オバマ広島訪問と「人類」の欺瞞

 オバマ大統領の広島演説を聴いた。予想した通り「人類」という言葉が使われた。短い発言を区切って一語一語をたしかめるように語り、演説の効果を高めていた。うまいと思った。

 その後につづく安倍首相の演説は長過ぎた。内容もやや低調だ。きれいごとを冗漫に語りつづけ、もうここいらで止めたらいいのにと何度も思った。

 大統領に謝罪を求める気持ちが日本人にないということがアメリカに伝わり、好感情を持たれ、それがオバマの訪問を後押ししたといわれる。何ごとにでもすぐ安易に謝罪したりされたりしたがる日本人が、原爆投下に対してだけは謝罪を求める気持ちを持たないということは深く複雑で、簡単にすぐ解ける問題ではない。

 70年間にわたり日本人を支配したのは「恐怖」だった。今も消えてはいないし、これからもつづく。アメリカに対する怨みや、憎しみや、敵意といった単純な心理で説明することのできない、何とも言いようのない理不尽なものを感じつづけてきた。悪ではない、悪以上の何か、非道なことを平然とやってのける冷酷さを感じつづけてこなかった日本人は恐らくいないだろう。

 「恐怖」を逃げるために日本対アメリカの対立構図を避けて、日本とアメリカの両方を越える「人類」という概念に救いが求められる。そして、オバマ大統領も私が予想した通り「人類」の語を使った。日本の被爆者代表の人もよくこの語を用いたがる。

 恩讐の彼方に、ということなのだろうか。そんな風に単純に考えていいのだろうか。

 私はオバマ訪日の5月26日の二週間前に、新雑誌「月刊hanada」のために27日の広島を予想して一論考を書き上げ、編集者に渡した。題して「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」

 ところが雑誌が店頭に並ぶ26日より2日前に私の手元に一部届けられ、目次を開いたら「オバマ広島訪問と拉致問題」にとり替えられていた。私は正直がっかりし、また悲しかった。ずっとそのあと気分がすぐれず落ち込んでいる。

 私の論文は拉致問題を話題にしてもち出してはいるが、単に冒頭に論述上の枕として用いただけで、拉致のテーマは論じていない。私の従兄の原爆死、叔母の悲嘆、従姉との思い出などを基本に、あの有名な原爆碑の碑文をめぐるテーマを取り扱っている。オバマが「人類」という概念を用いるであろうことを三週間前に予想して書き上げた内容だ。

 私の読者に告げておきたい。雑誌にのる私の文章の題名は私がつけるのではない。題名を無視して欲しい。内容を読んで、私の真意を自らつかんで欲しい。

 「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」が「オバマ広島訪問と拉致問題」に取り替えられたとき、文章の内容の70%はすり替えられてしまっている。私の真の読者はごまかされないだろうが、一般の広い読者は誤読するだろう。こんなことは一昔前の言論界にはなかったことだ。

 いつの日にか私はこの論文も単行本に収める日が来るだろう。そのときには元の題「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」に戻すだろう。しかし書誌的には私が本に入れるときに改題したということになり、不本意な思いが残る。

 こういうことが最近あまりに多い。だんだん書く元気がなくなってきている。

 で、読者の皆さまにお願い申し上げる。私の評論が雑誌に出たとき、標題はないものにして考えないことにして欲しい。標題が目に入っても大抵これは別の人の作為が入っているから当てにならない、と考えて欲しい。そして「人類の欺瞞」がこの評論の中心テーマだと知って今気持ちをあらためて当該論文を手に取って読んで欲しい。

「オバマ広島訪問と「人類」の欺瞞」への16件のフィードバック

  1. 「オバマの広島訪問と『人類』の欺瞞」→「オバマの広島訪問と拉致問題」ですか。
    先生の「がつかりし、また悲しかつた」表情が目に見えるやうです。「人類」といふ言葉、概念を持ち出すに違ひないと、前もつて洞察された上で、そのインチキの指摘・分析が眼目だつたと思はれますから、「すり替へ」は、質的には100%ではないでせうか。

    タイトルのつけ方で、その雑誌のレヴェルや編集者の知能程度がほぼ分るやうな気がします。恐らく先生の論考を読み解く能力のない人のなせることで、悪意はなかつたでせう。深みや先生の真意に思ひを致すよりも、「拉致」といふ一項を加へれば、その分多くの読者が寄つて来るといふ程度の認識でせう。
    先生には御同情に堪へません。

    先生に、私のところにお書きいただいた際は、連載の場合の通しの題を含めて、全て先生がおつけになりましたね。マイナーな場だつたせゐかもしれませんが、先生から御紹介いただいた入江隆則・小堀桂一郎・川上源太郎の諸先生も同様でした。村松剛先生も柴田穂先生も御自分でおつけになりました。
    唯一の例外は木村浩美先生で、通しのタイトルは双方の相談でつけましたが、毎月のタイトルは「そちらでつけて」と任されました。タイトルで、成否のかなりの部分が決まると心得てゐましたので、真剣に考へました。大変でしたが、楽しくもありました。これは我ながらナイスといふものが出た場合は嬉しかつたですね。浩美先生からは、褒められたことも、叱られたことも、一度もありませんでしたが。

