結婚式と葬式 (二)

 ステージではまた歌が始まった。私はもう披露宴には十分すぎるほどいたと分り、午後7時15分、会場を離れた。赤坂見附の交叉点で待たされる間に、ネクタイを白から黒へとり替えた。コートの胸を開くと寒気が襲ってくる。ホテルの中は暑く、外はひどく寒い。

 浅草の稲荷町は葬儀屋や仏具店が並ぶ、がらりと雰囲気の変わる下町である。川原さんの葬儀を受付けから何から何まで取り仕切ってくれたのは「町内会」だと聞いて、下町はさすが違うなと思う。山の手では隣り近所の付き合いはほとんどない。

 お通夜は終りかけていた。祭壇はあったが、式はとうに終っていた。私はお焼香をすませ、川原さんの5、6年前の遺影をしばらくじっと眺めた。

 新樹会の末次一郎さんが平成13年夏の採択の1年ほど前、人手不足の会の実情を知って、派遣して下さった。川原さんの手当ては新樹会が負担するといい、「これは西尾さんへの私の気持ちです」とのご伝言があった。それに十分に謝す余裕もなく、夢中ですごしたあの年だったが、間もなく末次氏は病歿された。

 川原さんの奥様と二人の感じのいいお嬢さまがたに会った。三人ともに明るい表情なのでホッとした。私は知らなかったが、川原さんはもう何度かガンの手術をくりかえしていたという。会を離れた平成13年夏、足が痛いとしきりに言っていたのを思い出す。

 長すぎた私の弔文は電報に向かないとみて、事務局はこれを弔辞として清書し、明日の告別式でどなたかが代読して下さるそうである。

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 弔 辞

 川原さん、末次先生のご好意であなたがわれわれの会に協力してくださることになったのは、会が一番苦しいときで、あなたの熱意と行動力に力強い援軍を得た思いでした。ことに私は採択も追い込みの時期に都内あちこちの会場へひんぱんにご同伴いただき、幾多の思い出があります。

 あなたは会を離れてからもいつも気にかけて下さり、総会でご挨拶を交したのもつい先日のことでした。もっとお話したかったですね。私とは同じ歳なので、私の方もあなたのご健康が気になっていました。急な出来事に言葉もありません。

川原さん、あなたの律儀で篤実なお姿をいつまでも忘れません。本当にありがとう。心からご冥福を祈ります。

平成17年2月8日
新しい歴史教科書をつくる会
名誉会長 西尾 幹二

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 故坂本多加雄氏につづいて二人目の死亡者である。考えてみれば、歴史教科書の運動はたくさんの人たちの好意と献身に支えられてきたものだと思う。しかしこれまではどうしても目ざましい成果をあげることができなかった。

 帰り道、宮崎事務局長と山岸次長と三人でフラリと入った小さな中華料理店で、熱燗の老酒が胃に沁みた。話すことは今年どう戦うかということばかりだった。

 会は5000万円の募金を始め、たちまちその額を突破した。経済界、スポーツ界、その他最近の若い層からの、いざというときには起ち上がるという力強い声援も数知れない。物質的にも精神的にも、これほど暖かい支持を得ている運動は今の世に数少い。

 それほど困難であり、自己犠牲的な運動であるからと思われているからでもあるが、新しい扉に手を掛けながらパッと開けられない日本への怒りと苛立ちを共有する人がそれほど多いということでもあるだろう。

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