帰国してみると梅雨(六)

 次の写真は澤コレクションの所蔵現場である。
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 約15000点に及ぶ一私人による蒐集と所蔵は、それ自体が偉大な仕事で、強い意志と情熱なくしては果し得ない業績である。

 蒐集には日夜古書店その他の渉猟、保存には夏に湿気を防ぎ、冬は乾燥を恐れ、言葉に尽くせぬご苦労らしい。

 今は全冊門外不出である。紙の摩滅と造本の解体が恐れられるからである。しかし永久保存と国民的利用という相容れない要請が迫ってもいる。

 澤コレクションは日本が日本人の心を取り戻し、真に甦るための量り知れないパワーを与えてくれる国民的財産である。

 PDFその他による科学的方法での永久保存と万人への開放とを同時に行うような政策が求められている。そのために必要なのは資金であり、かつ広範囲の各層の関心と声援である。

 これらの本の理解と評価によって、日本人は初めて8月15日の、占領軍によって押しつけられた裂け目を埋めることができ、歴史の連続性を回復することができるのである。

 焚書された7100冊はもとよりのこと、氏によってあらためて蒐められた周辺関連本の約10000冊がことのほかに重要である。たとえ国立国会図書館にそのうちの約7~8割が現存するとはいえ、われわれの日常の視界から消えてしまった本は存在しないに等しい。誰が図書館に通って古書の山を丹念に研究することができよう。

 インターネットで自由に検索し、解読し、あの時代の日本人の心を再体験する人が少しづつ増えてくることが何よりも必要である。

 澤氏はその切っ掛けを与えてくれた。日本人が日本人であるための魂の蘇生に戦後60年にして一番大きな仕事を果したのは澤氏であったということになるだろう。一層のご研鑽と蔵書の維持努力への尽きせぬご配慮を祈りたい。

(了) 
     

帰国してみると梅雨(五)

 鎌倉駅に向かう帰路、雨は上っていた。

 澤氏の『総目録GHQに没収された本』によると、GHQが初回に没収した10冊のうち9冊は毎日新聞社刊、1冊が朝日新聞社刊である。また出版社別で一番多いのが朝日新聞社刊140冊、次いで多いのが毎日新聞社刊81冊である。

 あの時代に戦争の旗を振っていたのはどの勢力であったかがよく分る話である。けれどもGHQに真先に、最も敵視されていたのは名誉なことでもある。当時の日本の国家意思を代表した言論機関だった証拠でもある。

 日本は明治の開国以来、近代国家として国際社会を独立独行して歩んだことは間違いない。日英同盟はあったが、英国に外交主権を委ねていたわけではない。たとえ敗戦の憂き目を見たとしても、敗戦の決断もまた自己判断であった。

 しかし8月15日を境いにパラダイムは一変した。日本は目を覚ましたのではなく、目を鎖したのである。自分で判断し、行動することを止めた。主権を外国に委ねてしまったからである。

 8月15日より以前の日本人の心の現実を見直す時代が今来ているのである。遅きに失する嫌いさえある。

 日本人の歴史はいまだ書かれていない。歴史は過去の事実がどうであったかを今の地点から確かめる作業ではなく、過去の人間がどう考え、どう感じていたかを再体験する作業である――少くともそこから始まる。

 私がGHQ焚書本に注目しこれを知りたいと思ったのは、「現代史」を書きたいと秘かに念じたからである。冷戦崩壊後ソ連から一時かなりの資料が解禁され、アメリカの公文書館からも少しづつ(対ドイツ戦に比べれば遅れているが)、戦時資料が公開され、われわれも次第に複眼を得るようになった。

 ここで昭和初年から20年までの日本人の世界認識、日本人の戦争への覚悟がどう表現されたかを知り、三番目に今までの戦後の日本人の思想をこれらに加え、三本柱で歴史は書き直さるべきだと思っている。

 一番目については、2年くらい前から若い友人柏原竜一氏にインテリジェンスの世界を中心に、アングロサクソンの考え方をめぐって、書籍の紹介や知見のご披露をもって私の蒙を拓いてもらっている。私がなかなか呑みこみが悪く、彼を苛立たせているのが現実だが、これは見通しが立っている。

 しかしどうしても接近がむづかしいのが2番目の文献である。GHQ焚書図書がそれである。自分に残された人生の時間と生命力とをも考慮して、どのように解明に当るべきかを思案中である。

 私は歴史家ではない。大きな規模の叙事詩を書きたい。正確をめぐる諸論争にまきこまれたくない。人間として生きた日本人の心の歴史を書きたい。

 例えば焚書図書の中で私が拾い出し、これは本物だと思って今熱心に読んでいるのは谷口勝歩兵上等兵『征野千里――一兵士の手記――』(昭13)という、完全に忘れられた一冊である。私の目指している方向をお察しいただけたら有難い。

つづく

帰国してみると梅雨(四)

 私の見た範囲でさえ焚書図書の多くが幕末に日米戦争の起点を見ている話をしたら、澤さんは面白がった。林房雄の百年戦争史観は私より歳上の世代には、戦前・戦中から説かれたむしろありふれた、きわめて一般的な視点であったわけだが、その割に当時の言論人が私たちの世代にこの点を教えてくれなかったのが今思うと不思議でならない。

 私の記憶では、小林秀雄も河上徹太郎もたしか「林君は作家として誠実に振舞ったことを疑わない」というくらいの友情応援の言葉であったように思い出される。福田恆存も何も語らなかった。

 「そうなんです。そこが問題なんですよ。」と澤さんは言った。彼は昭和15年生れで、戦後の記憶は確かである。

 焚書図書の蒐集をしていて、数多くの著者の叙述に触れて、彼が感心した一点は次のようなことだったという。

 「歴史には焚書坑儒の例は数多くありますよね。書いた文章や書籍がいつの日か廃棄され、著者の名が辱しめられるかもしれない。そういうことを予感して、いざというときの難を避けるための口実、弁明できる一言をどこかに挟んでおく――そういうことを誰ひとりやっていないんですよねぇー。」

 「成程、きっとそうですね。敗北を前提にして書いている人は一人もいなかったんでしょうね。そうだと思います。『米英挑戰の眞相』(大東亞戰爭調査會編)という本に、対日包囲陣の規模と内容が詳しく、合理的に書かれてあるのを今度読んだんですが、叙述に恐怖がみじんもないんですよ。」

