阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十三回」

(8-5)理想というものはあくまで現実を是認した上で、現実との葛藤(かっとう)を潜(くぐ)り抜けていなければその名に値しないのだ、

(8-6)頭のいい子であればある程、先生が何を望んでいるかを先読みしている。大人にはどう言えば喜んでもらえるかを子供は本能的に知っている。

(8-7)道徳観の育成や社会的躾(しつけ)に関する教育は、本来は親の責任である。なにもかも学校に頼るという日本人の習慣がおかしいのである。その習慣が教師たちに、徒(いたずら)に悲愴感を掻(か)き立てた「教育家としてのプライド」を与えて来たのではないのだろうか。

(8-8)あくまで学校単位、集団単位で人間を評価し、その単位の内部では極力成員を保護し、傷つけないことをもって「教育的」とする。しかし自分の属する学校という一つの集団の外では、他の学校の生徒を学校間「格差」によって判断し、評価し、きわめて恥ずかしい思いを与えて平気でいるのである。この隠された取扱いは日本の社会では黙認され、当然と見做されている。

(8-9)差別を撤廃することがいっそう大きな差別を生む。これはじつに示唆に富んだ心理的逆説ではないだろうか。

(8-10)日本の学校では生徒たちに劣等感を持たせないようにとたえず気を配っている。みんな同じでなくては嫌だという、個人が共通の〝場〟から外されることをひたすら怖れる心理がつねに支配的だから、学校が毀れ物に触れるような態度に出るのは、ある程度やむを得ない処置かもしれない。けれども劣等感なしで生きている人間など世の中にいない。劣等感を持つということと、劣等感に苛(さいな)まれて自分を滅茶滅茶にしてしまうということとは、明らかに別個の事柄である。劣等感が生徒の自己幻想を脅かさない限り、人間性をまで破壊してしまう事態は起こらず、従って劣等感そのものはあくまで有害ではないのである。

出展 全集第八巻
「Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育」
(8-5) P71 上段「第一章 ドイツの教育改革論議の渦中に立たされて」より
(8-6) P97 下段「第二章 教育は万能の女神か」より
(8-7) P103 下段「第二章 教育は万能の女神か」より
(8-8) P115 上段「第三章 フンボルト的「孤独と自由」の行方」より
(8-9) P155 下段「第四章 テュービンゲンで考えたこと」より
(8-10)P206 下段「第六章 進学競争の病理」より

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