非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(五)

謹啓 

 『飢餓陣営』の論文拝読しました。日録に感想を寄せた方々と同じ思いです。先生の『ヨーロッパ像の転換』の本の帯に三島氏の言葉があったと記憶します。「これは日本人による『ペルシャ人の手紙』である。……我々は一人の思想家を見出した。」という内容だったと思います。それで三島氏は早くから先生に対して相当の評価をなさっているのだと思っていました。

 あの事件の翌日、三島氏の本を買うために店頭に多くの人が並ぶニュースを見ました。当時先生が書かれた論文を読んでも十代の私には理解不能だったはずなので、今回の連載は大変有難い気持ちです。難しいので何度も読みました。

 三島氏の二元論、政治と行動などの問題についてこれ程精密な文章を私は初めて読みました。読んだ後は切ない気持ちになりました。まるで何度も聴きたくなる交響曲のようでした。近頃思うのですが、自分たちの靖国神社のことを外人に教えてもらう必要は全くないし、映画『明日への遺言』も上司の鏡だという似たような感想ばかり目につくので、かえって観る気が失せてしまいました。

 本当のことや肝腎なことは何も語られない社会。我々は、他人の服を着ている様な居心地の悪さを感じつつ、そこに安住することなく、両眼をカッと見開いて、絶えず過去を振り返りながら真の自己に突き当たる瞬間を求めて、未来に向かって走り続けなければならないのでしょうか。背筋の伸びる論文でありました。小さくかつ乱筆お許し下さい。
                                敬具
平成20年4月12日

 私信でしたが、私にはありがたく、しかもいい内容のご文章でしたので、取り上げさせてもらいました。女性の方からです。講演会でお目にかゝったことがあり、お名前は存じていますが、住所が書かれてありません。掲載は困るという場合には、その旨至急ご一報ください。消去します。

萩野貞樹さん追悼記念会の開催

 4月22日九段会館で萩野さんの追悼記念会が開かれました。参会者は102人でした。

 「厳粛でそして盛会でしたね」とか、「遺徳を偲ぶ会らしい雰囲気でしたね」とか告げる人が多く、終りの時間が来ても人々がなかなか立ち去らない、余韻を残した会でした。

 先に「追悼 萩野貞樹先生」(3月3日)で、私はご病気と死に至る説明は述べました。当日奥様からあらためて報告がなされ、われわれは最後の末期ガンの苦痛に胸塞がれる思いで聞き入りました。

 でも、弱音や泣きごとをいっさい口にしなかったそうです。彼はストイックな人でした。ガンは外からヴィールスに冒されるような他の病気と違って、自分と病気は一体なのだと言っていた由、覚悟のほどが察せられます。

萩野貞樹さん追悼記念会 平成20年4月22日
     
     式 次 第
開場
榊奉献
開会の辞 司会 西尾幹二氏(評論家)
黙祷
病状説明 故萩野氏令夫人
スピーチ
   中村 彰彦氏 (作家)
   桶谷 秀昭氏 (文芸評論家)
   吉田 敦彦氏 (神話学者)
   熊谷 光太郎氏(県立秋田高校級友)

献杯
   石井 公一郎氏(元・ブリジストン(株)専務)
榊奉献(開会前にお済みでない方々)
スピーチ
  安本 美典氏 (日本古代史学者)
  塩原 経央氏 (産経新聞論説委員兼特別記者)
  谷田貝 常夫氏(国語問題協議会事務局長)

閉会の辞 宮崎 正弘氏 (評論家)

 みなさんのお話もとても印象的でした。詳しく書けるとよいのですが、書きだすときりがなくなりそうなのでそれもできません。

 中村彰彦さんは大野晋氏の日本語のタミール語起源説を論駁した萩野さんの二十数年前の論文に出会ったときの感激を語っていました。桶谷秀昭さんは含羞ということを言っていました。吉田敦彦さんはギリシア神話の理解の深さについて語り、同席したお嬢さんのお一人が自分の教え児にもなるいきさつを説明していました。

 萩野さんには三人のお嬢さんがいて、会にもご出席でしたが、三女の方が東大大学院の博士課程で国文学を専攻しているそうです。自分の蔵書は娘に全部譲れると言っていたのを思い出しました。

 私が編集した『新 地球日本史』(扶桑社)第1巻に、萩野さんは見事な津田左右吉批判を寄稿して下さいました。『歪められた日本神話』(PHP新書)と重なる内容です。

 神話を神話として読むことを唱える萩野さんは、だからといって神秘主義めかしたことを言っていたのではありません。実証主義とか歴史批判とか言っていた津田の論述の仕方が実証にも批判にもなっていないことを緻密に、論理的に証明したのです。

 穏和しい方なのに論述の仕方は激しく、そして雄渾でした。ご参会の他の方もみなそう言っていました。

 私が萩野さんに惹かれたのは津田左右吉批判が10年ほど前の『正論』にのっていたのを読んだのが切掛けでした。徹底した津田批判の大きな本を一冊書いてよね、と言っていたのに、残念でなりません。

 私は会の終りごろに、萩野さんは若い才能ではなく、熟成した才能、人文学者らしく年を重ねて円熟していたので、あと10年生きつづけて下されば、目をみはるお仕事をなさったに違いなく、口惜しくて仕方がないと話しました。

 「国語問題協議会」や「文語の苑」の関係者の方が多く来ていて、理論的指導者を失ってとても打撃だと言っていたのが印象的でした。

 あらためてご冥福をお祈りいたします。

非公開:私のうけた戦後教育(六)

観念教育のお化け

 私はここに一つの実例を提供しよう。

 「ぼくが谷間の村の新制中学に、最初の一年生として入学した年の五月、新しい憲法が施行された。新制中学には、修身の時間がなかった。そして、ぼくらの中学生の実感としては、そのかわりに、新しい憲法の時間があったのだった。

 ぼくは上下二段の『民主主義』というタイトルの教科書が、ぼくの頭にうえつけた、熱い感情を思い出す。(中略)『民主主義』を教科書に使う新しい憲法の時間は、ぼくらに、なにか特別のものだった。そしてまた、終身の時間のかわりの、新しい憲法の時間、という実感のとおりに、戦争からかえってきたばかりの若い教師たちは、いわば敬虔にそれを教え、ぼくら生徒は緊張してそれを学んだ。ぼくはいま、《主権在民》という思想や、《戦争放棄》という約束が、自分の日常生活のもっとも基本的なモラルであることを感じるが、そのそもそもの端緒は新制中学の新しい憲法の時間にあったのだ。

