。田村秀男氏と中西輝政氏を招いた時だった。おわると近くの居酒屋に場所を移して、さらに激論が続き、氏は割り箸の袋にもメモを取るのである。かえりは方向が同じなのでタクシーに同乗するのだが、延々と論争の続き、耳が疲れるほどだった。
 

 或る時、知り合いの雑誌の編集長から電話があって、カラーグラビアに「路の会」をとりあげることになり、大勢のメンバーがあつまって写真を撮った。全集の口絵に好んで使われた。 

  憂国忌には二度講演をお願いしたほか、出番がなくても時間が空いていれば出席された。

 氏は論争が大好きで、また相手構わず激論を挑む。現場で見たのは岡崎久彦氏への面罵、そして小泉首相を「狂人宰相」と名付け、また安倍晋三首相をまるで評価しない人だった。

 台湾に一緒に行く前日になって、台湾大使が「野党が西尾氏の訪台を政治利用しようと、いろいろと企んでいるので、延期して欲しい」となって、せっかくの旅行はそのまま中止となった。国内旅行は三重の長島温泉など。

 氏はまた読者、ファンをあつめて西尾塾とでもいうべき「坦々塾」を主催され、二回ほど講師に呼ばれて喋った。初回は四谷のルノアールに二階を貸し切った。

 次々と走馬燈のように思い出が尽きない。西尾幹二氏は不出生の論客にして思想家だった。
 合掌
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訃報を受けて(一)

「新しい歴史教科書をつくる会」

 西尾幹二初代会長が逝去されました。

 新しい歴史教科書をつくる会の初代会長である西尾幹二先生が、本日11月1日、お亡くなりになりました。享年89。

 西尾幹二先生は、平成9年、日本に蔓延している自虐史観の払拭を目指す人々とともに「つくる会」を立ち上げてその先頭に立って活動され、日本人の歴史認識の改善に大きく寄与されました。また、ベストセラーである著書の『国民の歴史』によって、多くの日本人を目覚めさせました。

 先生の生前の多大なご功績を偲ぶとともに、安らかなご冥福を心からお祈り申し上げます。

 なお、通夜・葬儀につきましては来週、家族葬として行い、後日、お別れの会が催されるとのことです。

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の三

『月刊正論』7月号より 力石幸一

略奪資本主義とアメリカ

 西欧諸国による海洋の争奪戦を主導したのは、キリスト教カトリックとプロテスタントを代表するスペインとイギリスであった。

 スペインは、カール五世が1519年に神聖ローマ帝国皇帝に就いた時から、新大陸の略奪によって一気に大帝国に成長する。その過程で、インカ帝国やアステカ帝国は、スペインの圧倒的な武力と彼らが持ち込んだ伝染病によって滅んだのは誰もが知る歴史だ。しかしここで特筆すべきは、スペイン国内で、インディオの土地や財産を奪うことは果たして許されるか否か、その前にそもそも人間であるのか否かをめぐる熾烈な論争があったことだ。

 ドミニコ会士ラス・カサスとセブールベダという哲学者の間で「パリャドリッド大論戦」があったことは有名である。しかし、この論戦の文書は残されていない。そこで本書は、サマランカ大学の神学教授であったフランシスコ・デ・ビトリアの議論を取り上げる。著者は、ここで自分の解釈を述べるのではなく、ビトリアのせりふをそのまま紹介し、議論の臨場感を示そうとしている。ここにこの本の無言の自己主張がある。

 ビトリアは、インディオの権利を擁護し、万民法を国家の上位に置き、グロティウスらに先だって「国際法の父」と呼ばれた。ビトリアはすでに「人類」という言葉を使っていた。その知性はすでに近代社会を確実に視野に入れていた。しかし、ビトリアの目指した近代社会はどこまでもキリスト教世界の内側という限界のなかにあった。

