「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(八)

 言論人は反政府的であるべし、と決まっているわけではない。それは古い考え方である。それでも言論人と政治家とでは役割が異なる。言語で表現するのと、行動で表現するのとの原則上の違いがある。

 昔は言論人は反政府的ときまっていた。福田恆存のような、自分は「保守反動です」とわざということがアイロニーだった時代に文字通りの保守思想界を代表した論客が、選挙で何党を支持するのかと問われて、自民党と答えず民社党と言っていたのを面白いためらいと思ったことを覚えている。

 この原稿を私は私の若い時代、60年安保騒動の思い出から始めたので、もう少し思い出を加えてみよう。さらに6年ほどさかのぼった昭和29年(1954年)に、私は大学1年で、第5次吉田内閣のたしか官房長官だった増田甲子七という人が駒場のキャンパスに来て大教室で講演をしたのを聴いたことがある。

 あの頃保守政党の政治家は学生にとっては「人間」ではなかった。会場は怒声で溢れていた。彼がなんの話をしたのか、まったく覚えていないが、次々と質問に立つ学生が「増田!貴様は・・・・」という調子で呼び捨てにするので、私はひどい連中だと秘かに彼らのほうに腹を立てていた。

 すると会場からひとり「失礼ではないか。呼び捨て止めろ」の声を挙げる者がいて、その一声で会場がサーッと波打つように静かになって、私がホッと安堵したのがはっきり記憶にある。

 当時の学生たちの「非常識」と「常識」の二面を見る思いがしたものだが、要するに保守政党の政治家は学生世論では悪の権化であり、人間の皮を被った化物なのであった。

 そのわずか2年前(昭和27年)の5月に皇居前広場で「血のメーデー事件」が起きていた。米ソ対立の代理戦争が日本の国内で白熱化していた時代だった。昭和35年はいうまでもなく60年安保で、アイゼンハウアー大統領の訪日阻止デモで私の友人の何人もが逮捕されている。

 そんな時代の空気をずっと吸って生きてきた私は、勿論まったく時代の風潮に反対であり、保守サイドに立つ私は彼らにとって裏切者で、悪魔の代弁者であったが、支持政党は何かと公式に聞かれると自民党とはあえて言わないで民社党と言った福田恆存の自己韜晦は非常によく分るのである。

 32歳の頃、私は国立大学の講師だったが、『国民協会』という自民党の新聞に一度だけ署名原稿を書いたことがある。誰かが見つけて来て、ドイツ文学界の中の私の評判はがた落ちになった。

 私だけでなく、政府に与するような議論を述べることに言論人は永い間逡巡し勝ちだった。いつの頃から情勢が変わったのだろうか。アメリカの影響だろうか。左翼が弱くなったせいもあろう。それでも、政府べったりの主張をする人間はみっともないという意識は、学者言論人の世界ではずっと普通だったし、今でも多分そうだろう。

 あの60年安保騒動の渦中にあった首相のお孫さんが総理大臣になったのかと思うと、昔を知る世代には感無量である。そして、知識人や言論人のブレーンの名が新聞に出ると、アメリカ型政治の影響であるとか何とかいわれても、半世紀でこうも変わるものかとこれまた不思議な思いが去来するのである。

 時代がどんなに変わっても、権力と知識人の間にはつねに一定の緊張が昔からある。また、なければいけない。言論人が個々の政策に口を出すのではなく、むしろ言論人が政権に黙って大きな立場から影響を与えるというくらいの存在でなければ意味がないのではないだろうか。

 言論人が政権にすり寄り、虎の威を借りて自説を補強するなどということは、最近の新しい現象かもしれない。それが言論の強化に役立つと考えるのだけは完全な錯覚である。

 それは次のような理由による。言論と違って、政治は無節操に変化するのを常とするからである。例えば安倍政権は拉致事件の解決のために中国と協議する必要上、靖国で妥協するかもしれないと不安がられている。私はそんなことはしない方が得策だという考えである。靖国で妥協してもしなくても、中国の北朝鮮政策は同じで、拉致が解決しないときは何をしてもしない。としたら、妥協したならば安倍氏は両方を失う可能性がある。そう思うからである。

 しかしそう思うのはどこまでも言論人の考え方である。政治家はまったく別の判断をするだろう。別の判断をしても仕方がないだろう。しかもそれを政治家は自分の責任においてやるだろう。言論人はこの種の政治的情勢判断を慎むべきである。民族の「信仰」の問題で他国との妥協はあり得るか否かの原則を応答すればそれでよい。

 新井白石や荻生徂徠が幕府から下問されて儒教の経書に照らして思想上の正否を述べ、それ以上口出ししなかったという態度にもこれは似ている。

 岡崎久彦氏が靖国の遊就館の展示内容をさし換えよという乱暴な発言をしたとき、文化界のある重要な立場にいる人が私に、岡崎氏は米大統領が安倍新政権にテコ入れするために二人で一緒に靖国参拝をする情報を知っていて、米大統領が参拝し易い条件をつくろうとしているのだろう、と言った。私は確かな情報か、と問い質した。すると彼は、いや、岡崎氏ともあろう人がこんな発言をするからにはそれくらいのことがあるのではないか、と、単なる観測気球をあげた。何から何まで人の好い、楽天的な、自分の好む方向を好意的に空想しているだけの話で、文化界にある人のこういう政治的観測、根拠なき情勢判断の甘さは何よりも具合が悪いと私は思った。

 言論人はこの手の政治情勢解釈を、できるだけ慎むべきである。言論人がある程度「反政府的」であらざるを得ないというのは、言論と政治の原則上の相違からくる。政治はどんどん揺れ動く。言論はそうそう揺れ動くわけにはいかないからだ。

 政治家のために言論人が奉仕すべきではなく、奉仕してもそれには自ら限界があるというのはここに由来する。

 竹中平蔵氏の運命をみても、政治に全面奉仕して、彼に残るものは何もなかった。不良債権処理と構造改革において政権の力で自分の理念を実行し得た、という自己満足は十分に残っただろうが、それが客観的に評価されるかどうかはまったく分らない。彼は政界に残っていても、安倍氏に相手にされず、もうやることがないと判明したので辞めたのだと思う。

 しかし彼は言論人であることを中止して政治家となった数少ない成功例である。彼は学者言論人にはもう戻れない。勿論、どこかの職場の一員としては戻れるだろうが、その言論活動は何を唱えても末永く「小泉」の名と結びつけて扱われることを避けることは出来ないだろう。

 学者言論人の政治との関わり方は難しい。前にも言ったが、黙っていてもその影響が政治に静かに作用しつづけるような存在でなければ本当は迂闊に政治について発言すべきではないのかもしれない。しかしその理想形態は孔子と魯国、ゲーテとワイマル公国のようなケースで、現代においてはほとんど不可能かもしれない。

