我が好敵手への別れの言葉

「正論」平成三十年三月号より

 人はおりふしに自らの歴史に深い闇を見る。たいていは行動力がそれを気づかせない。否、行動力のある人ほど闇の奥底の色は濃いのかもしれない。

 西部邁氏はフェアーな人だった。私たちが一番頻繁に顔を合わせたのはテレビ朝日の討論番組、朝まで生テレビだった。例えば外国人単純労働者の受け入れ是非をめぐるテーマが討論された場面などで、テレビ出演に慣れない私を西部氏は上手にリードしてくれたものだった。大島渚氏や野坂昭如氏等の名だたる仇役者たちから私を終始守ってくれた。その名だたる中に舛添要一氏がいた。私の位置から一番遠い席より手を大きく振り上げて私を指さして「このレイシスト!」と叫んだ。聞き咎め、窘(たしな)めたのもやはり西部氏だった。場違いだろう、無礼な言葉は慎め、というようなことをたしか言ったのを覚えている。

西―西論争の日々

 それより前であったか後であったか思い出せないが、舛添氏と西部氏と私の三人がパリで落ち合って数日間を一緒に過ごす機会があった。今から約三十年前、1986年9月に読売新聞社主催の円卓会議が日本から七人、ヨーロッパから十二人の知識人を集めてパリで開催された。西部氏の「日本の産業の成功は文化の犠牲の上に成り立つ」という近代日本を否定するポジションペーパーが、ヨーロッパ人の出席者の中で人気を博した。日本の自動車生産台数が世界一になって六年目のこの頃、電子部門の日米ハイテク競争が取り沙汰され始めていた。置き去りにされかねないヨーロッパは日本の進出にひどく神経質になっていた。

 当時のヨーロッパのメディアには、まるで異質な星雲からの未知の生物の出現のように日本人を扱い、日本の教育や労働慣行から休暇の取り方まで嘲る論調さえあった。西部論文の日本批判は彼らにとって渡りに船だった。私はあえて西部氏に異を唱え、反論した。二人の間で日本文化の是非をめぐる激しい論争が繰り広げられた。対立は四つのセッションのうち三つにまで影響した。日本人記者団からは「西―西論争」などと冷やかされたが、ヨーロッパ人の眼前で日本人同士が互いの主張をぶつけ合う光景は彼らの目には新鮮に映ったらしい。会議の最終日に議長のフランス人をして、今回は日本人が多様性を持つ国民であることを初めてリアルに感じさせた、と言わしめたほどだった。

 二人の論争は明治以来の日本の西洋化=近代化をめぐる永遠のテーマに関わっているので、簡単に終わる話ではない。それなのにここまで発言しなかった舛添氏が最後になって「本日の二人の論争は私のような若い世代にとってはもう終ったテーマであって、世代の差を感じさせるばかりだ」と言い出したのには驚いた。いったいこの種のテーマに世代論を当てはめることは可能であろうか。え?と私は耳を疑ったほどだった。

 私と西部氏はその夜パリの裏町で生牡蠣にワインを楽しみ、意気軒昂だった。舛添氏の世代論には西部氏も呆れ返っていた。二人は意気投合、パリ会議は激論を戦わせた二人の仲をかえって近づけた。

 主催者の読売新聞社側は、二人にはパリで言い残したことが相当あるに違いあるまいと踏んで同社の月刊誌『THIS IS 読売』(1987年1月号)のほゞ一冊の半分近い大幅ページ数を提供し、論争のつづきを思いのたけ語らせてくれた。公平で面白い全記録が残り、「西尾幹二全集」第10巻に保存された。

 興味深かったのは二人の結論が最終段階で接近したことである。それは理解とか寛容ということとは違う。西部氏は論争の最中も、終結後の資料の扱いにおいても、瑣末事に心乱されることなく、一貫してフェアーだった。

つくる会とテロをめぐる確執

 二人の間に距離が生じ、対立の軋みが見え始めたのは、1996年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足してからである。私が歴史、西部氏が公民の教科書の責任者になって以来であった。協力し合わねばならない関係なのに、そのことが苦痛となる事件が相次いだ。一口でいえば、公民の教科書は作りたくないのだけれど仕方がないから作ってやるのだと言わんばかりの彼の横柄な態度、しかも実際には作りたがっていた、そのウラの感情が私は分っているので、相手が素直でないことへの私の苛立ちは半端ではなかった。
 
