『GHQ焚書図書開封 3』感想

 「ドイツ大使館公邸にて」(六)がまだ書かれていないのですが、必ず完結させます。少し待って下さい。その前に次を掲示します。

 未知の方から『GHQ焚書図書開封 3』に対してこれまでもたくさんのお手紙をいたゞいています。あの本の中の「空の少年兵と母」に言及されていることが私にはうれしく、ご本人の承諾を得て感謝をこめてご紹介します。

『GHQ焚書図書開封 3』感想

兵庫県芦屋市 山村英稔

 西尾先生はじめまして。

 「GHQ焚書図書開封3」読ませてもらいました。
当シリーズは1、2作目も読ませてもらいましたが、今回の三作目は戦前の我が国の人たちが堂々と生きていた事に非常に感銘を受けました。

 特に第三章の「空の少年兵と母」では、19歳の少年が国のために命懸けで戦っていたのに対し、今の自分は社会の何の役にも立たず何と情けないと、今までの自分の自堕落な生き方に反省しきりでした。

 「侵略」という言葉の使用時期や焚書の実態について書かれた第十章は知らない事ばかりで非常に勉強になりましたが、中でも「国体」についての焚書に関する内容が印象に残りました。

 「国体」という言葉については、自民党政権の森総理の時代に、総理が記者に対し「国体」という言葉を使い発言したところ、朝日新聞が、総理が少し前に「我が国は天皇中心の国」という発言をしていた事と結びつけて「『国体』は戦前の天皇主権の時代に使用されていた言葉で、その言葉を今使うという事は、戦前の天皇主権時代に戻りたいという、総理の復古主義的考え方の現われだ」と激しく非難をしていたのを覚えています。

 GHQが「国体」に関する本を多く没収していた事を考えると、森総理が「国体」という言葉を使っただけで激しく総理を批判した朝日新聞の姿勢は現在もGHQの教えを律儀に守っている事の証明だと思います。

 「あとがきに代えて」で西尾先生は、昨年8月のTVの戦争特集番組が「戦争の悲惨さ」しか言わず、アメリカ軍の非道について全く触れなかった事への不満を書かれていましたが、僕も全くの同感です。

 少し前になりますが、「東京大空襲」で被害に遭われた方が裁判に訴えるというニュースがあったので詳しく内容を調べたところ、訴える相手は空襲を行った加害者のアメリカでなく、当時の我が国政府であったので、この様な訴えをしても加害者のアメリカは全く反省しないので、全く無意味な裁判だと憤慨した事を覚えています。

 訴えた人は自分が経験した被害を公式の場で訴えたかったという様な発言をされていましたが、これでは残虐非道の無差別爆撃で大虐殺を行ったアメリカは悪くなく、悪いのは戦争を起こした我が国の政府であるという広島の原爆碑と全く同じ考え方になってしまいます。

 訴えた方も恐らく、被害に遭われてから暫くはアメリカを憎んだと思いますが、戦後TV・新聞等がアメリカの非道には触れずに、戦争が悪で、その戦争を起こした我が国が悪いという内容の発言を繰り返し見聞きしているうちに、段々と影響を受けて、TV・新聞等と同じ考え方になったのではと思います。

 現在、TV・新聞等の我が国における影響力は絶大で、多くの人々はTV・新聞の発言内容を信用しており、戦争についても、戦争未経験者は戦争についての知識を自分で調べる事なく、TV・新聞のみから得る人も多いと思います。

 そのTV・新聞が戦争について反日、自虐的な発言に終始していれば、世論もその影響で反日、自虐的になる事は避けられません。今のTV・新聞が反日・自虐的なのは、GHQの政策、特に言論の自由を奪った検閲と出版の自由を奪った今回、西尾先生がシリーズで書かれている焚書が大きな影響を与えている事は言うまでもありません。

G HQの検閲・焚書についてはGHQの占領終了後に、その政策の全容や我が国に与えた影響について徹底的に調べあげた上で、我が国の立場から戦争や戦前の諸政策を評価する事が必要不可欠であったと思います。しかしながら、その様な研究を本格的に行ったのは僕が知る限りでは江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」が最初で、江藤氏の後を継ぐ様な著作は今まであまり出ておらず、GHQの占領政策については、まだ本格的な研究がなされていないというのが現実だと思います。

