『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(一)

GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代 GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代
(2010/07/27)
西尾 幹二

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 目 次 

第一章 『皇室と日本精神』(辻善之助)の現代性

国体論は国のかたちということ
読者の心に響かない演説口調の文章
日本は世界文明の貯蔵場
仮名の発明に見る日本文化の特質
外国思想を受け入れて変容した国体観念
国体観念の基礎には「皇室」がある
「君民一体の聖徳」が皇室の伝統

第二章 『國体の本義』(山田孝雄)の哲学性

第一節 時間論

山田孝雄博士の“ふたつの顔”
日本語ではなく「国語」、日本史ではなく「国史」
古代の宣命の中にヒントがある
『続日本紀』の文武天皇御即位の宣命
「中今」の解釈をめぐって
アウグスティヌスにおける「時」と「永遠」
ニーチェとハイデガーにおける「時間と生」
「中今」という言葉への注目から出発

第二節 皇位継承論

日本の「万世一系」、中国の「興亡破壊」
江戸幕府は中国を蔑視していた
時間的・空間的統一性をもった日本
日本を貶める網野善彦論文は国体論者への意趣返し
日本の歴史は「もうひとつの世界史」である
皇位継承の三条件
王家には家名があるが皇室には姓がない
皇室のあり方とコマの回転

第三節 神話論

「国生み」神話について
日本は「作られた国」ではなく「生まれた国」
神道は祈らない、感謝するだけでいい
日本人は神の子である
日本国家の三要素
国生みの物語は日本の国家原論である
日本は英仏独伊ではなくヨーロッパ全体と対応する「自然発生国家」だ
「国史」の前にも長い長い「沈黙の歴史」がある
自然発生的国家の「強み」と「弱み」

第三章  部数173万部『國體の本義』(文部省編)の光と影

第一節 神話と皇統

国民教育のスタンダードブック
皇室は神話と一直線につながっている
「現御神」ということ
神話と王権との関係
「神」の観念も中国や西洋とは大いに異なる
日本の天皇は道徳とか人格とかでは測れない

第二節 複眼を欠いた「和」と「まこと」の見方

現代社会に有効に生きている「和」の精神
「和」の世界には他者が存在しない
「個」としての弱さをさらけ出した日本人
「したたかさ」がなければ世界とは渡り合えない

第三節 鎌倉時代と江戸時代の扱い方への疑問

外国と日本のおける「国家」のちがい
日本には「維新」はあるが「革命」はない
記述に偏りのある『國體の本義』
「権権二分体制」という日本人の知恵
武家が活躍した時代を「浅間しい」とする偏見
皇室を永続させたのは「鎖国」と「権権二分体制」ではないか

第四節 恭敬と謙譲――日本人の国民性

豊かな自然、君民相和す正直な心
皇室と日本人の原点は「明き淨き直き誠の心」にある
日本人の「謙虚さ」が普遍文化の吸収を可能にする
「公」=天皇の前で辞を低くする「私」


第四章  国家主義者・田中智学の空想的一面

田中智学という人
 『日本國體新講座』と時代の空気
「日本の国体は万邦無比なり」
時代の節目ごとに「国体学」を叫んできた田中智学
熱に浮かされていた「あの時代」
「建国の三大網」とは何か
なぜ人は「積慶」「重暉」「養生」を見逃してきたのか?
「明治維新は神武天皇の御代への回帰である」
きわめて朝日新聞的な「人類同善世界一家」というスローガン
日本的国家主義の甘さはリアリズムの欠如にある

第五章 『國體眞義』(白鳥庫吉)の見識の高さ

昭和天皇の皇太子時代の歴史教師・白鳥庫吉
日本は現代の有力国のなかで最古の国
日本民族の起源を探る
「高天原」は海の向こうではなく“心の世界”である
白鳥博士の論と拙著「国民の歴史」との暗合
日本民族の起源を知るうえで重要なのは「日本語」と「縄文土器」だ
日本人の宗教は「万世一系の皇室」である
武家も手を出せなかった「天皇家」という謎
天皇は中国における「天」の位置である
天皇は国民を思い、国民は天皇を尊崇する

