我が好敵手への別れの言葉

「正論」平成三十年三月号より

 人はおりふしに自らの歴史に深い闇を見る。たいていは行動力がそれを気づかせない。否、行動力のある人ほど闇の奥底の色は濃いのかもしれない。

 西部邁氏はフェアーな人だった。私たちが一番頻繁に顔を合わせたのはテレビ朝日の討論番組、朝まで生テレビだった。例えば外国人単純労働者の受け入れ是非をめぐるテーマが討論された場面などで、テレビ出演に慣れない私を西部氏は上手にリードしてくれたものだった。大島渚氏や野坂昭如氏等の名だたる仇役者たちから私を終始守ってくれた。その名だたる中に舛添要一氏がいた。私の位置から一番遠い席より手を大きく振り上げて私を指さして「このレイシスト!」と叫んだ。聞き咎め、窘(たしな)めたのもやはり西部氏だった。場違いだろう、無礼な言葉は慎め、というようなことをたしか言ったのを覚えている。

西―西論争の日々

 それより前であったか後であったか思い出せないが、舛添氏と西部氏と私の三人がパリで落ち合って数日間を一緒に過ごす機会があった。今から約三十年前、1986年9月に読売新聞社主催の円卓会議が日本から七人、ヨーロッパから十二人の知識人を集めてパリで開催された。西部氏の「日本の産業の成功は文化の犠牲の上に成り立つ」という近代日本を否定するポジションペーパーが、ヨーロッパ人の出席者の中で人気を博した。日本の自動車生産台数が世界一になって六年目のこの頃、電子部門の日米ハイテク競争が取り沙汰され始めていた。置き去りにされかねないヨーロッパは日本の進出にひどく神経質になっていた。

 当時のヨーロッパのメディアには、まるで異質な星雲からの未知の生物の出現のように日本人を扱い、日本の教育や労働慣行から休暇の取り方まで嘲る論調さえあった。西部論文の日本批判は彼らにとって渡りに船だった。私はあえて西部氏に異を唱え、反論した。二人の間で日本文化の是非をめぐる激しい論争が繰り広げられた。対立は四つのセッションのうち三つにまで影響した。日本人記者団からは「西―西論争」などと冷やかされたが、ヨーロッパ人の眼前で日本人同士が互いの主張をぶつけ合う光景は彼らの目には新鮮に映ったらしい。会議の最終日に議長のフランス人をして、今回は日本人が多様性を持つ国民であることを初めてリアルに感じさせた、と言わしめたほどだった。

 二人の論争は明治以来の日本の西洋化=近代化をめぐる永遠のテーマに関わっているので、簡単に終わる話ではない。それなのにここまで発言しなかった舛添氏が最後になって「本日の二人の論争は私のような若い世代にとってはもう終ったテーマであって、世代の差を感じさせるばかりだ」と言い出したのには驚いた。いったいこの種のテーマに世代論を当てはめることは可能であろうか。え?と私は耳を疑ったほどだった。

 私と西部氏はその夜パリの裏町で生牡蠣にワインを楽しみ、意気軒昂だった。舛添氏の世代論には西部氏も呆れ返っていた。二人は意気投合、パリ会議は激論を戦わせた二人の仲をかえって近づけた。

 主催者の読売新聞社側は、二人にはパリで言い残したことが相当あるに違いあるまいと踏んで同社の月刊誌『THIS IS 読売』(1987年1月号)のほゞ一冊の半分近い大幅ページ数を提供し、論争のつづきを思いのたけ語らせてくれた。公平で面白い全記録が残り、「西尾幹二全集」第10巻に保存された。

 興味深かったのは二人の結論が最終段階で接近したことである。それは理解とか寛容ということとは違う。西部氏は論争の最中も、終結後の資料の扱いにおいても、瑣末事に心乱されることなく、一貫してフェアーだった。

つくる会とテロをめぐる確執

 二人の間に距離が生じ、対立の軋みが見え始めたのは、1996年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足してからである。私が歴史、西部氏が公民の教科書の責任者になって以来であった。協力し合わねばならない関係なのに、そのことが苦痛となる事件が相次いだ。一口でいえば、公民の教科書は作りたくないのだけれど仕方がないから作ってやるのだと言わんばかりの彼の横柄な態度、しかも実際には作りたがっていた、そのウラの感情が私は分っているので、相手が素直でないことへの私の苛立ちは半端ではなかった。
 
 同じ一つの会を共同経営していくという責任感情がまるきりないことは次に起こった別の事件でさらに発覚した。私は2000年3月に台湾を旅行し、紀行文を本誌に公表した。西部氏によるそれへの攻撃が始まった。ときはまさに教科書検定の直前に当り、さらに採択をひかえた微妙な時期なので、「つくる会」の会員から内輪もめしないでくれ、という悲痛な手紙が何通も届いていた。私は反論はもとより釈明も弁解も封じられたかたちだった。私のそういう縛られた不自由な条件を西部氏は知っていた。私は氏のもう一つの側面を見た。

 局面いかんにより滅茶苦茶なことを言ったり書いたりする人だ、ということである。ニューヨーク同時多発テロが起こり、保守言論界の一部に左翼返りが生じ、非常に怪し気なムードが辿ったときがある。イスラムのテロリストを見て、真珠湾と特攻を思い出すという、アメリカ人ならともかく、日本人においてはあってはならない倒錯があっと驚くほどの勢いで有名保守系知識人の間にも広がった。旧日本軍をタリバンになぞらえ、弱者の反乱として先の大戦を説明する類の安易な歴史観である。

 私はあのとき西部氏も相当に危ない崖っぷちに立っていたように思える。「テロリズム考」(本誌2002年2月号)で、あらゆる革命はテロであり、大化改新もそうだったから、テロは歴史の進歩の動因の一つで、テロを不当とするなら「退歩が歴史の真相であったことを認めるのか」などと読者に迫るのである。そう脅かしておいて、テロの正当性をまず確認する。次いで社会は法律だけで成り立つのではなく、道徳という価値の体系を持っている。だから「合法ではないが合徳」というテロがあり得る、と言って、言外にアルカイダ・テロルを支持してみせる。しかし、もしそうであるならば、アメリカの軍事行動も「合法ではないが合徳」のテロルの一種とみなしてよいのではないか、という自然に思い浮かぶ読者の疑問には、一顧だにしない。

 保守らしいことを語っていた人が事と次第によってはとんでもない言説を振り回す可能性があることを示唆しているといえまいか。

 氏が主幹である『発言者』(2001年12月号)の座談会で、一人が西部先生の言葉として、「ビンラディンの顔はイエス・キリストに似ているとおっしゃった。私はハッとしました。大直観だと思います」を読んだあの当時、私はあゝ、危いな危いなと思ったものだった。どうして西部氏はキリストの顔を知っているといえるのであろう。知らなければ似ているも何もないではないか。人類の中でイエス・キリストの実物の顔を思い浮かべることができる人が本当にいるのだろうか。氏はここまで意識が浮遊することが起こり得る一人であったことはほゞ間違いない。