 僕は江藤氏の著作を20代前半に読んで大きな衝撃を受けましたが、そのおかげで、その後、TV・新聞等の反日・自虐的な発言を見聞きしても、彼らがGHQの代弁者として発言していると理解できたので、発言に惑わされず反日・自虐的な考え方にならずに済みました。

 今回の西尾先生のシリーズを読んで僕と同様の経験をする人が一人でも増えれば少なくともその人たちに関しては今後、反日・自虐的にならないと思うので、その意味においても、今回、西尾先生がGHQの焚書についてシリーズで書かれたのは非常に価値がある事だと思います。

 今後、我が国が自尊心を取り戻すだめには、我が国の歴史を我が国の視点で書いていく事が必要で、そのためには、GHQの占領政策の全容を明らかにし、我が国のマスコミが今までいかにGHQの立場で発言していたかを明らかにする事が必要不可欠だと僕は思います。

 今回の西尾先生の当シリーズに刺戟されてGHQの占領政策全体についての研究が進み、その実態と我が国に与えた影響が明らかになる事により、GHQの占領政策についての著作がより多く出版され、その事により少しでも多くの人々が、その内容について理解する様になれば、自然と我が国の自尊心も少しずつ回復していく事が出来ると思います。

 今回は、当書の「あとがきに代えて」を読んで、僕も普段からTV等の戦争番組を観るたびに同じ事を考えていたので、どうしても西尾先生に一筆書きたいという気持ちになったので、こうして手紙を書かせてもらいました。長文で乱筆、乱文になってしまいましたが読んでもらえれば幸いです。

ドイツ大使館公邸にて(五)

 やがて話題は日本のアニメ文化がドイツにも広がっているというテーマに移っていった。これは私にはついて行けないし、どういうことか具体的イメージが湧いてこない話題だった。名前がいくつも飛び出したが、私は詳しくは知らないし、分らない世界である。

 勿論そういうニュースは前から耳にしている。フランスの子供たちが日本のマンガに夢中で、悪影響をあの国の文部省が心配しているというようなニュースを聞いたのはもうかれこれ20年も前になるだろうか。今ではそのレベルをはるかに越えているらしい。ベルリンで日本のオタク文化がはやっていて、コスプレやキャラクターの名前まですでに定着し、有名になっているんですよ、という話だった。

 そういえば過日私は上野の東京国立博物館に『土偶展』を見に行って、これに関連するある興味深い現象に出会った。縄文のヴィーナスから始まり、みみずく土偶やハート形土偶など、あのどこかおどけた古代日本のおゝらかで、明るい形象がびっしり展示されていた。

 『土偶展』はロンドンの大英博物館で開催されたのを機に日本でも開かれた帰国記念の行事らしかったが、ロンドンの会場やそれを伝えるイギリスの新聞記事が掲示されていて、そこに日本の土偶はわれわれ西洋人にたゞちにアニメの数々のキャラクターを思い起こさせた、という言葉があった。

 数千年の時間を軽々ととび越えてしまうこのような連想にはそもそも無理がある、などとこと荒立てて言うには、西洋人のこの思いつきにはなぜか微笑ましいものがあり、私はどことなく納得させられている自分に気がついて可笑しかった。少なくとも1980年代のドイツ人が日本人は自動車を「禅」の精神で作っているのか、と私に尋ねた、あの前に書いた話よりもずっと自然だし、唐突ではないように思えたのである。

 産業に「禅」を結びつけるのは、ヨーロッパでは80年代が宮本武蔵の『五輪の書』に日本企業の成功の秘密を見ると論じられていた時代だったからである。今はこんなことを言う西洋人はもういないと思うが、それでも「土偶」に日本アニメの秘密を見ているのである。

 ドイツ大使館公邸で交した対話のうち、これとやゝ似たおやっと思うドイツ人の日本観察の幾つかを忘れぬうちに挙げておきたい。

 憲法九条の改正の必要を私は敢えて話題にした。そのとき座にいた上智大ドイツ人教授は「日本が九条を改正しないことはドイツの東方政策に匹敵するんです。」と言った。東方政策が近隣諸国に対する戦後ドイツの代表的な外交上の和解政策であったことはよく知られている。私は異論があったが、言い出せばきりがなく、日独の戦争の相違論になり、テーブルマナーに反するから黙っていた。たゞドイツ人が九条問題を自国の東方政策になぞらえたことには多少とも意表を突かれた。私に言わせれば九条問題は日本の無能と怠惰の表現で、決して積極的な外交政策ではないと思われるからである。

