番匠幸一郎氏を囲んで (二)

 《路の会会員との質疑応答》 
 西尾:どうかどなたからでも、口火を切ってください。

黄文雄:部隊派遣隊の名前、初めて「群」という部隊名を聞いたのだけれども、たとえば筑波大学の場合は、何々学群と使っているのだけれど、群というのは普通非組織団体に使っている。なぜ軍隊なのに、群を使っているのか。義和団などは団と使う。なにか裏があるんじゃないか、違和感を感じるんです。

番匠:実は私たちの、陸、海、空を問わず部隊名の記号、部隊の種類を示す言葉として、普通に使っている言葉です。たとえば、小隊だとか、中隊、大隊だとか連隊だとか、或いは旅団とか、師団とかそういう言葉は旧軍以来ずっと使われてきました。

西尾:今も使っていますか?

番匠:今も使っています。群というのは大体、連隊と同じくらい、指揮官でいえば大佐相当ぐらいですね。同じ部隊として使っています。単一の任務を大佐が指揮をする、一佐が指揮をする部隊として、連隊というのがありますが、連隊というのは、特定の部隊につけることが決まっているのです。普通科連隊、歩兵連隊とか、あるいは砲兵の連隊とか、戦車の連隊とか、そういう特定の部隊につけることが決まっておりますので、今回のように臨時編成の任務で作る場合には連隊という名前をつける基準に、実は合致しないものですから、相当する部隊の名称として、群れというか、群というのをつけましょうということで、今までも、たとえば東ティモールに出た派遣部隊は、PKOの部隊を東ティモール派遣施設群と言っておりますので、特別他意があるわけではありません。通常部隊のスケールを表す名称として、大佐相当の一定の規模の場合には群という言い方をしている。

○○:実は自衛隊は何年ごろから使い始めたのですか。

○○:結構古いですよ。一番よく使っているのは、海上自衛隊。

西尾:これは正式の呼び名ではないんですね。

番匠:正式です。

西尾:軍は旅団、師団、とかどこかに位置付けられて、何人以上、何人規模ということになっているわけですか。

番匠:大体、陸上自衛隊の場合は連隊に相当しますが、海上自衛隊の場合は旅団に相当します。海上自衛隊の群長は将官がつきますね、陸上自衛隊の場合は群長といいますと一佐がつきます。航空自衛隊も群というのを結構使っております。

西尾:この群はこの字は、戦前はなかったですね。

○○:当時は何々派遣隊と言っていました。

西尾:僕も今日見てぎょっとしたんですよ。

黄 :米軍の用語を借りたじゃないんですか?
米軍のなにかグループというのを翻訳してそうなったのでは?

番匠:そうですね、これ英語にするとグループということになりますね。

西尾:でも今、非組織団体に使うというお話でした。

番匠:我々はもう、普通に部隊の規模として使っております。

西尾:この辺の連中はうるさがたですから。
(笑い声)
小田村:さっきのお話の中で、任務がどうであれ、とにかく装備、編成というのはしっかりとしなくてはならないという話がありました。初めにサマワ派遣の時に、○○○○(陸幕?)は700人規模が必要だということを言ったのに、官邸の方で、600人にねぎられちゃった、ということがありましたし、装備の面でも、迫撃砲がでてくるんで、レーダーを装備しなくちゃいかんと出ていましたけれど、やはり何か足りないものがありませんでしたか。

番匠:ざくっと、申し上げれば、今回のイラクにおける任務を遂行するに於いて、決定的に足りなくて困ったということはありませんでした。私、実は現場の人間として、じゃ、600じゃ足りなくて700だったらよかったのかと言われると、与えられた枠の中で作るべきことですので、600でそれなりの組織を作るということで、全力を傾注しておりました。700でやれと言われれば、700で作ります。1000でやれと言われれば1000で作ります。その中で与えられた任務をやっていくということです。

 冒頭申し上げましたように、これは政治がお決めになる、政策的な判断であろうと思います。私はそういう意味では600の部隊であるということでそれなりの装備を持たせていただいたと思います。むしろ多すぎるぐらいでした。600の人間には。たとえば、車両が200両ありますけれども、600人で200両ということは、三人に一人と思われるかもしれませんが、オフィサーが動くときには、大体下士官のドライバーと下士官とセットにしますけれど、トラックだとか工作用の車両だとかいろんなものがあります。そういう意味では600人に対しての200両というのはたくさんありすぎるぐらいでした。整備ももちろん必要になってきますから。武器についてもですが、ま、欲をいえばキリはありません。