 このように憲法と、都市から山村にいる日本のさまざまな地方の子供たちとのあいだの、一種ハネ・ムーンの時期はきわめて短かったのかもしれない。ぼくは自分より数年だけ若い人たちに、たびたび『民主主義』という教科書のことをたずねてみたが、おおむね、かれらの記憶に、それが重要な書物としてのこっているということはなかった。しかし、ぼくより一歳だけ年下の、友人の編集者は、かれの最初の息子に、憲介という名前をつけた。それは、かれにとってもまた、少年期の教室で憲法がどのようなものであったか、そしてそれがどのように、彼の青春のモラルの核心として残りつづけてきたかをあきらかにしている。かれにとっても僕の場合と同様、《主権在民》や《戦争放棄》は、ひとりの戦後の人間としての自分の肉体や精神とおなじく、根本的なモラルの感覚をかたちづくるものなのだ」(大江健三郎『戦後世代と憲法』)

 符牒や暗号を一度頭に叩きこまれたら、もう二度と疑うことのできない人間改造の見本のようなものである。これはまた子供はどのようにでも教育できるし、大衆の意識はどのようにでも改造できるという、現代のデマゴーグを勇気づける実例である。興味ぶかいことは、大江氏が別のエッセーで、「天皇は、小学生のぼくらにもおそれ多い、圧倒的な存在だったのだ」と戦時中の自分の姿勢を書いていることである。

 昨日まで戦争をしていた若い先生に、修身の代りに平和憲法を教えられたということを後年まず矛盾と考えるのが正常な感覚だと私は思うが、三十才になるいまに至るまで「日常生活のもっとも基本的なモラル」としてこれを信奉しているという大江健三郎氏には、《主権在民》や《戦争放棄》はモラルではなく鰯の頭、疑ってはならない護符、呪文、要するに天皇と同じように「おそれ多い圧倒的な存在」であったということでしかあるまい。

 大江さん、嘘を書くことだけはおよしなさい。私は貴方とまったく同世代だからよく分るのだが、貴方はこんなことを本気で信じていたわけではあるまい。ただそう書いておく方が都合がよいと大人になってからずるい手を覚えただけだろう。「戦後青年の旗手」とかいう世間の通年に乗せられて、新世代風の発言をしていれば、新生活、新解釈が得られるような気がしているだけである。

 大江さん、子供の時のことを素直な気持ちで思い起こして欲しい。子供の生活は観念とは関係ない。あるいは大人になって行く過程で、幼稚な観念はぬぎ棄てて行くものだ。貴方の評判のエッセー集『厳粛な綱渡り』の中から一例――「終戦直後の子供たちにとって《戦争放棄》という言葉がどのように輝かしい光をそなえた憲法の言葉だったか」。こんなことをこんな風に感じた子供があの時いたとは思えないし、今も決していないだろう。

教師は生徒の規範たれ

 民主主義は政治上の、相対的な理想であって、決して教育理念にすべきではない。私の言いたいことはそのことに尽きる。目的意識のあまりに明確な教育理念は、結果として頭のかたい、原則を立ててしか物を考えない青年たちを急造するだけである。事実そういう弊害は今日歴然と現われている。民主主義の名において民主主義のために戦いたがる青年たちが、民主主義を事実上許さない政治体制につねに従順であるのは、戦後日本の七不思議の一つである。民主主義がふたたび抑圧されはしないかとたえず警戒し、いきまいている青年たちは、間接に自分たちの自分というものが抑圧されやすいことを告白しているようなものである。そういう自主性のない青年たちを生み出して来たのは、自主性を意識的に育てようとしてきた戦後の温室教育であった。

 いま教育者にとって必要なこと、あるいは明日からでもなし得ることが一つあるように思う。教師と生徒との人格的対等といった偽善を排し、生徒と共に考えるのではなくあくまで師表となって教えるのだという自信を回復することだろう。教師は未完成な生徒にとって一つの規範であるべきだし、「権威」ですらなければならないと私は思う。規範のない所には模倣もない。規範や権威があるからこそ、ときにそれに納得し得ない自分というものに気づき、眼ざめる生徒の自主性というものであり、それがまた本当の民主主義を成り立たせる土台となるべきものだろう。

おわり

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

非公開:私のうけた戦後教育(五)

教育におけるペシミズム

 教育が問題になるということは、あるいは教育の危機が論ぜられるということは、すでに教育が自分一人の力では手に負えない現実に直面している証拠であろう。教育がさほど問題にならない時代には、教育者はいかにして子供に知識や技術を能率的に伝授するかという方法に腐心していさえすればよかった。

 あとのことは社会が引き受けてくれる。そういう時代には教育上の特定の理想などはなくてもよい。信仰が生きている時代とは、進行を意識化、計量化する必要のない時代なのである。

 教育の問題を真剣に考える人は、かならずあるペシミズムに突き当たるはずである。「教育」とはけっして「学校教育」のことではない。学校教育は教育のごく一部分、しかもさほど本質的でない小部分を代表しているにすぎず、早い話が学校がどのように立派に完備したところでどうにもならない現実があり、教育学者、教育理論家の全部とはいわない、その大多数がこの事実に気がついていない。いや、気がついてもできるだけ影響を小さく見ようとする。さもないと学としての教育学の存在理由――理想としての教育の自律性という観念が破壊されるからだろう。

 戦前戦後をつうじ日本の教育が政治に従属し自律性を失ってきたのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、教育がこの自律性という観念を過信してきたためである。教育の危機は日本の文化の危機である。あるいは近代文明そのものの危機にかかわりがある。教育だけで解決できる問題はなにひとつないし、教育だけが自己の能力を過大視してはならないはずだ。にもかかわらず日本の教育学者、教育理論家は、戦前だけではない。戦後の「民主教育」においても、《教育を通じて》人間を改変し、現実を動かし、危機を克服しようとする理想にのみ自己の存在理由を賭けてきた。

 彼らの言う教育の自律性とは、要するに教育万能論でしかない。そこには一片のペシミズムもなく、教育とは救済手段の別名にほかならない。しかし、現実を早急に救い、困難をたちどころに解決するような力は教育にはないし、そんな使命もない。目的実現に急な日本の教育が、現実の困難に向い合うことを避けた必然の帰結として、教育の外からの安易な理想、出来合いの政治理念を借りてきて己れの楯としたことは、蓋し当然の結果と言うべきだろう。

 「忠君愛国」の政治教育から解放された戦後の教育は、あの時期に、一切の政治原理、原則からの独立を覚悟するべきではなかったろうか。目標がなければない方がよい、それ位の意志力が必要ではなかったろうか。「主権在民」や「戦争放棄」があの時いかに切実なものであったとしても、それはあくまでも政治上の要請であって、教育上のモラルや理想になすべき性格のものではない。にもかかわらず私が受けてきた戦後の教育では、とくに昭和23~6年頃の少年期に、こうした政治用語が道徳上の価値観念として「上から」与えられてきたのであった。

