坦々塾報告(第八回)

 伊藤悠可
坦々塾会員 記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

guestbunner2.gif

 坦々塾(第八回)が二月二十四日に開かれました。この日は朝から春嵐が吹き荒れ、首都圏の多くの鉄道が運休するほどの強風で、会場にたどりつけない遠方の方々もおられました。二カ月に一度お目にかかる機会を失い、残念です。

 渡辺望さんが前回、坦々塾の由来を詳しく書いて下さいました。今回は、実質的にはことし最初の坦々塾のご報告を申し上げます。

 思いがけない季節風の到来で、この日の予定は変更を余儀なくされました。前半前段に予定していた西尾先生の「徂來の『論語』解釈は抜群」(第三回)はお休みし、約一時間半、サブプライム問題に端を発するアメリカの金融不安と中国、日本の運命について、同先生の講義をいただき自由討議を行いました。このテーマは、『Voice』四月号の[特集 日本の明日を壊す政治家たち]のなかで『金融カオスへの無知無関心』と題する論文で詳しく書かれ、まもなく本質的な課題を世に問われます。

 後半二時間は、宮脇淳子先生が「モンゴル帝国から満州帝国へ」という壮大なテーマで講義下さいました。宮脇先生は『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』『モンゴルの歴史』『中央ユーラシアの世界』などを著された方で、従来の東洋史の枠組みを越えて中央ユーラシアの視点に立った遊牧民の歴史と、総合的な中国史研究で知られています。

 西尾先生の講義は、私たちに新たな課題を投げかけられました。私たちが有している日常の糟粕的知識のかたまりをここで捨て去って、もう一度、世界を日本を凝視してみなさい、という意味での新しい課題です。むしろ態度と言って良いかもしれません。

 西尾先生が最近、「金融は軍事以上に軍事ですよ」と口にされているのを私たちは知っています。政治、外交、軍事、教育、その他先生の視野はどこにでも及びますが、先生は経済という漠然とした対象ではなく、いわゆる企業経済人が商売の範囲で語っている経済・市場各分野の部品的知識の集合ではなく、現代の金融というものを論じられました。私には「国家の生殺与奪を握る金融」という重大な意味で迫ってきました。

 米国に端を発した「サブプライムローン問題」があります。それが世界に金融不安の波紋を広げていることは、私のように新聞的常識しか持たない人間でも関心が及びます。けれど、こうした問題に深く潜んでいる真実の像をとらえようとはしません。サブプライム以降に生じているさまざまな世界の変化には、当世のエコノミストが相変わらずその場しのぎの安心・不安両面からの批評や観測をしています。日本は上から下まで無定見を自ら許して気にかけることはないように見えます。

 米国の危機は本当なのか、ドルの基軸通貨の地位は存続するのか転落するのか、〈デカップリング理論〉なるもので中国は安定を続けるのか、バブル崩壊は間近なのか、そもそも米国という国が仕掛け動かしているのか、それともいわゆる国際金融資本という存在が後ろから揺り動かしているのか……。これらについても単眼的な一つの常識的技術の按配でみることはできないし、予見もまたむずかしい。

 しかし、複雑でむずかしい現実に対して、私たちはどのような見方をしているのかというと、日頃私たちが批判しているテレビ画面のエコノミストたちの世界把握とさして違わない。

 私自身も、サププライム禍は欧州を襲ってひどいことになっているが、日本は偶然手を出していなかったから助かっているという記事を読んで、どこかで安堵していたり、また中国のような国の繁栄を決して歓迎しないが、中国経済が一瞬に崩壊すると、アメリカの足腰はもう立てないだろうから、日本はさらに困るというふうに連想ゲームのように心配してみたりしている自分に気がつきます。つまり、米国が駄目なら中国がある、中国が駄目なら米国があるという大変無責任で甘い観測をしていることになります。

 先生は、それがダメだと言います。どうして世界を現実を堂々と見つめないのかと言うのです。金融や経済に限りません、われわれは好きな一つの現実を取って、現実そのものを見ないという誤りをしている。それを指摘されました。

