ゲストエッセイ
坦々塾会員 浅野正美
三菱自動車の燃費改竄が発覚した。同様の不祥事としては、ドイツのフォルクスワーゲン(VW)が排ガス規制をクリアするために、実験に不正な操作を施して、正確でないデータを提出していた事例がある。そのとき、溜飲を下げる思いをした日本人は決して少なくなかったのではないかと思う。今でも一部の富裕層にとって、外車に乗るということはステイタスのようだ。もちろんそれは本人にとってというだけで、そんなことに一片の価値も見出さない日本人の方が圧倒的に多いだろう。VWは決して高級車メーカーではないが、同等の国産車と較べれば高い価格設定になっている。それでも乗りたいという人が少なからずいるということを、純粋な経済学の合理性モデルからは説明できないが、人間の行動や意志決定には、経済学の教科書が説明するような、完璧な合理主義に基づくモデルなど存在しないのだ。日本人は、ドイツとドイツ製品に対して拡大鏡で見てしまうという癖がある。私が職業上扱っているカメラを例にとれば、ライカと国産の同等スペックとの製品価格差は、5倍から10倍である(*注)。断言してもいいが、その価格差に見合うだけの性能上の優劣はなく、出来上がった写真の出来上がりに関してもまったく差はない。自動車に関して私は何一つ興味もないが、ドイツ製品と日本製品における、実体を伴わない価格差についてはカメラと似たようなものではないかと思う。だからこそ、日本人のドイツ(製品)崇拝に対する冷めた見方も多分に存在するはずだ。そういう人たちにとって、先のVWによる不正事件には、喝采を送りたくなるというねじれた感情も沸き上がったのではないかと思うのである。
ほとんどの日本人は、自国の工業製品に絶大な信頼を寄せている。だから、そういう人たちは反射的に、不正を働かなくては市場のシェアを獲得できない惨めなドイツと、優秀で価格競争力もある日本という構図が鮮やかに浮かび上がり、内心ではほくそ笑んだのではないかと思う。
多少業界の内部を知るものとして、カメラのことをもう少し詳しく書いてみたいと思う。現在まで、工業大国も新興国もどうしても追いつけない特殊な工業製品の一つがカメラなのである。カメラを発明したのは、ドイツ人ではなくて実はフランス人である。1839年にルイジャック・アンデ・ダゲールがダゲレオタイプの銀板写真機を発明したのが写真機の始まりである。カメラの歴史もまだ200年に満たない。なにによらず、新しいテクノロジーが登場したときの例に漏れず、これを批判する人達はいつの時代にもいる。ドイツのライプツィガー・フォルクスツアイトウング紙に掲載された次の記事には、そんな当時の雰囲気がよく現れている。
「つかの間の映像を捉えたいという望みは、単に叶わないだけでなく・・・・・それを願い、そうしようと考えるだけでも神を冒涜する行いである。神はご自分の姿に似せて人間を作られたのであり、人間の手になるいかなる機械も、神の姿を捉えることがあってはならない。永遠たるべき根本法則を神がお捨てになり、一介のフランス人をして世界中に悪魔の発明を提供せしめるなどということがあってよいものだろうか?」
今でこそドイツは、カメラの母国のように装い、世界もそれを信じているが、それは虚構なのだ。さて、ドイツのカメラが世界を席巻したのは、1913(大正2年)年に発売されたウルライカ(Ur Leica 「Urは古い・元祖」)と、1954(昭和29年)に発売されたM3によるところが大きい。ところがM3から5年後の昭和34年にニコンが発売した一眼レフカメラニコンFによって、業界の勢力地図は一気に塗り変わる。これ以降、報道や創造の分野で使われるカメラは、そのほとんどが一眼レフとなり、その後も半世紀にわたってその情況に変化はない。ニコンF以降、高級カメラの代名詞でもある一眼レフは、日本がほとんど世界で唯一の原産国であり続けているのである。
ここまでは前置きである。実は、冒頭の三菱の例は氷山の一角ではないかと思ったのである。私も40年近く会社員生活を続けてきたが、最近の風潮として、明らかに仕事に対する姿勢に変化が生じているのではないかと感じている。こんなことをしていたら、世界が賞賛する「日本品質」などあっという間に溶けてなくなってしまうのではないかと。
昨今ブラック企業という言葉がマスコミを賑わした。確かに報じられた居酒屋チェーンの勤務実態は、人を人とも思わない残酷なものだった。多分創業社長は、会社を軌道に乗せるまでは、それこそ寝食を忘れて、必死で働いたことだろう。自分がやってきたことなのだから、他人にもできないことはないという思い込みもあったと思う。だが、心身の健康を害し、従業員を自殺にまで追い込むような労働の強制はもちろん論外である。私が感じている違和感は、そういった極端な事例ではない。いま我が国で見られる風潮とは、社会全体が何となく物わかりが良くなり、真綿でくるまれてぬくぬくとしていられることこそが幸福であるかのような甘やかしではないだろうか。
