西欧の地球侵略と日本の鎖国(五)

(五/六)
 問題は16、17世紀から18世紀へと移ってゆくときの日本と世界との関係なのです。そこでクックの話をしたいのですが、その前にロシアがどんどんアジアに接近してくるという話があります。コサックがウラルを越えてシベリアに侵入してくるという動きは急を告げていたのですが、その動きに当時の日本は全く気がつきません。それがどういう動きになってくるかというと、ベーリング海やベーリング海峡という名前になって残っているので有名ですが、ヴィトゥス・ベーリングという人です。それまでにロシアは1707年にカムチャッカ半島を領有しています。

 最初の南太平洋のことをいっていた時代から、北太平洋を巡るドラマも始まっていました。そのドラマは何かというと、このベーリング海峡を突き抜けてヨーロッパへ行ったりロシアへ行ったり日本へ来たりする航路を自由に開発、発展出来るのではないかということ。1724年、病床に臥していた晩年のピョートル大帝は、そもそも「ベーリング海峡」が海峡なのかも分からなかったので「今こそロシアの叡智と輝きを以て国家的名誉のためにこの航路の発見を」と海軍大尉ベーリングに命を下しました。実際に出港したのは1728年。その時すでにピョートル大帝は夢を抱いて亡くなっています。

 アラスカ半島から細く伸びた火山帯があって、それがアリューシャン列島です。このアリューシャン列島とシベリアとアラスカに囲まれているのがベーリング海です。その先にベーリング海峡があります。これを探検するのは、遠くから海を渡ってくるよりも内海のようで簡単に見えますが、当時は帆船で、8月でも9月でも凍っている海ですから簡単ではなかったのです。「カムチャッカ半島まで行けば目と鼻の先だから」とピョートル大帝は言いました。「イギリスが考えているよりもずっと楽だろう。イギリスは北の海を突き抜けるのだから、我々ロシア人のほうが有利なはずだ」というのがピョートル大帝の考えでした。それからスタートまでに4年かかります。カムチャッカ半島で船を造るのです。そのために人と物資をシベリアを越えて運ばなければいけない。シベリア鉄道なんてなく、これを陸路運ぶのですから4年くらいかかっているのです。

 ベーリングは1728年の第一回目の航海でやっと海峡の存在、いわゆるベーリング海峡を確認します。そのとき対岸のアラスカ、つまりアメリカ大陸を望んだけれども霧が濃くて一旦戻ります。そして二回目の航海はベーリング海峡の存在は認めたのでもうそれ以上はやらずに、アリューシャン列島の南を通って、いきなりアラスカに入ってゆきます。それは政府の命令で、「アラスカへ行ってちゃんとやりなさい。アメリカ大陸の発見こそが大事な使命なのだから」ということで、1741年にアメリカ大陸に上陸するのですが、僅か6時間しか調査時間を与えることができませんでした。なぜなら季節的にも時間的にも帰路が危うかったからです。そしてそう想像していたとおりに北のある無人島の穴倉で隊員が次々と死んでしまい、ベーリングも死んでしまいます。それでも二度の探検による「アメリカ大陸発見」です。年表の「1741年 ベーリング、アメリカ大陸(アラスカ)を発見」。この北の海から発見した「アメリカ大陸」はコロンブスにも比すべきドラマです。

 ここで最大の通商問題が起こります。それまでロシアの輸出していた品物の大半はキタキツネやリス、ウサギといった森林動物の毛皮でした。ところが海洋動物ラッコがもの凄い繁殖力で、無限大の如く存在するのを発見して、ベーリングはラッコの存在を報告します。持ち帰ったラッコの毛皮が高く売れることが分かり、やがて探検隊が組まれてラッコ獲得作戦がロシアの次の政治目的になります。ロシアが獲得したラッコはロシア人が使うのではないのです。ヨーロッパに売るのでもないのです。何度も言ったようにヨーロッパもロシアも貧しいのです。売ったのは満洲の貴族です。満洲の貴族というのは清朝です。清朝の貴族にラッコの毛皮を売ることが18世紀ヨーロッパの最大の貿易だったのです。

 ラッコの話が世界史に出てこないのはおかしなことで、これから必ず出てきますよ。これは最大のドラマなのです。つまりあれほど騒いでいた香辛料から、いつの間にかラッコの毛皮を巡って次々とイギリス、フランス、アメリカも参入してくるのです。日本の北や南の海に次々とロシア船やアメリカ船が貿易をさせろと言って現れますね。目的は「ラッコの毛皮を買ってくれ」ということなのです。それまでラッコの毛皮は北京にしか行っていないから金がある広東に行って貿易したいので中継地として日本を開いてくれと・・・。アメリカまで参加してきて、これが各国の要望だったのです。ラッコは可愛い動物なのですが、これが何十年かで乱獲されてしまい、19世紀末にはだんだん貿易が成り立たなくなってしまします。

 次にジェームズ・クックの話をしなくてはいけません。クックはロシアのベーリングに続いて立ち上がったイギリスの世界周航で名前を馳せた有名な人で、キャプテン・クックとも言いますね。クックは三回探検しています。第一次が1768年、第二次が1772年、第3次が1776年です。第一次航海はイギリスから出向して南アメリカに沿ってマゼラン海峡を通過して、そしてニュージーランドとオーストラリアの辺りを盛んに動きます。

 タヒチ島にも立ち寄って、このときイギリス政府は金星の太陽からの距離の測定を課題として命じて、そのためにタヒチ島にイギリスの居館を造らせて観測隊が観測をします。そこがイギリスの腹黒いところで、そういう名目でイギリスは各国を騙してニュージーランドやオーストラリアを我が物にしてゆきます。今でもジェームズ・クックの名前はニュージーランドとオーストラリアにたくさん残っていますね。ニュージーランドの北と南の島を挟む海はクック海峡といいます。そこに素晴らしい山があって、私も途中まで登ったことがあるのですが、クック山というのですね。「クック」の名前がたくさん付いているのです。そしてクックはオーストラリアの東海岸を初めて探検します。最初ヨーロッパ人はオーストラリアの西海岸から探検するのですが、海が荒くほとんどが砂漠で魅力も無いものだから、オランダ人も来ていましたが皆諦めてしまいます。ところが東海岸は素晴らしい海岸で、現在有名な町が並ぶのはこの辺なのですが、そこを発見して英国領と宣言するのです。同様にニュージーランドにも三本のイギリスの旗が翻るのです。クックはそういうことをやるために海軍から金を貰って行ったのです。そうしてイギリスへ帰ると大変な評判になります。第二次航海はアフリカを通って逆回りをします。既にニュージーランドの海域はクックにとって「憩いの海域」となっていて、そこで休んで今度は南極探検を始めるのです。もう一息で南極大陸発見には至らず、寒さと勇猛果敢なマオイ族の襲撃でダメになって戻るのですが、南極大陸発見はこの後半世紀後でかなり先になります。それが日本は「1772年 田沼意次老中になる」時代で日本は何をしていたのだろう、と思うでしょう。

