講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(五)

            (五)

 それでは、なぜアメリカがヨーロッパに取って代ろうとする力になったか? 多様な考え方があって、今の私の連載ではそれを追究していて、全部終わってからでないと確たることは言えませんが、ひとつだけ今日お話しできるのは、古代から中世を経て、ひとつの考え方があるんですよ。「アメリカとヨーロッパ中世は似ている」ということなんです。中世の無秩序と暴力社会ということは、先ほどお話ししましたね。今のアメリカはやっとここまで来たのであって、やっとここまで両大陸は来たのであって、また無秩序に戻りつつあるけど・・・。アメリカは最初、とにかく南アメリカも北アメリカも中世的な無秩序状態、自然状態だった。

 アメリカというのは、予想外に「ヨーロッパの過去」に根を持っているんですよ。幾つか原因がありますが、一つは「宗教過剰」ということです。Theopolis 「神の国」をアメリカ人は信じています。アメリカ人の信じ方、これは凄いですよ。ピューリタニズムに覆われたアメリカは、とりわけ「朽ち衰えるヨーロッパと、新しい、未来の輝かしいアメリカ合衆国。」「腐敗のヨーロッパと、純潔のアメリカ。」これがアメリカが最初から意識した、それこそ、ワシントン、ジェファーソン、アダムスらが言っていることですが、アメリカはこれによってヨーロッパを超えようとしたわけです。しかしそれは、ヨーロッパに始まっているんですよ。先ほどから何度も言っているルターやカルヴァンに始まっているんです。つまりそのことは宗教改革に始まっているのであって、そしてローマ教王は「アンチクリスト」であるというふうなことで、世界を蘇らせたあのエネルギーというものがまた始まるのです。

 いまひとつ申し上げたのは「宗教過剰」ですが、もうひとつは、「帝国の思想」というのがヨーロッパにあり、それがアメリカにのり移った、ということです。ジァファーソンも「帝国」ということを言っていますが、そういうアメリカの要人が言っていたことよりもっと広く、ヨーロッパ中世のバック・ボーンを成す「神話」があるんですよ。私もまだ詳しくはなく勉強中なのですが、「四つの帝国」という「神話」があるんです。皆さん、この話知っていますか? 旧約聖書の「ダニエル書」に出てきて、それは「ヨハネ黙示録」に並んで過激な・・・、というよりピューリタニズムの柱を成した思想です。ヨーロッパの歴史の中で、4つの帝国が移動してゆくんです。ネブカドネツァルは聞いたことあるでしょう? ネブカドネツァルというのは、イスラエルを滅ぼしてバビロンへ連れて行った・・・、「バビロンの捕囚」を行った王様ですね。彼が不思議な夢を見て(それに悩まされ)、予言者ダニエルが(内容を言い当て)解釈した。

その思想・・・。

『 王様、あなたは一つの像をご覧になりました。それは巨大で、異常に輝き、あなたの前に立ち、見るも恐ろしいものでした。それは頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿(もも)が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできていました。見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。これが王様の御覧になった夢です。さて、その解釈をいたしましょう。』

・・・ということで、ひとつひとつの帝国がそこに準えられていて、第一の帝国(純金の頭)がシリア、第二の帝国(銀の腕)がペルシャ、第三の帝国(青銅の腹と腿)がギリシャ、第四の帝国(鉄と陶土の足)がローマ、というふうに、帝国が移り変わった。その次に今度は時代が中世ヨーロッパになって、この「夢」は新たに解釈し直されて、四つの帝国は、第一に古代ローマ帝国、第ニにビザンツ、東ローマ帝国、第三にカール大帝のフランク帝国、カロリング王朝ですね。最後にオットー大帝の神聖ローマ帝国です。これは何れも古代と中世のヨーロッパの帝国がこの夢であったと、帝国の移り変わりの思想です。この帝国の移り変わりは、優れてヨーロッパ中世的なヨーロッパが「自分たちを凄いぞ」、といって自讃するイデオロギーの中核にありました。

 この「帝国の移転」の思想は、ヨーロッパでは消えてゆきますが、ところがそれがアメリカへ移ったということなんです。第四から第五の帝国(自然に切り出された石がは像の全てを打ち砕き、山となって全土に広がった、五番目の帝国「永遠の国、神の国」)、「アメリカ」が出てきます。それがアメリカの神話的根拠。これを言いだしたのは、なんと哲学者バークリなんです。バークリを通じてこの思想がアメリカに伝わったのです。

 皆さんは、オサリヴァンの「マニュフェスト・ディステニー」のことは知ってますね。「明白なる運命」などと訳されます。19世紀にオサリヴァンという新聞記者が言った「マニュフェスト・ディステニー」というのは、西へ西へとアメリカは膨張し拡大して行き、それは神のお告げであり意思であり「神慮」であるということです。女神が空を飛んでいて、西へ向ってゆく、そしてインディアンなどを蹴散らしてゆく・・・、そういう絵もあります。その西へ行くエネルギーがカリフォルニアに到達しハワイに行き、やがて日米戦争を惹き起したというのが、全体として考えられる問題なんですが、このドラマ、「マニュフェスト・ディステニー」は最初に誰が言ったかというと、哲学者バークリだというのが驚くべき話であって、古田先生のこの本((二)の最後で紹介)は、バークリから始まっているんですよ。古田先生はドイツ哲学よりも、イギリス哲学のほうがより根源的だというお考えです。バークリという人は、実際に物が存在するということを、「実在は人間の視覚と感覚を通じて認識されるから存在するのであって、それ自体が存在するわけではない」ということを最初に言いだした人で、それに対してまた否定論がいろいろあって、カントに繋がってゆくわけですけれど・・・。

 バークリは大知識人であり、西洋史の一角を築いた人ですが、実は五番目、「第五の王国」としてアメリカを措定し、「新しいイスラエルを建国して世界の終末までこの世を支配するであろう(アメリカは・・・)」そういう詩を書いていて、それが1752年に公表されまして、その10年ほどの間に10回以上も印刷され多くの人々の間で回覧されます。それに対する研究もあります。

 皆さんはカリフォルニア州立大学バークレー(バークリ)校をご存知でしょう。あれはまさにそうなのです。第二代学長(カリフォルニア州立大学バークレー校の) D.C.ギルマンが1872年、つまりバークリより120年くらいあとの学長就任演説で、

『 大学の場所がバークリ、学者で神学者の名を冠しているのは宗教と学問の双方にとって善の兆しである。彼つまりバミューダ諸島にカレッジを創ろうとしたイギリスの聖職者をロードアイランドのニューポートへと運んだロマンチックな航海から、まだ一世紀半もたっていない。……彼の名声は、……大陸を横断した。そして、いま、地球のまさにこの果てで、ゴールデンゲート海峡の近くで、バークリの名はよく知られた言葉となるに違いない。彼の例をみならおう。……彼のよく知られたヴィジョンが真実になるように働き、かつ祈ろう。
 「帝国の進路は西にあり
最後の四幕は すでに閉じ (四幕というのは、古代と中世の四つの帝国です。)
その日とともに ドラマが終わるは 第五幕
もっとも高貴なる時代 そは 最後の第五幕」 』

 こういうバークリの言葉があり、そして「明白なる運命」というのは、単に終末論、終末論ではなくて、アメリカ的楽天主義、進歩の理念に結びつく。そしてそれが、教育と科学技術の展開になってゆく・・・。これがどんなに根強いものであるか、ということにわれわれは深く思いを致さなければならないんですね。

 古代ローマ帝国、東ローマ帝国、フランク王国(カロリング朝ですね)、神聖ローマ帝国、古代近世、中世にかけての帝国。これは最初、古代地中海世界に生まれた帝国が中世ヨーロッパで開花し近代アメリカに移転した・・・。アメリカ合衆国は近代のトップランナーであると同時に旧約的な帝国思想の継承者であり代弁者である。すくなくともその思想は、地下水脈として延々と19世紀と20世紀のアメリカ合衆国に流れつづけたということです。

