小冊子紹介(十八)

小林秀雄『本居宣長』のこと(2):西尾幹二

 私が宣長でぶつかった最大の謎は今のこの、文字なき時代の言語生活のテーマではなく、儒学という合理主義の唯中における彼の信仰の問題でした。私が宣長の同時代人としてのカント、それにベルジャーエフを引き合いに出してなかば絶句したあの問題です。小林秀雄がこの点でカントを気にしていたという話も私は聞いたことがありません。

 そんなわけで、私が小林秀雄『本居宣長』を私の本の中でぜひにも取り上げ、論及する必要がなかったことは以上で明らかでありましょう。方法論も、アプローチの仕方も、目的とする叙述の範囲も、全然異なる別方向の本なのです。

 本の帯が誤解を与えたと思いますが、帯は商品広告です。武田さんは小林秀雄の愛読研究家で、そういう人は日本の読書界に多いので、あえて申し上げたい。小林の目を通して世界を見て、それを世界の全部だと思うのはもうそろそろ止めた方がいい。

 小林秀雄を先達として尊敬することにおいて私は人後に落ちないつもりですが――私の批評家としての出発点は小林秀雄論と福田恆存論とニーチェ論でした――人は自分が選んだ師匠を真に師匠として信奉していくには、師匠とはまったく違った、場合によっては逆になる道を一生かけて切り拓かなくてはならないのがむしろ宿命なのです。私のこの本が福田恆存『私の國語教室』に反旗を翻したことに読者はお気づきでしょうか。

 私は本書のあとがきで、すべからく研究家は江戸の思想家からの引用文に現代語訳を添えよ、と強調しました。武田さんとは別の、小林秀雄のある愛読研究家がいて、「小林は自分の引用に現代語訳などを添えたりはしない。そういう低級な読者は相手にしないのだ」と信者らしい言い方をしたからです。

 しかしこれはおかしい。間違った考え方だと思います。私の見る処、現代訳語を添えない場合には、私が引用したような徂徠などの難解で長大な文章の引用はこれを避ける、という傾向、引用に自ずと制限が生じる傾向があるように思います。

 江戸の思想のあるものは言語的に本当に近づきがたいものになっているからです。徂徠も難しいが、契沖はもっと厄介です。私は友人の国文学者と中国文学者の援けを借りてもなお解けない謎に再三ぶつかって往生しました。

 今なお困難な読みの探索は続いています。

 私は可能な限り平明に書くのが文章の理想と信じています。少なくとも引用文で読者を迷わせることだけはしたくないと思っています。

小冊子紹介(十七)

小林秀雄『本居宣長』のこと(1):西尾幹二

 武田さんから右の手紙に小林秀雄『本居宣長』のことが述べられていましたので、いい機会ですから一言書いておきます。

 江戸思想の研究家で西洋や中国と比較しないで日本一国に立て籠もる方法論の狭さは、ひとり小林さんだけでなく、日本のすべての研究家についていえることだと思います。私はあとがきでそう書いたはずです。

 武田さんは私が自著の中で特別に小林秀雄を取り上げ、評価するなりきちんと所見を表明すべきだといいますが、それは必要なら私以外の第三者がなすべきことで、私が自著の中で、わざわざそんなことをするのはおかしいのではないでしょうか。

 『江戸のダイナミズム』は本居宣長や古事記伝を論じた本ではありません。私の最初の関心は荻生徂徠でした。そこから入って清朝考証学に関心が移りました。「音」が近代中国の学問の中心をなすテーマであることを知り、徂徠がこの問題意識で中国の学者に先んじていることに驚きました。日本ではその後「音」のテーマは国学に移り、宣長から橋本進吉へ受け継がれていくことを私は学習し、漢字を使う両文明の精神史の一面として追跡し、その順序で叙述しました。

 文字なき時代の言語生活の健全さ、すなわち言語は音であることは、言語学のイロハであって、これは格別誰の思想とはいえない自明の話だと思います。地球上で知られる言語の数は約三千、文字は約四百です。「言語学ではとくに断らない限り音声言語のことを言語と呼ぶ」(463ページ)のです。私はホメロスなど古代歌謡が文字を使わないで制作されたこと、中国神話の伝承には盲人がある役割を演じていたこと、釈迦の教えは仏滅から五百年間も文字に記されないで語り伝えられたこと、古代中国では文字が足りないので音だけ他字から借りる仮借がおこなわれ、これは万葉仮名の確立とも並行する現象であったこと、など、文字なき時代の言語生活をいろいろな角度から論じ、その流れは日本の仮名遣い論にまで及びました。

