日本の国家基盤があぶない(二)

 友人の粕谷哲夫さんが「ニュース拾遺」といって、毎日膨大数の情報、記事やブログやネットニュースをまとめて送って下さる。私以外にも送ってもらっている人は相当数にのぼるはずである。

7月24日付のコラム「正論」(産経新聞)の拙文「日本の国家基盤があぶない」について、「ニュース拾遺」の中で、次のような粕谷さんからの評価があった。

 現今の政治の空気がコンパクトかつコンデンスされた文体で過不足なく総括されている。彼は与えられた字数・枚数にコンテンツを埋め込むプロであることを自負していたが、うなづける。

コンテンツ・コンパクト・コンデンスの<3コン>に欠ける「正論」にも遭遇することがある。

 こう言っていただけるのはありがたい。

 たゞ私はコラム「正論」は滅多に書かないことにしている。昔と違って、よほど肚に据えかねることがあるとき以外には、手を出さない。前回は2月29日に「自衛隊の威信は置き去りに」(イージス艦衝突事故のこと)、を書いている。

 今回の「日本の国家基盤があぶない」について、「東アジアファシズムを斬る」というブログで、以下のような批評があった。この批評の存在を教えてもらったのも、粕谷さんの「ニュース拾遺」からである。

「西尾幹二氏の体内で脈打っているナショナリズム」@東アジアのファシズムを斬る!
2008/7/24

産経の正論に西尾幹二氏のまさに正論が載っていたのでご紹介する

【正論】評論家・西尾幹二 日本の国家基盤があぶない  (本文省略)

私は西尾氏の意見にはほとんど賛成なのだが、全面的にではない。例をあげると、いつまで待っても覇権意志をみせない日本を諦(あきら)め、中国をアジアの覇権国として認め、台湾や韓国に対する中国の外交攻勢をも黙認し始めた。というのは違うと思う。米国は「平和憲法」の押し付け以来、終始一貫日本を属国として取り扱ってきた。もし、覇権国にしたいのなら、日本の核武装を奨励したはずである。6者協議は氏がおっしゃっているように、日本に核を持たさないための協議であることでも明らかである。

このように意見の相違が多少ある西尾氏だが、論文を読むと、いつも感動する。それは氏の体内で脈打っているナショナリズムに共感を覚えるからである。戦後レジームは、贖罪史観と米国依存という長年に渡って日本を支配してきた二つの思想に凝縮されている。

近隣諸国とは波風を立てないのが一番と、「南京大虐殺」も、「強制連行」も、「従軍慰安婦」も中韓の言うがままに認め、侵略への備えは米国任せ。「スパイ活動防止法」すらない体たらくである。これが長い年月拉致を許してきたばかりか、今尚、たった5人しか取り返していない原因である。

中共・北朝鮮というファシズムを倒すには、米国依存では不可能である。ナショナりズムの勃興を図らねばならない。伝統が育んだ日本固有の民族性を無視し、「1000万人の移民受け入れ」などという、売国政治家は放逐しなければならない

 ところでここで述べられている、アメリカが期待していた日本の覇権意志の存在の有無だが、私もそんなことがあったと安易に考えているわけではない。ニクソン=佐藤栄作の時代に、やゝそれに似た構えがアメリカ側にもあったかなと思い出す程度である。

 アメリカの日本封じ込めの対応は戦後一貫していることは私の論題の一つでもある。WiLL 9月号の皇室論(第四作)の一節に私は次のように書いているので、「東アジアのファシズムを斬る」のブログとこの点での意見は同一である。

 米国に「武装解除」され、政治と外交の中枢を握られて以来、60年間操縦席を預けたままの飛行は気楽で、心地いいので、自分で操縦桿を握ろうとしなくなった。米国はこれまで何度も日本人に桿を譲ろうとした、自分で飛べ、と。米国人も今や呆れているのである。尤も操縦桿は譲っても、飛行機の自動運行装置を譲らないのが米国流儀である。日本人はそれが嫌になって投げ遣りになったのかもしれない。

 アメリカの日本封じ込めはここに述べた通りだが、日本に独立への本当に強い意志があればアメリカもなし崩しに譲歩せざるを得ない情勢になったこともなかったわけではない。たゞ、日本側にいつもやる気が欠けていたのである。