 「個人としても、国家としても、恐怖やたじろぎがないんでしょう。立派ですよねぇ。今から考えると不思議でもありますが。」

 「私は戦後にむしろこんな経験があるんです。」と私は60年安保より数年前のことを思い出して言った。「私が大学に入学したのは昭和29年ですが、当時は共産主義革命が明日にも起こるかっていう時代で、私は大学のクラスメイトに<人民裁判でお前を死刑にしてやる>と言われたのを覚えています。そういう時代だったんですが、保守系の文学者や思想家の発言のところどころに、いざというときの難を避けるための口実、革命派に媚を売る一言、あとで弁明できるような文言をこそっと入れている例をよく見掛けました。私は、何だ、こいつ卑怯だな、と思ったものです。有名な人にそういう例が多かった。竹山道雄と福田恆存には絶対にこれがなかったんです。」

つづく

帰国してみると梅雨(三)

 昭和8年―19年当時の本は私の父の書棚にもあったし、戦後もしばらく古書店ではいくらも目撃されていたはずだが、占領軍によって流通を止められ禁書扱いされたので、私が読書年齢に入ったときにはすでに私の視野の中には入っていなかった。

 今度わずか50冊ほど見ただけでいくつもの発見があった。アメリカとの戦争を主題にした本が7冊あった。うち5冊は歴史を扱っている。面白いことに気がついた。

 戦争に至るまでのアメリカとの交渉を歴史に求めている著者たちは、大抵幕末にまで遡っている。ペリーの浦賀来航に「侵略」の起点を見ている。

 なかには昭和15年10月刊の『日米百年戦争』(アメリカ問題研究所編)という本があって、歴史を見る尺度をもっと大きく取っている。ポルトガル、スペインの地球制覇の野望に欧米文明の危険の萌芽を見ている。アメリカとの百年戦争をヨーロッパとの五百年史の内部に位置づけようとしている。

 今でこそこういう広角度の見方は再び少しずつ広がり、定着しつつあるけれども、戦後和辻哲郎の『鎖国』が評価されていた一方的空気を思い起こしてほしい。歴史の見方は全然逆だった。日本は鎖国していたから科学精神に遅れた。ポルトガル、スペインに門戸を鎖した日本の内向きの姿勢にむしろ歴史の失敗がある。封建主義と軍国主義との悪しき根がここにある、と。

 戦争をほんの少し知っている私の年代でさえ、こういう歴史観を植え付けられていて、長期にわたる欧米の侵略を見ないで、戦争の原因を短い時間尺度に、しかも自国の歴史の内部に求める習慣にならされていた。

 28-29年の頃、林房雄『大東亜戦争肯定論』が幕末からの百年戦争を説いているのを『中央公論』連載時に知って、非常に新鮮で、かつ危ういものに思った。100年という時間の取り方が当時の私には初めて見る大胆な見方だったからである。

 だが、今度GHQ焚書図書の約50冊を見て、「百年戦争」のモチーフは私より歳上の世代には新鮮でも何でもなかったという、ごくありふれた尺度だったことに気がついた。なぜなら日米戦争を幕末から説き起こし、ペリーの来航にアメリカの「侵略」の第一歩を見るのは、以上に挙げた通り、戦前・戦中の本ではごく普通の慣行だったことを今度初めて知ったからである。

 GHQによる焚書はやはり小さくない出来事だったのだ。私の若い頃の歴史を見る目の誤差をすでに引き起こしていたのである。

つづく

帰国してみると梅雨(二)

 澤氏によると焚書図書は従来の目録の間違いもあって確かなところは総数約7100冊である。うち6100冊はページ数などを確認ズミ、さらにそのうち約5000冊を所蔵しているという。6100から5000を引いた1100冊は国立国会図書館で確認し得たものである。

 国立国会図書館は焚書図書の約7ー8割を保存していると彼は推定している。焚書を免れたのか、長い戦後史の期間に補充買いしたのか、詳細は分らない。澤さんが所蔵し図書館にないものもあるし、その逆もあるようだ。

 25日午後、鎌倉は雨だった。鶴岡八幡宮から海の方へ歩いて、お宅はすぐに見つかった。日本人の視界から姿を消した昭和20年までの大量の本がご自宅の生活の場につながる空間に、アイウエオ順で整然と収められていた。作りつけられた書棚は天井まで幾つも並び、人間がやっとひとり通れる隙間が何本か通路をなしている。

 じつは私も気がついていて、今度の論文で言及しているのだが、焚書はされなかったもののほゞ同質同内容の、周辺関連文献がある。澤さんはそれらも蒐めてこれは約10000点に達していると聞いて、見れば小さな色紙の付箋で区別して保管されている。10000点という数に驚いた。

 例えばある10冊の全集や叢書のうち1冊が焚書され、9冊がそうでないようなケースが見られた。しかし不思議なのは、なぜその1冊が選ばれたか基準が分らない。他の9冊のほうがGHQからみてずっと危険だと思われる場合もあるのだが、占領軍の没収の方針もずいぶんいい加減だったんですね、と二人で話し合った。

 澤氏は『総目録GHQに没収された本』を昨年上梓されたが、『GHQの没収を免れた本』という新しい目録を近く世に出したいとかで、作業中の大冊のノートをみせていたゞいた。

つづく

帰国してみると梅雨(一)

 6月5日からイギリスを旅行していた。「続・つくる会顛末記」が毎日少しづつ掲示されていた間、スコットランドをゆっくり見て南にくだり、(七)の2で全部終った日に私はロンドンにいた。

 イギリスの旅の印象についてはまた機会を別にしたいが、季節外れの猛暑で、16日午前9時に成田に着いてみると、予想していた通り雨が降っていた。

 午後3時家に帰り、30時間眠らないで時間差をやりすごした。それから9時間寝て、17日から20日の午前6時まで寝たり起きたりしながら、『諸君!』8月号に反論論文を書いた。題は編集部がつけた。「八木君には『戦う保守』の気概がない」(32枚)

 もうこれで勝敗はついたと思う。すべてを終りにしたい。こんな仕事にいつまでもかまけている時間はもうない、と不図気がついた。

 論争文はこれまで数多く書き慣れて来たが、旅から帰った直後であるから気力と体力への不安が少しあった。

 留守中のネット情報を読むのに一日かかったし、〆切り時間制限が絶対だからどうなるかと心配だったが、まだ今回は大丈夫だったことが保証された。私は私の体力に(知力にではない)、お前よくやるなァ、とそっと呼びかけている。

