ゲストエッセイ
鳥取大教授 武田修志
九月も半ばになり、ようやく梅雨のような夏も終わろうとしていますが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過ごしでしょうか。
『西尾幹二全集第十四巻 人生論集』を読了しましたので、いつものように拙い感想を述べさせていただきます。
今回はこの一巻に、「人生の深淵について」「人生の価値について」「男子、一生の問題」と三篇の人生論が収められていますが、対談「人生の自由と宿命について」のお相手、池田俊二氏と同様、私も「人生の深淵について」を最もおもしろく拝読しました。341ページで池田氏が、「心の奥底をこれほど深く洞察し、心の襞をこれほど精緻に描いたものはどこにもないだろう」とおっしゃっていますが、全く同感です。
「人生の深淵について」は「新しい人生論」と言っていいのではないかと思います。または、「新たに人生論の可能性を開いた人生論」と。
どういう意味かと申しますと、三、四十年前までは人生論、あるいは人生論風の教訓的文章はよく出版されていましたし、読まれてもいたと思います。私も高校生から大学生の頃、比較的よく読んだように記憶しています。『三太郎の日記』『愛と認識との出発』といった一昔前の定番の人生論からトルストイ、武者小路実篤、佐古純一郎等、古今東西の人生論あるいは人生論風のエッセーですね。こういう文章が今や誰によっても書かれないし、また読む人もいません。言うまでもなく、こういう文章が、このニヒリズム蔓延の時代を生き抜かなければならない読者にとっても、全く無力だからです。
小林秀雄が、世間から「私の人生観」を話すように求められながら、「観」とはどういう意味合いの言葉かという話から始めて、明恵や宮本武蔵の話をすることで、間接的に自分の人生観を暗示したに留まったのは、昔ながらの「人生論」の無力、ストレートに自分の生き方を語る不可能を自覚していたせいではないでしょうか。西尾先生もその点では同じだと思います。何か自分はもう人間として出来上がっているかのように、高みに立って、読者に教え諭すように語る、そういう人生論は陳腐であり、不可能である、と。
それでは、現代においてはどういう「人生論」が可能であるか?
まさに先生の「人生の深淵について」は、そういう問題意識を持って書かれた「新しい人生論」ではないでしょうか。
「人生の深淵について」というこの標題が、先生のねらいがどこにあるかを語っています。人生の「深淵」、つまり、人が人生を渡っていく時に出会う「危機の瞬間」に焦点をあてて、人間と人生を語ってみようとしているのだと私は理解しました。人の心の奥底、心の襞を描くに実に巧みな焦点の絞り方です。そして、ここに「現代」というもう一つの視点を持ち込むことで、「怒り」「虚栄」「羞恥」「死」といった古典的テーマへ、先生ならではの洞察を折り込むことに成功しています。全編、これは本当に、読んでおもしろく、同感し、教えられるところの多い、名エッセーだと思いました。
以下に少しだけ、私が特に同感したところを書き写してみます。
「怒りについて」から――
「(現代社会にあっては)本気で怒るということが誰にもできない。・・・怒りは常に何か目に見えないものの手によって管理されている。」(15ページ)
「・・・怒りは、人生においては何を最も肝要と考えて生きているかという、いわば価値観の根本に関わる貴重な感情と言ってよいのではなかろうか。」(20ページ)
「孤独について」から――
「『孤独感』は自分に近い存在と自分との関わりにおいて初めて生ずるものではないだろうか。近い人間に遠さを感じたときに、初めて人は孤独を知るのではないだろうか。」(51ページ)
「理想を求める精神は、老若を問わず孤独である」(57ページ)
「退屈について」から――
「突きつめて考えるとこの人生に生きる価値があるのかどうかは誰にもわからない。われわれの生には究極的に目的はないのかもしれない。しかし、人生は無価値だと断定するのもまた虚偽なのである。なぜなら、人間は生きている限り、生の外に立って自分の生の全体を対象化して眺めることはできないからだ。われわれは自分の生の客観的な判定者にはなれないのである。そのような判定者になれるのは、われわれが自分の生の外に立ったときだが、そのとき、われわれはこの世にはもはや存在しないのである。」(80ページ)
・・・・・こんなふうに引用していくと切りがありませんのでやめますが、今回最も教えられたのは「羞恥について」の一編でした。そもそも「羞恥」という感情について反省的に考察したことが一度もなかったので、以下の章句には非常に教えられるものがありました。
「羞恥」は「誇りとか謙遜とかのどの概念よりもさらに深く、人間の魂の最も秘密な奥所に触れている人間の基本に関わる心の働きである。」(86ページ)
「羞恥は意識や意図の入り込む余地のない、きわめて自然な感情の一つである。羞恥は自ずと発生するのであって、演技することはできない。演技した羞恥はすぐ見破られ、厚かましさよりももっと醜悪である。しかし、謙遜を演技することは不可能ではない。謙遜が往々にして傲慢の一形式になることは、『慇懃無礼』という言葉があることから分かるが、羞恥にはこれは通用しない。人は謙遜の仮面を被ることはできても、羞恥の仮面を被ることはできない。ここに、この感情が人間の魂の深部に関わっている所以がある。」(87ページ)
「羞恥はより多く伝統に由来している」(92ページ)
そして、この羞恥という感情が払底しているのが、また現代であると。羞恥心といったものに自分が無自覚だっただけに、なるほどと納得しました。
さらにまた(これは池田氏が対談の中で指摘されていることでもありますが)この羞恥という感情がなければ、猥褻ということは成立しないという93ページに詳述されている洞察は、実に目から鱗が落ちるような一ページでした。「人生の深淵について」全体の中でも、先生の思考の深さと明晰さが格別光っている部分ではないかと思いました。
だらだらと長くなりましたが、この『全集第十四巻』の中で、「随筆集(その一)の部の一番末尾に置かれている随筆「愛犬の死」については、是非ひとこと言っておかなければなりません。
これは、先生がこれまでにお書きになったエッセーの中でも最も優れたものではないかと思います。小品ですが、実にやわらかな、流れるような文章になっていて、しみじみとした味わいがあり、私は三度読み返してみましたが、三度とも涙なしにでは読み通すことができませんでした。ひょっとすると、この一編が読者へ与える、人が生きて行くことについての、また、死んでいくことについての感慨は、残りの六百ページの人生談義が与える感慨に匹敵するかもしれないなあとも思ったりしました。小説をお書きにならない先生の名短編です。
(私の弟がたいへん犬好きで、今年の冬、愛犬を無くしましたので、この一編を読ませようと思って「全集第十四巻」を一冊送りましたところ、さっそく読んで、「とても感動した」とすぐに返事を寄越しました。)
今回はまた表面をなぞっただけの雑漠たる感想になってしまいました。ご容赦下さい。
今日はこれにて失礼いたします。
お元気でご活躍下さい。
平成26年9月10日
著者からのコメント
武田さん、いつものような好意あるご評文、まことにありがとうございます。
「人生論集」ということばで一冊をまとめましたが、仰せの通りこの題は正確ではないかもしれません。「人生論」という語には古臭いイメージがあるのでしょうね。ただ他に言いようがなかったので、こういう題目で一巻をまとめました。
巻末の随筆集について触れて下さったのは有り難かったですが、『男子 一生の問題』に言及がなかったのは少し残念でした。これは型破りの作品だったので、いつかまたご感想をおきかせ下さい。
今年は雨が多く、御地も大変だったのではないでしょうか。どうかお元気で。
草々