シアター・テレビジョンの歴史講座

 以前から私が「日本のダイナミズム」というやゝ大袈裟な題でテレビの歴史講座を開いていることは、若干知られているだろうが、スカパーのシアター・テレビジョンの配信なので、容易に近づけない人もいたに違いない。

 9月末から(株)シアター・テレビジョンのご好意で、スカパーの手続きなしでインターネットにおいて無料公開されることになった(ただし、WEB会員登録をする必要有り)。この「西尾幹二のインターネット日録」(サイドバー)からも直接クリックして、自由に開いて見ることができる。(株)シアター・テレビジョンの寛大な措置に感謝したい。

 私の放送はすでに5回分(1回が各100分)、録画されている。第5回の10月分はまだこれから放送になるが、最初の4回は今日からでも見ることができる。

 1回が小さく20分づつ5題目に分かれているのも、テレビ放送のつごうによる。20分づつ同じ放送を何度も繰り返して流すのがCSテレビの通例だそうである。したがって、20分づつ題目の変わる小話が5つで一つのくゝりになり、それがすでに5くくり分できていることになる。

 ご覧になると20分で切れて、何度も私が開始の口上を述べるのは多分見ていてわずらわしいかもしれないが、テレビの性格上そういうことなので我慢していたゞきたい。どうかよろしく。

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西尾幹二監修「日本のダイナミズム」(各20分)
ウェブ動画視聴方法

■配信サイト
シアター・テレビジョン ホームページ
http://www.theatertv.co.jp/movie/
※シアター・テレビジョンホームページのトップページ右端にございます
番組検索で「西尾幹二」と検索すると、西尾先生の全番組が出てきます。

●シリーズ:現代史を考える
#1 マルクス主義的歴史観の残骸
#2 すり替わった善玉・悪玉説
#3 半藤一利『昭和史』の単純構造
#4 アメリカはなぜ日本と戦ったのか
#5 日本は「侵略」していない

●シリーズ:現代史を考える/再び問う「アメリカはなぜ日本と戦争したのか」
#6 いい子ぶりっ子のアメリカの謎
#7 ヨーロッパの打算的合理性、アメリカの怪物的非合理性
#8 中国はそもそも国家ではなかった
#9 日本を徒に不幸にした「中国の保護者」アメリカ
#10 ソ連と未来の夢を共にできると信じたルーズベルト政権

●シリーズ:現代史を考える/日米戦争の宗教的背景
#11 アメリカの突然変異
#12 アメリカの「闇の宗教」
#13 西部開拓の正当化とソ連との共同謀議
#14 第一次大戦直後に第二次大戦の裁きのレールは敷かれていた
#15 歴史の肯定

●シリーズ:現代史を考える/二つの「神の国」の衝突
#16 神のもとにある国・アメリカ
#17 じつは日本も「神の国」
#18 政教分離の真相
#19 「国体」論の成立と展開
#20 世界史だった日本史

●シリーズ:現代史を考える/か弱き日本の神の怒り
#21 「日本国改正憲法」前文私案
#22 仏教と儒教にからめ取られる神道
#23 仏像となった天照大御神
#24 皇室への恐怖と原爆投下
#25 神聖化された「膨張するアメリカ」

シアター・テレビジョンのご案内

シアター・テレビジョンは「世界は舞台、人生すべてシアターです」をキーワードにニュース・政治から歴史・文化・教養・アートまで今のTVに飽き足らない人の欲求に応えるコンテンツを提供しております。
シアター・テレビジョンでしか観られない監修・出演陣によるメディアのタブーを破る直言が満載!