第六章  130万部のベストセラー
      『大義』(杉本五郎中佐)にみる真摯な人間像

第一節 「国体論」は小説になりうるか

軍神・杉本中佐と遺書『大義』
「唯一絶対神」と捉えた中佐の天皇観
国体論は結局言葉でも哲学でもなく「行動」なのではないか
「思想」と「行動」は小説に描けるか?
「熱烈鉄血の男児・杉本五郎君の参禅を許容せられたし」
「軍人」と「禅」がキーワード
杉本中佐の「結婚の条件」
「陛下の股胘を貴女にお預けします」
「男の姿」「女の思い」を描いたすばらしい一場面
「憂国」の悲憤慷慨談


第二節 あっと驚く『大義』の天皇観

「思想」というより「一神教」
「日本人は己の子すら私すべからず」
「世界悉く天皇の國土なり」
「思想」は単純だったが「実存」は立派だった
中佐は導師が認める立派な禅僧になっていた
「陸軍大学に行けといわれても習うことがない」
「文明開化」と「尊皇攘夷」は対立概念ではない
戦後は軍国主義ときめつけて自己検証をしないできた


第三節 山岡荘八の小説『軍神杉本中佐』の出征風景

地球上の全陸地の九割は白人に支配されていた
昭和十年前後、軍人たちは何を論じ合っていたのか
国民はつねに「世界史のなかの自国」を考えていた
出征前夜――無言で伝わる覚悟の別れ
杉本中佐をめぐる人情話
感動が電流のように走った出征風景
今上陛下にはぜひ「靖国神社ご親拝」をいただきたい

第七章  戦後『大義の末』を書いた城山三郎は
      夕暮れのキャンパスで「国体」を見た

『大義』に惹かれた若者は戦後をどう生きたか
『大義』をめぐる二つの不幸な出来事
「天皇制賛成論」は今やもの笑いの種になる
敗戦による「パラダイム転換」
見えなくなってしまった『大義』の世界
「天皇制」是非をめぐる学園の論争
少年皇太子がキャンパスにやって来た
少年皇太子の姿は『大義』につづく世界を考えるきめ手を与えた
天皇のご存在そのものの重みをはぐらかしてはならない

第八章  太宰治が戦後あえて書いた「天皇陛下万歳」を、
      GHQは検閲であらためて消した
              溝口郁夫

GHQの検閲をうけた太宰治の本
『パンドラの匣』とはどういう本か
『パンドラの匣』にみられる削除と改変
太宰治の天皇尊崇の念は明らか

あとがき

文献一覧
  

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日本をここまで壊したのは誰か(七)

日本をここまで壊したのは誰か
●—————————————–
政治と経済一体の考察を促す刺激的論文集 
『正論』8月号より 関岡英之

 本書の表紙を書店の店頭で目にした人は度肝を抜かれるにちがいない。『日本をここまで壊したのは誰か』という表題のもとに、河野洋平、小沢一郎、鳩山由紀夫等といった政治評論では常連の所謂「売国政治家」とともに、日本経団連の歴代会長を含む財界首脳陣の名が俎上にあげられているからだ。まず、こうした書籍を刊行した版元、そしてそれを書評でとりあげようという本誌編集部の英断を賞賛したい。なぜなら、我が国にはスポンサータブーという名の、もう一つの「閉ざされた言語空間」が厳然として存在するからだ。

 著者の西尾幹二氏は、かつて「保守論壇を叱る 経済と政治は一体である」という論文で「日本のエコノミストはもっと自覚的に政治意識を持って語ってもらいたいし、政治評論家は現代では経済を論じなければ現実を論じたことにならない」と喝破した。当該論文は西尾氏の『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』(PHP研究所、平成17年刊)に収録されているが、その指摘するところがあまりにも重要であるため、評者が編集したムック『アメリカの日本改造計画』(イーストプレス、平成18年刊)にも再録させてもらった。その後、『別冊正論』が平成19年に「世界標準は日本人を幸福にしない―教育、医療、年金、経済・金融…平成「改革」を再考する」という画期的な特集を組んだ。政治と経済を一体で論じる思潮は、まさに西尾氏が切り開いてきたと言えよう。