 旅に出る前に「続・つくる会顛末記」の原稿をたくさん書いて長谷川さんに託して行ったわけだが、じつは同じ時期にちょっと新しい仕事に手を付けている。22枚の論文「GHQが隠蔽した『戦前の日本人の世界認識、戦争への覚悟』」を、みなさんはびっくりすると思うが、小林よしのり編集『わしズム』夏号(7月19日発売)に書いて、旅行中にゲラが組み上がっていた。小林さんにはまだ会っていないが、彼からの依頼原稿に応じたのである。ここにも私が「つくる会」から離れた行動の自由が現れている。

 GHQによる焚書図書は約7100冊あると推定され、うち約5000冊は澤龍氏のコレクションに所蔵されている。

 これとほゞ等量の、焚書からは漏れたが、大略同内容の、昭和8年頃から19年頃までの、今は誰も省みない図書が同氏のコレクションに蒐められている。帰国すると同氏から葉書を頂き、後者をどう考え、どう扱ったらよいか相談にのってもらいたいというので、早速電話し、25日(日)鎌倉のお宅のコレクションの現場に伺うことになっている。

 氏のコレクションとは別にGHQ焚書図書を今までに約600冊蒐集しておられる方がいる。私が『わしズム』原稿に利用させてもらったのはこのうちの約30冊である。他に私自身が国会図書館からのコピーで約20冊分を持っている。

 焚書と非焚書の両方で合計10000点以上になるこれらの本を私ひとりで探求できるわけがない。私が可能な限り検証し、この未知の、日本人が置き去りにした歴史の秘宝の山への登山口を切り拓くくらいのことしか出来ないだろう。これにはある出版社がすでに本にしたいという声をあげてくださっている。

 私を取り巻く環境は最良の条件で整っているのだが、今度『わしズム』に書くために少し勉強して、私はにわかに不安になっている。なにしろジャングルに無防備で単身わけ入るような暴挙に思えてならないからだ。この夏600冊のコレクションをまず徹底的に読みこんで、それからゆっくり案をねろう、と今考えている。はたして理想的なことができるかどうかが不安である。チーム編成で組織的に取り組まないと解明は難しいと思う。個人でどれくらいのことが出来るかなァ、と予想もつかない規模に戸惑っている。

 日本人はなぜこんな大事な文献を放棄してきたのだろう。とりあえずは『わしズム』夏号をお読み頂きたい。

つづく

 6/26 一部改変

「『昭和の戦争』について」(十)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第五章 偽装歴史観に裏付けられた平和憲法=「GHQ占領憲法」

第一節 「明治憲法」の本質――模範的な立憲君主制憲法

 連合国軍総司令部(GHQ)は、戦争犯罪国家=日本帝国の基礎に「明治憲法」と「教育勅語」そして「神道」があり、この国家体制は、「天皇独裁の神権主義的擬似立憲体制」だと断定した。だが、明治憲法の本質は、これとは正反対なのである。

 立憲政治体制とは、憲法を柱にした「法治主義」で特定の権力に偏らないように権力の均衡を図りながら国家を運営し国民を統治する政治体制のことである。憲法草案の起草者・伊藤博文らは、第一に歴史と文化伝統を尊重した。『皇室典範および帝国憲法制定に関する御告文』は、「惟ふに此れ皆 皇祖皇宗の後裔に貽(ノコ)したまへる統治の洪範を紹述したるに外ならず」と明言している(『憲法義解』一九一頁)。第二に、西欧の君主制国家の憲法、特にプロイセン憲法、ベルギー憲法を参考にした。この両憲法は、英国立憲君主制を模範(モデル)に制定されたものでだから、明治憲法は、君主権力と行政権、立法権、司法権、軍事権と言う権力の相互抑制のバランスを良く取っている。権力分散と公議世論政治を程よく按配した模範的立憲君主制の憲法だと当時の西欧諸国の憲法学者たちからも高く評価された秀逸な憲法なのである。

 「明治憲法」が制定され、議会政治が始まって以降、明治国家の安定は増大し、日清・日露の両戦争に良く「挙国一致」して勝利した。明治の立憲君主制国家は、欧米諸国から高い評価を得た。これがあったれ場こそ、日英同盟が成立したし、国力の増進は目覚しく、明治の御世の有り難さを多くの国民が実感したのである。つまり、明治国家体制は、独裁政治体制とは正反対のデモクラシー、複数政党制の議会制国家体制だったのである。

第二節 「GHQ占領憲法」の本質――日本弱体化の謀略法規

 我が国政府は、陸海軍の無条件降伏で辛うじて「國體護持」を保障されたと判断してポツダム宣言を受諾した。しかるに、完全武装解除した敗戦国に襲い掛かったのは、占領軍による日本弱体化のための国家改造政策の強行であった。ポツダム宣言は、日本に民主主義を復活すると謳っていたから、連合国側は戦前の日本に民主主義が定着していたことを知っていた。然るに、占領軍政府=GHQは、日本国は「無条件降伏」したのだとの巧妙な詭計をもって施政権を剥奪した我が国に対して「日本国憲法」なるものを押し付けた。施政権・外交権を完全に剥奪されて占領軍権力に身を委ねた被占領国家に、憲法制定権があろう筈が無い。

 そこで、総司令官マッカーサーは姦策を弄した。まず、「ワー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」なる情報操作を推進した。大東亜戦争が悪辣無道な侵略戦争であり、多くの日本国を不幸のどん底に叩き落したと日本国民洗脳作戦を展開した。悪逆無道な戦略者を推進した国家指導者=軍国主義者を断罪するとして「極東国際軍事裁判」なる茶番劇を演じた。次いで、帝国議会と枢密院に『大日本帝国憲法』改正手続きを踏ませて「GHQ占領憲法」に摩り替えたのである。

 「GHQ占領憲法」は、内容面でも異常である。第一に、この憲法の基本精神は我が日本の歴史と文化伝統の正統性に根差すものではない。第二に、この憲法は、日本を半身不随の中途半端な国家にする目的を持つ。日本の國體の柱である皇室制度を曖昧なものに貶め、従って、国家の元首が不明である。第三に、平和憲法と称して非武装=戦争放棄を建前とする。だから、独立主権国家としての外交・軍事を推進できない。国防の自由が無いから、外交も臆病で卑怯な外交たらざるを得ない。国家の尊厳と独立、国民の生命・財産の安全を自力で保障できないから、この憲法の本質は、国家・国民のための憲法ではなく、日本弱体化の謀略法規であると私は断言する。