 これに関連してシュタンツェル大使も、たとえ九条を改正しなくても日本の安全に不安はないと言った。「自分は日本に暮らしているが、北朝鮮の核はこわくない。中国が発射を北に許さないからだ。中国の核もこわくない。今の中国は経済中心だから、問題を起こさない。」

 また私が日本はアメリカから真の意味で独立していないので、日本の富がアメリカから毟り取られている、と言ったら、「毟る」という単語が面白いという話に少しなった後で、大使は「逆に日本がアメリカから富を毟り取って来たように思うけど」と仰った。これもおやっと思わせる意外な発言に私には聞こえた。

 以上日本側が遠慮のない考えを述べると、思いがけない答がもどって来て、なにかと発見のあるのは外国人との付き合い方の一つと私は心得ている。

 このことに関連してもう一つ面白い重要なことが起こった。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(四)

 シュタンツェル大使は2011年に日独交流150周年を迎えるので、その記念行事の準備にいま余念がない、という新しいニュースを披露された。

 1860年秋に訪れた「ドイツの黒船」という言い方をなさった。私はすっかり忘れていた。「黒船」といえば1853年のアメリカのぺルリ来航のそれと、大半の日本人は考えるし、私も迂闊だった。プロイセンの東方アジア遠征団が1860年に江戸にやって来て、翌年幕府と修好通商条約を結んだ。これが、日独の交流の始まりだった。

 どうやら記念行事を盛り上げるための各種の相談ごとがあってのこの夜の食事会であるらしかった。私は余計な雑談を交してきたが、大使がわれわれを集めた理由の一つはここにあったらしく、座の皆さんは色めきたった。

 キルシュネライト教授は「日本の若い層にアピールするドイツがないのです。それが頭の痛いところです。」としきりに仰った。「日本の若い人の人気度において、ドイツはイタリアにもフランスにも負けているのです。」

 成程そういうことかと私は思った。たしかにお料理やワインでも、ファッションでも、観光地でも、イタリアとフランスは日本における人気でドイツをしのいでいる。しかし、音楽があるではないか。哲学があるではないか。ベートーヴェンやカントのような巨人文化が日本の若い人にも知られている、ドイツのドイツたる所以ではないか。

 私がそう言うと、「西尾先生はドイツで演奏会にいらしたことがありますか。」「最近は行っていません。」「聴衆は老人ばっかりです。クラシック音楽を若いドイツ人は聴かなくなりました。」

 でも、日本の演奏会場が老人ばかりということは決してない。「それに」と彼女はつけ加えた。「カントは誰もいま読みません。私も読みません。」

 「日本で記念切手を出してもらいたいですね。働きかけて下さい」と大使は早大の日本人教授にしきりに訴えていた。「ドイツで記念切手を出させるのは至難の業ですが、日本ではそれほど難しくなさそうですから。」

 私は日本で先年初めて行われた世界ゲルマニスト学会の開催に際して記念切手が発行されて、絵柄が森鴎外だったことを思い出して、そう言うと、この件はみな知っていた。

 大使は「皇太子殿下ご夫妻をベルリンにお招きする計画を秘かに立てています」と仰った。私は「ヨーロッパならご夫妻はきっと喜んで行かれると思いますよ。」と観測を述べた。トンガやブラジルなら行きたがらなかったけれど・・・・・・とは余計なことなので、敢えて言わなかった。

 イタリアやフランスに負けないドイツのアピール度はたしかに大使館側の頭痛の種子らしかった。しかしなぜ若い人にばかり受けることを考えるのだろう。しかも日本人にとってドイツといえば必ずしもプロイセンがすべてではなく、バイエルンもオーストリアも含まれる。ミュンヘンとウィーンは感覚的にとても相互に近いのだ。

 私は昨秋六本木の国立新美術館でハプスブルク展が行われ、若い人で一杯だったことを告げた。毎年正月一日のヨハン・シュトラウスを聴くニューイヤーコンサートは日本では絶大な人気を博す。ウィーンの会場の楽友協会大ホールからのテレビ中継には日本人の姿も数多く映し出されている。「中国ではこんなことはないでしょうね。西洋名画の美術展は毎年日本のどこかでたえず開かれています。これも他のアジア諸国では考えられないことでしょう。」