【番組例】
■中曽根康弘『定点観測』 毎週月曜21:00~ほか
中曽根康弘元総理が現在の日本を鋭く斬る!/聞き手:松本健一
■笹川陽平『地球を歩く~世界のコンフィデンシャル~』 毎週木曜7:00/15:00~ほか
行動範囲は地球!あなたの知らない現実を暴く!
■堤 堯『時代を創る』 毎週月曜7:00/15:00~ほか
日本再生の糸口を求めて全国行脚!
■『江戸千家~家元の所作に学ぶ~』 毎週月水金曜11:00/23:00~ほか
家元直伝!自宅にいながらにしてお茶のお稽古が学べます
■宮脇淳子『世界史はモンゴル帝国から始まった』 毎週土曜7:00~ほか
■このほか、オペラ(ロイヤル・オペラなど)・バレエ(パリオペラ座、ロイヤル・バレエほか)・ドキュメンタリー(新富座こども歌舞伎、ミュージカル「葉っぱのフレディ」)なども放送中!

【視聴方法】
【1】パソコンで見る
シアター・テレビジョン ホームページ(http://www.theatertv.co.jp/movie/)から【WEB会員】にご登録ください。動画は無料公開中です!
番組に関するお問合せ:03-3552-6665(シアター・テレビジョン/平日10時~18時)

【2】スカパー!で見る
シアター・テレビジョンはチャンネル「262」で放送しております。
スカパー!加入のお問合せ:0570-039-888(スカパー!カスタマーセンター/年中無休10時~20時)

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シアター・テレビジョン03-3552-6665
(平日10時~18時)

お知らせ

お知らせ

日本文化チャンネル桜出演

タイトル:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今…」

テーマ:「路の会」スペシャル「この国の行方」(仮)
 自民党大敗、民主党政権発足といった大きな変革を迎えた日本のあり様と今後について、議論していただきます。

放送予定日:平成21年9月25日(金曜日)
        一部 20:00~21:28
        二部 23:00~23:30
        日本文化チャンネル桜(スカパー!217Ch)
        インターネット放送So‐TV
パネリスト:(50音順敬称略)
       北村良和 (愛知教育大名誉教授)
       新保祐司 (文芸評論家・都留文科大学教授)
       高山正之 (ジャーナリスト)       
       西尾幹二(評論家)
       藤岡信勝 (拓殖大学教授・「つくる会」会長)
       山口洋一 (元ミャンマー大使)
       
司 会:  水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

坦々塾(第十五回)報告(三)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

道元禅師『正法眼藏』と私        水島 総

「道元との出会いで人生を生きられた」。水島氏は今回の講義をこういって語り始めた。

 氏の多方面にわたる行動は、改めて紹介するまでもない。一日本人として、祖国の名誉回復を願い、歪んだ歴史観に果敢に挑み、心ある多くの国民を共に行動に駆り立てて来た。そんな、情念的な行動家ともいえる水島氏であればこそ、人間としての深い苦悩があったのであろう。学生時代はドイツ文学から学び、トーマス・マンに傾倒する。やがて日本に、そして道元禅師の正法眼藏にたどり着いたという。

 キリスト教、浄土真宗は空間的意識の宗教である。禅とは、鎌倉仏教とは何か。禅の本質は時間の宗教である。ここでいう時間の感覚はヨーロッパとは違う。キリスト教徒は、つねにより良い場所を求めてさまよう。ここではないどこかにいいところがあるという意識をつねに持ち、拡げようとする。その意識は宇宙にも向けられている。

 氏はカール・ブッセの有名な詩「山のあなた」がそれをよく表しているという。

山のあなたの空遠く
幸住むと人のいふ 
噫われ人ととめゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く 
幸い住むと人のいふ

 易姓革命もまた、空間の移動と拡大同様に、時間が断絶する。禅はまったく軸が違う。空間的な拡大や移動を求めない。氏は台湾の少数民族を訪ねて、そこに漂う感覚に禅に通じるものを見た。彼らは母系社会を形成し、山を隔ててそれぞれが違う文化を継承している。そこには、自然、時間、祖先を共有する生活があった。決して山を越えて領土を拡張しようという意志はない。あるいはより良い新天地を求めようとは考えない。

 般若心経における色即是空の色とは物質であり、空とは時間であり悟りである。自分が時間になりきることである。日本人が失った時間、日本の禅、空解釈を変えなくてはいけない。