    「表題はないものにして考へないことにして欲しい」とのお言葉、お気の毒でなりません。
    先生ほどの方でも、悠然と構へてゐるわけにはゆかない時代なのですね。

  2. 月刊hanadaの論考を拝読し、深い共感を覚えました。5月27日のオバマ広島演説をめぐる産経を含む日本のマスメディアの報道の異常さは、今に始まったことではありませんが、戦後の日本人がWGIPで狂わされた結果としか考えられません。これを変えるには米国が戦争を仕掛けた事実、大東亜戦の大義、マッカーサーやフーバーの主張などを様々な手段で日本人に広く知らしめるしか方法はないと思います。私の周囲の友人知人、殆どの日本人は未だにこれらの基礎情報を知らないのです。

    謝罪は要求するものではなく、良心に基づき自発的になされるべきもので、今回オバマ氏にはそれを期待しましたが「失望」しました。

    「ヒロシマに来ること自体意味があった」が保守を含め大方の評価で、「来ること自体が謝罪だ」などと田原総一郎が喋っていましたが、そんな都合の好い解釈が世界で通用するはずがありません。謝罪なく訪問することを日本が受け入れることで対米従属が一層強固になってしまったことを指摘する者がいないことは奇異としか言いようがありません。

    西尾先生の従兄の医学生が長崎に戻って原爆で亡くなられその母上が嘆き悲しまれたエピソードを読み、私の友人が大学を卒業し就職後に突然原因不明で死去したことを思い出しました。お母さんが広島被爆者でした。多くの原爆犠牲者とその遺族は決して米国のこのむごたらしい仕打ちを許すことはないし、大統領が70年も経って生存者をハグするなどは偽善でしかなく、オバマ演説の語句は先生ご指摘の通り欺瞞でしかありません。この当たり前の感覚を当たり前でなくしたのがWGIPの見事な成果ではないでしょうか。日本人に復仇の心を忘れさせたのです。
    オバマ演説は、Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.で始まっています。なんと白々しいセリフでしょう。自然現象のように、空から死が舞い降りたのではなく、米軍機が死の灰を無辜の市民の頭上に降らせ、銃後を守る老若男女の暮らす都市ヒロシマを一瞬に破壊し、「人類」などではなく米国自身が敵対国を破壊する手段を手にしたことを世界に示すことが目的でした。その後17分間のスピーチには同様の美辞麗句が続き、結局実のあること、核廃絶に向け実効性のあることは何も語っていません。
    犠牲となった朝鮮人らは当時日本国民であったこと、被爆した米兵捕虜は当時の日本人には憎むべき無差別空襲の下手人であり嬲り殺しにしても飽き足りない者でした。その米兵をも米軍が日本人と一緒くたに殺したのですから以下の台詞には強い違和感を感じるのが普通の神経と思います。
    We come to ponder a terrible force unleashed in a not-so-distant past. We come to mourn the dead, including over 100,000 Japanese men, women and children, thousands of Koreans, a dozen Americans held prisoner.
    但し、オバマ訪問は現下の国際政治の現実の中で日米同盟強化には役立ちました。これについては役立ったと評価できますが、本当の対等な同盟は、トランプが云うように「日本の核武装と米軍の日本からの撤退」の上に立ったものでなければならず、現状での同盟強化は不平等と対米隷属の強化でしかないことを中国やロシアは苦々しく透視している筈です。

  3. >勇馬眞次郎 様

    貴殿の意見は確かにそうなのかもしれませんが、しかし、見方によってはオバマ氏が広島に出向いたという事実そのことこそが本来あり得ないことだという認識も、従来の日本の常識の範疇だったことをもう少し考えてみなければならないところなのではないでしょうか。
    どんなコメントを残すのか・・・も、重要ではありますが、広島を訪れることを事前に公約していたということの、この現実はまず大きいと見るべきではないでしょうか。

    私はオバマ氏がもしも白人だったら、おそらくこの決断は為せなかったと思っています。
    ただし、彼が黒人だったということで、それが可能だったというだけの理由にむすびつけてしまうと、結局はアメリカの真意ではなかったという側面も残してしまうという、実に複雑なこの現実に立ち向かわなければならないのも事実です。

    いったい我々は何を信じるべきかという問いだけがそこに取り残され、はたしてアメリカ大統領という肩書がなしたこの現実は、我々にとって本当に意義のあることだったのか、そうでないのか、暗中模索がつづく羽目にもなりうるのです。

    そんな「罠」を自分から仕掛けてしまうことだけは日本人として避けたいのは事実で、であるならば、どんな状況下の大統領が為したことであろうが、我々は「広島訪問」という現実をとりあえず実現させることができたことの意義を、冷静に受け止めるべきではないだろうかと考えます。