 子供は国際平和に寄与するような役割を演ずることができない。従って毎日の生活に生かすにはあまりに無形で、とらえどころのない「平和」というようなモラルは、子供の感覚や思惟に一種の麻酔作用を及ぼすことになる。子供は平和と戦争との複雑な関係に思い及ぶ前に、平和を絶対善、戦争を絶対悪と単純に割り切る思惟様式に次第に馴れて行くのである。尤も子供のうちはまだいい。子供は観念に動かされない。「平和を愛する民主的な人間」は、ただただ有難い本の中の言葉、符牒か暗号のように受取る以外に手がなく、実際には運動や喧嘩の能力が切実なものとして子供の現実を支配している。

 問題なのは、他愛のない政治用語を教育上のモラルとして繰返し耳に吹込まれているうちに、成人に達するころ人間が馬鹿になってしまうことである。私はそういう人達を沢山見てきた。頭が観念的になる年頃、慣れ親しんだ政治用語がいつしか固定観念と化し、たった一つの言葉を中心に形作られるもやもやした感情を思想のように錯覚して、知能のお化けが生まれるのである。今日そういうおめでたい人はじつに多い。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

非公開:『皇太子さまに敢えてご忠言申し上げます』をめぐって(二)

 いただいたコメントの中でもう一つだけ面白いご文章があったのでご紹介する。苹さんは書道家で、「日録」がコメント欄を開いていた当時ユニークなご文章、国語と言語文化に敏感なご文章をたくさん寄せて下さり、私は大いに啓発されたものだった。今度も読んで面白く、ハラハラさせられる内容である。

題:見てるかな
  苹

(余談)
 「書」とは何か、と問われたら困るが、「書」の本質は何か、と問われるならどうにかなる。全体を丸ごと描き出す必要はなく、本質だけ~すなわち「書く事だ」と答えるだけでよいからだ。

  ~なぜ書くのか。「読む」または「読まれる」ために書く。つまり「書く」には「読む」が内在する。ところが一方では「読む」を度外視した書き方も成り立つ。しかしそれとて結局は「書く」本人独自の読み方で書いただけの事に過ぎず、雑駁には或る意味「他人に読めないだけ」のエニグマ(謎)とも云える。…借問しよう。作曲家が意図した通りに、我々はエルガーのエニグマ変奏曲を聴けるのかね。にもかかわらず我々は我々の仕方で曲に近付こうとする。聴き手が書き手に近付こうとする様に「スコアを読み」「演奏を聴く」。それと似通った読み方が存在する。
 
 「書く様に読む」行為と「読む様に書く」行為との循環と接近、そしてそれらの限界が「書」の本質に相当する。「書く側と読む側の一致」を仮構しても実際そうならないがゆえに、本質それ自体が両者の相反する仮構性を牽引するからだ。言い換えるなら、本質は両者にとって「中心」であらねばならない。その渦に巻き込まれた両者~「書き手」や「読み手」はどちらも本質を牽引しているのではなく、本質に牽引されている(或いは「牽引」の箇所に「所有」とか「獲得」の語を用いた場合のニュアンスを交えてもよい)。
 
 しかしこれを“「書」とは何か”の側から見れば、多分「本質らしからぬ答え」と映るだろう。そこには「手段としての巧拙」や「副産物としての滋味・風流」を「目的であるかの様に」転倒させた見方が絡む。目的と本質を取り違えるからそうなる。目的を適宜(都合や流行に応じて?)設定すれば、それに見合った優劣評価がごく当たり前の様に可能となるだろう。差詰め「ウマイ字を書いた本人が自分の字を読めない」ケースなんか、本質そっちのけで好成績という目的に満足するのではないか。
 
 そう云や教員時代の同僚に、本質を教える事にあからさまな拒否反応を示した商業科教員が居たっけ。(この件については支援板で詳しく考察する予定。)

(本題)
 今日、『WiLL』五月号を買ってきた。目当ては「日録」で知った西尾先生の「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」稿。…ウマイ事を書いている。「能力主義の行き着く果ては不毛なんです。だけどついに能力主義は皇室にまで入ってしまったんですよ、こんど」(P.32)と書いたのが十五年前。それを今回、またまた時間をかけて煮詰めている訳だ。

 先生は「雅子妃仮病説」について、「インターネットを見ているとうねりをなすような国民の裏声がそれだということを、知らない人のために申し添えておきたい」と書いている(P.37)。ここも見てるかな~(わくわく)。所謂「皇室外交」云々の話題では、「もしそれを外交官のご父君が予め教えていないのだとしたら、小和田氏の罪である」との記述も四年前に出してあったそうな(P.36)。どちらの旧稿も教育問題と密接に絡む。それを書道に見立てれば上記の通り。

 書かれたものは破棄されても、書く行為の方は「書」の本質をめぐる諸々の手段に則って書き継がれてきた。…皇室の方はどうだろうか。西尾先生は「滅びるものはどんなに守ろうとしても滅びる。滅びないものは滅びに任せても蘇生する」(P.36)と再録するが、今の時点で読むと表現の大胆さに驚かされるばかり(それだけ事態は深刻って事か)。

非公開:『皇太子さまに敢えてご忠言申し上げます』をめぐって(一)

 お知らせ

日本文化チャンネル桜
タイトル:「闘論」「倒論」「討論!2008 日本よ、今…」
テーマ :「胡錦嶹訪日と今後の日中問題」(仮題)
放送予定日:前半 4月10日(木曜日)夜8時~9時30分
        後半 4月11日(金曜日)夜8時~9時30分
パネリスト:(敬称略50音順)
     青木直人 (ジャーナリスト)
     加瀬英明 (外交評論家)
     上島嘉郎 (月刊「正論」編集長)
     西尾幹二 (評論家)
     藤井厳喜 (拓殖大学客員教授)
     宮脇淳子 (モンゴル史学者)

司会:水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)
    鈴木邦子

4月12日(土)夜11時~12時
   GHQ「焚書」図書開封 第21回
「バターン死の行進」の直前の状況証言

 拙論『皇太子さまに敢えてご忠言申し上げます』(WiLL5月号)が3月26日に店頭に出てから、反響の大きいのに驚いている。

 手紙やメイルがたくさん届いた。私宛だけでなく、『WiLL』編集部にも手紙やメイルがいろいろ来ているらしい。「よく書いてくれた」というのが圧倒的であるのはある意味で当然である。そう思わない人はわざわざ手紙やメイルを書き送ってこないからだ。

