『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の三

『月刊正論』7月号より 力石幸一

略奪資本主義とアメリカ

 西欧諸国による海洋の争奪戦を主導したのは、キリスト教カトリックとプロテスタントを代表するスペインとイギリスであった。

 スペインは、カール五世が1519年に神聖ローマ帝国皇帝に就いた時から、新大陸の略奪によって一気に大帝国に成長する。その過程で、インカ帝国やアステカ帝国は、スペインの圧倒的な武力と彼らが持ち込んだ伝染病によって滅んだのは誰もが知る歴史だ。しかしここで特筆すべきは、スペイン国内で、インディオの土地や財産を奪うことは果たして許されるか否か、その前にそもそも人間であるのか否かをめぐる熾烈な論争があったことだ。

 ドミニコ会士ラス・カサスとセブールベダという哲学者の間で「パリャドリッド大論戦」があったことは有名である。しかし、この論戦の文書は残されていない。そこで本書は、サマランカ大学の神学教授であったフランシスコ・デ・ビトリアの議論を取り上げる。著者は、ここで自分の解釈を述べるのではなく、ビトリアのせりふをそのまま紹介し、議論の臨場感を示そうとしている。ここにこの本の無言の自己主張がある。

 ビトリアは、インディオの権利を擁護し、万民法を国家の上位に置き、グロティウスらに先だって「国際法の父」と呼ばれた。ビトリアはすでに「人類」という言葉を使っていた。その知性はすでに近代社会を確実に視野に入れていた。しかし、ビトリアの目指した近代社会はどこまでもキリスト教世界の内側という限界のなかにあった。

 ヨーロッパ世界は、古代とは切り離されていた。そこにイスラム経由でアリストテレスの哲学がもたらされる。スペインにおける論争では、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの神学が強く意識されたが、それらを超えて議論の中核にあったのはアリストテレスだった。しかし、彼らはアリストテレスの「先天的奴隷人説」を奴隷貿易や略奪を正当化するために巧妙に利用した。ここに西欧の欺瞞があった。その論争の内容をいまここで解説することはできない。

 ただ言えるのは、西欧は、世界に空間と権益を拡大させていく一方、彼らの精神はキリスト教中世の中にとどまっていたことだ。そしてその呪縛は今も続いている。そのことが、現代のわれわれが抱えている困難の原因なのではないかと著者は問いかける。

アメリカという国

 西欧の500年は、つきつめて言えば、イギリスがスペインを追いかけ、追い詰め、追い払う歴史だった。イギリスの植民帝国のつくり方は巧緻を極めていた。徹底して「海」から「陸」を抑え込むという独自な知恵があった。海洋覇権の方法はそれぞれの国によって違っていたが、共通していたのは富の収奪による「略奪資本主義」が基本だったことだ。そして、資本主義の発展に伴って政治体制としての王国は終わり、近代の国民国家が生まれてくる。その行き着く先がアメリカという異形の国家だった。

 アメリカという世界史のなかでも特殊な国の歴史を掘り下げるために著者は、二つの命題を立てる。第一の命題は、「アメリカに国際社会は存在しない」というものだ。アメリカは国であるが、同時に世界でもあって、他国の干渉を嫌う一方で、他国には自国の価値観を押しつける。二つ目の命題は、アメリカは旧世界に比べて退廃していない、純潔の国だという自己認識である。つまり、アメリカとは表面上は普遍的価値を謳いながら、実際の行動は他を顧みない自分勝手な力の行使を辞さないという矛盾を内包した国だということだ。

 その国土の豊かさからアメリカは植民地を必要としなかった。しかし、リンカーン時代の国務長官であるウィリアム・ヘンリー・スワードはアメリカの覇権を確立すべく権益の拡大に努め、アメリカの支配領域を着実に増大させていく。1853年に日本に渡来したペリーは同時代人であり、彼もまた拡張主義者だった。