 先生は八十年代に立ち寄られた英国で、英国人が抱く勤労感や立身のすえの自己理想像から、この国の〈金融優位〉というべき生き方を看破する体験を話されました。産業革命の発祥地の人々が、実は非産業資本主義を骨の髄から嗜好し標榜していることを私は初めて知りました。驚きです。驚きと同時に、わかったつもりでいる常識的見地がどれほど当てにならないものかと考えさせられます。

 毒ギョーザ事件から私たちはスーパーでまじめに商品を選択します。けれど、その他のことはたいがい無防備無定見になりがちです。過去に遡って原因を疑ってみることもしません。不愉快な事を回避、忘れたいという傾向が働くのです。知的にも勇気のない態度だから、「日本はこんなふうにさせられてしまったのか」と地団駄踏んでいる。私も地団駄ばかりです。

 日本人は貿易立国だと胸を張っていましたが、今では所得収支が貿易収支を上回ってこの国はファンド化への道を皆で歩いています。これは言い換えると「ものづくり」は「ファッド」に勝てないということでしょうか。構造改革というのは先生によると、日本人の人体の強制的解剖にも似た暴虐な行為なのですが、なぜか詐術的手術で冒された患者のほうがアメリカに協力し、もっと真剣にやろうと掛け声をかけています。

 日本を内部から壊してこれまでと違う日本をつくろうと米国が動き出したのは八〇年代に遡る。抵抗するどころか率先してそれに協力し、その後、日本と日本人がどうなるのかについて一瞥もしなかった政治家がいたという地点から、すでに日本の自己喪失が始まっていたということに気づかされます。

 「金融は軍事以上に軍事」というからにはそこに国家が生きていけるかどうかという生殺の岐路がかかっているということです。世界がとっくに戦略兵器とみなしている。この金融と経済を論じなければいけないと先生は諭されます。私たちは習慣的に「それは経済の問題だから」と言いながらそれはその領域の問題として取り扱っています。以前にも先生は「経済を正面から論じられない知識人が多すぎる」と嘆かれたことがありました。

 一つの好きな現実を見て現実そのものを見ない態度。それでは戦えないということである。講義のなかで幾度か「われわれ自身の眼に問題がある」と先生が指摘されたことは極めて重要なこととしてわれわれ自身が受け止めなければなりません。

 金融は軍事、それは軍事以上の軍事。一度、身震いしてみることが大切な言葉であるとさえ思っています。

 帰って翌日、私はこんな昔の記事が自宅の書棚にあったのを思い出しました。昭和四十七年の文藝春秋十月号「中華民国断腸の記」で紹介されている蒋経国(当時、中華民国行政院院長)の発言です。

 「共産党はコトバをわれわれとまったく違った解釈で使います。わたしたちには戦争、平和、協力、対話、文化交流、相互訪問、親善、そういったコトバがいろいろありますが、かれらの解釈は、戦争は戦争である。平和も戦争である。対話も戦争である。友好訪問、これも戦争で親善もまたしかり、これを総称して、わたしたちは『統戦』と呼んでいます。目的は一つ。すべてはいろいろな策略、方式をもって自由国家に入り込み、浸透、転覆、社会体制をひっくりかえし、経済を攪乱し、最終的にその国を赤化するという唯一の目的からきているのです」

 この文中の「赤化」というところを今、「支配」「操縦」「隷属化」と変えてみれば、今でも全然、文章が色褪せているとは感じられません。「その国」というのを「日本」に置き換えて見ると、そのまま自然に当てはまってしまう。米国は、中共ではないが、ほとんどこの「コトバの解釈」は同じであろう。日本だけは「戦争」以外は全部「平和」もしくは「平和のため」と言ってきました。おそらく「金融も平和である」と考えてきたのです。

 

 後半は「モンゴル帝国から満州帝国へ」と題して宮脇淳子先生からお話をいただきました。

 壮大でスケールの大きい視野でモンゴル論を展開されました。「世界史はモンゴル帝国から始まった」という題名がそれを示唆していると思います。刺激的で新鮮で、場面転換の速いスペクタクルを見せられているようなお話でした。想像力を駆使しました。

