『遠い日の幻影』感想文

土屋六郎氏による感想文がコメント欄に投稿されました。
皆様に読んで頂きたいので、こちらに投稿します。(管理人)

西尾幹二『遠い日の幻影』について 第1章「暮らしのつれづれに」は、二つの短章による序奏で始まり、戦時中の少年期の思い出を語るエッセイが続く。父君・母堂の面影や疎開先で「大きく体内に吸いこんだ」移り変わる四季のみずみずしい描写は読者に強い印象を残すであろう。氏の『少年記』が描き切った牧歌的な部分でもある。そして、葬式や墓の話、死をめぐるエッセイがいくつか並び、われわれの内省や微苦笑を誘う。

 西尾氏の文章は世の通念をはぎ取り鮮やかな認識を提示するのが魅力である。
 「よく子供は厳しく育てよ、という。過保護はろくな結果を生まない、ともいう。しかし私は画一化されたそういう言い方を好まない。もし私が集団疎開に送られていたら、私のようなタイプの、家族の愛にだけ包まれ、家族の外の世界には恐怖以外を感じなかった社会性の未発達な子は、どんなに辛い、苦しい体験をしたか分からない。場合によっては、精神の形成に致命的傷を与えられていたかも知れない。私は母の動物的母性本能から出た、子供を自分のそばから離すまいとしたあの必死の行動によって、しっかり守られたのである」。

 また、『断念について』では古代ギリシャの哲学者エピクテトスの断章集(フラグメント)の読み方を教えられる。奴隷であったエピクテトスの言葉「自由人になる唯一の道は、われわれの力の及びうる範囲内にないものを軽蔑することである」を氏は以下のように解説する。

 「心の平静は、ここでいう『軽蔑する力』の大きさによって得られる。負け惜しみとか引かれ者の小唄と間違えられかねない。けれども、奴隷の身で一般人と同等の、あるいはそれ以上の自由の意識を得るための断念には、強い意志の力が秘められていると私は見る。激しい情熱が前提とされているようにも思える」。
 「古代の哲人の言葉はどこか過度に論理的で、人情味に乏しいと思われる例が多い。エピクテトスも例外ではない。
 だが人情の板ばさみになって自殺したり、派閥にはさまれてウロウロするたぐいの現代人の人間的弱さは、本来自分に属していないものを『軽蔑する力』、古代的断念の覚悟の、余りといえば余りの欠落のせいである。
 断念は決して諦念ではない。諦めではない。意志の働きの帰結であり、願望との戦いの結果である」。
 批評、評論が文学になるのはただこういう文章によってである。

 「水のかき消える滝」という歌人で小説家・内科医の上田(うえだ)三四二(みよじ)を悼む文章に、仏教の教えは来世を期待することと同じではない。むしろ期待しない心を鍛えることにある」という印象的な言葉があるのを付言しておく。 第2章「私の本棚から」では多彩な本と著者が論じられる。

 『私の読書遍歴』では、「ニーチェと小林秀雄と福田恆存を愛読してきた。というより耽溺してきた。ドストエフスキーやパスカルもよく読んだ」と書かれるが、読者は何の不思議も違和感もないであろう。萩原朔太郎についても、少年期の耽読の対象として氏の読者は承知しているはずだ。その後に挙げられる、山村暮鳥、井伏鱒二、三木露風、近松秋江、荷風、中勘助『銀の匙』を見ると、氏の心に織られた別の生地が垣間見られる。また、少年期に出会った『異邦人』、『地下生活者の手記』に「魅きこまれた」という記述に、氏の生涯のテーマ「精神の自由」の秘密が潜んでいるように思われる。

 「大岡昇平全集の刊行にふれて」では「俘虜記」が扱われる。今や忘れられた本のようにも思われるこの名作を、「能うかぎり透明な知性、強度の反省意識に支配されて、情緒や感傷に逃げていない」との評に頷(うなづ)き、この知的興奮をもたらす書物を再び手に取ってみようと思う読者は少なくないだろう。
 また、オイゲン・ヘリゲル『弓道における禅』を論じた『無心』は、肉体運動をつかさどる奥義に穿(うが)ち入った逸すべからざる佳篇である。「人間の身体運動の多くには、われわれの知識の及ばない合目的性が支配し、個体としてわれわれには決して意識されることのない、この上なく高次の知性が、身体の動き全体をつかさどっていると考えなければならない。人間の自己意識などは、この高次の知性からみれば単なる道具にすぎないのである。つまり、人間の思考の行為においては、『私が』なにかをするのではなく、全体をつかさどるこの知性が『私を』働かせ、なにかをさせるのだと言っていい。弓道の師範が、“それ”と呼んだのは、『私』を超えている、この意識されえないものの、独自の働きを指しているのであろうと考えられる」。西尾氏が描いている精妙なメカニズムは小林秀雄の砲丸投げ選手を論じた美しいエッセイ『オリムピア』と共振しているように思う。

 そして、山東京伝の黄表紙の代表作『江戸生(えどうまれ)艶気(うはきの)樺(かば)焼(やき)』という意外なレパートリーを材料に語られる『通と野暮』では、「西欧から法と契約に基づく社会規制を取り入れて百余年を経過したが、日常生活における他者との付き合いで大切にされている部分は」、江戸時代と変わらず依然として、各社会集団において各「個人はきわ立った業績を挙げることなくひたすら自分の『通人』ぶりを人に見せまい、すなわち『野暮』であるまい」という義理と温情と平等を大切にする家族主義的気風であることが指摘される。「『通』を気取ることが結局は一番の『野暮』なのだという逆説が」明治百五十年を超えて牢固として残存しているのが、日本社会であると再認識することになる。多文化共生などという空言の入り込む余地のない文化の規範性の強さに呆然たる思いもする。

 次の『権力』では、古代中国の統治思想である法家(ほうか)、特に韓非子を取り上げ、「日本の歴史の中にはおよそ存在しない規模の人間悪への洞察と、権力希求の構造解明がなされていて、日本人はこれと比べればなんと自我が弱く、お人好しで、センチメンタルな、植物的民族であるかをあらためて思い知らされるのである」と指摘される。「『韓非子』に描かれているような徹底した人間不信と、人間が互いに人間を警戒し、侮蔑し合っているがゆえに要請される法の権威は、なるほど近代国家になってから以降、考え方として西欧世界からも輸入されはしたが-例えばホッブスの国家観―とり立てて日本人の骨身にこたえて体験されてきたという痕跡は見出し難い」。「人間はエゴイズムを持つがゆえに、多数のエゴイズムの調節機関としての国家、あるいは法秩序が、やむを得ぬ必要悪としてーカントやヘーゲルの言うように決して道徳としてではなくー要請される」。「中国史において重要であった、このような悪の自覚と本気で取り組まなかった日本の精神史は、西洋思想と出会っても、同様な問題回避を繰り返して来たように私には思える。例えばキリスト教のうちにつねに愛の思想のみを見て、この思想の献身や自己犠牲や彼岸の救済の理念のうちに、裏返された弱者の権力欲を見とどけたニーチェやロレンスの問いを、日本の精神史は自分の中にどのように位置づけて来ただろうか。とにかく日本は、非常に特殊な国である。自分の内部の権力欲を見たがらない日本人は、他人の内部にある権力欲に対しても警戒心を欠いている」。