 アメリカの西方拡大をマニフェストデスティニーといえば美しく響く。しかし、ヨーロッパに対してはモンロー主義を言いながら、実際はアメリカの権益の西方拡大と覇権主義を進めるという矛盾に満ちた行動の正当化にすぎない。その背後にあったのはやはり千年王国論である。

 それではアメリカには中世があったのか、それともなかったのか。古代の奴隷制から直接近代に入ってしまったという見方もあればアメリカはいまだに「自分の身は自分で守る」しかない中世の暴力的世界のままだという説もある。著者は、あえてどちらとも決めていない。おそらくはどちらも正しい。それだけの大きな矛盾がアメリカという国の特異性の根底に存在すると理解すべきなのだろう。

日本の自己認識

 それでは、日本の500年はどうだったのか。西欧の500年と拮抗できるだけの歴史が日本にあったのか。

 著者は、呉善花氏の「日本はイデオロギーを持たない稀な国家」という指摘に足をすくわれるような衝撃を受けたという。韓国は仏教も陽明学も捨てて朱子学に転換した。ところが日本は八百万の神といいながら、何を基準にしているのかわからないというのである。

 この批判には、日本は自己を捨てて多角的にものを見てきたが、中国や韓国は自己中心的で他者に照らして自分を省みないと反論することも可能だ。しかし、日本は自分を無にして西洋近代に追いつこうと努力を重ねて大国の仲間入りをした。アメリカとの戦争に敗れたとはいえ、見事に復興を果たした。ところが今、西洋近代500年はほころびを見せ始めている。日本はどこへ進むべきなのかが問われている。私たちの原理とは何なのか。そこには日本人の自己認識という問題が横たわっているのではないか。

 17世紀にはアジアの海は騒然とし始めていたが日本列島の東側の太平洋は人影も島影も見えない北太平洋という闇が広がっていた。その地政学的条件が日本を守っていた。そこにわが国の250年に及ぶ優位と迂闊さ、合理性と手ぬかりという矛盾が象徴されていると本書は鋭く指摘する。世界からの無関心に安住した日本人の迂闊さは、江戸時代だけの問題ではない。今まさに目の前に同じ問題がつきつけられているのではないか。

 本書を通読して痛感するのは、歴史において他者を認識することがいかに難しいかということだ。そして同様に自己を認識することも。

 本書を手がかりとして、さらに日本人の歴史認識が深化することを期待したい。

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の二

『月刊正論』7月号より 力石幸一

世界史の大転換はなぜ起きた

 大航海時代という世界史における巨大な転換がなぜ起きたのか。なぜヴァスコ・ダ・ガマはアフリカの西海岸周りでインドへ向かう航路の発見という冒険に乗り出していったのだろうか。そこには大きな謎がある。

 イスラムによって不自由になった地中海を経由せずにアジアとの交易ルートを取り不自由にな地中海を経由せずにアジアとの交易ルートを取りり戻したいという経済動機を主因とするのが通説である。しかし本書はヨーロッパの精神状況にその原因を求める。「もっと大きくて重大な動機として信仰の試練があったのではないか」というのだ。ここに本書の中核的テーマがある。

 当時のヨーロッパは世界の辺境にすぎなかった。キリスト教徒たちは世界の終末が近いと感じ逼塞した心理状態にあった。その中心にあったのが、「千年王国論」だった。

 千年王国論には、三つの型があるという。前千年王国論、後千年王国論、無千年王国論である。

 前千年王国論は、キリストの再臨が先で、その後に千年王国が実現する。神の再臨を千年王国の実現の後に置くのが後千年王国論。前者は、革命によって理想社会がつくられるというマルクス主義的革命幻想そのものだ。そして後者は神は再臨するがそれには時間がかかるという保守的な漸進主義につながる。

 最後の無千年王国論は、千年王国はすでに教会の中に実現されているというアウグスティヌスの『神の国』の考え方であり、これこそがカトリック教会の立場であった。

 この千年王国における分裂は、キリスト教教会が誕生して以来の「正統と異端」の対立が宿命的に抱えている矛盾でもあったが、千年王国を希求するキリスト教信仰が海洋支配へと西欧諸国を駆り立てていった内部の暗い情念であったことに違いはない。

境界画定は西欧の発想

 西欧諸国による領域拡大に付随したのは、それまでの世界にはまったく見られなかった残酷さと暴力性であった。最初にアフリカ喜望峰周りの航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマは、ムスリムを虐殺するのみならず多数の住民を殺害しても顔色一つ変えなかったという。

 海はそれまで誰でも自由に航行できる空間だった。それなのにポルトガル人はインド洋に「ポルトガルの鎖」と名づけられた海上の囲い込みを実行した。貿易に従う船はすべて通行証(カルタス)を要求された。このカルタス制度によってインド洋に新しい帝国が生まれた。それまでの帝国は「陸の帝国」であったが、ポルトガル人がインド洋につくったのは「海の帝国」だった。まさにカール・シュミットの言う「陸の時代から海の時代」への大転換が起きていたのである。

 その最大の実現が、有名なポルトガルとスペインの間で結ばれた、地球を二分する「トルデシリャス条約」であった。

 「この幾何学的領土分割の『境界画定(デマルカシオン)』こそ、ほかでもない、すぐれてキリスト教的、西洋的観念の所産であり、世界の終末は近いというあの千年王国の幻想と危機感、自己破滅と自己膨張の一体化した、地球全体を神の名において統括し救済せんとする特異なイデオロギーにほかならない」と本書は特記する。

 多様な自然を尊重する日本を含む多神教の民族にとっては、自由な空間に境目をつけて自らのものにするという考え方は想像すらできない発想であった。

 マゼランたちが世界の海を征服しようとしている時、日本では、豊臣秀吉が世界制覇の野望を抱き、大明帝国に挑戦しようとしていた。

 日本の武威はスペインのフェリペ二世にも伝わり、彼をして日本との戦いを思いとどまらせたほどだ。しかし、秀吉には大明帝国を征服する意図はあったが、海洋を含む領土に境界をつくるという発想はなかった。そしてなにより決定的に欠けていたのは、キリスト教的千年王国という妄想だったのである。

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の一

力石幸一 徳間書店 学芸編集部

西尾幹二様

このたびは、大役をおおせつかり、汗顔の至りです。

なんとかご著書『日本と西欧の五〇
力石幸一 徳間書店 学芸編集部 〇年史』の書評をまとめてみました。

今回のご本は、あまりにも多くの視点から歴史をとらえられているので、どこに絞りこむかに相当悩みました。ドストエフスキーの大審問官のエピソードにからめて自由の問題にも言及したかったのですが、枚数も限られており、結局取り上げられませんでした。

本文の概要を説明するだけでも精一杯で、個人的な感想などもあまり入れられませんでした。

また、理解が及んでおらず、間違った解釈をしているところもあるかもしれませんが、ご指摘いただけたら幸いです。

なにとぞよろしくお願いいたします。

力石氏『正論』2024年7月号より

従来の歴史書の概念覆す衝撃の書

 これまでの歴史書の概念をひっくり返すような衝撃的な本である。歴史について多くの人が持つイメージは、一次資料に裏付けられた事実と、その事実を時系列に沿ってストーリーで語るというものだろう。E・H・カーは、「歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話」(『歴史とは何か』)だとする。いかにも優等生的な定義だが、そんな歴史が何の役に立つのか。歴史とはもっと暴力的で血なまぐさいものではなかったか。

 本書を出色の歴史書にしている大きな要因の一つは、「権力をつくる政治と権力がつくられた後の政治」を峻別したことだ。

 「どこかで権力がつくられた後、その後追い解釈で、ワシントン会議がどうだったとか、あれこれ議論しても、全部権力がつくられた後の始末というか、それをめぐる政治にすぎない。権力をつくる政治はこれとは別である。権力をつくる政治は剥き出しの暴力である」