 そして1776年に第三次航海です。再びアフリカ周りでニュージーランドをぐるぐるした後、海軍の命令で北太平洋を初めて探検します。これはヨーロッパ人初めてのことです。アメリカ独立宣言の年でもあり、クックはハワイ諸島を発見します。海軍から命令された内容は、ロシア人がやってもまだ出来ていない、ベーリング海峡を越えてイギリスに帰ることで、懸賞が付いていました。当時の「宇宙開発」のようなものだったのでしょう。ずうっと北へ上がってアメリカ大陸オレゴンの辺りで一休みします。スペインと問題が起こりぶつかるのですが、ベーリング海峡を抜けて北極海に出ることには成功します。9月でしたが氷に阻まれて引き返して、ハワイに戻って越冬することにしました。ところがハワイでクックは殺されてしまうのです。最初立ち寄ったときにクックは神にされます。そして神として一度送り出したのに、何ヶ月か経って戻って来たことでトラブルが起こるのです。そのことについては大変複雑なドラマがあったようです。その時の江戸時代の日本人と比較したとき、宗教上の問題で一体どういうことがあり得るでしょうか。日本は鎖国していて西洋人は近づけませんでした。入れば首を切られてしまうのですから日本列島には入れなかったのです。それに対してハワイは入ることができたのですが、不思議な信仰の対象にされて戻った時に殺害されてしまった。そして遺体は返してもらえない。クックの隊員はお百度踏んで遺体を返してもらったのですが、肉が骨から削がれて焼かれていました。宗教上の儀式が行われて、これが何なのか。大変な伝説と宗教上の議論を呼んでいます。それからクック亡き後隊員たちは、ハワイ諸島からカムチャッカ半島に沿って北上して、その帰路で日本列島の東海岸を測量して帰国します。

つづく

西欧の地球侵略と日本の鎖国(三)

 年表について私はもっと詳しいものを作っていますが、「年表をどう作るか」が歴史なのです。年表を見ては駄目なのです。当来の年表を見て自分で選んで作るものなのです。私は彼方此方から取って年表を作っているのですが、こんな小さな年表でも誰も言っていなかったことがちゃんと入っているのです。つまり「東南アジアと日本の歴史と、ロシアとアメリカの動きを総合的に入れた歴史年表」というのが日本の歴史家の頭の中に無いからこの地上にも存在しないのです。これは不完全ですが、そういう年表は自分で作るしかないのです。

【18世紀から19世紀頭】
1707年 ロシア、カムチャッカ領有
1716年 吉宗、八代将軍に
1719年 フランス、東インド会社創設、デフォー『ロビンソン・クルーソー』刊行
1722年 清朝、雍正帝即位。ロシア人、千島を探検する
1728年 ピョートル大帝の意を体したベーリング第一次探検隊、いわゆるベーリング海峡を確認する。ロシア人、ラッコの毛皮交易の重要性に初めて着目
1734年 ロシア、中央アジア遠征隊、キルギス征服
1735年 清朝、乾隆帝即位
1739年 元文の黒船、ロシア人シュパンベルクとウォルトン(ベーリング別動隊)千島を南下し、ふと立ち寄る風に日本本土に来航する。
1740年 バタヴィアでオランダ、1万人規模のジャワ島民虐殺
1741年 ベーリング、アメリカ大陸(アラスカ)を発見
1746年 フランス、マドラス島からイギリスを駆逐する
1749年 ジャワのマタラム国王、オランダに屈服し主権を失う
1757年 プラッシーの戦い、英仏本土での交戦(「七年戦争」)インドに波及
1762年 イギリス、マニラ占領
1763年 イギリスがカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ、フロリダを獲得する(パリ条約)。フランスはカナダに続いてインドも失う
1765年 ワット蒸気機関を発明
1768年 ジェームズ・クック第一次世界周航出発
1770年 クック、ニュージーランドの3ケ所に英国旗を立て、オーストラリア東岸を英領と宣言。フランス東インド会社解散
1772年 田沼意次老中となる。クック第二次世界周航出発
1773年 英人ヘイスティングがインドを虐政により強制統治。イギリス東インド会社がインドでのアヘン専売権獲得。イエズス会解散
1774年 杉田玄白・前野良沢『解体新書』成る
1776年 クック第三次世界周航出発。ハワイに到達、アラスカ海岸を北上探索してベーリング海峡を抜ける試みに失敗してハワイに戻り、79年不慮の死をとげる。76年アメリカ独立宣言
1777年 オランダ、ジャワ全土征服完了
1783年 ロシア、コディアック島(アラスカ)を占拠、北太平洋活動拠点を固める
1784年 クック航海記刊行、世界中で読まれ、ラッ毛皮交易の拡大に火をつける
1785年 フランス、ラペルーズ探検隊、宗谷海峡を抜ける
1787年 松平定信寛政の改革
1789年 ヌートカ湾事件、フランス革命
1804年 ロシア使節レザノフ、長崎来航

 「1772年 田沼意次老中となる。」や「1787年 松平定信寛政の改革」をみれば日本がどれほど孤立して世界の動向から離れていたかお分かりになるかと思います。

 私がお話ししたいのは、この時代の世界の話です。日本人にとっての鎖国は自然に何もしないでいても安全だったという話をしましたが、もし日本列島がフィリピンの位置にあったらどうでしょう。もし日本列島がフィリピンの位置にあったら、海外勢力は東西南北あらゆる方向から自由に攻撃できたはずです。南の海、南太平洋は自由だったのです。だから私は「1762年 イギリス、マニラ占領」を入れたのです。しかし北の海、北太平洋というものは人類が全く近づくことが出来ない海域であったということは、日本が分からないだけではなく、マゼラン以降の海洋勢力、大航海時代の人達にとっても太平洋の北半分の部分は魔界、「未知の海」だったということです。私はその話に誰も気付かないのが不思議で仕方がないのですが、それが日本の鎖国の背景です。

 日本人は本当には海というものを知らなかった。越後にも海はあった。備前にも薩摩にも海はあった。至るところに海はあり、そして海辺で海を見ている平和な国民は確実に居たのですが、「海洋」という概念、すなわち「海は繋がっている「こっちの海も向こうの海もひと繋がり」という観念は江戸時代の中期まで何も無かったのです。つまり日本列島の地理的形態もはっきりとは認識されていなかった。勿論地理学を勉強している人もいなかった。いたとしても限られた知見を持った知識人でした。新井白石のような人はいろいろ勉強をしていましたが、それでも殆ど知りませんでした。調べようが無かったのです。すべての情報は西、すなわち唐天竺から来る。漢字、漢文で来る・・・。それが日本人の長い伝統でした。いちばん最初にやってきた地図がラテン語で書かれていたら、それは模様にしか見えず、屏風絵にしかなりませんでした。

 最初に「地球は丸い」ということを教えてくれたのは、シナのイエズス会宣教師マテオ・リッチの『坤與萬國全圖(こんよばんこくぜんず)』で、北京で1602年に出版されました。木版6刷で縦1.8メートル、横4メートルという大きな地図です。世界の姿を楕円形で表現していて、当時普通の地図の書き方です。我が国の事もけっこう書かれていて、諸国の国名と七道が挙げられていました。これが日本にも紹介されて、この地図に漢字、漢文で説明が書かれていたので、「亜細亜(アジア)」、「欧羅巴(ヨーロッパ)」或いは「赤道」、「南極」、「北極」などという地理的概念はこのマテオ・リッチの地図に描かれていた漢字解説を基として今日に至るまで使われているのです。