 元民社党委員長の塚本三郎さんがいつも送って下さるプリントした世相診断のご文章の空白に、「WiLL5月号、御論お見事でした」とわざわざ一言添書きしてあったのは嬉しかった。

 私はこれからは一個人の治療の話は止めて、国家の問題にしぼって議論を深めて欲しいと提言したのがあの文章である。

 加えて二つの具体的な提言、妃殿下の主治医を複数にすべきであること、外務官僚が東宮に勤務するのは諸般の事情から慎むべきであることも述べた。

 提言はすべからく具体的であるべきものである。しかしこの程度でさえ実現されるかどうかは覚束ない。たゞこれから雑誌の扱いが座談会でお茶を濁すような逃げ腰でなくなることが起こればよいがと思っている。せめてそれくらいの変化は起こってほしい。

 そう思っていたら、昨日出た『週刊現代』(4月19日号)がずらずら15人もの書き手を並べて、「あなたの共感雅子さまか、美智子さまか」の切り口で「緊急提言ワイド」とかいう大型の特集を組んでいるのを見つけた。

 「美智子さまか、雅子さまか」の長幼の序を守らない題名に工夫ありと見たが、案の定、日本国家の問題だと書いている方は一人もおられなかった。

 私がざっと読んで納得したのは高橋紘、岩瀬達哉、八幡和郎、勝谷誠彦の4氏のご文章だった。4氏はいずれも現実を見ていて、しかも皇室の明日に危機感を抱いている。他の11氏の文章を読んでいると、成程もう天皇制度はすでにして今なくなっているのではないかと思うばかりである。

 戦争に敗れてアメリカ軍に占領された帰結が今はっきりと姿を現わしたのだと思う。60年かけて「第二の敗戦」は確実となった。

 私が見たブログの中で一番心に残った次の文章をご承諾を得たのでここに掲示する。心を打つご文章である。敗戦を免れている例文の一つである。

2008-03-27 祈りについて。

昨日は久々に雑誌『WiLL』を買った。西尾幹二氏の皇太子殿下に向けた論文が面白かったからである。ここ数年続いている東宮夫妻の問題に真正面から切り込んだよく練られた文章だった。とくにヨーロッパの各王室を日本の天皇家に対するものと考えず、日本の歴史で言うところの大名家になぞらえたのはとてもわかりやすいたとえだった。

世の中は感情に流れやすいから、今上陛下がお孫様にたまにしか会えないのはおかわいそうだとか、雅子妃をお守りしようとする皇太子殿下がけなげだとか、そういうメンタル面での意見はネットでもよく見かけられる。が、ことの本質はそんなことではなく、世界最古の王家である天皇という祭司の伝統が、平成の御世で途切れようとしているといういってみれば無形文化遺産損壊の危機なのである。つまりは現皇太子夫妻が御世を担うにはあまりにもふさわしくなという点で。

私はカトリック信者だから神道のことは詳しくないけれど(カトリックのことすら詳しくないけれど・・・)、共通するのはお清めという習慣である。カトリックでもミサの始めに、ミサを与るにふさわしくあるために、心の究明というものを行い、神様やマリア様、諸聖人や天使たちに、自分の心の罪を告白し、みずからの穢れを落とすということをする。神道でも同じである。なにせ精進潔斎がいちばんの特徴と思われるこの信仰では、神様の前にけがらわしい人間はいちゃいけないのである。だから冬の未明でも祭司たる天皇陛下は潔斎なさって、日本中の魔や悪を集め、これを封じ込める儀式みたいなのをなさるそうで、これがどんなに大変なことかは想像もつかない。近代国家の象徴という面と、大祭司の役割を両方担わなくてはならない明治以降の天皇という地位の重さを、現皇太子夫妻が認識しておられないことが大きく問題とされている。

カトリックでは、ミサの1時間前には飲食をしないことになっている。ご聖体をいただくのに、食べ物が胃に残っていてはならないからだ。これも清めの一種だと思う。それから、金曜日は小斎といって肉類を食べないことなんかも神道の菜食と似ている。日本という国は古来瑞穂の国と呼ばれ、水と空気に恵まれた土地だから、日本の神様は農耕と深く結びついている。天皇陛下は農業の守護神でもあるといえそうだ。

一般にあまり報道されないが、天皇家の祭祀というのはものすごくしょっちゅうあるようで、重い軽いの違いはあるにせよ、365日日本国民のことをお祈りくださっているということで間違いない。ここに、戦時中よく使われた「陛下の赤子」という言葉が生まれたのだろうと思う。天皇陛下が日本国民のことを全力で祈ってくださるがゆえに、国民は親を敬うように敬愛するという図式だ。そのお心の発露が、災害があったとき被災地へ駆けつけ、被災者を直接励まされるという行動へつながっていく。日本人は両陛下や皇族方の、優雅で慈悲深い笑顔に接するだけで幸福な気持ちになる。芸能人と違うところは、それが人気稼業だというためではなく、国民のことを本当に心配なさり、身を尽くしておられるというところだ。それには日常の祈りというものがなくては務まらない。

私はあまりまじめに祈らないダメクリだけれども、日常お祈りをしている方、たとえば神父様やシスターの強さというものは、本当に常人には適わないものがある。私の教会では聴罪一筋何十年というおじいちゃんの神父様がおられるが、人間そう長いこと他人の罪の告白なんて聞けたものではない。それを80過ぎの高齢で続けられるのは、完全にみずからを神の道具とみなし、信じている神のお導きのままに一人一人を拾い続けられるためだ。その神父様の不思議な雰囲気は、告解で必ず私を泣かせる。赦しというものがこれほど心に救いをもたらすのかと。その超常パワーの源は祈りである。これに尽きる。

カトリックで司祭が結婚できないのは、家庭を持つとどうしてもそちらが気がかりになり、神様へのおつとめに集中できなくなるためで、そういう意味でも天皇陛下というのは大変だなあと思う。跡継ぎを残すという仕事もその祭祀職のひとつであるからだ。家庭を作って誰に後ろ指さされることもないほど立派に営み、政治的は完全に身を退きつつ、それでいながら変な勢力に利用されないだけの知恵と機を見極める判断力を求められる。その上で祭祀長だ。どうあっても普通の育ちをしていては担える職務ではない。