 ひょっとすると今がアメリカの譲歩を得る機会が到来しているときかもしれない。日本側に心の用意が出来ていないのは依然として同一で、それが根本問題なのである。

 日本人はいま中国批判に熱心だが、アメリカの虎の威を借りていくら中国批判をしても、もう虎はいなくなったのだからダメである。

 アメリカに日本の核武装を納得させることが先決である。それを試みて失敗したときアメリカの真意が分る。そこから初めて、アメリカからの軍事独立の難しさと同時にその必要性の緊急なることを一層確然と悟るであろう。

日本の国家基盤があぶない(一)

【正論】評論家・西尾幹二 日本の国家基盤があぶない

 《《《米国の道義的な裏切り》》》

 拉致問題は今では党派を超えた日本の唯一の愛国的テーマである。拉致を米政府にテロ指定させるまでに関係者は辛酸をなめた。北朝鮮の核の残存は日本にとって死活問題である。

 完全核廃棄の見通しの不明確なままの、米政府の45日という時間を区切ったテロ支援国家指定解除の通告は、悪い冗談でなければ、外交と軍事のお手伝いはもうしないという米政府の見切り宣言である。それほどきわどい決定を無責任に突きつけている。

 そもそも北朝鮮を悪の枢軸呼ばわりして寝た子を起こし、東北アジアを一遍に不安定にしたのはブッシュ大統領であった。核脅威を高めておきながらイラク介入前に北朝鮮には武力解決を図る意志のない手の内を読まれ、翻弄(ほんろう)されつづけた。

 今日の米国の体たらくぶりは予想のうちであったから、日本政府の無為無策と依存心理のほうに問題があることは百も分かっているが、それでも米国には言っておかなくてはならない。

 核不拡散条約(NPT)体制は核保有国による地域防衛の責任と道義を前提としている。米国は日本を守る意志がないのなら基地を日本領土内に持つ理由もない。

 テロ支援国家指定解除の通告は、第一に米国による日本への道義的裏切りであり、第二に日本のNPT体制順守の無意味化であり、第三に日米安保条約の事実上の無効消滅である。

 《《《半島関与に及び腰対応》》》

 日本は以後、拉致被害者の救済を米国に頼れないことを肝に銘じ、核武装を含む軍事的独立の道をひた走りに走る以外に自国防衛の道のないことを米国に突きつけられたに等しい。それほどの情勢の変化に政府がただ呆然(ぼうぜん)として、沈黙するのみであるのもまた異常である。

 問題は誰の目にも分かる米国の外交政策の変貌(へんぼう)である。米国の中国に対する対応は冷戦時代の対決から、対決もあり協調もある両面作戦に変わり、次第に協調のほうに軸足を移しつつある。

 いつまで待っても覇権意志をみせない日本を諦(あきら)め、中国をアジアの覇権国として認め、台湾や韓国に対する中国の外交攻勢をも黙認し始めた。戦火を交えずして中国は台湾海峡と朝鮮半島ですでに有利な地歩を占めた。

 最近の米朝接近が中朝不仲説を原因としているか、それとも半島の管理を米国が全面的に中国に委ねた結果なのか、いま論点は割れているが、どちらにせよ米国の半島関与が及び腰で、争点回避の風があるのは否めない。

 中東情勢と米国経済の推移いかんで、米軍のアジアからの撤退は時間の問題かもしれない。そうなれば台湾は中国の手に落ち、シーレーンは中国によって遮断され、日本はいや応なくその勢力下に置かれることになる。それは日本の技術や資本が中国に奪われることを意味する。

 
 《《《日本の核武装を封じる》》》

 これほど危険な未来図が見えているのに、日本の政界は何もしない。議論さえ起こさない。ただ沈黙である。分かっていての沈黙ではなく、自民党の中枢から権力が消えてしまった沈黙である。

 ワシントンにあった権力が急に不可解な謎、怪しい顔、恐ろしい表情をし始めたので手も足も出なくなった沈黙である。

 もし日本が国家であり、政府中枢にまだ権力があるなら、テロ支援国家指定の解除は北朝鮮に世界銀行その他の国際金融機関を通じて資金の還流を許すことだから、ただちに日本から投資されているそれらの機関への巨額資金の引き揚げが用意され、45日以内に宣言されなければならないだろう。