 そうした観点からすれば、本書の白眉は「トヨタ・バッシングの教訓 国家意識のない経営者は職を去れ」と「アメリカの『中国化』 中国の『アメリカ化』 日本の鏡にはならない両国の正体露呈」という二つの論文であろう。前者の論文からは、米国の官民総出で展開された「トヨタ潰し」を単に企業の説明責任や危機管理の問題と論じてしまう多くの識者がいかに浅薄で、国家間と戦略眼を欠いているかが判然とする。そして後者の論文が指摘する中国の「アメリカ化」こそ、政治と経済を一体で考察することが今の我が国にとってなぜ重要なのか、まさにその核心なのである。

 かつて小泉政権下でM&Aの規制緩和が推し進められた。その徒花だった「ホリエモン」や「村上ファンド」は虚しく消え、仕掛けた米国は市場原理の暴走で自爆した。そして今や、開け放たれた窓から我が国の優良企業を狙っているのは中国だ。企業だけではない。我が国の水源である森林が中国のダミー会社に買い集められ、シャッター通りと化した全国の商店街では中国資本による「チャイナタウン化」計画が水面下で画策されている。その一方では中国移民が急増し、いつの間にか韓国・朝鮮系を抜いて在日外国人の最大勢力となり、永住権を獲得し始めている。米国が種を播いたグローバリゼーションの果実を中国が刈り取らんとしている現実こそ、我が国の存立を脅かす未曾有の国難なのだ。

文:ノンフィクション作家 関岡英之

日本をここまで壊したのは誰か(六)

日本をここまで壊したのは誰か 日本をここまで壊したのは誰か
(2010/05/22)
西尾幹二

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石井英夫の今月この一冊(WiLL-2010年8月号より)

 ルービー鳩山の唯一の功績は小沢と抱き合い心中したことだけ。そのためⅤ字回復したイラ菅丸だが、荒海の辺野古沖で座礁することは目に見えている。にもかかわらず自民の支持率は下がったまま水没寸前のありさまだ。

 一体、この国はどこへ行こうとしているのか。だれもが疑心と不安でいぶかっている時、この本が出た。収められた評論の多くは、今年の二月から四月にかけて集中的に書かれたものだから、まだほやほやの湯気が立っている。

 ともあれ自民党の不信は目を覆わしめるが、なぜこうもだらしないのか。そこで今なお再起できない自民党政治の総括が巻頭にある。「江沢民とビル・クリントンの対日攻撃になぜ反撃しなかったのか」と題した「自民党の罪と罰」という一章である。せっかくの書き下ろしなのに、ちょっと古ぼけたタイトルは解せないが、「教科書」と「靖国」と「拉致」の三つを重要なキーワードと見てのことだったのだろう。

 著者はまず日本をおかしくした最初の一人として宮澤喜一を挙げている。従軍慰安婦強制連行というありもしない歴史事実を認めてしまい、韓国にしなくてもいい謝罪をしたのは宮澤内閣の河野洋平だった。その宮澤は鈴木内閣の官房長官時代に、やはりありもしない検定教科書の「侵略」誤認問題を引き起こしている。

 しかし教科書と靖国という象徴となる二つの対中韓外交で、全面敗北の足跡を残したのは中曽根康弘であり、中曽根・後藤田コンビは歴史を売り渡した、と手厳しい。たしかに歴史で外交することを許してはいけない。さらに、拉致を誘発したのは福田赳夫のダッカ事件の不決断だったと歴代首相をなで斬りする。