 私自身、高校までの世界史の雑知識しかありません。今でも内陸の貧しく広い国、朝昇龍の国といった一般のイメージを脱しません。モンゴル帝国が東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ「草原の道」を支配することによって、ユーラシア大陸を一つにした。そこまではわかりますが、歴史的にはモンゴル帝国を〈親〉とし、その〈子孫たち〉が中国やロシア、トルコなどであると説かれたので驚きました。先生が作成された継承図をつぶさに見て納得がいきます。

 冒頭から高校生以前の知識で素朴な疑問を発したくなりました。それを次々と説明のなかで氷解させてくださったので大変面白い。遊牧各部族には系図がない。チンギス・ハーン一族だけが大事であって、それ以前はない(無視されている)ということになっている。十三世紀以前は、旧世界とされているそうです。確かにユーラシアの国々はチンギス・ハーン一家と呼ぼうと思えば呼べるわけです。先生が仰った「チンギス統原理」という一族の男系だけが皇帝になれるという掟が働いています。

 欧州の考え方は「世界は移転する」「興亡がある」というものだが、中国はよく言われるように「天命」が支配し、「皇帝は天命が決める」ものです。先生はこうも言われます。「マルクスは内在的要因から世界は変化を起こす」と言ったが、ユーラシアの視点では「外からの刺激によって世界は変化した」というべきだと。

 遊牧民に土地所有の観念がない。大草原があって常に移動する。坪当たりの地価など思いつくはずもありません。財産は家畜と人間。私は途中で、どのように戦争をしかけ征服し続けられたのか、というまた素朴な問いが起こりました。ふつう戦争で勝利しても次には統治という永続的課題に悩まされるからです。しかし、ここでもモンゴル帝国の大雑把に見えて、実に有効な決めごとがありました。君主は掠奪品(戦勝品)の公平な分配を実施すること、部族内の紛争処理能力を持っていることが求められる。

 ところで、彼らはなぜ強いのでしょうか。征服をしたその土地の部族を支配下に置く。彼らは次の戦争でその部族を率いて戦う。フビライが発令した日本征伐、蒙古襲来のいわゆる「元寇」のときも征東軍には満洲生まれの高麗人が多く含まれていたと『世界史のなかの満洲帝国』で説いておられます。私はもとへ戻って、なぜ戦争が上手なのかということに興味を持ちました。ヨーロッパまで押し込んで勝った「遊牧民の兵法」といった研究があるのでしょうか。個人的興味です。

 先生によると、彼らにとって戦争は「儲け仕事」であります。「勤務」として理解すると、彼らの強さも磨かれるだろうという想像が成り立ちます。また遊牧民は自然、天候を他の誰よりも掌握し、活用する知識や勘を持っていたのかもしれません。

 掠奪した品を山分けする。また戦後はきっちりと取り分の税金を徴収する。統治と交易面では、幹線道路の一定距離ごとに「駅站」を置き、ハーンの旅行為替(牌子)を持たせて「駅伝制」を敷いたというお話でした。また、征服しても宗教に対して優劣をつけず、平等に扱っていたということも、なるほどという気がする。集団への内政干渉から生まれる新しい葛藤を引き起こさないで済みますから。

 モンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻し、陸上貿易の利権を独占してしまいましたが、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人だけが活路を求めて海上貿易に進出したとされます。スペイン、ポルトガル、イギリスなどが侵されなかった海洋帝国とみると、世界はモンゴル帝国を指し、そのほかに例外の国があっただけになります。日本は例外の国で、世界と関係がなかったというところに、当時の思いを馳せてしまいます。

 元朝の中国支配、北元と明朝について触れられ(講義時間の都合もあり)、最後に日本人とって密接な「満洲」についての基礎的講義がありました。満洲はもともと地名ではないということ(「洲」の字のサンズイに着目)、清の太祖に諡号を贈られたヌルハチが、女直を統一した際に「マンジュ・グルン」と名付け、彼の息子ホンタイジが女直(ジャシェン)とい種族名を禁止し「マンジュ」(満洲)と解明したのがはじまりだと教えてくださいました。

 満洲(マンジュ)は文殊菩薩の原語「マンジュシェリ」から来ているというのを聞いたことがありますがそれは誤りだそうです。歴史の上では、転訛というものとは関係なく、風聞が固まるという意味での発明もあるという一例かもしれません。