 これらは一般的にいって宣長の学説から学んだことではありません。宣長から学ばなければ「言語は音である」とはいえないと考えたこともありません。まして小林秀雄からこの点で格別に新しい知識を得たことはありません。ホメロスも、中国神話も、釈迦の教えの伝承も、仮借も、小林が取り上げ、論述した問題点ではなかったはずです。

つづく

小冊子紹介(十六)

寄せられた読後感から

武田修志(鳥取大学助教授)(2)

 ここで、この書を読んでいる間、ずっと気になったことを一つ、忘れないうちに書いておきたいと思います。それは、小林秀雄の『本居宣長』について、やはり、正面切って、二、三ページでも、論ずるべきであった、ということです。「あとがき」に、「名だたる文芸評論家が」うんぬんとありますが、この名だたる評論家が小林秀雄であることは、先生の読者なら、大抵の人には分かるのではないでしょうか。僅かにこれだけ書いただけで、小林の方法論を、正面から批評しなかったというのは、この著作をいささか軽いものにしている――そういう感じを、私は少し受けました。

 中途半端に触れていると言うだけではなく、私などは、この『江戸のダイナミズム』を一読したとき、「小林秀雄の『本居宣長』が先行作品として存在しなかったら、この本は現在のものと相当違ったものになったのではないか」という印象さえ受けたからです。

 それというのも、この書はあとがきにあるように小林の方法論の欠点を批判するところに成立している(図面を引くというやり方)わけですが、それと同時に、多くの知見を、小林の本に負うていると推察されるからです。例えば先生の主張の一つである、我が国において文字なき時代がじつに長く続いたこと、その時代には、その時代で人間の精神生活は十全におこなわれていたこと、その、文字なき時代の言語生活も、ある意味で完全であったこと、こういう洞察は、その大部分が本居宣長の発見によると言っていいのでしょうが、しかし、これらの洞察を、深い理解をもってひろく我々に伝えてくれたのは、やはり小林秀雄であったのではないでしょうか。

 もちろん、小林の名を出さなくても、こういう知見の出所については、本居宣長本人を引き合いに出せば済むことですが、それでも一度は正面切って、小林の『本居宣長』を取り上げて、この書のすぐれている点と批判すべき点を、『江戸のダイナミズム』の中で取り上げるべきだったと私は思ったのですが、いかがお考えでしょうか。

 この本を拝読して、これから「西尾日本学」のような物が書き続けられていくのではないか、という感じを強く持ちました。

 勿論これまでも先生の日本史を見る視点には、独自のものがあったわけですが、この著作によって、多くの読者に先生独自の、未来を切り開く視点のあることが知られるようになってきたと思います。これは私のような一市井の人間にも「考えるヒント」を与えるものですが、広く学問界にもじわじわと影響を与えていくことになるのではないかと思います。

小冊子紹介(十五)

寄せられた読後感から

武田修志(鳥取大学助教授)(1)

 「あとがき」に「長編小説と思って読んで下さっていい」という言葉がありますが、確かに私はこの評論を一遍の長編小説のように味わったという感じがします。これは、信ずるものをことごとく失って混迷を深めている現代日本における、新しい自己探求の物語と言ってよいのではないかと思います。平成日本の「聖杯物語」ですね。どんな価値も根底から疑わざるを得なくなった主人公が、前人未踏の野へ歩き出した、その最初の本格的な旅路を描き出したもの――そんな印象を持って二度通読しました。

 ごく普通の言い方をすれば、この書が言っていることは、江戸時代の再評価ということになりますが、この本はそういう手堅い目的をはみ出して、今言ったように、日本人にとっての「聖杯」を求めての自己探求となっています。

 その理由の一つは、やはり著者が、多くの江戸時代再評価論者とは、時代認識のレベルを異にしていて、近代的価値そのものを根底から疑っているからでしょう。(たとえば25ページに「私は『近代的なるもの』それ自体が今の21世紀初頭に崖っぷちに立たされているという認識に立っています」という言葉が読まれます)。そして、どうして、著者がこういう認識を持っているかと言えば、学問するとは、単なる認識の獲得ではなく、同時に、学問するというこの人間的営為には、必ず自己の魂の救いと言うことがなければならないと考えているからでしょう。『近代的なるもの』は、人間の生において、無価値ではないけれども、究極的には人の魂の救いには無力です。

 この本において初めて敢行された批評的冒険は、日本を中心に据えて、単にヨーロッパと比較するのではなく、また、単に中国史・中国文化の影響を論ずるものでもなく、日本、ヨーロッパ、中国の三局を立てて、その精神の胎動、文化の動向を文献学というキーワードで締めくくるようにして、平行して論じたことでしょう。

 これは日本の学問界・評論界で初めて行なわれた試みではなかろうかと思います。これは極めて大胆な試みで、最初読んだときに、この本は何をテーマにしようとしているのか、いささかまとまりに欠けるという印象を抱きましたが、二回目に読むときには、この大胆な試みが、これまでにない、日本史、日本文化を見る視点を提供することになっていることに気づかされ、大変面白く、知的興奮を味わいました。

 先生のヨーロッパ文献学の造詣が深さは勿論知っていましたが、中国考証学についての御勉強ぶりには、全くびっくりしてしまいました。私などは、そもそも清朝考証学といってものがあることも、今回この書で初めて教えて貰った次第です。

つづく

小冊子紹介(十四)

寄せられた読後感から

早川義郎(元東京高等裁判所判事)
(西尾氏とは高校時代からの友人)

 昨夜、貴兄の大著読了。快挙と言うべきか、凄いの一語に尽きますね。読むそばから忘れるような読み方で申し訳ないけれども、老眼鏡を取り替え、前をひっくり返しては先に進むといった調子で三日がかりで読み終えました。しかし読んでいて、知的興奮を抑え切れぬものがありました。

 小生、これまで古典のテキストについて問題意識を殆ど持たず、荻生徂徠も本居宣長も読んだことがないという低レベルの読者ですが、西尾幹二という思想家(この言葉が好きかどうか知りませんが)のスケールの大きさと奥行きの深さにはほとほと感じ入りました。古代から現代へ至る日、中、欧にわたる膨大な文献、資料を探し出し、読みこなし、記述の背後にあるものを剔出したうえで位置づけし、採るべきものを採り、壮大な西尾史学・文献学の体系を構築した、その凄まじさに圧倒される想いです(おかしな表現ですが、二十頭ほどの犬(専門家)を巧みに操って知の極北を目指してひとり橇を走らせている孤高の男を連想しました)。

 『国民の歴史』の蓄積が基礎にあるとはいえ、よくぞこれだけのものをほかの仕事と並行させながら書き上げたものだと感心いたします。この本を読んだだけの(著者を見たことのない)読者には子犬にじやれって相好を崩している好好爺のじいさまは想像つかないでしょうね。

 また、中身の濃さはいうまでもなく、切り口も、語り口も軽快で、念を押すところはきちんと押し、そのお陰で難しい内容のものを愉しく読むことが出来ました。子安宣邦をやっつけるあたりは痛快極まりなく、思わず喝采を送った次第です。

 今日は、基礎的知識をうるため、早速、三省堂で萩野貞樹の『歪められた日本神話』を、古書店で中公新書の『古代アレクサンドリア図書館』を買ってきました。

小冊子紹介(十三)

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋
西尾 幹二 (2007/01)
文藝春秋

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寄せられた読後感から

東中野修道(アジア大学教授)

 江戸時代が論じられていながら古代と現代が浮かび上がって来ることに驚かされます。クローチェの言うように、歴史は現代史を思わされます。

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桶谷秀昭(文藝評論家)

 大変な労作で、しかも労作にとまなふ当方の負担感がなく、風通しのいい、颯爽たる行文、まことに魅力的な本です。

 ショォペンハウエルの訳業と論、以来の薀蓄がここに活きてゐる。ローマは一日にして成らずの感を新たにしました。

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池田俊二(元『通信協会雑誌』編集長)

 いま、二回目の真ん中あたりに来て、ほんたうに久しぶりに読書らしい読書を愉しんでゐますが、一言だけ感想を申し上げたくなりました。あるいは、御著を一言をもって評すれば、かういふことになるのではないかといふ気がして来ました。それは著者が『契沖伝』の久松潜一と全く逆の行き方をしてゐるといふことです。

 「契沖の作業場の姿が浮かんできません。日々彼が何に呻吟し、言葉選びにどういう工夫をしていたか、そこを書かなければ。。。」「肝心なこと―契沖の心がすっぽり抜けている」のに対して、御著では、あの膨大な登場人物が(勿論与えられたスペースに応じてではありますが)、全て活々と動いてゐます。そして「心」を見せています。彼等が何に苦しみ、何を喜び、何をごまかさうとしてかまで、相当程度見えます。これは著者が彼らの言動を手がかりに、能ふ限りの深奥まで分け入り、見たことの一端でせう。私には孔子の「心」まで、いくらか見えてきたやうな気がします。

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安本美典(日本古代史家、言語学者、『季刊邪馬台国』編集責任者)

 まことに興味深く拝読いたしました。
 「言語の根源は音であって、文字ではない」などは言語学のイロハだと思うのですが、それも通じない頭でっかちの方々からの言説は困ったものです。

 文字など、たかだかここ五千年から一万年に出現したものであって、それ以前の人類は言語らしい言語がなかったとでも、この方々は思っておられるのでしょうか。

 また文字なしで世界を半周以上するほどの大航海民族であったマライポリネシアの民族は、言語らしい言語を持っていなかったことになるのでしょうか。

 同封にて拙著『日本神話120の謎』を贈呈させて頂きます。

 西尾先生はどちらかといえば、本居宣長系で、私はどちらかといえば新井白石系なので、あるいは違和感をお持ちかとも存じますが。

 いずれにせよ江戸期に古典の探求についての重要な種がまかれているわけで、江戸期に光をあてることは、現在のわれわれを知るために重要なことだと存じます。

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、西尾先生の許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 4月4日、「江戸のダイナミズム」出版記念会の折に、受付で全員に配布された36ページの小冊子があります。その内容を順を追って紹介しています。

 また、この小冊子は非売品ですが、西尾先生のご好意により、多少残りがあるので、ご希望の方にはお分けしたいとのことです。希望される方はその旨を明記し、コメント欄にてご連絡ください。住所等個人情報は折り返しメールが届いたときに、メールに記述してください。

(文・長谷川)

小冊子紹介(十二)

書 評

注:小冊子には三分の一に縮小されていますが、ここでは全文を掲げます。(文・長谷川)

宮崎正弘(中国評論家):「宮崎正弘の国際ニュース早読み」2月19日号より
                        
平成の本居宣長の意味 (4)

 ▼『聖書』、『大学』『中庸』は、誰が書いたのか

キリスト教にしても本当は誰が聖書を書いたのか。しかも聖書の原文はギリシア語で書かれているのである。

 マルコ伝とロカ伝と、ほかに幾多の伝説が習合された聖書も、しかし、ローマ、ヴィザンチンに別れ、いや東方教会も流布した先の土地の伝統や習俗が加味されて、たとえばアルメニア正教、グルジア正教、ロシア正教となり、西欧では魔女狩り、ルターの宗教改革、英国国教会派、ピューリタン、プロテスタント。そしてモルモン教まで。

 そして二千年もの歳月の間に英語、スペイン語、ロシア語の聖典が現れ、聖書は日本語にもなった。

 それらは原文にある(筈の)、本当のイエスの教えからほど遠いものではないのか? だからこそ文献学がきわめて重要であり、学問の出発点であると、本書では何回も力説される。

 この箇所を読みながら、じつは本書にまったく出てこないイスラムを思った。
 
 コーランは、いまでもアラビア語で読まなければ正当なイスラム教徒とは認められない。原語に忠実でなければ解釈が分かれるからであり、そのためイスラム教徒のなかでも高僧をめざす人々はインドネシアであれ、フィリピンであれ、アラビア語を習得し、コーランを学ぶのである。

 翻訳に頼ろうとしないほどの苛烈熱烈な原義への欲求は西蔵法師が仏典の原典をもとめてチベットへ危険をかえりみずに冒険したように。

 西尾氏は文中にさりげなく次の文言を挿入している。

 「不思議に思えるのは、日本の儒教や仏教に文献学的意識が永い間殆ど認められない点です。江戸時代も中期、荻生租来(そらい)が古文辞学を唱えるまで、経学を孔子以前に遡って考え直すというテキストへの懐疑が日本の文化風土の中に一度でもあったと考える」のは難しいだろう、と。

 本書に展開される具体的議論は、読者それぞれが熟読しなければ、次のステップにいけないが、ここで網羅的な紹介をおこなうつもりはない。

 本居宣長と上田秋成の論戦の箇所は面白く、また赤穂浪士をめぐっての官学と民間の儒者らの論争も、今日的で意義深く、またそれらの記述を通じて、西尾さんが新井白石にやや冷たく、荻生祖来を高く買っていることもわかる。

 それは次のような記述からも。
 
 「悪しき官制アカデミズムの独裁者のような林羅山とその一統の権勢。君臣関係を主人と奴隷との関係と見て絶対の忠誠心を朱子学の魂とする山崎闇斉とその門人六千人の社会的圧力。朱子学の理念と武士道という思想的に相違するものを一元化し時代に都合のいいイデオローグを演ずる室鳩巣。いつの世にも外来思想と日本の知識人との関係はかくのごとし」。

だが、「新井白石と荻生租来はやはり群を抜いた例外」であった。

  白石は将軍のブレーンであり、国際情勢に理解のある学者だが、じつは朱子学をさんざん学び、それに染まらずに却って距離をおいて日本歴史の研究に没頭した。山崎闇斉のように朱子学の徒は手ぬぐいも赤く、という徹底した“唐かぶれ”ではなく、冷静なまつりごとを確立するために、朱子学の科学的合理的なところを抽出して江戸幕藩体制の安定に用いた。

 対照的に萩生租来は日本史に興味がなく、中国の学者以上に中国学を知っていたが、やはり儒学の熱気(というより狂気)にはおぼれず、巷の熱狂的情緒を押し切って、法治のためには赤穂浪士に切腹を迫ったように感情論には組みしなかった。君臣の序列のなかに「個」を主張した。

 つまりは中国と日本は儒教をめぐって、こうも違うのである。

  こうして新井白石と荻生租来に割かれたページはきっと本居宣長より多いだろうと思われるのだが、朱子学が江戸の御用学問となった一方で、江戸の革命の哲学となった大塩平八郎の陽明学が、この本で論じされないのは何故だろう。

 いや、抜き身のままの西尾さんの白刃(はくじん)は、それこそ陽明学という鞘を求めているのではないか。

 本書は小林秀雄『本居宣長』以来の大作であることの間違いはなく、本書のカバーに添えられた「平成の本居宣長」という惹句はそういう意味でもあるだろう。

(『江戸のダイナミズム 古代と近代の架け橋』は文藝春秋発行。2900円)。

 (注 言うまでもありませんが、荻生租来の「租」と「来」は行人扁)

小冊子紹介(十一)

書 評

注:小冊子には三分の一に縮小されていますが、ここでは全文を掲げます。(文・長谷川)

宮崎正弘(中国評論家):「宮崎正弘の国際ニュース早読み」2月19日号より
                        
平成の本居宣長の意味 (3)

 ▼重大命題は「いまの価値観」で当時を推し量る愚

 西尾氏はこうも言われる。

  「いかに江戸時代は躍進する時代であったか、もはやことさらに言い立てるまでもないが」、従来の「歴史教科書の記述と歴史教育学会の意識は、いまの知識の先端のレベルからいかに遅れていることか。古くさい情報、黴の生えたようなマルクス主義の理念にまだ囚われているせいではないか」と激しく固定観念を批判する。

 乱麻を断つ白刃。
 
 まして江戸と明治のあいだに「断層」はなかった、と西尾さんは結語、江戸時代は厳密な封建社会でもなかったのではないか、と問いかけて下記の重大な「命題」がでてくる仕組みになっている。

 「江戸時代を暗い前近代として否定的に描出することも、明るい初期近代として肯定的に評価することも、われわれの現在の立場や価値観を江戸時代に投げかけて、現在からみての一つの光景を作り出している結果といえないこともありません。しかしほんとうに江戸時代を生きていた当時のひとびととは、いまのわれわれの立場や価値観を知る由もありません(中略)。江戸時代の歴史を知るには、あくまでも完結した一つの閉鎖状態の人間の生き方をそれ自体として知るようにつとめ、明暗いずれにせよ現在のわれわれの立場や価値観の投影によって固定的評価に陥らぬように気を付けるべきです」

さて細かな話を飛ばして、江戸の安定期に、なぜ本居宣長がでてきたのか。

 それまでの体制御用、官製の儒学を乗り越えて、自立する思想家、国学の巨星がどういう時代背景から飛び出したかが、さらりと語られる。

 宣長論が本書の肯綮である。
 
 日本の神道は「自然なかたちで習合する思想」なれど、自立して闘う理論が弱かった。

「本格的に思想家として自己防衛したのは本居宣長一人であった」

 「宣長が『遠い山』と言った、肉眼ではよく見えない日本人の魂の問題は、ますます現代人の知性の限界からかけ離れて、どんどん果てしなく遠くへ逃げ去っていくように思えます。そういう時代にいまわれわれはあるといえないでしょうか。日本人の魂の問題を守ろうとした宣長の守勢的、防衛的姿勢は、日本人の主張のいわば逆説的スタイルとして、いよいよ必要とされる時代になっている」(227p)

本書の冒頭部分には長い文献学の説明がなされていることは述べたが、何故といぶかしむ読者がきっと多いだろう。これは後半の謎解きへと結節してゆくために読み落とせない前提なのである。

 キリストにせよ、儒教なるものにせよ、いったいイエスや孔子は本当のところ、何を教え、どういう中身を生徒らに喋ったのか。

 それはソクラテス同様にテキストが残っておらず、弟子達が孔子の教えとして数百年の歳月をかけて解釈をひろげていく裡に、大きく解釈の異なる流派がうまれ、儒学は侃々諤々の学問的論争と発展し(その実、学閥・セクト間の闘争でもあるのだが)、体制御用や反政府的な学閥がうまれ、集散離合し、主導権争いが産まれ、権力に近づき、あるいは疎外され、弾圧され、希有の運命をともにした。

つづく

小冊子紹介(十)

書 評

注:小冊子には三分の一に縮小されていますが、ここでは全文を掲げます。(文・長谷川)

宮崎正弘(中国評論家):「宮崎正弘の国際ニュース早読み」2月19日号より
                        
平成の本居宣長の意味 (2)

 ▼「平成の本居宣長」とは?

前置きが長くなった。
本書は近年の読書界を震撼させる爆弾を抱えた傑作である。
(ダイナミズムという表題にはダイナマイトも含まれている?)

 哲学的論争と文献学的論争と、国語学的論争を多層に輻輳させながらも、くわえて場面はソクラテスからニーチェ、ヤスパースへ飛んだかと思いきや、平田篤胤、北畠親房、山鹿素行。縦横無尽に登場する人々の思考の多様さ。

『諸君!』に足かけ四年に亘って連載され、さらに加筆、索引、注の作成に二年を費やされ、「平成の本居宣長」と銘打たれての上梓だが、その労苦を思わざるを得ない。

本書の構成は第一部と第二部に別れ、第一部は議論の前提となる「文献学」に多くが費やされる。

 登場する人物は「儒学者系列」は藤原せいか、林羅山、中江藤樹、山崎闇斉、山鹿素行、熊沢蕃山とつづき、同時に「国学系列」の契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、上田秋成、新井白石など。

 ここで儒学と国学が二大潮流として登場し、巧みな筆裁きで整理され、その江戸における思想対立、思想の深化などの対比がなされるのは当然にしても、本書はそこから、いきなり世界史的パースペクティブを拓くのである。

 同時代の中国の学者(黄宗義から康有為)から西欧の学者、思想家(ヴィーコ、グリム兄弟、ニーシェ、ブルクハルトなど)が飛び出してくる。私たちは世界史の視野から思想の遼乱をながめることができる。

戦後歴史教科書は「江戸」が反文明的で暗く、西欧に遅れており、文化度もひくいなどと教えた。

 近年、それは逆であって江戸時代の日本は世界に抜きんでた文明と文化、そして経済力を誇ったことが、あらゆる方面で立証されている。葛飾北斎や写楽が、西欧の画家にどれほど深甚な影響をあたえたか。