 半分冗談みたいですが、たとえば90式戦車を持っていけば越したことはないんですが、絶対何を撃たれてもびくともしませんから。そういうものがあればいいなと思いますけれども、今回の任務で戦車を持っていくということは、ありえませんし、そういう意味では今までのPKOとは違いまして、機関銃の数を心配することもありませんし、84ミリの無反動砲という対戦車砲、110ミリの対戦車けい(携)弾というこれもRPG-7よりもはるかに性能のいい、対戦車ロケット砲のようなものを持っていきましたし、けっこう装備と言う観点では、今回は充実させていただいたのかなと思います。

 それから、対砲レーダーの話ですけれども、ちょっと説明させていただくと、我々は迫撃砲という火器によって何回か撃たれたんですけれど、曲射弾道という放物線を描いて飛んでくるわけです。そうするとレーダーの波を出しておくと、二点カウントしますから、場所を特定できるわけです。落ちた所から逆算してどこから撃ってきたかを特定できます。その場所を特定できると、そこを探せば、あるいはそこにいる敵に対して、対応すればいいということになります。対砲レーダー、対迫撃砲に対するレーダーというものを我々は装備しております。今回も向こうが迫撃砲を撃ってくるんだったら、そういうのを持っていったらいいじゃないかということがありまして、かなり具体的に検討したんですけれども、結果的には、今までにもオランダも持っておりましたし、インドも入ってくる、イギリスも多分持ってくるだろうということで、自衛隊そのものが持っていかなくても、大丈夫ということで、それは今のところ、持っていかないことにしました。ただ、イギリスが持って来なければ、我々としても、持っていくのはやぶさかじゃない。

番匠幸一郎氏を囲んで (一)

 2月21日の恒例の「路の会」は徳間書店9階の会議室で、第一次イラク復興支援群長をつとめた番匠幸一郎一等陸佐を囲んで行われた。出席者は順不動で、井尻千男、入江隆則、田中英道、小田村四郎、黄文雄、吉野準(元警視総監)、木下博生(財・経済産業調査会)、山口洋一(元ミャンマー大使)、大澤正道(元平凡社出版局長・歴史家)、大島陽一(元東京銀行専務)、東中野修道、萩野貞樹、三好範英(読売新聞国際部)、真部栄一(扶桑社)、力石幸一(徳間書店)の諸氏、そして私である。

 最初約一時間にわたって、番匠氏から壁に投射された映像をみながら、イラクのサマワ基地における自衛隊の活動内容の説明をきいた。その話も十分に面白い、意味のある内容だったがここではスペースの関係でご講話の最後の部分をまず掲げる。次に出席した「路の会」会員と番匠さんとの間の質疑応答を紹介する。和気藹々たる雰囲気の中で行われたが、番匠さんとの他で聞けない肉声を通じて、彼地の現地のヴィヴィッドな描写が光った内容の応答になっている。

 尚、テープの聴き取りがむつかしかった文字は○じるしになっているか仮名表記のままである。発言者名も、分った氏名は隠さないが、誰の発言であるかは、テープが今広島にあるので分らない場合が多く、そこは○○となっている。

 ところで冒頭の黄文雄氏の質問に「群」の文字への疑問が述べられるが、「イラク復興支援群」という言い方が映像画面に大きく写し出されていたことに基づく疑問である。

《番匠幸一郎氏の講話の最後の部分》

 最後に私は日本がますます好きになったというか、日本のよさを再確認させていただいたということがあります。二つありまして、ひとつは、この今の日本の素晴らしさです。いろんなことが言われます。治安が悪くなったとか、若者のこととか、いろんなことが勿論言われますが、それにしてもイラクに比べて私たち、日本に生まれて育っていることが、ほんとうに幸せに私は感じました。なぜならばですね、本当にこんなに平和で、治安がよくて、それから豊かで、それで美しい国、というのが他にどこにあるんだろうと、いう気がいたします。