 満洲という地名は高橋景保がつくった地図(1809~1810)にはじめて登場し、これがヨーロッパに伝わり「マンチュリア」になったと言います。日清日露の背景を語られ、辛亥革命から清朝崩壊、ロシア革命と中国のナショナリズム誕生から満州事変、満洲国建国、そして満洲帝国の成立までを説かれましたが、「満洲」だけでも別に集中講義を所望したいほどのボリウムでした。私自身、歴史の基礎的な素地を欠く〈生徒〉であり、基礎勉強を怠ってお話を受けるのは申し訳ないことである、と率直に感じ入りました。

 宮脇淳子先生は著作『世界史のなかの満洲帝国』のはしがきでこう書いておられます。

世界史のなかの満洲帝国 (PHP新書) 世界史のなかの満洲帝国 (PHP新書)
(2006/02)
宮脇 淳子

商品詳細を見る

 「歴史学は、政治学や国際関係論とは違う。歴史は、個人や国家のある行動が、道徳的に正義だったか、それとも罪悪だったかを判断する場ではない。また、それがある目的にとって都合がよかったか、それとも都合が悪かったかを判断する場でもない」。眼睛に清涼を覚えさせられる言葉だと思います。

文:伊藤悠可

お知らせ

テレビ出演

 2月20日(水)夜8:00~9:30
 文化チャンネル桜 報道ワイド日本
 対談相手 水島 総(西尾のゲストコーナーは8:30ごろから)

テレビ出演

 3月1日(土)夜9:00~9:55
 東京MXテレビ(地上波デジタル9チャンネル)
 花田紀凱のザ・インタビュー

 再放送 3月27日(日)夜8:00~8:55
      (日時を訂正しました)

報告文

 「隠されていたGHQの野蛮な焚書」
 西村幸祐責任編集『撃論ムック』
 拉致と侵略の真実(オークラ出版)に所収。
nisimura1.jpg

評論

 『Voice』4月号
 「特集 日本の明日を壊す政治家たち」のうち、拙論
 金融カオスへの無知無関心(30枚)

「日録」再開のお知らせ

 「西尾幹二のインターネット日録」は永い間休止宣言をしたまゝでしたが、すでに事実上、継続されています。ここではっきりこれからの掲示の原則を再確認し、再開を宣言したいと思います。

(一) 私が他で発表した文章を掲げて私の意見を表明することは行う積りですが、直接新しい意見をここで述べることは控える。

(二) コメント欄はさし当り停止する。

(三) ゲストエッセイの名で信頼する友人たちの文章を必要に応じ掲示する。

(四) 主に私の言論活動のプログラムを告示する。また、参加した各会合の内容報告も可能な限り行なう。

(五) 新しい試みとして、「単行本に未収録の私の仕事」と題して、評論・解説・書評・インタビュー・対談等の過去の作品を次々と掲示する。

 以上の通りに進めていきたいと思います。

文:西尾幹二

生存と繁栄への資本主義転換のロードマップ

足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

guestbunner2.gif

   
  ――MFICとサブプライム問題の教訓

<ある日本人が西半球で投じた一石>

 その青年は銀行から語学研修生としてラテンアメリカのある街に派遣されていた。
 街の物売りと親しくなりその家に招待されることになった。

 質素だが心のこもった夕食と楽しい会話のひとときが過ぎ、辞去する時間になった。その時、その家の小さな子供が青年に話しかけてきた。「お兄ちゃん今度はいつきてくれるの?」「お兄ちゃんが来てくれたので今晩お母さんが半年振りにお肉の料理を作ってくれました」と。肉料理らしいものが出てきた記憶はない。ふと思い出したのは、スープの中にそれらしい小さな破片が浮かんでいたことであった。このときのことは青年の心に刻まれ、その後も消えることはなかった。

 青年はその後、四半世紀の銀行員生活を国内勤務を挟みラテンアメリカ諸国、そして米国で過ごした。

 2003年、彼、栃迫篤昌氏はワシントン駐在員事務所長を最後にその銀行を辞した。同年、彼は米国で働くラテンアメリカからの移民のための金融機関、Micro Finance International Corporation (MFIC)を設立した。