 比較的頼りになりそうな印象を残したのは小渕惠三だけで、安倍、福田、麻生の小泉亜流たちは、失望を絶望に変えた、と筆鋒するどい。

 だらしなさが継続した原因はどこにあるか。それは各首相に国家意識が欠如していたからだという著者の指弾に納得する読者は多いだろう。しかし菅直人新首相もこれまで確固たる国家観や歴史観を披瀝(ひれき)したのを聞いたことがない。沖縄が地政学的に見て国防の要であることを県民にしかと説明できるかどうか。この男もまた「日本をここまで壊した」首相にならぬことを願わずにはいられない。

 もう一つの読みどころは「外国人参政権 世界地図」。『WiLL』誌22年4月号に載ったもので、恐るべき各国の報告だ。

 アメリカ、オーストラリア、カナダのような典型的な移民受け入れ国家ですら、永住外国人に国政選挙はもとより地方参政権すら簡単には認めていない。デンマーク、ノルウェーなど北欧四国も非常に警戒的であり、限定的である。それは取り返しのつかない不幸な悲劇を目の前に見ているからだとオランダとドイツの例を挙げている。

 オランダは地方参政権を認めたことにより彼らはゲットーを形成し、社会システムを破壊した。ドイツもまた国家意志が「沈黙」を強いられているというのだ。

 菅内閣はこの難題にも立ち向かわなければならない。首相よ、何よりもまず国家戦略を語れ。本書の提示する警告は、深い洞察に満ちている。

文:石井英夫

言わずに死ねるか!

 週刊ポスト2010年6月18/25日号にて、憂国オピニオンワイド「言わずに死ねるか」と題して、筒井康隆・三浦朱門・山折哲雄・岸田秀・長部日出雄・西尾幹二・呉智英の七人が筆を執った。インタビューの記事に修正を加えた文章なので、不本意な文体ではある。緻密さを欠く文章であることは承知の上で、面白いところもあるので、ご紹介する。

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 ひどい表紙絵であるが、私の名もこんな形で載った。七人一緒なので、みんなで渡れば怖くないの一種である。

●政治・経済・外交・軍事のバランスこそが肝要だ

西尾幹二74評論家 
あの時、米軍を「進駐軍」と呼んだのが大きな過ちだった

 日本の歴史教育は、満州事変以後の日本軍の暴走という考え方を戦後ずっと子供たちに植えつけてきた。その結果、あたかも日本が世界に対する侵略国家であるかのような誤った認識が定着した。戦争を知らない世代が政治家や経済人に多くなるにつれ、政治、外交、防衛が旧敵国の圧力で翻弄されるようになってきた。

 満州事変以後の「昭和史」に限定して日本の侵略をいい立てる歴史の見方には、一つの政治的意図があった。日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするというアメリカの占領政策である。自らにとって、“都合のいい時代”を抜き出すことで、一方的に日本に戦争の罪を着せようと考えたのだ。

 アメリカだけでなくソ連も参加し、特定の期間の歴史を強調した理由はもう一つある。ロシアを含む欧米諸国が400~500年も前から地球上で起こしてきた侵略の歴史をあいまいにするためだった。

 たとえば、イギリスが東インド会社を設立してアジアへの侵略を開始したのは1600年。同じ年、日本では関ヶ原の戦いをしており、地球の涯(は)てを犯すという妄想さえなかった。その後イギリスはインドでの覇権を賭けてフランスと戦い、1757年のブラッシーの戦いで勝利する。日本史でいえば本居宣長が生きた時代である。

 そこから日本の幕末までの間に英、蘭、仏、露によるアジア侵略はほぼ完了した。1936年時点で、列強の地表面積における支配は、イギリス27%、ソ連16%、フランス6%、アメリカ6・7%で、合計58・7%――実に地球表面の6割近くをわずか4か国が占領していたというのが歴史的事実だ。日本はそれに対して国をあげてNOといった最初のアジアの国なのだ。アジア解放と自存自衛が大東亜戦争を世界に宣言した目的である。

 アメリカは欧米の暗い過去を隠すため、GHQの占領政策のなかでいつの間にか「侵略をしたのは日本だ」というすり替えを行なった。問題は、このように意図的に仕組まれた占領政策の呪縛から日本がいまだに脱することができていないということだ。