 6カ国協議は日本の核武装を封じるための会議であると私は前から言ってきた。米中露、それに朝鮮半島までが核保有国となる可能性の発生が北朝鮮問題である。太平洋で日本列島だけが核に包囲されるのを指をくわえて見ていていいのか。

 日本はこれに対しても沈黙だとしたら、もはや政治的知性が働いていない痴呆(ちほう)状態というしかない。

 海辺に砂山を築いて周囲から水を流すと、少しずつ裾野の砂が削られる。水がしみこんでしばらくして、ボコッと真中が陥没する。そこへ大きな波がくるとひとたまりもない。

 今の日本はボコッと真中が陥没しかけた段階に来ているのではないか。国家権力の消滅。国家中枢の陥没。

 折しも自民党から日本を移民国家にし1000万人の外国人を導入する案が出された。日本列島に「住民」は必ずいる。しかし日本民族はいなくなる。自民党が国家から逃亡した証しだ。砂山は流され、消えてなくなるのである。(にしお かんじ)

産経新聞 平成20年 (2008) 7月24日[木]より 

「移民」は救世主か問題児か 反対論(三)

「国内国家」の乱立で日本社会が変質

 日本は今度インドネシアとフィリピンからの受け入れを認めたが、他のアジア、中南米、アフリカの各国からの労働者受け入れの要請を拒めるのだろうか。日本政府は摩擦を好まないので、いったん入れた外国人にフランスのように露骨に不平等を強いる冷酷な対応をしないため、2005年のパリの暴動のような反乱は起きないかもしれない。だが、その代わり日本人社会が妥協し、無理をして彼らに特典を与え――在日朝鮮人に与えているように――自分の利益を奪われ、屈辱を強いられるまでに市民権を後退させないだろうか。

 日本のような民族国家が受ける最大の被害は、社会が移民の受け入れで変質することである。固定した階級のない、移動性の高い柔軟な社会体質が日本の特徴である。外国人の定住化で、下層カーストや「国内国家」型集団が生まれると日本人の側は受け身になり、防衛的になり、日本人社会が知らぬ間に階層化し、保守的に固定化し、自由な流動性を失いはしないだろうか。

 それに人口問題とも密接な関係がある。人口減少が進んでいる時期に外国人を入れると、不思議なことに減少を加速する力にこそなれ、増加させる力にはならない。近年フランスは思いきって気前のいい額の助成金で若干の出生率の上昇をみたが、助成金の恩恵を受けているのはもっぱら移民労働者の家庭で、純粋なフランス人の人口は増えていないとも聞く。

 日本が今度、看護師と介護士の「無制限」労働許可に窓を開いたことはいわば蟻の一穴で、ここから水が漏れ、やがて堤防が決壊し、移民の大群に日本が襲われる日の近いことを私は恐れる。政策当局者の考えは甘いし、無制限に移入枠を増大させるのは許せない。

 世界の状況がすでに明示しているように、外国人労働者問題と難民問題とは同じ次元のことなのである。難民というものはあらかじめ存在するのではなく、発生するのである。誘因の存在するところへ向かって人の波が動き出す。

 何といっても厄介なのは国境を越えてすでに八方へ溢れだしている中国人の問題である。加えて、イスラム教徒は世界の人口の五分の一、十億人といわれているが、半世紀以内に人類の二人に一人はイスラム教徒になるという予測もあり、中国人より恐れられている。

 この点に関連して、アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、カナダなどで心配されているのは白人の人口減である。ことにアメリカでは黒人とヒスパニックと中東イスラム教徒に白人が呑みこまれる日の到来への恐怖は、黒人奴隷の歴史をもつ国だけあって、想像以上に強い。オバマ大統領候補の出現はすでに微妙な何かを物語っている。

 アメリカ人はかつて日系移民を憎んだ。しかし今日本から労働者は行かない。日本を民主化させることに成功したからだと自惚れのアメリカ人は信じている。中東を民主化させればイスラム教徒は北米大陸にやって来ない。日本の先例からそう思ってイラクを攻撃したのだという説もある。

 こういう世界情勢下でイスラム教徒のインドネシア人に「労働開国」する日本の行政府の鈍感さと政治的無知には開いた口が塞がらない。

おわり

『SAPIO』7月9日号より

「移民」は救世主か問題児か 反対論(二)