    そこで私の私見ですが、俗に英語は日本語よりもボキャブラリーが狭く、日本語の方が繊細な表現が可能な言語である・・・と、昔から聞かされてきた記憶があります。
    そうであるならば、もしもこういう演説の場合、日本語の方がより相手国に対して、配慮の整う弁舌が可能なはずですが、どいうわけかそれがなされないという現実がまずあります。西尾先生いわく、安部氏の演説が長すぎるように感じた・・・というコメントが示すように、おそらく日本語というのは演説には向かない何かがあると思ってしまうわけです。そうでないとするなら、安部氏はオバマ氏よりもこの広島訪問に対して何かが欠けていたと見るべき要素も生まれてきます。

    そうした要因を先に踏まえる理由は本来必要ないということくらいは私も認識しています。そうであるならば、つまりは安部氏はオバマ氏よりも演説が下手だといおう烙印を押さなくてはなりません。おそらく、原爆被災者の方々は、オバマ氏の演説に予想以上の自己の感情の高まりを覚えたのではないかと、私は予測します。
    それは、やはり日本人よりもアメリカ人が語る言葉の方が、絶対値からいっても期待が高かったというところに起因します。

    私はまだ西尾先生の新しい論文に接していません。ですから、この私の意見は率直な意見です。おそらく西尾先生はもっと鋭く日本人がとるべき言動へのご忠言があるだろうと予測します。どんな立場であっても、一国の代表者がとる行動に対して、無言のレスポンスはとるべきではないというスタンスでいらっしゃるのではないかと予測します。
    少なくともなにかが響く反応を示すべきだというご意見ではないだろうかと予測します。
    あくまでも予測です。なぜそう予測するかはここでは省かせてください。
    それよりもなぜオバマ氏が黒人だから為せたことなのかを説明しますと、ごく簡単に言いますと、白人と黒人の「差」が原因であるわけですが、だからといって単純な話ではなく、オバマ氏の基本理念は白人ができなかったことを黒人ができるという条件的メリットを、有効に利用している背景がぜんていにあるというこの暗黙の了解を、彼は巧みに利用していることを予測します。

    もしも白人大統領が同じ行動をしたならば、それはあまりに露骨な行動であることを、気配が察知する前提が存在するのではないだろうか。
    ですから、オバマ氏のアドバンテージは、黒人であるというところにまず起因すると考えます。
    しかしだからといって我々被害国日本がそれを完全に配慮するということも不自然な道理であり、必要以上の感情移入は為すべきではないでしょう。
    ですから今回のアメリカの大統領の決断は、正々堂々と受け入れるべきです。
    できればオバマ氏が、被害者と接した際に、オバマ氏が彼らの言葉に素直に謝罪の気持ちを生ませるような態度をもたらす言葉が表現できたなら、何らかの違った方向の要素を注入で来たチャンスだったと思う部分が強くあります。が、なかなかそれは容易いようでできないのが現実でしょう。

    とにもかくにも、安部氏がオバマ氏に広島訪問を決断させたことの意義は大きいと見るべきです。そして出来うるなら、こうした被害者が現実に今も存在していることを前提に、あらゆる被害者・・・つまり拉致被害者などが、平和国交という前提の下で実現できることを声高らかに安部氏は訴えるべきだったのかもしれません。
    そうした進歩ある外交が今後世界が望む理想であることを、この機に述べるべきだったと私は思います。
    その言葉こそ、日米外交の最大の賛辞となりうるチャンスだったのではないかと。

  4. すみません補足します。

    平和外交はあくまでも日米の間で持続すべきもので、現実的に国交が途絶えている北朝鮮にそれを言いただすものではありません。
    ですから、表現を正しくするならば、日米の結束はこれによってより強固なものとなり、あらゆる世界的諸問題にも両国が立ち向かう決意を示すことでもあります・・・くらいの。安部氏の演説があっても許されたと考えます。

  5. 最近日本の歴史について 通俗史観とは異なったことを書いた本がアメリカで出ているようです。
    この著者は西尾先生の「焚書研究」についても言及するような人です。
    ご参考までに

    Japan Bites Back: Documents Contextualizing Pearl Harbor (English Edition)
    ttp://www.amazon.co.jp/dp/1507785615

    In September 2014 Joshua Blakeney undertook extensive archival research at the National Diet Library in Japan. The documents he retrieved, along with the other essays in this book, provide the “Japanese side of the argument” about the origins of the “clash of civilizations” that was WWII in Asia. The bolshevization of China, Western meddling in Asia, Soviet infiltration of the White House, U.S. expansionism in the Pacific, the anti-Japanese provocations which spawned the Pearl Harbor operation and Japan’s Pan-Asianist policies are all subjects explored in the book.