 ヨーロッパ世界は、古代とは切り離されていた。そこにイスラム経由でアリストテレスの哲学がもたらされる。スペインにおける論争では、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの神学が強く意識されたが、それらを超えて議論の中核にあったのはアリストテレスだった。しかし、彼らはアリストテレスの「先天的奴隷人説」を奴隷貿易や略奪を正当化するために巧妙に利用した。ここに西欧の欺瞞があった。その論争の内容をいまここで解説することはできない。

 ただ言えるのは、西欧は、世界に空間と権益を拡大させていく一方、彼らの精神はキリスト教中世の中にとどまっていたことだ。そしてその呪縛は今も続いている。そのことが、現代のわれわれが抱えている困難の原因なのではないかと著者は問いかける。

アメリカという国

 西欧の500年は、つきつめて言えば、イギリスがスペインを追いかけ、追い詰め、追い払う歴史だった。イギリスの植民帝国のつくり方は巧緻を極めていた。徹底して「海」から「陸」を抑え込むという独自な知恵があった。海洋覇権の方法はそれぞれの国によって違っていたが、共通していたのは富の収奪による「略奪資本主義」が基本だったことだ。そして、資本主義の発展に伴って政治体制としての王国は終わり、近代の国民国家が生まれてくる。その行き着く先がアメリカという異形の国家だった。

 アメリカという世界史のなかでも特殊な国の歴史を掘り下げるために著者は、二つの命題を立てる。第一の命題は、「アメリカに国際社会は存在しない」というものだ。アメリカは国であるが、同時に世界でもあって、他国の干渉を嫌う一方で、他国には自国の価値観を押しつける。二つ目の命題は、アメリカは旧世界に比べて退廃していない、純潔の国だという自己認識である。つまり、アメリカとは表面上は普遍的価値を謳いながら、実際の行動は他を顧みない自分勝手な力の行使を辞さないという矛盾を内包した国だということだ。

 その国土の豊かさからアメリカは植民地を必要としなかった。しかし、リンカーン時代の国務長官であるウィリアム・ヘンリー・スワードはアメリカの覇権を確立すべく権益の拡大に努め、アメリカの支配領域を着実に増大させていく。1853年に日本に渡来したペリーは同時代人であり、彼もまた拡張主義者だった。

 アメリカの西方拡大をマニフェストデスティニーといえば美しく響く。しかし、ヨーロッパに対してはモンロー主義を言いながら、実際はアメリカの権益の西方拡大と覇権主義を進めるという矛盾に満ちた行動の正当化にすぎない。その背後にあったのはやはり千年王国論である。

 それではアメリカには中世があったのか、それともなかったのか。古代の奴隷制から直接近代に入ってしまったという見方もあればアメリカはいまだに「自分の身は自分で守る」しかない中世の暴力的世界のままだという説もある。著者は、あえてどちらとも決めていない。おそらくはどちらも正しい。それだけの大きな矛盾がアメリカという国の特異性の根底に存在すると理解すべきなのだろう。

日本の自己認識

 それでは、日本の500年はどうだったのか。西欧の500年と拮抗できるだけの歴史が日本にあったのか。

 著者は、呉善花氏の「日本はイデオロギーを持たない稀な国家」という指摘に足をすくわれるような衝撃を受けたという。韓国は仏教も陽明学も捨てて朱子学に転換した。ところが日本は八百万の神といいながら、何を基準にしているのかわからないというのである。

 この批判には、日本は自己を捨てて多角的にものを見てきたが、中国や韓国は自己中心的で他者に照らして自分を省みないと反論することも可能だ。しかし、日本は自分を無にして西洋近代に追いつこうと努力を重ねて大国の仲間入りをした。アメリカとの戦争に敗れたとはいえ、見事に復興を果たした。ところが今、西洋近代500年はほころびを見せ始めている。日本はどこへ進むべきなのかが問われている。私たちの原理とは何なのか。そこには日本人の自己認識という問題が横たわっているのではないか。

 17世紀にはアジアの海は騒然とし始めていたが日本列島の東側の太平洋は人影も島影も見えない北太平洋という闇が広がっていた。その地政学的条件が日本を守っていた。そこにわが国の250年に及ぶ優位と迂闊さ、合理性と手ぬかりという矛盾が象徴されていると本書は鋭く指摘する。世界からの無関心に安住した日本人の迂闊さは、江戸時代だけの問題ではない。今まさに目の前に同じ問題がつきつけられているのではないか。