 第一の問題を敷衍すれば、西欧世界の近代啓蒙主義思想、アダム・スミス、ロック、アメリカ独立宣言、フランス革命の人権宣言および共産主義思想をミックスした思想を基礎としている。これは対日戦争を積極的に推進した米国ルーズベルト大統領(民主党)のブレーン「ニューディーラー」らは、自分たちが理想とする政治制度を有色人種の優等生日本に実験的に移植したグロテスクな代物である。冒頭に述べた「ポツダム宣言」と「ハーグ陸戦法規」に完全に違反している。「日本国憲法」は、誕生経緯と内容の異常性からして国家基本法の要件を満たしていない。(注・この間の詳細に関しては拙論「敗戦国体制護持の迷夢」、雑誌『正論』平成一六年三、四月号連載を参照されたい)。

 このような国家・国民の憲法とは言えない憲法を定着させてしまったのは、戦後政治の大失敗だったと断言せざるを得ない。失敗の一例を挙げれば、米ソ冷戦の緊張の高まりと共に、特に朝鮮戦争(一九五〇年六月~五三年七月休戦協定)を契機にアメリカは、我が国に再軍備を熱心に要請するに至った。しかるに、時の日本政府(吉田茂内閣)は、これが「日本国民の総意に基いて制定された民主的な憲法である」と、逆螺子作戦でアメリカ政府の要望に反抗したのだった。つまりは、「憲法第九条」を盾にして再軍備を拒絶した、と言う大きな捩れ現象を発生し、憲法の欠陥を自ら修正し難くすると言う赦すべからざる愚行をなしたのだ。

 しかし、吉田茂は米国の圧力を排除出来ずに、かろうじて、「戦力無き軍隊」であるとして自衛隊(一九五〇年八月警察予備隊令→五三年九月防衛庁設置法・自衛隊法)を発足させた訳である。国民全般の涙ぐましい復興努力とその後の高度成長に後押しされ、また防衛庁と自衛隊の努力研鑚もあって軍事力としては相当強力な軍隊に成長した自衛隊三軍ではあるが、「憲法第九条」と法的に中途半端な国防軍としての位置づけの故に、いざ国家有事=緊急事態となったとき身動きが取れないという異常な状態のままで今日に至ったのである。

 一九五二=昭和二七年、サンフランシスコ講和条約発効以後も、占領体制から脱却して真の独立主権国家への回復、真の戦後復興を目指そうとする政治家・国家官僚が、如何にも少なかったのは遺憾の極みである。共産主義や社会主義に幻惑されて、戦前の日本を呪詛し、このような戦後政治を背後から支えた左翼知識人(所謂進歩的文化人)とその共生勢力だった大学や大形メディアや出版界の罪責は限りなく大きい。その左翼知識人勢力に育てられた世代が今や我が国の各界の最高指導層に蟠据している。教育は戦後教育の延長線上に展開されている訳だから、「百年河清を待つ」間に、我が日本民族は数千年の歴史と伝統から断たれた日本人にして日本人ならざる民族に変性されて行くのであろうか。教育を正常化する勢力が劣勢なのだから、このままでは日本の前途は実に危ういといわざるを得ない。

むすび  現下の課題

 最後に本講義の纏めを述べよう。「昭和の戦争」は、満洲事変から敗戦までの一貫した「十五年戦争」と言うような戦争ではなかった。だが、支那事変と大東亜戦争は一連の戦争であった。支那事変は、有色人種の優等生大日本帝国の擡頭に我慢できない米英と世界の共産革命を先ず弱い部分である東アジアで成し遂げようとしていた共産ロシア(ソ連)が、支那の軍事独裁者蒋介石を背後から軍事的・政治的・財政的に支援・指導し、さらに支那共産党を介在させて闘わせた言わば代理戦争であった。ソ連や米英は支那事変を長引かせることで日本を世界戦争の舞台に引きずり出して撲滅しようと狙ったのである。共産ロシアは、米国同様に軍閥独裁者蒋介石を支援して日本と戦わせる一方で、中国共産党を育成し蒋介石の足元から支那大陸の共産化工作にも余念が無かった。 

 未だ弱小だった毛沢東指導の支那共産党の後方攪乱戦術は見逃し難い重大問題である。その謀略は異常に逞しかった。大日本帝国滅亡後、共産ロシアの目論見どおり、支那共産党の大陸制覇は達成された。アメリカはトンビに油揚げを攫われた。最後の段階で参戦した共産ロシアはユーラシア大陸を略制圧、我が国固有の領土である樺太・千島を不法占拠して今に至っている。これらは、謀略情報戦に不得手で、「信義」や「誠実」をモットーとする我々日本人には中々理解できない醜い世界の出来事だった。 

 最後にもう一度言おう。満洲事変から支那事変、そして大東亜戦争に関して我が国は侵略戦争の計画は何ももたなかったのである。だから、これらの戦争は我が日本にとっては「独立自衛」を求める以外の目的はなく、侵略戦争との意識は何もない戦争だったのである。モノの見事に誤解に基づく理想世界の拡大を欲した米国と、共産ロシアの二つの謀略勢力に支那大陸の戦場に引き込まれて、結局は押し潰されたと言える。

 逆に言えば、一九三〇年代から四〇年代のアジア大陸の戦争は、米国とソ連の侵略戦争だった。アメリカは勝ち誇って「大東亜戦争」と言ってはいけない「太平洋戦争」と言えと命令したが、正にそこにアメリカのあの戦争への意欲、太平洋からアジア方面への侵略意欲が明瞭に出ているのである。これが大東亜戦争の真実である。