 以下はテキストからの引用である。

「苦集滅道」 四諦(したい) これまでの仏教の教え。「苦」この世は苦しみ「集」欲望があるから「滅」それを滅すれば「道」悟りへの道が開く

禅の教え 「苦」頭で考えた思想・イデオロギー、理想・価値 「集」感覚でつかもうとするが、ものであり物質を基礎に考える(科学的見方・唯物論)価値の喪失 「滅」現実の物と心を双方認め、行為によってそれを示していく。(中道)正しい行いが人間生活の中心 座禅への道 この場所 現在の瞬間の行為 人間本来の姿に戻る 「道」宇宙全体の時空との関連・連動 悟りへの道が開く(時間軸に生きることへの移行)

「集」をヨーロッパでは唯物論や観念論からアプローチするも、未だに解決できない。

「滅」プラグマティズム(行為)、座禅につながる。

「道」行為に時間が入ってくる。物事すべてに時間を入れる。

となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして 一遍

 ここでは結句に「声ばかりして」とあるため、聞いている自分がそこにいて、「仏も我もなかり けり」が嘘になってしまう。未決。

 となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

 これが悟り(空)である。

静かさや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

空間と時間を融合し、岩を擬人化している。ここに日本の非合理がある。

日本人の心に肉体化していた時間(もののあわれ)が減少していった。座禅はそれを再発見する道ではないか。

神道の禊ぎ、祓いも大乗の本覚に通じるものがある。本覚の悉有仏性(ことごとくに仏性はある)とは、あらゆる存在は仏性で、そのまま仏のいのちであり、仏のいのちでないものはない。道元の解釈では、過去、現在、未来という時間もまた同じである、というものである。

存在(物質)と時間は一緒である。存在が時間の上に乗っているのではない。これは近代合理主義では理解できない。

幕末における廃仏毀釈とは、近代合理主義に基づく、我が国が継承してきた時間制の喪失であった。

明治維新において我が国は空間を導入した。これは日本にとって、時間と空間による股割き状態であった。

明治の日本人は夕焼けを夜明けと勘違いした。やがてやってくる長い夜に気がつかなかった。日本人が失ったものは、自分と他者を差別しないという意識である。日本人が時間を取り戻すことができるか。できなければ、欧米キリスト教、中国の物質世界に圧倒されるであろう。

皇位の継承を水と皿(肉体)で捉える。皿は水を受け取った。この水こそ時間である。神武天皇から受け継いだ時間である。時間軸を失った国体論は、形としてとらえられた。

インディアンの特徴として、時間が自由であるということがあげられる。そこには死んだ人間も一緒にいる。日本でも、先祖霊がお盆に帰る、仏壇に仏様がいると考える。仏性は過去、現在、未来が一緒であり、いつも輝いて、瞬間瞬間を生きている。時間を取り戻すとは、大らかさを取り戻すことである。近代の流入によって失ったものがあるが、日本人には、DNA、基礎があることを思い出す必要がある。日本人がそれを世界に発信する必要がある。台湾のパイワン族も、インディアンもそういう時間を生きている。広がりを求めず、過剰を求めない。そこで自足している。一匹の猪をみんなで分け合い、次に食べる人のためにも、余分な狩りはしない。蕩尽は空間が産み出す。皇室が持っているのは時間。時間は自足している。

 ここから水島氏は、トーマス・マンを通して近代ヨーロッパについて語る。19世紀リアリズム小説である「ブッテンブローク家の人々」は、作者が鳥の目を持って俯瞰的に描いた小説である。ここでは、登場人物も物語も作者の掌中にある。その後第一次世界大戦が起き、兄のハインリッヒとの論争を行い、この戦争を文明と文化の戦いであると意識する。三島由紀夫の文化防衛論は、この論争に影響を受けているのではないかと指摘があった。

 「魔の山」「ヴェニスに死す」になると明らかに文体が変わる。登場人物と一緒に歩くようになるのだ。

 「ヴェニス」では、ヨーロッパ近代の終わりを感じた。ここに登場するギリシャの美少年とは、ギリシャ文明の象徴、外見は完璧な美を保ちながら、一点だけ歯に欠陥があった。内側は腐っている。そのことにより彼は、にせ者となる。内部に病を持つことが、近代ヨーロッパを象徴している。主人公の老作家は、少年に魅せられ、厚化粧をし、付きまとう。このさまよい歩く姿こそ、空間に呪縛されたキリスト教世界の比喩である。水島氏はこの様子を、みっともないヨーロッパの姿、と非情に辛辣に表現した。村上春樹が同じことをやっている。こっちが駄目ならあっちと、本質的にはまったく同じである。ただし、水島氏は村上春樹は民主主義者の中では現代最高の作家であるという。意識的なコスモポリタンではあるが、最高でありしかも限界でもあるという。

 冒頭触れたように水島氏は果敢な行為の人である。そんな氏を突き動かす座右の銘が最後に披露された。

典座教訓 生死事大 無常迅速 私がやらねばだれがやる。いまやらねばいつできる。

石はいつでも石。しかし、磨いて磨いてぶつけ合わせれば火花となり、遼火となって野を焼き尽くす。泥石では火花は出ない。自分を磨くことがすなわち行為である。

 講演後、西尾先生から「私も火花を散らす存在でありたい」、という感想があった。さらに、もう一度「時間」を取り戻そうとしたのが大東亜戦争ではなかったか、不合理そのものが日本の過去だった、ともいわれた。

 この言葉については、是非皆さんも一緒に考えていただければと思う。特に、散らした火花が遼火となって野を焼き尽くす、その炎を起こすために必要なことは、言葉(火花)を受けた私達が、それをどう受けとめるのかにかかっていると思うからだ。

 三人の先生方の講義は西尾先生の言葉通り「ずっしり重く坦々塾ならではの集中した時間」でした。私のつたない記録ではあの臨場感はとても伝え切れておりません。理解や表現に講師の真意と異なる点も多くあると思いますが、それらすべての責任は私にあります。特に宗教の問題に関しては基礎的な素養がなく、私にとっては困難な作業でしたが、このような機会を与えてくださった西尾先生に深く感謝申し上げます。

 なぜ御皇室は存続し続けたのか、日本にはなぜキリスト教が根付かなかったのか、ということが私の最近の関心事となっておりますが、今回の講義でその問いに対する一つの方向性を見出していただいたと思っております。本当にありがとうございました。

 今回の記録作成にあたって、過去の諸先輩方の文章を拝読し、その構成力、文章力、そして何よりも文章の土台となっている教養の深さに改めて圧倒された次第です。

文責:浅野 正美

坦々塾(第十五回)報告(二)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

 開会にあたり西尾先生から短いご挨拶があった。「自民党は滅びるだけ滅びよ。つぶれるだけつぶれよ」。

 世界金融資本の陰謀と日本の近現代史   福地 惇

 最初に新しい歴史教科書の採択率が前回の0.4%から今回は1.6%へと、四倍に大飛躍したことが報告された。

 現在世界の歴史で常識とされていることの多くは、作為を持って捏造されたものである。例えば、一般的な日本人の自国に対する歴史観をざっと書けばこうなる。明治日本は戦争好きで、総増上慢となり、朝鮮は36年間苦しめられた。東亜と中国を支配しようという野望に燃え、真珠湾をだまし討ちした卑怯な国家であった。そんな卑怯で極悪な日本人を懲罰するためにアメリカはやむなく戦った。原爆の投下は、双方で数百万人の命を結果的に救うこととなった。坦々塾の塾生は、自ら学び考えることができるので、こんなことは信じないが、大方の国民は、これがまさしく歴史の真実だと信じている。ただし、常識は真実に非ず。歴史は常に歪曲と偽装に満ちている。

 そもそも、現代の欧米の歴史認識が異常であり、それが日本にも反映している。公認の歴史、物語の本筋は国際金融資本が作成し、それにつながる御用学者が「正史」を書くという仕組みになっている。

 国際金融資本の陰謀、詐欺、策略は隠されており、都合の悪い資料は破棄され、決して表に出ることはない。

 第一級の資料は隠されるため、実証史観はできない。残されるのはきれい事ばかりで、そうして残された一次資料を都合よく使って、歴史が改竄される。コントロールセンターは国際金融資本の黒幕で、ロンドン、ニューヨークに本拠を置き、全世界の都市に拠点と支部を持つ。世界銀行、IMF、各国中央銀行、政府も支配下にある。組織はユダヤ人が中心となる。ユダヤ教の教えでは、非ユダヤ人は禽獣の類であり、ヒツジやラクダの方が、清い。全分野に支配力を発揮し、目的のためには手段を選ばない。そのために歴史を改竄する。日本も被害者である。

 第一次・第二次大戦は国際金融資本が作り出したはめられた戦争であった。国家を弱体化させる方法は、言語、儀礼、歴史の記憶を消すことである。文化的に破壊された跡には生きる屍としての肉体のみが残り、やがて国家は消滅する。地域、家族を形骸化することで、これらが常識を育てる場ではなくなり、学校、巨大メディアがそれに変わった。教育とメディアを掌握する者が真の権力者となる。こうして世間の常識と大衆社会の歴史認識を作っていく。

 力(パワー)は武器である。独裁権力(パワー)による政治的実験が共産党国家の建国であった。また、パワーの源泉はマネー、資源、金融である。日本人は、好意には好意で応えるが、ユダヤ人に恩返しの概念はない。ユダヤ人には、ユダヤ人を救った美談は通用しない。まさに人間にあるまじき民族である。ユダヤの秘典、聖典タルムードには、「非ユダヤ人の最良の部分を抹殺せよ」とある。また、目的のためには手段を選ばないため、異教徒は殺しても構わない。ヨーロッパの歴史は、ユダヤ対キリスト教徒の歴史であった。ユダヤは政権中枢や王家にまで寄生し、搾取を繰り返した。最初寛容であったものが、我慢の限界を超えてユダヤ人を迫害する。外国で文化や慣習になじもうとせず、中世のヨーロッパは、ユダヤへの抵抗記といってもよい。ユダヤ教の基本が、選ばれた民、世界を支配する民である。目的達成のためのスパンは、二世、三世、百世、と非情に長い。現在の日本はユダヤにとって、物を作る奴隷である。

 好況、不況といった経済の振幅は、コンドラチェフの波で説かれるように、経済の予定調和と思われがちだが、金融、財政をコントロールすることで作り出している。戦争、革命もまた然り。

 反歴史、反国家を他国、他民族においては画策するが、それらはユダヤの本意ではない。自分たちだけが最後の勝者として生き残るのが最終目的である。

 ユダヤ人は地球人口の一握りであり、コントロールしているのはわずかに数千人である。第一次大戦のベルサイユ条約で、ウイルソンのブレーンはユダヤ人であった。ドイツに天文学的な賠償金を課し、いじめの反動を読み込んでいた。支払い不能な賠償金にドイツは我慢できるはずもなく、第二次大戦のシナリオがここで書かれていたと考える方がわかりやすい。

 ロシア革命も、ロマノフ王朝の圧政があったとするのは嘘であり、事実は善政であった。首都の情報が入らない地方の農民を攪乱し、農奴解放、奴隷解放を説いて内乱状態を誘発した。

 安定した国家はつぶす、こうしてロシア、ドイツ、日本をつぶしてきた。政治の不安定化、弱体化が目的である。現在も、英米有名大学、財団に巨額の資金を提供して、まじめで愚鈍な英米人に対していいことをしていると見せかけて、捏造を繰り返している。

文責:浅野 正美

坦々塾(第十五回)報告(一)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員
 
9月5日(土)に、第十五回坦々塾が行われました。

福地 惇さん  
西尾先生
水島 総さん 

  の順番で講義をいただきましたが、まず西尾先生のご講演から報告させていただきます。

 宗教戦争としての日米戦争        

 前回「複眼の必要 日本人の絶望を踏まえて」の中でアメリカの特殊性について学んだが、今回は宗教をキーワードとして、何故大東亜戦争が戦われなければならなかったのか、という講義を聴くことができた。