    著者が一時間この本について語っているラジオ番組
    ttps://www.youtube.com/watch?v=pwOWtfArvQw

  6. あきんど様へ 確かに、レームダック化しているとはいえ現職の大統領が広島に来た事実は大きいでしょう。ただ、来てくれたことに無条件で諸手を挙げて歓迎していいのかが論点です。「我々にとって本当に意義のあることだったのか」の問いに対しては、「(被爆者との関係では)無意味であり、侮辱と冒瀆に過ぎない」が結論です。その理由は、詫びない訪問という行動の根底に東京裁判史観(日本が悪の侵略国家だったという仮説)があり、原爆犠牲者は日本政府へ謝罪を求めるべきでありアメリカに求めてはならないという観念が、アメリカ人だけでなく、被爆者を含めた日本人全体に、横たわっているからです。我々はここに目をつぶってはならないと思います。日米和解も結構ですが、それが対米隷属の強化でしかないなら、到底「安部氏がオバマ氏に広島訪問を決断させたことの意義は大きい」ことにはなりません。
    西尾先生が、「何ごとにでもすぐ安易に謝罪したりされたりしたがる日本人が、原爆投下に対してだけは謝罪を求める気持ちを持たないということは深く複雑で、簡単にすぐ解ける問題ではない」と書かれていますが、謝罪を求める気持ちを持てない理由は、①一つには、先生が仰るように、小さな侮辱や暴力には怒り、謝罪を求められても、あまりに大きな侮辱や圧倒的な暴力には腰を抜かしてしまう、という側面と、②この「日本が悪かった」という日本人に常識化した史観によるものと思います。
    オバマ氏が黒人であることと今回の広島訪問を結びつける議論はあまり意味がないと思います。白人のケリー国務長官が先鞭をつけています。オバマ氏が白人だろうと黒人だろうと米国大統領としての訪問であり、これが米国の真意と見ざるを得ません。
    英語と日本語の対比ですが、演説の出来不出来は言語の問題ではなく、田中角栄や尾崎行雄などは日本語で立派な演説をこなしています。言語の背後にある文化の相違が演説のマナーに影響することはありますが。
    たしかに仰るように、「安部氏はオバマ氏よりもこの広島訪問に対して何かが欠けていた」のです。①欠けていたものは彼の才能と信念と修辞です。尾崎や田中演説に迫力があったのは、彼らが自分の信念に基づき、自分の言葉で、腹から声を出していたからですが(オバマもほぼ同様です)、安倍氏は才能も信念もなく(堕落した自民党の政治力学の中で総理になっただけで)、常に腹話術のような頼りない魅力のないスピーチを繰り返してきました。スピーチライターも人材不足のようです。②池田俊二氏は、保守の輿望を担っていた筈の安倍氏に何度も裏切られ「成敗」すべしとまで言われており、同感ですが、安倍氏に決定的に欠けているのは、信念というよりも「信義への執着」つまり正義感でしょう。戦後レジームからの脱却が彼の公約でしたが政権をとってからの彼の言動は脱却どころか補強そのもので、「謝罪なきヒロシマ訪問」の受け入れはその一つとしか評価出来ません。従って「安部氏がオバマ氏に広島訪問を決断させたことの意義は大きい」などと評価することは到底出来ないのです。
    「今回のオバマ氏の決断を正々堂々と受け入れるべき」が商人様のご主張のようですが、日本は既に受け入れてしまっています。私の主張は「折角来るのであれば好機と捉え自発的に謝罪すべきだった。いかなる表現であろうと謝罪の言葉のかけらも無かったのには失望する」です。オバマ氏個人は述べたかったのでないかと推測します。それが米国の国内政治の現実から実現できなかったのかも知れません。
    西尾先生はオバマ演説を「うまい」、安倍演説を冗長と評されましたが、素より問題は演説が巧いか下手かではなく、その中身です。「人類(mankind)」という言葉による「欺瞞(騙し)」こそがオバマ演説の巧みさ、狡さの象徴です。17分間の16年演説を原文ですべて読みましたが、美辞麗句そのものです。これはオバマ氏の個性でも何でもなく、欧米流のスピーチの典型に過ぎません。
    軍事評論家の佐藤守氏まで、「少なくとも日本国民と大多数の米国民に密かな感動を与えたから、成功だったと評価できる」と云われており、これが保守を含めた評価の大勢です。みな騙されているというのが西尾先生の議論であり、私が共感するところです。
    「オバマ広島訪問と拉致問題」にHanadaがすり替えたもとのタイトルは「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」でした。編集者が自分の名を雑誌のタイトルにする神経は日本人の心である「謙虚さ」に欠くもので、池田俊二氏の指摘されたとおり論文の題を著者に断りなく変えることは日本人の心の一つである「誠実さ」に欠けるものでした。
    問題は先生の議論の中身なのですが、日本の真面目で能力ある誠実な知識人でも戦前から「知覚の欠陥」を有していること、「真の世界」を常に外国に夢見る性癖のあることのご指摘でした。これがオバマ演説への現在の日本人、知識人の評価につながっています。オバマ演説によく表れた欧米の美辞麗句、巧言令色は真の意図をうまく隠し、自らは正義の仮面を被りつつ相手を煙に巻き、誤魔化して自分の責任から逃れる側面があることに気付くべきです。
    言語学者鈴木孝夫氏の謂う、元来は日本人にとって異質であり外来的でしかない欧米の価値基準をあたかもそれが普遍的な尺度や価値であるかのように錯覚して有り難がる性癖や習慣をうまく利用されたのがオバマ演説であり、現行憲法でしょう。芦部信義という亡くなった今でも高名な憲法学者のゼミを昔聴講しましたが、「個人の尊厳」が最高の価値などと神官の如く講義をされ我々はそれを有難く拝聴したものです。しかい欧米の「個人」という明示的概念の根底にある基盤は日本にはありません。