 米国やソ連が日本を貶めるために創作した歪曲歴史観に基づく支那・朝鮮の至極「政治的」な言い掛かり挑発に、我が国政府は気遅れする謂われは全くない。韓国・北朝鮮の言い掛かりは歴史の事実を意図的に曲解した怪しからぬ妄言なのである。また、支那共産党政府要人が、事あるごとに日本政府は反省が足りない、「歴史を鑑にせよと」説教するが、全く善人と悪人が転倒した盗人猛々しい、片腹痛い言い草なのである。彼らは、支那共産革命を達成する目的で、日本軍と軍閥蒋介石を徹底的に共倒れになるまで戦わせる悪行を働いた張本人なのである。アジアの連帯など考慮の外、モスクワの指令に従い、アジアの共産化を追及していたのである。彼らが何時も勝ち誇って言う「抗日戦争の勝利」は、彼ら自身のものではなく、モスクワの勝利のおこぼれに預かったのである。間もなくモスクワからの自立の欲求が台頭し、「中ソ対立」に至った訳である。

 戦後日本の政治家・官僚は祖国の歴史への理解度も国家・国民を正しい道に導こうとする勇気も洞察力も足りない。自尊心を失い国益追求への強い意志も失い、低次元の利害調整や私益追及に汲々たる

 木偶の坊が多過ぎるのである。その基盤には国民の歴史観の歪みが厳然としてある。

 日本民族最大の敵は、実は我々の足元に蔓延っている。我々にとって本当に大事な現下の課題は、「GHQ占領憲法」と「東京裁判史観」が、日本人から自信と勇気と品格を奪い去り、自虐的な卑怯者にしてしまった元凶だと言う真実を大悟することである。正々堂々の解決策は、国民精神と国家体制を祖国の歴史と文化・伝統の正統性に復古することである。    

完 

        

「『昭和の戦争』について」(九)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない

第四節 盧溝橋事件の突発――日支激突の挑発者は誰か?

 一九三七(昭和十二)年正月二一日、帝国議会の施政方針演説で広田弘毅首相は、「所謂コミンテルンの危険性は近来益々増大の兆候あり」と述べた。だが、政変となり、二月二日 林銑十郎内閣が成立。二月十日、支那共産党は、国共合作・共産革命の武装蜂起停止・土地革命停止、そして紅軍の国民革命軍への合流を国民党に提案したのである。

 六月四日、第一次近衛文麿内閣が成立した。
 
 七月七日、北京郊外の盧溝橋で日支両軍衝突事件が突発した。二十二時四十分、支那側から発砲。この事件そのものは今までも多発していた日支両軍の小競り合いだったので、日本政府は、現地解決そして不拡大方針で臨んだ(今井武夫『支那事変の回想』一頁。臼井『日中戦争』三十三―三十六頁)。

 だが、日本の姿勢とは逆に、八日、中共中央委員会「徹底抗日」通電した。

 九日、蒋介石政府は、大掛かりな動員令を発令した(カワカミ『シナ大陸の真相』一四三、一四八頁)。

 十日、埼玉大和田海軍受信所、北京米国海軍武官からワシントン海軍作戦司令部宛暗号電報を傍受した。それは「第二九軍宗哲元麾下の一部不穏分子は現地協定にあきたらず今夜七時を期し日本軍に対し攻撃を開始することあるべし」とあった(初代海軍軍令部直属攻撃受信所所長和智恒蔵少佐(後、大佐)の東京裁判での宣誓口供書)。

 十一日「午後八時、特務機関長松井太九郎大佐と張自忠との間に二九軍代表の遺憾の意表明、支那軍の盧溝橋からの撤退、抗日団体の取締徹底を期待した現地協定(松井―秦徳純)」が成立した。東京ではこの日午前の五相会議において、支那軍の謝罪、将来の保障を求めるための威力顕示のための派兵も已むなしと陸軍三個師団の動員を内定した。しかし、支那駐屯軍から現地停戦協定が成立した旨の報告が入ったので、軍部は一応盧溝橋事件の解決と認め、内地師団に対する動員下令計画を見合わせた。丁度この頃、支那共産党宛コミンテルン指令の骨子「日支全面戦争に導け」。

 支那共産党が、国共合作宣言を公表したのは七月十五日、蘆溝橋事件の一週間後のことだ。

 十七日、蒋介石と周恩来の廬山談話(四原則の声明)があり、蒋介石「対日抗戦準備」「最後の関頭に立向かう」応戦声明を発表した。

 十九日までに、蒋介石軍は三十個師団(約二十万)も北支に集結、内約八万を北京周辺に配備。この日、南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めない、東京は南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通報してきた。つまり、現地協定拒否の表明である。

 二十日、支那第三十七師の部隊は、盧溝橋付近で日本軍に対する攻撃を再開。

 二十一日、蒋介石総統は南京で戦争会議開催、日本に対して戦争の手段に訴えると公式採択したのである。

第五節 盧溝橋事件の総括――支那民族の特性が見事に現れているこの十年間及び三週間

 ①日本は戦争を望んでいなかった。

 ②東京裁判で中華民国側は、華北に日本軍が侵略したのが原因だと言い張ったが、北平に駐屯していた通称天津軍は一九〇一=明治三四年七月、列国一一ヵ国が支那政府と締結した「北京議定書」に基づき、支那の首都の治安維持のための条約に基づく駐屯だった。

 ③様々な史料で明らかなように、日支両軍衝突を挑発したのは支那側で有り、それは支那共産党の謀略部隊による挑発であった。

 ④盧溝橋事件以後の三週間、日本側は、四度停戦協定を結んだが、支那軍は悉くこの停戦協定を破った。

 ⑤この三週間、日本側は動員令を出すのを控えたが、蒋介石(南京)政府は即座に動員令を発した。

 ⑥この三週間に支那軍は二十五万の兵員を北支に結集したが、日本は事件の平和的交渉を通じて解決しようと必死に努力した。

 我邦は明らかに和平を強く希望していた。しかし、支那の応答は、七月二五日の廊坊(天津―北平間に所在)事件、七月二六日の広安門事件、そして七月二十九日の通州事件であった。特に通州では冀東政府保安隊が日本人民間人およそ二百人を大虐殺する惨酷な事件だ。次いで一万人の日本民間人が居住している天津日本租界が襲撃された。打ち続く残虐な事件の後を追って、八月九日、上海国際租界で日本海軍士官大山中尉・水兵殺害事件突発。ついで起こったのが、八月十三日の第二次上海事変である。