 講義の冒頭、先生が披露したエピソードが大変印象的であり、また今回の講義録をまとめるうえでも大変重要になると思うので紹介する。

 1981年、レーガン米大統領就任演説翻訳文を掲載した朝日新聞には、重要な一文が抜けていた。しかも故意に削除したのではなく、日本人の常識に照らして必要ないと判断されていたという。その文章とは次のようなものである。

 「私は、何万人もの祈りの会が本日開かれていると聞いている。そうして、そう聞いて私は深く感謝している。

 われわれは神の下の国であり(We are a nation under God)、私は神こそがわれわれを自由にしようと思っていると信じている。もしこれから何年間も大統領就任演説の日に、祈りの日であると宣言されれば、ふさわしいし、よいことだと私は思う」。

 この文章にレーガン大統領、万感の思いがこもっていることに我々は気がつかない。ここに日本人のアメリカを見つめる時の盲点がある。普段の生活で私たちは宗教を意識しない。政治にも持ち込まない。若人、弱者、悩める者の心の救済として、あるいは死後の存在としてのみ考え、アメリカにとって宗教こそ共同体のアイデンティティーの問題であるという認識がない。この大きな断絶を理解しないと、「宗教戦争としての日米戦争」という今回の講義の真意がつかめないのではないかと思う。

 アメリカに国教は存在しないが、まぎれもなく神権国家であり、宗教原理主義といってもよい。そこでは個人の上位に共同体があり、共同の理念がある。

 国教はないが、見えざる国教があり、それは聖書を教典とするキリスト教に近い宗教であり、それらの間にのみ信教の自由が認められる。信教の自由とは多種多様な教会を認めることであって、移民、アジア、黒人、インディアン、等に対する寛容ではない。あくまでも身内における自由であり寛容なのである。

 西尾先生から、先進六カ国の国民の宗教観に対するデータが配付されたが、天国、地獄、死後の世界、神、それぞれの存在を信じるアメリカ人は、すべての項目にわたって70%を超えている。特に神の存在に関しては94.4%の回答者がその存在を信じているという。ちなみに我が国は、どの設問においても一番低い数値をしめしている。日本人は国家意識の基礎に宗教がなく、その必要も感じていない。

 平安朝の遣唐使、吉備真備(きびのまきび)に関する逸話も紹介された。唐でつらい留学生活を送る吉備真備に対して、朝廷から難問が出され苦悩する。阿倍仲麻呂が鬼となって現れ助けてくれるが、さらなる難問が出される。そこで吉備真備は、日本に向かい日本の神に助力を乞うたところ、蜘蛛が現れ糸を引いて答えを教えてくれた。吉備真備は仏教を学びに唐に渡ったにも関わらず、「困ったときの神頼み」では、日本の神に祈った。ここに見えるパラドクスこそ古代日本の神認識の姿である。

 縄と紙垂(しで)に囲まれ限定された空間、あるいは氏神様、祖先神、といったように、我が国の神は古来限定された場所で、特定の人によって祀られていた。天照大神は天皇家の皇祖神ではあっても、全国民の神ではなく、国民は祈ることもできない時代があった。

 平安末期以降、我が国では仏教が優勢となる。まず御仏があり、神々はその生まれ変わりの姿であるという本地垂迹説が説かれた。仏と神は一体であり、この時代仏像を模した神像が造られていく。神が刀や鏡に象徴されていた時代から、現実の姿として表現された時代である。われわれが今神様のお姿として思い浮かべるのは、神話の挿絵に出てくる白い衣をまとった姿だが、これは明治になって初めて創作されたものである。

 さて、中世以降天皇家が力を失って行くとともにに、神は国民の信仰の対象へと変わっていく。東西統一権力が成り、鎌倉仏教は天皇家を無視、大本の仏が大事で天照大神はその代替信仰であるという位置付けであった。仏教の中に於ける神道という概念が定着し、幕府もそこに身を置いた。皇祖神の天照大神はこうした中、仏教の手を借りて全国に広まっていく。