 本書を通読して痛感するのは、歴史において他者を認識することがいかに難しいかということだ。そして同様に自己を認識することも。

 本書を手がかりとして、さらに日本人の歴史認識が深化することを期待したい。

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の二

『月刊正論』7月号より 力石幸一

世界史の大転換はなぜ起きた

 大航海時代という世界史における巨大な転換がなぜ起きたのか。なぜヴァスコ・ダ・ガマはアフリカの西海岸周りでインドへ向かう航路の発見という冒険に乗り出していったのだろうか。そこには大きな謎がある。

 イスラムによって不自由になった地中海を経由せずにアジアとの交易ルートを取り不自由にな地中海を経由せずにアジアとの交易ルートを取りり戻したいという経済動機を主因とするのが通説である。しかし本書はヨーロッパの精神状況にその原因を求める。「もっと大きくて重大な動機として信仰の試練があったのではないか」というのだ。ここに本書の中核的テーマがある。

 当時のヨーロッパは世界の辺境にすぎなかった。キリスト教徒たちは世界の終末が近いと感じ逼塞した心理状態にあった。その中心にあったのが、「千年王国論」だった。

 千年王国論には、三つの型があるという。前千年王国論、後千年王国論、無千年王国論である。

 前千年王国論は、キリストの再臨が先で、その後に千年王国が実現する。神の再臨を千年王国の実現の後に置くのが後千年王国論。前者は、革命によって理想社会がつくられるというマルクス主義的革命幻想そのものだ。そして後者は神は再臨するがそれには時間がかかるという保守的な漸進主義につながる。

 最後の無千年王国論は、千年王国はすでに教会の中に実現されているというアウグスティヌスの『神の国』の考え方であり、これこそがカトリック教会の立場であった。

 この千年王国における分裂は、キリスト教教会が誕生して以来の「正統と異端」の対立が宿命的に抱えている矛盾でもあったが、千年王国を希求するキリスト教信仰が海洋支配へと西欧諸国を駆り立てていった内部の暗い情念であったことに違いはない。

境界画定は西欧の発想

 西欧諸国による領域拡大に付随したのは、それまでの世界にはまったく見られなかった残酷さと暴力性であった。最初にアフリカ喜望峰周りの航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマは、ムスリムを虐殺するのみならず多数の住民を殺害しても顔色一つ変えなかったという。

 海はそれまで誰でも自由に航行できる空間だった。それなのにポルトガル人はインド洋に「ポルトガルの鎖」と名づけられた海上の囲い込みを実行した。貿易に従う船はすべて通行証(カルタス)を要求された。このカルタス制度によってインド洋に新しい帝国が生まれた。それまでの帝国は「陸の帝国」であったが、ポルトガル人がインド洋につくったのは「海の帝国」だった。まさにカール・シュミットの言う「陸の時代から海の時代」への大転換が起きていたのである。

 その最大の実現が、有名なポルトガルとスペインの間で結ばれた、地球を二分する「トルデシリャス条約」であった。

 「この幾何学的領土分割の『境界画定(デマルカシオン)』こそ、ほかでもない、すぐれてキリスト教的、西洋的観念の所産であり、世界の終末は近いというあの千年王国の幻想と危機感、自己破滅と自己膨張の一体化した、地球全体を神の名において統括し救済せんとする特異なイデオロギーにほかならない」と本書は特記する。

 多様な自然を尊重する日本を含む多神教の民族にとっては、自由な空間に境目をつけて自らのものにするという考え方は想像すらできない発想であった。

 マゼランたちが世界の海を征服しようとしている時、日本では、豊臣秀吉が世界制覇の野望を抱き、大明帝国に挑戦しようとしていた。

 日本の武威はスペインのフェリペ二世にも伝わり、彼をして日本との戦いを思いとどまらせたほどだ。しかし、秀吉には大明帝国を征服する意図はあったが、海洋を含む領土に境界をつくるという発想はなかった。そしてなにより決定的に欠けていたのは、キリスト教的千年王国という妄想だったのである。

