ありがとうアメリカ、さようならアメリカ (四)

Voice6月号より 戦争へ向かう東アジア

日本と中国が支えた「アメリカ国債本位性」

 これからまだ10年か15年くらいはアメリカに代わるスーパーパワーはすぐには出てこないだろう。今まで何かとアメリカの力に庇護され、利益を得て来た国々は――日本もその一つであるが――容易に頭を切り換えることはできないかもしれない。しかし、そう遠からずして徐々に世界は必然的に多極化し、平和を維持する方法は再び十九世紀ヨーロッパのように同盟と同盟が競合するかたちになるのか、あるいはまったく別の形式が模索されるのか、今のところ予想がつかない。

 ただ一つはっきり言えることは、晩かれ早かれ超大国であることを止めるであろうアメリカから日本はゆるやかな形で離れ、独立する準備をすることがいかに必要かということである。そしてそのことがまだ分からないのは親米保守と護憲左翼が手を組んでいる大手マスコミの、ものを考えない言論体制である。日本はアジア・アフリカ諸国の中で唯一欧米の植民地にならなかった例外国と称され、自らもそう任じてきたはずだが、事実はまったく逆であった。アジア・アフリカ諸国がすべて解放され、地上から植民地がなくなった時代が来たというのに、日本一国のみが政治的・外交的・軍事的・経済的にアメリカ一国に植民地のごとく服属している異様さは疑うことができない現実である。それはドイツと日本が冷戦の中段階で、NPT(核不拡散条約)が生まれた1970年代に、核を持たない国として特定され、封じ込められ、いわば「再占領」状態に陥ったことに由来しているといっていいだろう。

 中国が核実験に成功したのは1964年である。インドは1974年であった。イスラエル、パキスタン、北朝鮮と中小国にまで核保有国が広がるにつれ、大国独占が狙いのNPT体制は事実上、存在理由を失ったが、それでもアメリカはドイツと日本を保有国の仲間に誘いこもうとはしない。第二次大戦の勝敗が世界を呪縛する重い縛りは、戦後の平和が長くつづいたことも原因しているように思える。戦争と平和をめぐる世界中の人々の問題意識が戦後も早いある時期から以後、ピタッと動かなくなってしまったのである。それをいいことにアメリカは経済力を急速に落としているのに、覇権国の地位を脅かされないでいる。それも核の威力である。

 ドイツは今のところ直接の脅威を受けていないから比較的安全である。惨めなのはわが日本である。北朝鮮のミサイル騒ぎをバカバカしい子供の火遊びであるとアメリカや中国やロシアならば笑いとばすことができるが、日本はそれさえもできない。笑いたくてもその資格がないのだ。

 アメリカが覇権国でありつづけるのは軍事力だけではなく、基軸通貨発行権を保持している特権のゆえでもある。今までのところ米ドルに抵抗し、取って替わる勢いを一時的にでも示したのはユーロだけであった。2008年の金融ショックでドルの権威が揺らいだとき、ユーロ、円、ルーブル、ポンド、人民元、あるいはそれらを混合したバスケット方式が取り沙汰されたが、結局今までのところ他に代替はなく、基軸通貨が再びドルに戻ったのは、アメリカによって戦争をも辞さない並々ならぬ決意が示されたせいでもある。

 ギリシアを初めとする南欧諸国の財政危機でユーロがいま解体の不安にさらされている。EUには結局、一国家としての主権がなく、政治権力の所在が不明である。貨幣の信用を支えるのは権力である。権力は軍事力と切り離せない。NATOを握っているアメリカはヨーロッパ諸国が市場統合と通貨統合を果たすところまでは認めても、EUが国家になることを認めようとはしない。EUが揺らいでいるのは必ずしも経済が原因ではない。

 主権が相互にせめぎ合って乱立しているヨーロッパが容易に政治統合を達成されないことは、ユーロ不参加国イギリスが身をもって示しているように、EUのそもそもの最初からの運命であった。オランダのジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンが言っていたが、EUは官僚国家で、その官僚が国家意識を持たない烏合の衆である点で日本という国家に似ている、と。これは日本に対する痛烈な皮肉でもあるのである。

 基軸通貨ドルはさしあたり安泰なように見えるが、アメリカの実体経済が示すところは、先行き不安を告げている。そもそもアメリカ国内にドルへの不信が渦巻いている。金本位制に再び戻るのではないかという噂もあるほどである。そのせいかアメリカは着実に金の保有量を高め、2011年末において8133トンで、二位のドイツの3401トンをはるかに凌駕している。日本はわずか765トンで、やっと八位であり、世界最大の債権国の名が泣く不用意といっていいであろう。しかしアメリカがいくら金の保有量を高めても、世界中に乱発ドルが溢れ返っていて、新ドル紙幣に切り換え旧ドル紙幣の無効宣言でもしない限り――そういうことをすれば戦争になる――再び金本位制に戻るなどということが簡単に現実の話になるとは思えない。

 アメリカは金本位制を捨てた以後、いったい何を本位にしてドルの支えとしてきたかというと、煎じつめると「アメリカ国債本位制」に切り換えたといってよく、これは言ってみれば一種のペテン経済にほかならない。周知の通り、アメリカ国債は日本と中国がしこたま買い込んでアメリカ経済を支えている。中国はいつでもこれを売ることができるが、日本は売ることができない仕組みになっていて、アメリカの浮沈といわば運命を共にしている。

つづく

ありがとうアメリカ、さようならアメリカ (三)

Voice6月号より 戦争へ向かう東アジアシリーズより

EUより御しやすく、簡単に脅しがきく日本

 以上の事実から、アメリカの一極構造の優位性への意志は第二次大戦よりはるか前から、一説には1890年代に始まり、戦後の米ソ冷戦期間中にはソ連という競争相手がいたためにはっきりそれが見えなかっただけで、隠されていたのが今かえって見えだしているといえる。

 そう考えると、東アジアにおけるアメリカの支配意志の一貫性はむしろ戦前から明確だったことに思い至る。19世紀前半のメキシコ戦争など西へ進むこの国の本能的拡大志向については周知の歴史なのでここでは触れない。1898年の米西戦争の勝利でスペインからフィリピン諸島を奪って、太平洋はアメリカの海になった。日米戦争に至るすべての歴史はここから始まるので、日本人が自国の戦争の歴史を過度に反省的自虐的に解釈するのはまことに愚かである。アメリカは中国大陸を目指し、途中の邪魔な抵抗をことごとく抹殺しようとした。戦争を誘発したのはアメリカであって、日本ではない。が、いま戦争の歴史はここでの主題ではないのでこれ以上は論及しない。

