私はこの夏、三つの仕事に従事してきた。(一)原発事故への言論活動、(二)自己の個人全集の編集、(三)日米戦争の由来を再考する複数の著作活動の準備、である。
9月26日に発売される『WiLL』11月号に、原発事故をめぐる今までの総集編とでもいうべき、少しばかり仕掛けの大きい論考を発表する。題名は「現代リスク文明論」(仮題)である。原稿用紙で50枚で、あの雑誌が載せてくれるぎりぎり一杯の長さだと思う。
50枚の論文はむかしの言論誌では当り前だった。今は何でも簡便安直が好まれるので、20枚を越える文章は月刊誌では滅多にみかけなくなった。私はいつも心外な思いを抱いている。
次いで10月1日に発売される『正論』11月号に、「ニーチェ研究と私――ニヒリズム論議を超えて――」(35枚)を書いた。これも夏の終りの仕事であった。いうまでもなく個人著作全集の最初の巻が『光と断崖――最晩年のニーチェ』であるので、これを機会に私のニーチェ研究の重点がどこにあったのかを回顧的に語ったものである。
なお全集の編集は順調に推移し、10月12日に第一回配本が刊行される。これに関連して次のような公開講演会が企画されているので、ご報告する。
西尾幹二全集刊行記念講演
「ニーチェと学問」
講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
問い合せ先 電話:03-5970-7421
FAX:03-5970-7427
(三)日米戦争の由来を再考する複数の著作活動、については、周知のとおり、『GHQ焚書図書開封 6 ――日米開戦前夜』(徳間書店)の準備をいま鋭意進めている。このほかにもうひとつ、今年さいごの重要な著作を12月8日までに出版する手筈である。これについては、今まで報告しなかったが、『天皇と原爆』という題で、新潮社から出される。作業は順調に捗っている。
息の抜けない忙しい夏だったが、9月10日~12日に上高地、飛騨高山、白川郷を旅してきた。
先ず、「正論」11月号に御掲載の「ニーチェ論」を心待ちに致しております。西欧ニヒリズムと云う八岐大蛇に執拗にからみつかれながらも、ニーチェは、生涯、ディオニュソス的なものを志向する情熱を失うことはなかった、そして、この思想家(時代の裁断者 Richter)が志向した古代的な世界観は、吾が国における古代伝承、即ち、民族固有の信仰である「神道」に通ずるものではないか、そのような視座からの考察に、重要な御啓発をいただくことができるのではないかと満腔の御期待を申し上げております。
そして、「GHQ焚書開封6-日米開戦前夜」とともに御刊行の運びとなる「天皇と原爆」と云う御本の表題からは、日本民族の古代的な世界観である「神道」を淵源とする「天皇」と、西欧ニヒリズムのラディカルな帰結たる共産主義と同根である「民主主義(実は、金権主義)」を代表する米国(実は、ユダヤ金融資本等)の覇権を象徴する「原爆」が連想され、そのような観点からの「世界観の相克」とも云うべき御考察であればと、前者と等しく、満腔の御期待を申し上げております。
初秋の信濃と飛騨の天地から、先生がこの上ないお元気をお受けになられたであろうことを御祈念申し上げ、これらの御著作を拝読できることを、また、御全集の第1回の配本と記念講演を待望申し上げております。
「偏狭だ」と批判する者こそが「偏狭」なのでは? (クロ) 氏
2011-09-17 16:26:09
>> 戦前の日本も十分集団ヒステリー国家だったと思いますが…。竹槍訓練、神風特攻隊やら人間魚雷(回天)で命を無駄にしたり…。挙句には、戦争を長引かせ、原爆投下実験として提供…。大陸撤退時には—、シベリアでは多くの抑留者が死ぬことに…。
これはちょっとバランスを欠く意見だと思います。例えば日本の「竹槍訓練」が意味が無いのだとしたら、竹槍同然の武器で戦ったフランスのレジスタンスも意味が無いのでしょうか。北ベトナム軍は?結局勝敗以外何ら違わないと思います。そして原爆投下もシベリア抑留も、当時の国際法に違反した米ソが悪いのであって、日本が悪いわけではないと思います。元々外地へ移民を行う必要があったのは、国内の貧困層なのですから、それだけ犠牲になる確率も戦ったのだと思いますよ。私には戦後の過度な自虐史観の方がよほどヒステリーに見えます。
>>「株式日記」のコメント欄にも、執拗に嫌韓コメントをつけてくる人がいますが、このような偏狭さが日本を誤った道に導いてしまうだろう。、韓国人中国人の集団ヒステリーに付き合ってはダメだ。
こちらは主観ですよね。現実は、在日コリアンにとって日本は住みよい国であるから、四世五世になっても帰国も帰化もしないのでしょう。今まで過度に優遇してきた事に対して国民が反感を抱いているというのが正解であり、それは「偏狭さ」ではないと思います。むしろ求められているのは他の在日外国人と同様に扱うという、法の下での平等ではないでしょうか。国内で犯罪を犯した在日コリアンで、強制送還された者が一人もいない。この事実を法律論的にはどう解釈すれば良いのでしょうか。他者を「偏狭だ」と批判する方は、裏を返せば他者に「寛容さ」を要求しているのです。
その行為こそ、実はもっとも「偏狭」なのだと思いますね。
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