西尾幹二全集発刊にからむニュース (4)

光と断崖: 最晩年のニーチェ (西尾幹二全集) 光と断崖: 最晩年のニーチェ (西尾幹二全集)
(2011/10/12)
西尾幹二

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 私がいま振り返って辛うじて他人に見せられるような文章を残しているのは25歳以後である。誰でも出発点をどう踏みしめてスタートしたかを確かめてみたくなる。30歳から40歳ごろまで私はこのうえなく多産だった。爆発的といってもよいくらいの活動をしている。

 主に三つに分類できる。全集を編集する前からそう思っていた。第一巻『ヨーロッパの個人主義』、第二巻『悲劇人の姿勢』、第三巻『懐疑の精神』の三巻に分けたのには理由がある。

 第一巻はドイツ留学体験記で、処女出版であり、文明論であり、言論界への出発点である。第二巻は私が師表として仰いだ東西の思想家小林秀雄、福田恆存、ニーチェを軸とし、三島由紀夫の悲劇的な死のテーマにつながる。

 それに対し第三巻は混沌として形をなさない。私は星雲状の嵐の中にいる。しかし意思は一番明確でもあった。私の批評の原型がこの「懐疑」ということばの中にある。

 第三巻『懐疑の精神』とは、出版という形になる前の私自身の思考の渦、外の現実の世界への触覚によるタッチから始まり、ゆっくりと転身し、静かに展開し、40歳台の安定期に入る軌跡を辿っている。もし将来私に関心を持つ解明家がいたら、この第三巻が私を解く鍵というだろう。

 第三巻の編集には大変に時間がかゝり、手間取った。ようやく「目次」が完成したのでお目にかけたい。非常に長い目次であるが、まずは説明の前に全体をお示しする。

第三巻 懐疑の精神

Ⅰ 懐疑のはじまり(ドイツ留学前)

私の「戦後」観
私のうけた戦後教育
国家否定のあとにくるもの
知性過信の弊(一)
私の保守主義観

「雙面神」脱退の記
一夢想家の文明批評――堀田善衛『インドで考えたこと』について
夏期大学講師の横顔――福田恆存先生
民主教育への疑問
知識人と政治

Ⅱ 懐疑の展開

大江健三郎の幻想風な自我
状況の責任か、個人の責任か――ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』
老成した時代
短篇思想の国
帰国して日本を考える
 反近代」論への疑い( )日本人論ブームへの疑問( )読者の条件( )
 比較文化の功罪( )節操ということ( )前向きという名の熱病( )
 変化のなかの同一( )江戸の文化生活( )物理的な衝突( )現代のタブー( )
個人であることの苦渋
実用外国語を教えざるの弁
わたしの理想とする国語教科書

Ⅲ 反乱の時代への懐疑(ドイツからの帰国直後)

国鉄と大学
喪われた畏敬と羞恥
知性過信の弊(二)
文化の原理 政治の原理
二つの「否定」は終わった
ことばの恐ろしさ
見物人の知性
 見物人の知性( )外観と内容( )ネット裏の解説家( )
紙製の蝶々
自由という悪魔
高校生の「造反」は何に起因するか
生徒の自主性は育てるべきものか
大学知識人よ、幻想の中へ逆もどりするな
ヒッピー状況と教養人

Ⅳ 情報化社会への懐疑

言葉を消毒する風潮
マスメディアが麻痺する瞬間
テレビの幻覚
現代において「笑い」は可能か
日本主義――この自信と不安の表現

Ⅴ 地図のない時代

哲学の貧困
権利主張の表と裏
はじかれるのが恐い日本人
ソルジェニーツィンの国外追放
韓非子を読む毛沢東
ノーベル平和賞雑感
オリンピック・テロ事件に思う

Ⅵ 古典のなかの現代

知的節度ということ――サント・ブーヴとゲーテの知恵

人は己れの保身をどこまで自覚できるか
  ――ピランデルロと教養人の生き方

富と幸福をめぐる一考察
  ――ベーコン、ショーペンハウアー、ニーチェ
古典のなかの現代
  ――ベーコン、ニーチェ、ルソー、ヴォルテール、
パスカル、吉田兼好、マキアヴェリ

Ⅶ 観客の名において――私の演劇時評

序にかえて――ヨーロッパの観客
第一章 文学に対する演劇人の姿勢
第二章 解体の時代における劇とはなにか
第三章 『抱擁家族』の劇化をめぐって
第四章 捨て石としての文化
第五章 ブレヒトと安部公房
第六章 情熱を喪った光景
第七章 シェイクスピアと現代

Ⅷ 比較文学・比較文化への懐疑

東大比較文学研究室シンポジウム発言(司会芳賀徹氏)
東工大比較文化研究室シンポジウム発言(司会江藤淳氏)