 ソ連という悪役がいたために冷戦中アメリカの世界制覇の意志が日本人の目に隠されて、見えにくかったのはヨーロッパ人の場合とほぼ同様であるが、違うのはソ連が消えても、東アジアでは中国との冷戦がつづいていることである。冷戦後アメリカがドイツの復活を恐れ、抑えにかかっているのと同じように、東アジアでは日本を国際政治における「潜在的な敵性国家」(1990年、パパ・ブッシュ政権下の国家安全保障会議)と定義し、一貫して軍事的な自己決定権を持てない国に仕立てて、日米同盟を維持する目的をそこ見て、日本がアメリカに依存しつづける仕組みを作り上げてきたのはある意味でEUとの関係にも似ているが、EUより日本は御し易く、簡単に脅しがきく状況にあるのは、反日国家軍に取り巻かれた孤立した単一国だからである。

 ドイツは近隣諸国とスクラムを組んでアメリカに当たってきたが、東アジアはいまだにある意味で冷戦構造下にある。日本がアメリカへの依存を必要とする程度は、他のいかなる国にもみられないほどの悲劇的レベルであったし、今もなおあるので、日本国民は容易に自立自存の精神に立つことができない。それでも、アメリカがソ連や中国との対決姿勢を明確にしているときには日本は安定し、経済ナショナリズムを確立することができたが、そうでない場合には赤子の手が捻られるようにアメリカに翻弄される政治的外交的条件下にある。

 アメリカが悪魔的であるのは、表向き日米同盟を親和的関係のごとくリップサービスしながら、現実には冷戦の対象国と深く利害を共にする握手を交わしていることである。2003年に共産中国に江沢民政権、アメリカにクリントン政権が誕生した。クリントンは1200人の大型ミッションを引き連れて、北京に九日間も滞在し、ビッグビジネスを展開した。あれ以来、米中経済同盟が日米軍事同盟を空文化させた。衰弱するアメリカ経済が中国に首根を抑えられるような形に徐々に近づいているのは哀れむべき光景であるが、日本人はいま自らの政治的自立のために、この光景をしかと目を見開いて見つめなければならない。

 アメリカがこの十数年に日本にした仕打ちは、冷戦時代に日本を庇護し、米国市場を日本商品に開放した寛大さへの恩義をあっという間に忘れさせるほどひどいものであった。アメリカによる円高と人民元の安値固定化は、いくらアメリカ企業の必要に発していたとはいえ、まことにアンフェアな政策で、日本と中国の力関係をがらっと変えてしまった。そのことがアメリカの国益にも反するのではないかという疑いは今もつづく。中国と韓国の輸出気産業はだいたいが欧米系資本である。だからアメリカは自国の利益に目の色を変えて動いたのだと思うが、円高是正のための日本の為替介入にはいちいちクレームをつけ、中国や韓国の通過には寛大だった。日本は家電も車も円高でみるみる競争力を失った。

 ひところオバマ大統領は、G2と称して米中二カ国でアジアを支配しようなどと唱えた。中国は甘言に乗らなかった。オバマはその後ほどなく中国の脅威を再び言い出した。しかし習近平訪米に際し、型通り「人権」を俎上に載せたものの「人権」一般であって、チベットもウイグルも固有名詞はいっさい口にしなかった。

 オバマに限らず、冷戦後のアメリカの外交政策と軍事政策には、偽善性が著しく認められ、ダブル・スタンダードが目立ち、世界中至る処で大幅に信頼性を失っている。たとえ型通りであってもその昔アメリカの大統領は自由と民主主義を堂々と主張し、そこに独裁や共産主義の不正を排そうとする強い情熱が感じられたものだ。

 大戦と冷戦の両方が終わった今、一極構造の硬直した覇権意志を示しつづけた国はナチスでもソ連でもなくアメリカであったことが判明した。その明るさと公開性の裏に隠された一方的な独善性は、次第に世界を疲れさせ、飽きさせてきた。アメリカのある面での善さや強さや正しさはこれからいくらも回顧に値しようが、「世界政府」を自認した瞬間にあらゆる国は壁にぶつかるのである。

つづく

ありがとうアメリカ、さようならアメリカ (二)

Voice6月号 戦争へ向かう東アジアシリーズより

第二次世界大戦以前からの一貫した世界統治意志

 先の大戦の終結から67年、米ソ冷戦の終結から23年たった今、少しづつ次第にはっきり分かってきたことがある。

 アメリカ軍が西ヨーロッパ、ペルシア湾岸地域、東アジアに駐留していた理由はソ連に対する脅威のせいだとわれわれは思い込まされてきたが、冷戦が終わってもアメリカはいっこうに撤兵しない。世界中の基地を維持しつづけている。日本などは本土の基地はほとんど兵力が空っぽなのに返還に応じようとしない。

 西ヨーロッパではソ連が崩壊してもNATO(北大西洋条約機構)は崩壊せず、東欧や中欧に民主制度と自由市場を拡大させるという表向きの理由で軍事コミットメントは継続された。西ヨーロッパの側に当初、これを歓迎する空気もあった。アメリカの真意は統一ドイツの出現によって、ヨーロッパに再び各国が力を張り合うバランス・オブ・パワーの不安定な外交政治が出現するのを恐れるという、平和維持の超大国としての役割意識もあったと考えられるが、実際には統一ドイツをNATOにつなぎ止めることによって、その独自の強力外交や核武装を阻止しようという思惑が本当の目的だった。加えてドイツがロシアに必要以上に接近するのを阻み、ロシアが再び大国になるのを抑えるという狙いもあった。

 こうなると、第二次世界大戦の以前からあったアメリカの一貫した一極集中の覇権意志の鎧が、衣の裾からチラチラと見えてしまうのである。第一次大戦後のパリの講和会議にバランス・オブ・パワーの伝統的なヨーロッパ外交を否定して、「世界政府的」な理想主義めかしたウィルソン米大統領の政治意志が表明されたことがあるが、あれも今思えば覇権思想の表明だった。そしてチャーチルと洋上会議をして決めた大戦直前のルーズベルト米大統領の「大西洋憲章」は紛れもなく今から見ればアメリカによるヨーロッパ支配の宣言書のようなものだった。

