それは自由ではない
結局のところ、西尾氏の苛立ちは西洋文明そのものよりも、それに正面から立ち向かおうとしなかった日本に向けられる。自分は日本人だという自覚がそうさせるのだ。例えば、16世紀以降、西洋がアメリカ大陸を「新大陸」と考えて覇を競っていた時代、当時、世界一の陸軍を持つといわれていた日本の織田信長も豊臣秀吉も、その後の徳川政権もこれに関心を持たなかったことを嘆いている。
《西洋文明がアメリカというものに総力を挙げて殺到していく長い時間に日本人は蚊帳の外にいた。西洋人の野心も夢もそしてまた狂気も、江戸・明治の日本人はつゆ知らなかった》
秀吉については、明に戦いを挑み、朝鮮出兵したことを理由に狂気の人物のように描くのが多くの歴史本でもNHK大河ドラマでも定番だが、西尾氏は違う。
《秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ二世と同じ意識において世界地図を眺めていた。日本で唯一人の、近代の入り口における「世界史」の創造者として立ち振る舞おうとしていた》
日本はなぜ西洋と互角に争えなかったか、西洋を凌駕し世界をリードする存在になれなかったか。そういうスケールの大きい問題意識がそこにある。
何より、この本で最も考えさせられるのは自由とは何かということだ。現代の日本人は500年の歴史の果てに「自由」な社会にたどり着いた。民主主義のルールさえ守っていれば、宗教や道徳、慣習にも縛られず、自由に自己実現を目指すことができる。生きる権利は国が保障してくれる。しかし、知らず知らずのうちに何かに囚われて生きていないか。結婚も自由、子供を持つも持たずも自由、自分が男か女かを決めることすら自由でなければならないという風潮の下、社会自体が少子化で存続の危機に立たされている。これは本当の自由なのか。
《私たちは自分の意志で行動を起こし、自ら決断し、何ごとか決定したつもりでいることが少なくない。希望の大学に合格したり、目的の事業に成功したり、ことごとく自分の思う通りだった、と。しかしひょっとしてその人の遺伝と環境が良かったせいであったのかもしれない。…どこまでが自分の自由であり、どこからが不自由であるかははっきり定めがたい。何か原因があって、あるいは理由があって、決断し決定を下したのだとすれば、それは自由ではない》
自由、自由というが、人間はその実、ときの環境や風潮、時代の精神に支配されずにいられない。自由はそんな簡単なもんじゃないんだ。こう、西尾氏に叱られている気分になる一節である。
それにしても、「最後のメッセージ」と言いながら、西尾氏は雄弁である。ドラマで見る人間の最期は、たいてい一言、二言を残して息絶えるものだ。これは個人の希望的観測であるが、「西尾幹二」は死なず、これからも「最後のメッセージ」を発し続けるのではないかと思う。