西尾氏の三島由起夫論
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「飢餓陣営」33号所収の西尾幹二氏の『三島由紀夫の死と私』(二)を手にとり、一気に通読しました。西尾氏の真摯さ誠実さと三島氏への熱い思いが窺える内容です。
一昨年12月のチャンネル桜での三島由紀夫氏をめぐる座談会で西尾氏は、『三島由紀夫の死と私』で言及している昭和45年2月号の「新潮」をスタジオに持ち込みカメラにかざして、三島氏が同年5月号臨時増刊の「国文学」での三好行雄氏との対談で、西尾氏の同論を高く評価していたことを初めて明かしました。
当時、西尾氏の心中で沸き上がった感情が『三島由紀夫の死と私』に流れ込み、結実し、西尾氏ご自身の中でカタを付けたのだと感じました。
西尾氏は140枚の同論の中に、昭和45年2月号「新潮」に書いた『悲劇人の姿勢』(A)、三島氏の死の直後に書いた昭和46年1月臨時増刊「新潮」の『「死」から見た三島美学』(B)、それに同年2月号「新潮」に掲載された三島論『不自由への情熱』を引用しています。
(A)の中の「ラディカルな行動に行き詰れば、氏にはいつでも文学にもどればよいという逃げ場があるという意味でもない。そういう風に安直に考えることができないほど、氏が実行の領域ですでにカタルシスを得て仕舞った部分があることの方にむしろ問題があるように思えるのである」の件に思わず唸って仕舞いました。この件は同論の中に繰り替えし引用され現れます。
西尾氏は「氏が敢えて公認されない極論に自分を追い込んでいく衝動を喝采する読者が一部に発生し」、「氏にそういう読者をも否定しなければならないであろう。ために氏は益々自分をラディカルな限界点に置かなければならなくなる」と予言したことに忸怩とした思いを持っていたことを告白しています。
西尾氏が引用している「国文学」での三好氏との対談で三島氏が以下のように語っていて心が動かされました。
「悲劇というものは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、自分に負わされたもの、そういうものを全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。・・・ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、ぎりぎりにしぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。・・・そういうもの(必然性と不可避性)がぼくにとっては、ロマンティックな構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に向かって突進するのですよね。 そういう人間だけが美しくて、わき見をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです」
「文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも逃げていなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように。それでも追っかけてくるのが、ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。・・・ぼくの場合は、できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それば、ぼくの文学です。その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。 二十四時間、文学に囲まれていたら、堕落の一路があるだけです。」
西尾氏はまことに正直かつ率直に当時と今の心境を次のように綴っています。
「私は三島さんの自決を当時まったく予想していませんでした。けれども不安は抱いていたに違いありません。それでいて私はいくらか面白がっているのでした。何という心ないことをしたのだろう、と、今は後悔しています。若い新人評論家の片言隻句になにほどの意味もなかったことはたしかでしょう。ただしある特殊な心理的条件下にあった作家が、たとえ若輩批評家の言であろうと、その表現に説得されていた場合には事情は異なり、深刻さを意味します。作家三島由紀夫の自決数か月前に、悲劇を予感させる作家と若い批評家の言葉は交叉し、どこか響きを同じくし合って、不気味に反響し合っていたのでした。」