 こうしてみるとソ連が崩壊した後のヨーロッパ政治へのアメリカの介入は、第二次世界大戦より以前からひょっとするとそれ以前から、この国に強固な世界統治意志があった証拠だ、と見えてきてしまう一面がどうしてもある。冷戦後の1990年代にアメリカの出方は一段と露骨になった。バルト三国、ウクライナ、コーカサス地方、中欧など伝統的にロシアの勢力圏であった地域にまでNATOの戦略的関心は及ぶという言い方で、西ヨーロッパを政治的にリードした。いいかえればNATOはアメリカがヨーロッパにおいて自らの覇権意志を永続させるための道具にほかならなかった。

 その後、ヨーロッパは軍事的にはともかく、経済的にはアメリカに距離を置こうとし始めた。1971年に金兌換制度と手を切ったドルの無方針な乱発とたれ流しの将来を恐れて、経済統合による自存独立の方向へ舵を切った。EUによる市場統合と通貨統合が達成され、政治統合に進みそうになって挫折したのは、ヨーロッパ内部の主権国家同士の調整がどうしてもつかないという理由ももちろん大きいが、アメリカがEU独自の軍事力の成立を認めないという一貫した政治干渉が行われたことが何といっても一番大きい。アメリカは自分にカウンター・バランスする能力を持つ国ないし地域の出現を許さないのだ。EUはどこまでも経済統合であって、国家にはさせないよ、それがアメリカの方針であった。

 ドイツがEUの成立に熱心で、不利益を蒙っても忍耐づよいのは、ナチの歴史を抱えたこの国は己れの国家意志を打ち出すにはヨーロッパ全体の名において行なうしか方法はないが、いつの日にかゲルマンはこの方法でアングロサクソンに打ち勝つという粘り強い長期戦略に支えられているのだと私自身は見ていたが、アメリカがそんなことを見抜いていないはずはない。

 ヨーロッパの伝統的な外交政策とアメリカの強引な一極大国の論理が正面衝突した最近の目立つ事件といえば、イラク戦争の開戦直前の激しいやり取りと論争だった。ヨーロッパはここでも折れて、見切り発車で開戦となったが、ドルの凋落とユーロの優勢が目立ったあの時点で、イラクが石油売却をユーロで行ない、以来、基軸通貨としてのドルの信認が世界的に危うくなりだしたことがイラク戦争の主たる原因だった。中東へのアメリカの石油依存度はわずか10パーセント程度で、イラク攻撃は石油利権が目的ではなく、ユーロからドルを守ること、基軸通貨国の地位をアメリカが死守することこそが戦争の目的だった。そして、ドル=ユーロ戦争はその後もずっとつづいていて、2011年のギリシアに端を発するユーロ危機に対し、ドルはポンドと組んで、ある程度距離をもつ冷淡な対応をしていることからも、米英による独仏封じ込めの、新しい目に見えない経略が動き出していることが暗示されている。

つづく

ありがとうアメリカ、さようならアメリカ (一)

Voice6月号より 戦争へ向かう東アジアシリーズより

日本に核抑止力を与え、領土主権を守るための軍事力充実に米国が協力する日が近づいている!

日本をいつまでも「軍事的準禁治産者扱い」

 生き残りを賭けた北朝鮮の言い分は昔も今も一貫して筋が通っている。大国はみな弾道ミサイルを開発して来た。日本も人工衛星を射(う)ち上げている。わが国だけが禁止される理由はない。国連の安保理決議は茶番である。北朝鮮がそう言い立てているのはまことに尤もであり、どの国も返す言葉がないはずだ。国民が飢えているのにミサイルに巨額を使うなんて?というのは外国人の言い分で、北朝鮮にすれば余計なお世話だ、国が生き残るのが最優先だ、ということになろう。そしてそう言わせてきたのはアメリカである。さればこそ、ミサイルは北米大陸に届くのが目的であることを北朝鮮は隠そうともしていない。日本と韓国を最初から眼中に置いていない。」

 北朝鮮は今までにいろいろ試して来た。核実験はもとより、日本列島を越えるミサイルを飛ばして見せたり、繋留中の韓国船を魚雷で破壊したり、国境を越えて韓国領内へ白昼堂々と実弾を打ち込んでみせたり、いろいろしたが、アメリカは動かない。否、日本にも韓国にも手出しをさせない。核が成功しかけても何もさせない。かつてイスラエルが建造中のイラクの核基地を空爆で破壊したとき、アメリカは黙認した。今イランの核基地に同じことが起こりかねないが、万一起こったとしてもアメリカはイスラエルを窮地に追い込まないだろう。

 アメリカにとってイスラエルは大切だが、日本や韓国は覇権国アメリカの大戦略の図面に合わせて行動させる将棋の駒にすぎず、ぎりぎりまで自由にさせないつもりだ。北朝鮮の核弾道ミサイルが北米大陸に届くと分かったら、つまり王手を掛けたら、さしもの自己本位のアメリカも具体的に動き出さざるを得なくなるだろう。しかしそうなった頃には、日米韓の将棋盤上の陣形は崩れ、手に負えなくなっているだろう。

 アメリカはヨーロッパも中東もパキスタンもアフガニスタンも東アジアもすべてを牛耳りコントロールしようとしてきたが、その力を次第に失いつつある。日本と韓国はある日突然、放り出される可能性がある。海兵隊のグアムとオーストラリアへの移動は早くも勢力撤収の徴候といえる。岡目八目を決め込んで、へぼ将棋をニタニタ笑って見ているのが中国とロシアである。してやったりであろう。なんと中国は北朝鮮に戦闘爆撃機など大規模な兵器輸出を企画中と伝えられる。日本はどうしてこんなに割の合わない、身動きできない、切ない窮地に立たされてしまったのだろうか。