    知識人や有識者だけではありません。私も長く海外ビジネスを経験しましたが、企業経営者も欧米流のレトリックにはつねに騙されがちです。騙され損をした日本企業の事例には事欠きません。きょうのニュースに三菱マテリアルの対中謝罪と63億円の巨額賠償が一面に出ていますが、この敗北なども中国側のレトリックに嵌められたのが原因でしょう。6年前、米国で袋叩きに合い膨大は支出を強いられたトヨタも同じです。

    池田様も商人様も、この日録にアクセスする方々はみな基本的方向は日本をよくしたい一念と思いますがこのような議論には限界があり歯痒さをいつも感じています。平岡公威氏は直接行動に走りましたが結果は何も変わりませんでした。いま民主主義社会の日本でわれわれに出来ることは限界はあってもこのような言論をネットで拡散していくことかと思います。例えば殆ど知られていない「楽秋庵で思うこと」は私と同じ退職後の普通の理系サラリーマンですがお子様たちの将来を憂い、いま我々が為すべきは何かを真剣に考え続けて発信しています。すでに有名になっている「西村慎吾」「えんだんじ」「ねず」「中韓を知りすぎた男」「Tel Quel Japon」他の情報源にこれらの草莽がネットワークすれば日本の戦後レジームの克服の足掛かりになるのではないでしょうか。安倍氏や自民党にはもはや頼れません。

  7. 勇馬 樣

    貴見に最大の敬意を表します。
    情理兼ね備へた名文に感服しました。

    安倍總理大臣とオバマ大統領による猿芝居の本質を徹底的に抉りだして
    ゐますね(「一應成功だつた」といつた、もつともらしい評價をも含め
    てすべてが掬ひ取られてしまひました)。

    恐るべき洞察力! 確乎たる立論! 格調高く、滑らかな流れ!
    脱帽するのみです。

    本欄の常連である、西尾門下上席の論客・名文家がたが、最近殆ど投稿
    してくれず淋しく感じる昨今です(たまにはーーとお願ひしたいところ
    です)。そこに貴殿の御登場、喜びに堪へません。今後にも大いに期待
    します。

  8. 此度の伊勢のサミット、並びに、オバマ広島訪問に対して、様々なメディア、インターネットにおける言論が飛び交っておりますが、やはりどれも空虚で、心醒める事なく、その言葉の陳腐さに溜め息が出ます。

    このような言葉の飛び交いこそが、大した意味合いの無い、時事斬りの為の時事斬りで、只の言葉の絆創膏に過ぎない。「反応しているだけ」の自転車創業的な言論に、後々の建設性など在りはしません。価値観を後付けして演出するのが関の山で、古本屋のワゴンセールの中に散らかる、一年前に販売されたHow to 本の如き価値しかない。

    刻経てば、人間の苦しみとは、その記憶の中に眠るもの。

    その苦しみらが、人の死生観、人生観まで紡ぎ出す事柄であるのに、そこの本質を「避けて通ろう」とし、まるで戯曲を観る様な目線で、観客的視点からの言葉を吐く。政治や歴史、外交を「学術的にし過ぎている視座」が滲み出ており、その本質は傍観者に等しい。

    逆に言えば「当事者意識無きまま語る」という姿勢であり、その言葉に、来し方行く末を見据えた心中見えず、哀しみも憂いも伝わって来ない。果たして原爆や空襲の犠牲者、南洋や大陸に今なお眠る戦死者を「己が祖父母の様に捉えて、同様の言葉を吐けるのか」という問を投げたくなります。

    熱心なプロ野球ファンが、さも真剣に昨日の試合結果を、分析しながら熱く語る姿に似ており、少なからずそこに娯楽性すら見えて来る。スポーツやらサブカルチャーならそれで結構だが、国の大計において、言の葉を放つ立場としての役もく有す者の姿勢としては、明らかに幼稚で、五月蝿く、大局観乏しい。

    外交的成果、要は「時代は変わる。色々あったが仲良くやろう」という事を下ろしたいのでしょうが、我が国本来の精神性の立場にて言葉を下ろせば、その現れはいささか異なり、せめて「刻は経っただろうか。ならばあいわかった」と現れる。そして何より、この言葉の姿勢の在り方を、今の日本人自身が忘却しつつあるのだという事こそが警鐘の対象であると考える。