 十九世紀のオーストリアの名宰相、ウィーン会議の立役者の浩瀚な伝記『メッテルニヒ』(塚本哲也・文藝春秋刊)は、今のヨーロッパでだって出ていないような素晴らしい業績だが、昨年11月に出版されたばかりである。西洋化された日本の文化、学術水準はともかく高いのである。「中国人は西洋文化をくぐり抜けていません。日本人は子供の頃からグリム童話とかアンデルセンに馴染んでいます。これは決定的に大きな差です。」と私は言った。つい先年まで駐中国大使だったシュタンツェル氏は「中国には中華思想があるからそれが妨げとなっている」と答えた。

 私が言いたかったのは、若い人に受けのいい流行現象でイタリアやフランスと競うのではなく、ヨーロッパ文化全体の中のドイツの魅力、EUの事実上の力の源泉であるドイツを堂々とけれんみなく訴えてほしいということだった。

 ドイツの犠牲と忍耐なくしてEUはない。フランスはそれを良く知って用心深く行動している。イタリアはEUのお荷物でしかない。そんなことは日本人はみんなよく承知しているのですよ、と私は言いたかったのだ。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(三)

 私たちは用意されていた食卓を囲んだ。私はシュタンツェル大使の右隣りに、キルシュネライト教授は大使の前に座を与えられた。席にいた方々がみな私より若いひとびとであることに気がついた。

 冒頭、大使が敢えて私に会いたかった理由は、むかし私が書いた「留学の本」が原因であると分った。『ヨーロッパ像の転換』か、あるいは『ヨーロッパの個人主義』かのどちらかだが、どちらであるかは聞き落としたものの、1969年刊のこれらの古い本の話が出てくるのをみると、私とドイツとの関係がつねに40念前のあの時代に立ち還るのを避けることはできないのだと、ことあらためて再認識したのだった。

 しかし私はあの懐しい歳月からすでにはるかに遠い処に生きていた。留学生試験官をつとめたのも1970年代末の出来事である。私は今もなおドイツの思想や歴史に研究目的の一つを置いているが、いわゆる日本のドイツ研究家(ゲルマニスト)の世界からはどんどん離れた表現世界に生きるようになって、60歳を迎えた1995年には、形骸化した関係を切って、ドイツ語学・文学の学会の会員であることも退いてしまった。だから大使館に招かれると懐しさの余りつい思い出に耽ってしまったのである。

 キルシュネライトさんは日本のある所で講演をして、とかく型にはまった文化比較がはやっていることに疑義を唱えたことがある。すなわち欧米人の個人主義と日本人の集団主義、狩猟民族の文化と農耕民族の文化といった類型的観念を歴史などの説明に持ち込むのは無意味だと彼女が語った、という話を私はインターネットを通じて知っていた。そこで、私からそれへの賛意をあえて持ち出して座を盛り立てようとした。

 「集団主義と個人主義の対比を言うのを好むのは、ドイツではなくアメリカからの見方です」と彼女は思いがけないことを言った。そういえば日本の産業力の増大と貿易の勢いを恐れた80年代のアメリカが「日本封じ込め論」を展開したときに、集団主義的経営をアンフェアと非難したことはたしかに忘れもしない事実だった。だがあのときはドイツでも、というよりヨーロッパ全体で、日本は個人主義を欠いた異質な文化風土のゆえに不公正な競争をし、ひとり勝ちしていると難渋されたものだった。アメリカもヨーロッパも対日批判では一致していた。

 私は1982年に日本の外務省の依頼でドイツの八つの都市を回ってわれわれの競争の公正を主張する目的の講演をして歩いたことがある。思い切って座談でその話をした。簡単な説明なので分ってもらえたかどうか不明だが、19世紀末から20世紀初頭のドイツはイギリスやフランスから同じように「集団主義」を非難されていた話をした。当時ドイツの鉄鋼生産はイギリスを追い抜き始めていた。