 米国にはラテンアメリカからの移民5千万人が働いており、彼等の母国の家族への送金額は年間合計で530億ドルに達している。ところがそこには多くの問題が内包されていた。その一つは、一般の金融機関が課している送金手数料が送金額に比して著しく高いものになっていることである。それは彼等移民の送金一件当たりの送金額の12~16%に及んでいた。

 それよりもっと深刻な問題があった。それは5千万人の移民のうち3千万人が銀行口座を持たない(持たせてもらえない)”unbanked”の人々であったことである。日本人にはピンとこないが、小切手社会、カード社会の北米で銀行口座を持たないことは致命的である。ホテルのチェックインもカードなしにはままならないのである。”unbanked”の移民は受けとった賃金の小切手を現金に換えるために手数料を取られてしまう。”unbanked”の移民が働いて得た賃金200ドルを故国の家族に送金するとなると、賃金小切手の現金化手数料に20ドル程度の送金手数料が差し引かれ、国で家族が送金を受け取る際にまた手数料が取られる。

 それやこれやで、当初の200ドルが家族の手に渡るときには130ドルになってしまう。実に70ドルが失われてしまうのである。

 MFICは、この移民にとってはとうてい納得できない情況を是正することをビジネスの中心に据えていた。そこには彼、栃迫氏の長年の経験から、真面目に働き、定期的にきちんと郷里送金する人々は信用出来るという理論をベースとしていたのである。彼等移民はMFICの顧客になることで、小切手現金化の必要もそれに伴う手数料支払いも不要になった。

 送金についても情報通信技術の進歩を活用したコスト削減により、1件当たりの手数料を一律9ドルとし、150ドル以下の送金については一律6ドルとした。こうしたことで移民の送金手数料負担の軽減を実現させた。MFICの移民顧客の多くは定期的にきちんと郷里送金する人々であり、それは貴重な情報として蓄積される。

 こうした情報をベースにMFICは、愈々こうした顧客に対するローン即ちマイクロファイナンスを開始した。

 従来彼等移民が借りることの出来る先は高利貸しくらいしかなく、その高金利は彼等の生活を圧迫し、貧困からの脱出の障害となっていたから、MFICによるマイクロファイナンスの実施は大きな恩典となった。真面目に働き、きちんと故国の家族に定期的に送金する。そしてきちんとマイクロファイナンスの利払いと返済を履行する。そうした一連のビヘイビアは,顧客である移民の経済的な向上のみならず社会的信用の向上につながる。こうしたことは、ラテンアメリカからの移民の個人のintegrity(誠実さ) 規範意識を育み、ラテンアメリカ移民の米国社会における社会的経済的な地位の向上につながることになろう。

 こうしたことを考えれば、MFICは貧困からの脱出の道を提供していることになるのではないだろうか。

 MFICは更にラテンアメリカの国々においても地元の金融機関とタイアップしてマイクロファイナンスを開始している。MFICの顧客となった移民達からは、「初めて人間らしい扱いをうけた」と言う声が上っているという。

 MFICの活動は注目され始めており、ビジネスウイークが採り上げた他、米政府機関OPICが4百万ドルのクレジットの提供を決め、オランダの政府開発機関FMOも総額4百万ドルの投融資を2007年12月に実施している。近代、現代の最大の問題の一つは貧困の解消であろう。革命は解消策の答えにはならなかった。先進国や国際機関からの援助も十分満足すべき成果は得られていない。

 そんな中MFICのうごきは瞠目すべきものがあろう。

 マズローの法則から考えると、MFICは単に最低限の生理的欲求を満たさせているだけではなく、より高次元の自己実現を満たすロードマップを提供している点が、目先の生理的欲求の解消に力を入れがちな援助とは異なるのではないか。そして、ラテンアメリカの移民のため「経世済民」に寄与する一方、市場メカニズムによる資源の最適分配機能を十分生かし、利益を確保し事業を存続発展させようとしているからではないだろうか。

 勿論この事業を推進している栃迫氏を、その仲間が自己実現の動機として燃えていることは言うまでもない。

<サブライム問題の本質>

 MFICが米国でラテンアメリカ移民のための事業を展開していた同じ時期、米金融界は、サブプライム・ローン債券を作り大量に販売していた。それはやがて米国と世界に災厄をもたらすことになる。

 サブプライム問題が内包するものは、以前に起きたエンロン、ワールドコム事件の持つものよりも遥かに深刻である。両事件は共に企業による虚偽の財務内容開示により投資家、市場に損害を与えた事件であるが、当局は直ちに規制強化を行い再発防止策をとっている。

 これに対してサブプライム問題での様相は全く異なる。

 サブプライム・ローンは、低所得者層向けの住宅ローンで、当初2年間だけ金利条件、返済条件を緩めたローンである。その条件緩和経過後の金利、返済条件は借入人の所得では賄えないのもである。ただ当該ローンの担保価値に余裕がある場合には「追い貸し」で表面的には利払い、返済が行なわれる形を取る。あくまで不動産価格が上昇することを前提にしているローンで不健全なローンである。即ち借入人の収入で利払い返済が成り立たないこの様なローンは、会計原則からも当局の銀行検査査定でも正常債権とは認められない性格の筈のものである。投資銀行(investment bank)や銀行など米金融機関はこのようなローンを証券化し大量に投資家に売りさばいていたのである。

 これは不動産価格上昇のストップによるデフォルトのリスクを常に内包するマルチ商品にも類似した点のある商品なのであり、「ババ抜き」ゲームの性格を有する。実際に破綻が起き、先物で大量に売り予約を結んでいたGoldmansachsは膨大な利益を受け、一方多くの投資家、金融機関(日本の金融機関も含まれる)は損失を蒙った。又この証券を組み込んだ金融商品など派生商品の規模は不明である。

 投資家、金融機関は大きな打撃をうけている。しかし最大の被害者は、このローンを借りた低所得者層ではなかったのか。

 一時的な豊かさを享受した後、債務不履行(デフォルト)により彼等の生活はローン借り入れ前よりも苦しい生活を余儀なくさせる。デフォルトは彼等の信用を失墜させ経済的にもならず、社会的な面でも打撃を与えよう。それは米国社会の基盤を弱体化させることにつながるだろう。

 このように、債権化の対象となるローン自体に不正常さを内包し、経世済民にも反する商品を米金融界が生み出し、大量販売し、米国のみならず世界の経済を揺るがしている。この様な商品が、会計制度、銀行監査制度、連邦準備制度理事会、連邦政府、議会で問題になることなく大量販売されてきたことは極めて深刻である。

 サブプライムローン債券を生みだした米金融界の発想はMFICの理念と対極にある。市場原理逸れに基づくボーダレス経済は米国においても無制限に許容されているわけではない。2005年中国石油会社CNOOCは米国の石油会社UNOCALの買収にのりだした。これに対して米議会は反対の決議を行い、買収は断念されたのである。外国企業の米国内投資、米企業買収に係わる審査委員会CFIUSについても米国の国益の観点から審査の厳格化へ向けての動きが強まっている。

 本来サブプライム・ローン債券は、経世済民、公序良俗の観点から規制されたとしてもおかしくなかったのである。

<生存と繁栄へのローフォマップ>

 サブプライム問題が衝撃を与えた理由の一つは、この様な性格の商品が金融界で考案され販売されたことにある。

 洋の東西を問わず、金融機関は融資の基本を、公共性、安全性、収益性に置いてきた。公序良俗は総てに優先するものであった。米金融界はその対極にまで来てしまっていたのである。

 Max Weberは近代資本主義の担い手である経営者の精神を神への信仰、奉仕に求めた。日本の近代化の担い手であった企業家達にも同様なものが窺えた。企業家だけではなく、一般庶民の大層も、職業、生業を金だけではなく、「世のため人のため、国家・社会のため」であるとの思いがあった筈である。
 
 この企業の社会的責任、使命感という点が失われつつあるのは日本も同様である。企業の不祥事が社員の内部告発で明らかにされる。従業員が企業、経営者を告発することには公序良俗の観念が従業員に保たれ経営からは失われていることを示している。そこには次の様な背景があろう。

 資本と経営の分離、資本の経営に対する優越が大きく進んだ今日、企業と経営者の評価は収益のみで計られる。株主は絶対であるのであるから。かつての日本企業は、株式持合い、銀行による株式保有による安定株主にすることで株主の関与を排除してきた。それが、グローバルスタンダーンダードの掛け声で持ち合いや銀行の株式保有が解消され、資本の絶対優位が確立し、企業、経営の評価は収益だけが基準となった。その面でもグローバル化したのである。

 後述の通り日本では個人が株式投資を敬遠することもあり、株式投資の6割以上が外国人になることになる。このことを含め、資本市場の高度化で、機関投資家、各種ファンド、投資顧問業などの当事者は益々増加し、資本市場、経済の共通言語は企業の収益のみになり、企業経営から国益、公共性、公序良俗は失われる危険が高まったことは否めまい。

 更にここへ来て重要な問題が生じつつある。

 市場原理は資源の最適配分には最も有効な機能を有する。だが、それは前に述べた通り「一定条件の下で」と言う前提があり、市場原理以上に重視されなければならない要素つまり問題があることが明らかになりつつある。

 それはCO2問題に代表される地球環境問題である。

 米議会の諮問機関USCC(米、中国経済安全保障レビュー委員会)の2006年2月開催公聴会で中国のエネルギー効率は米国の1/3、日本の1/10であると証言されている。日本や米国が市場原理に則り、自国製品の購入を中国製品にシフトしてきたことは、CO2、環境の面で地球環境をそれ以前に比べ格段に悪化させていることにもなる。輸送に要するエネルギーを加えると逸れは更に悪化していることになる。市場原理のみに任せておくことはもうできなくなりつつあり、卑近な例では近郊で栽培される野菜と海外で大量生産される野菜は価格だけが決め手とはならないのである。

 自動車の排気ガス規制が各国で導入されているが、地球的規模で産業に於けるCO2の排出規制は喫緊の課題である。

 ヨーロッパでは、商品の表示に価格以外に店頭にもたらされるまでの消費されたCO2消費量を表示するようになってきているとのことである。市場メカニズムに総てを委ねる経済では人類は滅亡しかねない。この様な時代、現代としてこの環境問題をどう克服していけるか、ごく限られた身近なテーマからアプローチしてみたい。
 
 日本人は預貯金志向が強くリスクへの大きい株式投資は好まないとされるが、本当にそれだけなのだろうか。

 前述の栃迫氏がMFICの設立に当たり最大の難関となったものは、金融機関設立の要件を満足させるだけの資本金を集めることであったことは間違いなかろう。栃迫氏はこの事業が収益だけではなく、ラテンアメリカの移民のための、「世のため」の事業であることを説明し、且つ収益計画を持ってプロスぺクタスとし、各方面に説明したのである。かくして多くの日本人は出資によりこの事業に参加する意思を示し、資本金は予定通り集まったのである。

 これは、彼等が金だけではなく「世のため」になると言う明確な事業を支援することで、自己実現を図れるからであろう。栃迫氏は、その後も株主に対して、事業の展開と収益状況、将来の展望・計画を定期的に報告し説明し、コミュニケーションの徹底を期している。

 株式投資や金融資産での運用は「儲け」だけを目的とする意味しか持たない今日、仕事を金だけではない「世のため」であるべきという気持ちを抱く一般の日本人がこれらを敬遠してもおかしくはないであろう。

 上述のごとくCO2問題に集約される、環境・エネルギー問題は、人類存亡に係わる問題である。そのためには資源分配を市場メカニズムのみに頼ることは出来なくなった。またそれと同様に、環境・エネルギー問題のために産業、インフラ、生活様式などあらゆるところで抜本的な転換が求められるようになった。要する資金も膨大なものとなり、株式などエクィティー(自己資本)ファイナンスによるものが求められるとともに市場原理だけに依存していては上手くいかない状況になった。これからは人々が儲けだけではなく、「世のため人のため」「地球のため、後世のため」に出資することで事業に参加し、自己実現を図る事のできるロードマップを提供されなければなるまい。

 今日日本を覆う「閉塞感」は、利益だけで自己実現の場が失われていることに起因するのである。

 産業界、金融・証券界、そして政府の向かうべき方向は明らかであろう。そこに日本再生の鍵が存在している。

文:足立誠之