 それから、もうひとつは、実は日本の歴史に感謝したいと思っているのです。ここには専門の先生方がたくさんいらっしゃるのですが、こんなことを私が申し上げるのは大変恥ずかしいのでありますが、イラクに我々が行ったときに、我々に対して好意的に、にこやかに手を振ってくれるというのは、これは、自衛隊が来たから手を振ってくれるのではないんじゃないかなと、途中から感じるようになりました。

 日本人が好きなんですね。日の丸が好きなんです。なぜかというと、部族の人たちと話をすると、或いは知事さんとかいろんな人と話をすると、日露戦争で頑張った日本人、それから大東亜戦争でアメリカと4年間に渡ってがっぷりと四つに組んで戦って、徹底して負けた。あの廃墟の中から立ち上がって、今世界第二の経済大国になった日本人。それから先ほど、サマワ病院の話を申し上げましたが、ああいうODAとか、二十年位前にはたくさんサマワにも行って、そして、彼らが非常に勤勉で正直で、いい仕事をされていた。愛されていたということをよく聞きます。

 街に溢れている日本製品を見ても、同じアジアの一員である日本人に彼らは一種の憧れと、尊敬を持ってくれている。日本人というのは、正直で、勤勉で、優秀で、いい人たちなんだというイメージがあるんですね。それが日の丸とか、日本人の我々の顔になるんだろう。そういう意味では先輩達に感謝したいと思います。

2月末~3月初の私の仕事

 11月に出版した『日本人は何に躓いていたのか』(青春出版社)は初版1万2000部でスタートして、2月に入って3000部増刷した。遅すぎたともいえるが、今の時代には結構なことなのだそうである。増刷部数も悪くないとの由。この後が期待できる動きだそうである。そうかなァ。

 正月明けの1月13日頃に店頭に出た共著『新・国民の油断』(PHP研究所)は初版1万部で、2月にならぬうちに増刷がきまったが、わずか1500部。もっと勢い良く伸びるだろうと私も八木さんも期待していたのに、まだ出たばかりもあって今のところ動きが分らない。よく動いているようだが、今後を注意深く見守る必要がある。

 上記の2冊について批評や反響が寄せられているので、後日私の感想をまじえて報告する。

 2月末~3月初の私の仕事で注目していただきたいのは次の二つである。

(1)「中国領土問題と女帝問題の見えざる敵」42枚
  『正論』4月号、短期集中連載「歴史と民族への責任」第二回

 論文の後半で私は初めて皇位継承問題について踏みこんだ発言をした。今まで誰も予想しなかった「敵」の所在を指摘し、首相諮問機関有識者会議の迂闊さと呑気さと無自覚ぶりを指弾した。『文藝春秋』3月号の皇室問題特集を読んでも、「敵」が何であるかを誰も見ようとしないし、見えていない。国民が皇室を守ろうとする意思を示し、今しっかり用意する機会をもたなければ、20-30年後に天皇制度はなし崩しになくなるだろう。私はそう書いた。大切な論文なので注意していただきたい。

(2)西尾幹二責任編集『新・地球日本史』1
 ――明治中期から第二次世界大戦まで――産経新聞社刊、発売扶桑社。
  ¥1800――2月28日店頭発売

 以下に目次を掲げておく

 第一巻「明治中期から第二次世界大戦まで」


まえがき 西尾幹二
① 日本人の自尊心の試練の物語       西尾幹二
② 明治憲法とグリム童話            八木秀次
③ 「教育勅語」とは何か             加地伸行
④ フェノロサと岡倉天心             田中英道
⑤ 西洋人の見た文明開化の日本       鳥海 靖
⑥ 大津事件―政治からの司法の独立    高池勝彦
⑦ 日本の大陸政策は正攻法だった      福地 惇
⑧ 日露戦争―西洋中心史観への挑戦    平間洋一
⑨ 明治大帝の世界史的位置          三浦朱門
⑩ 日清日露の戦後に日本が直面したもの  入江隆則
⑪ ボーア戦争と日英同盟            田久保忠衛
⑫ 韓国併合                    勝岡寛次
⑬ 韓国人の反日民族史観のウソ       呉 善花
⑭ 昭和天皇の近代的帝王学          所 功
⑮ 中華秩序と破壊とその帰結         北村 稔
⑯ 米国に始まる戦争観の変質         大澤正道
⑰ 大正外交の萎縮と迷走            中西輝政
⑱ 歴史破壊者の走り―津田左右吉      萩野貞樹
⑲ 日本に共産主義はどう忍び込んだか    藤岡信勝
⑳ 徳富蘇峰の英米路線への愛憎       杉原志啓

第二巻は6月刊の予定である。

伊藤哲夫さんと「鬼」

 男の中にはたいてい「鬼」が住んでいる。女の中にも住んでいるかどうかは分らない。住んでいるとしても違うタイプの鬼だろう。

 男の抱える「鬼」は天に向かうのと地に這うのと両方である。前者は天と張り合う、つまり果てしないものと戦うのであるから現実には無私の姿にみえる。後者は仲間と張り合う、つまり他に抜きんでて高くなりたいという邪心を抱えていて、あまり強く出すぎるとみっともいいものではない。

 どちらか片一方という男はいない。男は両方を抱えている。二つの「鬼」を同時に体内に宿している。男の心の中で二つの「鬼」が相争うのである。しかし、どちらかが一方的に圧勝するということもない。両方がつねに併存している。

 人間はみんなしょせん競争心と劣等感の塊りで、天に向かう「鬼」なんて持っているやつはいないよ、とわけ知り顔で言う俗流心理学を私は信じない。

 ただ、天に向かう「鬼」を心の中に抱えているとわかる人とわからない人との違いがあることは事実である。この「鬼」は気紛れで、それを持っているとわかる人は地を這う「鬼」も強い人である。従って自信家である。しかし、どんなに自信に溢れていても傲慢からはほど遠い。事に当って自ずと謙虚な振舞いをする。

 無私な行動家は少ない。卑屈と謙虚は外見がよく似ていて、間違えることがある。本当に謙虚な人はときに驚くほどの我の突っ張り、強い意志を示すことがある。「鬼」がそうさせるのである。

 なぜ今回にわかにこんなことを書きだしたかというと、昨年5月に日本政策研究センターの20周年記念の会で挨拶をしたときの私のことばが活字になって、印刷された紙片を数日前に初めて手渡された。さっと一読して、私はふと「鬼」という文字が思い浮かんだ。なぜか分らない。穏やかな伊藤さんは鬼面ではない。その日の自分のスピーチをもう一度蘇えらせてみよう。

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 私が伊藤さんの会を始めて知りましたのは『明日への選択』という雑誌を通してでございます。大変に驚いて、初めて伊藤さんにお目にかかる機会があったとき、なぜ市販しないのか、本屋で売ったらものすごく売れるよと言いました。実は『諸君!』や『正論』、その他の雑誌をも凌ぐ密度の濃い情報が短い頁の中にぎっしりと詰められています。大変に感銘を受け、これは貴重な資料だと思いました。

 私がその次に非常に強く惹かれたのは伊藤哲夫という人格でございます。うまく言葉では言えないのですが、本当にソフトなんです。そして優しいんです。「柔の中に硬あり」というような一歩も引かないものが常にあるのですが、しかし何か包んでくれるような優しさがある。恐らくこれが全国のさまざまな運動家の方々を惹きつけている原因ではないかと私は思っております。加えて、皇室への非常に強い崇敬の感情というものが伊藤さんにはあります。私にはとても及ばないものがございますけれども、こうした強い気持ちがありながら、彼の書いたものや『明日への選択』は徹底的なリアリズムで貫かれていて、いわゆる感傷右翼的な要因は一切ない。これが伊藤さんとこの会の特徴です。日本のバックボーン、アイデンティティ、愛国心というものがありながら、出してくる材料、情報はリアリズムだということです。

 もう一つ私が感銘を受けていますのは、包括するテーマは内外非常に豊富で、外交においても領土問題その他、また内政においてもジェンダーフリー、夫婦別姓その他。それから韓国問題、中国問題など多岐に渡っているのは皆さんご承知の通りですが、しっかりした史実に裏づけられた材料や情報の提供ということがなされていて、私どもは非常に参考になる。何かあったときに本当に助けになるものが、普通の雑誌以上に短いながらピシッと書き込まれている。つまり、大きな意味での輪郭と指導性をもった内容でありながら中身が極めて具体的なのです。これは背反する方向ですが、その正反対の方向のものをきっちり持っている。それがこの雑誌の魅力であると同時にこの会の魅力であると思っております。

 私はセンターの日常活動をよく知らないのでございますが、この雑誌と伊藤さんの人柄を知れば、ほとんど申すまでもない、信頼は非常に強いものがあるわけです。

(平成16年5月1日、日本政策研究センター創立20周年記念パーティーにおける祝辞より)

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 なぜこの自分の挨拶のことばを再読して「鬼」という文字が私の頭にひらめいたのかはいまだに分らない。ただ今、私はそのとき心をよぎった思いの幾つかを書き留めておこうと不図思って筆を執った。

 伊藤さんは自分を超えた何かを信じている人である。中国では「鬼神」ということばで呼ぶカミの概念であり、日本語で「鬼」というと怪異的で怪物的なイメージに限られるのとはだいぶ違うようであるが、それでもやはり、「鬼神」は甘い、優しい概念ではなく、パワフルな霊威の底深い力を感じさせることばである。

 伊藤さんの行動をみていると、自分を捨てて、何かを信じてひた向きに生きる人の説明のできない無私の情熱が漂っていることに気がつく。

 この人は何だろう、ずっと私は謎を抱きつつ、黙って説得されてきた。行動が議論を封じる、その力が彼にはある。

 人生は寂しい。老いて新しく人を知ることは難しい。私は伊藤さんという人を知った、という気に少しなっている。

 

追記:日本政策研究センターのホームページは「日録」とリンクしています。

結婚式と葬式 (二)

 ステージではまた歌が始まった。私はもう披露宴には十分すぎるほどいたと分り、午後7時15分、会場を離れた。赤坂見附の交叉点で待たされる間に、ネクタイを白から黒へとり替えた。コートの胸を開くと寒気が襲ってくる。ホテルの中は暑く、外はひどく寒い。

 浅草の稲荷町は葬儀屋や仏具店が並ぶ、がらりと雰囲気の変わる下町である。川原さんの葬儀を受付けから何から何まで取り仕切ってくれたのは「町内会」だと聞いて、下町はさすが違うなと思う。山の手では隣り近所の付き合いはほとんどない。

 お通夜は終りかけていた。祭壇はあったが、式はとうに終っていた。私はお焼香をすませ、川原さんの5、6年前の遺影をしばらくじっと眺めた。

 新樹会の末次一郎さんが平成13年夏の採択の1年ほど前、人手不足の会の実情を知って、派遣して下さった。川原さんの手当ては新樹会が負担するといい、「これは西尾さんへの私の気持ちです」とのご伝言があった。それに十分に謝す余裕もなく、夢中ですごしたあの年だったが、間もなく末次氏は病歿された。

 川原さんの奥様と二人の感じのいいお嬢さまがたに会った。三人ともに明るい表情なのでホッとした。私は知らなかったが、川原さんはもう何度かガンの手術をくりかえしていたという。会を離れた平成13年夏、足が痛いとしきりに言っていたのを思い出す。

 長すぎた私の弔文は電報に向かないとみて、事務局はこれを弔辞として清書し、明日の告別式でどなたかが代読して下さるそうである。

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 弔 辞

 川原さん、末次先生のご好意であなたがわれわれの会に協力してくださることになったのは、会が一番苦しいときで、あなたの熱意と行動力に力強い援軍を得た思いでした。ことに私は採択も追い込みの時期に都内あちこちの会場へひんぱんにご同伴いただき、幾多の思い出があります。

 あなたは会を離れてからもいつも気にかけて下さり、総会でご挨拶を交したのもつい先日のことでした。もっとお話したかったですね。私とは同じ歳なので、私の方もあなたのご健康が気になっていました。急な出来事に言葉もありません。

川原さん、あなたの律儀で篤実なお姿をいつまでも忘れません。本当にありがとう。心からご冥福を祈ります。

平成17年2月8日
新しい歴史教科書をつくる会
名誉会長 西尾 幹二

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 故坂本多加雄氏につづいて二人目の死亡者である。考えてみれば、歴史教科書の運動はたくさんの人たちの好意と献身に支えられてきたものだと思う。しかしこれまではどうしても目ざましい成果をあげることができなかった。

 帰り道、宮崎事務局長と山岸次長と三人でフラリと入った小さな中華料理店で、熱燗の老酒が胃に沁みた。話すことは今年どう戦うかということばかりだった。

 会は5000万円の募金を始め、たちまちその額を突破した。経済界、スポーツ界、その他最近の若い層からの、いざというときには起ち上がるという力強い声援も数知れない。物質的にも精神的にも、これほど暖かい支持を得ている運動は今の世に数少い。

 それほど困難であり、自己犠牲的な運動であるからと思われているからでもあるが、新しい扉に手を掛けながらパッと開けられない日本への怒りと苛立ちを共有する人がそれほど多いということでもあるだろう。

結婚式と葬式 (一)

 私は4日間ほど旅に出ていた。帰ってきて風邪をひいた。体調が乱れて、予定通りの生活が出来なかった。

 このところ寒い。こういうときには死者が出る、と不吉な予感がした。「新しい歴史教科書をつくる会」事務局で平成12年夏から約1年間ほど協力してくださった私と同じ年齢の川原祐さんという実直で、律儀な方がいた。2月6日にその方が亡くなった。私が風邪熱で早く床に臥せた日だった。

 8日の夜お通夜があるとしらせが入った。7日に熱は下がったもののまだ鼻みずは出るし、すこし咳も出る。8日夜の同じ時間帯に政治家の高市早苗さんの結婚披露宴に招かれていることをすっかり忘れていた。別件で伊藤哲夫さんから8日朝に電話が入って、そのことを言われて、あゝそうだった、と思い出した。

 お通夜のあるお寺は浅草の稲荷町、披露宴は赤坂プリンスホテルである。どちらも午後6時からとなっている。私は9日には用事が入っていて、告別式には行けないからお通夜をはずせない。

 お弔いと婚礼、死と生のどちらが尊重されるべきか。といえば当然前者であろう。けれども、死は突然訪れるものだ。婚礼は約束ごとである。私は今夜の出席の返事を出している。伊藤さんが問い合わせて、立食パーティーではないらしいよというので、テーブルに空席をつくっては相済まぬと思った。私は両方をうまく果せないかと思案した。赤坂見附と稲荷町の間は地下鉄銀座線で30分ほどである。

 会の事務局に相談したら、お寺に万が一来られないケースを考えて会として弔電を今から打っておきたいという。任せるといえばよかったが、紋切り型の弔文にしては川原さんに申し訳ない、と私には思い出のある人だからと言うと、それなら急いで文章を作ってファクスで事務局に送ってほしい、電報はこちらで打ちますというから大急ぎで文章を作ったら少し長めになった。「長いなァ、これでいいかなァ」と電話口で言うと、処理は任せてくださいと、事務局長が言うものだから大丈夫かなァと心配しながら、「ぎりぎりでもお通夜に間に合うようにお寺に行くよ」と私も言い添えた。

 赤坂プリンスホテルの2階の大広間が会場だった。待ち合わせていた伊藤さんと中へ入ると、ステージで女性歌手がロック調の声をはりあげている。情報違いで、椅子がない。やはり立食パーティであった。あゝこれなら早めに退場してお寺に駆けつけることも出来るな、と好都合に思った。あとでざっと見回して、約1500人は来ていただろう。

 歌が終って漫才師のかけ合いがあり、正面スクリーンに新郎の衆議院議員山本拓氏と早苗さんが並んでインタヴューを受けている場面が大写しになっていた。ご夫君になった方を私は存じ上げない。今から13年ほど前、私が朝まで生テレビに一番よく出演していた当時、ある時期から以後高市早苗さんがしばしば私の隣席に坐るようになった。隣席だから同陣営とみなされていたのだろうが、彼女からむしろ私は噛みつかれることが多かった。「彼女は先生の天敵ですね」と言う人もいた。議員になられる前で、20代さいごの年齢ではなかったろうか。ご本人は当時のご自分の牙をもう忘れておられるだろう。

 6時になって新郎新婦が入場し、人混みをかきわけるようにして正面ステージに登った。彼女のウェディングドレス姿は、大柄なので舞台上でもひときわよく映えた。森喜朗氏、中川秀直氏、小泉純一郎氏、武部勤氏の順に挨拶があった。最初の二人が結婚の立会人ということだった。

 政治家の話はどれもうまい。とりわけ森さんは愛想良く、上手である。けれども、どなたの話であれ、後から思い出そうと思ってもどうしても内容を思い出せない。それがまた政治家の話の特徴である。