 19世紀と20世紀の世界を支配したのは、近代国家システムだと信じられています。これは国家だけが暴力を支配することを許し、暴力の発動は警察か軍隊か、つまり国家は内側には警察、外側には軍隊、こういう主権国家の特権として、それを基にして今の世界は成り立ってはいるわけですけど、それが本当に守られているでしょうか? それが今、おおいに疑問として突き付けられていることなのですね。21世紀の世界では、主権国家よりも宗教や民族や何か別のものが結合体として動いているケースが強い。略奪や私的な虐殺などが横行する・・・。中世と同じような現象が顕れ始めているわけですね。

 加えてその帝国、アメリカは、例えばアメリカと中国の今の関係はというと? 私にはアメリカは中国に阿片戦争を仕掛けていると思っております。またまたやってるな・・・と。「阿片」というのは、中国人に阿片の代りに「甘美なる近代生活」を味あわせたわけです。便利で豊かなモダンな生活を中国人の一部の人にでも与えたわけですね。これは麻薬のごとく中国人を虜にし、そしてそれによって踊らされて、あっという間に中国はそういう製品に溢れた国になっていったわけです。でも買いきれなくなって、今度はいよいよドルを放出せざるを得なくなってくる。いまはもう行き詰まりにきています。これはさながら嘗て、お茶を売って銀がどんどん流入していたイギリスと支那の関係で、どんどんどんどん流入した銀がある段階から流出に転じて・・・、それで支那はご承知の通り滅茶苦茶になってしまうわけですね。いまそういう境目に来ているんじゃないですか? 支那大陸は・・・。

 つまり歴史というのは案外同じことが繰り返されるわけですが、これはアメリカが仕掛けているんですよ。これが「アメリカ帝国」なんですよ。やっぱり帝国の思想なんですよ。そして日本にはひたすら従順であることを要求しているわけです。しかし、ついこの間まで円高で日本を苦しめていたのは同じアメリカですからね。

 一方ヨーロッパはどうかというと、ルールを守ろうとして、「ヨーロッパの中だけは、うまくやろうじゃないか」と。そういう理念は啓蒙主義の時代に生まれているわけですから、それは分かるわけですね。それがEUというものを創ったわけですが、でもEUというのは積極概念ではなくて、あるものに対する恐れから始まったのであって、それはアメリカと日本に対する当時の恐れだったわけです。アメリカはご承知の通り1971年にドルの垂れ流しのような、金兌換性を否定するニクソン・ショックというドラマがありましたね。ドルは垂れ流しになるわけでしょう。つまり、ドルはいくらでも刷って良いというこの恐るべきシステムにヨーロッパは吃驚するわけです。約束が違うのだから・・・。そして地球の40%まで、日米経済同盟で支配されてしまう。あれがヨーロッパを狂ったようにさせたEUのスタートなんですよ。EUは恐怖から始まっているんですね。そしてそれが湾岸戦争で、ドルの支配とユーロと争ったけど、結果としてアメリカはヨーロッパを許さなかった。そして結果として、アメリカはEUには軍事力を認めなかった。NATOがあくまで頑張れよと。

 EUに独自の政治国家は許さないということですから、結局EUは何のために創ったのか分からないということになってしまいます。もともと昔争っていた国々が、なんとか「合理的」に和解していこうとしていたところですから、内部の対立が激しくなれば、直ぐに箍(タガ)がガタガタと狂うのは当たり前で、このままいけば、10年もたないうちにマルクやフランが独立することになるのではないでしょうか? もちろんギリシャが脱落するだけではなく、マルクもフランもリラも・・・。全部そろそろ別々にやろうという話になるんじゃないか、と私は何となく思っていますが、まぁ、どっちに行くかわかりかせんが・・・。輝かしいEUの未来というのは考えられないと私は最初から思っておりました。また怪しくなっているから・・・。まぁ、それで歴史は同じことを繰返しているんですよね。

 それは各国みな基本にあるのはエゴイズムなので、ちゃんとそれを見ていれば、そういうことはよく分かるのです。ヨーロッパがなんとか創った形の秩序、法秩序、国際秩序、国際法 International Law というものがその基本に有るわけですが、日本はそれを一所懸命守って「文明国」になって、それでもなお且つそれで、イギリスの裏切りとアメリカの無法で、痛い目にあわされて。そしていまだにイギリスとアメリカが大きな顔をして地球を「理念的」に支配している構造が続いているために、日本は仕方なくて頭を下げて我慢して生きているという・・・。こういう状態が続いていると私は理解しております。

 ですから、今度の「イスラム国」は、それに我慢できなかった人たちが居るわけで、これは恨み辛みがたくさんあって・・・。そのようになったと思えるのは、おもに「イスラム国」に参加している人々が移民の2世、3世ですよね。フランス、ドイツ辺りにいる移民の子供達ですね。だからそれは如何に閉塞感があって・・・。つまり、ここで「日本は移民をやってはいけない」んだよ、と・・・。移民をやると碌なことが起こらない。これは絶対やらない・・・。ということでいかなければいけないのに安倍総理は、移民問題だけはだらしないところがあるので非常に心配です。これは断固、皆で反対しなければいけないテーマですが・・・。しかし私も言うのに疲れてしまって、皆さんの力もお借りしなければいけないと思っておりますが・・・。もう、目の前でこれだけのドラマを見ていながら、まだ「移民だ」などと言っているのだから・・・。それにテレビがいちばんいけないのは、「移民は危ない」と以前よりは言うようになったけれど、それが「イスラム教徒」というんですよ。日本の移民で怖いのは「イスラム教徒」ではないですよ。「中国人」に決まっているではありませんか? ところがテレビは、「中国人が怖い」とは言わないんですよ。言ったら首が飛ぶのかな? よく判らないけど・・・。私は「中国人に対する「労働鎖国」のすすめ」という本も書いているんですよ。そんなこと、遠慮していてどうするのでしょうか? まぁ、そういうところでしょうか。では、このへんで終わりにしましょう。

記録:阿由葉 秀峰

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(四)

         (四)

 いま現に展開している中東の情勢と、世界史を震撼させている新しい現象。突如として起こった奇怪な事態の数々・・・。しかしこの根は全部「歴史」にあるんです。大概の事は「歴史」にあるんですよね。

 それに対してわれわれが「許せない!」と言ったり、「無法だ!」と言ったり、安倍さんが「国際法というものがある!」ということを言ったりする。それをわれわれが常識として考えているのは、主権国家というものがしっかりと各国の体制を守り、警察と軍事力によって、内側には警察、外側には軍事力で、この単体としての国家体制というものを自存し、独立させているのが自明だと何となく思っているからなんです。そしてヨーロッパがの先鞭をつけて、そうした歴史の流れを作ったのが事実であって、日本はその必要があまり無かった国だった。そういう不思議な、幸運なポジションにあった国であった。そのように解り易く考えることが出来ると思います。

 ヨーロッパにおいては、激しい内部の争いが宗教戦争を招いてイスラム教徒とヨーロッパの関係だけではなく、十字軍も挙げられましょう。 

 じつはイスラム教徒は寛大だった・・・。異教徒に対して寛大だったんですよ。イスラムの地域において、信仰の自由を許していたし、異教徒がそこで生活することも許していたし、キリスト教も布教が許可されていたんです。ところが怒涛のごとくキリスト教の側が襲いかかった、というのが実態で、そのことについて今日はテーマとしませんが、これは信じられないドラマなのです。

 そしてヨーロッパにモンゴルが襲来した時、もちろんモンゴルにも苦しめられますが、実はモンゴルと和解してでもイスラムを討ったのですよ。モンゴルとは話合いをしてでもイスラム教徒のほうが憎かった。それはヨーロッパに延々と続いているドラマなんです。