 上海事変に関して指摘すべきは、蒋介石軍は第一次上海事変の後に国際間で取り結ばれた協定=上海停戦協定を踏み躙る軍事行動だった。しかも、英・米・仏は国際法を踏み躙る蒋介石に好意的だった。九月二日、日本政府は、『北支事変』を『支那事変』と改称し日支軍事衝突のこれ以上の拡大を防ごうとした。だが、九月二十二日、南京政府と支那共産党は同時に『国共合作』・『民族統一戦線結成』を宣言して、徹底抗戦の構えを見せたのである。上海の支那軍の妄動を制圧すべく、中支那軍は南京を制圧したのである。参謀本部と現地軍との間に作戦を巡る見解の相違が生じたこと、中支方面軍司令官松井石根が有る意味で最大の貧乏くじを引かされたことをもっと明らかにする必要がある。

 日本軍国主義が昭和初年に立てた大陸侵略、世界征服の「共同謀議」から必然的に発展した侵略戦争が支那事変だったと『東京裁判』は断案した。しかし、この判決が、如何に歴史の事実を無視した、歪曲された「昭和の戦争」論であるかを大凡示すことが出来たと考える。カール・カワカミは言う「日本人の忍耐力は実に驚嘆に値する」と(一五四頁)。

つづく

「『昭和の戦争』について」(八)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない

第一節 「抗日民族統一戦線結成の提唱」=一九三五=昭和十年

 満州事変の終結からニ年経った一九三五=昭和十年七月、モスクワで開催のコミンテルン第七回大会は、「反ファシズム統一戦線・人民戦線路線」を採択した(公安庁『国際共産主義の沿革と現状』、カワカミ五九―六〇頁)。それは、「ソ連が資本主義列国を単独で打倒すことは到底不可能である。目下の急務は、アジア正面の敵日本帝国、そしてヨーロッパ正面の敵ドイツ帝国を撃破することだが、この二国は強力でソ連の手に負えない。従って、日独を欺くためには宥和政策を以てし、彼らを安心せしめ(ドイツとの不可侵条約《一九三九年》並びに日本との中立条約《一九四一年》)、日本を支那と米英、ドイツを英仏と戦わせて、漁夫の利を占める」という戦略を建てたのである。日米は支那大陸でその権益を巡り、長い間冷戦(静かな戦争)を展開していたから、ズバリの戦略と言えよう(コミンテルン資料)。

 コミンテルン決議を受けて支那共産党中央は、同三五年八月一日に「抗日民族統一戦線結成」=八・一宣言を支那全土に発した。東京でゾルゲと尾崎秀実が、日支を激突させ、最終的には支那を支援する米英と日本を激突させる謀略工作を開始したのは、前年昭和九年の初夏であった。この年十月七日、広田弘毅外相(岡田内閣=同内閣は翌年二月の事件に遭遇)は、蒋作賓駐日支那大使と会談、日華提携の前提条件①排日運動の停止、②満州国の黙認、③共同防共=赤化防止政府を提示(広田三原則)したところ、支那大使は概ね同意した。しかるに蒋介石は戦後の回顧録『秘録』(十一巻、七〇―七二頁)で、広田三原則に同意した覚えは無い、広田が勝手に「支那も賛同した」と公表したのだ、我々は否定していた、と述べた。だが、「東京裁判」で日本を悪者に仕立てるために辻褄を合わせる虚偽の証言である。支那人は明白な史料が残っていても平気で嘘をつく、南京大虐殺三十万人なぞは平気の平左の嘘八百である。

 

第二節 華北分離工作への支那の抵抗――民族統一戦線結成工作の進展とその背景

 三五=昭和十年十月下旬、毛沢東の紅軍主力は、陝西省北部に到着した。(支那共産党史は、「英雄的大長征」と言っているが要するに逃避行であり、その間に凄惨なる内ゲバが続いて毛沢東がヘゲモニーを掌握)。この敗残集団である共産党を一挙殲滅せんと蒋介石は、西北剿共総司令部を西安に設置、自らが総司令、副指令に張学良を任命した。だが、張学良は乗り気でなく、寧ろ親の敵、満州掠奪の敵と恨みを重ねていて、「抗日救国」を提唱する共産党との連携を密かに進めていた。いや、寧ろ共産党側が張学良を丸め込んだのである。張学良にはコミンテルンから指令が出ていて軍資金と兵器の供与を受けていた。

 さて、満洲建国以後、支那の反発は益々強まり、日支間に小競り合いが絶えない。そこで、我邦は支那本部と満洲の間(華北)に緩衝地帯を形成しようと本腰を入れた(注・冀察政務委員会成立=委員長宋哲元。宋は華北省主席を兼ねた。また三六=昭和十一年四月一七日には華北治安維持に支那駐屯軍《通称、天津軍》を現在の千七百から五千七百に増強している)。これは「華北分離工作」と言われた(注・「華北処理要綱」という華北五省の自治強化政策案を政府が作成したのは一九三六=昭和十一年一月十三日)。満洲に支那の内戦が直接波及するのを防止するのが、我邦の意図であった。

 しかるに、国民党や支那共産党筋は、日本帝国主義は満洲掠奪だけでは飽き足らず、華北侵略・支那本部侵略を目指している証拠だと騒ぎ立て、それを受けて十二月九日(十二・九運動)、北平の学生らが「抗日救国」「華北分離工作反対」の大々的な示威運動を実行、運動は全国各都市に波及した。十二月十九日、支那共産党中央は「抗日民族統一戦線結成策」を決定した。年が明けて三六=昭和十一年正月、蒋介石は、「未だ外交的手段による失権回復は絶望的ではないが、時が来たれば抗日に立ち上がる事も有り得る」と演説した。

 このように情勢が目まぐるしく変転する中、二月から三月にかけて山西省方面の軍閥と戦闘中で劣勢だった毛沢東は、五月五日、周囲の状況を読んで突如今まで掲げていた「反蒋」のスローガンを「連蒋」に切り替えた(五・五通電)。八月二十五日、支那共産党中央は、公式に「反蒋・反国民党」の看板を下ろして、「共同抗日・建設民主共和国・回復国共合作」を表明したのである(八月書簡)。蒋介石の共産党掃滅作戦を思い止まらせようとの戦術転換だった。支那の激しい反日運動を米国の民主党系メディアも熱心に支援した。