    また反対に、その演出そのものを、ギリシア由来の正義感とやらで、清流の如き「理論」で論破しようとする姿勢も、明治以降に染み渡る西洋的な視座からの言葉の使い方であり、人工的な緊張感に言葉の酔いを見る。先述申し上げた「正しいものを探し、纏いたがる」、懺悔の果ての自己暗示を内包する。

    戦の記憶の区切りとは、それ紡ぎし人々と、それ眠るまほろば、その記憶と向き合いて、初めてそこに一縷の光射す。

    一世紀半前、戊辰戦争の懐古にその類似を見る。

    数年前、野党自民党、安倍晋三総裁は、その選挙戦にて福島県会津に入り「先祖がかつてご迷惑をおかけした」と演説しました。この言葉と行動は、記憶を紡ぎし人と処であるが故、それなりの覚悟の現れと感じ取れた。

    私の知人に会津に古くから住む者がおりますが、十数年前に、その人に尋ねた事がある。

    「会津の人間は、今も萩を許してはいないのか?」と。

    その応えは「まあ昔の事だから。だがしかし、その火種が全く燻っていないと言えば、それは嘘になる。だが悠仁様に会津藩士の血が流れているから。要するに、秋篠宮殿下妃というのが、その答えだという事だな。そこで会津の立場からしたら《あいわかった》なんだよ」

    言うまでも無く、秋篠宮妃紀子さまは、会津藩士、池上武輔の曾孫でおられます。

    この何気無い一言に、会津の人間、記憶の紡ぎが、あの戦争の後の日本、つまり近代日本を、どれだけ鋭き眼光で眺めていたのかが分かる。一世紀半、心の深き処に、哀しみや怒りを秘めた、矮小であるが決して消える事無き炎、それらを「述べ伝えた現実」が、このような言葉、姿勢として具現する。

    この在り方は、謝罪の有無だの、許す許さないだのという、人間的な道徳律の側面より、記憶の苦しみは「刻が解決する」という言の葉の本質の現れであります。

    人間の想いとは、かくも強く、念を帯び、怒りや羞恥をそのエネルギーに互換する。過去を汲んだ火を決して絶やさない。個人意識を越えて、遺そうと努める。その伝心の高貴さ、祖の世を尊ぶもまた、日本人の在り様であったはず。その源泉あればこそ、西尾先生も仰られる様に「短期間であれだけ跳ね返す」事が出来たのだと感じます。

    この「鋭き眼光で頷く様」を、我が民は喪失して久しい。

    その果てが、これら「オバマ広島訪問に対しての反応」であります。

    西尾先生をはじめ、戦前の教えをその精神の核に持たれる方々に眠る戦争の記憶は、戦後日本人が、言葉のやりとりでやれそれと共有出来る様な類いの経験等である訳も無く、その諦念の中の一定の達観は、己そのものを深く洞察した人間が、ようやくやっと触れること叶うかもしれない位の深淵にあるもの。

    この、記憶を言葉に乗せる連続性が、人を人間たらしめ、身を刻に置かせるのですから、七十年前に意図的に斬られた後の世に生受けた現代日本人が、その在り様に触るには、文献その他の解釈は無論のこと、「自らに巣食う日本成らざるもの」との対峙を経なければもはや届くこと叶いません。

    近代という、度を超えた加速度的文明の只中でも、それでもやむにやまれず日本を遺したくば、その対峙と向き合わねばならない。

    江戸時代に、宣長や真淵は、現代の様な文献や記録すら無い中で、今とは比較出来ない程の悠久を見、景色を重ね、音を解し、日ノ本の源を汲み取りて、命燃やして言の葉に乗せ示した。

    人間はどうしたところで「線」なのです。断じて「点」ではない。
    「自己完結の振り」は出来ても、実際は絶対に出来ない様になっている。

    言論人の方々に、今一度、自らの記憶、その記憶の連続性と向き合う姿勢を取り戻していただきたい。それは己が歴史でよく、その懐古の姿勢に日本の歴史は次第に纏う。さすれば必ずや、その時代時代の言の葉に乗り、江戸時代の寺子屋の如く民に拡がる。

    ···今やもう、民が「日本をやる」しかありません。しかしながら、それこそが我が国の本来の姿ではないですか。上を敬い尊ぶが、上に必要以上に懇願も依存もしない。上は上であれと生きる。

    その作業は、インターネット等で、横軸、つまりは空間を拡げる事が必ずしも最適とは思えません。インターネットは、各々の能動姿勢にかなりの比重が置かれており、受動性に対しての効果は果てしなく低く、単なる価値観の共有、共感の依り処に埋没しかねない。先生の言われる「自由に耐えられるか」の一面がある。

    インターネットとは、それこそ「参謀」が如く脇に居り、連動の刀として振るうがよいと考えます。

    やはり主なる事とは、生の眼で見える色、その耳で聴ける音、その手伸ばして触れられるもの、そしてその距離範囲に居りし他者。そういった己が周りを取り組む中に日本を観て、己が周りに日本を伝えてゆくこと。