最近の日本人は明らかにひ弱になった。困難に対する耐性が脆弱になった。時代精神がそういったひ弱な日本人に寄り添ってきたのか、甘やかした結果がこうした国民を大量生産したのか、こうした詮索は「にわとりとひよこ」の議論になってしまうのだが、多分お互いが影響し合って今日の事態を招いたのではないかと思う。そのことは最近の文学作品にも見て取れるのではないか。そんな物語に見られるのは、なにやら自閉的で社会との折り合いが悪く、いつも自分を責めては、取るに足らない個人の問題を、あたかもこの世の大問題であるかのように煩悶し、のたうち回っている若者の姿である。社会学者であれば、こうした情況を見て、豊かさがもたらした新たな渇望といったような気の利いた分析をして済ますであろう。私は決して豊かさを悪いことだとは思わない。むしろ豊かさを追求することは人の本性に叶うことであり、幸福を追求する上に置いても必要不可欠なものですらあると考えている。
世の中に少しでも不安が蔓延すると、人々は決まって「清貧の思想」を口にする。最近もウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏が来日し、その言動が大きな注目を浴びたことは記憶に新しい。元大統領の、「貧乏な人とは、少ししかモノを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」といった言葉は、名言として多くのメディアに取り上げられた。特に若者がこの言葉に強い共感を示したことをテレビは無邪気なまでに喜んで伝えていたが、そもそも「無限の欲があり、いくらあっても満足しない」のが人間であって、それ以下でも以上でもない。そういう人間性に対する理解のないところで、聖職者のようなきれい事をいくらいったところで、人間の本質はなんら変わらないのではないだろうか。
地球上の存在で「足を知る」ことがないのは確かに人間だけである。過剰な欲望や蕩尽は人類だけが持つ妄執であり宿痾といっても良い。およそ人類が引き起こす犯罪や争いごとのほとんどは、人類のこういった性質が引き起こしてきた。だからもういい加減そんなことはやめようというのは一見正論だが、中学校の学級委員会かせいぜいが成人式の決意表明程度の正論であろう。「無限の欲を棄てよ」ということは、人間であることをやめよ、というに等しいのである。何事にも光と影があるように、このような人間の際限のない欲望が、人類の進歩と繁栄をももたらしてきたという動かしがたい事実が一方にはある。こんなことは改めて言うまでもないであろう。そして我々日本人は、現時点における、そうした結果もたらされた豊饒な果実の最終受益者でもあるのだ。
ホセ・ムヒカ氏は慈善家でも聖職者でもなく一国を代表する大統領だった人物である。そうであれば、国家の指導者としての最大の務めとは、国力を増大し、国民の生命財産を守ることにあるのではないだろうか。国力には多様な要素があるが、経済力はその中でも特に重要な分野であると思う。戦争は確かに愚かしくも痛ましいが、過去の戦争がそうであったように、将来起こる戦争も、信仰の対立と経済的利得を争う戦いになるであろう。人間とは、互いに殺し合いをしてまでも、豊かさへの渇望を持ち、そしてその裏返しである、貧困や欠乏への恐怖に苛まされている存在だということは改めていっておきたいと思う。偉大な文学作品が繰り返し描いてきたのは、人間の心が抱える深い闇である。どのようなメカニズムによって、このような複雑で功罪の多いプログラムが人の脳に埋め込まれたのかはわからないが、わかっているのは人間というものはそのように極めて厄介な存在であるということだけである。
私が若い頃に仕事を通じてお付き合いがあった人のなかには、戦後の窮乏期を生きて会社を興した、ぎらつくような欲望を全身から漲らせているような男たちが何人もいた。今その人たちはほとんど鬼籍に入られた。その後を継いだのが、学歴があり、スマートで、礼儀も弁えた二代目である。その二代目がどうなったかといえば、そのほとんどは世間の荒波に立ち向かうことができずに廃業していった。確かに、彼らの父親である創業者たちは強烈な個性や、強引ともいえる仕事のやり方で敵も作ったが、商売の本質は直感で理解していたのではないかと思う。円満な社交や、ときには偽善すらも、人間同士が利害を調整する場面では大切な潤滑油であることはいうまでもないが、二代目のほとんどは、あたかもそれが目的であるかのように勘違いをしているのではないかという場面に私は何度も遭遇して驚いたことがある。往々そうであるように、人はよく目的と手段を間違えて、手段を目的にしてしまうという愚を犯す。