どこか、うらめない

 氏は二人が対座しているときに突然自分を茶化すようなおどけたことを言って、思わず微笑ましくなることがある。タクシーの隣りにいて、誰か若い人を叱責したときの話をして、「俺がいくら叱ってもさまにならないんだ。招き猫みたいな顔だって言われるんでねぇー」。そう言って片手を上げてひょいと私の方を見た上半身は薄暗いライトの中でまさに招き猫そのものなのだ。このように自分で自分を笑えるお茶目ぶった余裕があの人がみんなに愛された理由なんだと思う。

 西部先生の業績って何でしょうか、と昨日編集者に聞かれて、私はしばらく考えてからこう答えた。

「彼の学問的業績については私は分らないし、何も答えられません。たゞ、世の中の空気をひとつだけ替えたものがある人です。あの人は、保守だ、保守だと、『保守』という言葉を振り翳して世の中を渡ろうとしましたね。こんなに恥しい二文字を美しく盛り立てて歩き回った人はいませんよ。元来人気のない嫌われ言葉でした。『保守停滞』『保守頑迷』『保守反動』・・・・・これは日本では会社の名にも政党の名にも使えません。それなのにあの人が胸を張って騒ぎ立てたおかげかどうか分りませんが、『保守的』であることを若者が好むようになってきました。でも、若者が好むムード的保守感情は危険な崖っ淵を歩んだあの人の叫びとはまるっきり逆の方向を向いているのかもしれませんがね。でも、どこかうらめない所がある人だったんですよね。」

「我が好敵手への別れの言葉」への17件のフィードバック

  1. ;

    幹二先生!こんにちは!!

    済みません!勉強中のコピペで失礼します!!

    ↓↓

    若宮卯之助bot

    @WAKAMIYA_U_bot

    太平洋に於ける日米対峙の運命には単に三つの方法が有り得るばかりだ。

    一つは調和であり、一つは征服であり、残りの一つは隔離である。(『日本と米国とは隔離すべし』)

    My Twitter Account ; https://twitter.com/Dellcano

    *

    18.04.06 , 17:14 .

    子路

  2. 黒ユリ 樣

    「あの人は、保守だ、保守だと、『保守』という言葉を振り翳して世の中を渡ろうとしましたね。こんなに恥しい二文字を美しく盛り立てて歩き回った人はいませんよ。元来人気のない嫌われ言葉でした。『保守停滞』『保守頑迷』『保守反動』・・・・・これは日本では会社の名にも政党の名にも使えません。それなのにあの人が胸を張って騒ぎ立てたおかげかどうか分りませんが、『保守的』であることを若者が好むようになってきました。でも、若者が好むムード的保守感情は危険な崖っ淵を歩んだあの人の叫びとはまるっきり逆の方向を向いているのかもしれませんがね」
    といふ西尾先生による西部評は、我々が論じてゐる保守・反日の淵源を知る
    上でも貴重ですね。「若者が好むムード的保守感情」だけでも、今の社會や政治のあり方を觀察する際、示唆されることが多いですね。

    >自分が「反日」と自覚しているかどうかは怪しいと思います(自覚していれば、まだよい)。 〈アフォリズム「四十一」のコメント欄〉

    大切なポイントでせうね。御指摘の論點を私も考へてみましたが、その前に、
    プラトンは「知つてゐてつく嘘の方が知らないで言ふ嘘よりはましだ」
    西尾先生は「他人を騙すことは十分に生産的であり得るが、自分で自分を騙
    すことには救ひがない」
    と言つてをられます。
    アグネスのことはよく知らないので、商賣上の效果を狙つて「反日」を演じてゐるのかどうか分りませんが、安倍さんに自覺などある筈がないと思ひます。安倍さんは必死に「愛國者」を演じようとし、つい地の「反日」が出てしまふのでせう。救ひやうがないですね。

    >何でも「日本はダメで、外国がよい」という風潮です。

    私は昭和21年に小學校に這入り、仰せの風潮の最も強い時期に教育を受け
    たので、日本人ほど野蠻にして低劣な人種はないと信じ、たまに白人に會ふと、なんとも美しく立派、頭もさぞいいのだらうなと惚れ惚れと、うつとりと見とれたものです。
    長じて、大いに匡正したつもりですが、未だ十分でなく、先日も8歳上の姉から「白人崇拜」と批判されました。大きく言へば、この問題は大東亞戰爭での敗戰を俟つまでもなく、明治以來日本人が抱へてきたのではないでせうか。

    >頼みの一本綱である安倍首相を手放したくない、これが本音ではないでしょうか?真っ向から否定しているのが西尾先生です。当然です。これまでの机上の学者たちとは異なり、西洋を勉強するなら、その毒も合わせて飲み干すべきだと主張し、彼らを乗り越えるには、彼らの武器をも自分のものとして、日本的な美徳をもひとまず脇に置け、といいます。言いにくいこともあえて言葉にし、互いに言いたいことを言い合う勇気を持つべきだ、と仰います。 話は簡単です。政治家たちが西尾先生の仰る勇気を持ちさえすれば、どんな暴言が飛び交おうが、その中から本物の言論が生まれ、その結果本物の政治家も見えてくるはずだからです。

    全て、仰せのとほりです。
    「一本綱」とは言ひ得て妙です。永年擔いできた神輿を今後も・・・と願ふのでせうね。自分の今の立場を否定されたくないといふ動機もあれば、 心底から安倍さんを崇拜してゐる人もゐますね。
    昨年末の坦々塾で、西尾先生が安倍首相を批判されたのに對して、つくる會
    の偉い人が「左翼があれだけ執拗に攻撃するのは、安倍さんが眞正保守であ
    る證據だ。自分は全力で支持する」と、眞劍に反論しました。この人が本氣であることは疑へません(プラトン・西尾兩先生ならば、だから困るのだ。度しがたいとおつしやるのでせうが)。「ムード的保守感情」が擴がつてゐるのは若者の間だけではないと感じました。

    そのムードと安倍さんがどう結びついたか。特段の見識らしいものも感ぜられず、リーダーシップありとも見えず、頭腦明晰ならず、カリスマ性も皆無、外遊が大好きでも、成果などないのに、「外交における実績もあると多くの論者が言」ひ、多くのメディアが安倍批判を御法度としてゐるのは何故かーーを論じると長くなるので、ここでは控へますが、一點だけ申してみます。
    身近かにゐる安倍支持者を見ると、大抵安倍さんに實によく似てゐます。皆さん、「日本人の意志や、日本人の認める価値は悪であり、『国際』と『普遍』こそが尊い」といふ「教えが骨の髄まで沁み込んでいる」と、私には見えます(御本人がたは、決してさう意識してゐません。再び、だから度しがたいのです)。つまりWGIPによる媒介です。その上で、西部さんの「おかげかどうか分りませんが」、人氣の出た「保守」を旗印にしました。
    保守系の會合のあとのパーティーなどで、 乾杯の音頭を取る人が「我々保守
    は」「日本を守る」などと嬉しさうに口上を述べるのを見ると、この人にとつて「保守」とはアクセッサリーに過ぎない、てごろなものを見つけたものだとつくづく思ひます。風向きが變れば、別のものにすぐ取り替へられる・・・。