 四月十三日朝、日本政府がミサイル発射の確認に手間取って発表が遅れ、またしても危機対応のお粗末ぶりを国民は見せつけられ、寒気がする思いだったが、それよりもなによりも、イージス艦を並べてPAC3を配置して、二段構えでミサイルを撃ち落す、という防衛省の作戦が公開されたとき、私は正気が、とそのばかばかしさに呆気に取られた。真上から落下するミサイルは迎撃しようがない、とある専門家が言っていたが、問題はそのことだけではない。今回の件は、四月十二日から十五日までと時間が限定され、海域と空域まで指定された「落下物御注意案内」の対応にすぎなかったのだ。本当の戦争になったらどうするつもりか、防衛省にお尋ねしたい。イージス艦を俊二に百艘そろえ、PAC3を列島に1㎞ごとに配列しても間に合わないだろう。

 落下するミサイルに対する迎撃ミサイルでの防衛は不可能である。打ち上げ前の核ミサイルを基地ごと上空からミサイルが空爆で破壊する以外に技術的に確実な防衛方法は存在しないのだ。そんなことは軍事専門家はみんな知っているし、アメリカ軍当局も知っている。イージス艦とPAC3による防衛網は日本国民を政治的に安心させ、慰撫し、時間稼ぎをしているアメリカの「戦争ごっこ」である。(韓国は分かっているから、かねて隠して用意していた北朝鮮向けのミサイルをその後あえて公開した)

 平穏無事のためと称し日本にこんな屈辱的な足踏みを余儀なくさせ、中露両国の思う壺に日本がみすみす填(は)まるのを放置するのはアメリカの国益にも必ずしも合致しないはずなのに、アメリカはいつまで経っても対日方針を改めない。もう自らの抑止力にもさして自信がないくせに、同盟の名において日本をいつまでも何もさせない弱国扱い、軍事的準禁治産者扱いをつづけている。

 こうなったのには恐らく世に知られている原則以外の別の大原則があるからに違いない。「日米関係は日本外交の基軸」と言い古されてきた大前提にメスを入れる必要が日ごとに増大していると思われる昨今である。

つづく

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(六)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

  真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 三島由紀夫は、東大教授の三好行雄さんとの対談で「今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですね。そして文学は、僕の中では依然として、来週の水曜日、帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です」と言っている。

 現代に於いても、「文学の世界では会えないような状況を追及する。世界をつくる」ということが、彼が小説を書く根本原理だと言っています。
 
 終戦直前の東大の学生寮を舞台にした「若人よ甦れ」という作品があります。一人の女学生の恋愛物語であり、明日のない世界であるが、明日はどうなるか分からないような状態であっても恋愛はあった。しかし、戦争が終わると恋愛は消えて無くなってしまったと書いている。

 行動と認識の一致と言いますが、先程、私は行動と認識は一致しないんだと言いました。

 意識が自由であるということは俗物であるということ、つまり、ニセ物だということです。皆ニセ物で生きているということです。

 三島を本当に理解した人、三島が最後に許した人は一緒に死んだ森田必勝たった一人であった。一番否定されたのは村松剛であった。一番理解しているような顔をしていて、アナウンサーのような解説をやっていて、三島に拒否された。一番近い人が一番激しく否定された。彼には三島さんに何が起こったのか解らなかった。ニーチェも、彼が最後に許したのは、一緒に付いてきたあわれな音楽家ペーター・ガストたった一人であった。母親も妹も許さなかった。

 ラディカリストというのはそういう恐ろしいもので、三島もニーチェも恐ろしい世界なんです。結局、三島文学というものは最終的に其処へいってしまった。

 三島さんに、「わが友ヒットラー」という作品があります。「サド侯爵夫人」の方のサドは舞台に立たたないで、主人公は舞台に立たないで間接話法で表現されているが、「わが友ヒットラー」では、ヒットラーという悪魔が、舞台に堂々と登場し、薄気味悪いほど切迫した説得力がある。私はこの舞台を見ていないので上演したときの効果は分からないが、この作品化が表現した主題は、ドイツでは全く扱われなかった視点である。それは不可能であった。この作品が、凄絶にリアルな印象を与えるのは、三島自らヒットラーの狂気に取りつかれ、自ら狂気と化して書いているからです。自己の文学であり、認識と行動の一致であった。三島自身の政治参加と密接な関係があった。狂気を客体化することではなくて、自ら狂気と化することによって、狂気をぎりぎりのところで意識化しまし。そういう意味で盾の会は彼の文学のために必要であったのです。

 ホッホフートやペーター・ヴァイスなどのドイツの作家の試みたナチス批判は、たとえ、ノーベル賞をもらった人でも単なる批判であって文学になっていない。ヒットラ―を初めから狂人扱いして書いて居り、自分の心の中の狂気は全く書けていない。だから作品が事実に負けて文学になっていない。
 
 さて、小林さんと三島さんの違いはお分かり頂けたと思いますが。最後に、小林さんと福田さん、三島さんの違いを申し上げたいと思います。それは、西洋というものに対する意識の違いです。  

 ただ、日本精神の復活と言っても、日本的であろうとすればそれで良いと言う訳ではない。我々の日常生活は、生活文化は西洋化されてしまっています。

 三島さんは、福田さんも同じですか、西洋化を突き抜けて行かなければならない、徹底的に西洋化しなければならないと考えていた。

 小林さんは徹底的に対立するとは言わなかった。もう純粋な日本は失われているという危機感が強かった。

 作家は西洋化された長編小説を書かなけれはならないという恐怖観念が三島さんにはあったし、同様に福田さんにもあった。西洋化された、西洋のままに新劇を作らなければならないと考えた。日本の市民社会の中に演劇を見に行く層をつくろうとして「劇団雲」をつくった。しかし、そんなことは、一人の知識人の力で出来る訳がない。せつない、むなしい努力であった。

 西洋化を捨てて日本文化に向かうということではなく、柳田国男にしても、鈴大大拙にしてもそう言っているが、そうではなく、三島さんは純粋日本は敗北している、その宿命を見据えようと言っている。純粋日本は観念にすぎないと言っている。

 そうであるならば、西洋化を捨てて日本文化に向かうのではなく、西洋化を突き抜けて行かねばならない。徹底的に西洋を学んで西洋を乗り越えていかねば日本回復の道はないという逆説が生まれる。これは福田恆存も同じであった。それが、三島さんにとっては「豊穣の海」であり、福田さんにとっては「劇団雲」ということになる。