国力の土台は国民である。それ故、国家を発展させるための国民教育は絶対に不可欠である。読み書きができること、簡単な計算なら暗算でできること、迷信の闇から開放されることは、教育を通じて身につけていくしかない。その教育も今や立派な目的となった。教育には、正しい判断をするための基礎的な素養を身につけるという機能はあると思うが、社会の様々な障害に直面しても、個人の力でそれを乗り越えていくという人間力を教えることは困難だ。これは学校で教えることが主として知識であるのに対して、生きる力というのは、経験や年長者の振る舞いを通して身につける智恵だからではないかと思う。今、その智恵が急速に衰えてきているのではないかという危惧を覚える。世の中にはきれい事ばかりがはびこっている。偽善を偽善と認識できる社会はまだ健全だが、現在の情況は、偽善をまとい続けたために、それが善だと信じ込んでしまっている情況ではないだろうか。
青少年期において、学問の基礎を徹底的に身に付ける唯一の方法は、正しい学習を繰り返し行い完全に我がものとする以外に方法はないであろう。運動であれ、芸事であれ、地道な稽古をせずに一人前になることはできない。それは確かに、人生のある時期における苦役ともいえるのだが、人生の全般においてこうしたことを忌避する人間は、職業においてもなにがしかのことを成し遂げることは不可能であろう。
ヨーロッパの製品は、自らの製品に対する物語を作ることでブランド力を高め、それを維持するという戦略の下、およそ品質とは懸け離れた高い値段でも買う富裕層だけを顧客にすることで生き残りを計った。一部の識者は、日本も今後はそうした戦略に方向転換せよという。しかしこれは、ある種の敗北宣言ではないかと思う。また、そのような戦略で二番煎じが通用するほど、ビジネスの世界は甘くないだろう。
例え会社員であっても、長い勤労生活を送る内には、ここぞという勝負時はあるのである。また、大なり小なり、何らかのプロジェクトを期日までに仕上げなければならないという立場に立たされることもある。そうしたことも否定して、法律に定められた時間だけ働けば良しとするような人間ばかりになったら、間違いなく国力は衰退するだろう。圧倒的な技術力があるから日本の優位は揺るがないという人もいるが、その技術を確立した原動力がなんであったかということに想像力を巡らすことは必要だと思う。
どんな職業であれ、働く現場から「ブラック」の要素を完全に払拭することは不可能である。誰かが不眠不休で働くことによって社会が支えられているという状態は今後も決してなくならないであろう。すべての人間がそうせよというのではない。使命感を持った一部の人間の、そうした自己犠牲ともいえる行為は、歴史を通した偉人伝でも読んできたことである。私が憂えるのは、そうした行為そのものが、自己満足であるとか、組織への隷属であるとかいった言葉で否定され冷笑される社会が到来することなのである。
日本は今、様々に困難な問題に直面しているが、では、歴史上様々に困難な問題に直面していなかったというような太平楽な時代などあったというのであろうか。かつての日本には、「頑張れば明日はきっと今日よりも良くなる」という希望があったという。飜って現在の日本には、将来の絶望しかないではないかと。しかし、その国の時代を作るのは、国民のベクトルの総和であるということは認識しておく必要があるのではないか。
(*注)
独ライカと日本製カメラの価格差を比較するのは、実は単純ではない。それはライカが日本製品と同じ土俵で戦うことを避けているからである。ライカの主力商品であるM型と呼ばれるカメラは、驚くことにいまだにピント合わせを撮影者自身で行う必要がある。Mは「Messsucher」(メスズーヒャー・距離計)の頭文字だが、ピント合わせの原理は三角測量である。M型ライカの店頭実売価格は90万円から100万円だが、日本のメーカーでは類似品を生産していない。
レンズが交換できないコンパクトカメラの場合、ライカが35万円、同等スペックのニコンなら5万円である。人間の視覚に近い50㎜の単焦点交換レンズでは、ライカは46万円、ニコンは5万円である。ライカは伝説と神話を頼りに生き残る道を選択し、富裕層の信者だけをターゲットとするブランドとして存在し続けている。