 ここまで書いて9月26日を迎え、安倍新内閣の閣僚名簿が発表された。総じて私は好感をもった。経済閣僚の人選には竹中路線が感じられ、少し先行き不安だが、安倍氏が自分の思想的同志で固めたのは心強い。論功行賞などという必要はない。首相の意志がパッと伝わる陣形がつくられたのは能率的で、「党内党」がつくられたという趣きさえある。

 そこから当然問題が生じる。首相に力が結集するこの「集中力」は安倍氏のパワーに依るものではなく、前首相の野蛮な力の遺産である。前首相と異なる人柄の良さと明るさで野蛮の根はいま覆い隠されている。しかし「集中力」はいつかほどける時がくる。

 ほどけたほうがいい。ほどけて党内不統一が生じるのが自民党らしい民主的なやり方で、もし党内統一がますます強まり、国民を「束ねる」方向へどんどん進んだらまた別の危険が生じるだろう。

 自民党は昔から、陰と陽、明と暗、動と静のカラーの交替で危機を乗り超えて来た。前首相の遺産を受け継ぎながら、前首相とは正反対の仮面を新たに表に出して、世間の目に舞台を替えて見せるのである。

 野蛮の次は今回は礼儀正さである。パフォーマンスの次は地味な実務的効率の良さである。それで目先を替えて今回もうまく行くのかもしれない。

 いずれにせよ、閣僚の中に田中真紀子とか猪口邦子といったわれわれが嘲りたくなるような人物がひとりもいないということだけでも、ホッと一安心できてありがたい。

           (終)

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(七)

 「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と産経コラム「正論」(8月24日)に書いた岡崎久彦氏の靖国干渉オピニオンに、蛇足のように、初版『新しい歴史教科書』(代表執筆者・西尾幹二)への攻撃のことばがあえて意図的に、次のように挿入されている。

 過去4年間使われた扶桑社の新しい教科書の初版は、日露戦争以来アメリカは一貫して東アジアにおける競争者・日本の破滅をたくらんでいたという思想が背後に流れている。そして文部省は、その検定に際して、中国、韓国に対する記述には、時として不必要なまでに神経質に書き直しを命じたが、反米の部分は不問に付した。

 私は初版の執筆には全く関与しなかったが、たまたま機会があって、現在使用されている第2版から、反米的な叙述は全部削除した。

 岡崎発言は今回が初めてではない。昨年のたしか春ごろの『中央公論』と『Voice』で、岡崎氏は同様に語り、自分の削除で第二版『新しい歴史教科書』(代表執筆者・藤岡信勝氏)は教科書として完璧の域に達した、というような自画自讃のことばを列ねていたのを覚えている。今手許にないので引用できないが、そこには事実に反する無礼なことばも言われていて、私は当然腹を立てた。

 しかし「名誉会長」には言論の自由がない。私が反論の文章を書くのではないかと「つくる会」の理事の面々は心配し、抑止した。これから採択戦が始まるという時期で、執筆者同士の内輪の争いを外にみせてはいけない、というのだ。遠藤浩一理事が丁寧な書簡を私に送ってきた。「先生、お怒りでしょうが、ここはしばらく辛抱して下さるようにお願いします」と書かれていた。

 そういうことも分らないで偉そうに好き勝手な自慢を吹聴して、人を傷つけて平気な岡崎氏は教科書採択がどういうことか分っていないのだが、しかしもともとデリカシーを欠く人物なのである。

 周知のとおり、採択戦は完敗に終った。「つくる会」には課題が押し寄せ、私は岡崎氏にわざわざ反論を書く状況ではもうなかった。それに『中央公論』にせよ『Voice』にせよ、抗議の文を書かせてもらうのなら直後でなければならない。私は機会を逸した。

 すると一年以上も経ってまたしつこく、新聞で17行の上記の文章があえて意図的に挿入されたのだ。

 「日露戦争以来」の「反米的叙述は全部削除した」という初版本と第二版本の比較の仔細を私はまだ十分に調べていない。扶桑社の編集者にかつて岡崎氏の修正メモをみせるように要求したが、見つからないといって断られた。

 そこで、日露戦争直後の両教科書の記述を例にあげ、三項目に分けて以下に比較対照する。

 初版本257-259ページ、第二版本188-189ページからである。

初版本:日米関係の推移

 日露戦争のとき、ロシアが満州を占領することをおそれたアメリカは日本に好意的であった。ところが、日本がロシアにかわって南満州に進出すると、アメリカは日本の強大化を意識するようになった。また、19世紀後半より、太平洋への進出を始めたアメリカにとって、対岸にあって、強力な海軍を備える日本は、その前に立ちはだかる存在でもあった。

 一方、アメリカ国内では、中国移民やアメリカの先住民への人種差別が続いていたが、日露戦争終結の翌年、アメリカのカリフォルニア州で日本人移民の子どもを公立小学校からしめ出すという法律が制定された。勤勉で優秀な日本人移民への反発や嫌悪が大きくなってきたのである。

 こうした中、アメリカは1907年、将来、日本と戦争になった場合の作戦計画(オレンジ計画)を立てた。また、日本も同年に策定した帝国国防方針の中で、アメリカ艦隊を日本近海で迎え撃つ防衛計画を立てた。このようにして日米間の緊張は高まっていった。

 国際連盟が提案された第一次大戦後のパリ講和会議で、日本は唯一の提案である人種差別撤廃案を会議にかけた。この案は日本人みずからが重視し、世界の有色人種からも注目を浴びていた。投票の結果、賛成が多数を占めたが、議長役のアメリカ代表ウィルソンが、重要案件は全会一致を要するとして、不採決を宣言した。このことも、多くの日本人の反発を生んだ。

 こののちも、アメリカでは日本人移民排斥の動きが続き、多くの日本人はこれを人種差別と受け取った。

 

第二版本:日米関係の推移
 
 日露戦争後、日本は東アジアにおけるおしもおされもしない大国となった。フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となった。

 他方、日米間では、、日露戦争直後から、人種差別問題がおこっていた。アメリカの西部諸州、特にカリフォルニアでは、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事をうばうとして、日本人を排斥する運動がおこった。アメリカ政府の指導者は日本人移民の立場に理解を示したが、西部諸州の行動をおさえられなかった。

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛りこむ決議を提案した。その目的は移民の差別を撤廃することだったので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対した。米国は当初、日本に同情的だったが、西部諸州の反発をおそれて反対に加わり、決議は採択されなかった。* しかし、日本の提案は世界から多大の共感を得た。