    「電波以外による情報」を信じ、その逞しさ、尊さを取り戻していかなくてはならないのだと考えます。

    最後までお読み下さり有り難うございました。

  9. 訂正致します。

    知人と話したのは「十数年前」でなく「数年前」です。

    大変申し訳ありませんでした。

  10. 月刊Hanadaの論文を拝読致しました。

    いくら黒人とはいえ、アメリカ合衆国の大統領が、自国の過去を否定する
    ようなことを言う訳がないことは、本当は誰もが分かっていたはずです。

    それなのに、大統領が謝罪するか否かをクイズのように占ってみたり、
    大統領を広島に引っ張ってきたこと自体がこれまでにない成果であると
    か、中韓その他に対する政治的な効果があったとの評価など、それらは
    それとしても、こうした情景を過去の日本人が見たら、こんなイベント
    まで設定せざるを得ない位、我が国が凋落して危険水域にあることに愕然
    とするのではないでしょうか。

    オバマ大統領と安倍首相の演説内容を、ネットの文字で読みましたが、
    文字面だけを見ると、読み始めた途端、皆様方が仰る通り、お腹一杯
    という気持ちになりました。
    サヨクは、被爆者を利用した欺瞞、などとお決まりの批判をしているよう
    ですが、これとは別の意味で、首相が、今度の件は、あくまで政治的意義
    を狙ったものであることに徹しても、我々一般人の「本心」は別にあるこ
    とを、もし理解してないとすれば、文字通り、今回の広島の出来事も三文
    芝居であると言わざるを得ません。

    なぜなら、アメリカが原爆を二度も落としたことを、我々庶民は到底許せる
    はずがないからです。
    私の父の戦友は(もう鬼籍に入られました)広島出身で、妹さんが18歳の
    時、女子挺身隊として軍需工場に向かう途中、市電で被爆しました。八月末
    帰郷した時、妹さんは髪も抜け落ち、頭からタオルや毛布を被り、日毎に
    悪化する病状で苦しみ出し、毒素による悪臭の中、母親と奥さんと交代で
    看病したが、ついに苦しみぬき悶死したそうです。救いだったのは、母の胸
    の中で死ねたことと、三年間国のために働いたことで叙勲を受け、靖国神社
    に祀られたことだ、とのことでした。

    こんな話は山ほどあるのに、何故「日本が悪かった」になるのかは、我々
    自身謎としか言いようがありません。
    随分前(恐らく2、30年位前)広島の平和記念館の写真を見て、アメリカ
    の黒人の女子学生が泣き出すシーンをTVで見たことがあります。彼女は
    悲惨な写真に、思わず指を差し、振り返って後ろの同級生に訴える様子で、
    嗚咽し始めるのです。その光景は少女特有の素直さに満ちていて、とても
    印象的でした。

    こうしたシーンがTVで全く見られなくなったのは、反日勢力がマスコミ
    を大々的に席巻し始めたことと関係しているに違いありません。

    これも随分前ですが、日本の子供に原爆がどこに落ちたかを聞いた所、
    「えっ、山口だったかな…」と答える小学生も、TVで見たことがあります。
    このニュースも、お決まりの如く、広島長崎の事をきちんと教え、戦争の
    悲惨さを語り継ぐべき、などとサヨク特有の言い草を流していました。

    そして今回の安倍首相とオバマ大統領の広島訪問やその演説にも、そんな
    サヨクのニュースのような「臭い芝居」の臭いを感じた人は少なくないで
    しょう。ただ表向きには、そう言えないだけです。

    「支配者の政治的な表の顔」がそのまま「民衆の本音の顔」になる彼の
    大陸や半島の人々に対しては、こうした広島という大掛かりな舞台装置や
    芝居もひょっとして功を奏するのかもしれません。

    しかし我々が本当に憂慮するのは、あの演説を安倍首相は「ひょっとして、
    本気で言っているのではないか」という疑念であります。

    過去70年間続けられてきた、我々庶民の実感とはかけ離れた様々な言説
    が、日本列島のあらゆる方面に行き渡り、「よそ行きの顔」として堂々と
    最前列を陣取り、その結果「本音の顔」が駆逐され、「よそ行きの顔」が
    いつの間にか我々の「本音の顔」になりつつあることが、何よりも恐るべ
    きことです。

    「…お力は一散に家を出て、行かれるものなら此のまゝに唐天竺の果まで
    も行って仕舞いたい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたら人の声も聞こえない
    物の音もしない、静かな静かな、自分の心も何もぼうっとして物思ひのな
    い処へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情けない悲
    しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、
    一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄りかかって…」

    政治家が自国民を守るためなら、外国に対してあくどい嘘の煙幕を張っ
    ても許しますが、樋口一葉の『にごりえ』の有名な一節のように、我々
    庶民は自分の心に嘘をつくべきではないし、庶民の言葉を失ってはなら
    ないのです。

    西尾先生が書かれるたように、アメリカに対する敵意に、自分自身耐えら
    れず、「人類」というフィクションに救いを求める心理は、我々自身の特
    有の弱さに起因するのか、どんな民族もそうなるのかは分かりません。