    貴重な御意見をありがたうございました。今後もよろしくお願ひします。

  3. いつの頃からか「親米保守」とか「反米保守」という言葉が広まり、空虚な流行で嫌な言葉だなと感じました。西部氏は「反米保守」の立場だったでしょう。「フランス革命の伝統を継ぐのがソ連と米国の2つの人口国家だ」というような表現が目につきました。個人的には所詮米国はどうでも良く(米国人のもの)、日本が大事なのですが、「親米保守」と「反米保守」の勢力が、互いに粗探しをして罵りあい、無駄なエネルギーを浪費している光景は不快でした。このなかで西尾先生の「GHQ焚書図書開封」という屹立した業績は空虚な対立を昇華させるような不思議な輝きを持っていました。真実の深い闇を前にすると空虚な思想対立は沈黙します。このお仕事は圧倒的な迫力で「米国が日本の何を恐れていたのか」を戦前を生きた日本人の怨霊がよみがえったかのように生き生きと語らせました。
    そういえば今夜、日本橋の丸善に行ったら西部氏の遺言めいた著書が平積みになってました。しばらく読んでみましたが、西部氏の文章は抽象的で皮相に感じました。西部氏は非常に分裂気質的な性格であり、それを逆手にとって陰影のありそうな文章を書いているが、いろんな偉人の引用を全部とっぱらって本人の肉声だけを見るとあんまり内容は無いのではないかと・・。不遜でありますが。
    過去の新しい公民教科書は既存の教科書にくらべるとまあ良いのではないかと個人的には思いました。辛酸なめた苦労人であり非常な善人であるので冥福を祈ります。

  4.  西尾先生の西部さんへの批判と愛情の両方にあふれた追悼文、感銘を受けました。西部さんの思想スタイルがこの長くない追悼文で論じつくされていると思います。
     西部邁と柄谷行人、この二人の思想家は私は「反面教師的な知性」を刺激する存在として、二十歳くらいのときからずっと熟読を続けてきました。思想家というのはもちろん好影響を感じるというのがオーソドックスでありますが、そうでなくて、巨大なマイナスの存在というのでしょうか、こうなってはならないのそのために熱心に読む、という逆説的な存在の人が何人かいてよいと思うのです。私の場合、海外ではたとえばサルトルがそれにあたります。自分はサルトルの悪口ばかりいうのだけれども、なぜか自分はサルトルを熱意に読み続けていく、というようなことです。このことが、現代日本の思想家だと、西部さんと柄谷さんの二人に私の場合あてはまります。
     西部さんの思想・文体は、わかりやすいといえばこれほどわかりやすいものはない。栗本慎一郎氏がかつて巧に論じ当てたように、西部さんの思想はルサンチマン(怨念)の思想であり、60年安保の学生運動指導者のときに、いったんはあれほど熱狂した大衆がたちまち冷却化したことをルサンチマンの対象とし、それを反大衆論、反民主主義の根拠とする。もちろん反民主主義は西部さんの専売特許ではないのですが、西部さんのそれは人生的時間と完全に密着したルサンチマンのものである分、過剰な情緒性と非論理性をもっているということがいえるでしょう。このルサンチマンを共有する思想空間が、西部イズムの端的な正体だと思います。反民主主義の主体が「日本人」であれば当然彼は「反日」になることを厭わない。こうして西部さんの「反」はどんどん左派的民主主義とも結びついていって、佐高信その他の左派の面々がまわりに集うという後半生を西部さんは迎えることになるわけです。
     ルサンチマンが根源なのですから当然、西部さんの思想は怖ろしくモノローグ的劇場の体をなすのですが、この劇場空間を共有しようという人物は意外に多く、私はいろんなところで西部さんの熱烈な「教徒」に出くわしてきました。この「教徒」たちの崇拝ぶりというのはちょっと思想の力から生じたものではない危ないものではないだろうか、と感じました。西部さんの自殺幇助をされた方のことが報道されていますが、私は事実はよくわかりませんが、西部さんの思想への熱狂からすれば、そういう方が出現するのは当然だと思います。けれど私はどうしてもそれを「偉大な思想の力」とは思えない。ルサンチマンへの熱狂の共有を思想の実践とするならば、それは左翼革命の行動主義と何も変わりません。
     西部さんはしきりに保守主義の精神を西ヨーロッパの懐疑主義的思想家に求めていましたが、これはもともと西部さんが自身のルサンチマンに自覚的であって、それを御すための観念を求めていたのではないか、と思います。少なくとも1990年代半ばくらいまでの西部さんの思想にはこの懐疑主義の歯止めがしっかりとあって、彼のポレミカルなスタイルがその歯止めに引っ張られたり、ときどき歯止めを超えたりというようなせめぎあいが彼の文章に幅をもたせていたと思います。ところが2000年くらいから彼はこの歯止めをすっかり忘れてしまったかのように疾走しはじめ、やがては暴走にいたります。これが彼のエキセントリックきわまりない反アメリカニズムです。困ったことに西部さんは「アメリカ」を怒り狂って攻撃しこそすれ、その正体の解析についてほとんど勉強蓄積をしないため、まさに彼のルサンチマンそのものの突出のみが目立つことになります。このころから西部さんの思想力は、少なくとも劇場空間の外からみる限りは、みるみる弱体化していったように思われます。
     この弱体化は、西部さんなりの「10代20代への先祖返り」ではなかったのか。全学連の委員長として西部さんは国会前に学生や大衆を集結させ、体制打破と革命をアジテーションしたが、しかしその国会前の熱狂的時間の後には「何も残らない」というニヒリズムが彼にはわかっていた。彼は体制のことも革命のことも何もわかっていなかったと後年弁解していますが、それが「「反アメリカニズム」の正体不明」と似ていないという保証はどこにもないのではないか。学生運動の後の時間のニヒリズムを彼は逮捕裁判と思想的転向ということで乗り越えたけれど、後年の反アメリニズム(あるいは彼の保守思想)の弱体化に関しての決裁を、彼は自殺という実存的悲劇で乗り越えようとしたのではないでしょうか。この繰り返しを興味深いと思う人もいるやもしれませんが、西部さん個人に関心のない人間からすれば、壮大なロマンティックな人生の流れにはとても感じられないというのが正直なところです。
     サルトルついでに比較的にいえば、サルトルは最晩年になって、「人間どうしの母胎的連合こそが希望だ」といって、彼の個人主義的・実存主義的哲学を全面的に変えてしまうかのような「変節」を示したと批判されますが(寂しくなったのでしょう)、西部さんの西ヨーロッパ的保守主義というのは、過去や伝統の中に何かしらの超越性を見出して、その超越性をニヒリズムの救済とするということにあったのではないか、だとすれば西部さんの自殺もまた「変節」の一つではないかと私には思われるのです。西部さんが最後に言ったように、自殺は人間の最後の存在論的自由かもしれません。けれど、自由を野放図なものでなく、歯止めと制限を過去・伝統からかけたものにするということにこそ西部流の保守主義からすれば、あの自殺はある種の思想の破産劇を意味するとしか思えません。劇場空間の内内にいる方からすれば、それは華々しい悲劇に思われるかもしれないです。しかし劇場空間を共有していなかった私には、きわめて小さな実存的なブラック・ユーモアの劇が西部さん自身によって閉じられたとしか思えない、けれどその劇場空間での一俳優としての演技を徹底し限られたオーディエンスに最後までスタイリシュと思わせたことに「反面教師的な知性」の完成形態を見ることができる、これが私の西部さんの自死についての、多分に的外れた感想です。