追補 今道友信・西尾幹二対談「比較研究の陥穽」

後記

 以上の長い目次のⅠのブロックを「懐疑のはじまり(ドイツ留学前)」として区切ったのは、これが私の20歳台の文章であることを示している。ドイツ留学が29歳から32歳であったから丁度区切りがいいのである。

 私は20歳台後半に『雙面神』という同人誌に属していた。同人には小田実、饗庭孝男などがいた。戦後派作家特集が組まれた。堀田善衛特集号で私が彼の『インドで考えたこと』を批判する文章を書いたところ、同人会を牛耳っていた幹部Sが私に無断でこれを掲載しなかった。小田も饗庭もこの件には関与していない。

 同人会の幹部Sは、戦後派を批判してもいいが、「大きく救う」ところがなくてはいけないと言った。私はその言い分に疑問をもち、そこにまた当時の文壇を蔽っていた不健全な政治主義的空気を感じ、脱会した。

 この一件をどういうわけか文芸誌『新潮』が嗅ぎつけ、私は「『雙面神』脱退の記」という短文を書くことになった。これは私が公刊雑誌に最初に書いた文章で、しかも『新潮』との長い、重要な関係はこの時をもって始まる(1962年4月号)。

 このころ言論誌『自由』が懸賞論文を募っていた。私は「私の『戦後』観」をもって応募し、第一席に入った(1965年2月号)。選考委員は竹山道雄、林健太郎、福田恆存、木村健康、武藤光朗、平林たい子、関嘉彦の諸先生だった。

 「私のうけた戦後教育」は受賞第二作として同誌(1965年7月号)に掲載された。この中で私は芥川賞作家大江健三郎――大学の同期であった――のエッセイ集『厳粛なる綱渡り』をとり上げ、「戦後世代と憲法」という平和と民主主義を信仰のように崇める教育論に異議を唱えた。私の大江批判はこのときに始まる。29歳だった。

 「私の『戦後』観」は文藝春秋の池島信平氏の目に留まり、『文藝春秋』から依頼が来た。「国家否定の後にくるもの」(1965年8月号)がそれである。

 そのころお教えをいたゞいていた福田恆存先生から、身に余る大役を仰せつけられていた。インターネットにすでに明らかにされている通り、筑摩書房刊の現代日本思想大系第32巻『反近代の思想』(福田恆存編)の100枚解説文の下原稿を頼まれた。先生は発表に当たり手を加えたが、事実上代筆だった。

 これは永い間秘事として伏せられていたが、先生は公明正大で、末尾に私の名を付記し、かつ月報(1965年2月)の原稿を私の名で書かせた。業界関係者ならこれで何が起こったかは分る。ここに挙げた「知性過信の弊」というのはその月報の文章である。

 月報は一巻に二人だった。私のほかにもうひとりいて、
そのもうひとりは何と保田與重郎氏だった。『反近代の思想』は彼の「日本の橋」を収録していた。

 他に収録された著作家は夏目漱石、永井荷風、谷崎潤一郎、亀井勝一郎、唐木順三、山本健吉、小林秀雄だった。

 作者と作品の選定はもとより福田先生だった。ただ唐木順三「現代史への試み」だけは私がお願いして入れてもらった記憶がある。

 私は先生の文章を用い、口真似をしてその解説文を書いた。完全なエピゴーネンだった。それでも文体まで似せることはできない。意は似せられるが姿は似せられない、は誰かの有名なことばだった。

 同解説文は二人のどちらの全集にも入れることのできない奇妙な文章に終った。福田先生は昔から「解説」ごとき仕事をいっさいなさらなかった。小林秀雄もしなかった。

 同解説文は福田先生の名で出されたが、若いエピゴーネンが猿真似をして書いた、ということを証言しておくことが、先生の名誉のためにもなると思う。

 以上の出来事は私のドイツ留学前だった。『反近代の思想』解説は私自身の思想形成には役立ち、『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』を目に見えぬかたちで支えている。福田哲学は私の処女作に乗り移っている。

 「夏期大学講師の横顔――福田恆存先生」は先生が高知に講演に行かれた際、私に短いポートレートを書いて現地の求めに応じて欲しいとたのまれ、必死に書いた。わずか二枚程度だが、私の最初の福田恆存論である。高知新聞(1963年7月15日)に掲載された。