 戦後65年経った今も、日本はアメリカに騙され続けている。昔は「英米の侵略」といい、「日本の侵略」という言葉は存在しなかった。それを忘れ気づかない今の日本国民の愚かさは目を覆うばかりだ。いい加減にこの状況から抜け出さない限り、日本という国家はいずれ消滅してしまうだろう。それは、日本人が長い年月をかけて築き上げた歴史と伝統が蹂躙され、「日本人」という“民族”ではなく、外から来て日本に住んでいるだけの“住人”しかいないただの「列島」になってしまうことを意味する。

太平洋戦争は終わっていない

 日本人は真実を知る必要がある。大東亜戦争は日本がはじめた戦争では決してないということだ。あくまで欧米諸国によるアジアに対する侵略戦争が先にあって、日本はその脅威に対抗し、防衛出動している間に、ソ連や英米の謀略に巻き込まれたに過ぎない。次に、日本は中国大陸を含め、アジアのどの国も侵略していない。侵略と防衛との関係は複雑である。もしも日本が防衛しなかったら、中国の3分の1と朝鮮半島はロシア領になっていただろう。中国が対日戦勝国だと主張するのは大きな誤りなのだ。

 そもそも戦前の中国は国家の体をなしていなかった。清朝の末期から1970年代の文化大革命まで内乱の連続だった。満州事変当時も国民党、共産党のほかに軍閥が跋扈(ばっこ)し、いくつもの“政府”があった。日本はそれらの政府の一つと条約を結び、自国の居留民を守るために軍隊を駐留させていた。しかも、その条約ではある時期には中国人を守ってほしいと頼まれてもいた。英米仏独の各国も軍隊を駐留していた。

 日本の駐留基地は盧溝橋事件で中国兵から攻撃を受けた。それは在日米軍基地に日本の自衛隊が攻撃を仕掛けたようなもので、その場合アメリカはこれを侵略とみて日本への宣戦布告の理由にできる。日本が中国兵に応戦したのは当然である。戦争を拡大したのは諸外国の謀略に基づく支援をうけた蒋介石であった。

 1945年の敗戦の際にわが国に起こったことは、米軍による「解放」ではなく「占領」である。しかも、米軍は一時的な「占領軍」ではなく1か国による「征服者」だった。アメリカはその後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と世界各地で戦争を繰り返した。しかし、日本に対してやったような、戦後の社会と政治までをも変更して支配する「征服戦争」は一度もしていない。アメリカにとって日本は初めてのケースであり、その意味で日本の戦争はまだ終わっていない。日本は「大東亜戦争」ではなく「太平洋戦争」という名の新しい戦争を戦後にアメリカから仕掛けられ、今もその戦争は継続している。

 征服者を「進駐軍」と呼んでしまったことが大きな過ちだった。連合軍を「国連」と訳し直して(この二つは同じもの)なじみ、敗戦と考えたくなかった日本人は、「終戦」と呼んで経済復興にだけ力を注いだ。この弱さはアメリカと手を携え、反共反ソの思想戦にのめり込んでいった。それが保守と呼ばれた勢力の関心事であり、戦後の保守は親米反共で満足し、真の敵が見えず、自民党の崩壊はその必然の結果である。

 鳩山政権は普天間基地の問題で幼い不始末を天下に晒した。沖縄の基地に変革を加えたいのなら、まず憲法を改正すべきだった。名実ともに国軍の地位を確立し、米軍から信頼の得られる軍事力を備えることから着手すべきだった。

 私は米軍を日本列島から排除すべきだなどといっているのではない。むしろ日本艦隊が米軍と共同して太平洋を管理するという、成熟した関係の構築を目指すべきだと思う。一方的な依存関係から脱することをまず目標とすべきなのだ。

 国家を車に例えるなら、政治、経済、外交、軍事の四輪は同じ大きさでバランスをとることによってはじめてうまく回転する。

 これまでの日本は経済だけが突出して大きく、その経済に外交と軍事の代役を押しつけていた。そんな「経済大国」から脱皮することは、むしろ今後の日本にとって幸いなことだと思う。