  5. 西部氏が後輩の知人に自殺幇助という罪を負わせてまで自死を願ったことに衝撃を受けました。
    西部邁氏の原体験に注目すると、彼の思想的な原体験とは学生運動の闘士となり権力と闘った時代にありますが、あまりにその頃に対する西部氏の振り返りや自己分析が少ないのです。左翼という存在の渦中にいたにもかかわらず、左翼の本質に対する洞察が少ないです。これは西部氏が本当に自己経験に基づいて思想を血肉化する知識人というよりも、複雑な思想遍歴をもつ第三者として世相を皮肉な目で観察するのを持ち味とした言論人であったことを示唆しているような気がします。思想家というよりも観察者なのです。ただし左翼の側でも保守の側になっても周囲の人々を巻き込む魅力があり、それがゆえに周囲から行動することを求められていろいろ行動をした。果敢な行動者のように見えますが、本質は皮肉な観察者であったように思えてなりません。

  6. 渡邊さん 一つだけお教へを

    御感想感銘深く拜讀しました。と申しても御論旨の何分の一理解できたか、
    おぼつかないところです。どこがどう分つた、どう分らなかつたと一々申す
    こともできません。そこで一點だけ質問させて下さい。

    「全学連の委員長として西部さんは国会前に学生や大衆を集結させ、体制
    打破と革命をアジテーションしたが、しかしその国会前の熱狂的時間の後
    には『何も残らない』というニヒリズムが彼にはわかっていた」との仰せの背景はどういふことでせう。「わかってい」て、ああいふ行動を取つた理由はなにか、何を考へてゐたのか御説明いただけませんか(御面倒なら、論證は拔きでも結構です)。

    あの騷ぎの最中に、福田恆存が「やがて雲散霧消する烏合の衆」と呼んだのに私は共感し、そのとほりになつたと、今でも思つてゐます。
    當時、生れるまで、あと10數年といふお若い貴兄と違つて、私にはデモ參
    加の資格がありましたが、參加せず、まして委員長の心情なぞ、考へもしま
    せんでした。

    お答へ頂く前段として、私が西部さんを殆ど知らぬことを申上げたく、そのために、逆に知つてゐることを竝べます。
    ①西部さんの著書は一册も讀んでゐませんが、あの喧嘩分れのあと、騷動の經緯を語つた雜誌の論文を一つだけ讀みました。力強さがなく、論旨もはつきりせず、ただグチャグチャと愚癡を述べてゐるだけで、頭も惡いと感じ、
    その旨西尾先生に申上げたところ、さうだねと言はれました。
    ②ただし、その前、つくる會のシンポで、政治・外交を語るのを聞いたことがあり、威勢がいい、面白い論理を展開する人だと思ひました。
    ③パリ圓卓會議の次第は、西尾先生の御歸國の直後に、私の編輯する雜誌に詳しくお書きいただいたので、かなりのことを知つてゐるつもりでしたが、今囘の追悼文以上のことは覺えてゐません。
    ④西部さんの本は讀まずとも、テレビでは、年に6~7囘は見たでせうか。ほとんどがMXtvでした。初めから西部さん目當てではなく、暇な時にチャンネルを次々變へて、あの番組が出るとそれを選んだといふことでした。感想はやはり「面白い論理」といふことくらゐしかありません。安倍總理やその支持者に對する批判的言辭は、心地よく聞かれました。
    ⑤西尾先生の觸れられた「合法ではないが、合徳といふテロがあるり得る」
    だの、「ビンラディンの顔はイエス・キリストに似ている」だのといふ發言について、「保守らしいことを語っていた人が事と次第によってはとんでもない言説を振り回す可能性がある」には完全に同感。でも、當時も今も、如何にも元左翼らしいと可笑しくなるだけで、別に腹も立ちません。ただし、先生のお立場だつたら、當然「苛立ちは半端でなかった」でせう。

    以上がほぼすべてです。よろしく御教示を。

    なほ、「果敢な行動者のように見えますが、本質は皮肉な観察者であったよ
    うに思えてなりません」との仁王門樣の仰せに同感。その報告を樂しむべく
    努めてゐたやうな氣がします。

  7. 渡辺様

    さる方に勧められ、御著書「蒋介石の密使」を拝読し、大変分かり易い文章で、すんなり頭に入りお蔭様で辻正信の正体を知ることがスムーズに出来たのですがこの西部論は難解ですね。ご意見の始めで躓いてしまいました。池田様の質問に加え、西部氏の著作を多数読破されているようですので、以下につきご教示に預かれれば幸いです。本来なら斯く質問する前に私自身著作を読み漁るべきですがその時間がないための横着です。お許しください。

    1.共鳴される栗本意見ですが、「西部さんの思想がルサンチマン(怨念)の思想であり、安保騒動のときに、いったんは熱狂した大衆がたちまち冷却化したことが彼の怨念の対象であり、彼の反大衆論、反民主主義の根拠がこの怨念である」、という御見立てについて、①抑々、怨念が生じるとすれば彼の指揮で国会前に集結させられ、体制打破と革命を扇動された人々(学生・大衆)が彼に向けて感じることはあっても、彼が彼らに怨念を感じることはあり得ないのではないでしょうか。また②「国会前の熱狂的時間の後には『何も残らない』というニヒリズムが彼にわかっていて、彼は体制のことも革命のことも何もわかっていなかった」ならば、たちまち冷却化した大衆や学生に彼は怨念を持ちえなかったのではないでしょうか?彼と大学同級だった方に彼が当時語ったのは「資本論は投獄されたときに初めて読んだ。ただ騒いでみたかった」だったそうです。

    2.「人生的時間と完全に密着したルサンチマンのものである分、過剰な情緒性と非論理性をもっている」「このルサンチマンを共有する思想空間が、西部イズムの端的な正体だ」というのは重要なご指摘と思われますので完全に理解したく、私も「西部イズムの正体」を掴みたいと思いますので質問ですが、①人生的時間と完全に密着した、というのは60年安保の体験のこと、②情緒性と非論理性は同義、でしょうか?③「ルサンチマンを共有する思想空間」というのは彼の反大衆社会論・反アメリカニズムを指し、それと怨念が彼の思想のなかで共存する、つまり怨念と結びついた彼の何らかの思想が西部イズムという意味なのでしょうか?それとも怨念こそが西部イズムの正体という意味でしょうか?