 *日本の提案は世界の有色人種から注目をあび、投票の結果、11対5で賛成が多数をしめた。しかし、議長役のアメリカ代表ウィルソンが重要な議題は満場一致を要するとして否決を宣言した。

 ご覧の通り、第二版本では、二度にわたり、悪いのは「西部諸州」で、アメリカ政府ではないと述べ、「西部諸州」をおさえられなかったのはあたかもアメリカ政府ではないかのごとくである。なぜアメリカ政府を弁護するのか。

 日米関係を述べているくだりなのに、なぜオーストラリアを悪役として出してアメリカはそれほど悪くなかった、と言いたいのか。歴史記述なのだから、アメリカ政府のとった態度の結果だけを書けばよいのではないか。不自然なまでにアメリカの立場に立っている。

初版本:白船事件

 1908年3月、16隻の戦艦で構成されたアメリカの大西洋艦隊が、目的地のサンフランシスコ寄港をへて突如、世界一周を口実にして、太平洋を西に向かって進んできた。日本には7隻の戦艦しかない。パリの新聞は日米戦争必死と書き、日本の外債は暴落した。

 日本政府はあわてた。アメリカの砲艦外交風の威嚇の意図は明らかだった。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と区別し、白船来航とよばれる。日本政府は国を挙げて艦隊を歓迎する作戦に出た。新聞はアメリカを讃える歌をのせ、Welcome!と書いた英文の社告をのせた。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し、アメリカ海軍将校たちは歓迎パーティーぜめに合った。彼らを乗せた列車が駅に着くと、1000名の小学生が「星条旗よ永遠なれ」を歌った。

 日本人のみせたこの応対は、心の底からアメリカをおそれていたことを物語っている。

第二版本:歴史の名場面  アメリカ艦隊の日本訪問

 1908(明治41年)3月、16隻の戦艦からなるアメリカの大西洋艦隊が、世界一周の途上、日本へ向かって進んできた。当時、日本が保有する戦艦は7隻だったから、これは大艦隊であった。セオドア・ルーズベルト大統領は、みずから建設した艦隊の威勢を世界に誇示しようとした。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と対比して、白船とよばれた。

 日本政府は、国をあげて艦隊を歓迎することとした。ルーズベルトはアメリカの印象をよくしようとして、「品行方正な水兵以外は船の外に出すな」と指示した。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し、アメリカ海軍将校たちはパーティー攻めにあった。彼らを乗せた列車が駅に着くと、千人の小学生がアメリカ国歌「星条旗」を歌った。

 
 第二版本では「歴史の名場面」と銘打ったコラム扱いになっているが、この一文は無内容で、なぜ「歴史の名場面」とわざわざ呼んで特筆したのかこれでは分らない。載せる必要がない。

 アメリカ政府の公文書だけが歴史ではない。白船事件は太平洋における20世紀初頭の「海上権力論」が特記しているきわめて深い意味をもつ一エピソードであった。アメリカ艦隊が日本から離れて間もなく、日本海軍は小笠原沖で米艦隊の再来に備えて大演習を行なっている。

初版本:ワシントン会議

 1921年には、海軍軍縮問題を討議するためワシントン会議が開かれ、日本、イギリス、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギー、そしてアメリカの9カ国が集まった。この会議で、米英日の主力艦の保有率は、5・5・3と決められた。また、中国の領土保全、門戸開放が九か国条約として成文化された。青島の中国返還も決まり、同時に、20年間続いた日英同盟が廃棄された。

 主力艦の相互削減は、アメリカやイギリスのように、広大な支配地域をもたない日本にとっては、むしろ有利であったともいえる。しかし、日英同盟の廃棄はイギリスも望まず、アメリカの強い意思によるもので、日本の未来に暗い影を投げかけた。

第二版本:ワシントン会議と国際協調

 1921(大正10)年から翌年にかけて、海軍軍縮と中国問題を主要な議題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本をふくむ9か国が集まった。会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域に安定した秩序をつくり出すことだった。

 この会議で、米英日の海軍主力艦の保有数は、5:5:3とすることが決められた。また、中国の領土保全、門戸開放が九か国条約として成文化された。同時に、20年間続いた日英同盟が、アメリカの強い意向によって解消された。

 主力艦の相互削減は、第一次大戦後の軍縮の流れにそうもので、本格的な軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利な結論だったといえる。しかし、海軍の中にはこれに不満とする意見も生まれるようになった。政党政治が定着しつつあり、国際協調に努めた日本は、条約の取り決めをよく守った。*

*1922年、条約が成立すると、日本はただちに山東半島の権益を中国に返還し、軍事力よりも経済活動によって国力の発展をはかるように努めた。

 読者は以上の三例をよくご自分の目でたしかめ、削除や修正で内容がどう変わったかをとくと観察していたゞきたい。

 以上はほんの一例である。二つの教科書は他のあらゆるページを比べればすでに完全に内容を異とする別個の教科書である。初版本の精神を活かしてリライトするという話だったが、そんなことは到底いえない本になっている。

 「つくる会」の会員諸氏もページごとに丁寧に両者を比較しているわけではないであろう。リライトされ良い教科書になった、と何となく思いこまされているだけだろう。

 何のための教科書運動であるのか、今すでにしてもはや言えなくなっているのである。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(六)

 世界の政治の動きは私が考えているよりもずっと早い。総裁選の各候補者の演説のどこが良いとか悪いとか言って日本がもたもたしているうちに、外からドカーンと恫喝の声が届けられた。13日と14日のアメリカからの威嚇である。

米下院委、「慰安婦」で対日決議採択 責任認知など要求

 米下院国際関係委員会(ハイド委員長)は13日、第2次世界大戦中のいわゆる慰安婦問題に関する対日決議を採択した。法的な拘束力を伴わない決議形式だが、この問題について日本政府に対し、(1)歴史責任の認知(2)学校教育での指導(3)慰安婦問題はなかったとする議論への公式反論-などを求めている。

 決議は民主党のエバンス下院議員らが提出し、表現を一部修正のうえ採択された。慰安婦については「若い女性を性的苦役に就かせる目的で誘拐した」などと認定している。(ワシントン=山本秀也)

【2006/09/14 産経新聞 大阪夕刊から】

 新政権の扱いは最初が肝心とばかりに、脅しをかけて来たのであろう。靖国問題ならアメリカからすでに注文が出されていて、さして驚くに値しない。なんと例の「従軍慰安婦」問題である。しかも個人の意見ではなく、一委員会の決議採択であるからそれなりに重い。

 中国人のロビー活動が裏にあると想定されるが、厄介な事態である。決議内容の事実無根なること、過去十年の日本の言論界においてすでに論破しつくされていること、それゆえ今さらここで再反論に値しないことはことあらためて言う必要はあるまい。(そう思わない人は当日録の読者であるべきでなく、勉強をし直していたゞくほかない。)

 「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年12月に起ち上がったそもそもの切っ掛けはこの問題だった。安倍政権の発足直前に、中国からではなくアメリカから、教科書問題を振り出しに戻すように「慰安婦」問題の学校教育へのこのような取り入れ要求が出されたことは政治的に重大である。

 昭和20年代に米進駐軍用日本人慰安婦20万人余、巷にあふれたパンパンの群れ、処女狩りもあったという噂も耳にしている私の世代の日本人は、アメリカ兵常習の「慰安婦問題」をアメリカの「国際関係委員会」に告発したいくらいである。

 ひきつづき9月14日に、米下院外交委員会の公聴会でまたまた靖国問題が取り上げられた。

<米議会>靖国神社遊就館の展示に変更求める ハイド委員長

 【ワシントン及川正也】米下院外交委員会のハイド委員長(共和党)は14日、日本と近隣諸国に関する公聴会で、靖国神社にある戦史展示施設「遊就館」について「事実に基づかない歴史が教えられており、修正されるべきだ」と述べ、展示内容の変更を求めた。

 また、民主党のラントス筆頭委員は小泉純一郎首相の靖国神社参拝を「日本の歴史に関する健忘症の最もひどい例だ」と指摘し、「次期首相はこのしきたりをやめなければならない」と参拝中止を求めた。米国内には首相の靖国参拝による日中関係悪化を懸念する声があり、米外交に影響力を持つ両議員の発言は日米間に波紋を広げそうだ。

 ハイド委員長は「遊就館が第二次大戦は日本による西側帝国主義からの解放だと若い世代に教えていることに困惑する」と批判。ラントス議員は「A級戦犯が祭られている靖国神社への参拝はドイツで(ナチス幹部の)ヒムラーらの墓に献花するのと同じ。韓国や中国の怒りをあえて招くことをする限り、日本が国際社会で重要な役割を演じるのは難しい」と述べた。
(毎日新聞 15日12時00分)

 靖国とナチスの墓地を同列に置くような低レベルの内容であるが、戦史展示館「遊就館」の展示内容を批判し、「次期首相」の参拝中止を求めている記事内容は、岡崎久彦氏が8月24日産経コラム「正論」で「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と先走って書いていたテーマとぴったり一致している。やっぱりアメリカの悪意ある対日非難に彼が口裏を合わせ、同一歩調を取っていたというのはたゞの推理ではなく、ほゞ事実であったことがあらためて確認されたといってよいだろう。

 岡崎久彦氏は「親米反日」の徒と昔から思っていたが、ここまでくると「媚米非日」の徒といわざるを得ないであろう。

 問題はその岡崎氏が安倍内閣の外交のブレーンだと噂されていることである。「遊就館」の展示内容変更への靖国側に対する強要も、岡崎氏と手を組んだ安倍氏の意向であり、したがって「次期首相」の参拝中止を求めるアメリカの声にも安倍氏は威圧され、足がすくんでしまう可能性をも示唆している。

 中国や韓国からの圧力ならはね返すのは何でもない。小泉首相は中国と韓国だけが相手で、今度のように背後からアメリカに威嚇されるというケースではなかった。しかも、今度は靖国だけでなく、「従軍慰安婦」までも威嚇のタネとなっている。

 「靖国」と「歴史教科書」は二大タームなのである。この両方をゆさぶり、骨抜きにする計画は中国や韓国からアメリカにまで伝播した。いよいよ日本の正念場である。どうしても負けられない一線である。

 安倍氏よ、ここで日本男子であることを証明して欲しい。自民党総裁になった日に必ず記者会見で「靖国参拝をどうされますか」と問われる。世界中が注目している一瞬である。ひるむことなく日ごろの所信、「毎年必ず参拝します」と明言してもらいたい。この一語であなたの価値はきまる。そのためにはアメリカと口裏を合わせる怪しげな外交ブレーン、宦官のごとき卑劣の輩を近づけるな。

 もし万が一安倍氏が外圧に屈し、靖国参拝について姑息な言辞――言いわけや逃げ腰のことば――を弄したなら、この秋、日本には不穏なことが相次いで起こるであろう。

 上記二つの外信記事は「米中握手」の時代が近づいていて、小泉時代とは外交局面が変わりつつあることを物語っている。それだけに、日本が日本であること、およそ民族の「信仰」の問題で、両サイドのどちらからの威圧にも屈しない魂の表白を首相たる者、国民を代表してなし遂げなければならないのだ。「靖国」と「歴史教科書」のどちらも、外患に怯み、奸臣不逞の徒の手に委ねてはならないテーマなのである。

 じつは上記二つの外信記事は必ずしもアメリカの代表意見ではない。日本の新政権を揺さぶる外交戦略の一つにほかならない。まずそう考え、気持を切り換える必要がある。

 例えば、アメリカ軍備管理軍縮局上級顧問トーマス・スニッチ氏(産経、8月22日)は、次のように述べている。

米・軍備管理軍縮局元上級顧問 トーマス・スニッチ氏

 (前略)日本の首相が靖国参拝を取りやめさえすれば、中韓首脳会談の実現など、すべてが順調に運ぶという趣旨だが、こうした見解は間違っている。日本の事情や日本社会における靖国神社の意味を理解していないのではないかとも思える。

 小泉純一郎首相はこれまで何度、第二次世界大戦に関しておわびを述べてきただろう。この数年でも多くの日本の指導者が謝罪を繰り返している。あと何度謝れというのか。謝罪とは一度きりであるべきだ。
(中略)
 日本がドイツを手本にすべきだというが、これは不条理な話だ。冷戦時代に米ソがともに得た教訓を挙げると、ある国のモデルを別の国に移植することは不可能だ。米国は東南アジアで、ソ連はアフリカで似たようなことを試したが全部ダメだった。

 そもそもドイツは、戦後の分断国家であり、東西ドイツの国境がすなわちソ連軍との前線という状況だった。北大西洋条約機構(NATO)のメンバーだった西独は、他のNATO諸国との関係構築の上に戦後の発展を進めざるを得なかった。日本にはこうした状況はなかった。

 靖国神社が仮に地上から消え去ったところで、中国が他の問題で日本を問い詰めるのは間違いない。多くの国内矛盾を抱える中国にすれば、靖国問題は国内の注意を国外にそらして日本を指弾する格好の材料なのだ。次期首相が参拝を中止すれば状況が好転するとの見方はあまりに楽観的で、どうみても現実的とはいえない。

(08/21 産経22:11)

 新首相はこうした理解ある言葉をしっかり胸に秘めて、つまらぬ臆病風に吹かされぬようにして欲しい。

 ここで誤解のないように言っておくが、私は単純な「反米」の徒ではない。「外交」において親米、「歴史」において反米たらざるを得ぬ、と言っているまでである。戦争をした歴史の必然である。

 米英関係は今は親密だが、今でもイギリスの歴史教科書はアメリカの独立戦争をイギリスへの「反乱」と記し、ワシントンを「逆賊」と書いている。

 岡崎久彦氏は、遊就館の展示に戦争の原因をルーズベルト大統領のニューディール政策の失敗に見ている見方があり、これを「唾棄すべき安っぽい議論」として削除すべきだと言っているし、すでに削除は実行されているらしい。

 しかし、ならば氏に借問す。スミソニアン原爆博物館に、すでに無力化した敗北直前の日本への原爆投下の米側の動機は100万の米軍将兵の生命を救い、戦争を早期終結させるため、と書かれているそうだが、これも「唾棄すべき安っぽい議論」ではないだろうか。先にこちらの削除を要求すべきではないか。

 遊就館には戦争の原因がほかにも数多く書かれていて、ルーズベルトの経済政策失敗説はそのうちの一つにすぎなかろう。日本は戦争の動機を「自存自衛」と「アジア解放」に求めているが、アメリカは「侵略」と言い張っている。それでもわれわれは相手方の考え方に削除を要求できないでいる。

 日本における数多くの戦争の原因説明の一つに、アメリカにとって必ずしも全面的に賛成しかねる理由が述べられていても、「旧敵国」同士なのであるから、怪しむに足りないであろう。

 岡崎氏よ、なぜあなたは「公正」ぶるのか。それは公正ではなく「卑屈」ということなのである。

 日本の外交官にはつねに「卑屈」が宿命のようにつきまとっているようにみえる。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(五)

 いま新聞や週刊誌は誰が大臣になれるかなれないか、幹事長や官房長官の座を射とめるのは誰か、そんな話題でもち切りである。誰が大臣になっても同じだと嘲笑う一方で、誰それは必ず何大臣になりそうだとかなれそうでないとかの情報をまことしやかに、さも大事そうに伝える記事も忘れずに書く。

 マスコミの習性は昔から変わらない。そして学者や言論界の予想されるブレーンの名前を添え書きするのも毎回同じである。ただ今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」の紛争記事でおなじみになった名前、岡崎久彦、中西輝政、八木秀次、伊藤哲夫の名前がたびたび登場するのが注目すべき点であろう。

 当「日録」でしばしば扱われてきた方々が新内閣のブレーンとして重職を担うということになるのだそうである。もしそれが事実であるとすれば、「歴史教科書」をめぐって最近起こった出来事、すなわちかの激しい紛争と安倍新政権とがまったく無関係だと考えることは、どうごまかそうとしても難しいだろう。

 「日録」に掲げられた「つくる会顛末紀」「続・つくる会顛末紀」をお読みになった方は、「つくる会」紛争のキーパーソンが日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏であったことに薄々お気づきになったに違いない。旧「生長の家」の学生運動時代において、「つくる会」宮崎元事務局長と同志であり、「つくる会」元会長八木秀次氏とは師弟関係、あるいは兄貴分のような位置関係にあると見ていい人だと思う。

 思えば安倍政権の成立に賭けてきた伊藤氏の永年の情熱には並々ならぬものがあった。それは悪しき野心では必ずしもない。自分の政治信条を実現するうえで安倍氏は最も役に立つ、という判断に立っている。「安倍さんは自分たちの提案を一番聞いてくれる」と伊藤氏はよく言っていた。

 伊藤氏はシンクタンクの代表者であり、アドバイザーである。昭和天皇冨田メモ事件における安倍氏の記者会見の発言は伊藤氏に負う所大であると秘かに伝え聞く。これからも伊藤氏は安倍新内閣を側面から扶助し、相応の権力を分与される立場に立つであろう。

 伊藤氏がそうなることは氏の永年の夢の実現であり、昔の友人として私はそのような状況の到来を喜んでいる。氏は思想家ではないと自分で自認している。氏は言論人でもない。政治ないし政界にもっと近い人である。フィクサーという言葉があるが、そういう例かもしれない。故・末次一郎氏のような役割を目指しているのかもしれない。

 伊藤氏のような仕事を目指す方がこういう補完的役割を果すということは、それ自体はとても良いことなのだが、中西輝政氏や八木秀次氏は学者であり、言論人であり、思想家を自称さえしているのであるから、伊藤氏とは事情を異にしていると言わなければならない。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うであろう。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。

 読者が知っておくべき問題がある。八木秀次氏の昨年暮の中国訪問、会長の名で独断で事務職員だけを随行員にして出かけ、中国社会科学院で正式に応待され、相手にはめられたような討議を公表し、「つくる会」としての定期会談まで勝手に約束して来た迂闊さが問われた問題である。中国に行って悪いのではない。たゞ余りに不用意であった。

 折しも上海外交官自殺事件を厳しく吟味していた中西輝政理事に、会としてこの件の正式判定をしてもらうことになった。高池副会長が京都のご自宅に電話を入れた。その日の夕方、中西氏からそそくさとファクスで辞表が送られてきた。電話のご用向きは何だったのでしょうか、の挨拶もなかったので、会の側を怒らせた。

 上海外交官自殺事件その他で、中国の謀略への警告をひごろ論文に書いている中西氏が、八木氏の中国行きを批判し叱責しなかったら、筋が通らないのではないだろうか。書いていることと行うこととがこんなに矛盾するのはまずいのではないか、という中西氏への非難の声が会のあちこちで上ったことは事実である。

 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。けれども「つくる会」から逃げるだけでなく、もう一方の会からも逃げるのでなければ、頭隠して尻隠さずで、政治効果はあがらないのではないだろうか。とすればもう一方の会からは逃げる積りがないことを意味しよう。

 伊藤哲夫氏の日本政策研究センターは安倍晋三氏を応援する「立ち上れ!日本」ネットワークという「草の根運動」を昨年末ごろに開始している。安倍氏もそのパンフに特別枠の挨拶文をのせている。総裁選のための人集めと思われる。中西輝政氏も、八木秀次氏もそこに名を列ねている。

 すべてのこうした複数の名前が鎖につながれるように一つながりになって、「つくる会」を「弾圧」する側に回っていた背景の事情を、私はとうの昔に見通していた。しかし世の中は、安倍政権が近づいて、学者や言論界のブレーンの名前が新聞に出ないかぎり、どういうつながりが形成されていたかをなかなか理解しない。