ところが今の皇太子家では、この「普通」さをもっとも欲しているようで、何かというと「普通の子供と同じ体験を」とおっしゃっては電車体験、レジャー体験を繰り返しながら子育てされているらしい。皇太子殿下のアイデンティティがかなり壊れていらっしゃるのはもう誰の目から見ても明らかだ。最近の雑誌でも、テニスの試合に出られたあと皇太子さまは昼間なのにお酒を飲み始め、侍従が何度諫めてもお聞き入れにならなかったという。もう本当にこのお方じゃだめだという気持ちになってきた。だって、ミサを挙げる司祭が酒びたりだなんて聞いたことがないし、アルコールで鈍った頭では心からの祈りを捧げることなどできない。見えない穢れまでを水で清める神道にあって、お酒の抜けない体など不浄以外の何ものでもないではないか。いくらジョギングやスキーで体を鍛えたって、常人以上のお酒飲みでは本末転倒である。この殿下をお育てするため、どれほど多くの人が心を砕いたか考えられないようではだめである。心は雅子妃と娘の内親王に侵され続け、体はアルコールに蝕まれている。私も仕事を続けてきて一時期アルコールへ逃避していたい心理状態になったから、こういう飲み方をされている殿下は正常な状態とは言えないと思っている。殿下は登山していてもウイスキーを持参されると聞いたが、激しく体を動かした後にアルコールというのは、誰が聞いたってよくないに決まっている。

秋篠宮殿下の喫煙については、紀子さまが監督されているらしいけれど、殿下がテニスアフターのアルコールを昼間からやっておられる最中、雅子妃は学校の同窓会だったとか。記者会見で雅子妃を一貫して庇う方向で話される殿下は、実際夫婦間に溝はないのだろうか。小和田家に骨抜きにされていると言われているが、ご自身が皇太子であるという他に何もない男性だとするならば、妙な平等観や現代感覚を吹き込まれ、それに染まるのは簡単だ。貴族や公家という藩屏を持たず、絶対的不可侵の存在でい続けなければならない現代の皇族のもろさがここに現れているような気がする。

まあ大変なお仕事ではあるけれど、要は何が大事かということを知っていればいいんじゃないかという反面もある。妃殿下も同じように身をわきまえ、ひたすら身を尽くされること。天皇という地位は個人のものでなく、次代にひきつぐべき宝であること。国民と天皇は密接につながったファミリーであること。そういう基本が、やれ外交だの時代に即した新しい公務だのといった考えの下に忘れられている。

小さい頃私は、ミッションスクール育ちだった祖母の影響で、寝る前にお祈りする習慣があった。世界中に、餓えや病気、戦争や火事などで苦しむ人がなくなりますように、みんなが暖かい寝床でいい夢が見られますように、と単純に祈っていた。天皇陛下も、毎日、国民が幸せでいられますように、心を病んだ人や体のきかない人、貧困などで苦しんだりしませんように、と祈っておられるはずである。それを非合理だという感性の持ち主には、とても皇室はつとまらない。せいぜい個人主義能力主義の世界で勝ち抜いていってくださいと思うだけである。そんな人のことをも、天皇陛下はやはり、祈ってくださっているのだけれど。

ブログカトリックせいかつより

非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(四)

西尾幹二先生

 『飢餓陣営』の論文:「三島由紀夫の死と私」を拝読しました。
正直な感想として、三島由紀夫氏の心の襞まで入り込むような、実に精緻にして、三島氏の気持ちになりきって論じられた言葉に思わず唸りました。

 今まで私が読んだ三島由紀夫氏の死を論じる論文中、先生のご文章が最高に光っており、私の気持ちともピッタリでした。宮崎正弘さんもそれを見抜いております。

 文学の深奥とはこのようなものかと直感した次第です。この文章は三島氏の御霊に対する最高の鎮魂になると確信いたします。三島氏が自決したとき、あのなんとも言いようのない空気を今でもはっきり覚えております。そのとき、またそのあと、しばしの間言葉を失ったことを思い起こしました。先生も指摘されておりますが、三島氏の死は、いっさいの言葉を受け付けない重さがありましたが、しばらくしてのち、知識人たちが心ない三島評を論壇で展開
したときのイラダチを感じたこともはっきり覚えております。

 数年くらい前でしたか、『諸君』か『正論』で、知識人数十人が、三島さんの
自決について様々な論評をしていましたが、この先生までもがなぜ?・・・・と思うように、死者に鞭打つような批評も目立ち、私なりに人物の真贋を見定めたものです。

 西尾先生の論文を読んで、「選択」の重みが人生でこれほどまでに重いものかを、あらためて認識しました。

 『WILL5月号』における、皇太子殿下に向けられた御忠言といい、社会
の隅々に渦巻く重苦しくも微妙な国民の想いを、先生が代表して発言してくださったものと受け止めております。

 私が子供のとき、昭和天皇陛下が地方御巡幸の帰路、羽田から第二京浜
国道を陛下の御車を真ん中に、30台ほど黒塗りの車が列をなして我が家
の前を通過しましたが、子供ながらに、御車が近づくにつれて、なんとも荘厳といいますか、畏怖の念をさえ感じさせる雰囲気が大きな大きな塊りとなって
迫り来る神秘的感動を何度も味わい、体験しました。そのときの印象は、今でも頭の中 に残像となってはっきり記憶しております。それはなんとも名状し難い、言葉で表現できないものであり、覚者の悟りもかくの如きものかとも思いました。その体験を久々に味わったのが、昭和天皇崩御における、西八王子での葬列を見送った時の感動体験でした。子供のときに体験した荘厳な雰囲気が蘇りました。

 それ以来、私の意識としては、天皇陛下は「人である、と同時にカミである」「カミである、と同時に人である」という、一即多多即一の存在そのものであります。体験のない人には決して解らない世界でもあります。

 その「カミ」について、一般人もカミそのもの(実相覚で)ですが、そのカミにも区別があることを知らねばならないと思います。上野千鶴子流に言えば、区別も差別として一蹴されますが、彼女にはその入口すら解らないでしょう。かように人間世界は玉石混交そのものの世界ですから、その中で言論活動を展開することは大変なことですね。

 本来それほどに高貴で神聖な御皇室が、皇太子殿下の御成婚以来、神秘性を喪失しつつあることが残念でなりません。原因は先生ご指摘のとおりと思います。同様に、三島さんの自決も、楯の会を単なる「ゴッコ遊び」とみる人には、先生が教えるところの深い意味を理解することはできません。

 ここに学問の有無、深浅だけが、この社会の秘儀(意義)を理解し得るものでないことが解ります。事実、先生の御懇友にさえ、そういう方がおられるのですから。この論文を拝読しまして、西尾先生がただならぬ実相覚を持った思想家であり、文学者であり、あるいはその範疇で括られる学者でないことをあらためて深く感じました。

 以上、先生の論文を拝読しての表層的な感想でした。

浜田 實

非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(三)