 まさに同感だ。とりわけ戦後日本で語られてきた歴史とは、「権力がつくられた後の政治」にすぎず、今もまだそこから抜け出せていないどころか、その中にいることにすら気づいていない。「権力への意志」なきところに歴史はない。これまで歴史を読みながらずっと感じてきた違和感の正体はまさにこの点にあったことに改めて気づかされるのだ。

100年ごとに遡れば見えてくる

 本書は、歴史考察の時間軸もこれまでとはスケールを異にする。日本人は、「今次戦役の背景を知るのにせいぜい100年どまり」だったが、それでは不十分では不十分で、500年くらいは射程に入れなければいけない。まさに西欧近代500年そのものを問おうというのである。

 では西欧の500年を100年ごとに区切ったらどう見えるだろう。2015年を起点として、100年というと、1914年に第一次世界大戦が始まり、それを契機にイギリスからアメリカへ覇権が移動する。

 さらに100年をさかのぼると、ナポレオン戦争が終わり、ウィーン会議で西欧各国は絶対王政に戻ろうとするが、革命を知った歴史はもう元へ戻ることはなかった。

 その100年前には、1713年にスペイン継承戦争が終結し、スペイン=の1519年にスペイン=ハプスブルグ帝国はルイ十四世の手に落ちる。

 さらに100年前、1618年に三十年戦争が始まり、この戦争の結果ウェストファリア体制が確立し、主権国家の時代が始まる。

 その100年前の1519年にスペイン=ハプスブルグのカール五世が神聖ローマ帝国皇帝となり、太陽の沈まない帝国の基礎をつくる。

 このように100年ごとに時代を区切るだけで、西洋史の見通しがずいぶんよくなることに驚く。

 こうして西欧の500年を概観して、まず気づかされるのは、それが王朝の戦争史だったことだ。なかでも、カトリックとプロテスタントを代表する二つの王国スペインとイギリスである。五世紀にわたって一貫して覇権意志を示した両国が競い合ったのは、アジアの海洋における覇権であった。つまり西洋の500年とは、まさに大航海時代の幕開けとともに始まったのである。

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(三)

長谷川三千子氏(埼玉大学名誉教授・哲学者)より

 拝啓 このたびはご著書『日本と西欧の五〇〇年史』をたまはり、有難うございました。自分の原稿書きにかまけて、御礼がおそくなつてしまひましたこと、お詫び申し上げます。御論の通り、五〇〇年前といふ時期は世界的な規模での大変換が起った時期で、私はこれは(以前『ボーダレス・エコノミー批判』に書きました通り)端的な崩壊現象だと見てをります。アダム・スミスの「楽天主義」も、むしろ無意識の内にそこから目をそむけてゐたが故のもの、と私には見えました。

 いづれにせよ、現在の世の中は、空間の秩序が壊れ、人と地、人と物、人と人の関係が稀薄になって、回復の道はどこにも見えない状態―そんな気がいたします。こんな時こそミネルヴァのふくろうが飛び立たねばいけないのでせうが・・・・・

 しかし、膵臓ガンからのご回復、本当にようございましたね!

 私の大学での同僚も、十年余り前に膵臓ガンの手術をいたしましたが、その後元気で本を書いたり講演をしたりしてをります。「憎まれつ子、世にはばかるって言ふぢゃない!」といつも彼女を冷やかすのですが、どうぞ大いに「憎まれつ子」の実力を発揮して、お元気でおすごし下さいませ。

                    かしこ

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(二)

星野彰男氏より

追伸

 400頁を超える御著を拝読いたしました。こういう類書は日本史を除いたとしても、世界的にも無いと思われ、画期的です。欧米文明の暗黒史ですから、タブー視されて来たのでしょう。日本史側からも、少なくとも戦後には無かった。西欧世界のその暗黒史の見方に近い一例はスミス重商主義論です。彼はそれを『道徳感情論』では「ヨーロッパ人による人類史上、最も残酷な不正」(要旨)と言い、『国富論』でも「暴力的」と批判する。また、度重なる戦争を重商主義政策に帰します。