西尾氏は、同論ではじめて三島氏の自決の同時刻にどこでどうこの事件に接していたかを38年経った今明かしています。
「昭和45年11月25日を迎えたとき、当時私は静岡大学の専任講師でしたが、任地ではなく、東京の親の家にいました。あのニュースはテレビで見たのです。テレビは茶の間にあり、私は玄関口の電話器にとりかかっていました。そこから画面が見え、バルコニーに立つ三島さんの姿が目に入りました。私は立っていた膝ががくがくと震えました。なぜ震えたのか、なぜあれほどの衝撃を受けたのか、今になってもよく分かりません。」
「分かりません」と述べながら、西尾氏は自身の心理を怜悧に仮借なく分析します。
「三島さんの自殺に直面したとき、私が身体に震えがくるほど衝撃を受けたのは、三島さんと時代への怒りを共にしていると秘かに自惚れていたことと関係があります。私は、自分が問われている、と直感したからです。三島由紀夫は知識人たちに向い、お前たちに出来るか、お前たちはこれまで言ってきたことをなぜ実行しないのか、と言っているようにまっすぐに聞こえたのです。だから彼の個人的な芸術上の問題や、生理的、心理的な人間性の問題、といったことはすぐに思い浮かばず、政治的に私は私自身が問責されたと理解した次第でした。三島さんの自決は私に矢のように突き刺さり、お前の怒りなんか偽物だよ、と叱られたような気がしたのでした。恐ろしさを感じたいちばん大きな原因がそれであったと思います。」
単行本未収録の(B)は三島氏の自決後わずか一週間で書かれました。西尾氏はその中で次のように述べています。
「二十世紀に入って以来、実はもう政治思想というようなものは存在していないのではないか。政治が必要とするものは、つねに一片の政策論でしかないのではないか。現実効果をもたらさないような思想は、現代の政治にあってはもはや無にひとしく、従って現実を動かすことが可能になれば、思想などはあってもなくてもよいのだ。ある思想が歴史を動かせば、現実の内容が変質しようがしまいが、動かされた歴史の方に実体がある。そして、歴史がこの盲点の意志に動かされたときにしか、実は個人が政治に触れるということもないであろう。考えてみれば、これは恐るべき事柄である。ひとびとは政治と文学の関係をくりかえし論じているが、個人は今日、完全に受け身である。われわれはいかなる『体制』も信じないが、『体制』に規定され、拘束されている部分の自分が存在することを信じないわけにはいかない。いかにしてこの部分を主体的に突破し、生命感を自分に取りもどすか、『文学』が『政治』に出会うのはその瞬間である。」
これは西尾氏自身が三島氏の自決2年前の昭和43年9月号の「文学界」の記述を(B)で引用したものです。
西尾氏は三島氏の自決に接して、この自著の件を思い出して、「とうとう三島氏はこれを実行してしまったのか、という切実な、言いようもない思いに襲われ」たのです。
西尾氏はこれを思い返して、憶測と言いながら次のようにきりきりと分析しています。
「ついに歴史が盲点の意志に動かされることなく、平穏無事な時代が到来すれば、私が書いているような懐疑はむしろ逆転して、三島氏自身に向けられることになるほかないのである。もとより私の文章が氏に影響を与えたことなどあり得ないが、ただ論理的にきわめて鋭敏な氏はこうした論理を自分で自分に差し向けなければならなかっただろう。そういう憶測を言いたいために以上を引用してみた。そこで演じられた内面のドラマは多分凄絶で、否定がさらに否定を呼び、ついに自己否定は不可能の方向へじりじりと近づいていったものに違いない」
西尾氏の“憶測”と謙遜したこの件の中に、三島氏ののたうつ情念が深淵のマグマのように暗い地底で赤い舌をベロっと出しているのを覘かされたようでゾッとします。
西尾氏は(C)で『豊饒の海』の破綻を次のように説いています。
「なにもかもがわからなくなり、自分というものがどこへ連れていかれるのかわからなくなり、明日のことさえわからない日本の危機を予期していた三島氏は、未来へのその不明のただ中で第四巻を書き進めたいと思っていた。いいかえれば、歴史の直中で、氏は盲目的になる瞬間を待った。それこそが氏が久しく待望していた、行為と文学の事実上の自然の出会い、氏の長編小説に久しく欠けている不透明ななにか、生の無目的性、盲目性に流されつつ、偶然のつみ重ねによって成り立つ人生の形、そういうものこそ氏が自分の文章にもっとも不足し、もっとも必要と感じていたものだ。だからもし、氏の希望通り、政治上の危機が氏の文学に幸いしていたなら、あの月修寺の何もかもがわからなくなる最終のシーンは、恐らく真に切実さを帯びた、真の感動をもたらす場面となったであろう。・・・