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の一

力石幸一 徳間書店 学芸編集部

西尾幹二様

このたびは、大役をおおせつかり、汗顔の至りです。

なんとかご著書『日本と西欧の五〇
力石幸一 徳間書店 学芸編集部 〇年史』の書評をまとめてみました。

今回のご本は、あまりにも多くの視点から歴史をとらえられているので、どこに絞りこむかに相当悩みました。ドストエフスキーの大審問官のエピソードにからめて自由の問題にも言及したかったのですが、枚数も限られており、結局取り上げられませんでした。

本文の概要を説明するだけでも精一杯で、個人的な感想などもあまり入れられませんでした。

また、理解が及んでおらず、間違った解釈をしているところもあるかもしれませんが、ご指摘いただけたら幸いです。

なにとぞよろしくお願いいたします。

力石氏『正論』2024年7月号より

従来の歴史書の概念覆す衝撃の書

 これまでの歴史書の概念をひっくり返すような衝撃的な本である。歴史について多くの人が持つイメージは、一次資料に裏付けられた事実と、その事実を時系列に沿ってストーリーで語るというものだろう。E・H・カーは、「歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話」(『歴史とは何か』)だとする。いかにも優等生的な定義だが、そんな歴史が何の役に立つのか。歴史とはもっと暴力的で血なまぐさいものではなかったか。

 本書を出色の歴史書にしている大きな要因の一つは、「権力をつくる政治と権力がつくられた後の政治」を峻別したことだ。

 「どこかで権力がつくられた後、その後追い解釈で、ワシントン会議がどうだったとか、あれこれ議論しても、全部権力がつくられた後の始末というか、それをめぐる政治にすぎない。権力をつくる政治はこれとは別である。権力をつくる政治は剥き出しの暴力である」

 まさに同感だ。とりわけ戦後日本で語られてきた歴史とは、「権力がつくられた後の政治」にすぎず、今もまだそこから抜け出せていないどころか、その中にいることにすら気づいていない。「権力への意志」なきところに歴史はない。これまで歴史を読みながらずっと感じてきた違和感の正体はまさにこの点にあったことに改めて気づかされるのだ。

100年ごとに遡れば見えてくる

 本書は、歴史考察の時間軸もこれまでとはスケールを異にする。日本人は、「今次戦役の背景を知るのにせいぜい100年どまり」だったが、それでは不十分では不十分で、500年くらいは射程に入れなければいけない。まさに西欧近代500年そのものを問おうというのである。

 では西欧の500年を100年ごとに区切ったらどう見えるだろう。2015年を起点として、100年というと、1914年に第一次世界大戦が始まり、それを契機にイギリスからアメリカへ覇権が移動する。

 さらに100年をさかのぼると、ナポレオン戦争が終わり、ウィーン会議で西欧各国は絶対王政に戻ろうとするが、革命を知った歴史はもう元へ戻ることはなかった。

 その100年前には、1713年にスペイン継承戦争が終結し、スペイン=の1519年にスペイン=ハプスブルグ帝国はルイ十四世の手に落ちる。

 さらに100年前、1618年に三十年戦争が始まり、この戦争の結果ウェストファリア体制が確立し、主権国家の時代が始まる。

 その100年前の1519年にスペイン=ハプスブルグのカール五世が神聖ローマ帝国皇帝となり、太陽の沈まない帝国の基礎をつくる。

 このように100年ごとに時代を区切るだけで、西洋史の見通しがずいぶんよくなることに驚く。

 こうして西欧の500年を概観して、まず気づかされるのは、それが王朝の戦争史だったことだ。なかでも、カトリックとプロテスタントを代表する二つの王国スペインとイギリスである。五世紀にわたって一貫して覇権意志を示した両国が競い合ったのは、アジアの海洋における覇権であった。つまり西洋の500年とは、まさに大航海時代の幕開けとともに始まったのである。