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『創世記』と『古事記』の共通点
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長谷川 : また、話はちょっと先ほどの「神代」の話題に戻りますが、宣長の『古事記伝』には「さて凡そ迦徴とは」で始まる有名な「カミ」の定義がありますね。「其餘何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦徴とは云なり」と。これは世界の森羅万象をただ当たり前と考えるのでなく、日常眺めているこの世界はいかに不可思議か、という驚きをもって眺め直す精神態度といってよいでしょう。世界に存在するありとあらゆるものが、不可思議で恐れ多い何かを携えて存在しているという思想、ともいえるかもしれません。
西尾 : 宣長は、ありとあらゆる世界の現象に神話を感じています。たとえば男女が交わり合うことで子供が生まれるのも、不思議といえば不思議ではないか。そんなことは説明がつくほうがおかしいと述べる。神話はつねに「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という問いが存在することは先にも述べました。そのような根源的な問いを発しているのが、神話なのです。
長谷川 : キリスト教の世界でもアウグスティヌスなどは、世界を眺めまわすと、山や海、木などすべてのものが「私をつくったのは神です」と自分に語り掛けてくるという言い方をしています。このアウグスティヌスの見方と宣長の見方はある意味で共通していて、宣長は「可畏き物を迦徴とは云なり」といって、その一つひとつにカミの名を付け、一方アウグスティヌスは「全体をつくった誰か」を神と考えた――。その違いにすぎないともいえますね。
西尾 : その「全体をつくった誰か」を宣長はあえて「太陽」といっていますが、じつは固定して考えているのではないでしょう。人格神ではない。
長谷川 : キリスト教世界でも、汎神論と唯一絶対神という二つの考え方が、つねに相争っています。しかしわざわざ汎神論を否定しなければならなかったということは、逆に、ありのままに世界を見ると、「ここにも、あそこにも神がいる」と見えてくるのだということの証拠ともいえる。そう考えると、宣長の考えたカミの概念は、非常に普遍的なものかもしれない。唯一絶対神という概念は、普通に考えれば汎神論になるところを、かなり無理して作り上げているのだ、というべきかもしれませんね。
西尾 : 天地創造の物語もそうです。
長谷川 : じつは文献学で今日わかっているかぎりでも、『旧約聖書』の「創世記」第一章のいちばん最初に出てくる六日間の天地創造の物語は、P資料と呼ばれる、成立年代の遅いテキストに属しています。いちばん最初に出来たのは、神様が土から取った塵をこねて息を吹き込んだら、人間になったという話です。
西尾 : それは中国の盤古神話・女媧神話とも似ていますね。
長谷川 : そっくりです。世界中のありとあらゆるところに、同じような神話があります。
西尾 : 混沌から世界が生まれてくるというストーリーは『古事記』も同じです。
長谷川 : 混沌の場面は、「創世記」のいちばん古いテキスト、J資料によると、「地上にはまだ野の潅木が存在せず、野に草も生えていなかった。・・・・ただ、地下水が大地から湧き上がって地表全体を潤していた」という、ちょっと奇妙なイメージで表されています。そしてそこからいきなり人間形成の話になる。神が人をこねてつくって、猫かわいがりするという話になるのですが、それがあの有名な「エデンの園」の物語です。このあたりは『古事記』と比べても甲乙つけがたいぐらい、リアルな父と子の物語です。
西尾 : これは中国の神話でも同じです。中国の神話では、大きな大地を支えるのは巨大な亀の足を切った柱で、そこに神様が出てきて泥のなかに縄を入れて絞り、このときしたたり落ちた水滴から生まれたのが人間である。園人間は、早くできたものは出来がよく、あとからしたたったものは出来が悪いと描かれている。
長谷川 : 「創世記」J資料の場合は、「神話」というよりむしろ神(ヤハウエ)を主人公とする文学作品というべきものだ、というのが私の解釈なのですが(中公文庫『バベルの謎』参照)、いずれにしても、そうした生き生きとしたリアルなイメージに満ちた物語が、後代の編纂によって、P資料の唯一絶対的な理論のなかに埋められてしまっている。これが現在われわれの見る「創世記」のかたちだといってよいと思います。
西尾 : 中国の場合は、のちに神話部分を全部捨てて、「天」という概念だけを抽象化して仕上げたという構造です。これはキリスト教と似ているでしょう。神話の部分を捨象して、「天」の代わりに人格神が登場する。
一方、日本の場合、西洋や中国などのような便宜的な手法はとられていない。絶対神や人格神的なものは生み出されない。
長谷川 : それは絶対神が欠けているというより、中国や西洋で行なわれた、ある種の改竄が非常に少ないということだ、ともいえるでしょう。
西尾 : 加えて、日本人は素直だったと思う。神話を「お話」としてそのまま知らしめ、伝えていく。それが摩訶不思議だからといって、あまり手直しをしたりしなかった。どちらが人間的で素朴かというと、あるがまま伝えた日本人のほうが、よほど素朴です。神話は神話として伝え、それでいいという考え方だった。
長谷川 : ユダヤ・キリスト教の場合でも、あのいちばん古いJ資料だけが残っていたとしたら、そこにはおそらく唯一絶対神への信仰ではなく、ギリシア神話や日本の神話に近い世界観が広がっていたでしょう。