 自他の権力欲や人間悪を見ないわれわれの特質は、国会論戦やマスメディアの論調、多くが死屍累々の経済界の海外進出や企業買収を見れば思い半ばに過ぎるであろう。ロレンスの黙示録論『現代人は愛しうるか』の翻訳者福田恆存は、同書を「人間を造りかへる書物」、「この一書によって、世界を、歴史を、人間を見る見方を変へさせられた」、「私に思想といふものがあるならば、それはこの本によって形造られた」と言った。ニーチェ研究家にして「アンチクリスト」の翻訳者たる西尾幹二とともに、西洋の太宗と格闘した例外的な覚醒者である。後段のエッセイ「私が出会った本」の中で福田恆存を論じて、「世間は政論家としての氏の仮面に欺かれて、その奥にある思索人としての氏の巨きさと独創性とを未だに知らない」の一文は、後世によってその意味を読み解かれなければならない。

 次のエッセイ「言語と朗読」も、同じく日本に残された問題に触れている。文学作品の朗読を習慣としているヨーロッパでは、「最初に語りかけがあって、それが詩となり、小説となるので」あって、「文学は聴き手となる相手もなしに、ただ空へ向かって表現される独立した抽象的世界ではない」。
 日本でもたとえば枕草子を読めば、平安朝では漢詩も和歌もは朗詠するものであったことが分かるし、聖書の音読は文語訳によってでなくては、西尾氏が言う通り「内容までが薄っぺらに感じられてくる」。

 「明治時代に口語体は言文一致を目指していたはずなのに、言葉の強弱やリズムを失って平板化し、かえって音声化に適さなくなったという逆説が厳としてあるように思われる。
 “語り言葉”である口語体が『語りかけ』に適さず、むしろ『描く』ことに適している。逆に、聴き手に対し音楽性をもって語りかけるには、日本語の伝統としての完成された和文脈・漢文脈の総合体である“書き言葉”、すなわち文語体の方がより適切であろうというのは、大変に微妙かつ不可解な現象であるが、しかしどう考えても、明治以来の日本語を一変させたこの大きな変革に、日本語が『声』を失った根本の原因があるように思えてならない」。

 七五調の韻律と漢文訓読調の諧調から離れた口語で、どう詩の音楽性を成立させるかという試みが例えば萩原朔太郎の詩集『青猫』であった。しかし白秋や中也に横溢しており、朔太郎にしても「純情小曲集」の魅力の源泉を成していた伝統的韻律なしに、詩の富をいかに奪還するか、現代詩人の苦闘は他人(ひと)ごとではない日本語全体の問題である。

 続くエッセイで『戦争直後に日本の戦争を擁護したあるアメリカ要人』と題されたのはヘレン・ミアーズ女史であり、名著の誉れ高い『アメリカの鏡・日本』の核心が次のように紹介される。
「われわれは明治の開国に次いで、先の敗戦を第二の開国と呼ぶ習慣になじんできたが、はたしてそれでいいのだろうか。日本は明治から第二次大戦まで孤独ながらも開かれた道を歩んできて、敗戦後ふたたび」「マッカーサー将軍が日本列島に上陸し、その道を閉ざした」。
 このミアーズの活眼に注目し、その「意味をあらためて熟考してみたい」と語る西尾氏の言を通じて読者も原著に関心をそそられるであろう。

 第2章最後のエッセイ「便利すぎる歴史観―司馬遼太郎と小田実」。
 「司馬は維新を近代革命とみなし、日露戦争を祖国防衛戦争ととらえ、日本人が素朴に国を信じた時代があったことを絵解きした。彼が知識人の世界にではなく大衆的基盤において、戦後の小児病的反戦平和主義を破壊する上で強力な役割を果したことを認めるに吝かではない。けれども明治に対する高い評価と余りに著しいコントラストをなす昭和の否定は一体何であろう?」
 「良いものもいやなものもともに自分の歴史ではないか。暗黒と失敗と愚劣と逸脱の昭和史も、自分の歴史以外のなにものでもあるまい。人は悲劇を後悔しても始まらない。悲劇に終わった歴史もまた自分のいとおしい肉体の一部なのである。いったい歴史に非連続はあり得るのだろうか」。
ドイツ前大統領ヴァイツゼッカ―は、日本に来てこう言った。「十二年にわたるナチス支配はドイツの歴史における『異常な時期』であり、その一時期だけナチスといういわば暴力集団に歴史が占領されたが、今はドイツは彼らを追い払って清潔な民主国家に生まれ変わった」、「それ以前の歴史にもそれ以後の歴史にも悪魔はいない、と」。
 西尾氏は言う。「こんな便利な考え方は通らない。ドイツにおいてもやはり歴史は連続している。ナチスにはそこに至る前史があるはずだ。またナチス協力者千二百万人が裁かれずに社会復帰した戦後史もある」。
歴史に自分の見たいものだけを見て都合よく裁断する点において、司馬遼太郎とヴァイツゼッカ―は同じだと西尾氏は言っているのである。 第3章「ドイツで考えたこと」の中のエッセイ『変化したヨーロッパの位置と日本の学問』は、また違う切り口で日本近代が乗り越えられずにいる問題を提起している。世界のどの新聞も日本経済を扱わない日は一日としてないが、日本の経済学者の論説や分析の紹介はまずない。世界は日本経済自体には関心を寄せても、「日本人のロゴス(言葉)を無視し続けているのだ」。経済学だけではない。「『実存』を欠いた日本の人文社会系学問一般」の学者にその壁を乗り越えるつもりはあるのか。また、「明治以来あり得ないと考えられて来た日本の技術の急伸、能率主義の優位を、どう世界に説明するかは、例えば日本の哲学の重要な課題であるべきはずである」。

 近代欧州の代表的思想家ヴァレリーやオルテガは欧州以外の文明を睥睨して自らの優位を確信した「断固たる物言い」をしていたが、日本の「とりわけ人文社会系学問はいまだ根底において“ヨーロッパ学”」で、「日本を肯定的に語ることに猛烈な心理的抵抗を示すか、あるいは「彼地(かのち)で教養に(ママ)つけた若い学者に、ヨーロッパに劣等感を抱かない代りに、文化的断絶観や文明の形式の微妙な差異を、もうまったく感じ取ることが出来ない人々が出現している」。
 この辺の景色は日本の知識人を眺めていればさして目新しいものではないが、西尾氏の真骨頂は次のような洞察にある。
 「ヴァレリーやオルテガが見せたあれほどの自信は、ヨーロッパが学芸だけでなく、当時、技術力・産業力・資金力等において世界に冠絶するものを誇っていた、物質文明の力に裏打ちされている。ヨーロッパの知性はつねに自分の力の源泉を正視するリアリズムに立脚している。
だとすれば、(中略)彼らのリアリズムに立脚した自己正視の精神の型をこそ踏襲すべきではなかろうか」。

 今、日本の技術や産業の優位と活用を説いているのは総理大臣高市氏であって、学者からはその成立事情の知的興奮に富んだ論証が絶えてなされないとすれば、日本の人文社会系学問の自立未だし、と言わなければなるまい。 第4章「先人たち、友人たち」は短調で書かれた心に沁み入る文集である。
 哲人田中美知太郎への敬慕の念を湛えたエッセイ、三島由紀夫の姿とその謎を活写した短章、手塚富雄の翻訳がどう優れているかを説き明かしたエッセイ、友人柏原兵三への惻惻(そくそく)たる挽歌。白眉は福田恆存と坂本多加雄追悼文である。
 『現実を動かした強靭な精神―福田恆存氏を悼む』に卓抜な指摘がある。

 「日本の戦後史を知る者は、『平和論の進め方についての疑問』の反対の言論を破壊するエネルギーがいかに大きく、日本の外交的進路にいかに目に見えない影響を与えたか、また『私の國語教室』という一冊の本が、国語のあれ以上の崩壊をいかに強力に食い止めたか、忘れることはできまい。