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(六)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長 坦々塾会員

 異なる言説を容れることができない。「排他」は権威主義のもう一つの表情である。福田和也が昨年夏だったか『文藝春秋』に書いたいやらしい文章が忘れられない。福田は、近頃けしからん輩がけしからんことを皇室について語っている、どうも(私の不行届で)申し訳ありませんと謝っているような媚態丸出しの“手紙”を書いた。いったい、雑誌誌面を借りて誰の不始末をどなたに謝っているつもりなのだろう。覚えめでたきを得るというのはこのことで、よくあんな汚い文章が書けたものだという気がした。誰のお鬚の塵を払おうとしているのかしらないが、福田のサークルにはこういう仲間が多い。

 中には、自分と皇太子殿下とは同世代だから、という愚にもつかない理由で“加勢”している連中もある。

 福田和也は日本会議ではないでしょうが、長谷川三千子さんはどうですか、また小堀桂一郎さんはどうでしょう。君側に立って、一般席は黙っていなさい、とやっているようなところはないだろうか。いや、一般席は黙っていなさいという人たちの心情に知らず呼応しておられるだけかもしれない。私が読んだ限りでは、最近、皇室問題に触れてすっきりと言葉が明るく、是非をきれいにして、まったく異臭の感じられない真っ直ぐな意見を言った人は、加地伸行さんと谷沢永一さん、あと一握りの人しかいなかった。

 先生は「皇室」対する日本人の思いは近代合理主義とは相容れない“信仰”だといわれた。このことは誰かについて賛同していくようなものではないし、群れて意見を統一するようなものではないのである。硬直した皇室崇拝者は思うに、いつか先生の文章で登場した大工さんのような清潔さが欠けているように思えてならない。

 長谷川三千子さんはある会合で、競馬の天皇賞レースに初めてご臨席された天皇の話をされ、「優勝した馬と騎手が中央のお席の真ん前で礼をして、陛下がそれに応えられた。競馬場はかつてないほどの歓声に包まれた。これこそ、陛下と国民と魂が溶け合った瞬間でした」と語り聴衆も感銘していたことがあるが、私はあまり感銘しなかった。天皇陛下は天皇賞レースにお出ましにならないほうがよろしい、と私は思う。馬券が空中を舞うような場所にご臨席なさるような時代になっているのだなと乾いた気持ちになるし、スポーツでも何でも「君が代」をポップシンガーが小節を回して歌謡曲のように歌って誰もおかしいとは感じない時代が来たということだ。自分は変だなと常々思っているほうですが、誰も変だとは思っていないのかもしれません。

 一見すると「山田孝雄」と「平泉澄」、「日本会議派」と「西尾幹二」のように映りますが、後者の対比は思想的には成立せず、硬直した皇室崇拝者は山田孝雄に似ていないし、平泉澄のような高い歴史の俯瞰力はない。これでは戦えないという緊張感はない。非常に平成的であります。愛国者かえって国を危うくする例だと思いました。

 気付いている人が少ないのですが、西尾先生は一貫して「帝王の道」を語っているのに対して、その他の人は「臣道」を語っているのであります。良心的に言うとそうなるのです。齟齬が生ずるのは当たり前といえば、当たり前です。このことはひそかに一番重要な相違だと私は思ってきたのですが。

 以上、先生のご講義の記録からあれこれ沸き上がってきたものを書かせていただきました。ありがとうございました。

文責:伊藤 悠可

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(五)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 国民上下はなべて維新後の忙殺の時間を生きていたとも思われ、狂人走れば不狂人も走るといった模様を想像します。国民国家の黎明とは言え、先生にいつか教わったように、明治前期はまだ日本人は「江戸時代」(の余韻)を生きていたのではないでしょうか。幕府のほかに皇室というものがあったんだ、というのが庶民の感覚ではないかと思います。そこへ、いきなり「神」が国から生活のレベルにまで降りてきた。