 新井白石が理解していた世界も殆どこの地図の中に閉じ込められていました。我が国も少しずつ世界の情勢に目覚めるのですが、海に関する観念、殊に太平洋についての距離感覚はまことに頼りないものでした。以下の文は長崎に住んでいて、海外図書の閲覧だけでなくオランダ人から直に情報を得て勉強していた西川如見という人の『日本水土考』における太平洋に関する観念です。

 「日本の東は冥海遠濶世界第一の処にして、地勢相絶す。故に図上には亜墨利加(アメリカ)洲を以て東に置くと雖も、地系還(めぐ)つて西方に接して、その水土陰悪偏気の国なり。地体渾円の理を按ずるときは、則ち当に亜墨利加を以て西極に属すべし。」
(訳:日本の東は世界一大きな海原が遥か遠くなみなみと水を湛え、人知の及ばぬ地勢である。だから地図の上ではアメリカはわが日本の東に位置するといえども、大地を西に廻って西の果ての地として理解するほうがよい。その地理風土は天災を奥に秘め、正常とはいえない国である。大地の形が理論上球体であるというのなら、アメリカは西の最果ての地と看做すべきである。)

 「太平洋は何か恐ろしく巨大で、アメリカの事はもうサッパリ分からない。お手上げだ」つまり、はなから降参しているのです。「日本人にとって文明は常に西方浄土からやってくる。それならば分り易い。西のほうにどんどん行こうではないか。訳の分からないアメリカの事は後回しにしよう。地球が丸いのなら西にどんどん行けばいい。いつかは出会うだろう。それまでアメリカの事は考えないようにしたい・・・」そう言っているわけです。

 これは1720年です。これがこの後100年くらい続くのです。勿論この間にいろいろ考えられ、発見もあり本もいろいろ出てきますが、限られた知識層がこうなのですから、日本人がどのような認識で世界を見ていたかはおよそ察せられます。ここで詳しくは話せませんが、新井白石もこの程度の認識が前提でした。白石は大変な儒学者で政治家でしたが、論文を書くのは人生の最後でした。儒学者でしたが、シナのことは書かずに日本の歴史の事だけ書いたのですね。活動期は1713年から25年です。その頃はまだアメリカの歴史は展開していません。ですからヨーロッパのことは詳しいのです。有名な『西洋紀聞』や『采覧異言(さいらんいげん)』などはヨーロッパの事を書いているのです。そうはいっても西から来る知識のほうが確かなので、漢語で入ってきた知識で書いているのです。東に位置しているアメリカについては、どうも訳が分かりません。アメリカについて書いてあることは中南米についてです。あの頃はカリブ海で砂糖を作って大騒ぎしていたので、西から情報が伝わっていったのでしょう。あとメキシコやブラジルについての記述があります。しかし北アメリカはまだ無かったので当然資料も無いのです。それが今日の話のメインテーマです。

つづく

西欧の地球侵略と日本の鎖国(二)

 「見直し進む対外歴史研究・江戸時代は本当に鎖国か?」「幕府は最初から鎖国を意図していたわけではない。そんな状態がたまたま200年程続いた。何となく鎖国だったのだ」東大教授 藤田覚氏。私もその通りだと思います。

 大石慎三郎先生という江戸時代の大家の方は、「鎖国後のほうがその前より我が国の対外貿易額が増えている。密度の程度は様々だけれど、国家というのはどんな時代でも必ず対外管理体制というものをとるものなのだ。鎖国と称せられる現象は世界史のしがらみから日本が離れたということではなく、圧倒的な西洋の軍事力や文明力の落差のもとで日本が自分を主体的に守る政策であった。それが海禁政策で、つまり鎖国とは鎖国という方法手段による我が国の世界への開国であったとすべきであろう。従って寛永の鎖国こそが日本の世界への第一次開国であり、ゆっくりゆっくり世界の動向に日本が自分を合わせるために余計なところに行ってはいけない。どんどん入れたりするな。ただし貿易は政府がやるからみんな黙っていろ・・・。というのが江戸時代の考え方であってそれは第一次開国であったと。そして世に開国と言われている安政の開港は江戸という時代の訓練を経た我が国の第二次開国であると。明治の開国は第二次開国なのだと。すでに鎖国と呼ばれているものはある種の開国であった・・・」今まで私の書いた鎖国論もこの観点に立っています。朝日新聞のインターネットなどにもありましたか? 「江戸時代は本当に鎖国か? 見直しする対外歴史研究」江戸時代は鎖国といっても意図的、政策的なものは無かった、ということですね。

 でもねぇ・・・。鎖国はあったんだよ。(笑)私は10世紀から鎖国だったと思っています。そういう観点を入れてみる必要があります。10世紀というと唐の崩壊です。そこで東アジアは国際社会ではなくなるのです。それまでは唐を中心とした渤海国とか高麗国などの国際秩序がありました。そして正月一回、宮廷を中心とした大式典がありました。シナで行われ、日本の朝廷でも行われ、そして使節を呼ぶのです。日本からは空海や最澄が行ったりしています。そして皇帝の前で平伏す。「元会儀礼」といいます。素晴らしい壮麗なる儀式をやる。それに負けてはいけないと日本の朝廷もまた元会をやる。そういう華やかな記録が全部残っています。歌舞音曲を伴い、たくさんの人を集めます。それは国際的な「礼」の競争、ある種の戦争であって、国際的な競い合いだったのです。「俺のところはこれだけ立派にやっているが、お前のところはどうだ? 日本もなかなかやるじゃないか」というように各国から使節を呼んで行っていた。

 しかし唐が崩壊したら止めてしまったのです。いっぺんにではなく、だんだんやらなくなる。つまり張り合う必要が無くなってしまったのです。東アジアに国際社会が無くなってしまったのです。すると同時に日本は何をしたかというと、朝廷というものが二次的になってしまう。天皇が権力を失うのです。それから何が出てきたかというと、天皇の権力というものが宗教化してゆき、ご存知のとおり上皇が出てきて、院政が出てきて、武士階級が出てきて、というご存知のとおりの日本の歴史の展開となってゆきます。ということは、これは文字通り鎖国ではないでしょうか? つまり「朝廷を柱にして、それを前面に押し立てて世界に面と向かってゆく」という国威発揚の意識が要らなくなったのです。天皇はもう顔ではない。後ろのほうに隠しておいて祭主のようになってゆくわけです。これが何を意味するかというと、鎖国ではないでしょうか・・・。だってその後ずうっと戦争も外交も殆ど無いではないですか? なにも江戸時代になってからの話ではありません。ずうっと何も無いではないですか? 確かに17世紀には南蛮が入ってきます。しかしそれもそれほど危険でも怖かったわけでもありませんでした。ですから日本は10世紀からある意味で鎖国をしていたのです。私はそういう見方もあると言っているのです。加えて江戸時代における鎖国があったかどうかという問題について、これは16世紀~19世紀という、歴史の展開を見ないと言えないのです。今日はこれからそのお話しをします。

