日本は自立した国の姿取り戻せ

産經新聞(平成31年3月1日)正論欄より

 天皇陛下のご退位と新天皇陛下のご即位という近づく式典は、日本人に象徴としての天皇のあり方を再認識させている。昔から皇室は政治的な権力ではなく、宗教的な権威として崇(あが)められてきた。皇室は権力に逆らわず、むしろ権力に守られ、そして静かに権力を超えるご存在であった。

 武家という権力がしっかり実在していて、皇室が心棒として安定しているときにこの国はうまく回転していた。そこまでは分かりやすいが、「権力を握ってきた武家」が1945年以来アメリカであること、しかも冷戦が終わった平成の御代にその「武家」が乱調ぎみになって、近頃では相当程度に利己的である、という情勢の急激な変化こそが問題である。
 

≪≪≪平成は地位落下の歴史と一致≫≫≫

 皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から武士とは戦いを交わすことはなく、武士の誇示する政治力や軍事力を自(おの)ずと超えていた。第二次大戦の終結以後も同様である。しかもその武士が外国に取って代わられたということなのだ。ここに最大の問題、矛盾と無理が横たわっている。さらにそのアメリカはもう日本の守り手ではなくなりつつあり、史上初の「弱いアメリカ」の時代が始まっている。

 平成時代の回顧が近頃、盛んに行われているが、平成の30年間はソ連の消滅が示す冷戦の終焉(しゅうえん)より以降の30年にほかならず、日本の国際的地位の急激な落下の歴史と一致する。冷戦時代には世界のあらゆる国が米ソのいずれか一方に従属していたから、日本の対米従属は外交的にあまり目立たなかった。しかし今ではこの点は世界中から異常視されている。世界各国は日本がアメリカと違った行動をしたときだけ注目すればいい。
 
 わが皇室は敗戦以後、アメリカに逆らわず、一方的に管理され、細々たるその命脈を庇護(ひご)されたが、伝統の力が果たしてアメリカを黙って静かに超えることができたのかとなると、国内問題のようにはいかない。当然である。各国はそのスキを突いてくる。かくてわが国は中国から舐(な)められ、韓国から侮られ、北朝鮮からさえ脅かされ、なすすべがない。

≪≪≪自分で操縦桿を握ろうとしない≫≫≫

 今の危うさは、昭和の御代にはなかったことだ。すべて平成になってからの出来事である点に注目されたい。平成につづく次の時代にはさらに具体的で大きな危険が迫ってくると考えた方がいい。

 125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家のなかで類例を見ないものであり、ローマ法王やエリザベス女王とご臨席されても最上位にお座りになるのはわが天皇陛下なのである。125代のこの尊厳は日本では学校教育を通じて国民に教えられてさえいない。そもそもその権威は外国によって庇護されるものであってはならず、日本国家が本当の意味での主権を確立し、自然なスタイルで天皇のご存在が守られるという、わが国の歴史本来の姿に立ち戻る所から始めなければならない。

 天皇、皇后両陛下が昭和天皇に比べても国民に大変に気を使っておられ、お気の毒なくらいなのは、国家と皇室とのこうした不自然な関係の犠牲を身に負うているからなのである。
 ではどうすればよいか。日本国民がものの考え方の基本をしっかり回復させることなのだ。

 アメリカに「武装解除」され、政治と外交の中枢を握られて以来74年、操縦席を預けたままの飛行は気楽で心地いいのだ。日本人は自分で操縦桿(かん)を握ろうとしなくなった。アメリカはこれまで何度も日本人に桿を譲ろうとした。自分で飛べ、と。彼らも動かない日本人に今や呆(あき)れているのである。

≪≪≪憲法改正を飛躍の第一歩に≫≫≫

 もっとも、操縦桿は譲っても、飛行機の自動運航装置は決して譲らないのかもしれない。日本人もそれを見越して手を出さないのかもしれない。しかし問題は意地の突っ張り合いを吹き飛ばしてしまう「意思」が日本人の側にあるのか否かなのだ。

 1945年までの日本人は、たとえ敗北しても、自分で戦争を始め、自分で敗れたのだ。今の日本人よりよほど上等である。この「自分」があるか否かが分かれ目なのである。「自分」がなければ何も始まらず、ずるずると後退があるのみである。

 2009年4月8日に今上陛下が事改めて支持表明をなさった日本国憲法は、日米安保条約といわば一体をなしている。憲法と条約のこの両立並行は、アメリカが日本人に操縦桿を渡しても自動運航装置を決して譲らない、という意向を早いうちに固めていた証拠と思われる。日本国民の過半が憲法改正を必要と考えるのは、逆にまともに生きるためにはたとえ不安でも自立が必要と信じる人が多いことにある。

 日本製の大型旅客機が世界の空を自由に飛行し、全国に130カ所ある米軍基地を撤退してもらい、貿易決済の円建てがどんどん拡大実行される日の到来を期待すればこそである。憲法改正はそのためのほんの第一歩にすぎない。(にしお かんじ)