日本人の職、教育に波及する悪影響

 これまで世界各国の何処でも同じ軌跡を辿ったが、外国から先進国に労働に来た人々は、入国直後は「仕事にありつけさえすればありがたい」とへりくだっているが、少し長くいると必ず社会での上昇のチャンス、地位と生き甲斐を求め始める。人間だから当然である。

 日本に来れば日本人と恋愛もするし、結婚もする。個人の自由だからこれはやめろといえない。既婚者は必ず故国から家族を呼ぶ。これも人道上拒めない。家族が来れば住宅や教育や医療の負担が日本の自治体に襲いかかってくる。しかも言語の違う子弟の教育には特別に手がかかる。そこまで考えないで安易に受け入れに賛成した、と言っても後の祭りである。

 民族国家においては少数派の移民は必然的に被害者の位置に自らを置く。移民がどんなに優秀でも、エリートにはなれないからだ。インドネシアの看護師や介護士も将来そう簡単に病院のリーダー、施設の長にはなれないだろう。そのことはやがて彼らの不満と怒りを引き起こす。

 フランスのアルジェリア人、ドイツのトルコ人はみなヨーロッパに自分の運を開く新天地を求めてやって来た。フランス人やドイツ人にすればこれは困る。運を開きたいならどうかアルジェリアやトルコでチャンスを作って欲しい。ヨーロッパの大国は自由と寛容を建前とするから初めは忍耐しているが、景気後退の時期にでもなると、たちまち摩擦が始まる。

 アメリカのような移民国家は事情が少し違う。フランスやドイツのような非移民国家、日本もその一つだが、そこでは多数派の国民が少数派の移民に対しまず最初は加害者となるが、次にそこから生じる葛藤で多数派もまた被害者になる。

 先進国側は労働者提供国に対し富を「与える」立場だと最初思っているが、前者が後者のパワーに依存し、自由を「奪われる」という事態に襲われたことにすぐ気がつくだろう。日本でもレストランなどのサービス産業でも皿洗いや台所仕事に外国人を使っていないところはないといわれるぐらいだが、仮に今入管が厳しい措置をとって彼らを全員強制退去させてしまったら、レストランなどたちまち困ってしまうだろう。

 ドイツではかつて、トルコ人に帰国されたら洗濯屋さんがなくなって立ち往生するからやっぱり彼らにいてもらわなければならない、という認識になったことがある。

 同じことが今後日本で正規導入するインドネシアやフィリピンの看護師や介護士の例でも起こるだろう。彼らの給与が悪くなく――17万円から20万円くらいだそうである――日本で失業者が巷にあふれ、「外国人よ帰れ」という怨嗟の声がわき上がるときがきたとしても、技術と経験をつんだ看護師や介護士は急にはつくれない。彼らに帰国されたら日本の病院や施設が成り立たなくなる。「ぜひ日本に居続けて欲しい」、そういう話になるに相違ない。日本人看護師や介護士の養成に手を抜いたつけが回るのである。

 いいかえれば外国人に日本側が自由を「奪われる」事態を迎えることとなる。何とも情けない話だが、必ずそういうことになる。

 しかも移民が一般化してくると、外国人がいないと工場が成り立たない、町が成り立たない、国家が成り立たないという、より広範囲な状況を引き起こすだろう。日本人失業者が増えてなおそうなる。フランスやドイツの例でいうと、大体人口の7~10%まで外国人単純労働者を吸収する収容力が先進国にはある。そのラインを越えると政治的に異質な事件が多発する。*2004年のオランダ、2005年のフランスはイスラム系住民と事実上の内乱に近い情勢となった。

 2005年の統計ではドイツ人口約8200万人のうち移民は670万人、フランスは人口約6200万人のうち約430万人、イギリスは約5880万人のうち約460万人。以上は概数だが、移民はイスラム系が多数を占め、宗教的民族的対立を高めている。

 キリスト教とイスラム教の積年の宿敵関係がヨーロッパの移民問題の底流あるのに対し、日本にはそれがない代わりに、韓国人、中国人がすでに大挙して移住してきて、新しい移民同士、日本国民とは関わりないところで人種間抗争を繰り広げる可能性はある。それが日本の小中学校に影響してくれば、教育の現場は今まで経験したことのない混乱に見舞われるだろう。