 16、17世紀と18世紀はガラリと対外関係が変わります。まず16世紀から17世紀を以下年代記風にまとめてみます。

【16、17世紀】
1511年 ポルトガル、マラッカ海峡制圧
1521年 マゼラン、フィリピンに到着
1543年 種子島に鉄砲伝来
1577年から1580年 英人ドレイク、世界一周に成功
1580年 ポルトガル、スペインに併合される。この頃、オランダが登場し、イギリスをまじえてアジアの海は騒然としてくる。
1581年 ロシアのコサック兵団、西部シベリアに侵入。
1590年 秀吉の天下統一
1596年 オランダの商船隊、ジャワに到着。
1600年 イギリス東インド会社設立。オランダ船リーフデ号、大分の海岸に到着。英人ウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗っている。
1602年 オランダ東インド会社設立
1603年 徳川幕海幕
1623年 アンボイナ事件(英人と日本人がオランダ人に虐殺される。)
1632年 台湾事件(末次平蔵、濱田彌兵衛の活躍)
1635年 幕府、日本人の海外渡航を禁じ、所謂「海禁」政策発足。翌年出島完成。
1640年 ロシア、ヤクーツクにバイカル湖以東の侵略策源地を定める。
1641年 オランダ、ジャワとその周辺諸島の決定的支配権を握る
1651年 ロシア、イルクーツク市を創設
1655年 鄭成功の西太平洋における海軍勢力(艦船1,000隻、兵力10万)最高潮になる。
1681年 鄭、海戦に敗れ、ヨーロッパが世界の海のほぼ全域を監視対象にすることとなる。
1689年 露清間にネルチンスク条約
1698年 ロシアによるカムチャッカ半島の初探検が行われる

 1623年のアンボイナ事件というのは、オランダがイギリス人と日本人を虐殺した事件です。アンボイナというのはモルッカ諸島ですから、インドネシアの島ですね。そこでオランダがイギリス人を10人、日本人を20人殺しました。イギリスは断固抗議するのですが、一旦諦めて、インドネシア海域から離れてインドのほうへ移動します。イギリスはもうインドネシアで戦うのを止めて、インド経営に集中する。イギリスがオランダに敗退した事件です。その代わりイギリスは執念深い。現地オランダで戦争を始めるのです。そこで条約を結んで、インドネシアでやった怪しからん出来事に対して賠償金を取り上げるのです。

 ところが幕府は日本人が殺されているというのに一言も抗議をしないのです。それが日本人だよ。今も昔も変わらないんだよ! メリハリが無かった、国家意識が無かった・・・、ということかもしれませんが、そんなことを言ったら、その当時はどこの国にも「国家意識」があったか、などということはよく分からなかった時代です。それから10年ほど経って「鎖国」です。つまりアンボイナ事件は日本人が東南アジアにたくさん出て行った時代です。それをやってはいけません、というのが鎖国で、日本人の海外渡航と帰国を禁じたのは1635年です。

 その後17世紀は鄭成功という母親が日本人で父親がシナ人の男が出てきて、台湾を中心に暴れまわります。でもこの人が暴れまわるのは僅かの期間で、台湾をオランダから解放するのは日本ではなくて鄭成功です。しかしこれが敗れるのが17世紀の終わりで、そうしたら実はヨーロッパは世界の海をほぼ制圧することになったのです。この後ずうっと今に至るまで「世界はヨーロッパ」ということから動いていません。日本は今に至るまで鎖国です。教科書や歴史学者はやっと私の次に「鎖国は無かった」と言っています。私は「鎖国はあった」。10世紀からずっと鎖国ではないか? と言っているのです。

 以上16,17世紀の年表にロシアの動きを入れましたが、両世紀はオランダが大きな役割を果たしているのがよくわかります。ロシアは少し動きだしていますが、まだ日本の近くには来ていません。

つづく

西欧の地球侵略と日本の鎖国(一)

開催日:平成28年4月24日 
場所:豊島区医師会館
主催:日本の伝統と文化を語る集い
企画・運営:「新しい歴史教科書をつくる会」東京支部
【<歴史・公民>東京塾・第30回研修会】

(一/六)
 今日はすこし細かい話になると思います。私たちにとって重大な歴史の概念である鎖国を『国民の歴史』で「鎖国は本当にあったのか」という一節で表現しました。そうしたら歴史学者たちから、そんなことはもう言われていることだと頻りに言われました。ところが歴史の教科書その他における「鎖国の見直し論」というのはその後、だいたい15年くらいなのです。最近になると、全ての歴史教科書から鎖国という言葉は消えつつあります。「江戸時代に鎖国は無かった」と・・・。私が「果たして鎖国はあったのか?」と言ってそれに影響された、ということは口が裂けても言いたくないのですよね。(笑)でも鎖国は複雑な概念で、私は再び「鎖国はあったのだ」ということを言おうと思っています。

 「鎖国は無かった」という議論のおおむねは、日本は自分を守ったわけでもなければ、何となく余裕があったのだ、ということが言いたかったわけです。通例「鎖国論」のおおむねは「鎖国得失論」から始まります。代表的な一人は徳富蘇峰。日本は鎖国をしたために植民地獲得競争に敗れて損をしたのだという議論。得失の「失」のほうで、損をしたという議論です。もう一人は戦後になって出た和辻哲郎。これも「失」のほうで、日本は鎖国によって科学の精神を持たなかったから、科学の発展が遅れてしまい戦争に負けたのだ。分かり易く言えばそういう概念で論じて、暗いイメージで鎖国をとらえています。それに対して「得」をしたという議論もあります。その間に日本の文明が成熟する時を持ち得たのだから得をしたのだ、という議論です。しかし損とか得とかいう議論がそもそも成り立つのか、ということが大きな問題です。

 17世紀の後半にはポルトガルやスペインの衰退に続いてオランダも衰退し、代わりにイギリスとフランスが登場します。それでも日本の海域が両国に脅かされることはありませんでした。イギリスとフランスは本国でも戦争ばかりしていて、インドやカナダにおいても事々に激しい争奪戦を重ねて、日本は暫しの間高みの見物を楽しんでいればよかったのです。日本は鎖国していたのではなく、海外へ敢えて出ていく必要が無かっただけではないか? というのがもう一つの観点です。つまり損得とは違うもう一つ別の歴史の観念を受け入れてみてはどうか? ということです。

 日本は金銀銅の埋蔵に恵まれていて、無理して海外に出かけて行って危険な貿易をしなくても国内から産出する富によって、十分に外国の商品を買付けることが出来ました。日本は決して眠っていたのではありません。本の出版点数は、少なくともヨーロッパに関するものは江戸時代に入って急激に増えていて、日本の輸入した最大の商品は絹織物に次いで漢籍つまりシナの本であったことも一つの判断材料になります。しかし国内から産出する金銀が底をつく時がすぐにやってきました。八代将軍吉宗の代になると輸入を抑制して、むしろ海外から生産技術を手に入れて色々なものの国産化を急ぐようになりました。