 私の福田関係諸論はすべて第二巻『悲劇人の姿勢』に集めてあるが、この一文だけは20歳台の文章なのでここに残した。

 「私の保守主義観」は清水幾太郎編『現代思想哲学事典』(講談社現代新書)の「保守主義」の項が私に託された折の一文である。清水先生からのご指名であった。

 「民主教育への疑問」「知識人と政治」は自民党の新聞『国民協会』(1965年2月21日及び7月11日)に頼まれて書いた。自民党に文章を出したというので悪評紛紛と湧き起こり、ドイツ文学の仲間や先輩たちの顰蹙を買った。自民党は人間の皮を被った悪魔の集団と思われていたからである。60年安保騒動から5年目である。私はその後も自民党の新聞に二度ほど寄稿し、ドイツからも送稿している。全集には記念として20歳台の最初の二篇のみを収録した。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

西尾幹二全集発刊にからむニュース(3)

 全集刊行は10月12日に第1回配本がなされる。段取りは順調で、丸善丸の内本店が30冊も申し込んできた知らせに版元は喜んでいる。全国の書店からも問い合わせや申し入れが相次いでいる。

 第2回配本『ヨーロッパの個人主義』は来年1月刊行の予定で、校正も完了し、早い準備が進んでいる。目次がきまったので、まずそれをお知らせする。

第一巻 ヨーロッパの個人主義

Ⅰ ヨーロッパ像の転換
    序 章  「西洋化」への疑問
   第一章  ドイツ風の秩序感覚
   第二章  西洋的自我のパラドックス
   第三章  廃墟の美
   第四章  都市とイタリア人
   第五章  庭園空間にみる文化の型
   第六章  ミュンヘンの舞台芸術
   第七章  ヨーロッパ不平等論
   第八章  内なる西洋 外なる西洋
   第九章  「留学生」の文明論的位置
   第十章  オリンポスの神々
   第十一章 ヨーロッパ背理の世界
   終 章 「西洋化」の宿命
   あとがき
 
Ⅱ ヨーロッパの個人主義
   まえがき
   第一部 進歩とニヒリズム
    < 1>封建道徳ははたして悪か
    < 2>平等思想ははたして善か
    < 3>日本人にとって「西洋の没落」とはなにか
   第二部 個人と社会 
    < 1>西洋への新しい姿勢
    < 2>日本人と西洋人の生き方の接点
    < 3>自分自身を見つめるための複眼
    < 4>西洋社会における「個人」の位置
    < 5>日本社会の慢性的混乱の真因
    < 6>西欧個人主義とキリスト教
   第三部 自由と秩序
    < 1>個人意識と近代国家の理念
    < 2>東アジア文明圏のなかの日本
    < 3>人は自由という思想に耐えられるか
    < 4>現代日本への危惧―一九六八年版あとがき
   第四部 日本人と自我
    < 1>日本人特有の「個」とは
    < 2>現代の知性について――二〇〇七年版あとがき
 
Ⅲ 掌篇

  【留学生活から】
    フーズムの宿
クリスマスの孤独
ファッシングの仮装舞踏会
ヨーロッパの老人たち
ヨーロッパの時間
ヨーロッパの自然観
教会税と信仰について
ドイツで会ったアジア人
  【ドイツの悲劇】
確信をうしなった国
東ドイツで会ったひとびと

  【ヨーロッパ放浪】
ヨーロッパを探す日本人
シルス・マリーアを訪れて
ミラノの墓地
イベリア半島
アムステルダムの様式美
マダム・バタフライという象徴
  【現代ドイツ文学界報告】
ヨーゼフ・ロート『物言わぬ預言者』()マルティン・
ヴァルザー 『一角獣』()ギュンター・グラスの政治参加
()ネリー・ザックス『エリ』()ハインリヒ・ベル
『ある公用ドライブの結末』()シュテファン・アンドレス
『鳩の塔』()ペーター・ハントケ『観衆罵倒』()
ロルフ・ホホフート『神の代理人』()批判をこめた私の総括
()ペーター・ビクセル『四季』()
フランツ・カフカ『フェリーチェへの手紙』()
スイス人ゲーテ学者エミール・シュタイガーのドイツ文壇批判()
言葉と事実――ペーター・ヴァイス小論()

Ⅳ 老年になってのドイツ体験回顧
   ドイツ大使館公邸にて

追補 竹山道雄・西尾幹二対談「ヨーロッパと日本」

後記
(9月下旬更新の最新の目次です)

 色替えの個所は、私の若い頃の単行本にも収録しないできた置き忘れられた文章群である。

 二冊のヨーロッパ論はドイツ留学に取材した私の処女作であり、言論界へのデビュー作である。『ヨーロッパ像の転換』は三島由紀夫氏から、『ヨーロッパの個人主義』は梅原猛氏から推賞の辞をいたゞいている。後者の名は意外であろう。

 二冊は入試問題にひんぱんに用いられ、国語の教科書にも採用され、永い間私の著作はこの二冊だけのように思われていて、少し心外だった。

 今読み返してみて、若書きだとは思うが、文章に緻密さもリズムもあり、はっきりした問題意識もあり、自分で言うのも妙だが、私自身が論理的に説得されて読み進めることができたので、成功を収めた処女作であったのだと自己納得している。