 パリにはイスラム系住民だけが住む特定街区がある。ヨーロッパの各大都市にもそれはある。自民党議連が移民1000万人を受け入れる提言案をまとめたが、仮に日本に移民が1000万人入ってきて、そのうちインドネシア人が100万人だとすると、彼らは在日韓国・朝鮮人の民団や総連よりも閉鎖的な「国内国家」をつくるだろう。パキスタン人もバングラデシュ人も、その他中東系諸国の人々も、不法労働者としてではなく正規移民として入ってくれば、それぞれ強力な「国内国家」に立て籠もるだろう。日本の警察権の手が入りにくい複数の民族集団が形成される。

*2004年オランダでイスラム教徒を批判した映画の監督がモロッコ系移民に殺害された事件をきっかけに、モロッコ移民が暴動を受けたりイスラム系施設が襲撃されるなどした。またフランスでは2005年、アフリカ系移民の青年2人が警察に追われ逃げ込んだ変電所で感電死し、アフリカ系移民が公共施設を襲ったり、車を炎上させるなどの暴動を起こした。

つづく

『SAPIO』7月9日号より

「移民」は救世主か問題児か 反対論(一)

(賛成論:大前研一 反対論:西尾幹二)

イスラム教徒のインドネシア人を大量に受け入れる政府の政治的無知

評論家 西尾幹二

大量失業、国情不安定化を防ぐために「労働鎖国」を敷くべきである。

 たとえ限定的なかたちであっても、外国人労働者の受け入れは、やがて日本に悪影響をもたらす――。こう語るのは20年以上も前から移民容認に異を唱えてきた評論家の西尾幹二氏である。折しも日本は今年から海外からの看護師・介護士の受け入れをスタート。氏のいう「限定的な受け入れ」が始まっている。さらに与党からは「移民1000万人受け入れ案」が急加速している。はたして氏が警鐘をならす「悪影響」とは――。   文章:SAPIO編集部

 インドネシア人の看護師と介護士の日本への受け入れが、昨年の八月に決まっていたそうである。われわれは迂闊であった。

 安倍前首相とインドネシアのユドヨノ大統領との間の首脳会談で署名がなされていた。当初二年間で1000人を上限とする旨の約束であったようだ。というわけで、今月七月下旬に最大500人が早くも来日するといわれているのは、この協定に基づく話だということがわかる。

 報道によると、フィリピンとの間でもすでに一昨年に協定が結ばれていて、インドネシアと同様にやはり二年間で計1000人を受け入れる予定だそうだが、フィリピン側がまだ批准していないために、開始時期は未定のままになっているという。

 官僚がさっさと決めて、政治家がろくに考えもしないで簡単に署名する。その結果が日本に長期にわたって大きな災いをもたらすことに気づいてもいない。民族文化の一体性を損なう災いだけではない。経済的にも政治的にも日本は深い痛手を負うだろう。

 厚生労働省が示したインドネシアとの契約内容を読んでいて、私は唖然とした。彼らインドネシア人は資格取得後、日本国内の病院や介護施設で就労するのだが、「在留期間上限三年、更新回数制限なし」と書かれてあるのである。在留は事実上の無期限である。日本は帰化が容易な国だから、何年か滞在すればみな日本国籍が得られる。インドネシアはイスラム教国、フィリピンはカトリックの国で、日本とは異文化である。

 いわゆる期限付き就労許可ということでさえ、昔から厳格に維持できるかどうかは疑問視されてきた。期限をかぎってもたぶん守られない。いったん先進国に正規の許可を得て入国した外国人労働者は帰国しない。不法滞在者なら強制退去も不可能ではないかもしれない。不法滞在者だって簡単に帰国させることが難しいのはようやく日本でも分かってきているが、まだしも退去させることが可能なのは不法の場合である。

 しかし正規に法的に入国許可を一度でも与えた場合には、期限をかぎっても、先進国側が強い退去命令をだすことはできない。その国に寄与した労働者を、約束の期限が来たからといって、追い返すことは人権問題になる。

 ところが、インドネシアの今度の件は、事実上の「無期限」である。これには驚いた。厚生労働省に問い合わせたところ、最初二年で1000人だが、評判がよければ三年目以後には人数を増やしていくという。