 ヨーロッパと争って東南アジアの物産を買い入れたりしていた、といっても日本が船で出掛けて行って買付けるのではなく、オランダ船に持ってこさせていたのです。当時のヨーロッパの船はヨーロッパから「ヨーロッパの製品」を運んでアジアに売っていたのではないのです。売る物なんて大して無かったのです。ヨーロッパは貧しくアジアは富んでいたという情勢を頭の中に置いてみてください。ヨーロッパに何も無かったわけではありませんが、しかし価値のある物はシナから日本に運び、日本からシナに運ぶ・・・。オランダ船の役割は海運業だったので、ヨーロッパの人たちはそうやって稼いでいた可哀想な人たちだったのです。

 いつ頃からそれが変わり始めたかというと産業革命です。後でその話をしますが、18世紀の中頃から大きく変わり始めるのです。日本は国内に東アジアの物産を移植して、それを自ら生産するシステムを確立します。言い換えればアジアから輸入していた砂糖や他にもいろいろな物産を日本人が自家生産するようになって、だんだん国内の生産力が高まってそれによって経済的に輸出入から独立するようになります。これもヨーロッパと歩調を共にしています。ヨーロッパはイスラムと争っていて、そのイスラムを打倒するまでは行きませんが、とにかく抑えて大西洋経済圏をつくります。カリブ海から砂糖を運んできたり、アメリカ大陸で綿花の栽培をする。そういうものによって近代世界システムが生まれてきてアジア、東南アジアの物産から解放されるのです。

 それとパラレルだったのが日本における鎖国体制で、アジアの物産からの解放という点でヨーロッパと極めて合似た歴史的展開をしていました。ヨーロッパはそれをほとんど奴隷貿易で行っていました。奴隷を使っていたヨーロッパですが、日本の場合は欧米と違い国内の勤勉によってそれを保持しました。ですから近代化が始まったときの、資本の蓄積という点では、欧米は奴隷による物産の生産と交易によって資本を蓄積しましたが、日本は主に農村に貯まっていたお金によって資本主義が離陸するという経験をしているのです。日本の農村は貧しかったのではなく勤勉で、蓄積をしていた農本資本主義でした。皆さんご存知の第一勧銀という銀行がありましたが、それは昔第一銀行があったからで、第一銀行と日本勧業銀行が一緒になったからです。今はみずほ銀行ですね。軽井沢に行くと八十二銀行というのがありますし、幾つかまだ残っていますね。農村の銀行はみんな番号が付いていたのです。そして東京には第一銀行があったのです。渋沢栄一の発案で出来た銀行制度です。それによって何が言えるかというと、「農村に貯まっていたお金を基本に作られた銀行」ということです。日本は貧しいながらに独立して孤独に立ち上がった資本主義です。明治以降のことは皆さんご存知でしょうけれど、江戸時代、幕藩体制のなかで日本の近代化は少しずつ出来上がってゆきました。

 「外国を締め出す」「行ってはいけない」「人に移動の自由を否定する」ということを海禁政策といいますが、これについては東アジア共通の問題で、シナも朝鮮半島も海禁政策をとっていました。ですから徳川日本の時代は自分が諸外国から締め出されている、という閉塞感はあまりありませんでした。つまり、ごく自然なことをしていただけで「別に努力しなくともいいじゃないか。最初はお金があって、そのうち自立するようにもなって、外国からとくに滋く出入りする必要は何も無いではないか・・・」ということです。「鎖国」という言葉がそもそもなかった。国を閉ざすという意識もなかった。意識が無いのだから鎖国という言葉があるわけないのですね。オランダの通使がエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』を翻訳したとき、“to keep it shut up”という“shut up”という言葉を遣ったから翻訳されたときに「鎖国」という言葉が出たのですが、それはそういう文字が「翻訳された」というだけであって、日本人には自分の国を閉ざしているという自覚は無かったのです。

 ところが他国意識が生まれ、自分で自分を閉ざしていてはいけないのではないか、という認識が出てくるのは、実際に海外渡航が可能になってから、すなわち明治に入ってからです。それも明治の末年から大正期にかけてからなのです。進歩に反するとか、世界の体制から立ち遅れる・・・、というような暗いイメージが一斉に付き纏いはじめたのはこの頃から、大正文化の影響なのです。江戸時代の人はそんなことを考えていなかったのです。閉ざしているという自覚も認識も無かったのです。明治時代だって無かったのです。例えば内田銀蔵という人は、明治36年の『明治近世史』に「江戸時代を鎖国としたものの、貿易は当時むしろ盛んになり諸国との外交を閉ざしたわけではない。」ということを寧ろ強調しています。また中村孝也という人が、『江戸幕府鎖国史論』という大正3年の本でも「鎖国は幕末に出た言葉で、17世紀の用語ではなく国政の若干部分に対して自ら封鎖したのに過ぎざるなり。孤立独在に近づけるものに非ず」、ようするに「鎖国は無かった」ということをちゃんと言っているのです。

 先ほど言った徳富蘇峰と和辻哲郎の「鎖国は損をした」という得失論が出てくる背景というのは、江戸時代には意識も認識も無かったし、現実においてそんな暗いイメージは何も付き纏っていない。それが明治になって、国を開いて始めて彼方此方(あちこち)みんなで行けるようになってみたら、急にそういうことを言い出す空気になる。そして戦争に勝つか負けるかという話になったとき、徳富蘇峰は「鎖国していたから損をした」と言い、和辻哲郎は「鎖国していたから負けたのだ」という議論になりました。そのことについては今から15、6年前、ちょうど私の『国民の歴史』が出た頃から、歴史学会も鎖国を批判して、鎖国は海禁という言葉に取り換えられて歴史の教科書もそうなりつつあるかと思います。

つづく

現代世界史放談(九)

アメリカの世界支配構造

 ピルグリムファーザーというのは、最大多数がプロテストタントなんです。アメリカはプロテスタントの国であるということはアメリカの世界史の支配構造と深く関係しているんですが、これをどう説明するかは難しい。

 結論だけ言いますが、たとえばリンカーンは宗教者です。南北戦争、あれは奴隷を解放するために戦った戦争ではない。13州に分かれていたアメリカを一つのネイションにするという、英語でゼムと書いていた13州をイットにする、単数扱いにする戦争だった。複数を単数にした。それはワシントンから続くアメリカの努力目標だった。しかしその理想もまた、暴力でしか実現できなかった。それが南北戦争です。それによって強引に統一国家になった。南部にはたくさんの問題があったのに、全部切り捨ててしまった。北から南の制圧には凄まじいことが行われた。

 その制圧の仕方を真似したのが、実は日本征服なんですよ。北アメリカが南アメリカを抑えるときにとった政策、たとえば公職追放、指導者を牢屋にぶち込んで罪の意識を与えて、しばらくしてある段階になって釈放し、従順な知識人を復活させて自分たちのほうに取り込むという、アメリカ占領軍はこの北軍のやり方をそっくり日本に当て嵌めました。それが自由民主党の生まれた所以です。それから日本は肝どころを握られ、ずっと支配されっぱなしである。

核問題では日本が一番怖い

 この間、安倍首相の戦後七十年談話に先立ち、外務省主導の21世紀構想懇談会がつくられ、先の戦争を「侵略」戦争と首相に言わせようとした北岡伸一さんという座長がいましたね。懇談会のああいう人士は、いまでもアメリカのコントロール下にあると考えるべきです。少なくとも外務省がアメリカの顔色を窺って、人選に自己規制をかけていると見るのが至当で、「侵略」はそれ以外には考えられない唐突な発言でした。

 あるいはまた、NPT(核拡散防止条約)体制の管理人に天野之弥さんという日本人がなっている。それを日本では出世したかのように言う人がいますが、黒人組織を管理させるには黒人の代表者を連れてきて管理させるんです。同じことが天野さんの役割なんです。核問題では日本が一番怖い。だから日本を抑えるためには日本人を使うんです。

 アメリカは南北戦争によって統一国家kになり、国家意思というものを鮮明にしました。

 この国家の持つ膨張性格を雄弁に語ったのは、リンカーン大統領のウィリアム・スワード国務長官です。

 彼が太平洋侵略を考え出した最初の帝国主義者でした。そこから先は長い話になるので、今日はできません。太平洋をアメリカのものにするのは、リンカーンの時代から始まったのです。

 其の後、ドイツがやられ、日本がやられ、ロシアがやられ、いま中国がやられかけていますが、さてどうなるでしょう。地球は再び大破壊を被る。あと10年先か20年先か分かりませんが・・・・・・。そうなる前に、アメリカが覇権意志を本気で捨て、ドル支配もなくなり、地球はカオスに陥るかもしれません。

 何が起こるかわからないんです。今日は何が起こるかわからないという話で終わることをお許しください。(2016年2月29日、日本工業倶楽部での講演に依る)

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(八)

アメリカの覇権の背景

 はたしてそれを中国ができるのか、定かではありませんが、この大きな中国の賭け、その前に今日は歴史を古いところからお話をしたので、もう一度、イギリスとアメリカの覇権争いを思い出してもらいたいのです。第二次世界大戦は、アメリカがイギリスに勝利した戦争です。

 日独はだしにつかわれたようなものかもしれません。アメリカは常に地球の他の覇権国、地域の覇権国を許さないことで始まった国で、まずイギリスを、次にドイツを、そして日本を潰しにかかった。ロシアを許さなかった。次々と地域の覇権国を倒すのがアメリカの国是、いまもそうです。大統領候補のトランプが言っているじゃありませんか、アメリカの意向であり、ずっとそれできている。

 だからトランプは夢をもう一度と叫び、アメリカ人の心を摑んでいる。しかし実力がそれに伴わなければできないので、彼の主張のとおり、アメリカが「世界の警察官」であることを止めればドルは暴落し、アメリカの覇権も終わってしまうのです。アメリカはベトナム戦争からのち、一国で覇権国だったのではありません。日本という懐刀をもっていたので、アメリカは覇権国であることが可能になったのです。日本は黙って国債を買い続けて、その国際は国家予算んのなかに入れないできている不可解な構造が、日米一体でアメリカの覇権を可能にしてきたんです。トランプはそのことが全く分かっていない。

 アメリカは「世界の警察官」であることによってヨーロッパに価値、ロシアに勝ってきましたが、しかし中国に対してはどうか。中国も、アメリカと日本が手を組んで勝つという構造にするのは経済だけでやってもらいたい。それであれば日本は受けて立てばいい。

カトリックとプロテスタント

 冒頭で述べたようにペリーの来航の前から始まって、アメリカはイギリスと戦った。独立戦争ですね。それは何が原因かというと宗教が原因でした。ヨーロッパはキリスト教といってもカトリックとプロテスタントが相争っていた地域です。カトリックは日本の心とも繋がるところがあるのは、自然法を尊重するからです。カトリックは中世の初期にヨーロッパの古代神話の世界を残存させ、それと妥協した宗教なんです。ですからカトリックというのはある意味で異教徒には寛大な宗教なんです。内部の異端には厳しいが、異教徒には譲歩しなければ政治的に自分を存立もできない古い時代を生きました。

 だから、例えば靖国神社を取り潰すとマッカーサーが言ったが、ダメだと言ったのはアメリカのカトリック教徒でした。なぜならば自然法を尊重する、自然信仰があって、堕胎はいけないとか、男は女と結婚するものだとか、民族共同体のために戦った戦士に対しては何であれ、祈祷することは当たり前のことdと考えて、これが自然法で、カトリックは靖国神社を燃やすことに反対した。しかしアメリカは基本的にプロテスタントの国であり、イギリスもそうなんです。

 カトリックは古代人の信仰を残している。プロテスタントはそれを異端として退け、信仰を純粋化しようとした。その自覚が人間の主体性、近代化につながることは間違いありませんが、偏狭でときに破壊的です。

 ヨーロッパはカトリックとプロテスタントの間で17世紀に激しい戦乱を重ねます。それに疲れてしまい、宗派間の争いをやめて妥協するのが啓蒙主義です。カントの永遠の平和のために、なんてものが出てくる。ヨーロッパは宗教間闘争に疲れた。しかしそれがいかに根強いかは私が1960年代に留学した時はまだドイツの小学校はカトリックとプロテスタントに分かれていました。いまは宗派別学校闘争はやめようということになっています。

 ヨーロッパでは20世紀後半になってようやく日本に追いついてきたのです。日本は信長が比叡山を焼き討ちしたときをもって、宗教が政治の脅威となることは大体終わっている。その後島原の乱があり、大正時代に大本教もありますが、そのあと宗教が政治を脅かすことはオウムまでない。日本は大人の国なんです。それが神仏信仰なんです。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(七)

EUの未来

 三番目は、EUの理念の行き詰まりです。EUの未来はどうなるか。結論を言いますが、ギリシャ、スペイン、ポルトガル、イタリアの南ヨーロッパ諸国の経済破綻が非常にはっきりしてきたのはご承知のとおりで、ギリシャ問題はそれの代表例だったにすぎませんが、日本でも似たようなことが起こっているのです。

 八増五減とかいって、議員定数の調整という問題が起こっており、たとえば参院選で島根県と鳥取県を合体させるとか言っていますよね。これはヨーロッパの例と同じです。東京の繁栄と地方の衰微というドラマが、北ヨーロッパの繁栄と南ヨーロッパの衰微という形で表れているんです。

 お金になる仕事は全部、北ヨーロッパ、ドイツやノルウェーに行ってしまう。そのような仕事を持っている人たちは北へ北へと渡って行って、北の富を大きくするのに役立っている。南の国々には公務員と老人と子供ばかりが溜まってくる構造、これが日本の東京と地方の動きとよく似ている。

 日本の場合には、地方交付税という形で地方に還元するという考えがあり、このシステムに誰も反対しません。東京都民は地方を助けないといかんと思っているし、ふるさと納税なんかもあります。

 同じことでドイツが実行すべきことは二つある。ドイツが首都になることです。地方交付税と同じように、どんどんお金をギリシャやスペインに回すということです。文句を言わないで、ドイツはこれまで安くなったユーロで輸出がし易く、儲けに儲けてきたわけですから、ここいらでグローバリズムのために自分を棄てなければいけない。