 明治に入り、廃仏毀釈となったのはご存じの通り。神祇官が任命され、神社優位となり、国学者、神官は増長した。

 幕末の日本は、アングロアメリカ(英・米)とぶつかった。我が国は、欧米という言葉がしめすように、ヨーロッパとアメリカを同じ文化圏として認識していたが、実は両者は異質のものであった。

 アメリカという国の成り立ちを、南米、北米、北米における南部と北部という点で歴史を振り返る必要がある。

 19世紀初頭、アメリカ大陸の人口は、南米が1,700万、北米が500万であった。南のインディオ、北のインディアンは共に1.5~2万人。ヨーロッパが意識したアメリカは当初南米であった。南米はスペイン王朝が富を獲得をするために利用された。そこでは暴力を行使し、あるいは十字軍的な使命感で、原住民を改宗していった。

 人民は混血し、人種政策はゆるめられた。経済的にはスペインの本国経済と深く結びついていた。

 北米大陸には、南部と北部という問題がある。南部は豊かで土壌は肥沃、農地として適している点では、南米とにている。北部は農業に恵まれず、貿易、造船が大きな経済的基盤であった。独立前すでに造船量は大英帝国の三分の一に達しており、本国の干渉を避け、独立の気風が養われていく。広い国土の自由使用を認め、富を広く豊かに拡げるために平等相続制度を採った。この頃の欧州は長子相続であった。北の世界に対する意識にはキリスト教があった。これが、我が国に深く関係する問題である。

 マタイ伝によるイエスの予言によれば、西に新しい土地があり、そこはキリストが与えた、征服に相応しい土地である。アメリカ大陸侵略を正当化するために、これ以上ない予言であった。選民意識に基づく、約束の地アメリカを、出エジプトに置き換えた物語が生みだされた。ワシントンは、モーゼに擬せられた。こうしてインディアンに対する掃討戦は正当化され、1914年、フィリピン侵略も完成する。すでに日米開戦も間近である。アメリカの宗教戦争はこうして続き、このアメリカの信仰への熱狂は、むしろイスラムに似ているといえる。今のアメリカ人も神を信じている。通常文明の進展と共に国民は脱宗教化するといわれており、アメリカはすでにヨーロッパとは異質な国家となっている。同性愛、人工妊娠中絶が選挙の重要なテーマとなり、教会の政治に対する発言力は極めて強い。アメリカ人にとって信仰は誇りであり、大統領選挙では、当落を左右する問題である。

 翻って我が国は無宗教国家であろうか。決して無宗教ではない。無宗教で天皇を戴くことはできない。江戸時代まで、天皇の認知は謎であった。わずかに思想家のみが考えた。思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに、疑うことを不必要とした。

 国の学問の中心は仏教から儒学へと移り、1670年から書かれた大日本史は孔子の正統主義に基づき、南朝正統を認めた。神話を否定して、神武天皇から南朝最後の天皇である後小松天皇をもって南朝の滅亡とする史観を採用した。道徳的叙述により歴代天皇も批判し(論賛)、1740年にいったん編纂が止まった前編は朝廷に献呈されなかった。

 後期水戸学は神話を復活し、易姓革命史観を否定、論賛を削除した。我が国の歴史の継続性を主張し、日本は一つ、国名も一つ、日本は不要、題号は国史でよいと主張した。これが幕末の国体論につながる。これが前述した「思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに、疑うことを不必要とした」状況に繋がる。

 我が国は尊皇攘夷・尊皇開国(文明開化)の間を揺れ動きながらも、最終的にはアメリカの宗教戦争の仕上げに飲み込まれて行く。アメリカにとって日本は、インディアンやフィリピンと同様、簡単にねじ伏せることができる相手だと考えていたが、我が国の抵抗は想像以上に激しいものだった。戦争には勝ったが、戦後経済の分野で幾多の苦杯を舐める。特に国家を象徴する産業の一つである自動車産業において、アメリカは半世紀の長き敗北を喫した。アメリカは我が国の底力にようやく気がついた。果たして復讐はあるだろうか。

 「神の国」と「神の下の国」という二つの国家の戦いが、大東亜戦争であった。

文責:浅野 正美