 同時に、三島さんは、「英霊の声」で昭和天皇を否定する。戦後、これ程ラディカルに天皇制を否定した人は他にいません。旧敵国に庇護された戦後日本の平和体制と現行の天皇制度が妥協している点が、三島さんは許せなかった。しかし、これは生き延びるためにはしかたがなかった。我々は戦後の運命を知っているためにそう思います。ですから、三島さんの要求は現実離れしているし、悲劇的にならざるを得なかった。  

 しかし、同じ思いは私も持っています。恐らく、皆さんも持っておられることでしょう。最近の皇室の様子を見ていると、やっぱりおかしいのではないか、やっぱりバイニング婦人は無かったのではないか。やっぱり、やっぱり、という思いは益々強くなるように思います。

了                    

文章化担当: つくる会・坦々塾会員 中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(五)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

  真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 小林秀雄は歴史意識を問題にしたが、ついに、自ら歴史を叙述することはしなかった。出来なかった。俺はものをつくれないと言った。宣長教団をつくって、どうやったら、今の現代に宣長の復権を果たすことが出来るかとの行動をしなかった。それにもかかわらず、小林さんは「歴史は観照ではなく行為だ、歴史は自己認識である」と言った。その行為が、例えば骨董にのめり込むようなことになっていった。

 小林さんには古代への思慕があった。そして、現代人としての深刻な危機意識があった。その相克の中に立ち尽くすしかないという決心、自分の限界に対しても謙虚であった。自分も古代人と同じように生きて見せたいと思った。

 私は小林さんにブルックハルトの姿を見ます。ブルックハルトという歴史家は凄い人でした。ブルックハルトと対立するのはニーチェです。ブルックハルトとニーチェは二十五歳の年の差があったが、バーゼル大学で互いに尊敬しあい、年上のブルックハルトは類まれなニーチェの才能を認めていたが、危ういなあと思っていました。ニーチェの過激思想にはついて行けなかった。                
 歴史を真剣に理解するだけでなく、自分の行為の中に体現するということをブルックハルトは知りません。出来ませんでした。何故なら、これは歴史に対して冷静でなくなり、どうしても、宗教家になっていくからです。

 ニーチェは若い頃、大変危険な縁に立ちました。若い頃のニーチェは、単なる研究や学問だけでは満足出来ず、古代ギリシャのソクラテスのようなあの賢人達によるアカデミィを、親友ローデなどの若い友人たちをさそって十九世紀のドイツに甦らせようとしました。これは間違いなく一種のカルト教団です。しかし、その頃、普仏戦争が始まり挫折しました。ある意味それでニーチェは救われたかもしれません。彼は、この時危険な縁に立っていましたが、しかし、夢は捨てていなかった。次に彼はコジマを取り込み、ワーグナーを担いでカルトを作ろうとしました。しかし、ワーグナーは取り合いませんでした。

 そして、「本当に知ることは、行う事である」と言いながら、そこで、止まってしまった小林さんと、そうではなく、行動した三島さんの違いがここにあります。

 つまり、ブルックハルトとニーチェ、そして、小林秀雄と三島由紀夫、これはある意味で見事な対比になるかもしれません。
 
 小林さんの歴史はブルックハルトと同類で、小林さんは「歴史は観照ではない」と言いながら、観照にとどまっているところがあった。それに対して、観賞を打ち破って、行動に出る。危険極まりない、文学者が宗教家になるということ、それがどういうことかということが三島さんの問題ではないかと思います。

つづく

文章化担当:中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(四)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

  真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館
 
 三島さんは真贋ということを、福田さんのように余り意識して、言わなかった。しかし、自己が行為と一緒でなければならないという意識を持っていた。福田さんと同じよう日本対西洋という意識を強く持っていた。その点、小林さんとは違っていた。しかし、小林さんの影響を非常に強く受けていたと私は思います。
 
 小林さんは、初めて「認識は行為である、歴史は観照ではない」と言った。大正文化主義の、例えば、和辻哲郎くらいまでは、認識は知識であり、歴史は教養であった。露伴まではそうです。

 小林秀雄はそのアンチテーゼでしたから、「私の人生観」の中で、「歴史は客観視ではない。自己である、本当に知ることは、行うことである」と言った。これは、お釈迦様が弟子に向かって、「お前は毒矢に当ってゐるのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者のようなものだ、自分は毒矢を抜く事を教へるだけである」と言ったことを引き合いに出して、「空の形而上学は不可能でだが、空の体験といふものは可能である」と述べた次に出て来る言葉です。

 三島さんにとっては、認識と行為の一致こそが目指す方向であった。

 三島さんのボディビル、乗馬、飛行機に乗ったりすること、こういう行う事と同じ行いと考えていたのではないか。これが私にとってずっと謎だった、今でもまだ謎ですが、三島さんにとって、小林さんの「本当に知ることは、行うことである」というのは、そういう一連の行動と同じことだったのかなあと云うことが私にとってずっと謎であった。
 
 その謎について、まだ解決はして居りませんが、大きく局面が開けたのはオウム真理教でした。十五年程前、オウム真理教の出来事に出会って、私は三島由紀夫のことをすごく考えました。
 
 盾の会はカルトであり、そして、三島さんは作家なんです。そして体なんです。体で表現しているのです。作家というのはそういう存在なんです。七十年代から現代に及ぶ色々な時代の病があった。彼は、色々な小説の中で時代の病を表現(先取り)している。

 果てしなく現実から遠く、それでいて果てしなく狂気から遠い。垂直の洞穴を掘るためにまっすぐ穴の中を落ちていく。そして、日常市民生活からかけ離れている。こういう構造の有り方に於いてオウム真理教と三島由紀夫は同じでした。

 勿論、三島さんには自己意識があり、日本の社会に対する強い倫理的な意識がありましたから、他を破壊すのではなく、自分を破壊するのですから、オウム事件と三島は方向は逆であったが、しかし、ラディカリズムでは一致していたと思います。
 
 オウムは宗教であり、その行動は犯罪であった。宗教が有る段階から犯罪になったのではありません。宗教が犯罪を犯すことはない。そんなことはありません。宗教はどんなに成熟していても、日常性とは正反対です。宗教はおどろおどろしいカルト性を抱えています。

 現代は、聖書や仏典の言葉が、本当に悩み苦しんでいる人の心に届かなくなっているのではないか。響かなくなっているのではないか。今日、沙漠のような状況に我々は生きているのではないか。聖書や仏典が、ただの教科書でしかなくなっているのではないか。