    3.「反民主主義の主体が『日本人』であれば当然彼は『反日』になることを厭わない」ですが、彼は実際に反日だったのでしょうか?非反日だったと私には見えました。彼の反民主主義の主体は『日本人』と思われますので、そうであれば彼は反日でなければならなくなります。

    執筆活動でご多忙でしょうから、回答はお暇になったとき、気の向いたときで結構です。

  8.  池田さんへ
     
     コメント読んでいただきありがとうございます。
     西部さんの60年安保闘争時の回想に繰り返し出てきますが、全学連指導者の西部さんはそれまでマルクスもレーニンもほとんど読まなかったにもかかわらず、「革命的闘争」をアジテーションして国会前に大衆を煽動させました。当時の彼を知る人から聞いたことがありますが、西部さんのアジテーションは「泣きの西部」といわれるほどロマンティックな見事なものだったそうです。だけれども、マルクスもレーニンも知らない西部さんも、自分で革命をアジっておいて、国会前に大衆が一時的に集結しただけで「革命」が成就するなんて真剣に思っていなかったそうです。では国会前にあるものは何だったかというと、青春的な過剰の空騒ぎであり、いずれその祝祭の時間が終わることがわかっていたという、まさにニヒリズムそのものですね。僕はそのニヒリズムは、アジテーションを聞いている人もわかっていたんではないかと思います。だから西部さんと一緒に「泣いた」のではないですか。青春的な過剰の瞬間を「革命」という名前で置き換えて味わいつくして、でもそれが終わった後は、何も残らないということがわかっているというニヒリズムです。こうしたニヒリズムは、下手をすればセンチメンタリズムになりかねない。それをよく知っていた西部さんは、青春的な過剰の空騒ぎの「決着をつけること」にこだわる人だったように思えます。
     西部さんは60年安保が終わった後、ルサンチマン的な反民主主義者になったけれども、僕の考えでは、青春的な過剰をロマンティックなものとする彼の感性はそっくりそのまま残っていて、その過剰の歯止めをするために保守主義の知恵云々を言っていたのだと思うのですよ。ところが歳月が経過して、60年安保闘争のときに空だった西部さんのマルクス主義がそのまま保守主義・反アメリカニズムに入れ替わっていった。なぜそんなことになったかというと、西部さんの思想に途中から知的蓄積がみるみる少なくなっていって、だから露骨な「10代20代への回帰」が起きてしまったのです。それがだいたい2000年くらいで、西部さんがアメリカのイラク戦争介入を左翼的に批判し、教科書運動から離反したあたりです。
     死者を批判するのは酷だけれども、2000年以降くらいからの西部さんの文章に、外国語が濫用されるようになったのは要するに西部さんの保守思想がどんどん空虚な、けれど西部さんにとっては60年安保闘争の「革命」のような意味になったからではないでしょうか。でも結局、西部さんのエキセントリックな反アメリカニズムでもって第二次日米戦争が起きるような現実は起きるはずもない。やはり西部さんのアジテーションはニヒリズムになってしまう。そして今度の場合、西部さんは若いときの転向ではなく、自死という形でニヒリズムに結着をつけたんだ、それが私の西部さんへの自殺への解釈なんですけれどもね。
     そう考えると、西部さんの思想・言葉でなく、西部さんそのものの存在感が好きで周囲に集うオーディエンスの面々には、かつての学生運動のときと同様、自分の思想のニヒリズム、袋小路に結着をつけた西部先生はなんと美しい人生劇を演じ終えたんだろう、ということになると思います。自殺を幇助されたお二人の方は、本当に西部さんのことを尊敬していたオーディエンスだったのだろうと思います。僕みたいに誰にも尊敬されないで、オーディエンスなんていない人間からすれば羨ましいと思えなくもないです。でもそうした限られたオーディエンスへの演技ということは、決して思想家の人生の意味には結びつかない、ということははっきり西部さんの御霊に言いたいと思います。思想家というのは、そんなスタイリッシュなものではないのではないしょうか。

  9. 勇馬さま

     コメントありがとうございます。
     「ただ騒いでみたかった」とは西部さんはよく言っていますね。でもブランキ主義とか、サルトルの溶解集団という言葉があるように、「騒ぐ」ということも一つの革命思想ですね。で、西部さんが煽動して大衆が暴徒になって、西部さん自身がニヒリズムがあったのだから、被害者的な立場は大衆の側にあって、西部さんが怨念を向ける筋合いはない、ということですね。確かにそのとおりで、栗本氏の西部論にはルサンチマンの正体について、「西部さんは要するに大衆を愛しすぎている」とあります。これはたぶん、西部さんが読んだらドキリとしたんではないかと思います。西部さんのルサンチマンが実は執拗な愛情であって、だから批判を繰り返すのだ、ということです。私は西部さんの「アメリカ」への態度も実はそうではないかと思っています。強烈なアメリカへの愛情ですね。だから批判に必要なアメリカについての知識の学びなどは彼はほとんどしなかったのではないですかね。私は「ルサンチマン=愛情」という西部さんの本質がだんだんとわかってしまわれて、彼の思想が破産にむかったという面もあるのではないかと思います。
     西部さんの反日主義ですけれど、西部さんはたとえば南京事件問題とか日本軍人論とかの個別の事実論にあまり深入りする人ではなかったですが、それでも結講いろんなことを言っていて、「日本軍人は捕虜になると自白しすぎて連合軍もその洗脳の解体に驚くほどだった」みたいなことをビートたけしの番組でいったりしてびっくりしたことがあります。だいたい、西部さんは山本七平を非常に好み、山本七平は実は丸山真男の影響を受けていますから、「日本人」を劣位にみる流れの中にいるのではないかと思います(西部さんは丸山は全面否定していますが)反日主義といっても平和主義にむすびつく左翼反日主義とはもちろん一線も二線も画するもので、けれど「平和主義を好むような愚かさ」をもった日本人を嫌う、というレベルの反日主義が西部さんにはあったのではないかと思います。この反日もしかし、ルサンチマンと愛情のかかわりから考えれば、「反」ではないかもしれないですね。その証拠に西部さんは「アメリカ」と同様、第二次世界大戦の時だけでなく、ほとんど「日本」の歴史論や精神論に深入りしなかったからです。要するに、愛していたからこそ、深く追求しなかったのではないでしょうか。
     「難解」なのは、私自身がまだ西部さんの自殺への驚きから冷静になれないでいて、筆先が混乱しているからですよ(苦笑)

    1. 渡辺様
      ご回答を有難うございました。
      しかし益々分からなくなりました。ご回答賜るだけで有難く、これ以上の野暮な素人の質問はしないつもりです。ただ、「騒ぐということも一つの革命思想」「大衆を愛しすぎる」「ルサンチマンが実は執拗な愛情なので批判を繰り返す」「強烈なアメリカへの愛情が反米に」、「愛していたから深く追求しなかった」は依然「難解」で、難解なのは、私が、限られたスペースのため省略された言外の論理や前提に鈍感または想像力不足なためとも思われ、今後の分かり易い御著作に期待致します。(微笑)

  10. 渡邊 さんへ

    懇々と説明して下さり、忝く存じます。
    にもかかはらず、(勇馬さんに對するお答も併せて)私には多くがチンプンカンプンで、申し譯なく恐縮至極です。偏へにこちらのレヴェルの低さのせゐです。

    貴兄には、 今までどれだけ教へられたか算へきれません。 高尚なことから
    卑近なことまでーー安倍總理大臣御用達の小川榮太郎といふ文藝評論家の正體を貴兄から御説明いただくまで、私は彼の名前さへ知りませんでした。