 いったいいつ日本は「移民国家」になったのだろうか。ここで述べられているのは外国人労働者受け入れの話ではない。「移民国家日本の宣言」にほかならない

つづく

『SAPIO』7月9日号より

七月の仕事

 今月私は『WiLL』(9月号)に皇室問題(第4弾完結篇)、『正論』(9月号)にいわゆる「自民党案1000万人移民導入論」への批判を書いています。目下作業中です。前者は55枚、後者は30枚です。

 尚『GHQ焚書図書開封』は増刷ときまりました。第2刷は18日に店頭に出ます。

スカイパーフレクTV! 241Ch.日本文化チャンネル桜出演

タイトル  :「闘論!倒論!討論!2008 日本よ、今...」

テーマ   :「どうする!どうなる!?1000万移民と日本」(仮題)
 「移民」は日本を救うのか?滅ぼすのか?その是非を、現在の在日外国人問題も含めて議論します。

放送予定日:前半 平成20年7月17日(木曜日)夜8時~9時半 
        後半 平成20年7月18日(金曜日)夜9時~10時

パネリスト :(敬称略50音順)
      浅川晃広(名古屋大学・大学院国際開発研究科・講師)
      出井康広(ジャーナリスト)      
      太田述正(元防衛庁審議官)
      桜井 誠(在日特権を許さない市民の会 代表)
      西尾幹二(評論家)
      平田文昭(アジア太平洋人権協議会 代表)
      村田春樹(外国人参政権に反対する会 事務局)
      

司  会  :水島総(日本文化チャンネル桜 代表)
       鈴木邦子(桜プロジェクト キャスター) 

自衛隊音楽祭への提言

 11月に日本武道館で毎年行われる「自衛隊音楽まつり」に平成18年と19年の二度にわたって招待され、参加させてもらった。よく訓練された所作と音の一致、整然たる行進、朗々たる独唱、鳴り渡る管楽器の合奏――勿論どれも大変良かった。ことに演目の中心に位置する太鼓の大合同演奏はすごい。主催者はこれを恐らく目玉とみているであろう。あの広い会場に全国各地の駐屯地から集まった数百個の大太鼓、小太鼓、陣太鼓のくりひろげる総合ページェントは、まさに壮観の名に値する内容である。これが見たくて来る人が多いだろう。

 私も十分に満喫したので、ご招待ありがとうございました、ということばで尽きて、それ以上のことばは本当は何もないのだが、平成18年にもオヤと思い、平成19年にはさらにオヤ、オヤと思ってちょっぴり淋しかったことがあるので、一言申し上げてみたい。

 自衛隊音楽まつりに私などが一番期待するのは勇壮なマーチであり、次いで大東亜戦争の当時はやった軍歌のメロディである。

 平成19年の催しでマーチは軍艦マーチが短く挿入されただけで、フィナーレに「威風堂々」がやはり短く入ったが、私の聞き間違えでなければ、自衛隊の演奏の中にはマーチは他になく、平成18年の場合には、「星条旗よ永遠なれ」「分列行進曲」があったが、概して少なかった。期待していた旧軍歌は二年にわたってまったく演奏されなかった。何かに遠慮しているのだろうか。

 曲目の選定に当たる人にぜひ考えてもらいたいのだが、平成19年の場合のように、冒頭のオープニングの女性の朗誦が外国の曲というのはいかがなものか。

 途中「ラ・メール」「サンタ・ルチア」「カチューシャ」など、名曲とはいえ、旅行会社の宣伝のようなありふれた画像とともに聞かされたのは興ざめだった。ベートーヴェン「交響曲第七番」「悲愴」の二曲が流れたが、自衛隊音楽まつりでどうしてベートーヴェンを聴かなければならないのだろう。日本の歌というとどうして民謡ばかりになるのか。なぜ「ラプソディ・イン・ブルー」や「ファンシードリル」なのか。「我は海の子」でやっと拍手がわき起こったのを覚えていよう。みんな自分の知っている一昔前の日本の歌を聴きたいのである。

 カラオケでは「空の神兵」「加藤隼戦闘隊」「月月火水木金金」「愛国の花」「ラバウル小唄」「あ~紅の血は燃ゆる」「勝利の日まで」「父よあなたは強かった」等々が今でも毎夜、熱唱されている。若い世代に歌い継がれているのが新しい特徴である。