 『ヨーロッパ像の転換』のほうが多面的な内容で、私にとっては本来の処女作である。けれども不思議なもので、初版から40年経って、『ヨーロッパの個人主義』のほうが私の代表作の一つのようにいわれ、有名になっている。世間のその評価に全集第一巻の題名を合わせた。今は『個人主義とはなにか』(PHP新書)の改題の下に継続して刊行されている。

 この二冊のヨーロッパ文明論と近代日本の具体的テーマについては、今日は論述しない。ドイツに留学したのに、なぜ私はドイツではなく、ヨーロッパを振りかざしたのか。

 西洋文明を受け入れ近代化した明治以来の日本の大先達の驥尾(きび)に付すのが私の留学の目的で、ドイツ一国を相手にするために渡航したのではない、との秘かな自負が私にはあった。『ヨーロッパ像の転換』の第九章が「『留学生』の文明論的位置」と名づけられている処にすべてが現われている。

 それにこの二冊に当時の東西分裂下のドイツ問題が語られていないことを、その後の私の活動から推して不思議に思われる人もいるであろう。関心がなかったのではない。書いているのである。

 Ⅲ掌編に「ドイツの悲劇」とある。「確信をうしなった国」は極右政党NPDの台頭に揺れる政情報告文であり、「東ドイツで会ったひとびと」は文字通り私の東ベルリン訪問記である。今よむと当時のドイツの政治情勢が生き生きととても良く書けている。しかし私は自分の本にこれらを入れなかった。

 私は政治報告文屋さんと見られるのを潔しとしなかったのである。そのころベルリン留学の報告文で名を挙げていたドイツ文学の先輩西義之という人がいた。私は彼のような「もの書き」には絶対にならない、と心に誓って渡独した。私の行き先がベルリンではなくミュンヘンだったのも幸いだった。私は「ヨーロッパ文明」と対話するのが留学の目的であって「ドイツの政治」などという一時的な小さなテーマを主な相手にはしない、という考えでほゞ一貫していた。

 ものを書く動機の基本に「他と違う」ということがなくてはならない。先人に学ぶことはあっても「先人と同じ歩き方はしない」ということがなくてはならない、と思っている。いやしくもジャーナリズムで生きようとするならそれは不可欠である。

 けれどもドイツの政治に対するドイツの知識人、ドイツの文学者の偏向した意識に私は無関心になることはできず、抑えていてもどこかから爆発する思いが出てくる。

 Ⅲ掌編の中の「現代ドイツ文学界報告」は、人からみれば全集に入れるべき文章ではあるまい。文芸誌『新潮』にある期間月ごとに送っていた「世界文学マンスリー」という見開き2ページのドイツ文壇紹介文にすぎない。

 けれどもこれはある意味で私が専攻していた「ドイツ文学」の世界から決別する切っ掛けとなる仕事でもあった。私は文学情勢をていねいに調べ書き送った。けれどもギュンター・グラス、ハインリヒ・ベル、ロルフ・ホッホフート、ペーター・ヴァイスといった一連の政治主義的作家たちの非文学性、あるいは凡庸な反ヒットラー反ナチ単一志向性がまことにばからしく、次第に腹が立ってきて、「批判をこめた私の総括」という否定文を掲げた。

 この一文だけでも全集に入れた意味がある。またスイスのゲーテ学者エミール・シュタイガーが私と同じように批判を展開していたのがうれしくなって、これも掲げて、『新潮』編集部に言ってドイツ文壇報告を打ち切りにした。

 間もなく、同じようなドイツ文学報告文を『文学界』で書いていた東大の神品芳夫助教授から私の批判を「はた迷惑」ということばで攻撃する文章が掲げられた。現代ドイツ文学研究の業界全体にとって「迷惑」だというのである。

 私は笑った。読者も恐らく笑うだろう。40年経って誰が本当のことを見抜いていたかは明らかになった。例えばギュンター・グラスは大江の後を追うようにノーベル文学賞をもらったが、60年代のこのときの「政治参加」が欺瞞であったことは、彼が若い時代にナチ協力者であったのを隠していたことが暴露されて権威を失い、失脚したことからも明らかである。

 追補 竹山道雄・西尾幹二対談「ヨーロッパと日本」はドイツ問題のこんな騒ぎとは関係なく、老大家竹山先生の戦前からのヨーロッパ体験のお話を伺う、静かな心愉しい示唆に富む内容である。