西尾氏の三島由起夫論

 @@@@@@@@@@

 「飢餓陣営」33号所収の西尾幹二氏の『三島由紀夫の死と私』(二)を手にとり、一気に通読しました。西尾氏の真摯さ誠実さと三島氏への熱い思いが窺える内容です。

 一昨年12月のチャンネル桜での三島由紀夫氏をめぐる座談会で西尾氏は、『三島由紀夫の死と私』で言及している昭和45年2月号の「新潮」をスタジオに持ち込みカメラにかざして、三島氏が同年5月号臨時増刊の「国文学」での三好行雄氏との対談で、西尾氏の同論を高く評価していたことを初めて明かしました。

 当時、西尾氏の心中で沸き上がった感情が『三島由紀夫の死と私』に流れ込み、結実し、西尾氏ご自身の中でカタを付けたのだと感じました。

 西尾氏は140枚の同論の中に、昭和45年2月号「新潮」に書いた『悲劇人の姿勢』(A)、三島氏の死の直後に書いた昭和46年1月臨時増刊「新潮」の『「死」から見た三島美学』(B)、それに同年2月号「新潮」に掲載された三島論『不自由への情熱』を引用しています。

 (A)の中の「ラディカルな行動に行き詰れば、氏にはいつでも文学にもどればよいという逃げ場があるという意味でもない。そういう風に安直に考えることができないほど、氏が実行の領域ですでにカタルシスを得て仕舞った部分があることの方にむしろ問題があるように思えるのである」の件に思わず唸って仕舞いました。この件は同論の中に繰り替えし引用され現れます。

 西尾氏は「氏が敢えて公認されない極論に自分を追い込んでいく衝動を喝采する読者が一部に発生し」、「氏にそういう読者をも否定しなければならないであろう。ために氏は益々自分をラディカルな限界点に置かなければならなくなる」と予言したことに忸怩とした思いを持っていたことを告白しています。

 西尾氏が引用している「国文学」での三好氏との対談で三島氏が以下のように語っていて心が動かされました。
「悲劇というものは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、自分に負わされたもの、そういうものを全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。・・・ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、ぎりぎりにしぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。・・・そういうもの(必然性と不可避性)がぼくにとっては、ロマンティックな構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に向かって突進するのですよね。 そういう人間だけが美しくて、わき見をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです」

 「文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも逃げていなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように。それでも追っかけてくるのが、ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。・・・ぼくの場合は、できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それば、ぼくの文学です。その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。 二十四時間、文学に囲まれていたら、堕落の一路があるだけです。」

 西尾氏はまことに正直かつ率直に当時と今の心境を次のように綴っています。
 「私は三島さんの自決を当時まったく予想していませんでした。けれども不安は抱いていたに違いありません。それでいて私はいくらか面白がっているのでした。何という心ないことをしたのだろう、と、今は後悔しています。若い新人評論家の片言隻句になにほどの意味もなかったことはたしかでしょう。ただしある特殊な心理的条件下にあった作家が、たとえ若輩批評家の言であろうと、その表現に説得されていた場合には事情は異なり、深刻さを意味します。作家三島由紀夫の自決数か月前に、悲劇を予感させる作家と若い批評家の言葉は交叉し、どこか響きを同じくし合って、不気味に反響し合っていたのでした。」

 西尾氏は、同論ではじめて三島氏の自決の同時刻にどこでどうこの事件に接していたかを38年経った今明かしています。

 「昭和45年11月25日を迎えたとき、当時私は静岡大学の専任講師でしたが、任地ではなく、東京の親の家にいました。あのニュースはテレビで見たのです。テレビは茶の間にあり、私は玄関口の電話器にとりかかっていました。そこから画面が見え、バルコニーに立つ三島さんの姿が目に入りました。私は立っていた膝ががくがくと震えました。なぜ震えたのか、なぜあれほどの衝撃を受けたのか、今になってもよく分かりません。」

「分かりません」と述べながら、西尾氏は自身の心理を怜悧に仮借なく分析します。

 「三島さんの自殺に直面したとき、私が身体に震えがくるほど衝撃を受けたのは、三島さんと時代への怒りを共にしていると秘かに自惚れていたことと関係があります。私は、自分が問われている、と直感したからです。三島由紀夫は知識人たちに向い、お前たちに出来るか、お前たちはこれまで言ってきたことをなぜ実行しないのか、と言っているようにまっすぐに聞こえたのです。だから彼の個人的な芸術上の問題や、生理的、心理的な人間性の問題、といったことはすぐに思い浮かばず、政治的に私は私自身が問責されたと理解した次第でした。三島さんの自決は私に矢のように突き刺さり、お前の怒りなんか偽物だよ、と叱られたような気がしたのでした。恐ろしさを感じたいちばん大きな原因がそれであったと思います。」

 単行本未収録の(B)は三島氏の自決後わずか一週間で書かれました。西尾氏はその中で次のように述べています。
「二十世紀に入って以来、実はもう政治思想というようなものは存在していないのではないか。政治が必要とするものは、つねに一片の政策論でしかないのではないか。現実効果をもたらさないような思想は、現代の政治にあってはもはや無にひとしく、従って現実を動かすことが可能になれば、思想などはあってもなくてもよいのだ。ある思想が歴史を動かせば、現実の内容が変質しようがしまいが、動かされた歴史の方に実体がある。そして、歴史がこの盲点の意志に動かされたときにしか、実は個人が政治に触れるということもないであろう。考えてみれば、これは恐るべき事柄である。ひとびとは政治と文学の関係をくりかえし論じているが、個人は今日、完全に受け身である。われわれはいかなる『体制』も信じないが、『体制』に規定され、拘束されている部分の自分が存在することを信じないわけにはいかない。いかにしてこの部分を主体的に突破し、生命感を自分に取りもどすか、『文学』が『政治』に出会うのはその瞬間である。」

 これは西尾氏自身が三島氏の自決2年前の昭和43年9月号の「文学界」の記述を(B)で引用したものです。
西尾氏は三島氏の自決に接して、この自著の件を思い出して、「とうとう三島氏はこれを実行してしまったのか、という切実な、言いようもない思いに襲われ」たのです。
西尾氏はこれを思い返して、憶測と言いながら次のようにきりきりと分析しています。

 「ついに歴史が盲点の意志に動かされることなく、平穏無事な時代が到来すれば、私が書いているような懐疑はむしろ逆転して、三島氏自身に向けられることになるほかないのである。もとより私の文章が氏に影響を与えたことなどあり得ないが、ただ論理的にきわめて鋭敏な氏はこうした論理を自分で自分に差し向けなければならなかっただろう。そういう憶測を言いたいために以上を引用してみた。そこで演じられた内面のドラマは多分凄絶で、否定がさらに否定を呼び、ついに自己否定は不可能の方向へじりじりと近づいていったものに違いない」