最終稿を氏は八月に書いている。そのとき氏は自分自身がかわらなくなくなったのではなく、わからなくなる状況がついに来ず、日本の平穏無事な状況がもはや自分の文学を支えるなにものにもなりそうもないとわかって、言いかえれば、すべてわかって仕舞ったために絶望し、作品のなかにただ予定して置いた結末を筋書き通りに書きこんだにすぎぬのではないだろうか。あの結末が再読に耐えるほどの切実さがなく、『天人五衰』全体がただひたすら暗く、沈んで、活性を失っているのはそのせいだろう。氏は文学を決然と捨てるというあの自由をついに選択したのである」
西尾氏がいう「あの自由」とは三島氏の『小説とは何か』で述べている「自由」で、(C)で次のように説いています。
「三島氏自身『暁の寺』の失敗を知っているかのような苦々しさをこめて、この作が終った直後、「私は実に不快だった」と正直に告白している。文学という現実と社会という現実、この「二種の現実の対立・緊張にのみ創作衝動の泉を見出す」ことが自分の作家的原理であって、書くということは「私が二種の現実のいずれかを、いついかなる時点においても、決然と選択しうるという自由である。」「選択とは、簡単に言えば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、ということであり、その際どい選択の留保においてのみ私は書き続けているのであ」る。それが「一瞬一瞬自分の自由の根拠を確認する行為に他ならない。」(小説とは何か・十一同)」
(C)で西尾氏は次のように断言しています。
「ラディカリストはたった一人を除いて、近い他のすべての人を最も激しく否定するものなのです。森田必勝を除いて、三島さんはすべての理解者、すべての共感者、すべての友人を葬り去って死んだのです。勿論、「文学の宿命」で理解者のように振舞った私をも否定していました。理解者は生への意志のつづく限りの同伴者にすぎません。ほんとうの同伴者は森田必勝しかいなかったのです。無名の音楽家ペーター・ガスト以外にたった一人の同伴者もいなくなった最晩年のニーチェを考えれば、ラディカリストの心理メカニズムははっきりしています。」
西尾氏は(B)と(C)を次のように位置づけます。
「私の(B)と(C)の二つの三島論は早くもそのような文明論の新しい潮流(当時の世界史の地殻変動の中での思想状況の昏迷)の方向に言及していました。文学論でも政治論でも、そのどちらでも解けない、三島さんによって身をもって提出された現代の人間の生き方の革新性についてです。当然ながら二つの論文に文壇の反響はありませんでした。私の周りにいた保守系の文化人や教養人は誰も拙論を論評しませんでした。」
しかし共感者がいたのです。
「日本会議の大磯シンポジウムの帰りに、名だたる保守系文化人が誰いうとなく「三島論はたくさん出たけれど誰が一番見抜いていたかなァ」というと、芳賀徹さんが「そりゃ西尾さんだなァ」と仰有りました。これは好意的なお言葉でした。
もうひとり渋澤龍彦氏も西尾氏の論に熱い賛意を表していました。
「ずい分な人が三島論を書きましたが、このことをはっきり問題の焦点として見据えた人は、ぼくの知っている限りでは、西尾幹二さんだけだったようです。この人は三島文学の愛好者でもないし、まことに穏健な思想の持主らしいんですけれども、ふしぎなこともあればあるもので、すくなくとも問題の核心をつかんでいましたね。ぼくは敬服したおぼえがあります。」(日本読書新聞昭和46年12月20日)
当時近しくはなかった桶谷秀昭氏とは、『三田文学』で「戦後三十年と三島由紀夫」のテーマで対談して心を通わせ親しくなったと、その経緯が掉尾に記されています。
西尾氏の内奥の中で堅く封印されていた「三島事件」、その封印が40年近い時を経て突然解かれたのは、地底の暗闇で赫々としている三島氏のマグマのような超熱の情念が西尾氏に感知され、それが西尾氏を揺り動かしたからでしょうか。まことに興味深い「飢餓陣営」に掲載された『三島由紀夫の死と私』(二)です。
西法太郎