 イスラムは地中海のアジアへの入り口を抑えていましたから、ヨーロッパ人はアジアの方へ出るのに東に進むことが出来ずに、ご承知のようにコロンブスは大西洋を西に、ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ大陸を南下するという海路をとらざるをえなかったのは、何れもイスラム教徒に妨害されていたからで、そしてそれを打ち破ったのが、1571年、スペインのフィリップ二世のレパント沖海戦でした。イスラム教徒をとにかく抑え込むということで、ヨーロッパが東への出口を徐々に見出すようになるわけです。

 それでも、オスマン帝国は怯むことは無かったので、オスマン帝国が存在する間はイスラム教徒は文明的にも優位でした。先ほど言ったフェニキア文明やローマ文明をがっちりと受けとめていたのはイスラムであって、アリストテレスやその他の哲学も素文源も含めて、イスラム教徒がアラビア半島経由によって西ヨーロッパが初めて知るようになりました。これは有名な話なので、ここでお話してもしょうがありませんが、じつはキリスト教中世を通じてプラトンだけは受け継がれていました。プラトニズムというものは、キリスト教の中核に繋がったからなのだと思います。ただしアリストテレスは「自然学」でしたから、始めは知らなかったのですね。

 それで、今度はプロテスタントとカトリックの争いが始まります。ヨーロッパ人も、相互の争いがあまりにも激しく、これでは堪らないということで、中世におけるそういったものの崩壊に伴って各国の個別性や領域支配を前提とした体制を考えなければやっていけない、ということになります。ローマ教王や神聖ローマ帝国皇帝ではなくて、各国の君主ないし共和国の「主権」というものを最高の存在として定めます。そして諸国家間の相互システムを築いて、出来るだけ無駄な争いはしないようにしようと。その間ものすごい時間がかかっているわけです。いわゆる英仏戦争。それからドイツを舞台に繰り広げられた三十年戦役・・・。こういう戦争ばかりしていた地域ですから、徐々に武器の発達というものも伴って、さらに悲劇、惨劇が拡がって・・・。ヨーロッパ中世は13世紀まではいいのですが、14、5世紀というのは、疫病と戦禍と農業生産性の低さからくる餓えによって、地球上で最も悲惨な地域になります。それがなぜ15世紀から16世紀になって、にわかに立ち上がるのか? 言うまでもなくこれは世界史の最大の謎のひとつであります。

 つまり、われわれはヨーロッパが創った主権国家体制という国家が登場した16世紀、始めて「国家」が登場して、神の世界から「約束ごと」としての人の世界というものが成立する。新しい秩序が生まれてからこの方、それを「文明」と見做して、その文明を明治日本は受容れたのであって、そういう世界の姿しか日本は知らないのですよね。だから日本はそれを一所懸命モデル、手本にしたのです。

 でも、米ソ対立も終わり、今の「イスラム国」というドラマは、ひょっとすると、そういうことも全て虚しくなっているということかも知れないのですよ。日本が明治以来受け継いできたヨーロッパが考えた秩序、国家間の秩序・・・。それも虚しくなっているのかもしれません。

 そこですこし翻って、どういう形で国家というものが登場したのか考えてみる必要があるのです。16世紀ですね・・・。今も言われている「法」というのは何なのか? 戦争は相変わらず続くわけです。しかし戦争の仕方が滅茶苦茶ではなくなってくるのです。戦争は「決闘」に似てくるのです。互いに平等で、互いに正しいことをお互いに認める。だから「正しい戦争」という、どこか一方が「正しい戦争」ということは言わないようにしよう・・・。その意味から初めて第三国の「中立」という概念も初めて生まれてくる。「認め合う約束事」があって初めて「中立」が出来るのです。

 と同時にわれわれが歴史で習うのは、国家というものがなんとなく人格を持った、例えばイギリスはこう言っている、とか。フランス政府はこう言っている、何か国家の意思みたいな、人格、主体が言っているみたいにわれわれはニュースを聴いたりする。習近平が言っていることは中国の・・・? 全然そうではないはずなのに、中国の意思みたいにわれわれは扱っている。そのようにして、国家は擬人化される。あるいは主権的な人格を持っているかの如くにわれわれはそれを理解する。これは全てヨーロッパの、この「歴史」を潜りぬけたことが世界に拡がっているからなのです。

 どういうことかというと、「国際法」の進歩ということですね。戦争はするけれども、戦争を人道化する、歯止めが利く戦争をする、戦争の遣り方をルール化する、戦争の制限、限定が行われる。殲滅戦争はしない。もう相手を徹底的に滅ぼすようなことはしない。これはヨーロッパキリスト教文明圏の名においてしない。あまりにも酷い戦争を潜り抜けた結果としてですよ。それは、英仏戦争も三十年戦争も酷かったから、もう疲れたわけです。疲れてしまったその結果、政治と宗教を分けるという観念、政教分離が生まれるのもそれなのです。あまりに酷かったから、もう疲れたわけです。「正しい戦争」ということは言わない。大人になろうと・・・。以上はヨーロッパの話ですよ。アメリカの話ではありませんよ。アメリカは全部これが逆になるのですけれど・・・。

 「正しい戦争」ということは言わない。「正しい戦争」というと、相手は「不正」となるわけですから・・・。これは戦争の姿を恐ろしいものにしてゆくわけですね。私も「国民の歴史」にそのことを書いたではないですか? 『人類の名において戦争を裁くと、次の戦争はもっと恐ろしいものになる』と。徐々に々、世界は再びそのもっと恐ろしい戦争に近付いているのかも知れないのですよ。まぁ、まだまだ100年くらい変らないのかもしれないけれど。分かりませんね、これだけは・・・。

 16世紀から18世紀にかけて、戦争の形式化、ルール化が行われるようになります。「戦争をやったとしても、どこまでもヨーロッパの土地の秩序とそのバランスの体系内に留まるものとする」という暗黙の了解が各国間に生まれます。つまり利己的な権力欲拡大の、無規則な無秩序、カオスにはしない、という約束で。ここに出てきたのはカントの「永久平和論」です。つまり啓蒙主義の成立ということです。ご承知のように、この延長線上にハーグ陸戦法規やジュネーヴ条約とかが出来て、戦争のルールをひきます。

 明治日本はその当時、「文明国」になろうとしたからそれを懸命に学んだわけです。日本が世界史の仲間入りをしたのは、このヨーロッパの主権国家体制が19世紀の末ごろに完成しますから、それを「文明」と見て、福沢諭吉も内村鑑三も、世界の歴史はこのまま進歩発展すると信じました。日本はそれを目指せ。日本が文明国になれば、もし他の国が非文明国になったときに日本はヨーロッパに学んだ文明国の名において、一等国として他の国を見下せる立場になれる。一等国になろう・・・。だから日清戦争のとき、日本は「文明国」であり、支那、朝鮮は別だと・・・。

 そうなるとですね、今の中国あるいは韓国をみて日本人は密かに軽蔑感と優越感を抱いておりますけれども、これはヨーロッパが創った文明の基準に合わせて日本は一等国で、彼等はまだまだ駄目なんだという認識が日本人の中にあるからで、その基準が根底から狂ったら、全然ナンセンスな話になるのです。亡くなった坂本多加雄さんが、「きっと福沢諭吉が日清戦争のときのように、文明の名において日本があらためて大陸の諸国を見下すときが来て、そのとき云々・・・」ということを書いてましたけど、実際その通りで、今日本はそういう心理に入っています。われわれは、文明国であると・・・。ノーベル賞も獲っているではないか、その他国際条約に従順ではないか・・・。