 武家政治も随分とあしざまに言われたが、近年は武士道が見直されてきた。
 
 西欧や中国のように暴君が独裁をふるう政治ではなく、日本の武士社会では、主君が「暴君や暗愚の殿様で出てきたときに、これを排除するために『主君押し込め』の構造があった」(中略)

  「江戸、大坂の巨大市場が成立し、徳川幕府の安定政権の下で貨幣経済が整備され、何よりも自前の貨幣鋳造が行われました。金銀銅の大産出国であった我が国は、銅の貨幣を中国、東南アジアその他に輸出するほどでした。かつて宋銭を輸入することで経済圏を中国に奪われていた日中の立場は逆転し、日本の銅銭に中国の経済が依存するようになっていました」と、西尾氏の視座は経済学の考察にもおよんでいる。

こうした何気ない挿入も、従来の概念を徹底的に破壊する。

 田中英道氏によれば、江戸の遙か以前、シナ大陸におくった遣唐使、遣隋使のことばかりを日本の歴史教科書が力説してきたが、じつは中国から日本に留学にきた「遣日使」のほうが数も多く、しかも多くの学僧が“日本のほうが良い国”として帰らなかったという。

つづく

小冊子紹介(九)

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋
西尾 幹二 (2007/01)
文藝春秋

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書 評

注:小冊子には三分の一に縮小されていますが、ここでは全文を掲げます。(文・長谷川)

宮崎正弘(中国評論家):「宮崎正弘の国際ニュース早読み」2月19日号より

 哲学、文献学ばかりか国語上の大論争を提議する大作の登場
  日本の保守論壇、本格的国学解析に久しぶりに揺れる
                      
平成の本居宣長の意味 (1)

 ▼ 西尾幹二氏の白刃は鞘に収まらない

 そこら中に屯する右顧左眄の学者、通説を吠えるだけの講釈師、偏執的学説に固執する徒らを片っ端から切り捨ててゆく西尾氏の白刃(はくじん)は鞘に収まらない。抜き身のままである。

 激甚な思想書としてこの本を通読した後の印象である。

本書を読み始めたのは国電のなか、思わず引き込まれてしまい、あやうく目的地の駅を乗り過ごすところだった。

 導入部分が意想に反して難解ではなく、怪しくもなく、語りかけるようなイントロは変調の講談風、すぐにとけ込めるのは筆者の凄惨なほどの筆力の冴えによるものだろう。

 多くの読者同様に(ト勝手に想像するのだが)、本書の題名、副題、カバーの惹句をみたとき、私の脳裏に去来したのは小林秀雄『本居宣長』だっだ。

 小林秀雄の『本居宣長』は、書き出しこそ「鎌倉の駅頭にたってふと松坂へ行こうと思った」から風の旅人のようにふらりと宣長に縁の深い場所へ詣でる歴史の旅が始まるのだが、それからが難解極まりなく、じつは私は小林秀雄の『本居宣長』を二回読んで、ちっとも咀嚼出来ず(つまり国学前史に遡っての素養がないと小林本は難しく、あれは「オカルト的」というのが負け惜しみ的な感想だった)、挙げ句に読後感といえば「山桜花」。

 むしろ松坂の宣長旧居跡を見学したおりにライバル上田秋成の「敷島の大和心となんのかの胡乱なこともまた桜花」という狂歌が、やけに印象に残った。

 ともかく西尾幹二氏の新刊もきっと難しいに違いないという名状しがたい先入観があった。

早々と入手した本書だったのに、導入部を読んだ後、面白そうという熱い期待感を脇に、仕事に追われてページをあける時間がなく、ついには中国取材に八日間ほどいくので、旅先のホテルで読み繋ぐことに決めて鞄のなかに仕舞ったのだった。

もうすこし脱線がつづく。

  いつ取材に行っても新鮮なおどろきが連続する中国。

 一月下旬から二月にかけて、華南の地を廻った。香港からいきなりマカオへ渡り、孫文の故郷でもある中山から、華僑の故郷・江門、開平、それから仏山経由で広州へ入り、恵州から深セン、最後に香港へ舞い戻って帰国。八泊・九都市。