 しかし、ドイツ人は絶対にやらないでしょうね。なんで我々は、とドイツ人は憤る。ギリシャ国民のあまりに有利な生活保護まで引き受けなければならないのか、と。国というものが邪魔をする。今度はナショナリズムがグローバリズムの邪魔をする。東京と島根県のようにはいかない。でも、私の常識は次のように考えます。

 ドイツが東京都になるか、EUを解体するか二つに一つしかない。当然、動きとしては後者でしょう。十年ぐらいかかるかもしれないでしょうが、そちらにいかざるを得ない。

 EUがなぜできたのかを考えますと、なぜダメになるかの理由もわかります。思想的には、共産主義が崩壊したときに歩調を合わせるかのように始まった。共産主義の普遍主義、国境を取っ払うグローバリズム、それの代替が欲しいということから始まったのがEUです。根は左翼思想なんです。アメリカニズムのグローバリズム、いわゆる連邦主義に対抗する必要もあり、その時に「日米経済同盟」が地球の40%の富を獲得していたんです。1990年代初頭です。ヨーロッパは焦った。

 この日米経済同盟のパワーに対抗するために、ヨーロッパは一つにならなければならない。もう一つは、共産主義のグローバリズムがなくなった代わりに、ヨーロッパは別のグローバリズムを作らなければならない。EUはこうした守りの動機から生まれたので、もともと消極概念でしかない。

 もう一つは1970年にニクソンショックがあって、ドルが兌換紙幣ではなくなり、ドル札を刷ればアメリカの消費は自由気儘だと予想される事態になった。ヨーロッパはすごく恐れた。アメリカは責任なしの消費大国になる可能性がある。実際、そうなっていくわけです。

 それを抑制させていたのは、共産主義社会の存在だったんです。共産主義と張り合っているアメリカがバランスを取っていたんです。つまり1970年から20年間は、ドルがそれほどめちゃくちゃなことにならなかった。

 しかし1990年に共産主義という他山の石がなくなったら、アメリカが慢心して手放しのことをやるようになって2008年のリーマンショックに立ち至るわけですが、そういうことをヨーロッパは始めから恐れていたので、自分たちがグローバリズムに立て籠もるんだということにせざるを得なかった。恐怖からきた守りの思想ですよ。決定的な間違いがそこにはあります。ユーロはドルの代わりができない。なぜなら、統一軍事力がないからです。

 かつて軍事力を伴わない国際機軸通貨があり得たかというと、ない。ボンドもイギリス英国の支えがあり、いまのドルもそうです。湾岸戦争が起こって、あれはドルとユーロの戦いですから、戦争してでもドルを守るという意志をアメリカが示したことになり、ユーロはあそこからどんどん駄目になった。ユーロが力を失っていく勢いというのも激しかったのですが、アメリカはNATO(北大西洋条約機構)を手離さなかった。そしてEUを国として認めなかった。

 EU共通軍隊というのを絶対にアメリカは許さなかった。日本に独自の軍隊を許さないように、EUもアメリカは自分のものとして囲い込み、温存させようとし続けてきたのです。いままではそれでうまくいった。それでヨーロッパ共同体を潰したんです。
 かくて次に中国というのが軍事力と金融による両面の覇権を狙い出しているというのが、アメリカがいま目の前で見ているドラマです。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(六)

ドイツ銀行の破綻

 ドイツには三つの禍があると申しました。一つは難民問題、二つ目はドイツの銀行の破綻です。これはいま急速に起こっているドラマです。

 ドイツ銀行の取引総額は、67兆ユーロ(約8700兆円)。ドイツのGDPの20倍です。ところが、ここに来て、フォルクスワーゲンの1兆ユーロ(120兆円)に上る保証金を全部ドイツ銀行が背負っていることが分かった。

 ここで指摘したいのは、日本では久しく政府が赤字国債を抱えていると言いますが、日本の銀行、特にメガバンクは赤字を抱えていません。日本政府に借金を集中させているのに比して、ドイツなどの欧州は政府が借金を背負わない代わりに民間銀行にしわ寄せがいっているんです。

 日本はGDP比200%の借金大国だから大変だと大騒ぎされ、ドイツ政府は無借金で素晴らしいことのように言い、メルケルもそう言い、ドイツの知識人も自慢して日本はダメだと言いますが、何のことはない、代わりに銀行が借金を全部背負っているのです。

 ドイツ銀行が引き金になって、リーマンショックのようなことが起こるかもしれません。あのサブプライムローン事件が起こった頃、ヨーロッパのほうがむしろアメリカよりも酷い金融危機だったのですが、これはアメリカが支えた。あの時、アメリカの政策金利は5%あったんです。だから金利を下げることができた。

 ところが、いまはアメリカは極端に金利を下げていますから、これからはドイツ銀行がリーマンブラザーズのように破綻しても、アメリカは助けることはできない。ドイツは火だるまになる可能性があります。

 フォルクスワーゲンは、1兆ユーロ(120兆円)もドイツ銀行に融資をさせています。日本ならばここで公的資金の注入というスタイルで破局を避けるでしょうが、これもEUが邪魔をしている。ドイツ政府がいままでもそういうことが思い切ってできないのは、ヨーロッパ中央銀行が合意しないからです。つまり、ヨーロッパのグローバリズムが正義の建前になっていて、ナショナリズムを抑えている。ですから、この局面はドイツの三重、四重苦になるのではないかと思っています。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(五)

日本人の西洋大誤解

しかし、キリスト教はそうではなかった。巨大な哲学体系が後ろに控えていて、しかもそれを強制する政治制度や軍事力が控えていた。日本人はそれを受け入れる気にはならなかった。ただ、西洋の文化や芸術や学問は危険がないので受け入れた。大変に尊敬し、いまも愛好している。しかし根っこにある宗教を受け入れていないので、日本人の西洋理解は西洋大誤解かもしれない。

日本人は、がらんどうのような何もないのが好きだったのではないでしょうか。そうとしか思えないのです。政治文化を強制してこない。哲学的理念を強いてこない。ひたすらそういう世界に憧れた。西方浄土へのあこがれ、それは平安末期辺りから強くなりますが、日本人の心をずっと摑まえていて、いまでも何か事があると、遠い国で起こった出来事を日本人は尊敬するのです。素晴らしいものは外国にあると信じ、明治以来、長い間、西洋文化を鏡としたのは「西方浄土」に代わった。つまり、仏様はいつの間にか西ヨーロッパ文明に代わったのです。それが旧制高等学校のドイツ語、フランス語崇拝、教養主義礼賛になった。

他方、世界全体の現実を見ようとしなかったのではないか。だから当時、表舞台から消えたイスラムの世界も見ていなかったのです。現実は見ていなかったけれども、西方浄土をひたすら憧れるように、西洋文化をひたすら学んだ。そして夢を育てて、自分のところでそれを移植して自分なりの西洋文化を作ってここまできた。本当にそう思いますよ。