 英国が築いた貴論「海洋帝国」はWN(スミス国富論)の「植民地貿易の独占」批判にぴたりと符合します。前信でWN体系破綻説に反論するにはWN体系肯定説を採らざるを得ない、と書きましたが、同様のことはスミス本人にも言えそうです。つまり、彼は重商主義を「完全に除去」しようとし、それに取って代わるものが「自然的自由の体系」(「見えざる手」)とし、それを「ユートピア」とも言う。仮にそこに難点があると考えたとしても、その指摘をすれば、その分、折角の重商主義批判が割り引かれ、達成され難くなる。「楽観的」に見える根拠はそこにあろう。実際にはその重商主義批判は達成されず、その後、2度の世界大戦を含む史上最大の悲惨な事態を引き起こしてしまった。その点から見ても、「楽観的」とは言えまい。現時点でどうかは、また別の問題であろう。

 御著は「西欧」の暗黒史を総括的に鋭く解明した功績を認められるが、正にそれに取って代わるべき解決策に相当するのがスミス体系で、そこに社会科学の出番があろう。とすると、それは「楽観的」なのでなく、現実的なものであろう。そして改めてその妥当性が問われていく。他の代案があれば、それも一種の社会科学として受け止められていく。有無を言わさず、現実は戦後世界として動いており、その現実の実証的解明が必要とされていく。

 御著では欧米文化への肯定的評価も強調される。これは暗黒史の中から形成され、その論理を捉えた一代表例がスミス体系(市民社会)になると考えます。ルター等の「自由と必然」問題が大きな主題とされ、教えられますが、本件はヒューム(1739~)にもあり、スミス(1776)を介してカント(1781)が「二律背反」とした大問題で、時間・空間における有限・無限の矛盾律と同様に解決不可能とされた。ただしカントは「不定背進」(これに着目した例を寡聞にして知らない)により、その問題を経験的に論ずる他は無いと解した。これはWN体系視点の受容と思われ、経験科学の一拠り所を意味しましょう。

 マルサス(1798)以降はWN体系破綻説一辺倒で、ヘーゲル、マルクス等すべての論者がこの本来的な経験科学の実像を捉え損なって来た。こうしてその後の社会科学界は同破綻説によって、WN体系に含蓄されていた当の暗黒史告発から人々の目を逸らせて来た。御著は社会科学のその欠落を鋭く突いています。このような経過も含めて、御著の日本論を含む問題提起を改めて考えさせて頂きます。

2024年5月10日

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(一)


星野彰男氏より


 この度は、ご新著『日本と西欧の500年史』をお贈り下さり、真にありがとうございます。これも代表作の一つに加えられる力作と拝察されます。また、アダム・スミス論に関わり、拙著(2002)を挙げて下さり、光栄です。ただしスミスの楽観論を厳しく批判されたことについては、改めて検討すべき課題として受け止めます。

 各拙著の課題は単なる肯定的評価ではなく、従来、根本的に破綻視されて来たスミス理解への肯定的反論に終始してきました。その限りでは肯定的ですが、その内容の全面的評価については、後の課題として留保してきました。このように分けて考えないと、従来の破綻説を克服できません。仮にスミス説への批判点があるにしても、それを隠して、破綻していない=肯定する立場を採らざるを得ません。今のところ、この私見への本格的な反論は寄せられていないので、その論争の手間は省かれつつあり、それを踏まえてスミス説への本格的な評価または批判をこれから考えます。その場合に、貴見の「楽観」論も従来のそれとは根底的に異なる視点からの批判ですので、容易ならぬ思想史上、社会科学史上の大問題ですが、残り僅かな生涯をかけて考えたいと思います。貴著全体については、従来、タブー視されて来た根源的問題提起であり、文明批評でもあるので、これらを受け止めつつ、先の観点を交えながら拝読します。読後感はその後にお伝えします。