 まともな宗教なら、自分も仏陀やキリストのように生きたいと思わせるようになるのが当然です。すべての教団はカルトから出発しました。キリスト教も仏教も怪しげなカルトから出発した。

 そこで、宗教の真贋、本物とニセ物についてですが、先程の「俗物論」の真贋を思い出してください。小林さんの、焼き物の真贋に客観的な尺度がないように宗教の真贋にも客観的な尺度はない。どこかに本当の超越神がいて、その神様が優劣を判定してくれるのなら別ですが、困ったことに、宗教の優劣というのは、その神様同士が互いに争って、互いに否定しあっているのが実態で、宗教の争いほど過激なものはない。オウム真理教がサリンを作っても不思議はないのであって、それを防げなかった国家に問題があった。

つづく

文章化担当:中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(三)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

 

 真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 そこで、今日は真贋についてお話しているので、福田恆存の真贋について考えてみたいと思いますが、福田恆存は、自分は本物であると意識したかもしれないが、真贋の違いに敏感であった。小林さんを意識したが、一方で、小林さんは真贋と一度言っただけであり、本物を仰ぎ見て、それに近づこうとした人生であったが、福田さんは本物とニセ物を峻別する人生であり、真贋の概念を思想的に展開している。そして、ニセ物を批判し、ニセ物に対し手厳しかった。しかし、自分の中のニセ物性をも強く認識する人でもあった。福田さんは自覚の人であって、自覚出来ないものでも自覚しようとする、そういうタイプの激しい自己認識の人でした。

 従って、自己表現の中には、自己表現の怪しさについては小林秀雄と同じように辛辣でした。

 自己表現の中には権力意識というものが含まれている。そういうことを言い続けたのか福田恒存で、文学者の自己表現が安易であるのは、自らの権力感情に気が付かないからで、それ程非文学的行為はない。

 小林秀雄の中には自己表現のうちに、表現者の権力意識という発想はありませんでした。これは福田恆存の新しい意識であると同時に、ロレンスというものに取組んだことと関係があると思います。

 つまり、西洋的な自我を意識し、小林さんよりはるかに西洋的であった。かつ倫理というものに強くひかれる人でもありました。エゴティズムとか自己愛に強い問題意識を持った人であった。
 
 福田恆存に「俗物論」という大変面白い評論があります。俗物とはニセ物のことです。これは、すべての本物はすぐにニセ物になるという、非常にめまぐるしい世界をえがいている評論で、

 「私たちの仲間(作家)では、原稿の注文が降るようにあるのを言外に示す俗物がゐると同時に、それをかたはしから断ることに快感を感じる俗物がゐる。しかし、かれはその断ったことを黙ってはゐられない。あれやこれやを断ったといふ話を人にせずにはゐられぬのである。そのとき彼は俗物になる。かうして、自己拡大慾は、つねに他人の目を必要としてゐるのである。いや、おれは他人の眼はこはくない、自分を見てゐる自分の目がこはいのだ、といってみてもはじまらぬ。自分の眼などといふものはありはしない。それは結局、他人の眼が自分の中にはひりこんだといふだけの話だ」
 
 「俗物の特徴として、自分が仲間入りしたい上流階級、あるいは文壇とか学会とかの悪口をいふ性癖がある。これは一見颯爽としてゐるやうだが、やはり他人の眼を気にしてゐるさもしさには変わりがない。さういふ俗物に限って、その目ざす世界に仲間入りできたあとでは、猫のようにおとなしくなる。つまり『孤独俗物』は水の向けやうで、容易に『交際俗物』に転化するのである」。

 これはもう、私たちの世界で日頃よく見聞きすることですが、こういうことをあらゆる局面について書いています。そうすると世の中のすべての人間が俗物になる。これは価値基準というものは無いということで、一番最初にお話した。ニセ物が本物になるという露伴の話にも通じているところがあります。

 「パスカルの世界」と「江戸の戯作」にはこういう点で、皆さんは意外に思われるかもしれませんが、相通じるところがあって、これは通の世界ですか。俺は通だと言ったらとたんに野暮になる。通と野暮、本物とニセ物の関係はめまぐるしく入れ替わる。いきがっていると、たちまち野暮になる訳です。
 
 一般の社会、会社や官庁では人格と評価は別かもしれない。しかし、作家、思想家、芸術家の世界はやっかいである。作家、思想家、芸術家の人格と表現は一致するものである。
 
 書き手の人格、語り手の精神の高さが勝負どころであり、何を語るかではなく、どう語るかである。人間性は仕事に表われます。そのことを、私は、小林さんや福田さんや三島さんの文章を読んでいる時に痛切に感じました。

 私は今度の本の解題の中でも次のように書いています。「政治や世相を語っても、単に政治や世相を言葉として語るのではなく、語り手の精神の高さが同時に問われていることが、往時に於いては普通であった。何を語るかではなく、どう語るか、語り手の倫理的動機が常に問題であった。論じる人の精神の高さが勝負だった。文章に表われる人品が問われていた。読者が本能的に人格を嗅ぎ分けていた。語り手や書き手の人間が問題であった。読者の関心は常にそこに集まっていた。政治や世相を論じる方も読む方もある意味で私小説的であった。しかし、いつの間にか語り手の人品のの魅力よりも情報や知識が多いか少ないかが決め手になった。どう語るかよりも何が語られるかが中心になった。(中略)精神の価値の下落である」。これが、いま起こっている世界です。

つづく

文章化担当:中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(二)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

  真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 小林秀雄は、ある学生たちとの対話の中で、多くの仕事を残してこられた先生の生き方がどのようであったか、と問われると「これまでの一生を振り返って見ると、僕は計画の立たない人生であった」と語っているが、小林さんは、先ず一つの明瞭な感動があり、芸術作品等との感動と次々に出会いそれを追い求め、その感動を如何にして言葉にするかが彼の人生であり、計画の立たない人生であったというのです。

 また、こうも言っている。一体、自分とは何かということですが、「何を書いても結局自分しか出て来なかった」、単に自己をさらけ出した自己表現、そういう自己表現では駄目だということです。自分を出さなければいけないが、同時に自分を殺さなければいけないし、自分を捨ててかかっている。だが、結局は、やっぱり自分しか出てこない。