 でも、第一次世界大戦前だってそういうことがあって、第二次世界大戦前だって日本は国際法をよく守り従順で、それでも駄目だったんですよ。だから、なにが起こるか分からないんですよ。日本は国際法に対して本当に立派な遵法国家だったのですから。だから南京大虐殺なんて無かったというのは・・・、ハーグ陸戦法規に違反することはやっていないからですよね。1,000人ぐらいの便衣兵、スパイは射殺しているでしょう。これは、国際法に則っていたのです。でも、それを「虐殺」というわけです。今の彼等の歴史観でいけばそうなるわけです。なんでも自分たちに都合のいい歴史ですから。どこかに絶対正しい国際法が有るわけではないのですから、この問題は難しいのです。唯われわれは、あくまで西洋が作ったハーグ陸戦法規を盾にして主張してゆけばいいんです。いいんですけど、「そんなものは駄目だ!」と中国は言っている訳だから、中国はすでに西洋先進国が作ったルールを否定すると言っているのです。尖閣を攻めてきたのも其れですから・・・。そしてアメリカが危ういことに、其れに対してグラグラしているということです。

 話を元に戻しまして、あくまで16世紀から18世紀にかけて行われたヨーロッパ啓蒙主義ですが、海洋、海は、ところがその取決めの外にあったのです。いま、ヨーロッパが狭い中で取決めて、お互いに戦争しないようにしようと言ったのは、あくまで彼等の領土の内部、陸の話に過ぎない。海洋は別だったのですよ。これが大きな問題になるのですね。

 海賊国家イギリスの出現です。イギリスが如何に徹底した海賊であったかということは、私の連載の3回位前に書いていますね。酷い海賊だった。非国家的な自由な枠を作ってしまった。「海洋は全く自由だ。」と主張したわけです。そして、じつは1815年から1914年まで。1815年というのはウィーン会議です。もう少し前のトラファルガーの海戦からといってもいいのですが、そこから第一次世界大戦まで、Pax Britannica(パクス・ブリタニカ)イギリスの平和だったのです。イギリス帝国が治めた平和が19世紀ヨーロッパから戦乱を免れたわけです。フランス革命の後ですね。なぜパクス・ブリタニカが成功したかというと、イギリスは海を抑えたからです。じつはフランスは悔しいけれど駄目だった。オランダは、とっくの昔にイギリスに封じ込められてしまった。フランスも一所懸命にやるけれども抑え込まれて、イギリスに遅れをとります。

 イギリスの遣り方がが、どんなに凄いかも私はどこかに書いていますし、今度出ました本にもその話を書いています。「GHQ焚書図書開封第10巻 地球侵略の主役イギリス」、なかなか面白い話がとくに後ろの方に書いてあります。マダガスカルという島があって、植民地戦争で永い間イギリスとフランスが争っていましたが、あっさりとイギリスはマダガスカルをフランスに譲ってしまいます・・・。でも、それは驚くべきことでも何でもない事と日本の地政学者、京都大学の先生が分析して書いていて、それを紹介していますが。じつはイギリスはマダガスカルの周りの島々を全部抑えているのです。対岸のケニアもイギリス領になっていますね。そうすると、「フランスに任せておけばいいじゃないか。ちっとも何ともないよ。」マダガスカルのひとつぐらいは、という・・・。イギリスはそれをいたる所でやったのです。

 例えばハワイがアメリカに抑えられる前、カナダとオーストラリアがイギリスのものになります。イギリスは、オーストラリアとカナダの間に海底ケーブルを引こうとするのです。そのために太平洋の小さな島々、名もなき島々までも、ずうっと抑えています。すごいですね、その頃は明治日本ですよ。

 ところが、アメリカが言うことを聞かないでハワイを先に取ってしまいました。そして、その計画は実現できませんでした。ハワイを略取されることについて、日本政府は大隈重信以下、激しく抵抗したこの話を私は何度も本に書いています。だけど当時の外務大臣 大隈重信ら、あの時代の日本の政治家は、よもやハワイを無視してイギリスが勝手に長距離の地下ケーブルを引こうと思ていたことまでは知らなかったと思いますよ。つまり地球支配というのは、そういうことを着々とやっていた、ということですね。

 さて、パクス・ブリタニカというのは相手の廃止でも戦争の廃止でもなく、戦争の限定、法に満たされている状態をつくること、そして強大国の指導性を維持すること、これは大人の考え方で、占領というものは、征服ではない、負けた者の私有権も既得権も認める、例えば王様の廃位はあるけど、その人格を侵すことはしない、また、その側近を処罰することはあるかもしれないけれど、主権の変動は起こさない。軍事的占領は必ずしも敗戦国の政府の変動をひき起こさない、もちろん憲法の改変も・・・、そういう暗黙の取り決めでヨーロッパで成立したものです。1870年から80年代というのは、ヨーロッパは最大のオプティミズムの時代で、ヨーロッパの領土の権利を相互に認め合って、1885年ベルリン会議が行われます。これはビスマルクの力ですが、もうこれ以上領土の奪い合いをしないというヨーロッパの暗黙の約束が出来上がって、文明と進歩と自由貿易への希望に満ちた時代だといわれていたわけであります。イギリスが世界中を勝手に抑えることは我慢して認める。その代わりヨーロッパの中は平和で行く・・・。

 ところが間もなくしてそれが難しくなる事態が起こります。一つは、アメリカの介入が始まる。2つ目は、アフリカの土地を巡る争いが始まる。3番目は、ドイツがイギリスを許さない、と言い出すようになる。これが19世紀の終わり頃から起こるドラマですね。

 1890年から1914年のあいだ、ヨーロッパの国家内の相互の合理的約束、利害調整の秩序というものが出来上がって、それを「国際法」というわけですが、そしてそれを第一次世界大戦が始まる頃に、その国際法をヨーロッパの外の世界に適用しようと・・・。これが、我が国にだんだん禍をもたらすわけです。それはしかしヨーロッパ側からすると、自分たちの考え方が世界に拡大するわけで(日本もそれに同調するわけですわけですが・・・)それをヨーロッパの勝利、文明の勝利というふうに言っていたわけですね。

 ところが今言ったように、かならずしもそうはならなかった。文明の支配は不可能になってまいります。アメリカがそれを邪魔し始める。ドイツが台頭して言うことを聞かなくなる。パクス・ブリタニカは壊れるわけです。1919年のパリの講和会議はヨーロッパの国際法の会議ではなくて、世界の秩序はヨーロッパによって取り決められるのではなくて、ヨーロッパの秩序が世界によって取り決められる、という逆の事態が発生してしまいます。つまりアメリカの発言権の増大と西欧の没落、というこが起こってしまうわけであります。この事態を見て、いわゆる「国際法」というのは雲散霧消してしまうわけです。力を失うわけです。

 それでは何がそこで登場するかということを今日の話で少し解って頂こうと思うのですが、「中世」の次は「近世」或いは「近代」。その次には「現代」というふうに、何となくわれわれは考えておりますが、果たしてそんなことが正しいのでしょうか? 私は自分で今、歴史を書いていて古代や中世を絶えず行き来します。「近世」という概念は別としても、「中世」と「近代」の間には、深い溝があると皆考えています。そうでしょう? 皆さん。「中世」と「近代」との間には深い溝があると考えます。それはある程度あるんですよ。でも本当でしょうか? 「ポストモダン」というのは、「モダン」の概念を強く意識するから「ポストモダン」という概念です。だから「ポストモダン」というのは、「モダン」の側に入っているわけですが・・・。

 一方「中世」と「近代」との間の断絶というのは決定的ではないというのが、「イスラム国」が挑戦していることなんですよ。この大混乱はそこに起因しているんですね。そしてヨーロッパが決めたあの戦争のルールは、第一次大戦の前に虚しくなって、アメリカはそれをぶっ壊しますけれど・・・、またまた虚しくなっているわけですね。

つづく

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(三)

            (三)

 「暴力」が基本にあった・・・。正論12月号にホッブスを例に、中世のもっぱら暴力について書いているので憶えておられると思います。

『西洋の歴史は戦争の歴史といったが、イコール掠奪の歴史でもあった。掠奪は経済活動ですらあった。』 『略奪し強奪しあうことこそ人間の生業であった。それは自然法に反すると考えられるどころか、戦利品が多ければ多いほど名誉も多いと考えられた。』