 今、直感的に言えることは、貴著の西欧文明批判とスミスの重商主義批判とがほぼ重なり、それは西欧人としての内部告発でしょう。それ故にマルクスのスミス批判が援用されて、当の破綻説が19世紀以来、世論化した。「神の見えざる手」解釈もその一端です。高校の教科書で定番だったその解釈は、前世紀末頃までにほとんど単なる「見えざる手」に書き換えられています。かつてはそういう信仰を経済学に持ち込んだという理由で、破綻説を正当化してきました。スミス批判にはそういう不純な動機があったと解され、拙著はそれを追及し、払拭しつつあります。今世紀初頭の「ダンバー宣言」は私見の解するスミス視点に沿うものです。

 関東学院大名誉教授・アダム・スミス研究家 星野彰男

西尾幹二、最後のメッセージ(三)


それは自由ではない

 結局のところ、西尾氏の苛立ちは西洋文明そのものよりも、それに正面から立ち向かおうとしなかった日本に向けられる。自分は日本人だという自覚がそうさせるのだ。例えば、16世紀以降、西洋がアメリカ大陸を「新大陸」と考えて覇を競っていた時代、当時、世界一の陸軍を持つといわれていた日本の織田信長も豊臣秀吉も、その後の徳川政権もこれに関心を持たなかったことを嘆いている。

《西洋文明がアメリカというものに総力を挙げて殺到していく長い時間に日本人は蚊帳の外にいた。西洋人の野心も夢もそしてまた狂気も、江戸・明治の日本人はつゆ知らなかった》

 秀吉については、明に戦いを挑み、朝鮮出兵したことを理由に狂気の人物のように描くのが多くの歴史本でもNHK大河ドラマでも定番だが、西尾氏は違う。

《秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ二世と同じ意識において世界地図を眺めていた。日本で唯一人の、近代の入り口における「世界史」の創造者として立ち振る舞おうとしていた》

 日本はなぜ西洋と互角に争えなかったか、西洋を凌駕し世界をリードする存在になれなかったか。そういうスケールの大きい問題意識がそこにある。

 何より、この本で最も考えさせられるのは自由とは何かということだ。現代の日本人は500年の歴史の果てに「自由」な社会にたどり着いた。民主主義のルールさえ守っていれば、宗教や道徳、慣習にも縛られず、自由に自己実現を目指すことができる。生きる権利は国が保障してくれる。しかし、知らず知らずのうちに何かに囚われて生きていないか。結婚も自由、子供を持つも持たずも自由、自分が男か女かを決めることすら自由でなければならないという風潮の下、社会自体が少子化で存続の危機に立たされている。これは本当の自由なのか。

《私たちは自分の意志で行動を起こし、自ら決断し、何ごとか決定したつもりでいることが少なくない。希望の大学に合格したり、目的の事業に成功したり、ことごとく自分の思う通りだった、と。しかしひょっとしてその人の遺伝と環境が良かったせいであったのかもしれない。…どこまでが自分の自由であり、どこからが不自由であるかははっきり定めがたい。何か原因があって、あるいは理由があって、決断し決定を下したのだとすれば、それは自由ではない》

 自由、自由というが、人間はその実、ときの環境や風潮、時代の精神に支配されずにいられない。自由はそんな簡単なもんじゃないんだ。こう、西尾氏に叱られている気分になる一節である。

 それにしても、「最後のメッセージ」と言いながら、西尾氏は雄弁である。ドラマで見る人間の最期は、たいてい一言、二言を残して息絶えるものだ。これは個人の希望的観測であるが、「西尾幹二」は死なず、これからも「最後のメッセージ」を発し続けるのではないかと思う。

西尾幹二、最後のメッセージ(二)

西洋文明の光と影・・・


 日本で歴史といえば、基本的に西洋は西洋諸国の歴史、日本は日本史として別々に考えられ、その2つが本格的に交わるのは明治維新である。その後は、西洋をお手本に近代化しようとする日本が道を誤り日米戦争に敗れ、民主主義国家に生まれ変わる、そういうお決まりのストーリーが描かれる。しかし、西尾氏の新著はまったく違う。