 「フランスの詩人ポール・ヴァレリーはいまわれわれはドイツの『集団主義』を非難しているが、ドイツの後には必ず日本が台頭し、その『集団主義』の力を示すだろう、と予言していたことがあるのですよ。日清戦争の後のことです。」と私はつけ加えた。「イギリスやフランスがドイツを恐れ、ドイツが日本を恐れた歴史の順序を踏んで『集団主義』がタームになったいきさつを考えると、キルシュネライトさんが仰るように狩猟民族は個人主義、農耕民族は集団主義というような文化類型論はたしかに成り立たないですよね。そして、今の時代はアメリカもヨーロッパも日本もみんながこぞって中国の『集団主義』を恐れ、非難する順序に立たされています。」

 するとキルシュネライトさんは、「中国への期待と恐怖は今に始まったことではなく、19世紀からあり、今お話の順序通りに歴史が流れたわけでもないでしょう」と仰った。それからこれを切っ掛けに、中国論があれこれ座を賑わせた。多くの人の関心が中国に向けられている時代にふさわしい展開だった。皆さんのそのときの話の大半をいま私は思い出せない。これらの会話の大部分は日本語で交されたことをお伝えしておく。

 八都市をめぐるドイツ講演の折に、キールの会場で手を上げ質問に立ったあるドイツ人老婆が私を叱責したエピソードを私はあえて話題にした。この老婆は外交官の夫と共に滞在した戦前の日本を知っていた。「今日のあなたの講演は日本がドイツに匹敵する国だというようなお話でしたが、私はそんな話をとうてい信じることができません。私の知る日本の都会は見すぼらしい木造の不揃いの屋並みで、夜になると提灯がぶらさがっていましたよ。いつ日本人はそんな偉そうな口がきけるようになったんですか。」伺えば彼女の記憶は1920年代、大正時代の滞日経験に基いていた。

 キルシュネライトさんは「今のドイツにはたとえお婆さんでも、そんな認識の人はもうひとりもいませんよ。」と応じた。勿論それはそうだろう。私の講演旅行は1982年で、老婆は80歳を越えた人にみえた。

 一般のドイツ人がどの程度いまの日本を認識しているかはやはり気になる処だったが、キルシュネライトさんが語った一つの小さな事柄が印象に残っている。「一般大衆も日本のことは相当知るようになっています。タクシーの運転手でも富士山の形を知っているかと聞いたら、指で正しく描いてみせたことがあって、いろんなことが広く知られるようになっていることが分ります。」

 この例話は必ずしも日本認識の発展でも深化でもなく、いぜんとしてフジヤマ・ゲイシャの類の詳細な知識の普及の一例にすぎないように思える。80年代に私にドイツのタクシーの運転手が「日本人は禅の精神で自動車を造っていると聞いたが、本当ですか」と真顔で尋ねたことを思い出させた。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(二)

 「ドイツ大使館には今までにおいでになったことがありますか」と大使が私に尋ねた。私は若い頃必要があって大使館を訪れたことは勿論あった。たゞ今日のように「公邸」に来たことはなかった、そう申し上げた。「留学生でしたから文化部長は会ってくれましたが、大使にお目にかゝる機会はありませんでした。」

 そう言いながら私はカーテンの外の暗い庭を見つつ思い出すまゝ遠い歳月の彼方をまさぐるように往時を振り返った。そうだった。私は自分が留学生であったときには大使館にたびたびは訪れる必要がなかった。留学生ではなくなってからむしろ日参した日々があったことをふと思い出した。さりとてその場でシュタンツェル大使に詳しくお話するようなことでもなかった。

 私が最初の留学から帰国したのは1967年だった。それより10年くらい後のことになるが、ドイツ政府交換留学生(Stipendiat des DAAD)の試験官を頼まれて、数年にわたり、春になると大使館に赴いた。試験で選ばれる人々は35歳以下の日本のドイツ語学・文学関係の大学の先生たちで、上は助教授クラスから下は大学院修士在籍中の学生までが含まれていた。

 試験官はドイツ側からと日本側からとがそれぞれ数人づつ出て、受験者は30-35人くらいいただろうか。ドイツ語学・文学専攻の留学生を選ぶ厳正な試験だった。音楽や哲学や自然科学の関係の選考は私たちとは別の試験官によって日時を違えて行われていた。日本側は私より5年ほど先輩の早川東三氏(後に学習院大学学長になった)がリーダーで、他の選考委員は私のほかには東大や阪大の先輩たちだった。日欧文化比較についてなにかと考えさせられることの多い面白い体験だった。