 西尾氏の“憶測”と謙遜したこの件の中に、三島氏ののたうつ情念が深淵のマグマのように暗い地底で赤い舌をベロっと出しているのを覘かされたようでゾッとします。

 西尾氏は(C)で『豊饒の海』の破綻を次のように説いています。
「なにもかもがわからなくなり、自分というものがどこへ連れていかれるのかわからなくなり、明日のことさえわからない日本の危機を予期していた三島氏は、未来へのその不明のただ中で第四巻を書き進めたいと思っていた。いいかえれば、歴史の直中で、氏は盲目的になる瞬間を待った。それこそが氏が久しく待望していた、行為と文学の事実上の自然の出会い、氏の長編小説に久しく欠けている不透明ななにか、生の無目的性、盲目性に流されつつ、偶然のつみ重ねによって成り立つ人生の形、そういうものこそ氏が自分の文章にもっとも不足し、もっとも必要と感じていたものだ。だからもし、氏の希望通り、政治上の危機が氏の文学に幸いしていたなら、あの月修寺の何もかもがわからなくなる最終のシーンは、恐らく真に切実さを帯びた、真の感動をもたらす場面となったであろう。・・・

 最終稿を氏は八月に書いている。そのとき氏は自分自身がかわらなくなくなったのではなく、わからなくなる状況がついに来ず、日本の平穏無事な状況がもはや自分の文学を支えるなにものにもなりそうもないとわかって、言いかえれば、すべてわかって仕舞ったために絶望し、作品のなかにただ予定して置いた結末を筋書き通りに書きこんだにすぎぬのではないだろうか。あの結末が再読に耐えるほどの切実さがなく、『天人五衰』全体がただひたすら暗く、沈んで、活性を失っているのはそのせいだろう。氏は文学を決然と捨てるというあの自由をついに選択したのである」

 西尾氏がいう「あの自由」とは三島氏の『小説とは何か』で述べている「自由」で、(C)で次のように説いています。
「三島氏自身『暁の寺』の失敗を知っているかのような苦々しさをこめて、この作が終った直後、「私は実に不快だった」と正直に告白している。文学という現実と社会という現実、この「二種の現実の対立・緊張にのみ創作衝動の泉を見出す」ことが自分の作家的原理であって、書くということは「私が二種の現実のいずれかを、いついかなる時点においても、決然と選択しうるという自由である。」「選択とは、簡単に言えば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、ということであり、その際どい選択の留保においてのみ私は書き続けているのであ」る。それが「一瞬一瞬自分の自由の根拠を確認する行為に他ならない。」(小説とは何か・十一同)」

(C)で西尾氏は次のように断言しています。
「ラディカリストはたった一人を除いて、近い他のすべての人を最も激しく否定するものなのです。森田必勝を除いて、三島さんはすべての理解者、すべての共感者、すべての友人を葬り去って死んだのです。勿論、「文学の宿命」で理解者のように振舞った私をも否定していました。理解者は生への意志のつづく限りの同伴者にすぎません。ほんとうの同伴者は森田必勝しかいなかったのです。無名の音楽家ペーター・ガスト以外にたった一人の同伴者もいなくなった最晩年のニーチェを考えれば、ラディカリストの心理メカニズムははっきりしています。」

 西尾氏は(B)と(C)を次のように位置づけます。
「私の(B)と(C)の二つの三島論は早くもそのような文明論の新しい潮流(当時の世界史の地殻変動の中での思想状況の昏迷)の方向に言及していました。文学論でも政治論でも、そのどちらでも解けない、三島さんによって身をもって提出された現代の人間の生き方の革新性についてです。当然ながら二つの論文に文壇の反響はありませんでした。私の周りにいた保守系の文化人や教養人は誰も拙論を論評しませんでした。」
 
 しかし共感者がいたのです。
「日本会議の大磯シンポジウムの帰りに、名だたる保守系文化人が誰いうとなく「三島論はたくさん出たけれど誰が一番見抜いていたかなァ」というと、芳賀徹さんが「そりゃ西尾さんだなァ」と仰有りました。これは好意的なお言葉でした。

 もうひとり渋澤龍彦氏も西尾氏の論に熱い賛意を表していました。
「ずい分な人が三島論を書きましたが、このことをはっきり問題の焦点として見据えた人は、ぼくの知っている限りでは、西尾幹二さんだけだったようです。この人は三島文学の愛好者でもないし、まことに穏健な思想の持主らしいんですけれども、ふしぎなこともあればあるもので、すくなくとも問題の核心をつかんでいましたね。ぼくは敬服したおぼえがあります。」(日本読書新聞昭和46年12月20日)

 当時近しくはなかった桶谷秀昭氏とは、『三田文学』で「戦後三十年と三島由紀夫」のテーマで対談して心を通わせ親しくなったと、その経緯が掉尾に記されています。
西尾氏の内奥の中で堅く封印されていた「三島事件」、その封印が40年近い時を経て突然解かれたのは、地底の暗闇で赫々としている三島氏のマグマのような超熱の情念が西尾氏に感知され、それが西尾氏を揺り動かしたからでしょうか。まことに興味深い「飢餓陣営」に掲載された『三島由紀夫の死と私』(二)です。
    
西法太郎
  

非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(二)

 『三島由紀夫の死と私』は題名を見ても分る通り、10年前までの私には出せない企画である。相当に思い切った企画なのに、あっさりとやる気になったのは、珍しい雑誌からの誘いだったせいだけでなく、やはり終焉に近い当方の自己認識のせいである。

 もうここまで来たら全部語って置こう、そう思った。本来は秘話に属することを筋道立てて明らかにしようと考えて取り掛かったのは、どうせ自分も死を迎えるのだから今のうちに全部言っておこうと簡単に決心した。恥も見栄もてらいもないのである。

 普通の商業雑誌はこういう仕事を絶対にさせない。誘ってもこない。だいたい企画を思いつかない。佐藤幹夫さんのような稀有な演出家がいなかったら実現しなかっただろう。佐藤さんには思い切ったことをさせていたゞけたことに感謝している。

 出版に漕ぎつけるにはあと50枚加筆する必要があり、2-3ヶ月はかゝるだろう。

 どこからも当分の間反響はないと思っていたら、三人の若い知友から論評をいただいた。到着順に掲げる。渡辺望さんと浜田實さんからは私信であり、西法太郎さんは他のメルマガへの投稿である。