 伊藤哲夫氏が「立ち上れ!日本」ネットワークのような特定政治家応援の運動を展開することは氏の自由に属する。氏の本来の仕事でもあるから結構なことである。

 私は伊藤氏のそうした政治活動を非難しているのではない。伊藤氏よ、間違えないで欲しい。

 そうではなく、伊藤氏が宮崎元事務局長を死守しようとして「つくる会」の人事権に介入し、八木秀次氏の「三つの大罪」(前回参照)を認めずに八木氏を背後からあくまで守ろうとして、一貫して「つくる会」を「弾圧」する理不尽な行動を強行したことを私は責めている。氏はこの事実をまず認め、反省してほしい。

 そして衆目の見る処、伊藤氏の「つくる会弾圧」の力の源泉は安倍晋三氏にあると考えざるを得ない。そのことが新聞に名が出ることで誰の目にも次第に明らかになってきた。

 総理大臣になる前に安倍氏がかねて最も大切にしていたはずの「歴史教科書」の会を混乱させ、分断にいたらしめたことに自ら関与しなかったにしても、結果的に、間接的に、関与していたという事情が次第に明らかになることは、安倍氏の不名誉ではないだろうか。

 「歴史教科書」と並ぶもう一つのタームである「靖国」に対しても、安倍氏は総理大臣になる前に、その遊就館の陳列の改悪に関して、岡崎久彦氏を使って手を加えさせようとしたのではないかという疑念がもたれている。

 私は今の処この件に関し背後の闇に光を当てる材料をもたない。しかし安倍氏ご本人が忙しくてどこまで自覚しているかは分らぬにせよ、伊藤哲夫氏や岡崎久彦氏のような取り巻きがこのように勝手に動いて安倍氏の首班指名前の歴史に泥を塗るようなことが起こっているのは事実ではないだろうか。

 私は伊藤氏が「歴史教科書」に関して八木氏が犯したような「三つの大罪」を犯しているなどとは全く考えていない。しかし、氏が「八木さんは悪くない。八木さんを支持して下さい」とあっちこっちで言って歩いていたのは間違いない事実である。

 以上のような八木氏の持上げは伊藤氏が安倍晋三氏の指示を受けてやったことなのか、ご自身の勝手な判断で安倍氏の意向を汲んでのことなのか、それともまったく安倍氏とは関係のない自由判断なのか。

 そのことは時間が経つうちに次第に明らかになるだろう。

 私は「つくる会」の紛争に安倍氏が無関係であったどころか、並々ならぬ関与があったのではないのかという疑いに一定の推論を試みているのである。「歴史教科書」と「靖国」という外交上の条件を新政権の成立前にともかく替えてしまいたい。その手先になって働く者は誰でもいいから利用したかったのではないか。

 安倍氏の靖国四月参拝は、小泉八月十三日前倒し参拝と同じ姑息な一手に見えてならない。氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせているのも気になる。今さら憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい。国民の反応よりも、アメリカの顔色をうかがっているのかもしれない。参議院候補者の見直しは唯一の勇気ある態度表明だが、もう恐いものなしと見ての党内大勢を見縊っての発言であって、総裁選より参院選の方が心配だからである。中国とアメリカへの彼の態度の方はいぜんとして不透明で煮え切らない。

 「歴史教科書」を新米色に塗り替え「靖国」の陳列にアメリカへのへつらいを公言した岡崎久彦氏への干渉は、安倍氏の意向の反映でなかったと言い切れるか。

 12月末中国を不用意に訪問し、定期会談を約束し、慰安婦や南京で朝日新聞を失望させない教科書を書くと「アエラ」発言をした八木秀次氏の軽薄な勇み足は、安倍氏の外交政策の本音をつい迂闊に漏らした現われでなかったと果して言い切れるか。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(四)

 7月2日の「新しい歴史教科書をつくる会」総会の終了後にいつものように懇親会があった。櫻井よしこさんその他が挨拶をした。櫻井さんはいつも来る顔である。この日は珍しい来賓があった。岡崎久彦氏である。

 岡崎氏は私が名誉会長であった間は総会に来たことがない。多分気恥しいひけ目があったからだろう。(彼は「つくる会」創設時には脛に傷もつ身である。)私が姿を見せなくなったら突然現われ、紛争について叱責調で、「つまらない争いはやめろ、一体何で争っているのか分らない。怪メールが非難されているが、自分には何が悪いことなのかまったく分らない。八木氏の中国訪問に何も問題はない」と語ったそうだ。

 伝え聞きなので正確を欠くかもしれないが、ともかくそういうことを言ったそうだ。櫻井よしこさんも「子供みたいな喧嘩は止めなさい」というたぐいのお説教を述べたそうである。

 櫻井さんの動機はよく分らないが、岡崎氏がここへ出て来て、偉そうにして、参集した「つくる会」会員を叱ったのは今からみるととても奇怪な話なのである。なぜなら、岡崎氏は内紛の一方の味方になって彼らにピタッと張り付いた、実は紛争の当事者の一人であることが次第に分って来たからである。

 子供たちが喧嘩をしている場に先生がやって来て、もう争いは止めなさいと喧嘩両成敗のふりをして、じつは先生が一方に勝たせるためにきれいごとを言っていたというケースにも似ている。

 先生はA君を勝たせたい。B君が勝つと先生の職員会議での立場がなくなる。放って置くと必ずB君が勝つ。B君の主張のほうが正義であり、A君は汚い手を使っているからである。A君の汚い手は世間に知られると学校の名誉が傷つきまずい。そんなものはなかったことにしてしまいたい。

 というわけで先生はB君の仲間が集っている教室にやって来て、「お前たち、子供みたいな喧嘩はやめなさい」と叫んだ。B君とその仲間を黙らせることがA君を救うことになり、結果的に学校を救うことになる。岡崎先生は校長からそういう指示を受けていたに相違ない。櫻井先生もあるいはそうだったかもしれない。小田村四郎先生はその長い教員生活で間違いなくそういう指令を敏感に受け取って忠実に実行することでよく知られている人だった。

 B君たちはどこまでも自分を貫きたい。しかしそう出来ない事情がある。学校をやめさせられると明日から困るという事情がある。本当はやめてしまいたいのだが、B君たちは学校から「歴史教科書を出版してもらう」という業務資格を与えられているからである。退学したいが、退学してしまうとその業務資格をも失う。

 岡崎先生はB君たちのその弱点を知っている。人の弱味につけこんで居丈高に振舞うのは卑劣の徒のすることだが、平成も18年に及ぶと、卑劣は正義の仮面をつけて大通りを歩む。

 岡崎先生の後に学校長がいる。そのまた後に誰かがいるのではないか。

 その誰かに秋波を送るために学園あげてせっせと卑劣の技を磨いているのではないか。多くの人はだんだんその全体事情が分るようになって来た。

 じつは昨日「つくる会」に関係する件で、ここでは語れない非常に不愉快な別件が起こった。私が信頼している地方の会員さんが悩んで、長いメールを下さった。(私は会を辞任して久しいのだが、今でも切実な言葉を訴えてくる方が後を絶たないのである。)