    然るに今囘、難しいことをやさしく説明する名手たる貴兄の文章にこれほど難澁するとは! 自ら呆れ、この先は斷念します。どうぞ御放念下さい。

    ただ一生懸命讀み取らうとした證據として、以下若干申上げます。

    ①「60年安保闘争時」に「マルクスもレーニンもほとんど読」んでゐなかつたとは初めて知りましたが、少しも意外ではありませんでした。大衆にもアジテーターにもそんなものが不要だつたことは、當時眺めた彼等の姿を思ひ出せば、明かです。
    ②「『革命』が成就するなんて真剣に思っていなかった」も、多分さうだらうと思はれます。
    ③でも、「いずれその祝祭の時間が終わることがわかっていたという、まさにニヒリズム」「僕はそのニヒリズムは、アジテーションを聞いている人もわかっていたんではないかと思います」は、理解できません。
    私には、西部さんも「聞いている人も」、殆ど何も考へてゐなかつたのではと思はれますが、「わかっていた」の根據は「一緒に『泣いた』」ことでせうか。
    ④「西部さんが煽動して大衆が暴徒になって」といふ區分けも、私の實感からかなり遠い。西部さん自身も煽られてゐたことは、私にはほとんど自明の理です。誰に? 時流にといつてもよく、 逆に、 大衆にといつてもいいのではないでせうか。
    西尾先生の觸れられた「合徳というテロ」だの、「ビンラディンの顔はイエス・キリス トに似ている」だのといふ發言が、時勢に煽られた結果出たものであることは明かではないでせうか。煽られたり、必要に迫られて、樣々な理屈を考へ出すのはこの人の得意技のやうな氣がします。それが、西尾先生御指摘の「弱者の反乱として先の大戦を説明する類の安易な歴史観」にもなるのでせう。
    まあ、信念があつて、ものを見たり感じたり考へるのではなく、時々の都合に合せて解釋・説明する人だつたと思ひます。

    ⑤「こうしたニヒリズムは、下手をすればセンチメンタリズムになりかねない。それをよく知っていた西部さん」も私には實感できません。ほんたうに知つてゐたのだらうかといふ氣がします。

    ⑥「60年安保闘争のときに空だった西部さんのマルクス主義がそのまま保守主義・反アメリカニズムに入れ替わっていった。なぜそんなことになったかというと、西部 さんの思想に途中から知的蓄積がみるみる少なくなっていって、だから露骨な『10代20代への回帰』が起きてしまった」には、なるほどと得心しました。
    「知的蓄積」については、テレビを見てゐて屡々感じました。あのボードに横文字などを書いて、場合によつては語原から説明すされるのを私は樂しく見て、7割くらゐは感心・共感しましたが、西部さん自身もこれを樂しんでゐる、多分最近仕込んだものなので、御本人にも新鮮なのだらうなどと想像しました。

    ⑦「西部さんは若いときの転向ではなく、自死という形でニヒリズムに結着をつけたんだ、それが私の西部さんへの自殺への解釈」は、大いにあり得るとも感じつつ、しかし、 自殺の動機は他にもあるかもしれないとも思ひました。そもそもニヒリズムと いふものも、西部さんがそれだつたといふことも、私にはよく分らないのですが、そのことは 最後に申します。

    ⑧「限られたオーディエンスへの演技ということは、決して思想家の人生の意味には結びつかない、ということははっきり西部さんの御霊に言いたいと思います。思想家というのは、そんなスタイリッシュなものではないのではないしょうか」は、冷たいやうですが、本質を見事についたお言葉で、大いに共鳴しました。
    ただ西部さん自身もそのことに氣づいてゐたやうな氣もします。西尾先生が「自分で自分を笑えるお茶目ぶった余裕」「どこか、 うらめない」とおつしやり、 私が、愛嬌のある、面白いをぢさんと好意を持つのも、 そのせゐではないでせうか。 その死生觀も、 自殺に協力した人は「尊重したかつた」と言ひましたが、額面どほりに受け取つ た人は少く、西部さん自身もあまり期待してゐなかつたのではないでせうか。

    私が西尾先生の 『ニーチェとの對話』 から多くを學んで血肉としたにもかかはらず、 ニーチェそのものは難解で齒が立たなかつたことは、先生との對談本で白状しましたから、 それをお讀み下さつた渡邊さんの記憶にあるかもしれませんが、ニヒリズムについても、同樣です。ニヒリズムとは普通には、
    1 すべての事象の根底に虚無を見いだし、何物も真に存在せず、また認識もできないとする立場。
    2 既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度
    などと説明されますが、西部委員長やその指揮を受けた大衆にそんな御大層なものがあつたのでせうか。「安保改訂は戰爭に繋がる!」→それワッショイワッショイ!がニヒリズムでせうか。どうも分りません。

    西尾先生による追悼文の方はほぼ全てが私にはよく理解できたつもりですが、あれは60年安保・轉向に觸れられなかつたためでせうか。あの部分を語るにはニヒリズム、ルサンチマンなどの語によらなければならないのでせうね。そしてそれは、「イエ スはイェサレムの最下層住民のルサンチマンに火をつけた」くらゐが限度の私には、無理なのでせうね。

    渡邊さん、折角の御厚意も猫に小判で、無にしてしまひ、申し譯ありません。謹んでお詫び申上げます。お許し下さい。

  11. ◇管理人様。
     以下とほぼ同じ内容のコメントを昨晩、一度執筆したのですが、何らかの手違いにより消えてしまった模様です。もし万が一、消えたはずのコメントの方が出現しましたら(以下のものと似たものです)そちらのコメントを削除してください。お手数おかけします。

     池田様、勇馬さま。

     いや参りましたです。実は私も記しながら「どうもまとまっていないな」という思いを禁じえませんでした。西部さんを論じるのは案外むずかしいです。このまま終わりにするのも非生産的ですから、今度は箇条書き・報告レポートふうにしてまとめたいと思います。これでわかりづらくなってしまったら、私の筆力不足で降参です(笑)

     ・西部さんの思想の全体像について

    ①西尾先生の追悼文の「ビンラディンがキリストにみえた」という箇所にあるように、西部さんは「危険なところ」がある人だった。60年安保闘争で暴れまわった経験も、その「危険」の現れだった。西部さんもそれを自覚し、60年安保の後、「危険な自分」を抑制し歯止めをするものとして、西ヨーロッパ的保守主義の知恵というようなことを主張しはじめた。西部さんの「保守主義」の正体はどうもこの抑制、歯止めという意味に重なる。

    ②1990年代くらいまで、西部さんはこの傾向の思想で推移していった。しかし2000年あたりから急に乱雑になりはじめた。特に「反アメリカ」を主張するようになってからである。西部さんはエキセントリックにアメリカを批判する割には「アメリカ」の内容についてほとんど知的蓄積がないため、その主張は私などからすればどんどん空虚になっていくものにしかみえなかった。しかも西部さんは、この反アメリカ主義を「保守主義」そのものや自分の人生観と重なり合わせるようになっていった。1990年代までの方が丁寧にアメリカを論じていてエキセントリックではぜんぜんなかった。