 その実例をここではたくさん書いています。どれか一つだけ例を挙げると分かり易いのですが・・・、一番最初に私が書いたトーマ・バザンの「シャルル七世の歴史」の一節からとった、分かり易い具体的な例です。読んだ人は知っているかと思います。

『この辺りでは畠仕事は都市の城壁の中、砦(とりで)や城の柵の中で行われる。それ程でない場合でも高い塔や望楼の上から目の届く範囲内でなければ、とうてい野良(のら)仕事などできなかった。物見の者が、遠くから一列になって駆けてくる盗賊の群を見付ける。鐘やラッパはおろかなこと、およそ音のする物はことごとく乱打されて、野良や葡萄畠で働いている者たちに、即刻手近かの防御拠点に身を寄せよと警報を伝える。このようなことは、ごくありふれたことだし、またいたる所で絶えず繰り返されたのである。警報を聞くと、牛も馬もただちに鋤から解放される。長い間の習慣でしつけられているから、追うたり曳いたりするまでもなく、狂わんばかりに駆けだして安全な場所へと走って行く。仔羊や豚でさえ、同じ習慣を身につけていた』

 要するにそれぐらい無法なんです。今の「イスラム国」を見てください。無法でしょう?これはイスラムでなくヨーロッパの話なのですが、近代国家が生まれる前の「中世がえり」。世界は中世に近付いているということで、皆さんに今この話をしているわけです。

 

『だから、大土地所有者は武装集団を抱えていたし、民衆も武器を常時携えていた。僧侶ですら武装していた。橋も砦になり、教会は城塞として造られ、僧院には濠、跳ね橋、防柵があり、地下牢や絞首台まで備えている所もあった。僧院や聖堂は掠奪の標的になり易かった。』

 暴力がいたるところに偏在しているで点は、平安末期の日本も恐らくそうでしょう。でも上に聳え立つ公権力が成立していれば、ことにそれが武家集団であれば、それほど無秩序にはならないんですね。ヨーロッパ中世には国家がないんですよ。国境がないんです。あったのは教会なんです。全体として、カトリック教会そのものが国家だった。これは精神的権威であっても政治的権威ではありませんから、ホッブスが「万人の万人に対する戦い」と言った姿が、ヨーロッパ中世の姿であった。

 戦争が日常であり、掠奪が合法であり、反逆とか復讐とかが当たり前なこととして横行していわけであります。Fehde(フェーデ)という言葉があるのですが、フェーデというのは、プライベートな戦争のことです。

 他人に対する想像力がひどく弱い時代で、相手の痛みの感じ方が無かったのではないか。例えば目玉をえぐり出すという刑罰がありました。しかもこれは「お情け」であった。「死刑にしないでやるから」と・・・。これは、最近の「イスラム国」の残虐処刑を思わせます。人類はあっという間に千年を飛び超えてしまったのではないかと・・・。

『今の中国大陸もある程度そうかもしれないが、すくなくとも蒋介石時代の支那大陸はそうだった。あるとき黄文雄氏が「戦いに負けた方は匪賊になり、勝ち進んだ方は軍閥になる」という面白い言い方をされた。』

 私は名言だと思い憶えていますが、国家というものが無かった時代の大陸の無法状態の中で、強盗集団が軍事力になり軍閥になる。地方権力になる。だから今中東で起こっていることがまさにそれであります。

『 面白いのは8世紀の西洋のある法典にも似たような規定があることだった。ウェセックス国の法典第十三条に、7人までは窃盗、7人から35人までは窃盗団、それを超えるものが軍隊である、という規定がある。盗賊と軍隊との違いは単数の相違でしかなかった。』

 まだ国家意識とかいったものもはっきりしなかった時代の話です。

 さて、そういう状況の中で最近の出来事を見ると、安倍総理は「法の必要」ということを頻りに言いますね。ここでいう「法」というのは「国際法」のことでしょうけど、「法」という言葉が通らない勢力に向かって「法」ということを言うわけですね。

 では、「国際法」とは何だったのか? あるいは安倍総理が言う「法」というのは、どういう形で出現したのか? 今を見ていると、確かに中世に戻ったようであり、そして、「法」はまさに「無法」なわけです。一方で私たちは、なにか何となく、主権国家というものがあって、それを当然の事とうけとめて、そして、「それに反している!」と怒っているわけです。しかし、もし「国家」だとしたら、爆撃または空爆することは「無法」ではないのでしょうか?

 ひと頃、「北朝鮮を核査察せよ」と言いましたね。それに対して、ひとつの国の主権国家の防衛権を、「なんとしても核を開発する」と言っている北朝鮮の主張のほうが、道理に合っていると言えないでしょうか? それは主権国家の自由ではないでしょうか? それは「日本の危険」ということとはまた別問題の問い、として言っていますが、「無法」といことを言うならば、どちらが「無法」かわかりません。いつの間にかヨーロッパやアメリカが決めている法秩序、国際法秩序つまり主権国家体制というものが自明のこととされています。そしてそれをヨーロッパ、アメリカの側が破ることはいくらでもあるのに、私たちはその主権国家体制というのを自明のことのように考えているのは、正しいのだろうか? おかしいのだろうか?

つづく

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(二)

        (二)

 イスラム教徒とキリスト教の対立の背景は、皆さんも相当ご存知かと思いますが、最近の話ではなく、2000年前から始まっていました。

 19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したベルギーの有名な大歴史家、アンリ・ピレンヌに、「マホメットとシャルルマーニュ」という1937年に出版された著書があります。フランス語のシャルルマーニュCharlemagneとはドイツ語でKarl der Große カール大帝のことです。この大著のさわりをご紹介しようと思います。まず、ゲルマン人がローマ帝国に侵入した時と、イスラム教徒がローマ帝国に侵入した時の違いをまず論じています。

 ゲルマン人がローマ帝国に侵出したときは、帝政の成立以前から直ちにローマに同化されつつ、ローマの文明を必死に守り、その社会の仲間入りを果たすべく、ゲルマン人は精神的には従順且つ従属的でした。ゲルマン民族の侵入は、ローマ帝国が誕生するより前から、徐々に北方から入っていたのです。

 これに反して、アラビア半島との間には、ローマ帝国は長い間交渉らしい交渉を持っていませんでした。ゲルマン人との間では長い間ローマ帝国は長い交渉があったのですが、アラビア人はマホメットの時代まではほとんど接触がなかったのです。

『 ヨーロッパとアジアの両方に対して同時に始まったアラビア人の征服は先例をみない激しいものであった。その勝利の速やかなこと、これに比肩し得るものとしては、アッティラが、また時代が降ってはジンギスカン、ティムールが、蒙古人帝国を建設した際の勝利の速さがあげられるのみである。しかし、この三つの帝国が全く一時的な存在であったのに対して、イスラムの征服は永続的なものであった。(中略)この宗教の伝播の電光石火のような速やかさは、キリスト教の緩慢な前進に比較するとき、全く奇跡とも言うべきであろう。
 このイスラムの侵入に比べるならば、何世紀もの努力を重ねてやっとローマ世界Romaniaの縁をかじりとることに成功したにすぎない、ゲルマン民族のゆるやかで激しいところのない侵入など問題ではなくなる。
 ところがアラビア人の侵入の前には、帝国の壁は完全に崩れ去ってしまったのである。』

 つまり、よく歴史の教科書にゲルマンの侵入がローマ帝国を崩壊させたと書かれていることについて、ピレンヌの学説は「違うんですよ。」といっているのです。ゲルマン人は武勇、智勇に優れているけれど、しかし文化面ではローマ人に包摂されて、侵入は速やかではなく徐々にでした。

 それに対して、ローマ人は

『ゲルマン民族よりも明らかに数の少なかったアラビア人たちが、高度の文明を持っていた占領地域の住民に、ゲルマン民族のように同化されてしまわななかったのは何故であろうか、』

ということを、ピレンヌは問題にしています。

 

