以上に見た通り、「政治的思考」とか「敗北主義」とかいう言葉は当時左翼革命シンパたちがとかく他人を罵倒するときに使う常套句であった。政治的集団の力を少しでも高めて革命のための政治効果をあげることが何を措いても大切で、それが「政治的思考」だという考え方に発する。
半世紀後の今では「保守運動」とかいうものを信じている連中が「小異を捨てて、大同につけ」とよく言うが、この言葉は「政治的思考」とまったく同質、同根である。仲間をみんなかき集めて一つになれ、という方向を「宥和」という言葉で形容することもある。
みんな同じ左翼革命シンパの常套句の裏返しなのである。
その証拠に、彼らは二言目に、「敵は左翼だ。仲間割れしている場合ではない。一つにまとまれ。団結の力を示せ」とまるで人間を兵隊扱いする。昔の左翼の言い分そっくりである。
敵は左翼でも何でもない。敵はそういうことを叫ぶ人の心の中にある。左翼なんか今はどこにもいない。保守の名を騙(かた)る集団主義者の方がよっぽど昔の左翼に近い。
ある保守を騙る人間が、黒い猫も白い猫も鼠を取ってくれゝばみな同じ、渡部も小堀も岡崎も西尾も、鼠退治をしてくれゝばみな同じ、と言っていたことばを今思い出す。腹立たしいほどに間違った言葉である。
どうも今保守主義と称する人間にこの手の連中が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。
「日本政策研究センター」とか「日本会議」はそこいらを根本的にはき違えている。保守は政治の旗を振るために団体をつくってはいけないのだ。それは左翼革命シンパのやり方、その模倣形態である。
戦後余りに左翼が強かったので対抗上保守側も組織をつくった。それがだんだん巨大化して、自分たちがいま、昔憎んだ左翼革命勢力と同じようなパターンにはまり、同じような集団思考をしていることに気がつかなくなっているのである。
「小異を捨て大同につけ」はこういうときの彼らの陳腐な合言葉である。
もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党をつくる方が筋が通っている。
ところが「日本政策研究センター」や「日本会議」と自民党との関係は相互もたれ合いであり、関係が切れていない。一番いけないのは彼らは権力に弱いことである。彼らは独自の保守運動をしているのではなく、いよいよになると自民党の政策を追認するのみである。
自民党がはたして今、伝統と歴史を尊重する保守政党かという疑問が私にはある。小泉政権より以後、ますますその疑問が強まっている。自民党は共和制的資本主義政党でしかない。今の資本家たちに国境意識はなく、愛国心もない。
「小異を捨てて大同につけ」と言っている保守運動家たちがせっせとそんな資本家に奉仕している図は滑稽というほかはない。
小泉政権が安倍政権になって、事態が新しくなるとはとうてい思えない。
尤も「日本政策研究センター」と「日本会議」を同一視するような言い方をしたが、組織を握っている事務局が旧「生長の家」出身者であるという以上の共通点はないのかもしれない。「日本会議」は皇室問題で小泉政権の方針に反対する大集会を開いた。必ずしも権力に弱いわけではない一端を証明した。
しかし「日本政策研究センター」は小泉政権の事実上の継承者である安倍晋三氏にぴったり張りついていると聞く。新しく出来る安倍政権の行方は未知数である。ことにアメリカとの関係が見えない。経済政策が見えない。
権力に対し言論人はつねに批判的である必要はなくときに協力的であってもよいが、まだ動き出してもいない新しい権力にいち早く協力的で、批判的距離意識を放棄するのは言論人としての自己崩壊である。
安倍氏のアメリカとの関係、経済政策がはっきりして、一定の見通しが立つまで協力的態度は慎むべきである。
権力は現実に触れると大きく変貌するのが常だ。安倍氏の提言本に「美しい国」という宣伝文句が使われているのが、正直、私には薄気味が悪い。「美しい国」とか「健康な国」とかいう文字を為政者が弄ぶときは気をつけた方が良いことは歴史が証明している。
安倍氏本人はこの危険について案外気がついていないのかもしれない。「所得倍増」とか「列島改造」とか言っていた時代の方がずっと正直で、明るく、むしろ実際において健康だったのである。
「自民党は共和制的資本主義政党でしかない。今の資本家たちに国境意識はなく、愛国心もない。」
西尾先生のこの御指摘に、現下の政権政党の本質的な危うさとその使命の終焉が如実に直指(じきし)されているものと思われます。