 副島伯が「愛国心を育むより自国を侮蔑に導く」といった深意はわかりませんが、その副作用というか逆作用はわかるような気がします。偉人伝を小学校から読ませよう、という運動も一概には否定しませんが、かの人が偉人かどうかはわからないではないか。坂本竜馬が偉いかどうか、誰が決めるのか。司馬遼太郎に感化されてどうだ偉いだろうと言うような大人が偉いわけがないではないか、とへそ曲がりの自分は言いたくなるのであります。

 よく引き合いに出される福沢諭吉にしてもそうである。それはお前の人物趣味だと言われれば仕方がないが、教えるということに対する過信がすぐれて保守の人にあるのではないか。私はこんなところに「硬直」の弊があると見ているのであります。偉いかどうかはジッと自分で見つめていくしかありません。今生きている人についてもそうであります。

 明治のはじめ頃は、混血でも何でもして西洋人を受容し、気に入られなければという「社会改良主義」という極端な思想が息づいたり、森有礼といったどこから見ても侮日派インテリ国際人が当路の位置に坐ったりしています。新旧混淆、清濁混淆、東西混淆のまさに狂人奔れば不狂人もまた奔るという呼吸の荒さを思います。

 大正の蠱惑的空気にも見舞われたあと、それの掃除もしなくてはならず、赤色と同時にダーウィニズムも静かに浸透しています。大衆思潮のレベルではもう十分、「神聖」一本槍というものは落剥していたので、白鳥庫吉、山田孝雄の出現というのは無理ならぬ成り行きだったように私には感じられます。平泉澄の本は読み込んだ時期がありました。中世に魂を置いてみなければ自らの姿が映せない、行動が取れない。古事記や日本書紀には「清明」はあるが、「忠魂」(君臣の足跡)は歴史のほうにあります。

 ギリシャ人は「血」の上では消滅し、祭祀は遠くに途絶えています。日本には人皇百二十五代天皇が現に居られ、祭祀は伊勢、宮中でかわりなく続いています。山田孝雄は民族の帰郷すべきところを求めた学者で、『国體の本義』は時の国家の要請に応じて書いた“道標”にすぎないと私は思っていました。あの人はたしか小学校しか出ていなかったと思います。こういう人は今は居りませんが、また次の山田孝雄は現われるのではないでしょうか。平泉澄が「それでは戦えない」と思ったとしたら、山田孝雄は「日本人が帰る故郷を示してやらなければ青年たちは死ねない」と考えたのではないでしょうか。これは自分の想像です。方向は違いますが、平泉澄と両輪のように思えます。

 民族と国家について心配しているなら自分が真剣に考えたところを率直に語らなくてはならない、といわれる西尾先生は「皇室のことは語ってはならない」という日本会議に連なる人々とご自身を対比されました。けれど、私は別の見方をしています。

 「硬直した皇室崇拝をいう保守」と「西尾先生」という対比は成り立たないように思いました。日本会議の人たちのいわゆる「天皇や皇室については語ってはならない」という態度はどこから出ているのか。意外と平俗な心のはたらきから来ているのではないかというのが私の推測です。硬直はしているが山田孝雄に似ていない。

 なぜか、この種の人たちは同じ態度になる。「皇室を語ることは憚られる」。かつて美濃部達吉が天皇機関説を唱えて学府を騒がしたとき沈黙を守った学者がたくさんいました。ほとんど黙して語らなかった上杉慎吉もその一人だと思われますが、「天皇は神聖にして侵すべからず」というあの一言を残しています。

 ただ上杉には自分はこれだという節度と自制が感じられる。黙して語らないのも一つの態度です。けれど、先生が指摘する日本会議派といわれる人たちのそれは、節度や爽やかさという感じがない。むしろ一種の臭気さえある。この臭気がどこから来るのかと考える。これではないかと思い当たるのは「君側の臣」の自尊心であります。

 「天皇」「皇室」については常に多弁でいる人たちである。そして統一見解のような空気を有している。けれど、いついかなるときも「君側」について物を言っているように聞こえる。「君側の臣」と「一般の日本人」とがある。一般の日本人には教えてやらねばならない。知らず知らずそのように振る舞っているのかもしれない。倨傲がわからないのかもしれない。