 あの頃はドイツ語学・文学専攻の研究者志望の人は多数にのぼった。日本独文学会も3000人を超える盛況だった。ドイツに留学するのはまだまだ困難な時代だった。私が留学した60年代半ばにはドイツに来ている日本人はまだ少数で、珍しがられた。ビヤホールでドイツ人から「日本には大学がないから勉強しに来たのかね」などと言われたこともある。

 当時国立大学の私の初任給は1万5300円で、日本より早く高度経済成長をとげたドイツで留学生として暮らす月額給付金は500ドイツマルク、約5万円だった。しかも航空運賃がべら棒に高く、ヨーロッパまで片道68万円もした。月額給付金はドイツ政府が負担し、往復航空旅費は文部教官に限って日本政府がもった。私のケースはこれだった。

 よほどの財産家でもない限り、自費で留学するのは難しい時代だった。だから政府交換留学生制度のこの枠に人が殺到するのは当然だった。両政府が関係したのだから、選抜試験官も日独両サイドから出て、試験はドイツ大使館で行われたのである。そのために文化比較の面白いテーマにいくつも出会った。

 試験は日独別々の部屋で異なる方法で行われた。どちらの側でも筆記試験と口頭試問の両方が課された。日本側は筆記試験を特に重視し、ドイツ側はその逆だった。日本側の筆記試験は独文和訳で、これに70点を与えた。ドイツ側の筆記試験はドイツ語で自由に書く課題作文で、口頭試問との比は多分50点対50点ではなかったかと思う。(このあたりは少し記憶が確かではない)。

 面白いことが起こった。今日お話ししておきたかったのはこのことである。

 日本側試験官はどなたも口頭試問に点数をつけるのを迷い戸惑った。試験官ひとりに10点づつの持ち点が与えられ、各受験生に10-20分程度の応対をするのだが(それだけでも大変な時間である)、いざ採点となると、おうよそ真中あたり、5点か6点か7点かのだいたい三つに集中し、うんといい点をつける人も、うんと悪い点をつける人もいなかった。いかにも日本的な曖昧さにみえるが、会話を交しただけで人を評価することなんてできないというペシミズムが日本人にはあった。だから合計100点に換算しても、点差がつかない。

 それに対してドイツ側は0点から100点まで劇的に大きな点差を与えていたので、合否をきめる決定権はドイツ側に握られてしまう結果になる。

 筆記試験はどうかというと、日本側で出す独文和訳には大きな点差が開いた。私たちはドイツ語の難しい文章を読解する能力を最も重視していた。受験者は大学の先生でも能力はそう高くはなかった。なんでこんな語法や用法を知らないのだろう、と、私たち試験官は採点しながら口々に嘆き声をあげたものだった。(最近は当時よりもっと力が落ちているという話を聞く。)

 ドイツ側の筆記試験は与えられた課題について好きなように書く独作文だった。ある年に「貧困について」という題目が与えられた。受験生はみな知識人である。当然ながらマルクスがどうだとか、日本社会の矛盾がどうだとか、難解なことを書きたがる。当然である。それはそれでよいと思う。

 ところが最高点を取ったのはある私大の大学院修士課程の二年生の女子学生だった。彼女は東京の家賃が高いことについて書いた。世界の他の都市に比べての東京の生活困難の原因はここにある、といったレベルのテーマを、文法の誤りのない平明な長い文章で書き綴った。日本に暮らすドイツ人は身につまされる話題であって、これを喜んだ。そしてとび抜けて高い点を彼女に与えた。

 合同判定会議でこの事実を知って日本側試験官は反論した。彼女の独文和訳の点数が低かったからだ。口頭試問でも学者としての資質の片鱗をうかがわせるものに乏しい、と日本側では判定されていたからである。

 けれどもドイツ側は反論を認めなかった。議論は平行線を辿った。そして合計点により彼女は上位で選に入った。その後彼女がどういう留学生活を送り、今何をしているかを知らない。

 日本の外国語教育は昔から読む能力を最重要視していた。私たちの世代は今でもそういう考え方の人が圧倒的に多い。だから大学が使うドイツ語のテキストは昔は教養主義的だった。しかしあの頃からすっかり変質し、だんだん会話や生活説明のような文章が多くなった。私はドイツ語の文法や読本をかなりの点数出版している。私の作った大学一年生用のテキストにはゲーテやカフカやハイデッガーの文章まで取り入れている。ほとんど例外である。