 小林さんは、更に「感動した時はいつも統一している。分裂しているものではありません。感動した時には世界はなくなって、いつも自分自身になる。何を書いても自分しか出てこなかった」と言っていますが、自分自身になることは一種のパーフェクトなものになることです。

 さっきの坂口安吾との対談での中でも「信仰するか、創るか、どっちかだ、それが大問題だ」と言っている。これはとても凄い言葉で、感動するということも同じ言葉です。

 福田恆存が「小林秀雄の考えるヒント」の冒頭で次のようなことを書いている。
「人は一寸先が闇であるようにしか生きられない。われわれが道を歩いているとき、一里先の山道に目を奪うような桜の大樹があることを、われわれは知らない。それに出会ったときの喜びが人に伝わらぬような書物は、真の書物とはいえない。小林の学問は、真の書物に出会った際の、生きた感動を語った経験録であり、そのために小林は結果を予想して考え書くということを、自らに禁じている。考えるとは頭で考えることではなく、行為することと同じである」
 
 計画を立てない。行き当たりばったりである。考えることはそれ自体が目的である。考えることは運動すること行為することと同じである。

 また、福田恆存は「人間・この劇的なるもの」で次のように書いている。
 「役者のせりふは、戯曲のうちに与へられてをり、決定されてゐる。いひかへれば、未来は決まってゐるのだ。すでに未来は存在してゐるのに、しかも、かれはそれを未来からではなく、現在から引き出してこなくてはならぬ。かれはいま舞台を横切らうとする。途中で泉に気づく、かれはそれに近づいて水を飲む。このばあひ、気づく瞬間が問題だ。泉が気づかせてはならない。かれが気づくのだ。かれが気づく瞬間までは、泉は存在してはならないのである」

 小林さんが桜の大樹に出会うようにして、一冊の書物に、驚きをもって、感動をもって出会うのと同じように、そこを、役者は演技でもってこれを表現しなくてはならないという、福田さんの場合には、演技論というもう一つの課題があると私は思います。

 坂口安吾は対談の最後に、「福田恆存に会った。小林秀雄の跡取りは福田恆存という奴だ、これは偉いよ」、「あいつは立派だな、小林秀雄から脱出するのを、もっぱら心掛けたようだ」と述べ、それに対し、小林は「福田という人は痩せた、鳥みたいな人でね、いい人相をしている。良心を持った鳥のような感じだ」と応答し、安吾は「あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は」と述べている。

 批評家は小林秀雄と福田恆存だけであった。中村光夫、江藤淳など色んな人が出たが、批評は生き方だという姿を見せた人は小林秀雄と福田恆存しか居ない。他は皆、学者でなければ解説家に過ぎなかった。
 
 ところが、福田さんは小林さんと違った面があり、二元論的対立相克の世界である。自由と宿命、行為と認識、生と死、善と悪、理想と現実、個人と集団、政治と文学、本物とニセ物を大変な対立概念で取り組んだか、小林さんはそんなことはしない。

 小林さんは本物とニセ物、真贋というものを出したが、福田さんはこれに囚われた。囚われたと同時に大きく展開した。

 小林さんは芸術作品の対象の選び方が自由奔放で、天才の乱捕りと悪口も言われた。「ゴッホ」を書いたと思ったら「福沢諭吉」を論じ、そうかと思ったら「実朝」というふうに、無差別に取り組み、西洋と日本の基軸の対立はなかった。無差別で自由奔放であった。

 しかし、福田と三島は西洋と日本の関係に対する取り組みは、はるかに深刻で悲劇的であった。どんどん対立軸に追い込まれて、自分をその中に追い込んで行った。そこが、小林さんと福田さん、三島さんとの違いであった。

 しかし、それは小林さんの弱点でもあった。かれは歴史意識を問題にしたが、遂に歴史を自ら叙述することはなかった。彼自身は古代学者ではなかった。古代と戦った本居宣長等を対象としたに過ぎない。しかし、福田恆存、三島由紀夫は実作者であった、福田さんは劇団の主宰者でもあった。三島さんは盾の会を主宰した。つまり、具体的な行動家であった。

 小林さんは、大正文化主義、或いはまた学者的な有り方に対し色々悪口を言いましたがそういう世界に片足を突っ込んでいた人だと言えないこともない。

つづく

文章化担当:中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(一)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」の録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

 真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー             文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 幸田露伴に「骨董」という文章がある。これは、一つの定窯(宋の時代に定州の窯で焼かれた)の宝鼎をめぐって展開された明末の実話をもとにして書かれた作品であり、その宝鼎は、「実際無類絶好の奇宝で有り、そして一見したものと一見もせぬ者とに論無く、衆口嘖々として云伝へ聞伝へて羨涎を垂れるところのものであった」という。しかし、「その宝鼎を見て感動したある人物が作った複製品が、本物と寸分違わぬ出来映えであったために、思いがけない経緯により、やがて、本物として独り歩きをし始めてしまい、本物とニセ物の区別がつかなくなってしまったが、代を重ねるうちに世間ではその委曲を誰も知らなくなってしまった」という話が書かれている。
小林秀雄の「真贋」その他のエッセイは、露伴のこの一文を下敷きにして書かれた作品であり、本物と見定めた物が贋物であったり、贋物と鑑定された物が本物であったりすることが興味深く書かれている。

 露伴は坦々と書いているが、小林さんは「所謂書画骨董といふ煩悩の世界では、ニセ物は人間の様に歩いてゐる。煩悩がそれを要求してゐるからである」という面白い言い方をしている。
「真贋」の冒頭で、良寛の「地震後作」という詩軸がニセ物と分かり、一文字助光の名刀で縦横十文字にバラバラにして了った話が書かれているが、小林さんは、更に「一幅退治してゐる間に、何処かで三幅ぐらゐ生まれてゐるとは、当人よく承知してゐるから駄目である」、「ニセ物は減らない、本物は減る一方だから、ニセ物は増える一方といふ勘定になる、ニセ物の効用を認めなけれは、書画骨董界は危殆に瀕する」とも書いている。