 その方が、どんな不愉快な出来事が新たに起こっても、八木秀次氏(いわずと知れたA君のこと)の会に対して犯した「三つの罪」に比べれば取るに足りない、と、次のように書いてこられた。

 「今問題になっているこの件ですが、再びつくる会の混乱を招くことは避けたい、というのが現在の私の心境です。八木氏の三つの大罪、つくる会会長の身分で勝手に訪中し、定期会合まで約束した。藤岡先生の共産党脱退の期日を公安の名まで出して偽り、陥れようとした。(これは刑事告発されるような問題と思います)。雑誌「アエラ」につくる会にとっては不倶戴天の敵朝日新聞に批判されない歴史教科書をつくると公言した。

このようなことが、なんら咎められることなく、日本教育再生機構の代表に祭り上げられる。そして多くの識者が臭い物に蓋をして平然と祝辞を述べる。正に虚偽の集合体と言うほかない。しかし、これが目の前にある現実なんだ、と肯定はしませんが認識せざるを得ない。今起こっている新しい問題は、これに較べれば軽いものです。

 B君のグループはこうして教室の中で静かに膝をかかえて、じっと忍耐し、推移を見守っている。つまらない喧嘩はやめろ、と岡崎先生も、櫻井先生も、小田村先生も言うけれど、「三つの大罪」を正すことがどうしてつまらない喧嘩だといって切り捨てられるのだろうか、と生徒たちは腑に落ちない。

 どうも何か新しい事態が起こりそうなのだ。新しい理事長が学園にやってくる。A君も、岡崎久彦先生も、小田村四郎先生も、伊藤哲夫先生も、否、学園の組織全体が妙な雰囲気になり、歯車が狂い始めているのはそのせいらしいのだ。

 常識では考えられないことが相次いで起こっている。紛争のどちらの側にも味方しないと言っていた新聞社がA君の仲間の記事だけを目立つ場所に掲げる。B君たちの大集会のあった「総会」の日に合わせてA君の新聞コラムを載せた。出版社はA君の本や岡崎先生の本をこれ見よがしに出すことも忘れない。

 と、そうこうするうちに岡崎先生は勢い余って、靖国にまで手を出し、B君たちの歴史観は正しくないと大見栄を切ることさえやってのけた。やがて手ひどい竹箆返しを食らう日もくるだろう。

 一番バカバカしいと思ったのはA君たちの「日本教育再生機構」のこの「日本教育再生」という文字が新理事長の赴任後の方針に出てくる文字と符合していること、集会の日に配られたパンフの表紙に大きな字で「美しい日本の心を伝える」とあり、これまた何処かで聞いたことばなんだ・・・・・・

 え?「美しい日本」・・・・・・「美しい国」・・・・・・どっちが先なの?どっちが真似したの?自分を新理事長に似せようとするこの涙ぐましい生徒達の愚行。新しい権力者に平然とすり寄る羞恥心の欠落!

 新理事長が学校に赴任したらいい大人たちが手に手に旗をもって歓声を挙げて走り寄るのであろう。美と、健康と、清潔を掲げるスローガン。ハイル!ハイル!何とか。

 学園内部の紛争は新理事長の自ら関知しないことだったかもしれない。しかし、その人の着任を知って、ありとあらゆる学内の組織と人事が「おべっか」の組織的自己調節を始めた。

 「歴史教科書の出版権」という業務資格はB君たちに対する生殺与奪の権である。「おべっか」の組織がこれを振り翳して理不尽な圧力を加えればそこに必死の抵抗が始まる。三つの大罪を犯した者に理由もなく(まったく理由もなく)一方的に特権を与えようとすれば、必然的に混乱と争乱が始まる。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛の真の原因はこうして次第に明らかになりつつあるといってよいだろう。

 たとえこれから何が起こっても、A君の「三つの大罪」への追及の手がゆるむことはないだろう。A君が権力者に取り入り何らかの目立つ地位に就いた暁には、「三つの大罪」はそれだけかえって大きくクローズアップされ、ひときわグロテクスな輝きを放つことになるであろう。

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(三)

 

 9月10日発売『Voice』10月号「安倍総理の日本」の中で、私が「まずは九条問題の解決から」を担当しています。6枚の短文ですが、『正論』の拙論「安倍晋三氏よ、〈小泉〉にならないで欲しい」の補説になっていると思いますので、ご一読賜り度。   西尾 

 7月2日に「新しい歴史教科書をつくる会」第9回定期総会が行われた。私は勿論出向いていないが、後に報告を受けている。

 「つくる会」執行部はその日ある文書を参加者全員に配布する用意をしていた。それは会の内外に波紋を呼んだ紛争の経緯を、会が責任をもって説明するための「総括文書」である。

 私も後で読んだが、冷静によくまとめられていた。勿論「つくる会」の立場から書かれたもので、会をそろって「辞任」した八木秀次氏以下六人の元理事たちの立場を反映したものではなかったかもしれない。だが、それがもし必要なら、六人が別個の「総括文書」を他の機会に出せば済むことであろう。

 双方言い分があって対立し、主張し合い、袂を別ったのであるから、立場の異なる二つの「総括文書」が作成され、世間の便に供されればそれでよいであろう。お互いの立場を理論的に明確にすることは大切なことである。

 私はそう考えるし、良識ある者はそう考えるのが普通であると思う。話に聞けば文書を用意した「つくる会」サイドの理事諸氏は新しいステップを踏んで、会を再建するためにも過去の足取りを再確認し、広く会員に理解を求めて、流布している誤解や勘違いの類を一日も早く取り除きたいと願っていたそうである。

 というわけで、件の「総括文書」は参集した約200人の会員に受付で他の資料と共に配られた。パラパラと中をめくって読みかける人もいたそうだ。

 総会が終わりにさしかかった頃タイミングを見計って、元官僚の小田村四郎氏が起ち上がった。そして言った。仲間割れしている場合ではない。左翼を喜ばせるだけである。二つの勢力が仲良くするためにはこの「総括文書」は邪魔になる。もうこんなことはやらないで欲しい。いま配られたものを回収してもらいたいと強い調子で主張したのだった。

 会場は騒然となったそうである。小田村氏は人も知る「日本会議」の最高幹部の一人である。執行部はうろたえた。ひきつづき西東京支部のある女性会員が起ち上がって、涙声で小田村氏支持のスピーチをした。