 世の知識人の言葉は論壇や文壇に作用することはあっても、現実に作用する力をもたない。たいていの思想は実用性に堪えない。しかし福田氏は違う。それは国語問題を保守的文学趣味で論じないで、一貫して文法の問題として論じ切った強靭な合理精神のしからしむる処である。それでいて『言論の空しさ』という文章で、氏は自分の平和論批判が正しかったから世の中が變わったのではなく、『世の中が變わったので、私の考へが正しかったといふ事になっただけの話である』と正確にみている。これは謙遜で言っているのではない。現実の大きさ、恐ろしさ、計り難さ、すなわち運命というものを知る人の言葉である」。

 福田晩年のエッセイ『言論の空しさ』をそのまま言論の有効性への慨嘆とだけ受け取ったわれわれの読解力がなかったということだろう。とすれば、われわれも西尾氏のひそみに倣って言わなければならない。西尾氏は  
 「新しい歴史教科書をつくる会」の運動は「どうしても目ざましい成果をあげることができなかった」(p44)というが、その志は自由社や竹田恒泰氏の教科書へと展開され、決着は今後に託されている。

 また、移民問題にしても、『戦略的「鎖国」論』が出たのは実に1988年に遡る。安倍内閣から菅・岸田・石破へと、その功無きが如く外国人流入は止めどなく増大し続けたが、恐らくは近年どこかで国民意識が臨界点を超え、「日本人ファースト」を掲げた参政党の躍進、外務省・JICAの「ホームタウン」構想への猛烈な反対運動を経て、高市内閣成立で国民意志は明確な転機を画した。西尾氏の著書や媒体での孤軍奮闘が深いところで国民意識を動かして来た結果でないとどうして言えようか。あるいは氏は、「世の中が変わったので、私の考えが正しかったという事になっただけの話である」と言うだろうか。

 『愛国者の死―孤軍奮闘した坂本多加雄氏の急逝』は痛惜と義憤の文章である。
 坂本氏は「『つくる会』の創立メンバーであった最初の四人の一人である。(中略)坂本さんは学問と行動を器用に区別し、それぞれ別の顔を見せようとした人ではなかった。彼の学問は彼の行動に基礎づけられ、その上に成り立っている」。彼の行動が学問に基礎づけられたのではなく、行動が先にあることに注意が必要だろう。最後に坂本氏への弔辞が全文載せられている。その後半では、坂本氏が委員を引き受けた、福田康夫官房長官の私的懇談会「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(通称、靖国追悼懇)への痛烈な批判が放たれる。葬儀にはそのメンバーも参列していたが、もちろんそんなことは問題にならない。西尾氏は坂本氏の霊に向き合い弔いを捧げているのである。
 「貴方はこう言いました。『国の追悼施設は今まで存在した。それは靖国神社であって、かつても今も変わらない。新しい代替施設は必要ない』と。
 坂本さんのこの認識は特別偏ったものではなく、国民の常識のラインに近いものです。
 (中略)坂本さんは日本人として、日本の歴史の連続性を重んじたごく当り前のことを述べたにすぎません。それが会議の席で、孤独な戦いになるのは、そもそも会議の委員の選び方に間違いがあり、好んで曲学阿世の徒が選ばれ、坂本さんがひとり苦悩を深めざるを得なかったのは、思えば痛ましい限りです。坂本さんがこの会議のストレスで病を重くしたことは疑いを得ません。
 (中略)この国の主権を守っているのは政府でも、外務省でもありません。例えば横田めぐみさんのお母さんのような心ある個人です。
 坂本さんもその一人です。
 坂本さん、ありがとう。私たちが衣鉢を継ぎます」。
 先月の自民党総裁選挙で林芳正氏は今以てA級戦犯分祀論を唱えた。政界・学会・経済界・マスメディアの日本のリーダーたちの多くは、依然として国民の常識の水準に達していない。 

第5章「日本および日本人について」
 どのエッセイも西尾氏の言うところは具体的かつ的確にして陰影に富んで深く、いかにもその通りだと思うのだが、時に十分こちらの理解が及ばず、その意味するところをわがものとし得たか、もどかしい一篇もある。
 その中で、平家物語論『日本人と時間』が新たな発見であった。平家物語は一門滅亡の全歴史を描くに、複数の視点を移動しながら多様な認識を並列させ、すべてを相対化する諦念を内にこめて描かれており、一瞬一瞬が完結し、同一の出来事が単調に周期する永遠の時間が流れていると西尾氏はいう。私はそのことに、またそれが日本人の時間感覚であることに、まったく気づいていなかった。西洋長編小説の、「細部が一つ一つ生きて、それが全体へ無駄なく積み重なって行く叙事的論理性」を持つ「ヨーロッパ的時間観念」とは全く別の世界である。氏の認識を獲得できるか、あらためて平家を読んでみたいと思う。

 第6章「ニーチェをめぐって」
 ニーチェを語る、触れれば火を噴くような短章群が並んでいる。
 西尾氏はヨーロッパにとって古代ギリシャは、「美や智慧の唯一の規範であり、青年教育の鑑(かがみ)でもあった」とし、ギリシャ研究は「ただの学問研究ではなかった。ギリシャを現在の自分の生活の場に引き据える実践であり、体験であり、行動であり、ときには信仰にもほぼ近いなにかであった。ギリシャは学習するものでなく、獲得するものであった。自分が主体的に対決し、自分の学問の体験とする相手だった」と言う。二―チェはそうした真の古代学を念頭に置き、『歴史の学問』の一つである既成の古典文献学を排撃」する。「ニーチェは直接性の回復を訴えたのだ。広く、かつ多く知ることは真理体験を困難にすると言っている。血をほとばしらせるような野生の叫びである。学者を顰蹙(ひんしゅく)させる大胆な断定である。そして真の知識は行為と一つになるという、往々にして歴史の曲がり角に過激に現われる『知行合一』の教えがここにも現われている」。

「歴史の曲がり角」に現われた「知行合一」の徒、例えば後期水戸学派は西尾氏の偏愛する精神の血族であった。
 「ここに、聖書を文字通り『神の言葉』として扱い、手ひどい火傷をする宗教家にも似たなにかがある」。「思想と実生活、認識と行為との一致というようなことに取り憑かれると、人はなにほどか狂的な相貌を帯びてくるのが常である」。「言行一致は身を破滅させる」。
 吉田松陰やゴッホが想起される。小林秀雄の『ゴッホの病気」を引用するのを許されたい。
 「諸君は、私を個性的な人間だと言ってくれるが、私の個性の中で最も個性的なものは何んであったか。私の精神病ではないか。私が戦った当の相手ではないか。私は戦ったが、遂に力尽きて自殺するに至った。正気の時の私も、まことに風変わりな人間であった。私は、私の個性の烈(はげ)しさ故に、優しい弟とも敬愛するゴーガンとも衝突しなければならなかった。誰ともうまくやっていくことが出来なかった。私は、自分の個性を持て余した人間だ。個性的なものなど、なければないで、どんなに済ましかったであろう。諸君は、私が止むを得ず、現したところを、私が失敗したところを言っているのだ」。
 ゴッホは画家になる前、「自分のうちに目覚めた大きな飢渇を癒すものは聖書より他にないと信じ」、「何ものかが牧師という天職に向かって自分を駆りたてると感ずる」(小林秀雄『ゴッホの手紙』)。そして「説教師として単身ボリナージュの炭鉱に赴」き、「手ひどい火傷」をした人である。

 エッセイ「歴史と文学」はエッカーマン「ゲーテとの対話」を引いて始まる。
 「近頃の歴史家にいわせると、ローマの英雄などはみな作り話だということになるらしいが、まあおそらく歴史家たちの言う通りだろう。英雄譚がみな作り話というのは多分本当だろう。しかし本当だとしても、そんなつまらぬことをわざわざ言ってみても仕方がない。ああいう立派な作り話をそのまま信じるほどわれわれも立派であってよいのではないか、と言っている」。
 これとまったく同じ箇所を、小林秀雄が確か戦時中の講演で引いている。また、西尾氏は「江戸のダイナミズム」で神話と歴史について精緻な議論をしていたはずだ。ゲーテの言葉は、「ローマ」を『古事記』と換えればわれわれにも同じ問題になる。神武天皇や日本武尊(やまとたけるのみこと)の英雄譚は、少なくともその一部は、作り話というのが本当のところだろう。だから何だというのか。神話をそのままに信じてきた日本人の心の歴史を否定することはできないし、「神話という事実」は厳存し続けている。
 「ゲーテはある種の疑念を表明した。学問によって真実をさらけ出してみたところで、それはたいしたことではあるまい。それよりも、そんなことをして文献学が古代の理想を壊し、いつしかドイツ人の教養の場から古代精神が模範としての意義を失うような結果になることのほうが、はるかに困ったことなのだ、と」。

 これに続く西尾氏の歴史と科学・歴史と文学をめぐる所説、さらには「私」を消し去った厳密な客観主義歴史家ランケの著作に意図を超えた「文学的な『語り』の魅力がある」という逆説、ニ十世紀の歴史家はまず歴史とは何かの議論・考察・点検に迫られ歴史叙述をしなくなったという趨勢、などが語られるが、この議論は私の手に余る。西尾氏の文章に就いていただくしかない。
 ニーチェにとって「歴史は過去の認識のために必要なのではなく、生と行為と未来のためにこそ必要であったにすぎない。古典文献学という『歴史の学問』から出発した彼は、ヨーロッパの歴史意識そのものを否定し、これを越え、瞬間と永遠が一致する永劫回帰へと突き抜け、古代の密儀秘祭の神秘体験へ向かって、ただ孤独に『疾走』した」。
 このようなニーチェを追い、「人間ニーチェをつかまえる」ために、「原点へもどって、ごくありきたりな一個の人間として、ニーチェが時代の問題にどうぶつかっていったかを見ていった」のが『ニーチェ』と『光と断崖:最晩年のニーチェ』という大著である

西尾幹二のエッセイ集刊行

管理人より

この度、国書刊行会より西尾幹二のエッセイ集が刊行されました。

書名『遠い日の幻影』2640円(税込)国書刊行会

加藤康男・工藤美代子氏編で、珠玉のエッセイとなっています。

「暮らしのつれづれに」

「私の本棚から」

「ドイツで考えたこと」

「先人たち、友人たち」

「日本および日本人について」

「ニーチェをめぐった」

にテーマを絞り、その時々の追憶を辿る

是非、お読みください。

訃報を受けて(八)

横久保義洋さんから

 哭 先師 本覺院殿信導日幹居士(西尾幹二先生)

秋雨濛濛雲蔽巓 驚聞噩耗哭東天
象胥才顯尼華論 清議名高愈軾篇
誘掖後生能自立 冥思心性友前賢 
師從廿載悔何短 夢裡逍遙酌冽泉

秋雨濛々として雲 巓を蔽ひ
噩耗を驚き聞きて東天に哭す
象胥 才は顯はす尼・華の論
清議 名は高し 愈・軾の篇
後生を誘掖して能く自ら立たしめ
心性を冥思して前賢を友とす 
師從すること廿載 悔ゆ何ぞ短きを
夢裡 逍遙して冽泉に酌まん

大意:
秋雨が降り続き、近くの山の頂が雲に覆われて隠れてしまっているようなその日に、 突然の先生の逝去の報せを聞き、悲しみのあまり先生のおられる東の空に向かって声を上げて哭く。

思い返すと先生は早歳よりニーチェ(尼采)やショーペンハウワー(叔本華)などの著作の翻訳によってその才能を発揮し、 やがて、その憂国憂民の至情は筆端に迸り、時勢を厳しく論ずるようになったが、その節義は韓退之(愈)や蘇東坡(軾)の諫奏の文より優れている。

多くの後進を教え導いては、いずれも論壇等で一本立ちできるようにさせ、
自由・孤独・宿命、そして生死等の哲学的命題を深く考え、時として徂徠・宣長、あるいはベルジャーエフなど古の内外の賢者たちの著述の林に分け入り、それを自家薬籠中のものとした。

先生に師事することができるようになって二十年あまり経ったが、今となってはその歳月が短すぎたことが惜しまれてならない。

冀わくは夢の中で先生にお会いし、生前愛された公園の辺りを共にそぞろ歩きしながら、そこの清冽な泉の水を汲み上げて飲むようにして再び先生のお教えをいただきたいものである。
      

横久保義洋(キルドンム) 哀輓

訃報を受けて(七)

吉田 圭介より:

西尾先生に申し上げたかったこと

 先生、トランプ氏がアメリカ大統領選に勝利しましたよ。
いつものように、先生のお見立ての通りです。

 先生の予言は必ず当たるのです。
直ぐに結果が出るものも有れば、二十年三十年の時間を経て実現するものも有りますが、いずれにしろ的中するのです。

 それは先生が真にフラットな視点をお持ちだったからであり、その視点は真の自由を求めてやまない先生の精神によって形作られたものだったということが、今は良く分かります。

 「日本はドイツのように戦争を反省していない」というマウントに日本人全体が押し潰されそうになっていた時、「やったことが違えば謝り方は違って当然」という誰もが納得せざるを得ない道理を用いてそれを鮮やかに覆した西尾先生。

 経済人だけの論理で安易に進められようとしていた外国人労働者受け入れ論を、「社会的・文化的・民俗的な問題として考えなければ必ず大問題が起こる」と警告してその流れを押し止めた西尾先生。

 近隣諸国への配慮という巨大な同調圧力の中、従軍慰安婦問題に対して行動を起こした藤岡信勝氏に真っ先に賛意を表明し、自ら教科書改善運動の先頭に立たれた西尾先生。

 「愛子妃が問題なのではなく、その次の代になった時の国民の尊崇の念の低下が問題なのだ」という、誰もが理解し共感できる説明で女系天皇論の急進を食い止めた西尾先生。

 「人権委員会」の存在の危険性をいち早く指摘し、保守系の政治家やメディアも全く気づいていなかった人権擁護法案の異常性を広く認識させて法案を廃案に持ち込ませた西尾先生。

 そして、あらゆる言論がトランプ非難の大合唱だった中、トランプ勝利の十分な可能性と、それが日本にとって有益である理由を敢然と説かれたのも西尾先生でした。

 先生、先生はいつだってトップバッターでいらっしゃいました!切り込み隊長でいらっしゃいました!
それも、マスメディアやアカデミズムが特定の意見一色に染まり、「みんながそう言うならばそれが正しいのかも知れない…」と、声の小さな者たちが確信を失いそうになった時、まるでドアを蹴破るように、テーブルをひっくり返すように、大音声で正論を叫ぶ勇者でいらっしゃいました!

