平成31年2月13日(水)から14日(木)にかけて、西尾先生を囲む有志16名とともに、甲斐の国の名勝地、富士五湖周辺を巡ってきました。これはその紀行文です。
昨年の暮れも押し詰まったころのこと、西尾先生が「オーケストラの演奏をコンサートホールで聴いたり、まだ読み残している文豪の小説を読んだりする、そんなゆったりとした時間を過ごしてみたい」と、だれに言うともなくつぶやかれた。
先生がいかに多くの、そして偉大な仕事をされてきたかということは、現在刊行中の浩瀚な個人全集を見るまでもない。しかもそれが、決して物理的に巨大なだけでないことは、このブログの読者ならば、だれでも知っていることであろう。
先生の言葉を聞いて改めて気づいたのは、あれだけの仕事をなされるために費やした時間とは、慰安や娯楽を犠牲にした膨大な切磋琢磨の積み重ねだったということである。まさに、疾風怒濤の人生である。
これもまた昨年の春のこと、花を見ようというお誘いを受けて日時を約束したが、去年の異常に早い開花に、その日の桜は残り花一片とてなかった。桜と富士こそは、日本人のこころに、悠久の時を経て受け継がれ、育てあげてきた美の象徴でもある。花と呼ぶだけでそれが桜花であることを、わが民族は共通の心情として持っている。
それ故にこそか、桜も富士もどちらも月並みだが、月並みこそは最高の様式ではないかと思う。洗練に洗練を重ね、その絶頂に完成された月並みこそが様式美だと思うからである。
先生から富士山に行こうと誘われたのは、去年の11月であった。桜の開花日が神のみぞ知るように、富士が望めるか否かも神の采配にかかっている。ならば、晴天の確率が高く、しかもその姿あくまでも気高き、真白き富士を仰ぐためにも、あえて真冬の山梨に行きましょうと提案した。
一日目、雨こそ降らないものの空は雲に覆われている。この旅でのお宿は、富士五湖随一の名旅館と謳われる鐘山苑(かねやまえん)であった。
その中でも特に名物といわれているのが、屋上露天風呂から左右の裾野まで見渡すことができる富士の雄姿である。だがこの日、結局富士山は一度も顔を出すことはなかった。
翌日の天気予報を確認すると、晴れ時々曇りとなっている。気になるのは気温が高いことだ。地上に暖気が残るということは、放射冷却の朝のように、カラリと晴れる条件を満たさない。深夜から早朝にかけて何度も空を見上げるが、月も星も見えない。やがて、東雲(しののめ)の空を朱に明け染めることなく朝がきた。おそらく、全員の胸に落胆の思いがあふれていたことであろう。
「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ」という気分になどとてもなれない。
二日目は山中湖の水陸両用バス「KABA」に乗る。
30分の行程のうち前半の15分間は林間を走り、後半はそのまま湖に入り、水上に浮かんだまま湖水の上を周遊するというものだ。
実は我々は、ホテルの出発が遅れ、当初予約していた便に間に合わなかった。そのため一本遅いバスに乗車したのであるが、結果的にこれが奏功したのである。バスが山中湖に入ったとき、左窓からはわずかに富士の裾野だけが見えていた。そして、対岸の手前で反転し陸地が近づく直前、富士の山頂が姿を現したのだ。時刻は午前11時10分だった。
それからは、中腹を覆っていた雲もやがて切れ、忍野八海に向かう車中からは、ほぼその全容を眺めることができたのである。
このとき西尾先生が山の斜面を見つめながら、「あのギザギザとした線はなんですか?」とお尋ねになった。それは直登を避けるためにジグザグにつけられた九十九(つづら)折れの登山道で、いくつかある富士山登山路のうちの吉田ルートのものである。
毎年何十万人もの人によって踏み固められ、そして削られてゆく、現在進行形の富士の生傷とも言えよう。
忍野八海では、そこに滞在中ずっと富士山を見ることができた。背景は青空ではなくて厚い雲ではあったから、終わりよければすべて良しとするには少し足りないかもしれないが、見えるのと見えないのとではまったく違う。やっと少しだけ、責任を果たしたような気分になった。
例年4月から5月にかけて、富士山の北西斜面に「農鳥・のうとり」という雪形が出現する。これが現れることで春の訪れを知り、農作業の準備をしたという言い伝えがあるが、我々が訪れたとき、この農鳥がくっきりと見えたのである。
冬場の強風等で周囲の雪が吹き飛ばされることで、1月や2月に現れるものを地元では、「季節外れの農鳥」と呼ぶのだそうである。
昼食を終え帰路につくバスが高速道路に乗るころには、富士はまた厚い雲の中に隠れて見えなくなった。
古今和歌集から富士を読んだ歌、二種
人知れぬ思ひを常に駿河なる富士の山こそ我が身なりけり(詠み人知らず)
【恋しいお方に知られない思いの火を燃やし続ける私。まるで、火を噴き出す富士山こそ我が身なのだろう】
富士の嶺のならぬ思ひに燃えば燃え神だに消たぬむなしけぶりを(紀全子)
【炎にはならず、煙ばかりをあげる富士山のように、私の思いも成就しないまま燻ぶるだけ燻ぶるがいい。神も消すことが出来ない空しいその煙を】
どちらも片恋の歌である。
富士山が最後に噴火したのは宝永4年(1707)だから、古今集が勅撰された延喜5年(905)の平安時代にも盛んに噴煙を上げていたことだろう。ずっと時代が下った平安末期、西行法師も
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへもしらぬわが思ひかな(新古今)
と詠んでいる。
「三七七八米(ママ)の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすくつと立つてゐたあの月見草はよかつた。富士には、月見草がよく似合ふ」
富嶽百景の、特に最後の一行は有名だが、実は太宰は同作でこんなことも書いている。
「御坂峠に着き、この峠の天下茶屋から見た富士は昔から富士三景のひとつらしいが、あまり好かなかつた。好かないばかりか軽蔑さえした。あまりに、おあつらえのむきの富士である。」
実は西尾先生も、これとそっくりのことをおっしゃっていたのである。「手前に湖があって、その奥に富士山があるような眺めは好きではない。人々の生活感が感じられる屋並みを通して望む富士こそ見たいのだ」と。
浅野正美