第三節 西安事件――東アジア情勢の重大な曲がり角

 歴史というものは実に複雑怪奇なものである。大陸政策のギクシャクに激しい危機感を持った日本内地の陸軍青年将校の政府転覆のクーデタ未遂事件=(一九三六=昭和十一年)二・二六事件が起こった。これが支那の強硬な対日姿勢を一層促す作用を果たしたのは当然である。日本に敵対する諸勢力は、日本の政治状況の極度な不安定、内部分裂の兆候であると読んだのであろうし、それが「抗日運動」を超えて「抗日戦争」へとその意欲を高めた筈である。ソ連・コミンテルンそして支那共産党は間違いなく「抗日戦争」の確信犯であった。これに対し、蒋介石は未だに「抗日戦争」には半信半疑ながらも、共産党殲滅作戦をまず完遂しようとの決意は動いていなかった。

 共産党側が盛んに国共合作復活のサインを出し続けたのに対し、蒋介石は、この年の晩秋、北西剿共軍副指令張学良に全面攻撃を指令、十二月四日、督戦のため西安に乗り込み、副指令張学良および揚虎城らに共産軍攻撃を強化して三ヶ月以内に共産党を殲滅せよと厳命した。張学良が剿共作戦に不熱心だったからである。これが、再度のしかも共産党主導の国共合作への流れを促したのである。既に指摘したように張学良は、ソ連・コミンテルンや支那共産党と通謀していた。剿共作戦を中止して国共合作を回復し、「抗日戦争」に立ち上がろうと決意していた。ここに張学良の一世一代の大芝居が突発する。西安事件である。この事件は東アジア情勢の大転換点だ。事態の推移を時系列で確認しよう。

 ①一九三六(昭和十一)年十二月四日、総司令蒋介石、督戦に飛行機で西安に到着。この日から、張学良は剿共作戦を停止して国共合作を復活し「共同抗日」に立ち上がろうと蒋を説得し続けた。だが、蒋は頑なにそれを拒否して剿共作戦の即時強力実行を命令する。十二日、張学良は叛乱に踏み切る。陝西綏西司令揚虎城と共謀し、蒋を軟禁した。

 ②その日、示し合わせたように延安から周恩来が西安に飛来。蒋との折衝にかかる。毛沢東指導の延安共産党本部は、「蒋介石誅殺」を決議した。

 ③時を移さず、モスクワからスターリンの支那共産党宛電報が達した。「蒋介石を即時釈放せよ、さもなくんば貴党とは関係を断絶する」と言う厳命だった。蒋介石を人民裁判にかけて死刑に処し、西北抗日防衛政府を樹立する積りでいた毛沢東は、当時の力関係と従来の支配=服従関係からスターリンの命令に屈服せざるを得なかった。この時、延安は勿論西安でも「蒋介石処刑論」が圧倒的だったと言う。毛沢東はスターリンの厳命に接して地団太を踏んで悔しがったと言う。

 ④監禁された蒋介石と周恩来=中共からおよそ六項目の条件を呑まされた(田中正明『朝日・中国の嘘』一一一頁)。監禁二週間目の二十五日、蒋は釈放され、無事南京に帰還した。年が明けて一九三七=昭和十二年正月六日、蒋介石は剿共作戦を中止して西北剿共司令部を廃止した。二七年四月の蒋介石の反共クーデタ以来約十年の国共内戦は停止された。これでスターリンの東アジア戦略=日本帝国主義と蒋介石を激突させる戦略は軌道に乗ったと共に、支那共産党は殲滅の危機から脱出したのである。そして、西安事件の次に遣って来たのが盧溝橋事件である。

つづく

「『昭和の戦争』について」(七)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第三章 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

第一節 「満洲某重大事件」=張作霖爆殺事件(一九二八=昭和三年)

 先に見たように、田中義一内閣は、東三省に満洲人自身の努力による安定政権が樹立されることを期待し、満洲(奉天)軍閥の頭領張作霖を支援しようとしていた。しかし、現地関東軍将校には、張作霖は信頼できない、満洲支配を委ねるのは危ないと判断する者が多かった。その様な時期に、蒋介石の「北伐」攻勢に押されて奉天に退却する途次の張作霖を爆殺する事件が一九二八=昭和三年六月四日起きた(満洲某重大事件)。

 関東軍参謀河本大作大佐の策謀であった。河本らは、蒋介石が満洲を制圧するならば、日露戦争以来の日本の満洲権益に障害が生じることを恐れた。そこで、支那南北対立が生み出した事件に偽装して張作霖を葬り、東三省(満洲)を混乱させ、混乱鎮定に関東軍が出動して満洲・南蒙古をより安定した日本の影響下に置こうと構想した。これは明らかに日本政府=田中外交の構想を超えていた。外地での不祥事を昭和天皇から厳しく叱責され、田中は恐懼の極、頓死するに至った。田中の満蒙政策はこれで頓挫した。

 だが、関東軍の目論見も別な意味で大きく外れる。若造だから操縦し易いだろうと予想して張作霖の後釜に息子の張学良を据えたのが大誤算になる。張学良の背後には支那共産党、そしてその背後に鎮座するコミンテルンの影がヒタヒタト迫っていた。(注・コミンテルンの策謀説)

 蒋介石は六月八日、北京に無血入城を果たして、北京を北平と改称した。後は東三省(満洲)を残すのみとなった。蒋は、奉天(東三省)軍閥の新首領張学良を七月三日、安国軍総指揮官に任命した。間もなく張学良は蒋介石に服従を表明して、日本政府および関東軍を困惑させた。十二月二十九日、張学良は、蒋介石に完全服従した(東三省易幟=青天白日旗)。蒋介石の支那統一は略々ここに完了した。
当時の諸情報を勘案すると、蒋介石の常備軍は約二二五万(内、張学良の満洲軍は二六万)数的には世界最大の陸軍を擁していた。また、満洲方面を狙うソ連の常備軍は約一三五万、極東地区=蒙古・ソ満国境に約六〇満配備と言われる。ソ連は既に「モンゴル共和国」なる完全な傀儡国家を作っている。ソ連の次の標的は南蒙古・満洲・華北だが、大戦略家で慎重なスターリンは、満洲には日本の軍事力と支配権が安定していると判断、直接満洲問題に介入せず、支那本土に日本の落とし穴を構えるのである。

 他方、我が国の兵数はおよそ二五万七千、その内、関東軍はたったの六万五千だったのである。どちらの国が軍国主義国家だったか、一目瞭然ではないか。(ラルフ・タウンゼント『介入するな』一一三、二三六頁、藤原彰『軍事史』一六五頁) 