 どうか自衛隊音楽まつりらしく、旧軍の歴史を踏まえた選曲をぜひおねがいしたい。

陸上自衛隊幹部親睦誌『修親』平成20年(2008年)4月号より

お知らせ(再掲)

日本保守主義研究会講演会

 GHQが6年8ヶ月の占領期間に行った重大な犯罪行為とも言うべきことは、日本国内における苛烈な焚書であった。占領期間中、GHQは長年の間積み重ねてきた日本の知的財産や歴史を断絶すべく、一方的に世に出回る書籍を回収、次々に世の中から葬っていった。60年の時を経て、その実態が少しずつ明らかになってきている。

 今こそ隠されてきたGHQの焚書に目を向けねばならない。

●日本保守主義研究会講演会

「GHQの思想的犯罪」 

 講師:西尾幹二先生(評論家)
 日程:7月13日(日曜日)
 時間:14時開会(13時半開場)
 場所:杉並区産業商工会館(杉並区阿佐ヶ谷南3-2-19)
 交通アクセス:
 ※JR中央線阿佐ヶ谷駅南口より徒歩6分
  地下鉄丸ノ内線南阿佐ヶ谷駅より徒歩5分

会場分担金:2000円(学生無料)
 
参加申し込み、お問い合わせは事務局まで。当日直接お越しいただいてもかまいません。

TEL&FAX: 03(3204)2535
         090(4740)7489(担当:山田)
メール:  info@wadachi.jp

お知らせ

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日本文化チャンネル桜出演
スカイパーフレクTV!241Ch.日本文化チャンネル桜 

タイトル  :「闘論!倒論!討論!2008 日本よ、今...」
テーマ   :「北朝鮮・テロ支援国家解除と拉致問題」(仮題)
テロ支援国家解除後の北朝鮮をはじめとした各国の動きと拉致問題の行方について議論します。

放送予定日:前半 平成20年7月10日(木曜日)夜8時~9時半 
       後半 平成20年7月11日(金曜日)夜9時~10時

パネリスト :(敬称略50音順)
      青木直人(ジャーナリスト)
      荒木和博(「特定失踪者問題調査会」代表)
      西岡力 (「救う会」常任副会長)
      西尾幹二(評論家)
      増元照明(「家族会」事務局長)
      松原仁  (衆議院議員)

司  会  :水島総(日本文化チャンネル桜 代表)
       鈴木邦子(桜プロジェクト キャスター) 

読書の有害について(三)

 しかし今ニーチェを離れて考えて、われわれが数少ない、自分で筆を執る創造の瞬間を思い浮かべてみると、誰にしても経験があると思うが、たしかに他人の思想や言葉はまったく役に立たない。研究論文を書く場合でさえ、自分の内心のざわめきに形を与えようとする衝動がわれわれに筆を執らせるのである。

 内発の声がすべてである。他人の思想や言葉は、そういうとき、たとえ大詩人のそれであろうと、邪魔であり、よそよそしい代物だ。ニーチェはそのような創造行為の不安定を突きつめた形で実行したまでである。

 午前中に執筆するある日本の作家は、早朝決して新聞を読まないと書いていた。動き出す前の自分の思想が新聞の汚れた文章で濁ることを怖れるからである。

 また、作品を書き出す前に、少なくとも数日は他人の小説は読まない、と言っていた作家もいる。否、作家でなくても、その程度のことは、物を書く人間は誰でも自分の生活の智恵として実践している。

 早朝に本を読むのは「悪徳」だというニーチェの戦術の言葉は、だから格別珍しい体験から出ているようには思えない。

 ただ彼のように「読むこと」は精神の怠惰だという意識の緊張感の持続を生涯一貫して維持しつづけることが、誰にも容易に出来ないだけの相違である。そして、この相違は小さいように見え、現実には大変大きい。

 従って、そのような彼を日本の外国文学流に翻訳する私の今の行為が、最初からいかに矛盾した破綻を孕んでいるかという本稿の問題の核心は、読者にはもうすでに十分にお分りであると思う。

 なぜなら「翻訳」はわれわれにとって「読むこと」の最も現想的な形態であり、われわれはそれを疑わずに、翻訳を最重要の仕事と看做すことにもっぱら安住してきているからである。

おわり

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より