 また、「ニセものというのは素人の言い方で、玄人はそんなことは言わない。二番手だとか、ちと若い、これはイケマセンねと言ったりして、決してニセものとは言わない」。
 
 このような話が沢山書かれていて、皆さんも知っての通りですが、小林さんも相当イカレてしまった人である。

 小林さんは、ある日、知り合いの骨董屋で、李朝の壺がふと眼に入り、それが激しく自分の所有慾を掻き立て、逆上して、買ったばかりのロンジンの最新型の時計と交換して持ち帰った。「今から考へるとこれが狐が憑いた始まりだ」と言っているが、骨董いじりとはそういうもので、現代の知識人は「古美術の鑑賞」というが、しゃらくさい。「本当に好きになること、『好き』と『嫌いではない』との間には天地雲泥の差がある」と言っている。
 
 「美術館で硝子越しに名画名器を観賞して、毎日使用する飯茶碗の美には全く無関心でいる」、そんなのは駄目だと言っている。

 小林さんは、トルストイのクロイチェルソナタの話を出して、トルストイは「音楽にしても美術にしても芸術作品というものは体を躍らせるものである」と書いているそうですが、だから、「行進曲で軍隊が行進するのはよい、舞踏会でダンスをするのはよい、ミサが歌はれて、聖餐を受けるのはわかる」だが、普通の音楽「クロイチェル・ソナタが演奏される時、人々は一体何をしたらいいのか。分けの解らぬ力を音楽から受けながら、音楽会の聴衆は、行為を禁止されて椅子に釘付けになってゐる」。ニセ物をつかまされたり、家中が焼物だらけになったり、家庭をかえりみなくなったりする、言わば狂気に近い骨董いじりの世界は、体を使ってぶつかる、そう云うことをしないで、頭だけ、目だけキョロキョロさせて、絵画の美とも日常生活とも関係のない現代知識人の芸術鑑賞とは一体何事だと言っている。

 小林さんのこの一連のエッセイを読んで皆さんもきっと感じると思いますが、小林さんはこうも言っている。
 
 「美は信用であるか。さうである。信用されていれば美は成り立つが、美という客観的な評価はない。人がそれに感動すれは本物である」。本物がニセ物になったり、ニセ物が本物になったり、めまぐるしく入れ替わるわけで、本物とニセ物の定義はない。自分にとって本物であればそれで良い。つまり、このことは、ある種の、美の評価に対する無政府状態を言っているようなものである。しかし、それが美に対する行為ではないか。

 行為を禁止された美術鑑賞にはトルストイは疑問をもっているが、我々は外国に行った時、美術館で大量の作品を、限られた時間に見るが、そんなことで感動することは出来ない。逆に疲労感を伴うものである。
 
 疲労感を伴うような美術鑑賞とは、美が人に愉快な行為を禁じて、人を疲れさせるとは、なんと奇妙なことだろう。

 小林さんは、ゴッホの「烏のいる麦畑」の絵は、後に見た本物よりも自分が持っている複製画に感動したと言っているが、我々は、翻訳で外国文学を理解し、レコードで西洋音楽を観賞し、複製品の美術全集で絵画を見る。それでも感動するときは感動するし、本物を見ても感動しない時は感動しない。ある意味、すさまじい話で、無政府状態と私は言いましたが、美に、明確な、客観的な標準や基準はない。

 小林秀雄と坂口安吾の対談で、安吾は「僕は歴史の中に文学はないと思うんだ、文学というものは必ず生活の中にあるものでね。モオツァルトなんていうものはモオツァルトが生活していた時は、果たして今われわれが感ずるような整然たるものであったかどうか、僕は判らんと思うんですよ。つまりギャアギャアとジャズをやったりダンスをやったりするバカな奴の中に実際は人生があってね、芸術というものは、いつでもそこから出て来るんじゃないか」と言い、骨董いじりに狂っておつにすましている小林に対して、気取っていやがると噛みついている。
 
 それに対し小林さんは「骨董趣味が持てれば楽なんだがね。あれは僕に言わせれば、女出入り見たいなものなんだよ、美術鑑賞ということを、女出入りみたいに経験出来ない男は、これは意味ないよ。だけども、そういうふうに徹底的に経験する人は少いんだよ。実に少いのだよ。・・・・・狐が憑く様なものさ。狐が憑いてる時はね、何も彼も目茶々々になるのさ。・・・・・結構地獄だね。」と答え、「これは一種の魔道でもある」とも言っている。     

 更に、「それに、あの世界は要するに観賞の世界でしょう? 美を創り出す世界じゃないですよ。どうしてもその事を意識せざるを得ない。此の意識は実に苦痛なものだ。これも地獄だ。それが厭なら美学の先生になりゃアいいんだ」と言って、批評家の悲しみや絶望も語っている。この辺に、小林さんの芸術と人生のすべてが語られているように思いますが、また、「自分は感動して、それを言葉に表しているだけで、創作は出来ない」と言い、一方では美を創り出す人に劣等感を感じている。でも、「自分は体で美を感じているのであって、頭で感じているのでは駄目だ」と言っている。

 また、「僕は陶器で夢中になっていた二年間ぐらい、一枚だって原稿を書いたことがない。陶器を売ったり買ったりして生活を立てていた」とも言っている。
 
 小林秀雄の人生とは、そういうものだったと思いますが、この坂口安吾との対談が大変面白いのは、小林さんが自分の弱点をさらけ出しているところにある。
 
 この対談の中で、小林秀雄はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャに感動して、「アリョーシャって人はねえ、あれは凄いよ、我慢に我慢をした結果、ポッと現れた幻なんですよ。鉄斎の絵に出てくる観音様だね。アリョーシャを書けるのはただごとではない。自分は、今は自信がないが、将来はそこまで書きたい」と言っている。更に彼は批評家であって、小説家ではなくドストエフスキーにはなれないのに、「アリョーシャを書きたい、俺の人生はそれが目的だ、駄目かもしれないが本当の俺の楽しみはそこにある。楽しみってつらいことだ」とまで言っている。
 
 この大矛盾が小林秀雄の人生である。これはすばらしいことでもあるし、小林さんの弱点でもあった。

 彼にとって芸術作品というものがあって、芸術作品を自己がどう感じるか、芸術作品と自己の対決が小林さんの人生、頭ではなく体で、行為で、骨董いじりも行為であった。実際彼の作品は私小説的である。

 彼は、客観的に認識することを一段低く見ており、彼の場合は体で、行為することが知ることであると考えており、この頭脳の世界でない「体で」ということは福田恒存、三島由紀夫にもつながっている。

つづく

文章化担当:中村敏幸