夏の終りに

 私はこの夏、三つの仕事に従事してきた。(一)原発事故への言論活動、(二)自己の個人全集の編集、(三)日米戦争の由来を再考する複数の著作活動の準備、である。

 9月26日に発売される『WiLL』11月号に、原発事故をめぐる今までの総集編とでもいうべき、少しばかり仕掛けの大きい論考を発表する。題名は「現代リスク文明論」(仮題)である。原稿用紙で50枚で、あの雑誌が載せてくれるぎりぎり一杯の長さだと思う。

 50枚の論文はむかしの言論誌では当り前だった。今は何でも簡便安直が好まれるので、20枚を越える文章は月刊誌では滅多にみかけなくなった。私はいつも心外な思いを抱いている。

 次いで10月1日に発売される『正論』11月号に、「ニーチェ研究と私――ニヒリズム論議を超えて――」(35枚)を書いた。これも夏の終りの仕事であった。いうまでもなく個人著作全集の最初の巻が『光と断崖――最晩年のニーチェ』であるので、これを機会に私のニーチェ研究の重点がどこにあったのかを回顧的に語ったものである。

 なお全集の編集は順調に推移し、10月12日に第一回配本が刊行される。これに関連して次のような公開講演会が企画されているので、ご報告する。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

 (三)日米戦争の由来を再考する複数の著作活動、については、周知のとおり、『GHQ焚書図書開封 6 ――日米開戦前夜』(徳間書店)の準備をいま鋭意進めている。このほかにもうひとつ、今年さいごの重要な著作を12月8日までに出版する手筈である。これについては、今まで報告しなかったが、『天皇と原爆』という題で、新潮社から出される。作業は順調に捗っている。

 息の抜けない忙しい夏だったが、9月10日~12日に上高地、飛騨高山、白川郷を旅してきた。

『スーチー女史は善人か』解説(三)

『スーチー女史は善人か』 高山正之著  解説西尾幹二 

 後藤田正晴については、「カミソリ」と「ハト派」と「保守」が同居する嘘っぽさ、という氏の表現が正しい。私は中曽根内閣の出現以来、日本の再敗戦国家としての崩壊が始まったと見ているが、よく考えてみると、中曽根=後藤田コンビ以来と言った方が正しいであろう。

 そのほか氏の指摘で納得し共感する個所は少くない。朝日新聞が中国人や韓国人が日本で犯罪を犯すと、実名を伏せ、日本名で表記する点に、「朝日にはそんな決まりがあるのだろうか」と問責している(第二章「民族性はわかりやすい」)。

 オランダから蘭印を解放し、インドネシアを独立させたのは、旧日本軍の功績だった。オランダ支配下の350年間、人々は統一語も持てず、識字率は3%以下だった。日本は三年半でジャカルタ語を標準語にし、教育の拡充を図った。インドネシア人の軍隊「ペタ」を創設して、戦うことを教えた。日本が敗北し、オランダ軍が再び植民地支配に戻って来たとき、彼らは日本軍から得た兵器で戦った。オランダは空軍も動員してインドネシア人を80万人も殺害したが、彼らはもう決して逃げなかった。オランダはインドネシアの独立を認める代償に、道路や港や石油施設の代金として60億ドルも請求した。どこまでも阿漕で卑劣を絵に描いたような西洋人であったが、そのおらんだが2005年になってやっと過ちを認め、謝罪した。高山氏は次のように書く。

 「東南アジアを侵略し搾取したのは日本だと欧米は言い募り、共産党系朝日新聞もそれに同調してきた。

 しかし真犯人の一人が今やっと自供した。共犯の英米仏も素直に白状したらどうだろう。アジアを裏切り、日本を裏切って白人国家についた支那も今が懺悔のいい潮時と思うが。」(第三章「真犯人オランダの自供」)

 まったく同感である。今年(2011年)の12月8日は真珠湾攻撃の70周年記念の日となる。日本はここいらで敗戦の負の遺産を返上しよう。開戦の正の意義を再認識しよう。私は今から強くそう提言しておく。

 高山氏のこの本は、国際派新聞記者としての永年の経験に、最近もたびたび現地調査に赴いている旅の記憶など、またその後の研究も加えて、ともかく私などが知らない驚異的な諸事実を数多く教えてくれる。こんなことはまったく知らなかったというような和田愛がとにかくとてもたくさん書かれているのである。そのうち、へえーと私が新鮮な驚きを味わったエピソードに次のようなものがある。

 インドのカーストは私も少し見聞しているし、本も読んでいる。しかし百三十もあるカーストのうち、お互いを見て相手が自分のカーストより上か下かが即座に分るのだそうである。道路が青信号になると一番上のカーストから順番に車を発進するというのである。車にしるしも付けないでどうしてそんなことが可能になるのだろう(第四章「女性蔑視では支那どまり」)。

 アメリカの家庭内暴力はものすごく、妻を暴力で病院送りにしたケースが年間四百万件、殺された妻が年間三千六百人にもなるのだそうである。この数字にはウソではないかと思うくらいの驚きを覚えた(第三章「『殴られる女』症候群」。

 二十年前のイランでは女性がチャドルの下から髪を覗かせ、口紅がみつかると、手錠をかけて連行され、十回か二十回かの鞭打ちが科せられた。男女が車に乗っていて、夫婦でないと逮捕された。レストランも結婚証明書がないかぎり、男女別々の席で食べさせられた(第四章「隠せばつけ込まれる」)。

 世界は広い。日本人の知らないことが余りに多い。逆にいえば、日本人は無垢で、無邪気で、無知である。

 その日本人の一人が上海で、中国人から日本人というだけの理由で殴られ、半殺しの目に合う話をひとつ読んでごらんなさい(第三章「領事館は冷酷無知」)。領事館は取り合ってくれない。事情すら聴こうとしない。私は外務省という役所にひごろ不満と不快を感じているが、この文章を読んで、怒りさえ覚えた。世の中には存在しないほうがいい官庁もあるのである。

 さて最後に、関連する一つの事実をお伝えしておく。

 GHQが七千点余の本(昭和三年から二十年までに刊行された)を選んで、没収し、数十万冊を廃棄処分にしたことを、この数年私はあらためて問題にして、『GHQ焚書図書開封』1~5までを刊行している。GHQが没収した書物の出版社ランキングで一番多いのが朝日新聞社140点、次に多いのが大日本雄弁会講談社83点、三番目が毎日新聞社81点の順である。上位三社は当時の国策に最も忠実だったことを物語る。そして今気がつくと、この三社は戦後逆の方向へ転じ、最も左傾した代表的マスコミであったといっていい。

 高山正之氏は朝日新聞を目の敵にしているようにいわれるが、氏はためにする議論をしているのではない。戦後において思想の逆転現象があって、常軌を逸した反体制・反権力・革命礼賛のイデオロギーへの逸脱が日本の社会を歪めてきたが、それがまだ元へ戻らないのである。朝日新聞社は戦争中に極端に走った。そういう体質の会社だから今度はまた逆の方向へも極端に走って、社員ひとりびとりがその気風に染まり、社内の左翼支配の体制が抑圧的で、発想の自由がなく、歪んだままに今日に及んでいると思われる。

 本書に示される高山氏の朝日批判は個人的好みの問題ではなく、時代の病いに対する公正を求める訂正要求の声であり、日本の社会を正常な軌道に戻したい氏の熱情の表われであるといえるであろう。

(平成23年7月、評論家)

『スーチー女史は善人か』解説(二)

変見自在 スーチー女史は善人か (新潮文庫) 変見自在 スーチー女史は善人か (新潮文庫)
(2011/08/28)
高山 正之

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『スーチー女史は善人か』 高山正之著  解説西尾幹二 

 氏は外国の悪口ばかり言っているという誤解があるが、それは違う。第五章の「タイへの恩は忘れない」は、日本が困ったときにそっと手を差し伸べて助けてくれる奥ゆかしいタイに感謝し、返す刀で韓国の恩知らずを斬っている。氏の悪口にはそれなりに理由がある。自分の弱みを見ないで逆恨みする卑劣な国々が許せないのだ。返す刀は朝鮮について「この国はまた、誰も干渉しないのにまだ南北に分れたままだ。」と遠慮しないで書く。南北統一ができないのも日本のせいだというたぐいの愚論に氏は「(南北は)お互い五輪では統一チームを作る仲だろう。いつも悪口を浴びせる日本に頼らないで、自分たちで始末をつけたらどうか。」とズバリと書く。弱虫のルサンチマンが氏は許せないのだ。またそれを正義のように扱う日本の外交官、学者知識人、マスコミとりわけ朝日新聞に、日本人に特有のもうひとつの卑劣の型を見出して、繰り返し執拗に批判の矢を放っている。

 日本人は一般に外国を基準に自分を過度に反省する傾向が強い。それは必ずしも戦後だけではない。ペルシアやインドなどのすべての文化文物が西から渡来し、日本列島に蓄積され、そこから外へ出て行かなかった文明の型に原因しよう。遠い外の世界に本物が住んでいて、自分の国のものは贋物だという意識は西方浄土信仰にもあるが、これが起源ではない。もっと根は深い。日本文明は他を理解し受容する凹型である。そういう本来性に敗戦体験が重なった。自分を卑下し外国を基準に自分を裁く「自虐」という悪弊が底知らずに広がった。高山氏の反発や怒りが日本人のこの過度の自己反省に向けられているのはバランス感覚の回復のためである。加えて氏が外国人の本心、隠されている正体をあばき出すのは、日本人に客観的に正しい世界の姿を伝えたいからである。