 「西尾幹二ってカッコいいよなぁ」
 「西尾幹二って人は何回、独りで国を救うんだろうね」
私は友人たちと酒を呑みながら、幾度となくそんな会話で盛り上がったものです。
友人の一人は話の締めくくりに必ずこう言います。
「西尾神社を創建しなくちゃいけないね」
勿論これは半分冗談ですが、私は満更冗談とは思っておりません。

 先生、先生は以前、ご自身の主宰する勉強会「坦々塾」で(確か女系天皇問題についてご講話を頂いた時だったと思いますが)、お話が終わって懇親会になり、お酒もまわってさぁお開きという時に、「ああ、オレはもう言うべきことは言ったし、あとはどうにでもしろってんだ!」と言いながら破顔一笑されたことがありましたね。

 ご尤もです。全くもって、おっしゃる通りです。

 残された私たちが、先生が憂え続けていらした事柄を少しでも正すことが出来るのか。先生が斯くあるべしとお示しになった方へ少しでも世界を近付けることが出来るのか。
先生、どうか泉下で、或いはWalhallaで、お見守りください。

西尾幹二先生、本当に有難う御座いました。


訃報を受けて(六)

月刊誌「WiLL2025年1月号より」
追悼 西尾幹二氏 古田博司

西尾氏は最後まで保守主義を体現しようと努められたのではないか

情感豊かな人

 西尾幹二氏が11月1日、亡くなりました。89歳。大往生です。
西尾さんとは生前、さまざまな形でお付き合いをしました。西尾さんを一言で表現すると“情の人”だなと。

  西尾さんとの初めての出会いは、徳間書店で行われていた勉強会「路の会」に講演者として呼ばれたことがきっかけでした。行ってみると長テーブルが置かれて、そこには宮崎正弘氏や高山正之氏、富岡幸一郎氏などが座っていたのです。主宰者であった西尾さんは、私のことを
「東アジア関係で、はじめて教養人と言える人が現れました」
と紹介してくれました。

  私は2017年、西尾さんから『西尾幹二全集』(第17巻)「歴史教科書問題」(国書刊行会)の追補(ほかに渡辺惣樹・石平両氏が寄稿している)を頼まれました。頂いたタイトルは「西尾幹二・ショーペンハウアー・ニーチェ」です。実はそのときに、私は初めて西尾さんのまとまったものを読んだのです。

 その前に西尾さんから電話があり「(全集の付録)月報に寄稿してくれないか」と依頼がありました。原稿用紙3~4枚程度の分量なので、普段は簡単に書けるのですが、そのときは二ヵ月たっても書けなかった。「書けない」と西尾さんに言うのも悪いかなと思い、放っておいたのです。そしたら、当然のように西尾さんから怒りの電話がかかってきた。

 「なんで書いてくれないんだ!」と言われたので「すみません、西尾先生と私は似すぎていて、うまく書けないんです」と答えた。もちろん苦し紛れの言い訳でしたが、西尾さんは、「じゃあ、わかった。代わりに『ニーチェ』(全集第4巻。筑摩書房)を送るから、それを読んで全集第17巻に書いて」と言ってきた。
ただ、『ニーチェ』を読破するのに一ヵ月もかかってしまいました。私は本を読むとき、ポイントを見つけ出すことが得意なので、すぐに読み終わることができます。でも、西尾さんの著作では、それができなかった。『ニーチェ』のあとがきで、西尾さんは、西尾さんの師匠から「読みやすいけれど、読むのに時間がかかる」と言われたと書いています。その通りです。西尾さんの著作はどれも優しい言葉で書かれているのですが、余計なものがたくさんくっついている印象を受けます。
たとえば、
「日本の哲学者の手になるニーチェ論を読んで疑問を覚えるのは、哲学者が現代の日本に生きていて、その中でニーチェの言葉をともかくも自分の生活の体験として読んでいる印象を少しも与えない点である」

 率直に言って、わかりづらい文章です。西尾さんの“情”がそのような文章をつくり出してしまうのでしょう。

 ちなみに、私は西尾さんの文章を誤読して、思想家であれば自分の生活もさらけ出すべきだと思ってしまったのです。それ以降、さまざまな著作物を自分の日々の生活を書くようになりました。ところが、西尾さんの著作をいくら読んでも、日々の生活が登場しない。まぁ、それは当然でしょう。

言霊での会話

 ともかく『ニーチェ』を一ヵ月かけて読み、素晴らしい著作であることも同時に実感しました。西尾さんはマルクス史学をまったくしんじておらず、歴史は歴史家が書いた因果ストーリーにすぎないと評していた。
 

 それを読んで、私は西尾さんは「先見力がある」と思ったのです。その印象があったので、分量は結構ありましたが、割と苦労せずに書くことができました。私は「西尾さんを先見者、予言者であると評したのです。

 追補の原稿を読んでくれた西尾さんから電話があり、「文章が光りを放っている」と絶賛してくれました。私自身、胸をなでおろしたことを覚えています。
どうしてここまで私に書かせることにこだわったのか、今になって本心はわかりませんが、西尾さんは、どうやら自分のことを私に知ってもらいたかったようです。

  でも、実際に話をしてみると、どうも会話がかみ合わない。言葉が通じないのです。だから、西尾さんと会話をするときは言霊(精神レベルの非線形言語)でするような印象でした。実際に“言霊”での会話は、よく通じた印象があります。

 というのも、西尾さんは実に情感過多なのですが、私自身には“情”がよくわからない。どちらかというと理数頭の私は、むしろ、そういったタイプの先生とは話が合う。たとえば、藤岡信勝先生はまさにそのタイプです。

 以前、本誌連載の「たたかうエピクロス」で紹介した元NHKアナウンサーの神田愛花に魅かれるのも、彼女が理数頭で理詰めに物事を把握しているからです。

神秘体験あるの?

 西尾さんとの会話の一例をあげましょう。2019年ごろ、西尾さんから突然、電話がかかってきました。
「ちょっと聞きたいことがあるけど、いいか」
と言うので、
「どうぞ」
と答えたら、
「アンタ、人生、不幸だったか?」
と聞いてくる。西尾さんは、いつも私のことを「アンタ」と、呼びます。
「不幸でしたよ。親も自分も子も三代にわたって不幸でした」
「そうか!奥さんは?」
「普通の人ですよ」
と言ったら、
「うーん、そうか」
と唸っている。その後は会話が成り立たなくなり、電話はそこで終わりました。西尾さんは私と会話が通じないと思うからか、直截的に聞いてきます。私も西尾さんの意図がよくわからないから、“言霊”で答えるようにしたのです。

 別の電話で、西尾さんが、
「アンタ、神秘体験あるのか?」
と聞いてきた
「ありますよ」
と答えました。でも、私は「神秘体験」のことを女性哲学者のシモーヌ・ヴェイユにならい「超自然的認識」と言っています。私は、
「西尾先生も見えたり、聞こえたりするでしょう?」
と逆に質問しました。そしたら西尾さんは、
「聞こえん!」
と怒っている。私は続けて、
「映像のときもありますよ」
「そんなの見えない!」
と、また怒る。

 西尾さんのことを私は「予言者」と書きましたが、西尾さん自身は超自然的認識をしたことがなかったのです。西尾さんの告白を聴き、「あ、西尾さんは予言者ではないんだ」と思ったのをよく覚えています。

 また、先に紹介した路の会ですが、終わった後、みんなで会場の近くの居酒屋で打ち上げをしました。その日、私自身、体調があまり芳しくなかったのですが、参加し、二次会までついていったのです。
そこで西尾さんがボソッと私に、
「今まで自分は言論活動をしてきたけど、世界を変えることが全然できなかった」
と言う。私はよせばいいのに、
「西尾先生、私は日本人の東アジア観を変えましたよ」
と無邪気に答えてしまった。そしたら、西尾さんは下を向き、むっつり黙り込む。「まずかったかな」と思ったのですが、西尾さんは何も言わない。西尾さんからすると「何を言っても無駄だ」と思ったのでしょう。