    ③この「乱雑化」について考えてみると、つまり、2000年以降の西部さんの思想は、いったんは強くもったはずの西ヨーロッパ保守思想の抑制や歯止めを喪失したものだったのではないか。そして乱雑な反アメリカ主義は次第に単なる煽動の様相を帯びてくる。私からすれば、1960年の西部さんの「革命」煽動と、2000年以降の西部さんの「反アメリカ主義」は、西部さんの「危うさ」が解禁されてしまったものとして酷似しているようにみえる。西部さんはおそろしいほど単純に、10代20代に回帰してしまったのではないか。

    ④不思議なこと・そして困ったことに、西部さんがエキセントリックになればなるほど、周囲のファン・取り巻き・オーディエンスに熱烈な信奉者が確立されていく(私なんかは白けてみていましたが)まさに60年安保の人気者だった西部さんの当時と同じことが繰り返されたのではないだろうか。

  12. ◇ つづきです

     60年安保の「ニヒリズム」について

     ①60年安保指導者のときの西部さんは、「馬鹿騒ぎしたかっただけ」といいながら、唐牛健太郎や清水丈夫たち同志への生涯にわたるセンチメンタルな思い入れを隠さなかったり、「馬鹿騒ぎ」の対象の大衆へのルサンチマン的批判(栗本説)をしたりと、「馬鹿騒ぎ」への複雑な愛情を隠さなかった。

     ②「革命なんて起こるはずもない」と思いながら「革命」を涙ながらに演説し、西部さんの演説を聴く大衆も涙していたあの短い時空間がなんだったのか、という疑問が西部さんにあった。「起きない」と知っていて「起きる」といい、大衆を煽動し国会前に集めたのだとしたらこれは単なる「嘘つき」である。だが単なる「嘘つき」とはいいたくなかった。大衆も「起きない」ことをわかって西部さんの言葉に涙したからだ。「嘘つきの共同体」といってもよいだろうが、西部流にスタイリッシュにいえば「ニヒリズム」ということになる。

     ③ひどく矛盾しているのは「馬鹿騒ぎ」「ニヒリズム」といいながら、既述したように、西部さんが60年安保の同志へのセンチメンタルな愛情にみられるように、その精神性を生涯、大事にしたことである。「危うさ」は西部さんにおいて温存されていたというべきだろうか。

     ④西部さんの反大衆論も矛盾している。60年安保以降、西部さんが批判した大衆あるいは民主主義主体は西部さんの「被害者」だったはずで、それにルサンチマン的怨念を向けるという図式はおかしい。そこで西部さんの反大衆論は「大衆がよくなってほしい」という大衆への過度の愛情の一種だという捉え方(ふたたび栗本説)が存在する。

     ⑤西部さんは常に「アメリカに戦後、去勢されてしまった日本」を非難しつづけた。このロジックは一見すると保守派的だが、「去勢されてしまった日本人は情けなくて愚かだ」という形の日本人批判に裏返る。「反日保守」という思想があるとすれば西部さんはそれに該当する。歴史上の個々の事象で「日本人の先進性」に関心を持つというようなことに西部さんはほとんど関心をもたず、むしろ日本人のだらしなさを叩くということを好んだ。西ヨーロッパ保守思想に依拠しつづけて、外来語ばかりの文章力に転じていったのはここにも理由があるのではないだろうか。

     ◇以上です。書きながら、「やはりこれも違うな」という思いを禁じえませんでした(笑)西部さんはわかりやすいようでむずかしいんですね。なお小さな自己宣伝ですが、現在店頭に出ています「正論」p332~333に、坪内祐三さんの新刊についての書評を掲載しています。ご笑覧くだされば幸いでございます。

  13. 渡邊 様

    いやはや、お手數をおかけしました。お疲れ樣でした。

    おかげさまで、仰せの6割くらゐは我が腑に納まつたやうな氣がします。
    ここまで引上げて下さつた貴兄の筆力は、當然ながら大したものです。
    殘り4割のうち、2割は(A)私のお粗末な頭にお言葉が理解できない、
    2割は(B)文字上の意味はなんとか掴めた氣がするものの、自分の實感にはならない、といつたところでせうか。

    最も得心したのは「西部さんはわかりやすいようでむずかしい」といふことです。
    貴兄にしても、仁王門さんにしても、西部さんが嫌ひではなく、ある種の好意を持つてゐるにしても、この人を仰いだとか仰がうと思はれたことは一度もないでせう。この點は、西部さんを殆ど知らなかつた私も全く同樣です。

    そこから私はことを舐めてゐました。西部さんの中身は難しくあるい。ーー御本人は横文字、抽象的な語や概念などを多用し、持ち出したが、こちらが西部さんといふ人物を語るのには、そのやうなものは必要あるまい。横丁の御隱居や八っつぁん・熊さんを描くのと同じ日常の生活語を以てできるだらうと思ひました。
    そこへ、ニヒリズムだのルサンチマンだのが出てきたので、戸惑つた次第です。風貌や性格は御隱居と同列に描けても、それ以上は日常語だけでは、やはり難しいでせうね。

    因みに、貴兄が丁寧に解説して下さつた次の部分は、申し譯ないことですが、私にとつては(B)に當ります。

    「『革命なんて起こるはずもない』と思いながら『革命』を涙ながら
    に演説し、西部さんの演説を聴く大衆も涙していたあの短い時空間
    がなんだったのか、という疑問が西部さんにあった。『起きない』と
    知っていて『起きる』といい、大衆を煽動し国会前に集めたのだとし
    たらこれは単なる『嘘つき』である。だが単なる『嘘つき』とはいいた
    くなかった。大衆も『起きない』ことをわかって西部さんの言葉に涙
    したからだ。『嘘つきの共同体』といってもよいだろうが、西部流に
    スタイリッシュにいえば『ニヒリズム』ということになる」

    これは、私の感性の問題でせうから、放つておいて頂いて結構ですが、西部さんが「知っていて」、大衆も「わかって」の部分に實感が持てません。
    複數で酒を飮んだ時、意氣投合して感激したり、擧句は握手したり抱合つたり、進んでは涙したり、といつたことがありますが、翌朝目覺めるとケロッと忘れてゐたり、あるいは思ひ出しても、舌打ちしたくなるやうな下らないことであつたりーーあの安保騷動とは、そんなものだとずつと思つてきました。

    私自身はあれに參加を勸められたり、強要もされましたが、必死に逃げました。あの仲間になるなんて、58年後の現在安倍シンパに加はる以上に、恥かしいことでした。
    全員まつたく 同じ表情をした「烏合の衆」のワッショイはこの上なく醜く、ただし怒濤の如くで、これと戰はうなんて氣も起きませんでした。そんなことをしたら、まづ踏み殺されたでせう。

    駄辯失禮しました。いい勉強をさせていただきました。やさしさうな
    ものがむつかしいこともあるのですね。幾重にも御禮申上げます。

    御健筆を祈ります。來月にでもお目にかかれればさいはひです。

  14. 西部さんと ”安倍外交 ”