 華南の各地は爆発的な経済発展、あらゆる場所が普請中である。

 ふと脈絡もなく、江戸と、いまの広東のダイナミズムには、なにか共通性があるだろうか、と考えた。

広東の繁栄、建築ブームの醍醐味、超満員のレストラン、庶民の生活の向上など。その経済という物理的側面の凄まじいダイナミズムに遭遇しながらの旅行中、本書のなかに演繹されるダイナミズムのほうも、すこしづつ読み進めて、最後は広東省の恵州から深センへ向かう長距離バスのなか。恵州・西湖はかつて蘇東波が感嘆して多くの詩をのこした風光明媚な景勝地である。

 その西湖の湖畔の柳の下で読み続け、最後のページは珠海デルタ地帯を突っ走るバスの中。一方では左右の景色はにょきにょきと林立する摩天楼やら、迅速な開発が進んだ工業団地、マンション群、瞠目するべきショッピング・アーケードのまばゆさ。

(嗚呼、それにしても“脱中華文明”の中国の都会には、なんと美がないことか!)

 そうした繁栄のぶっきらぼうな景色を眺めながら本書を読み進めると、対照的な静けさをもつ、この『江戸のダイナミズム』が醸し出す美しい日本の力強さは、時空を超越し、思考の空間がいとも簡単にタイム・スリップするのだ。

こんな記述が中国と日本を比較してある。

 それは儒教を発見した西洋人のくだりである。加地伸行氏が「沈黙の宗教」と比喩した、この中国特有の道徳律は、布教活動がないために西洋人は長い間、存在すること自体に気が付かなかったと西尾氏はいう。

「孔子は宇宙の開闢という神話的哲学的テーマに口を閉ざして」いるため、西洋人は、見逃していた。ただし大航海時代の冒険者らは、世界のおいたちに関して、「孔子が語らなくても、中国には特異な考え方が存在する」事実に気が付く。それは「キリスト教の神による創造の思想によく似た思想は存在しないことをあらためて確認する」(368p)。

 そして。
 東西交流の歴史上、マルコ・ポーロとならぶアテオ・リッチ(イエズス会宣教師)が登場、かれが「中国の哲学や宗教の中心が儒教であることを発見」するのである。
 というのも従来の西洋からの観察者は表向きの寺院や僧侶に関心を抱くけれど、「毎日の勤行や葬送など、仏教の活動であって、政治と密着し、日常性格の内部に食い込んでいる儒教がキリスト教に対抗しうる国家宗教であることを西洋人が理解するまでには、それなりの時間の経過と、知性の出現を待たねばな」らなかったからである。

 なぜなら儒教には、
「祭祀や僧侶がいない上、掟も戒律もなく、高位聖職者もいない」。古代より中国の信仰は「天」にあるが、これをリッチは「キリスト教が布教していく上で、儒教と折り合いをつける唯一の接点は『上帝』信仰にあると考える」に至ったのである。

私は広州の町中で、キリスト教の教会がたくさんあるのを見た。いや中国沿海部のいたるところで、キリスト教の教会を観察してきた。

  華僑の故郷の江門、開平から、奥地の豪邸群が残る田舎町で、偶然みたのも西洋式の結婚式だった。

 とくに華南から華中にかけて、アヘン戦争前後から、いかに中国人がやすやすとキリストに改宗できたのか。長い間、疑問だった。

(そうか。そういうことか)と妙に得心できる。あれは改宗ではなかった。

 同一軌上の信仰だった。「天」の信仰があまねく拡がっている中国(かの無神論者毛沢東の詩ですら「天」がでてくるように)では、キリスト教は受け入れやすく、日本では古事記日本書紀の神話が、戦後はなかば否定されたかにみえても、古代の神話が日本人の見えない生活の中で、まさに神道は布教しなくとも、脈々と生きて現代人に繋がっており、キリスト教がなぜ拡がらないか、分かるようではないか。

実際に中国のホテルで時間ができると『江戸のダイナミズム』を少しずつ読み継ぎ、西尾氏が提示する知的世界の広さを中国的な空間の中で描いていた。

 本居宣長もニーチェも、いやプラトンやソクラテスさえも同時代人のように親しみを感じながら読めるのも、奇妙な体験だった。

つづく