拝啓

 先生の三島由紀夫論の第二部を拝読いたしました。何度も何度も読みかえして、いろんな感想が湧きました。

 文章内での先生の表現をお借りすれば、私こそ、膝が激しくがくがくしてくるのを感じました。先生と三島さんの間の精神・言葉の緊張したやり取りに対して、です。ラディカリズムとニヒリズム、自由と不自由、芸術と生活についての三島さんの世界と先生の分析のやりとりが、あまりにも本質的であって、三島さんの在り方から自己をまもる、という先生のお言葉は、三島さんと先生とのギリギリのやり取りから自分をどうやってまもるのか、という問題でもあるように思われたからです。

 三好さんと三島さんの対談は寡聞にして知りませんでした。実に重要な資料だと思います。死の直前に古林尚さんと三島さんが対談しているのは読んだおぼえがありますが、三島さんのような作家は、三好さんや古林さんのように、聞き役に徹する学者の前での方がむしろ、本音をたくさん話されるのではないでしょうか。

 江藤さんへの西尾先生の批判は強烈です。しかし、実に正しいです。江藤さんという人は、先生が言われるように時代認識として三島さんと共有するものがあると同時に、「成熟と喪失」そして「一族再会」最後は「妻と私」へと、一貫して生々しい、丸裸の自分を提示し続け、作家・物書きとして何が単純に大切かということを知っていた人ですね。それが三島さんを揶揄したのは、先生が言われるような理由でしか説明できないですね。

 江藤さんは文壇ジャーナリスト・論壇ジャーナリスト、そして文壇政治家・論壇政治家という仮面を、強烈に有していたのでしょう。三島さんが文学を捨てるという自由を選択したのなら、江藤さんは、その仮面を最後に脱ぎ捨てて、自殺にいたった、というような表現があてはまるのかもしれません。

 村松さんのことに触れて、三島さんが森田必勝以外のすべての周囲の人間を葬り去ったのだ、という先生の言葉のすさまじい正確さへの感銘は、私にとって愕然とするくらいのものでした。作家の精神の孤独というものを信じないのか、いう小林秀雄のあの一見すると傍観者ふうの言葉が、その感銘とともに、意外な存在感をもって私には感じられました。葬り去られた私達がどう生きればよいのか、小林秀雄の態度にもしかしたらせめてもの解答があるのかもしれないなあ、と思ったからです。

 文章の終わりからすると、西尾先生はこの三島さんについての文章群を、本にされないようなニュアンスですが、私としては、是非、本にしていただきたいと思います。これほどの激しい精神のやり取りが静かに閉じられてしまうのは、もったいないということももちろんですけれど、何かとても怖い気がしてきます。
 
 本当にすばらしい論考をありがとうございました。感謝の言葉も見あたらないくらい、嬉しさでいっぱいでございます。

 ここ数日は寒くて私などやや風邪気味ですが、先生におかれましてはくれぐれもご自愛くださり、執筆に励んでくださいませ。

                                     渡辺望

非公開:私のうけた戦後教育(四)

続・民主教育の矛盾と欠陥

 知育偏重とよく言われるが、けっしてそういう事実はないのである。これは大学だけではない。中学や高校の教科内容においても大学と同様、知識の過剰が教育を歪めているのではなく、制度や組織、あるいは方法や動機の方に問題があるのである。

 六三三制の採用は12才から18才までを二分し、二度の受験によって生活から落ち着きや持続性を奪うという弊害があり、そしてこれは事実なのだが、受験のための詰め込み勉強そのことが悪いのではない。試験の内容や方法がいかにも悪い。私自身の経験からも言えることだが、○×式・穴うめ式試験方法は、大量の受験生をさばくために公平を期すという機能面にとらわれすぎて、大事なことが見失われているように思える。

 自分の言葉で自分の思考を発展させて行く前に、他人の言葉で自分の思考が規定されてしまうのである。しまいには他人の言葉がなければ思考できず、他人の言葉を符牒のように受けとって一定の条件反射を繰返す型の知能を生み出す。競争が激化すればするほど試験の《形式》に自己を適応させて行くのが受験生の習性である。

 今日行なわれている試験は、思考能力を問うているというより、その適応能力を問うているといった方が正しい。問題を正直に考え過ぎる人間はかえって損をする。果たしてどの程度のことが問われているのか、などと予め出題の動機まで見抜いてかからなければ答えられないような問題さえなかにはある。

 こうした出題がなされているかぎり試験競争はたしかに有害であるし、これはぜひとも至急改めてもらわなければならない。最大の教育問題の一つなのである。しかし、競争そのことが有害なのではけっしてない。これはいくら激化しても憂うる心配はなに一つない。一部の民主教育理論家が言うように、試験によって人間の能力を判定している社会の価値観は人格に差をつけようとする思想の反映である、などという理屈は成立たない。

 逆に民主主義がすすみ、既成の価値観が壊滅し、人間が平均化すればするほど、エリート養成法として最も安易で人工的な「試験」への要求度は高まるだろう。どんな社会にもエリートは存在するし、また必要とされる。問題は、教育の機会均等という美名の下に戦後20年正しいエリート教育の在り方が一度も真剣に討議されなかったことの方にある。エリート教育とは、精神の貴族主義を養成することであって、権力への階段を約束することではない。

 知識習得への情熱は、本来無償の情熱である。それは真理への情熱だと言ってもいい。権力への情熱でもないし、世に言う教養のためでもない。が、今日ほどこういう言葉が迂遠に響く時代もないだろう。今日夥しい数の受験生を支えている衝動は一体何か。知識欲だとはお世辞にも言えまい。快適な生活、安全な身分保証、適度の権力欲――要するに自己逃避へ欲求以外の何物でもない。しかもこの逃避に負けず自己と戦う受験という試練に耐え抜かねばならないのである。これは明かに矛盾である。

 一年乃至数年の熾烈な禁欲に耐える予備校の浪人達こそ、教育とは自己教育であるという教育精神の真諦をいわば体得した人達であり、現代日本で教育を受ける苦しみとそして喜びとを知り得た数少ない例外者達だが、奇怪なことに、彼らの教育へ真の情熱は、将来の生活保証という、まことに見窄らしい思想によってしか支えられていないのである。かつて維新の開国期に「緒方塾」に参集した福沢諭吉ら青年壮士を支えたような情熱はむろんどこにもない。逃避のあるところにしか教育がない――これが戦後教育の反語的現実である。

 好むと好まざるとにかかわらず、これは私達の現実である。そうはっきり認めたうえで、私はすべてを善しとするつもりはない。これが事実であることをどこまでも誤魔化さずに見抜いておくことが現代の教育論議の前提だというのである。私はそう悟った上ですべてを悪とみる。受験生に理想がないからではない。今日の日本に、あるいは近代文明そのもののなかに、どんな理想も存在しないし、存在したところで、それは結局作り物の合言葉で終るしかないように思えるからである。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく