いただいたコメントの中でもう一つだけ面白いご文章があったのでご紹介する。苹さんは書道家で、「日録」がコメント欄を開いていた当時ユニークなご文章、国語と言語文化に敏感なご文章をたくさん寄せて下さり、私は大いに啓発されたものだった。今度も読んで面白く、ハラハラさせられる内容である。
題:見てるかな
苹(余談)
「書」とは何か、と問われたら困るが、「書」の本質は何か、と問われるならどうにかなる。全体を丸ごと描き出す必要はなく、本質だけ~すなわち「書く事だ」と答えるだけでよいからだ。~なぜ書くのか。「読む」または「読まれる」ために書く。つまり「書く」には「読む」が内在する。ところが一方では「読む」を度外視した書き方も成り立つ。しかしそれとて結局は「書く」本人独自の読み方で書いただけの事に過ぎず、雑駁には或る意味「他人に読めないだけ」のエニグマ(謎)とも云える。…借問しよう。作曲家が意図した通りに、我々はエルガーのエニグマ変奏曲を聴けるのかね。にもかかわらず我々は我々の仕方で曲に近付こうとする。聴き手が書き手に近付こうとする様に「スコアを読み」「演奏を聴く」。それと似通った読み方が存在する。
「書く様に読む」行為と「読む様に書く」行為との循環と接近、そしてそれらの限界が「書」の本質に相当する。「書く側と読む側の一致」を仮構しても実際そうならないがゆえに、本質それ自体が両者の相反する仮構性を牽引するからだ。言い換えるなら、本質は両者にとって「中心」であらねばならない。その渦に巻き込まれた両者~「書き手」や「読み手」はどちらも本質を牽引しているのではなく、本質に牽引されている(或いは「牽引」の箇所に「所有」とか「獲得」の語を用いた場合のニュアンスを交えてもよい)。
しかしこれを“「書」とは何か”の側から見れば、多分「本質らしからぬ答え」と映るだろう。そこには「手段としての巧拙」や「副産物としての滋味・風流」を「目的であるかの様に」転倒させた見方が絡む。目的と本質を取り違えるからそうなる。目的を適宜(都合や流行に応じて?)設定すれば、それに見合った優劣評価がごく当たり前の様に可能となるだろう。差詰め「ウマイ字を書いた本人が自分の字を読めない」ケースなんか、本質そっちのけで好成績という目的に満足するのではないか。
そう云や教員時代の同僚に、本質を教える事にあからさまな拒否反応を示した商業科教員が居たっけ。(この件については支援板で詳しく考察する予定。)(本題)
今日、『WiLL』五月号を買ってきた。目当ては「日録」で知った西尾先生の「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」稿。…ウマイ事を書いている。「能力主義の行き着く果ては不毛なんです。だけどついに能力主義は皇室にまで入ってしまったんですよ、こんど」(P.32)と書いたのが十五年前。それを今回、またまた時間をかけて煮詰めている訳だ。先生は「雅子妃仮病説」について、「インターネットを見ているとうねりをなすような国民の裏声がそれだということを、知らない人のために申し添えておきたい」と書いている(P.37)。ここも見てるかな~(わくわく)。所謂「皇室外交」云々の話題では、「もしそれを外交官のご父君が予め教えていないのだとしたら、小和田氏の罪である」との記述も四年前に出してあったそうな(P.36)。どちらの旧稿も教育問題と密接に絡む。それを書道に見立てれば上記の通り。
書かれたものは破棄されても、書く行為の方は「書」の本質をめぐる諸々の手段に則って書き継がれてきた。…皇室の方はどうだろうか。西尾先生は「滅びるものはどんなに守ろうとしても滅びる。滅びないものは滅びに任せても蘇生する」(P.36)と再録するが、今の時点で読むと表現の大胆さに驚かされるばかり(それだけ事態は深刻って事か)。