 尚、王国を再興しようと好機の到来を待ち望む清王朝残党の動向も見落とせない。亡びた清国皇帝愛新覚羅氏の出身の地=故郷は満洲である。支那本部の地を失った今、故郷満洲に帰還して国家を再建する動きも当然あった。

第二節 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

 さて、張学良の「易幟」は、我国の満洲政策に大転換を強いた。満洲における外国利権の回収を目標にする蒋介石が有利になったからである。そして、勢い付いた蒋介石は「革命外交」なる条約・協約を自分の都合で平気で裏切る外交に転ずる。この困難な時期に、内閣首班は政友会の田中義一から民政党の浜口雄幸に交代し(一九二九=昭和四年七月)、幣原喜重郎が外相に返り咲いた。これまた歴史の皮肉だ。幣原の「善隣友好・対支宥和」の外交信念は固かった。大幅に譲歩することで日支関係の円滑化を図ろうとした。切り札は、不平等条約改訂=関税問題で大幅に譲歩するから支那には日本の満洲権益を認め欲しいと言うのだった。

 さて、支那統一を略々成し遂げて、自信を深めた蒋介石の態度は強硬だった。日支外交好転のために支那公使に任命された幣原の腹心佐分利貞夫は、着任後間も無く帰国して、(箱根で)理由不明の謎の自殺を遂げた。本国政府=外務省と幣原融和外交を良いことに有る事無い事言い募る支那政府との板挟みの心労からと推測される。後釜に小幡酉吉が任命されたが、支那政府は小幡の公使就任を拒絶した(アグレマン拒否)。理由は、小幡が彼の「二十一か条要求」の作成作業と「日華条約」締結交渉に携わっていたからと言うのだった。

 カール・カワカミはその著書『シナ大陸の真相』で「幣原外交の問題点は支那人の物の考え方、取り分け彼が外相をしていたあの数年間における支那人の発想法を全く理解出来なかったことである」と指摘し、当時支那の外交姿勢は「如何なる支那に対する宥和政策も支那人の自惚れを助長させることにしか役立たない」と米国の支那研究家ロドニー・ギルバートの著書を引いて断案している。そして「実際支那は、幣原男爵が宥和や善隣友好などを口にしている正にその時に日本と結んだ条約を全面的に侵害する手段に訴えてきたのである」として、その条約・協定侵害事件のリストを掲げている(一一五頁)。

 なお、一九二九=昭和四年七月には、中東鉄道利権問題を巡り満洲軍閥張作霖と対立したソ連は、支那政府と国交断絶し、北満洲に進撃して、小戦争を演じている。ソ連の北満洲侵略と幣原外交の失策に危機感を深めた関東軍作戦主任参謀石原莞爾らが、一九三一=昭和六年九月十八日、柳条湖(満鉄線路爆破)事件を起こして満洲制圧に決起した訳である。これが満洲事変である。そして騎虎の勢、翌三二=昭和七年三月一日、満洲国建国に突き進んだ。確かに、政府の公式政策ではなく、出先関東軍の独走だったが、これはわが国内の問題であり、日支関係においてはやや強行策ではあったとしても、ソ連は関東軍との激突を不利と判断して兵を引いているし、当時の支那=蒋介石の対日強硬論に対する機先を制することによる、既得権益は防御されたのである。なお、満洲族の独立意欲に応えた側面も重要だった。

 さて、翌三三=昭和八年五月三一日、塘沽停戦協定が成立した。長城以南に非武装地帯を設定し、支那軍の撤退確認後、日本軍も撤兵すること、その治安維持には支那警察が当たること等が協定された。この時、蒋介石政府は、満洲国政府側と郵便・電信・電話、陸上交通、関税業務に関する協定も結んでいるのだ。協定調印は事実上の満洲国承認である。義和団事変から日露戦争そしてポーツマス条約で国際的承認の基に獲得した権益の防衛であり、その既得権益保護をより安全・確固たるものにしようとした正当防衛的な国策の推進であった。満洲事変はここで決着したのである。

 だが、蒋介石の国民党と支那共産党とは、日支停戦協定後も口裏を揃えて「日本帝国主義の侵略・略奪」は大問題だと内外に大々的に吹聴した。支那の巧みな国際プロパガンダ=情報戦術で日本は圧倒的に押し捲くられていた。条理を弁えない支那民族の性格から発する反日・侮日運動は益々猛り狂い、調子に乗った支那政府は、国際連盟に日本の「満洲侵略」を断罪してくれと提訴するのである。だが、共産ロシアの傀儡国家=モンゴル共和国に対しては口を噤んでいるのは不可解であるが、それは共産ロシアが支那を支援していたこと、国連には共産ロシアの回し者が潜入していたで、謎は半分以上解けるのである。

 なお、コミンテルンは一九三二=昭和七年にも日本共産党に革命指令(所謂「三二年テーゼ」)を発して天皇制打倒と指示しているが、日本官憲の共産主義者対策は当然強化されてきている。

 さて、国連はリットン調査団を満洲に派遣した。同調査団は、日本の満洲に対する特殊な事情や支那政府の数々の不信行為も認めたが、結論としては日本の軍事行動は支那への侵略であるとし、日支間に新条約の対決を勧告する報告書を纏めた。米国のジャーナリズムも盛んに日本軍国主義の支那大陸侵略非難を書き立て始めた。因みに一九三三=昭和八年三月、米国第三二代大統領に民主党のF・D・ルーズベルトが就任した。ルーズベルトは大の日本嫌・支那好きだったし、共産主義思想に共感を覚える人物だったことは、十分に注意深く確認しておく必要がある。

 我邦は国際連盟の決議に強く反発し、一九三三=昭和八年三月、国際連盟を脱退した。我が国政府は、「支那は完全な統一国家ではない。それ故、一般的国際関係の規範である国際法の諸原則を直ちに適用することは困難である。それにも拘らず、連盟諸国は、架空の理論を弄んで現実を直視していない」、と強く国連の姿勢を非難した。これは正論だったと言えよう。正に当時の政府が言ったとおり、国連は「架空の理論を弄んで現実を直視していない」。満洲事変・満洲建国は「侵略」と言う概念に合致しない。日清・日露両戦争以来、多くの尊い犠牲と労力と資金を投入して、国際社会の諒解を生真面目に獲得して、「生命線」の育成を図ってきた我国の立場は、英国などは実は理解を示すところだった。

つづく