文責:伊藤 悠可

つづく

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(四)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 天武天皇以降、対外緊張感は薄れこの列島には何と明治維新まで「国際社会」はなかったというお話に目が覚める。この視点を携えること極めて重要だとしみじみ思う。

 西洋との距離もはかりながらの「沈黙とためらい」の長い時代のなかで、例外的宰相は豊臣秀吉でしょうか。先生も『国民の歴史』で一項をさいておられたが、秀吉だけは他の絶対権力者と類を同じくしない。突き抜けた力の信奉者。けれど、キリシタンには迷いなくシャットアウトしてまったく迷悟の尾を引いていない。

 「国際社会」という頭痛を伴う感覚はもっていないが、「世界」は標的として持っていた人物として断然面白い。秀吉没後、清の乾隆帝は「秀吉が若し存命であったなら支那も取られていたことであろう」と『通鑑項目明紀』に親しく述懐したとされています。湿気がなく単純で力に対して明朗な信じ方をしている秀吉のスケールは群を抜いている。あらためて秀吉という存在に興味を抱きます。

 明治政府は「古代神話」に求めた。平泉澄は「中世」に求めた。

 講義の最後のこのお話こそ、聴講した人たちが一番深く考えさせられ、かつ一番自分の言葉にして語るとすれば、どこか理路が漠然としてしまいそうな重要な問題であると感じました。前もって認識をただせば、「皇室を語ることは憚られる」という日本会議派は、山田孝雄の古代神話への信奉者に似ているが、実は非なるものであって西尾先生と対比することはまちがいという気がしてくる。私には平泉澄の冷静な時代認識と、山田孝雄の存在論的な帰郷意識とは両方に魅力が感じられます。順を追って書いてみます。

 明治天皇は自らを「人格」ではなく「神格」として振る舞われていたところがあります。ある事を片付ける必要があって、侍従が「このことは皇后陛下にご相談にならなくてもよろしいか?」と問うたところ、明治天皇は「皇后は神ではない」(別に訊ねる必要はない)と答えたエピソードがあります。明治帝には「再びの開闢」や「神武東征」ほどの意識があったのかもしれません。

 明治四年に官幣大社・国幣大社といった社格制度を用いて、律令下の延喜式を呼び戻しています。それに先立ち神仏分離、廃仏毀釈の号令がかかっていましたから、いわゆる過激でヒステリックな破壊活動と無茶苦茶な合祀が全国に広がります。(やがて南方熊楠・柳田国男たちが憂慮し抗議運動を起こしています)

 明治期にはこうした古代(神話)回帰が押し出されていましたが、頭を冷やせと風潮を戒める人も出てきました。副島種臣伯爵などもその一人です。

 明治のはじめには大教院というものを設置して、「古事記を以て国家の教典とする」という論が沸き上がりました。副島種臣はこれを許さず、この教育はオジャンになったことがあります。大教院の幹部は「国史の知識を普及することが愛国心を育む」という考えでしたが、副島種臣は「国史の知識を一般に広げるなどという魂胆は愛国心を起こさせるよりは自国を侮蔑に導く害のほうが大きい」と言っています。

 ちょうど、ギリシャ人がナポレオンに蹂躪されたヨーロッパの改造に、自国復興の義軍をつくろうとしたようなもので、「今の日本人に日本の古事記を読ませたなら、この世界改造の先頭に立ってどのような使命を有し、如何なる勤めをしなければならないかということに思い至るとでも考えているのだろうか。愚かなことだ」というようなことを言っています。このことは長井衍氏の回想で読みました。

 もっとも副島種臣は国史や古事記を軽んじていたわけではなく、「古事記や書紀を学校において修身的に利用して小さな愛国心でも起こそう」という浅はかさを批判したようです。徹底して記紀などの神典はただ帝室のためにあるもので、国民が座右にして感動させられるような書物として作られたものではないというわけです。

文責:伊藤 悠可

つづく