保守合同が「ポツダム諸政党」を「保守政党」に止揚させる随一の天機であったと思われますが、自主憲法制定の見送りとともに本来の面目をお蔵入りさせ、吉田某の子分の官僚政治家達や利権政治家ども頭の黒い鼠どもにカジリ尽くされ、消滅させられてしまったのが現在の自民党であると考えます。
来年の参院選を契機としての政界再編をどのように展望しても、真の「保守政党」の出現は、直ぐには期待できないと思われます。
妥協せず、付和雷同せず、先ず「教育」から正して、国民の中から「真の保守」を蘇生させる、それが今日只今の最も緊要な公案(課題)であると信じます。
8月15日の講演にもありましたが「小異を捨てて大同につけ」というのは、具体的に誰の発言なんでしょうか。椛島氏なのか、伊藤氏なのか、私の取材した限りでは、お二人とも西尾先生に直接そんな発言をしたことはないといっていますが、すると西尾先生の伝聞なのでしょうか。それとも解釈なのでしょうか。基本的に両組織とも、それぞれの運動方針のもとに「来るものは拒まず。去るものは追わず」のスタンスですし、運動の方向性の違うものを抱えていたら、組織運動自体が成り立たないでしょう。運動の方向性として、それが「総論賛成」を求める時期ならば、各論の意見の違いを越えて、まさに「総論」部分での合意で結集するでしょうし、論議が「各論」に入れば、各論の違いで「集散」が繰り返されるので良いのではないですか。要は方法論、運動論の違いだと思います。
もっとも、私が知りたいのは、西尾先生がそうおっしゃる以上、平成九年の「つくる会」発足というものを、現時点でどのように意義付けされ、総括されるのかということですが。
あの時は、「こんな教科書は許せない」という一念で結集し、具体的な方法論は当初から全く違った、いや念頭にも置かれていなかったのではないかと思うのですが。
誤認官さん
「小異を捨てて大同につけ」は、このブログでは、私がはじめて使ったのです。
をご覧下さい。
なお、私の意見は連載が終わった時点で考えます。
8月15日の講演を拝聴しました。今日に至る大きな節目には①政治資金規正法の成立(政党や政治家に献金するのが悪であるとする考えで自由主義社会の根幹である経済活動で生息している企業と政治を分断する働きの阻害)。②自民党社会党の野合による男女共同社会参画法(村山政権)③公職選挙法改正による小選挙区制導入(従来の派閥が事実上解消したことによる弊害)④政党助成法(国家による準政党管理化つまり全体主義体制に限りなく近づき政党政治ではないこと及び資金を握る党首が準独裁者に)⑤有識者会議による皇室典範改正の動き(根幹である皇室制度の消滅)等が徐々に真綿で首を絞めるが如く自由社会を閉塞させ全体主義社会への扉が開かれる条件が徐々に整えつつあるのだと考える。この事態を生じさせた勢力があり旗振りをし助長させた呆けた大衆社会あったのだ確認した次第です。
正論十月号を読ませていただきました。
ざっと簡単に感想を述べさせて頂きます。
文中に『国民は小泉が恐れているものを恐れている』とありました。
この表現はさすが西尾先生らしいニュアンスだなと思いましたね。
単純に『国民はアメリカを恐れている』と言っても、全く心に響きませんし、数年に渡り小泉批判を着実に展開された先生だからこそ出来る表現だと思います。日本が本当に警戒しなければならない相手は『米国』であることは間違いないのに、日本人はその神経を潰してしまいました。
いや、まだ再生可能だとは思いたいわけですが、このままでは不可能だろうと誰もが気付いているはず。
実際昭和50年頃までは、中国や韓国なんか眼中になかった日本人でありますが、何故か時を経て視線が完全に日本列島の西側を向くようになった。
あの時代我々は全てに於いて米国を意識し、善くも悪くも完全に頭の先から足の先まで米国の社会を凝視していた。
でも今はどうかというと、米国驚異論が燻りもしない状態になった。
それを先生は『日本国民が国家を意識し始めると、米国との争いを避けてしまう』(今手元に月刊誌がないため、正確な表現はできませんが)と語ってます。
確かに自分自身を問い質しますと、最後は安保保護の路線に迷い込むわけであります。この迷いは米国敵視を強調される日本人にも有り得る論です。
変な話しが左翼団体までが安保重視の路線に迷い込んでいます。
そして保守層の中でも『安保』という清書を踏み絵のごとく扱う論が強くあります。