 その女性は、この資料が一人歩きをしてしまうので「総括文書」は抹殺して欲しい、もうこれからは先生方全員、週刊誌など一切の報道機関に内紛の経緯を書いて欲しくないなどと言ったらしい。この女性の発言にその場の空気は一遍に「総括文書」を否定的にとらえるものとなり、日本会議の重鎮である小田村氏の意見を尊重することこそ全員の意見であるかのようになってしまったという。

 後日判明したが、この女性会員は元「生長の家」活動家で、日本青年協議会のメンバーであり、つまりは全部組織的につながっているのであったが、そのときは誰も知る由がない。

 もはや会場は収拾がつかなくなった。執行部は大急ぎで鳩首会談を開いた。小田村氏の権威(?)と女性の涙の訴えに気押され、いったん配布していた「総括文書」を回収する決定に追いこまれたのだった。

 私の知るのは以上のような事実である。鳩首会談の内容は知らない。ただ、小田村氏に賛同した人々の声は私の耳にも届いている。「『つくる会』の内紛はもうやめてくれ。徒らに左翼を喜ばせるだけではないか。仲間割れしている場合ではないのだ。」

 私は内紛をきちんとやめるためにも、「総括文書」の配布は必要であったと考える。会員の多くが過去の「事実」を正確に知ることから再建が始まる。「歴史」を知ることから未来が拓ける。

 すべてをうやむやにしてしまえば皆が再び仲良く一つになれると思う小田村氏の考えは甘いし、紛争の実体を彼は余りにも知らない。(今ここでその実体を再説することはもうしない。)

 加えて、仲間割れは利敵行為になるから、保守勢力の「全体」のパワーの結集のために「小異を捨てて大同につけ」といわんばかりの小田村氏の号令は、日本会議を中心に据えたいわば軍令部司団長の発想である。政治主義的な発想である。教科書作成の会になじまない。

 私は半世紀前の、60年安保の日の大学のキャンパスを思い出していた。大学院生も学部の学生も区別はないと私は言った。大学院生である自分が国会デモに参加するかしないかだけが問われているのであって、自分以外の、学部の学生のデモ参加を声明文で支持するか否かが問われているのではない、と。

 すると柴田翔君は「君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている」と言った。誰かが「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と叫んだ。

 小田村四郎氏は私には柴田翔に見える。保守のありとあらゆる種類の会合に熱心に顔を出すこの老運動家は、60年安保の左翼革命インテリの顔に重なって見える。

 小田村氏は号令を発した。柴田翔君も号令を発していた。私は政治的な内容のどんな号令にも従う気はない。

 私だけではない。こと教科書作成に携わるような人は、内発の声にのみ従い、どんな号令にも従うべきではない。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(二)

 以上に見た通り、「政治的思考」とか「敗北主義」とかいう言葉は当時左翼革命シンパたちがとかく他人を罵倒するときに使う常套句であった。政治的集団の力を少しでも高めて革命のための政治効果をあげることが何を措いても大切で、それが「政治的思考」だという考え方に発する。

 半世紀後の今では「保守運動」とかいうものを信じている連中が「小異を捨てて、大同につけ」とよく言うが、この言葉は「政治的思考」とまったく同質、同根である。仲間をみんなかき集めて一つになれ、という方向を「宥和」という言葉で形容することもある。

 みんな同じ左翼革命シンパの常套句の裏返しなのである。

 その証拠に、彼らは二言目に、「敵は左翼だ。仲間割れしている場合ではない。一つにまとまれ。団結の力を示せ」とまるで人間を兵隊扱いする。昔の左翼の言い分そっくりである。

 敵は左翼でも何でもない。敵はそういうことを叫ぶ人の心の中にある。左翼なんか今はどこにもいない。保守の名を騙(かた)る集団主義者の方がよっぽど昔の左翼に近い。

 ある保守を騙る人間が、黒い猫も白い猫も鼠を取ってくれゝばみな同じ、渡部も小堀も岡崎も西尾も、鼠退治をしてくれゝばみな同じ、と言っていたことばを今思い出す。腹立たしいほどに間違った言葉である。

 どうも今保守主義と称する人間にこの手の連中が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。

 「日本政策研究センター」とか「日本会議」はそこいらを根本的にはき違えている。保守は政治の旗を振るために団体をつくってはいけないのだ。それは左翼革命シンパのやり方、その模倣形態である。

 戦後余りに左翼が強かったので対抗上保守側も組織をつくった。それがだんだん巨大化して、自分たちがいま、昔憎んだ左翼革命勢力と同じようなパターンにはまり、同じような集団思考をしていることに気がつかなくなっているのである。

 「小異を捨て大同につけ」はこういうときの彼らの陳腐な合言葉である。

 もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党をつくる方が筋が通っている。

 ところが「日本政策研究センター」や「日本会議」と自民党との関係は相互もたれ合いであり、関係が切れていない。一番いけないのは彼らは権力に弱いことである。彼らは独自の保守運動をしているのではなく、いよいよになると自民党の政策を追認するのみである。

 自民党がはたして今、伝統と歴史を尊重する保守政党かという疑問が私にはある。小泉政権より以後、ますますその疑問が強まっている。自民党は共和制的資本主義政党でしかない。今の資本家たちに国境意識はなく、愛国心もない。

 「小異を捨てて大同につけ」と言っている保守運動家たちがせっせとそんな資本家に奉仕している図は滑稽というほかはない。

 小泉政権が安倍政権になって、事態が新しくなるとはとうてい思えない。

 尤も「日本政策研究センター」と「日本会議」を同一視するような言い方をしたが、組織を握っている事務局が旧「生長の家」出身者であるという以上の共通点はないのかもしれない。「日本会議」は皇室問題で小泉政権の方針に反対する大集会を開いた。必ずしも権力に弱いわけではない一端を証明した。

 しかし「日本政策研究センター」は小泉政権の事実上の継承者である安倍晋三氏にぴったり張りついていると聞く。新しく出来る安倍政権の行方は未知数である。ことにアメリカとの関係が見えない。経済政策が見えない。

 権力に対し言論人はつねに批判的である必要はなくときに協力的であってもよいが、まだ動き出してもいない新しい権力にいち早く協力的で、批判的距離意識を放棄するのは言論人としての自己崩壊である。

 安倍氏のアメリカとの関係、経済政策がはっきりして、一定の見通しが立つまで協力的態度は慎むべきである。

 権力は現実に触れると大きく変貌するのが常だ。安倍氏の提言本に「美しい国」という宣伝文句が使われているのが、正直、私には薄気味が悪い。「美しい国」とか「健康な国」とかいう文字を為政者が弄ぶときは気をつけた方が良いことは歴史が証明している。

 安倍氏本人はこの危険について案外気がついていないのかもしれない。「所得倍増」とか「列島改造」とか言っていた時代の方がずっと正直で、明るく、むしろ実際において健康だったのである。

つづく