『ゲルマン民族がローマ帝国のキリスト教に対抗すべき信仰を何ももっていなかったのに反して、アラビア人は新しい信仰にめざめていた。このことが、そしてこのことのみがアラビア人を同化することのできない存在にしたのである。』

 つまり、ゲルマン民族はなにも信仰をもっていなかったというのです。そこへローマ帝国との接触が始まったというのです。アラビア人はそうでなかった、とピレンヌは言うのですが、これには問題があります。いうまでもなくゲルマンにはゲルマンの信仰はありました。それは我が国の信仰にも似ているような一種のアニミズム、洞穴とか樹木の霊とかそういうもの。或いはまたゲルマン神話というのは、忠勇、武勇の神々、英雄たちの乱舞する皆さんもご存知の、後にワーグナーが楽劇にするような、そういう神話世界がありました。ゲルマン人に信仰がまったく無かった、などということは全く無ありません。そのことは、私が今日お渡しした雑誌(正論3月号)の中にきちんと書いていますので、読んでいただきたいと思います。

 ゲルマン人に信仰が無かった訳ではありませんが、しかしながら、「一神教」ではありませんでした。ローマはその頃すでにキリスト教化していたのですが、イスラム教はキリスト教と旧約聖書を同根に持つ一神教です。

『アラビア人は驚くばかりの速さで自分たちの征服した民族の文化を身につけていったのである。かれらは学問をギリシャ人に学び、芸術をギリシャ人とペルシャ人に学んだ。少なくとも初めのうちはアラビア人には狂信的なところさえなく、被征服者に改宗を要求することもなかった。しかし、唯一神アラーとその予言者であるマホメットに服従することをかれは被征服者に要求したし、マホメットがアラビア人であることからアラビアにも服従させようとした。アラビア人の普遍宗教は同時に民族宗教であり、そしてかれらは神の僕(しもべ)だったのである。』

 こういう点では、ユダヤ教も似ていると言ってもよいでしょう。それに対して、

『 ゲルマン民族はローマ世界Romaniaに入るとすぐにローマ化してしまった。それとは反対に、ローマ人はイスラムに征服されるとすぐにアラビア化してしまった。』

 アラビア人がいちばん凄いということですね。

『コーランに源泉をもっているその法がローマ法に代わって登場し、またその言語がギリシャ語、ラテン語にとって代った。』

 そしてアラビア語が支配することとなったために、西ヨーロッパの言語にとんでもないことが起こるのです。ローマ帝国の末期頃、公の言葉、国際語のギリシャ語が使われなくなり、代わりにイタリア、フランス、スペイン、ドイツ、という各地方の方言が使われるようになり、ラテン語も衰微していってしまうのです。

 その方言の使用が次の時代、だいぶ経ってからヨーロッパが生まれる理由ともなるのです。しかし、それにはさらに数百年から千年ぐらい時間がかかり、ダンテはイタリア語で神曲を書き、ルターが1500年代に聖書をドイツ語訳する。こういった民族の興隆には、およそ1000年くらいの時間がかかっているのです。

 イスラムがどれほど支配的であったかがこれでお判りかと思います。これまでの間にどのようなことが起こったか?これが根本問題で、皆が知っているヨーロッパは二つに分断されます。ローマを中心とする西ローマ帝国およびビザンチンと言われる東ローマ帝国。真ん中には地中海があり、そこには交通がありましたが、イスラムによって分断されてしまいます。

 『 リヨン湾の沿岸も、リヴィエラ地方からティベル河の河口にかけて海岸も、艦隊をもっていなかったキリスト教徒たちが戦争と海賊の荒らしまわるがままに任せたから、いまでは人煙稀な地方となってしまい、海賊の跳梁する舞台と化してしまった。港も都市も打ち棄てられてしまった。東方世界とのつながりも絶たれ、サラセン人(アラビア人)たちの住む海岸との交流もなかった。』

 地中海は押さえ込まれたということです。

 『ここには死の風が吹いていた。カロリング帝国は、ビザンツ帝国とは極めて著しい対照を示す存在であった。それは、海への出口を全くふさがれてしまったため、純然たる内陸国家であった。嘗てはガリアの中でも最も活況を呈し、全体の生活を支える要(かなめ)ともなっていた地中海の沿岸諸地方が、今では最も貧しい、最も荒涼とした、そして、安全を脅かされること最も多い地方となってしまった。ここに史上初めて、西欧文明の枢軸は北方へと押し上げられることになり、』

 つまりヨーロッパといわれるものは、いまはじめて我々が知っている西ヨーロッパのほうへ、つまりローマ地中海から北方へグーンと押し上げられてしまった。今でこそ、車で行けば行ける距離、あるいは飛行機で行けばひとっ飛びの距離でありますが、当時は封じ込められてしまったのです。

 『その後幾世紀間かは、セーヌ、ライン両河の中間に位置することになった。』

 つまり、その辺りにゲルマン人とローマ人が混血し、文化程度が著しく堕ちたカロリング王朝が位置することになったのです。

 『そして、それまでは単に破壊者という否定的な役割を演じていたにすぎないゲルマン諸民族が、今やヨーロッパ文明再建の舞台に肯定的な役割を演ずる運命を担って登場したのである。
古代の伝統は砕け散った。それは、イスラムが、古代の地中海的統一を破壊し去ったためである。』

 つまり、古代の伝統、つまりギリシャ、ローマの伝統が、ずっと続いていましたが、それが今言ったイスラムの侵出により・・・。これが言語問題にものすごく影響してしまい(今日お渡しした正論3月号の最後の方に書いてありますが・・・)、ギリシャ語の聖書も消えてしまい、ギリシャ語を話す者さえも居なくなってしまったのです。

 カール大帝は文盲で(皆ひとに遣らせていた)、教養の程度も著しく低く、西ヨーロッパは文字を読むのは一部の聖職者に限られ、伝統からも情報も絶たれた、文化的にも著しく遅れた野蛮な地域でした。それゆえに迷信も蔓延り、キリスト教がその迷信を加速させました。キリスト教はもちろん一神教ですが、その他の信仰、マニ教、グノーシス主義、ゾロアスター教、そしてアニミズムがゲルマン民族を捉えつつも、カトリックはそれらとある程度の共存をしたのです。それらを認めはしないけれど、直ちに弾圧、攻め滅ぼすことはなく、いわば許していたのです。

 現代のカトリックは少し違いますが、基本的にカトリックは「自然」というものを尊重するところがあり、一神教以外の神の概念をまったく認めない、ということはありません。

 一番象徴的な例は、戦後、靖国神社がマッカーサーの命令により焼却される危険に曝されたとき、反対したのはカトリック教会でした。それは「自然法」というものを尊重している。自然法というのは、法律以前に自然の定めで決められていること、解り易くいえば、結婚は男と女がするものである、とか、敗者といえども自分の民族を守った者は祀られてしかるべきであるのも自然法のひとつですから、靖国神社を焼き滅ぼすなどとんでもないというカトリックの考えで、そのカトリック教会に靖国神社は守られたのです。そういった意味でカトリックが諸宗教に寛大であることがお解りかと思います。

 ところがプロテスタントはそれが許せないのです。その話が正論3月号の最後の方に出てきますが、簡単に言うとプロテスタントは神をもう一度、再確認したのですから、キリスト教の復興、カトリックと大いなる戦争をしたのですから、カトリック側にも当然新しい選択を迫られた。自覚的な信仰の再宣託が行われたので、両方の宗教にとって近代化ということになるわけですが、ニーチェは面白いことを言っています。

『ところがルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ。・・・・・・』(「アンチクリスト」第61節)

 「プロテスタントは、キリスト教を攻撃したために蘇らせてしまった・・・、本来亡くなって然るべきキリスト教が、ルターの、あるいはカルヴァンの攻撃によって自覚が蘇り、カトリックまで復活してしまった。」とニーチェは残念がって言っていた。そのようなパラドクスがあるわけですが、大きな流れで言うとそのようなことが言えるわけです。

 先を急ぎます。フランスのカルカソンヌ城をご存知ですか? フランスに行くと必ず観るのですが、そんなに(ご覧になった方は)居ないのですか?南フランスに旅行すると必ず観るのですが、意外と知らないのですね。素晴らしい古城で、夜はライトが照らされていて本当に素晴らしい・・・。トゥールーズのあたりです。

 この古城は異教徒の城で、それを法王が攻め滅ぼしてしまうのです。それはまさに中世のいろいろな十字軍がありますが、十字軍というのは外に出ていくもの、と皆さん思っているかもしれませんがヨーロッパの中をも攻撃する十字軍も当然あるのです。つまり、キリスト教に一元化するために「異教徒が一人でもいたら怪しからん」ということで、凄まじい戦争をしてトゥールーズの城カルカソンヌは何万という人を殺して潰されてしまう、という歴史があるんですよ。

 それは、今日お渡しした雑誌(正論3月号)の連載の前半の終結部分にだんだん近付いていて、日本が始まるのは未だもう少し先なのですが、ぜひ読んでおいていただくと有り難いのですが、言わなくても読んでいる人はきっと読むから・・・。だけど知っているんですよね。言っても読まない人はきっと読まないんですよね。学生に教えていたころから知っているんですよ。こう言っては皆さんに無礼かもしれないけれど。小川さんは「先生、プレゼントをしなくても、皆さん買って読みますよ!」と言っていましたが、それは「3分の1くらい」の方はそうでしょうから差し上げた訳でして・・・。ただ、単独で読んで頂いても纏まっていて、読切りの短編になっていますから、前とのつながりが無くてもわかります。

 その意味で、プロテスタントはキリスト教最高の運動になると同時に、プロテスタント自体がキリスト教の内部に対する「十字軍」だった、と言えないこともありません。(つまり、外に対しては「十字軍」。内部では「プロテスタント」)それぐらいルターとカルヴァンの思想、行動は峻厳だったんですね。ですから、いろいろな雑駁な異教徒の流れを汲む様々な理念や思想は潰されていったということがひとつ言えます。

 さて、今までの話でイスラム教徒とヨーロッパ文明との対決が、いかに根が深いかお判りになったと思います。もちろん同時にキリスト教の側は、その遅れた教養も低い鎖された地域の彼らは、信仰心だけは固めつつ、異文明に対してチャレンジしてく・・・、有名なのは、「十字軍」ですね。

 ご承知のように、十字軍は11世紀にはじまります。具体的な説明はしませんが、イスラエルがひとつ、それから北の方のラトビアとかポーランドへ向けての十字軍、イベリア半島スペイン・・・。つまり地中海は全て抑えられますから、地中海の異教徒を追払うということ。それから、最後には2つのアメリカ大陸に進出すると・・・。じつは、これら全て十字軍なんですよ。つまり信仰の旗を掲げて、そして、異教徒を改宗させるか、殺戮するか。「改宗か? 然らずんば死か?」そして、それを実行するために、内部の綱紀が緩むために粛清する。これが数多くの粛清劇、魔女狩りとか・・・、先ほどのカルカソンヌ城の異教徒退治もそのひとつですね。

 つまり、内部を徹底的に時々厳しくやり、そして外対して、異教徒に対しては妥協したり拡げたりする。いろいろな形で柔軟にやるのです。さながらその姿は、「私たち異教徒」から見ると、ソヴィエト共産党と中国共産党みたいなものに見えますね。つまり、外部に対しては外交的に狡猾で、そして、内部に対しては一寸した異端も許さない粛清劇をする。非常によく似たところがあるんですよ。ですから、「棄教」といって、教えを棄てる聖職者がいると、それを許さないだけでなくそれに対する尋問をしたり、それが後々までどんな影響を持つかということを徹底的に論争するという、激しいものがあります。そういう点も、共産党を辞めてしまうことに対する手厳しい攻撃によく似ていますよね。それが中世ヨーロッパのエネルギーであると同時に、それがまた世界史に拡がっていくパワーだと私は思っています。

 善かれ悪しかれキリスト教のヨーロッパ中世からはおそらく3つのもの、ひとつは「暴力」、ひとつは「信仰」、そしてもうひとつは、16世紀に産まれる「科学」がありますね。今日はその話は出来ませんが、自然科学は、何と言ってもポジティヴで、そして自然科学はキリスト教そのものから産まれたのであって、それは他の宗教に類例を見ない出来事、ドラマなのです。自然科学は一般的で普遍的であると思われるかもしれませんが、根っこはキリスト教にあったということは、また一つ大きな問題であります。そのテーマは、今日お見えになっているかどうか・・・?古田(博司)先生、いらしてますか?(小川揚司さん:4時ごろお見えになります。)古田先生の「ヨーロッパ思想を読み解く―なにが近代科学を生んだか」(ちくま新書)という本がありまして、これはひじょうに難しい本ですが、いろいろなことを考えさせられます。

つづく

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(一)

 2月1日に坦々塾主宰の私の講演会がホテル・グランドヒル市ヶ谷で開かれた。その草稿を元にして『正論』4月号に一文を草したことはすでに見た通りである。

 『正論』4月号の拙文は読み直してみてそれなりにまとまってはいるが、30枚余と最初から制限があるので、内容は講演とは部分的に重なってはいるものの、違ったものになっている。

 講演の音声から文字起こしをして整理して下さった会員の阿由葉秀峰さんからA4で25枚の講演草稿がファクスで送られてきた。読んでみて『正論』4月号とはかなり違う内容だと分った。

 『正論』4月号の拙論をよくよく理解していたゞくためにも、講演草稿をここに掲示するのは意味があると思った。

 阿由葉さんのご努力にあらためて御礼申し上げる。最初の書き出しは『正論』4月号とほゞ同一文だが、辛抱して読み進めていたゞきたい。

坦々塾講演  ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)

                 (一)

 「イスラム国」を名乗るテロ集団による日本人の犠牲が出て、国の政治が停止してしまったかのような狼狽が見られました。

 アメリカ人やフランス人の殺害は対岸の火事でした。なぜ日本人が? という疑問と、やっぱり日本人も? というついに来たかの感情が相半ばしています。

 今のこの時代にこんな原始的な脅迫殺人が起こるとは考えられない、と大抵の人は心の奥に底冷えする恐怖を感じたでしょう。時代の潮流が急速に変わりつつあるのかもしれません。

 アメリカからは脅迫に屈するな、の声が日本政府に届いていました。アメリカ人ジャーナリストがオレンジ色の衣を着せられ脅迫されたときには、アメリカ国民は慌てず、いうなれば眉ひとつ動かさず、犠牲者を見殺しにしました。イギリスもそうでした。たしかにテロリストと取引きすると、事態はもっとひどくなります。福田赳夫元首相がダッカのハイジャック犯に金を払って妥協してから北朝鮮の拉致は激化しまた。それだけではありません。取引することはテロ集団を国家として認めることにもつながるのです。

 それでもなぜ日本人が? の疑問は消えないでしょう。日本人は宗教のいかんであまり興奮しない国民です。イスラム教とキリスト教の2000年の対立が背景にあり、パリの新聞社襲撃テロを含めて何となくわれわれには地球の遠い西方の宗教戦争であり、日本人には関係ないと思う気持ちがありました。せっかく親日的なイスラム教徒とは対立関係になりたくないという心理もありました。「イスラム国」のテロリストは他のイスラム教徒とは違うとよく言われます。この事件でイスラム教やイスラム教徒に偏見を持ってはいけないとも言われています。それはその通りです。けれどもキリスト教徒に問題はないのでしょうか。

 イスラム教とキリスト教の宗教戦争が根っこにあり、イギリス、フランスの20世紀初頭の中東政策への怨みが尾を引いているのは間違いないでしょう。中世までイスラム文明が西ヨーロッパ文明に立ち勝っていた上下関係が18~20世紀にひっくり返った歴史も、イスラム教徒の許し難い気持ちを助長させていることでしょう。