 これまでの歴史は、近代市民社会と民主主義を確立した西洋こそが理想像だという意識に囚われているというのが、氏の考えなのだ。

《日本人の理想としての既成のこの西洋像が今ぐらついて、根底から問い直す必要があるではないかと言っているのがもとより本書の趣旨ではある》

 この本では、15世紀以降の西洋(もちろん米国も含む)と安土桃山時代以降の日本の500年近くが並行して論じられ、西洋諸国がアメリカ大陸やアフリカ、アジアへ進出して現地の人々を虐殺し、奴隷にし、略奪しながら、キリスト教社会を押し付けていく姿が描かれる。宗教的な情熱の下に暴力と科学で異教徒をねじ伏せようとする西洋、それに対抗しようとせず明治維新後には従属していく日本が描かれるのである。

 こう書くと、まるで反西洋、反米、反民主主義の本だと思われるかもしれない。ひねくれた人は「西尾幹二は欧米の民主主義を批判することで、ロシアと中国の味方をしているのでは?」といぶかるかもしれない。しかしそれは違う。氏は冷戦時代に触れた部分でこうも書いている。

《私は……ストレートにソ連は嫌いで、中国には関心がなかった。相対的にアメリカがいいと思っていた。今も同じ考えである》

 西尾氏の真意は明らかだ。西洋文明であろうが、米国であろうが、民主主義であろうが、物事には必ず光と影がある。光の部分のみを見て、影の部分に目を閉ざすのは愚かなことだ。

西尾幹二、最後のメッセージ(一)

令和6年3月17日産経新聞オピニオン欄より


「日本と西欧の500年史」に秘められた怒り

 西尾幹二氏は怒っている。それは今の日本に対する怒りだ。

 最近は歩くこともできなくなった西尾氏は今、高齢者住宅で暮らす。体は日々衰えていき、普通なら気力も国家や社会への関心も衰えてもおかしくない。しかし、西尾氏はそうはならない。新著『日本と西欧の500年史』のあとがきでも時事問題に触れ、「現代日本に対する苛立ちや怒り」を書いている。

《人口が日本の八割ほどのドイツにGDPで追い抜かれ、日本は世界四位に転落しました。全ての災いは人口減少にあるやに思います。しかし「少子化」問題は男と女の間柄の問題であるはずなのに、カネを積めば解決する問題であるかのように扱われていませんか。日本人はパワーを失っただけでなく人間的知恵まで失ってしまったのでしょうか》

 日本の国力が急速に落ちた一因は人口減少にあり、豊かさと個人主義に安住する日本人の心の変化が社会活力の低下をもたらしているのだということを一顧だにしない日本の政治やジャーナリズムに怒っているのだろう。昨夏「西尾先生の体調がよくない」という噂を聞き、電話をかけたときも、電話口の声は少しか細くはなっていたものの、強い意志が感じられた。
「私は今度、新しい本を出すんです」
「先生、大きなご病気をやられて、入院中にも『西尾幹二全集』の校正をなさっていたのに、さらに新しい本ですか」
「いやあ、不思議なもんだねえ。いつの間にか書いていたのを、ある編集者が見つけてくれたんですよ」

 もちろん、「いつの間にか・・・・」というのは、氏の冗談である。今回の新著は西尾氏が月刊正論に平成25年5月号から、途中何度も休みながらも18回にわたって連載した文章を集め、加筆したものだ。といっても、過去の文章をホチキスでまとめたような本ではない。氏が不自由な体で筆を握り、新たな文章といってもいいほどに書き直した末に完成させた本だ。

 夏の電話のしばらく後、西尾氏の自室を訪ねたとき、氏は文字通り、机の上にかじりつくようにして、この本の推敲に没頭していた。「体が思うようにならなくて、時間がかかるんですよ」と口惜しそうに、原稿のゲラ刷りの上にペンを走らせていた。