この宗教の頑丈さは計り知れません。
ですから残された道は『大東亜戦争肯定論しかない』という先生の意見が、まさしく正論となります。
さてそのような絶対条件を安倍氏は歩めるのかどうか。
先生がおっしゃるように、昨年の選挙以降安倍氏の発言は微妙に弱くなりつつあります。それでもまだまだ期待感は強くあるわけですが、昨年の十月頃でしたでしょうか、安倍氏は郵政民営化をはっきりと肯定し、小泉改革をしっかり継承していく・・・と発言するようになります。
その気の弱さがはっきり現れたのは間違いなくミサイル発射騒動での発言であります。
つまり、このチャンスで日本の国益を120%上向きに走らせる事ができなかった。最後は米国の言いなりになった。
そしてミサイルに怯える日本人の感情を、アメリカの代弁者となって押さえ込んでしまった。
北朝鮮というチンピラ国家に立ち向かうのは確かに大事なパフォーマンスですが、その背後にいる本当の敵(米国)に油断を見せたわけです。
私は昨年の選挙の時に、安倍氏は沈黙を守った方が良いだろうと思っていたんです。
つまり、何がなんでも首相になってもらうには、今(当時)自民党を脱党するべきではない。何か発言したら小泉に不快感を持つ候補者の矢面になってしまう・・・と思ったからです。
しかし、先生はあの時こそ安倍氏は脱党し政界再編の立役者となるべきだったと正論に述べられております。
このような大胆な発想の裏付けは、その後の安倍氏自身の発言に現れてしまったわけですが、こうなりますと我々は自民党解体を望むしかありません。
小沢はそれを虎視眈々狙っているわけですが、その誘いには注意を払うべきであり、我々が訴えていくべき問題は、安倍氏の進化だと思います。
そこで私なりに意見させていただきますと・・・
『野球はすでにベースボールに勝った。日本人にしか為せれない事を、今こそ再確認し、実行しよう。』
左翼は、脳内が局所線形空間なので、論理的に非常にすっきりしている。
よって、纏まることが出来るし、思想を統一することも出来る。
(保守人間は逆で、多様性、複雑性を理解しているので、決してまとまらない。
従って、保守人間は彼らとは局地戦(議論)ではまず負ける。)
かつて、我が日本では、これらは左翼的考えは、学生までなら許されるが、
現実を知った大人の場合、未熟ということで排除されてきた。
また、単純論理ということで言えば、アメリカの大学でMBAをとったといった
連中でも、我が日本の企業では机上の空論として敬して遠ざけられていた。
ところが、現在の日本では、MBAを持った連中がのさばっている。
政治は彼らの望むかたちに会社、経済の仕組みを変革中である。
(会社法、株式法、銀行法など)
簡単に言えば、社会の単純化を目指している。
これが命を殺すことに繋がることは言うまでもない。
現在、所謂左翼は消えたようにみえるが、実は、保守といわれる人間の
中に左翼の残渣(単純論理)が色濃く残っている。
それは、彼らが一見保守に見えて、歴史伝統、文化、人間というものを
真剣に考え続けてこなかったせいである。
単に現実に流されたに過ぎない。(小人は面革すの類である)
秋篠宮妃殿下が9月6日に親王殿下をご出産されました。
心からお慶び申し上げます。
さて、西尾先生。西尾先生が「内省の声のみに従い、どんな号令にも従うべきではない」といっても説得力は残念ながらありません。つい前まで新しい歴史教科書を作る会の会長で号令を出す立場だったわけですから。もしもそのようなものが嫌であれば、はなからずっと名誉理事とか賛同人とかあくまでも個人の独自性を維持できる立場から新しい歴史教科書を作る会運動に携わればよかったのです。
私もよく日本会議や英霊にこたえる会から入会を勧められますがすべて断っています。私は該当団体の若い衆にこう言っているのです。
「自分はその手の団体には入らないけど友軍ではある。友軍こそが組織を発展させる。全員を組織に取り込むと組織は伸びない。」と。
最近、保守系団体は隆盛を極め若い衆が入会するようになってきています。若い女性で自分の名前を表題にして勧誘メールを出す人もいる。それは止めた方がいい。昔の若い男性はそれで「うひょー」となったでしょうが今は出会い系サイトの勧誘と勘違いして無条件でメールを削除される可能性があります。ちゃんと「○○について」と公式メールであることをアピールしなければなりません。
保守系団体は慢心しないことです。物乞いのように人を集めないことです。若き精鋭達の反乱をいい教訓とせねばなりません。