 4世紀のゲルマン民族大移動とローマ帝国の崩壊の後のユーラシア西方全体の歴史に、対立は深く関係しています。最初イスラム教徒が圧倒していました。キリスト教徒11世紀より後に「十字軍」を遠征してまき返します。13世紀にヨーロッパにモンゴルが襲撃してきたときでも、キリスト教徒はモンゴルより憎んでいたのがイスラムでした。モンゴル軍と妥協してでもイスラムを撃ちました。イスラムの方が比較的寛容でした。地中海の東方の出口を抑えていたからで、レパントの海戦(1571年)でイスラムが敗れ、キリスト教徒はインド洋、太平洋を制圧し、形勢を逆転させました。その後はキリスト教文明優位のご承知の通りの歴史の展開です。

 イスラムは、かつては文明的に野蛮な西ローマ帝国やフランク王国を見下していました。それが今はすっかり逆になっていしまった。キリスト教国に押さえこまれてきた歴史の長さ、重さ、劣等感がついに過激なテロの引き金を引かせる心理の一部になっているのは紛れもない事実でしょう。ヨーロッパのイスラム系移民の2世、3世が「イスラム国」に参加している例が多いことからみても、やはり歴史の怨みと現代の閉塞感が重なった宗教戦争の色濃い出来事であるとはいえるでしょう。

 歴史的反省をしたがらないヨーロッパやアメリカなどのキリスト教国は、あえてこのことを見ないで、「テロは許せない」とか「たとえ宗教批判になっても言論の自由はある」といった一本調子の観念論で、やや硬直した言葉を乱発していますが、これもキリスト教国側が承知で宗教戦争を引き受けている証拠なのです。

 こう見ていくと、日本人はどちらにも肩入れしたくない。公平な立場でありたいと願います。ところが、イギリス、アメリカ、フランスなどのキリスト教国側に乗せられ、キリスト教国でもないのに「テロは許せない」の西側同盟の一本調子のキャンペーンに参加している観があります。オバマ政権から脅迫に屈するな、の声が届けられ、テロリストと取引をしてはいけない、の教訓に縛られていたように見えます。それでいて、西側諸国と違って軍事力は行使できません。それならば何もしなければいいのです。日本は神道と仏教の国。宗教戦争には手を出さない、の原則を貫いた方がいいのではないでしょうか。「イスラム国」から被害を受けた地域の犠牲者に2億ドル(240億円)の救済金を出すと胸を張って宣言したような今回の日本外交のやり方は、関係者は気がついていないかもしれませんが、事実上の「宣戦布告」なのです。

 軍事力を行使しなくても戦争はできます。否、軍事力を行使する戦争をしたくないばかりに、それでいて戦争をしたふりをしないと西側に顔が立たないので、いつものように引きずられるようにカネを差し出す。平和貢献と称する度重なるこの欺瞞は今度の件でほんとうに最終的に壁にぶつかったと考えるべきでしょう。

 「イスラム国」のテロリストからは今回は脅迫されただけでなく、完全にからかわれたのです。二億ドルというぴったり同額のどうせ実現できないと分かっているほどの巨額の身代金を求められたではありませんか。しかも直後にカネはもう要らない、女性の死刑囚との交換をせよとあっという間に条件を替えられたではありませんか。相手が非道で異常なのは事実ですが、日本は愚弄されたのです。テロリストの頭脳プレーにより、日本国家は天下に恥をさらしたのです。

 もちろんオバマ大統領はじめ西側諸国はそうは言わないでしょう。日本の積極姿勢を評価するでしょう。差し当たり他に日本に打つ手がなかった、という政府擁護論にも十分に理はあります。

 ですが、日本は「のらりくらり作戦」がどうしてもできない政治体制の国なのだ、とあらためて思いました。そして、いわゆる西側の「正論」に与する前に、ほんの少しでもイスラム教とキリスト教の2000年に及ぶ宗教戦争の歴史に思いが及んだだろうか、と政府当局者に聞いてみたいと思います。さらに、国際社会の「法」と呼ばれるものがいつ、どのようにして形成されたかを、これもヨーロッパの中世より以後の歴史の中で検証したことがあるのだろうか、と疑問とも思えるのです。

 日本人の安全はカネを差し出すのではなく、本当の意味での実力行使以外に手はなく、他の手段で自国民を守れないという瀬戸際についに来ていることをまざまざと感じさせる事件でした。

 中国や韓国が戦後の日本からの経済支援に感謝しないばかりか、国民に支援の事実を知らせもしない、とわれわれのメディアはこれまでもしばしば怒ってきました。しかし一般に外国からの経済支援はその国の政治指導者を喜ばせるかもしれませんが、その国の国民には歓迎されないものです。歓迎されないのが普通です。アメリカからの戦後日本へのララ物資は日本人を救ったはずですが、われわれは家畜に食わせる餌を食わせた、と言わなかったでしょうか。どの国民にもプライドがあります。他国からの経済支援に感謝するのはそのときだけで、あっという間に忘れてしまうのが普通です。それがむしろ健全です。そして外国からの支援金でなにがしかの成功を収めると、自国の力が発揮された結果だとその国の政府も言うし、国民もそう信じたがります。中国や韓国が格別に不徳義なわけではありません。彼等が口を噤んでウソをつくのは許せませんが、カネを支払う平和貢献を軍事的威嚇のできない代用とする日本外交のいぜんとして変らぬ思い込みの方がはるかに大きな問題です。馬鹿々々しいだけでなく、今や醜悪でさえあります。ことに命の代償に240億円が数え立てられ、かつ取り下げられたテロリストの頭脳プレーにより、日本国家は天下に恥さらしたのです。

 オスマントルコ脅威の時代にイスラムが西洋を文明的に圧倒していたと同じように、中国は宋の時代まで日本に優越していました。中国人自身の主観では清の時代まで中国大陸優越を想定しているでしょう。ところが近代史に入って日本優位に逆転しました。それが中国人には許せません。口惜しさ劣等感が尾を引いていることはRecord Chinaなどに現れる観光客その他ネット情報を見ているとよく分ります。韓国人にも似たような一面があります。 

 中韓両国による対日批判は今や世界中に伝えられ、地球の不協和音の一つに数えられていますが、先の大戦が主原因と思われていて、アメリカやヨーロッパではよもや他の原因があるとは考えられていません。しかし戦争の歴史解釈は動機いかんで変わります。中韓両国民の動機は何に基いているか。イスラム教徒の歴史は欧米人の歴史像とはまったく違った展開になっているはずです。中韓両国の対日批判の動機もイスラム教徒の欧米批判の動機に似ていて、不合理で、情緒的で、宗教ドグマ的で、先の大戦をめぐる実証主義に基く客観性を著しく欠いています。そのことを欧米世界に、日本人はキリスト教とイスラム教の宗教対立を例にあげて説明し、日本における神仏信仰、皇室尊崇心と、中韓における朱子学(現われ方いかんでは一神教に近い)とでは水と油であることを分らせるよう働きかけるべきです。

 朝鮮半島と日本との間には、パレスチナとイスラエルとの間にある宗教的なへだたりにも似たへだたりがあることを、例えばオバマ大統領に知らせることは、このうえなく重要です。

 いたずらにわが国が右翼傾向を強めているなどと欧米から批判的に見られるのは、先の大戦の全像の見方を(少なくともドイツと日本とは違うことを)欧米側がいささかも変更しないことにあります。しかも中韓両国の感情的な対中批判を鏡に用いて、それに照らして、日本は歴史修正主義を志しているなどと言うのです。中韓の批判はイスラム教徒のキリスト教文化圏に対する劣等感に基く混迷な原理主義的感情論にも似ているのです。日本が「イスラム国」に対処するのにアメリカやフランスやイギリスの姿勢に合わせるのもいいのですが、それなら欧米が中国や韓国の主張に対処するのに、欧米の基準だけでものを言うのではなく、日本の姿勢にあわせることに道理があることを訴えていくべきです。

つづく