 一番いい例は日本人の欧米崇拝の極北イギリスに対する冷徹な見方に現われている。日本の対アフリカ債権は90億ドルなのに、ナミビアやウガンダをかつて植民地に持ったイギリスのそれはわずかに1000万ドル。しかもイギリスはそこで20億ドルもの武器商売をやっていて、代金は日本からの援助金で支払わせる。それが滞ると、アフリカの債務帳消しを紳士面を装って提言し、日本が債権放棄をすると、それらの国々には余裕ができるので、そこを見計ってイギリスは代金を回収し、また新しい武器を売る。

 アフリカはエイズに苦しんでいるが、治療する医師や看護婦が少ない。日本の援助で看護婦を養成すると、彼女らをイギリスなどが高い給料でさらって行ってしまう。こういう現実を知ってか知らずか、元国連づとめの明石康は朝日新聞に、アフリカの平和のための貢献に日本はあまりに存在感がないなどと非難する。そこで高山氏はこれだけ貢献している日本をなぜくさすのかと問い質す。悪質なイギリスなどをなぜ論難しないのか、と。明石康は「国連に多額の寄付をした笹川良一の国連側の窓口を務めて、それだけで出世した」男だ、と侮蔑をこめて書く。まさにそのレベルの男であることはよく知られている。個人名を挙げてたじろがないではっきり書く。高山氏のこのスタイルがいい(以上第二章「朝日の記事は奥が深い」参照)。

 本書はどれも秀抜な文章ばかりだが、どれか一篇を推薦しろといわれたら、私は第3章の「カンボジアが支那を嫌う理由」を挙げるだろう。また人物評でどれがいいかといえば、後藤田正晴の寸評(第三章「変節漢への死に化粧」の後半三分の二)が肺腑をえぐり、正鵠を射ている。

 フランスは植民地ベトナムを支配する手先に華僑を用いたので、ベトナム人は中国人をフランス人以上に生理的に嫌悪する。フランスはカンボジアを統治するのに今度はそのベトナム人を利用したので、支配医者面して入って来るベトナム人をカンボジア人は許せない。カンボジア人もまたフランス人への嫌悪が薄い。西洋人の支配の巧妙さがまず語られている。

 アメリカと戦ったベトナム戦争の間にベトナム人が頼ったのは中国ではなく、ソ連だった。中国に親分風を吹かされるのが嫌だったからである。戦争が終って自信を得たベトナムは国内の華僑を追い払った。それがボートピープルの正体である。中国はベトナムの離反を見て、カンボジアに親中国派の政権を打ち樹てた。ポルポト派である。ところが毛沢東かぶれのこの党派が狂気の大虐殺を展開し、世界の耳目を聳動させた。この地獄からカンボジア人を救ったのは皮肉にも彼らが最も嫌ったベトナム人だった。中国は華僑を追い払われるや、子飼いのポルポト派までやられるやで踏んだり蹴ったりで、腹を立て、ついにベトナムに攻め込んだ。中越戦争である。共産主義国同士は戦争をしないという左翼の古典的理念を嘲笑った事件だが、ベトナム人はそれをも見事に返り討ちして、小国の意地を見せ、中国は赤恥をかいた。

 「カンボジアが支那を嫌う理由」を短く要約すると以上のようになるが、高山氏はつづけて次のように述べている。

 「それでも支那はつい最近までポルポト派残党に地雷など兵器を送り込んでカンボジア人を苦しめてきた。

 今カンボジアの民が一番嫌うのはベトナム人ではなく支那人に変わった。
 そのポルポト派の虐殺を裁く国際法廷の事務局次長に支那人女性が就任した。」

 あっと驚く虚虚実実の世界政治の現実である。ぼんやり生きているわれわれ日本人は、このあざとい恐怖の歴史をよく知らない。高山氏は政治用語を用いず、もっぱら心理的に描き出してくれる。並の人なら100枚もの原稿用紙を埋めて書くだろう。それをわずか5枚ていどで過不足なく書く。詩のようである。アフォリズム集のようでもある。行間の空白を読め、と言っているのである。

つづく

『スーチー女史は善人か』解説(一)

変見自在 スーチー女史は善人か (新潮文庫) 変見自在 スーチー女史は善人か (新潮文庫)
(2011/08/28)
高山 正之

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 『スーチー女史は善人か』 高山正之

解説文 西尾幹二

 短い文章に、変化に富む内容が詰まっている。抽象語をできるだけ避け、具体例で語る。憎しみや嫌悪をむしろ剥き出しに突き出す。それでいて情緒的ではない。抽象語は使わないのに、論理的である。痛烈かつ鮮烈ですらある。辛辣などというレベルをはるかに越えてさえいる。しかし決して混濁していない。知的に透明である。勿論冷静である。一糸乱れぬといってもいい。