 同じ一つの会を共同経営していくという責任感情がまるきりないことは次に起こった別の事件でさらに発覚した。私は2000年3月に台湾を旅行し、紀行文を本誌に公表した。西部氏によるそれへの攻撃が始まった。ときはまさに教科書検定の直前に当り、さらに採択をひかえた微妙な時期なので、「つくる会」の会員から内輪もめしないでくれ、という悲痛な手紙が何通も届いていた。私は反論はもとより釈明も弁解も封じられたかたちだった。私のそういう縛られた不自由な条件を西部氏は知っていた。私は氏のもう一つの側面を見た。

 局面いかんにより滅茶苦茶なことを言ったり書いたりする人だ、ということである。ニューヨーク同時多発テロが起こり、保守言論界の一部に左翼返りが生じ、非常に怪し気なムードが辿ったときがある。イスラムのテロリストを見て、真珠湾と特攻を思い出すという、アメリカ人ならともかく、日本人においてはあってはならない倒錯があっと驚くほどの勢いで有名保守系知識人の間にも広がった。旧日本軍をタリバンになぞらえ、弱者の反乱として先の大戦を説明する類の安易な歴史観である。

 私はあのとき西部氏も相当に危ない崖っぷちに立っていたように思える。「テロリズム考」(本誌2002年2月号)で、あらゆる革命はテロであり、大化改新もそうだったから、テロは歴史の進歩の動因の一つで、テロを不当とするなら「退歩が歴史の真相であったことを認めるのか」などと読者に迫るのである。そう脅かしておいて、テロの正当性をまず確認する。次いで社会は法律だけで成り立つのではなく、道徳という価値の体系を持っている。だから「合法ではないが合徳」というテロがあり得る、と言って、言外にアルカイダ・テロルを支持してみせる。しかし、もしそうであるならば、アメリカの軍事行動も「合法ではないが合徳」のテロルの一種とみなしてよいのではないか、という自然に思い浮かぶ読者の疑問には、一顧だにしない。

 保守らしいことを語っていた人が事と次第によってはとんでもない言説を振り回す可能性があることを示唆しているといえまいか。

 氏が主幹である『発言者』(2001年12月号)の座談会で、一人が西部先生の言葉として、「ビンラディンの顔はイエス・キリストに似ているとおっしゃった。私はハッとしました。大直観だと思います」を読んだあの当時、私はあゝ、危いな危いなと思ったものだった。どうして西部氏はキリストの顔を知っているといえるのであろう。知らなければ似ているも何もないではないか。人類の中でイエス・キリストの実物の顔を思い浮かべることができる人が本当にいるのだろうか。氏はここまで意識が浮遊することが起こり得る一人であったことはほゞ間違いない。

どこか、うらめない

 氏は二人が対座しているときに突然自分を茶化すようなおどけたことを言って、思わず微笑ましくなることがある。タクシーの隣りにいて、誰か若い人を叱責したときの話をして、「俺がいくら叱ってもさまにならないんだ。招き猫みたいな顔だって言われるんでねぇー」。そう言って片手を上げてひょいと私の方を見た上半身は薄暗いライトの中でまさに招き猫そのものなのだ。このように自分で自分を笑えるお茶目ぶった余裕があの人がみんなに愛された理由なんだと思う。

 西部先生の業績って何でしょうか、と昨日編集者に聞かれて、私はしばらく考えてからこう答えた。

「彼の学問的業績については私は分らないし、何も答えられません。たゞ、世の中の空気をひとつだけ替えたものがある人です。あの人は、保守だ、保守だと、『保守』という言葉を振り翳して世の中を渡ろうとしましたね。こんなに恥しい二文字を美しく盛り立てて歩き回った人はいませんよ。元来人気のない嫌われ言葉でした。『保守停滞』『保守頑迷』『保守反動』・・・・・これは日本では会社の名にも政党の名にも使えません。それなのにあの人が胸を張って騒ぎ立てたおかげかどうか分りませんが、『保守的』であることを若者が好むようになってきました。でも、若者が好むムード的保守感情は危険な崖っ淵を歩んだあの人の叫びとはまるっきり逆の方向を向いているのかもしれませんがね。でも、どこかうらめない所がある人だったんですよね。」