 「早苗さんは落選しなければ大臣になっていたが、そうならば結婚はできなかったろう。」「30代で結婚したいってしきりに言っていたが少し間に合わなかった。」「落選したので秘書をしていた弟さんを山本議員に引き取ってもらった。そうしたらお姉さんまで引き取ってもらうことになった。」みんな仲間なのだろう。誰いうとなく遠慮のないそんな言葉がスピーチの中に飛び交っていた。自民党はこういうときになるとやはり派閥で集まるものらしい。

 議員になってから早苗さんは私の方へ近づいてきた。ことに「新しい歴史教科書をつくる会」の熱心な応援者になって下さった。夫婦別姓反対の女性議員の代表格でもあった。従って「山本早苗」になったはずである。

 小泉首相はステージの真中で両腕をあげて語ったが、何を言っていたかをやはりどうしても思い出せない。たゞ山本拓副幹事長はわが郵政改革の支持者だ、と胸を張って振り返るようにして言い、みなを笑わせた。そういう程度の仕草でも人が笑うような会場の雰囲気だった。

 それから30~40人くらいの氏名が次々と呼び上げられ、ステージに登壇することを求められた。森派の有力政治家が大部分だったが、評論家も何人かはいた。その中に私の名があったので、後方にいた私は混雑をかきわけて前方ステージへ登った。

 私は出席を返事していた。風邪とお通夜の件もあってよほど欠席しようかと思った。でも先方が私の存在を気にかけていたのだから、やはり失礼にならずに済んでよかったと思った。安倍晋三氏がステージの中央で乾杯の音唱をとった。私はそのすぐ後にいた。ステージの上で新郎とも新婦とも握手を交した。私は早苗さんに「さっき弟さんに会いましたよ。」とだけ言った。

 盃をかゝげながらステージをぞろぞろ降りる途中で町村外相と目が合った。「やあお久し振りです」と先方。前の文相時代は「新しい歴史教科書」の検定騒ぎ、韓国からの改訂要求の時代だった。「今度はあなたが外務大臣になられて、日本は腰が坐ったかんじで安心して見ていられます。」と私は応じた。

 二人は立ち止まって話す姿勢になった。「本当は私は文部大臣になりたかったんですよ。でも、今度の文部大臣はしっかりしている方で、安心です。」「今度は外も内も手堅く安全ですね、本当によかったです。」と私が応じると、「でも、教科書の内容はお手柔らかに願いますよ」と4年前に戻ったような調子で言う。「いや、すでに検定で調査官から手厳しくイジメラレテイルようですよ。」と私はあえて答え、それでそのまゝ人混みの中へ左右に別れた。

 何ということはない意味のない対話である。けれども思い出すことが一つだけある。町村さんとは4年前、検定も採択もすべて終って、秋になってからある空港の貴賓室で会談した。両者の旅が同じ時刻にクロスするのを親切な人がキャッチして、仲介したのだった。町村さんはそのとき、私たちが教科書の検定内容を大幅に受け入れたことが意外だったらしく、「あんなことならもっと削ればよかった」と冗談のように仰言った事実を思い出した。

 あの教科書の主張を少しでも「守る」のではなく「削る」のが当時の政府の、そしてひょっとすると今の政府の心の奥にあるものなのかもしれない。それを思うと心が寒々とし情けない気がする。

 この情勢が逆転しなくてはいけない。左翼の教科書を検定で少しでも「削る」。――それが政府の意向であるという風にならなくてはいけない。家永教科書裁判の時代まではそうだった。いつの間にか家永側が主流になり、こちらが少数派になった。今の日本はまだこの状態がつづいているのかもしれない。

 ステージの下に数多くの政治家がいて、挨拶を交した。元防衛庁長官の衛藤征士郎氏が近寄ってきて、私の本をよく読んでいると言い、尖閣の魚釣島に2000mの滑走路を作ること、沖の鳥島にレーダー基地を建設することを立案し、いま実現を目指してがんばっていると仰言った。実現すればまことに有難いし、心強い。

 私は尖閣もいいが、中国は先に台湾攻略を考えているので、宮古島、石垣島、与那国島といった台湾に至近のいわゆる南西諸島に自衛隊を常駐させることをもっと本気で考慮して下さいと言った。