あっけらかんとした教育者

 ともかく私からすると西尾さんの情の部分がわかりにくいのです。哲学者の中島義道氏は西尾さんと情感を交わすのがうまくできたようです。中島氏が月報で「西尾さんについて」と題して寄稿していますが、西尾さんとの会話で中島氏が好きな言葉を紹介しています。酒席の場で、西尾さんは酔っ払いながら「みんなは論文を主任教授に向けて書いている。だが、本当は神様に向けて書かなければならないんだよ」と言ったそうです。中島氏は「そうだ、そうだ」と同感したとのこと。

 私の場合は「ああ、そうなんだ、みんな主任教授に向けて論文を書いているんだ」と驚きましたけどね。主任教授のために論文を書いたことがなかったから、「へえ」と改めて思ったのです。

 中島氏はさらに、西尾さんから「人を傷つけたくなかったら書くのをやめなさい。人を傷つけても書かなければならない時に、血を流して、返り血を浴びても書きなさい」と言われたという。私からすると「はて?」とキョトンとしてしまう。私は説得するために書いていますから。

 ともかく中島氏の文章を読み、つくづく西尾さんは“情の人”なんだなと実感しました。

 泣きの小金治が、父親から「自分のために泣く者になるな、人のために泣くひとになれ」と教わって育ったそうです。これ情です。テレビドラマでも、刑事ものや医者ものは、結局最後は情で終わります。上川隆也氏主演の『遺留捜査』なんか、犯罪者の父を恨んでいた子が父がずっと気遣っていたことを情で示したりします。「結局、お父さんはあなたのことを最後まで気遣って亡くなったのですよ」と、「情の勝利」を告げる。
まさに西尾さんの“情”は、それと同じことではないでしょうか。

 では、西尾さんの“情”の源流がどこにあったのかといえば、やはり、家庭環境の影響が大きかったのでしょう。
西尾さんの自伝的作品「少年記」(『西尾幹二全集』第15巻/国書刊行会)を読むと、西尾さんは上流家庭の出だと感じます。身内の中で一人か二人、働いていないひとがいるのが上流家庭の証拠ですが、西尾さんの家もそうだったのです。
日本の上流家庭は情感過多です。お公家さんの伝統があるからでしょうか。幕末、公武合体運動でどちらにつくか公家の連中はフラフラしていました。佐幕派に翻弄される公家たちの姿を、現場主義の下級武士たちが見て、「宮さんはまったくしょうがないな」と思っていたに違いありません。とにかく情に弱い。西尾間の情感過多も、それに近いものがあるのではないでしょうか。

 ただ、教育に関しては、西尾さんは割り切っていたようです。
というのも、西尾さんは電気通信大学助教授時代の1965年、保守系雑誌『自由』で論文「私の『戦後』観」が新人賞を獲得してしまった。当時は学生運動全盛期ですから、『自由』は異端中の異端でした。
西尾さんはそんな雑誌の新人賞を獲得したことで、有名大学の就職がかなわなくなった。
私は西尾さんに、
「先生はどうして電気通信大学だったんですか」
と聞いたら、
「そこで新人賞を取ったから就職はムリだよ」
と言っていました。教授の推薦が得られなかったのです。別の機会で、西尾さんに、
「電気通信大学で何を教えていたんですか」
と聞くと、
「リルケを教えていたんだ」
「35年間、ドイツ語の詩集を教えていたんですか」
「うん、そう。ドイツ語を読むだけ」
と、実にあっけらかんとしていた。つまり、大学の教育はなるべく省力化し、自身の研究・執筆に集中するようにしたのです。西尾さんはもともと名誉欲・出世欲がなかった。それも功を奏したのでしょう。そうでなければ『西尾幹二全集』が22巻もの膨大な量にはならなかったに違いありません。

元は「反近代」の人だった

 西尾さんと言えば、ニーチェ、ショーペンハウアーの研究・翻訳で有名です。実に素晴らしい業績です。

 ニーチェやショーペンハウアーは西洋哲学の系譜の中では異端だった。もっと言えば「反近代」です。
 西尾さんは「ニーチェはキリストに似ていたのではないだろうか」と書いています。私流の言い方をすれば、ニーチェは向こう側、こちら側の両方を潰したのです。ただ、ニーチェのやったことは西洋社会ではそれほど広がりませんでした。ニーチェよりもルター、ヘーゲルのほうが影響力は大きかったので、存在感が薄まってしまった。

  西尾さんの『全集』(第6巻)は「ショーペンハウアーとドイツ思想」がテーマですが、私は西尾さんに「送ってくださいよ」とねだったことがあります。西尾さんから「ないから買って!」と言われました。結局自分で購入して読んだのですが、またしても20日間くらいかかってしまった。飛ばし読みができない。西尾さんの文体が饒舌だからです。

 それはともかく、「強烈な意志の肯定の気魄」をみなぎらせるショーペンハウアーが「意志の否定」などと言ったことに対し、西尾さんは「すなわち意志の否定もまた、意志によって達成されるものだと言っていい、これは明らかに矛盾である」と断じました。その矛盾の理由を西尾さんは探索しますが、その一つに「強引に思想を体系化したことにあった」と書いている。

 西尾さんの言説を近代のバリヤーの中で住んでいる凡庸学者が聞いたら怒り狂ったに違いありません。なぜなら「学問に体系はあってもなくてもよい」と平然と言っているからです。普遍知の信じられていたころの近代の学者は「普遍」により近づくべく、生涯の終わりには必ず既存の理念でもって稚拙な体系化を敢行しています。これをかつては「博士論文=墓碑銘」と言っていました。

 ところが、インターネットが普遍知を崩し、グローバリゼーションが国家のサバイバル状態を招来すると、近代の迷妄はたちまち晴れてしまいました。近代の理念の多くは、白日の下にさらされたのです。近代の理念は失われ、「学問に体系はあってもなくてもいい」ことになりました。下手に体系化すると、蟻塚が壊れてしまいかねません。「近代理念」の権化であった社会学者たちは、今や現地調査とアンケート調査しかしていません。

 しかし、そんな西尾さんも、ニーチェやショーペンハウアーを体系化し、そこに自らも入りたかったようなフシがあります。その矛盾に本人は気づいていたのかどうか・・・・。

保守主義者としての苦闘

 ともかく、西尾さんがニーチェ、ショーペンハウアーに魅かれたのは、反近代だったからではないでしょうか。私も近代は大嫌いですから、西尾さんとはその点で通底する思いがあった。

 では、そんな西尾さんが日本について積極的に発言するようになった理由はどこにあったのか、というと、やはり西尾さんの“情”が突き動かしていたのではないか。私の場合、日本のことは副業であって、専門は東西の政治思想史です。だから、「西尾さんはどうしてここまで日本に首を突っ込むのかな」と不思議に思っていました。

 さらに言えば、西尾さんは保守主義や保守思想を自ら体現しようとしたのではないか。

 私の考えを言えば、「保守主義」はないと思っています。岩波書店の『哲学・思想事典』で「保守主義」を調べてみると、「保守主義とは常に自己の時代を何らかの解体の時代ととらえ、それ以前のものの固有の価値を自己の時代と次の時代のために救い出そうとする思想である」。

 ほかにも藤岡信勝氏が編纂した歴史教科書には、英国の思想家、エドマンド・バークを紹介し、バークの著作『フランス革命についての省察』を引用しながら、フランス革命が起きると伝統を破壊する思想や行動を批判し、先祖を顧みない人々は子孫のことを顧みないだろうと述べたと書いてあります。バークはさらにフランス革命を批判し、英国がピューリタン名誉革命の後に王政復古すべきだと言っている。それだけの話であり、内実があまりない。