    西部さんは「安倍やネトウヨは保守じゃない。私は憤りを込めて『ジャップ』と呼んでます」 と言つたとか。私には「保守」の意味がよく分らないので、その當否も分らない。

    西部さんに對する次のやうな批判を讀んだことがある。

    「保守思想家を自称しているし、またしばしば保守思想なるものを開陳して
    いるが、少なくとも僕の知りえた範囲では、選挙という選挙民相手の『命が
    けの戦い』を繰り返す政治家を、軽々しく『大衆政治家』と罵倒し、大衆という国民に向き合っている『政治家』そのものまで侮蔑、蔑視するかのような言論活動を展開するような保守思想家を知らない。小林秀雄も福田恆存
    も、それほど国民や大衆を侮蔑していないし、もちろん、国民や大衆の中から這い上がってきた大衆政治家という存在を冒涜するような発言は一度もしていない」

    半分贊成したく、半分反對したい。「國民」「大衆」「政治家」といふ言葉には二重のイメージがあるからだ。

    西部さんは”安倍外交”の破綻を、「対米追従に徹しておればこの列島は何とか生き延びられるであろうというプラクティカリズム(実際主義)の態度が現代日本人に骨がらみにとりついてしまったことの帰結」(死後に出版された『保守の遺言』)と批判したが、、「安倍首相よ、プラクティカリズム(実際主義)の空無を知られたし」とアドヴァイスもしてゐるさうだから、未だ見限つてはゐないのだらう。西部さんの優しさか。
    私には ”安倍外交”が、「対米追従」なのか、さうだとして、それを「プラクティカリズム(実際主義)」と呼ぶのが適切か分らないので、なんとも言へない。

    昨年か一昨年、あるブログで”安倍外交”を次のやうにこき下ろしてゐるのを讀んだ。

    「もはや安倍首相の外交は、自分一人が勝手に成果を強調するだけの空
    っぽ外交であることがはっきりした」

    「つぎの日ロ首脳会談は、7月にドイツ(ハンブルグ)で開かれるG20
    首脳会議 (20017年)の際に18回目を行うという」

    「物凄い回数だ」

    「確かにこの回数の多さは、これまでのどの首相も、そしてこれからのど
    の首相も、かなわないだろう」

    「『怒りを通り越して笑うしかない』というのが私の安倍批判の口癖だ」

    「しかし、回数の多さしか誇れるものがない安倍・プーチン首脳会談を見
    ていると、よくもここまで日本の外交を貶めたものだと、笑いを通り越し
    て激しく怒るしかない」

    「怒りを通り越し」たり「笑いを通り越し」たり、忙しいことだ。「自分一人が勝手に成果を強調」とおつしやるが、 數日前、テレビでかなり有名なコメンテーターが、「安倍總理はプーチン露大統領と22囘も會談した。それが出來るのは、 世界中で安倍さん以外にない」と絶讚するのを聞いた。 囘數を成果と認めるファンがかなりゐるらしい。

    一昨年は4~5囘會つて、初めは「強い手應へあり」と言つてゐた領土問題
    はプーチンにしてやられたが、そのことは國民を騙して、責められずにすんだ。
    それに費した一昨年分も、勿論22囘に含まれてゐるのだらう。

    西部さんが、この囘數を問題にしたか否か知らない。

    數日前の産經新聞「正論」欄に櫻井よしこさんの「いつまで森友か」と題する一文が載つた。中身は一行も讀んでゐないが、 多分、朝鮮情勢を初めとす
    る外交だけでも、課題は山積してゐる。それを放つておいて、そんな下らな
    いことにばかりに拘らはつてどうする!?といふ趣旨だらう。

    もつともとも思はれる。總理大臣が夫人や親友のかかはるところに、配慮す
    ることくらゐ快く認めるのが大國民の度量といふべきだらうか。なにしろ、22囘といふ大成果を擧げてくれたのだから。

  15. 西部氏が公民教科書を任された後に、「国民の道徳」を書かれているのを、どれくらいの方々がご存じだろうか。

    「中学生の新しい歴史教科書」を西尾先生が発表する前に、「国民の歴史」がパイロット版で出され、そして「歴史教科書」が出版され、そのあと「公民」版が出された流れだったと思う。
    もしかすると「国民の道徳」は「公民」よりも先だったのか・・・不確かなのがなさけない。

    40歳の秋、私は脊髄の病に侵され、2か月間入院治療した。
    多発性硬化症とほぼ同じ症状の痺れが、私の四肢を襲った。
    しかし幸いに「多発」しなかったため、この病名ではない病であることが、退院のころには医師から告げられた。

    入院当時、私は「国民の歴史」と「国民の道徳」をむさぼるように読んだ。
    看護師から何度注意を受けてもおかまいなしに読み込んだ。
    私の中で、両氏が比較的にバランスを保っているのは、自分の窮地の際、お二人が文章という手段で接したことが大きな要因なのかもしれない。

    共に目指す場所は一緒のはず・・・と思い込んで、私は二つの大作を読みふけっていました。
    でも正直言って、読んでいて面白いのはやっぱり歴史の方でした。
    道徳からは何も刺激がなかった・・・というわけではありませんが、歴史ほどのインパクトはありませんでした。

    でも、その後続く「国民の芸術」などと比べると、西部節が満載で、読んでいて面白かったです。芸術はもう完璧に教科書ですね。さすが田中先生です。勉強になる一冊でした。ただ、葛飾北斎と写楽が同一人物だという点。私は信じていますが、本当に間違いないのですよね?
    どなたかその辺お詳しい方いらっしゃいますでしょうか。

    ついでなので、懐かしい話をさせていただきます。
    もういまから13年くらい前の話です。
    私の従兄弟が道議会議員に立候補したんです。
    彼はスケートの橋本氏の秘書をしていて、室蘭から立候補(自民党推薦)したんですが、わずかな表で落選しました。
    その時応援演説に北海道知事の高橋さん(当時は確か彼女も選挙中でした)と、舛添氏ががいたんですが、演説の内容はどうでもよく・・・ほとんど場当たり的だったので・・・問題はその後です。
    地元のJC(商工会議所青年団)が舛添氏を接待するわけです。

    その時のエピソードを言います。

    ちなみにその時のJCの会長は3歳年下のわたしの従兄弟でした。
    彼は最初から最後まで舛添氏の面倒を見るはめだったそうです。
    地元JCと舛添氏の親睦会と称して、実のところ舛添氏が要求したところは「お姉ちゃんがたくさんいるところじゃないとダメだよ」とか言いながら、JCを翻弄するんだそうです。なにしろ彼は「女好き」。従兄弟は「こんな政治家初めて見た」と言ってました。

    実はその時の話はそれだけにはとどまらず、その時代「新しい歴史教科書をつくる会」が発足していましたので、その話題にもなったそうです。
    すると舛添氏は「あぁ、あの会はつぶれます。ダメなんですあれは。長持ちしませんよ」と、言ったそうです。

    この話を当時日録で書き込んだところ、西尾先生直々にコメントをいただき、その内容はと言うと、「舛添氏は私と西部氏が以前コテンパンに語り、その時の恨みが彼にはあるんです。」でした。

    もう15年以上前の先生の日録コメントです。
    時代が過ぎて、まさか西部氏が自殺をするとは、当時誰も思わなかったでしょう・・・本人を含め。

    個人的には、いずれ私もあの世に行く際、できれば女房より先に逝きたいというのが本音です。

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