 音楽でいえば太鼓の連打のようなものだが、単調な響きにならないのは、一行ごとに隙間があり、飛躍があり、そこを平板な叙述で埋めていないからだ。言葉を抑制し、思い切って省略している。ある処まで語って、そこから先を語らない。空白のまま打ち切ってしまう。絶妙な間を置くその間合いが高山正之氏の文章のリズムであり、美学である。コラムという字数制限がそういう文体を作り出したのかもしれないが、それだけではなく、高山氏の思考の型が贅語(ぜいご)を慎み、簡潔を好む資質に根ざしている。

 歴史を語ってじつに簡にして要を得ている二例を挙げてみよう。

 「日露戦争後、日本は李氏朝鮮を保護国とした。そのころの話だ。
日本はそれまでこの国に自立を促してきたが、この国はそれを嫌って支那に擦り寄って支那の属国だもんと言ったり、その支那が頼るに足らないことを日清戦争で教えてやると、今度は日本が最も恐れるロシアになびいたり。

 それで日本は日露戦争も戦う羽目に陥り、二つの戦争であわせて12万人もの将兵が異国の地で散華した。

 朝鮮にこれ以上愚かな外交をさせないというのがこの保護国化の目的だった。」(第四章「朝日の浅知恵」)

 別に目新しい歴史観ではない。自国史を主軸に考えれば認識は必ずこうなる。これでも迷わずに二大戦争と日韓関係をこれだけピシッと短く語った文章の例は少ない。

 もう一つはアボリジニ(原住民)の虐殺の歴史を持つオーストラリアについてである。

 「ニューサウスウェールズ州の図書館に残る1927年の日記には『週末、アボリジニ狩りに出かけた。収穫は17匹』とある。

 600万いたアボリジニは今30万人が生き残る。ナチスのホロコーストを凌ぐ大虐殺を行った結果だ。

 困ったことにこの国はその反省もない。

 この前のシドニー五輪の開会式では白人とアボリジニの輪舞が披露された。過去に決別して友愛に生きるということらしいが、登場した“先住民”は肌を黒く塗った白人だった。

 その翌年、アジアからの難民が豪州領クリスマス島に上陸しようとした。ハワード首相は、『難民が赤ん坊を海に捨てた』と拒否、難民を追い返した。

 しかし後に『赤ん坊を捨てた』という報告はまったくの作り話と判明する。

 ここは白人の国、有色人種を排除するためなら首相でも平気で嘘をつく。」(第四章「害毒国家は毒で制す」)

 オーストラリアはたしかにこういう国である。首相までが公然と反捕鯨の旗を振る国だ。鯨の知能は人間並だという勝手な理屈をつけて動物界に「序列」をつけるのと、人間界に人種差別という序列を持ち込むのとは、同じ型の偏見である。囚人徒刑囚の捨て場から国の歩みが始まった取り返しのつかない汚辱感と、原住民の虐殺だけでなく混血と性犯罪の歴史が元へ戻したくても戻らない汚れた血の絶望感とが、この国の白人たちに背負わされてきた。第一次世界大戦より以後、最も不公正な反日国家だった。アジアの中で近代化の先頭を走った日本を許せないという、自分の弱点と歪みを怨恨のバネにした卑劣な国々に韓国と中国があるが、高山氏が両国に加えてオーストラリアを卑劣の系譜に数え入れているのはじつに正当である。

つづく

『原子力村の大罪』の刊行

次のような出版に参加しました。

『原子力村の大罪』(KKベストセラーズ刊、¥1500)

原子力村の大罪 原子力村の大罪
(2011/09/01)
小出 裕章、西尾 幹二 他

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目 次

原子力村への最終警告   小出裕幸
福島で生きる(8・5緊急講演録)   小出裕幸
脱原発こそ国家永遠の道   西尾幹二
本丸は、東京電力ではなく経産省だ!   佐藤栄佐久
東電からもらったのは被害だけだ!   桜井勝延
騙し騙され50年、悲劇的結末を迎えた東京電力と城下町   恩田勝亘
このままでは棄民にされてしまう   星 亮一
人牛同病   玄侑宗久
跋 最初の数日間の感想   西尾幹二

編集後記

 かつて私は「最悪を想定しない『go』の社会の病理」という論文を書き、雑誌では「原子力保安員の未必の故意」と題されました。「原子力村」の「村」への批判には私も共鳴しています。

 尚掲載論文は『WiLL』5月号、6月号、7月号からです。9月26日発売11月号『WiLL』に新しい論文を発表する予定です。