 東京の家賃の話を平明なドイツ語で綴った女子学生は賢いかもしれないが、この一件は彼女を評価したドイツ側試験官とわれわれとのメンタリティーの違いを強く意識させた出来事だった。

ドイツ大使館公邸にて(一)

 雨の降る寒い夜(1月12日)、広尾にあるドイツ大使館公邸の夕食会に招待された。ベルリン自由大学日本学科のイルメラ・比地谷=キュルシュネライト教授が来日したので、引き合わせたいというシュタンツェル大使じきじきのお招きであった。お名前から分る通り、教授は日本人と結婚したご婦人である。大使は2年前まで駐中国大使を務め、本省に戻って、昨年10月に駐日大使として赴任したばかりである。やはり日本学や中国学を学んで、若いころ京都大学に留学したこともある文学博士である。

 キルシュネライトさんは日本文学研究家として関係方面では有名な方で、『私小説――自己暴露の儀式』(平凡社)という日本語訳の単行本も存在する。残念ながら私はまだ読んでいない。だが彼女の活躍は前からいくつかの論文を通じ知っていた。訳書の題名は魅力的である。私の一昨年に出した本、『三島由紀夫の死と私』とテーマが重なっている可能性もあると見て、献呈用に一冊持っていった。

 有栖川公園沿いの大使館のある辺りの風情は久し振りで懐しかった。私が公邸に着いたときには他の客人、キルシュネライトさんは勿論、早大の日本人教授と上智大のドイツ人教授がすでに来ていて、控えの広いホールで杯を傾けながら談笑していた。

 キルシュネライトさんは厚さが15センチもある赤い表紙の大型の『和独大辞典』をかかえて、その意義をしきりに説明していた。この大辞典は全3巻で、目下第1巻のみ刊行され、iudicium というミュンヘンの出版社から出ていて、一冊278ユーロもする。「日本での定価では多分3万円でしょうね」と彼女は言った。代表執筆者は Stalpf 、 Schlecht 、上田浩二、それに Hijiya-Kirschnereitの四人である。

 ドイツ語や英語を学ぶ日本人はご承知の通り『独和大辞典』や『英和大辞典』を必要とする。明治以来の一世紀半の努力があって日本におけるドイツ語や英語の辞書の世界は非常に発達している。しかし日本人の作った「和独」や「和英」は充実しているだろうか。これはやはりドイツ語文化圏の人、英語文化圏の人が担当し、日本語の世界を知ろうと研鑽を重ねてくれないと精緻なものを作るのは無理なのではないだろうか。

 私は目の前の部厚い「和独」の一冊を手に取って、パラパラめくりながら、ドイツにおける日本研究、日本語研究、日本文化研究は相当レベルが高くなり、これほどの量感のある辞書を必要とし、それの作れる段階にやっと到達したのだなと思った。勿論、これを日本人も自由に利用することができる。日本人にとってもありがたい辞書には違いない。だから赤い表紙には推薦人として岩崎英二郎氏(ドイツ語学者)、吉田秀和氏(音楽評論家)という著名人の名がのっていた。

 私は雑談のあいまに大急ぎで、和独を見るたびにいつもするある実験をした。「評論家」という文字を出した。そこには Kritiker、Rezensent、Publizistなどの語が並んでいた。しかしどうもしっくりしない。日本のマスコミが私などを「評論家」と呼ぶときのニュアンスはここにはない。だから「ぴったり一致しないんです(nicht entsprechend)」と私は言った。

 「例文を見て下さい、そこで解決できるでしょう」とキルシュネライトさんは言った。「いや、違うんです」と私は言った。私が「評論家」と自分で自分の職名を表現するのは日本のマスコミ一流の流儀、妙な習慣に合わせているからで、他に言いようがない場合に用いる微妙さがこの語の使われ方にはあり、「まぁ、そうですね、評論家というのは乞食と言っているのと同じようなことですね」とつけ加えた。

 彼女は私のアイロニーがすぐには分らなかったかもしれない。少し当惑したような、困ったような表情をなさったからである。しかし日本のマスコミの実情はきっと恐らくかなりご存知ではあるだろう。だから当惑したような表情のあとですぐに笑顔に戻った。