 そういう意味で「保守主義」はないのではないか。たとえあったとしても、凡庸なものとしてとらえられるのではないか。むしろ、リベラルのほうがカッコイイように感じてしまう。危険ですが。岩波の事典の定義からすると、私は保守主義ではない。もっと言えば、常に左翼・右翼のバランスの中で物事を考えています。

 しかし、西尾さんは保守主義の本質を自覚しながらも、何とか哲学的に後付けしよう苦闘したのではないか。さらに言えば、岩波の事典で定義された「保守主義」とは違う“保守”を自ら体現しようと努力したのではないか。ある意味で理念型かつ近代的だったのです。

 西尾さんは最期まで保守主義をこの手に摑もうと格闘し続けた方であり、そんな姿に共感を覚える人たちも多くいたのです。謹んでご冥福をお祈りいたします。

ふるた ひろし
1953年、神奈川県横浜市生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科東洋史専攻修士課程修了、筑波大学名誉教授。『韓国・韓国人の品性』(ワック)ほか、著書多数。共著に『韓国・北朝鮮の悲劇』(藤井厳喜/ワック)がある。

納骨

西尾先生の御遺骨が12月17日に納骨されました。

場所は通夜・告別式の行われた東京青山の持法寺墓地です。

戒名は本覺院殿導日幹居士。

同墓地には井伏鱒二や吉行淳之介も眠っています。

合掌

訃報を受けて(五)

藤岡信勝氏のFacebookより

●【転送歓迎】「西尾幹二先生とお別れの会」が決まりました!
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「西尾幹二先生とお別れの会」の御案内
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  文学者・思想家として輝かしい業績を残された西尾幹二先生が逝去され(11月1日)、ご遺族、近親者、ならびに氏が主宰された路の会、坦々塾、担当編集者が集まり通夜、葬儀を厳粛に終えました。菩提寺は青山の持法寺で、井伏鱒二、吉行淳之介の墓もある名刹です。

 本葬がおわり喪主西尾未亡人に、友人、編集者、塾生などによる追悼会を催す旨を申し上げ、御承諾をいただきました。直ちに友人、編集者相集い、『西尾幹二さんとお別れの会』実行委員会を立ち上げました。

 ホテルなどで立食パーティをかねたお別れ会が一般的ですが、西尾先生は、ありきたりのホテル会合より講演会形式で、多くの読書人、ファンが参加できる会をのぞまれたであろうと、参加者おひとりおひとりに献花していただき、追悼講演を中心とする偲ぶ会となります。

 開催日は月命日にあたる令和7年2月1日、13:00-15:30(星陵会館)と決まりました。

 合掌、献花の機会が欲しいという声が強く、また西尾先生には多くの友人知己がおられたので、百名近い先生方に「西尾幹二先生とお別れの会」の発起人をお願いしました。
 

 参加者一人一人が思いを込めて献花し、黙祷のあと、発起人二十数名の追悼挨拶や詩の朗読を行う予定です。
 

 また参加者芳名録は、翌日に墓前報告式をおこない、その後に遺族へお届けします。

令和6年12月 
「西尾幹二さんとお別れの会」実行委員会

              記
とき 令和七年二月一日 午後一時(12:15開場、献花開始)
ところ 星陵会館(千代田区永田町)大ホール
参加費 お一人2000円(資料代、花代として)

 ●御参加の皆様には珍しい写真や、友人らの寄稿を集めた記念冊子を差し上げます(御欠席で、御芳志を頂ける皆様には後日、郵送します)。
 ●平服でおみえください
 ●ご供花、ご供物は辞退申し上げます(遺族の本葬は終わっておりますので)
 ●完全なリストは当日配布の冊子に掲げます

(発起人、五十音順、敬称略。12月11日現在)
浅岡敬史 荒木田修 石井竜生 井原まなみ 伊藤悠可 井上陽介 植田剛彦 潮匡人 内田博人 江崎道朗 呉善花 大塚海夫 大場一央、小川榮太郎 加藤康子 加藤康男 葛城奈海 川口マーン恵美 加地伸行 柏原竜一 河添恵子 門田隆将 鎌田康男
河内隆弥 唐津隆 北村良和 工藤美代子 倉山満 小山常実 近藤哲司 桜林美佐 佐藤幸一 佐波優子、清水真木 新保祐司 杉原志啓 鈴木隆一 石平 仙頭寿顕 高市早苗 田中英道 高池勝彦 高橋史朗 高森明勅 高山正之 田村秀男 田母神俊雄 立林昭彦 堤 堯 富岡幸一郎 中沢直樹 中西輝政、中村彰彦 西村幸祐 西村真悟 長谷川三千子 花田紀凱 浜崎洋介 坂東忠信 樋泉克夫 平山周吉 福井雄三 福井義高 藤井厳喜 
福田 逸 東中野修道 福島香織 藤岡信勝 古田博司 
ペマ・ギャルポ 松木國俊 松本徹 馬淵睦夫 宮脇淳子 
水島総 三浦小太郎 三好範英 三輪和雄 村松英子 室谷克実 茂木弘道 諸橋茂一 元谷外志雄 山口洋一 山下英次 
山下善明 山田宏 楊海英 横久保義洋、吉田信行、渡邉哲也 渡辺惣樹 渡辺利夫 渡辺 望
(実行委員会幹事)浅野正美、力石幸一、宮崎正弘、湯原法史

<プログラム>
(BGM ブラームス ピアノ協奏曲二番)
 12:15 開場、献花開始(二階ホール入り口)  (司会 葛城奈海)
 13:00 開会宣言(司会者)黙とう
 13:03 発起人を代表して(藤岡信勝)。
      追悼挨拶    (高市早苗)
 13:20 御挨拶(産経新聞社長 近藤哲司)
 13:30 基調講演 業績など(門田隆将)
 13:40 名文箇所を朗読  (佐波優子)
 14:00 路の会を代表して (大塚海夫)
      坦々塾生を代表して(渡辺 望)
 ──休憩(10分)
 14:30 (追悼挨拶)田中英道、加藤康子、富岡幸一郎、小川栄太郎、長谷川三千子、宮脇淳子、藤井厳喜、西村幸祐,高山正之ほか。 
★日本人として(石平、呉善花 ペマ・ギャルポ)
★海外から駆けつけました(渡辺惣樹、川口マーン恵美)
15:35 御遺族からメッセージ 力石幸一(代読)
15:40 閉会の辞  水島総
15:45 終了

 ●このプログラム案は予告なく変更されることがあります
 ●どなたでも予約なしで御参加いただけます

訃報を受けて(四)

産経新聞令和6年11月18日付「正論欄」より

藤岡信勝(新しい歴史教科書をつくる会」副会長

西尾幹二氏の教科書への思い

 日本を代表する言論人であり、新しい歴史教科書をつくる会の創立者(初代会長)だった西尾幹二氏が去る11月1日、老衰のため亡くなられた。89歳。つくる会の会員、とりわけ氏の謦咳(けいがい)に接したことのある古参会員の喪失感は並大抵のものではない。心からご冥福をお祈り申し上げる。

教科書問題の始まり

 私が西尾幹二氏と初めてお目にかかったのは平成8年1月、氏が主催する「路の会」という言論人のサロンの場であった。この会は月例で開催され、西尾氏がその時々に一番注目した人物を講師として招き、講演と討論、そして二次会での激論へと続くユニークな会である。

 この直前の1月15日に、産経新聞紙上で「教科書が教えない歴史」の連載が始まっていた。この連載は当時の編集局長・住田良能(ながよし)氏の求めに応じて、小中高の現場教師からなる「自由主義史観研究会」のメンバーが執筆するという異例の企画だった。西尾氏はこの記事を目に留めて会の代表であった私を路の会に誘ってくださったのである。