日本では必ずどこかで西洋絵画展をやっているでしょう。ついこの間まで、モネ展をやっていました。去年はスイスのホドラー展もやっていました。近くは何度目かのカラヴァジョ展が開かれます。こんなことをやる国は、アジアで他にありません。日本中のどこかで、必ずいろんな西洋絵画展をやっています。

コンサートも盛んです。最近、ドイツ人はモーツアルトやベートーヴェンをあまり聴かないといいます。そんなもの要るのか、という話らしいのです。オーケストラはほとんど外国人だそうで、十人中八人から九人は外国人。ドイツ人の音楽家がいなくなった。文学も教育も衰滅です。音楽も哲学もダメ。ドイツの限界というか、アイデンティティの喪失ということです。中国人と一緒になって浮かれて金儲けばかりです。

ドイツの三大問題

いまのドイツには、三つの大問題があります。いうまでもなく難民、これもアイデンティティの喪失から引き起こした。ドイツはナチスを抱えた無残な国、酷い国、悪の国と言われ続けてきたことが、ドイツ人の心を破壊し続けてきたと思います。

そこでメルケルは、ドイツは立派な国だ、国際社会の模範になる国だと言いたかった。それゆえに、難民はどうぞいらっしゃいと言い出した。隙を作った。

そもそも難民は存在するのではない、発生するのです。今度の欧州の事件で、そのことがやっと分かったでしょう。隙を作った先進国を目掛けて人の波が出現し、移動してくるんです。隙を作ったら負けなんです。ドイツはそれを自らやってしまった。立派な国であるということを見せたかった。自分を否定していた戦後のドイツのイメージを逆転させたかった。この国は今度の件で、人口の20%近くがイスラム系ということになる。ドイツ文化も失われてしまうでしょう。

自分の国をネガティブに見続けているということが、仇となる。自分の心を苦しめているわけですから、いつかそれが逆になって、素晴らしいドイツにしたいと思うから、メルケルがあのようなことを言っても国民は反対しない。メディアも批判ができなかった。いまようやく反論が激しく出てきていますが、遅すぎますね。そしてそれは、EU全体を壊す問題を起こしている。

日本も違った意味で、同じような危うい弱点があると思うのは憲法9条の愚かなる平和主義です。これが日本人の心を縛っています。とんでもない禍に転換する恐れがある。

みんな軽く考えていますが、北の核は脅威ですよ。4月号の『正論』に、私は「覚悟なき経済制裁の危険」という論文を出しました。経済制裁というのは宣戦布告ということと同じです。第二次世界大戦の直前に、アメリカに経済封鎖されたことは宣戦布告されたのと同じなんだと我々は言い続けてきたのではありませんか。同じことを、我々は北朝鮮に対してすでにやっているのではないですか。

しかもアメリカはそう言って遠くから見ていられますが、日本はすぐ目の前にある島国なんです。ミサイルが飛んで来ても文句が言えない。日本が先に手を出しているのですから。日本人は何を考えているのか。一瞬のうちに、東京のど真ん中に一千万人が焼尽する核が到着することも明日、起こらないとは言えない。

しかもそれは、アメリカや国連頼みで解決する問題ではないんです。日本人が自分で解決する以外にない問題です。国連なんて何も手伝ってくれません。

私は日本はおかしな国で、ドイツの例のように善意が全部逆になるということを申し上げているのです。自分を罪を犯さない善良の国にしたいと思うことは危険なことなんです。自分は適当に悪いこともしている国だと堂々と言えることが、バランスがとれている常識というものなんです。歴史の悪も肯定しなければいけない。これからも必要があれば危いこともしなければならない。それを全部否定してしまったがゆえに、自己を主張すべきところで主張する青磁政策まで否定してしまう。そうすればドイツの二の舞です。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

現代世界史放談(四)

日本人の宗教心

 ところで、日本はなぜ神道と仏教なのでしょうか。神道と並べて仏教ですね。儒教ではない。儒教は祖先崇拝という点では関係ありますが、日本人の宗教心に入っていないと思います。儒教は道徳として日本に影響を与えましたが、皇帝制度と科挙のシステムに切り離せないほど繋がっています。韓国は儒教なのです。朱子学のイデオロギーであのようになってしまいます。

 日本は儒教を本格的には受け容れませんでした。天皇をずっといただいていますし、王様が二人居続けられた国なので世界に理解されなかったのですが、日本人が心のバランスをとるうえで良かったと思います。つまり、遠いところにある見えない神・仏様と、生き神様である天皇と、すなわち超越神、二神をいただくことで自在に生きることができたということです。

 仏教は本格的に日本人の心に入っていて、日本の宗教心理の根底を形作りました。神道は超越神を持ちませんが、仏教がそれを与えてくれて、二神をいただくことをもって日本人はバランスをとってきたのです。

 日本人はなぜ仏教には抵抗がなかったのか、ということもついでだから考えておきましょう。神道に抵抗がないのは分かりますが、日本人は仏教以外の外来宗教はほとんど受け入れていません。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もヒンズー教も韓国儒教も、いわゆる原理主義的な宗教を日本人は受け入れません。

 しかし仏教は受け入れました。しかも日本仏教は久しく発展し、独自の展開を遂げました。民族の心の深いところにフィットしたのです。なぜかというと、それぞれの宗教は皆、後ろに政治文化を抱えています。たとえば、儒教は皇帝制度と科挙のシステムを抱えている。ヒンズー教も同様で、インドの社会風俗や生活思想を抱えています。ユダヤ教やキリスト教はさらにそうです。西欧の政治や哲学の一大観念体系を突きつけてきます。

 そういうものと何の関係もない仏教。後ろに何もついていない仏教。無なのです。それが日本の神道と組み合わせしやすかった。日本人の心が無であるということと、深く関係があるのです。

 キリスト教と仏教は、ともに普遍宗教ですが、どちらもそれぞれが生まれ育った土地でどうであったかということが日本に関係ある。仏教はインドの地で徹底的な展開を遂げました。思想展開は小乗仏教、大乗仏教、密教に至るまで。そして形而上的な理論展開を終えてから、外国に出始めるのです。8世紀の密教に至るまでインドの地で発展を遂げますが、そこで忽然と消えてしまったのです。つまり、本当に消えてなくなってしまいます。

 あるイギリスの植民地主義者がインドに渡ってきて大きな立派なお堂があり、それはブディズムの伽藍だと聞いているが、僧侶一人いないし、仏像もないし、経典もない。忽然と消えたのです。それでは仏教が消えたのかといえばそうではありません。インドの地から消えただけです。

 チベット仏教・ネパール仏教・中国仏教・日本仏教、南にいけばタイなどの南伝仏教。そういうふうに外に展開したのです。キリスト教はどうかというと全く正反対で、イスラエルの地では一切いかなる理論展開もしないで、ローマとビザンチン、西ローマ帝国と東ローマ帝国で初めて展開しました。

 仏教と違って、他の地域に移っていって初めて形而上的・理論的・学問的展開を遂げました。それに比べると仏教は、後ろに何も政治文化がついていないので日本人に受け入れやすかった。遥か西方浄土にいる仏様は、抽象観念として存在し得たのです。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より