 その年の6月に中学校教科書の文部省(当時)による検定結果が発表され、「従軍慰安婦」が全ての歴史教科書に記載されたことがわかった。私は許せなかった。戦場の慰安婦が「強制連行」された「性奴隷」であったとするような根も葉もない、しかし反証には困難を伴う反日プロパガンダ作者の底知れぬ悪意と狡知(こうち)に戦慄しつつ、これに戦いを挑む決意をした。全教科書に噓が書かれているなら、それを書かない歴史教科書を自分たちでつくるほかないではないか。歴史教科書問題はこうして始まったのである。

自ら筆を執って牽引

 私は路の会のメンバーでもあった教育研究者の高橋史朗氏に思いを打ち明けて相談した。高橋氏は西尾氏に持ちかけることを提案し、3人の会合をセットしてくださった。西尾氏は直ちに問題の意味を理解され、政治思想史の坂本多加雄氏に参加を呼びかけることにした。こうしてこの4人が幾度となく会合を重ねて会の構想が次第に形を成していった。

 新しい歴史教科書をつくる会という会の名称は岡崎久彦氏(元駐タイ大使)の発案である。これはそのものズバリのネーミングで余計な説明がいらない。

 設立趣意書を執筆したのは西尾氏であった。その書き出しは次のようになっている。

「私たちは、21世紀に生きる日本の子どもたちのために、新しい歴史教科書をつくり、歴史教育を根本的に立て直すことを決意しました。世界のどの国民も、それぞれ固有の歴史を持っているように、日本にもみずからの固有の歴史があります。日本の国土は古くから文明をはぐくみ、独自の伝統を育てました」

 これからつくる新しい歴史教科書の一番大切なコンセプトが見事に表現されている。全体の構成といい個々の表現といい、名文である。趣意書は平成9年1月30日の創立総会で決定した。

 次いで、教科書を執筆する段階では、私が指名され西尾氏と単元の構成から組み立てた。そして、オトタチバナ姫の伝承など多くの箇所を自ら筆を執って書き下ろされた。西尾氏は会の責任を背負い、敢然と役割を果たされた。

思索と行動の対照性

 西尾氏の中には現状に対する燃えるような怒りと、特定の結論に安住しない懐疑の精神の二つの魂が同居していたように思われる。「最後の知識人」(小浜逸郎氏)と評された西尾氏の巨大な業績については今後多くの「西尾幹二論」が書かれるだろうが、思索のプロセスにおいては時に難解と思えるほど用意周到で慎重だった。

 他方、「教育という分野では論よりも事実をつくり出さなければ意味がない」とおっしゃられたことがあり、なぜそれがお分かりになるのか不思議な思いをした。実際、十の評論よりも一つの確かな事実(授業・実践)をつくりだすほうがはるかに価値がある。

 このような「教育における実践の優位性」の理解とおそらく同質のことなのだろうが、時々の政治的判断においてはストレートな主張を進んで表明された。

 アメリカの大統領選挙では、トランプ氏の当選を熱望しておられた。わずか5日違いで、結果をお知らせすることができなかった。

 日本の政治家では高市早苗氏を明確に支持されていた。私の記憶にある限り、政治家で路の会の講師に招かれた人は高市氏だけである。近親者のみで行われたお通夜には高市氏の姿があった。

 西尾氏は誰であろうと相手の社会的地位や肩書に関わりなく、その人の発言の内容に耳を傾けた。そして、よいところは褒め、励まし、多くの言論人を育てた。

 亡くなる数日前、すでに声を発することは難しかったが、意識は明瞭で、実に4時間にわたって内外の情勢を身近な人に語ってもらっていた。西尾氏は命が尽きる最期まで、世界への瑞々(みずみず)しい関心を失うことはなかった。(ふじおか のぶかつ)

訃報を受けて(三)

週刊新潮 令和6年11月14日号より

墓碑銘 歴史教科書だけではない西尾幹二さんの現実的視点

 西尾幹二さんと言えば、独自の歴史教科書作りを進めた保守派の論客として、まず紹介されることが多い。

 だが、その名が広く知られるようになったのは、1980年代後半、外国人労働者の受け入れに反対を表明した時だ。当時、好景気による人手不足で、不法滞在の外国人が就労するケースが増えていた。

 西尾さんは、彼らを日本の労働力に組み込めば、依存する状況がやがて固定化され、日本人が避けるきつい仕事を押しつけることで“階級社会”も生まれると唱えた。そして言語、宗教、日常習慣のような違いが許容限度を超えると日本人との摩擦も起こると懸念した。かつて留学した西ドイツでの体験をもとに、目先の経済合理性のために日本が余計な災いを背負う必要はないと警句を発したのだ。

 現在生じつつある問題を約35年前に西尾さんは明確にとらえていた。だが当時、経済大国となった日本は、外国の失業者の救済という人道面も考慮して責任を果たすべきだとの意見が大勢を占めていた。

 作家の石川好さんと月刊誌の対談で論争し、討論番組「朝まで生テレビ」では“鎖国派”として孤軍奮闘。国際化で文化の多様性が深まるとの楽観論に抗し、後世に禍根を残すと主張して一歩も譲らなかった。

 長年親交があった評論家の宮崎正弘さんは振り返る。「西尾さんは欧米を基準に置いたり賛美したりしません。日本が異質な存在だとも考えなかった。観念的で詭弁を弄する人を許さない姿勢が一貫していました」

 1935年、東京生まれ。東京大学文学部に進み大学院を修了。ニーチェなどドイツ思想を研究し、65年から67年にかけて西ドイツに留学。この経験をもとにした論考は三島由紀夫に称賛された。ニーチェ研究を専門とする一方、福田恆存に師事し文芸評論でも活躍。外国人労働者問題で時の人となる。「ニーチェ研究が根底にあった。徹底して調べ、現実逃避をせず本質に迫ろうとしていた」(宮崎さん)

 97年、「新しい歴史教科書とつくる会」の設立にかかわり、初代会長に就任。従来の歴史教科書の記述が日本を貶める“自虐史観”に陥っているとして、実際に教科書作りを始める。同会の委嘱を受けて西尾さんが99年に上梓した『国民の歴史』は70万部を超えるベストセラーとなった。

 もはや動かない「過去」と、人の心の動きによって変わって見える「歴史」は別物と考えた。日本の戦争は短い時間の幅でとらえず、数百年にわたる世界の出来事の中に置いて考察しなければ理解できないと語り、単純で一方的な「歴史」観に異議を唱えた。

 大阪大学名誉教授の加地伸行さんは思い返す。

 「時代の流行や気分で発言する人ではありませんでした。左翼が大手を振っていた時代に彼らの幻想や空理空論に全く同調しなかった。保守派とひとくくりされましたが、自分が考え抜いたことに基準を置き続けた」

 つくる会が作った歴史教科書は検定に合格したが、内紛から西尾さんは2006年に離脱。その後も言論活動を続け、時には自民党や皇室も容赦なく批判した。

 「講師を呼び議論する勉強会“路の会”を90年代半ばから主宰していました。好奇心の塊で、自分と異なった意見、初めて聞く意見に異様な興味を示す。居酒屋でも議論が続いた時には、割り箸の袋にメモを書き留めていましたね。何げないことから考えを深める構想力の持ち主です。よく喋り、カラオケでは小学唱歌を歌っていました。」(宮崎さん)

 近年は膵臓癌を患うが回復し、今年『日本と西欧の五〇〇年史』を刊行した。

 11月1日、89歳で逝去。

 自由とは自らが最大の価値と信じるものを選び取り、引き受けるという決断のために存在する。自由への覚悟はあるか、と晩年も日本人に対して問いかけていた。