    しかし雑誌の論文の最後に書かれたように、先生の叔母さんも従姉も、あの
    戦争を体験したその他の人々も、被爆者も、「これが一生か、一生がこれか」
    といった内心の気持ちで過ごしたに違いなく、サヨクの言うように「軍部
    のせいでこうなった」「人類の平和な世界のために」などと考えていたはず
    がありません。

    しかるに昨今の我が国の「政治的な表の顔」を、我々日本人の「民衆の本音
    の顔」だと思い込む隣国は、「70年間にわたり日本人を支配した『恐怖』」
    を見て取り、その「弱さ」に付け込んでいるのではないでしょうか。
    なぜなら彼の民族は相手が弱ければ弱いほど、いじめたくなるものだから
    です。
    だからこそ我々が今すぐにでもしなければならないのは、西尾先生が何度も
    主張されているように、どこの誰からも、もう二度と我が国には、核兵器を
    使わせないように、いや使おうとは思わせないようにすることです。

    「…先に私は台湾独立運動の士が北京語で演説し、台湾語の文字表記を
    まだ知らない危うさについて述べました。しかしいかに危うくとも、独立
    運動の心と行動を疑うことはできません。
     宣長が洞察していたのは使用された外来文字の背後に、長大な時間を
    かけて伝わってきた日本語という音だけの言語世界の示す、二十一世紀
    にまでつづいた民族の魂の表現なのです。『清らかなる古語』は不可能でも
    音は聞こえる者には聞こえるのです。それをイデオロギーという者こそ
    逆イデオロギーの徒にすぎません。」
    (『江戸のダイナミズム 古代と近代の架け橋』P488)

    今はもはや語るに値する「文学」が存在しなくなったということですが、
    ほんの少しの希望を語るとすれば、それでもはやり、抑えようにも抑えき
    れない我々日本人の「本音の感情」は、今でもあちこちに細々とながらも、
    形を変えて息づいていないでしょうか。

    この前電車に乗った時、高校生くらいの数人の少年たちが、何やら話して
    いましたが、「潜水艦、艦船、轟沈…」などという言葉が聞こえたので、
    驚いて振り返ってみると、ゲーム機を持っていたので「何だ、ゲームか」
    とがっかりしました。でも西尾先生の世代では当たり前であろう「轟沈」
    という言葉を、あの高校生たちとは異なり、私自身は長らく知らなかった
    のです。

    年配者にとっては、こんな話は何の頼りにもならないと思われるでしょう。
    しかしゲームやアニメの世界では、(当然かもしれませんが)戦闘や対戦を
    主題としたものが圧倒的に多いのです。こうした青少年たちの、原始的な
    本能が、即座に現実世界に作用するとは思えません。しかしまともな若者だ
    ったら、学校で朝日新聞の「天声人語」のような作文を書いて点をかせぐ
    ペーパー秀才を、異性として魅力的だと思う訳がありません。

    もし我々日本人が、本当に去勢されているなら、歌舞伎の人気演目である
    「弁天娘女男白波(べんてんむすめめおのしらなみ)」の「浜松屋見世先の
    場」で、尾上菊五郎扮する弁天小僧菊之助が、女装をやめて、ガラリと
    男に戻る場面の小気味よさに、拍手喝采するでしょうか。
    (女の裏声から、どすの利いた男の声になって)
    「…もう化けちゃいられねぇ、兄貴、おいらぁ尻尾を出しちゃうぜ。
    べらぼうめ! お侍さん、お察しの通り、わっちゃあ男さ。男とみられた上
    から 窮屈な思いをするだけ無駄だぁ、(あぁ~と言いながら背伸びをして)
    ひでぇ目に会ったぜ…」
    尾上菊五郎の名演技は、日頃「よそゆきの顔」をしなければならない我々
    の気持ちを代弁してくれるから、何度でも観て、何度でも笑いたいのでは
    ないでしょうか。

    西尾先生がこの論文で注意を喚起して下さらなかったら、今回の広島の
    件も、私などは「何となく不満だが、まあ仕方ないんじゃないか」とし
    か思わなかったかもしれません。

    十代の頃読んだトルストイの「アンナ・カレーニナ(新潮文庫)」(だったと
    思いますが)の中で、今でも記憶に残っているのは

    「…この母親は、何だって子供たちとフランス語で語り掛けるんだろう、
    ちっとも心がこもっていないじゃないか。…もっとも彼女の方でも百篇も
    その事を考えた末、フランス語の学習の必要性を感じてそうしていたのだが、
    彼はその事を知らなかったのである。…」と表現された一節でした。
    さりげなく描かれたそうしたシーンに、翻訳の見事さもさることながら、
    トルストイの凄さと、小躍りしたくなるような面白さを感じました。

    また数年前ネットで、移民で悩むドイツに関する記事で、最近のドイツの
    青年に、子供の頃からの好物は何かと聞いたら、「ケバブ(中東の食べ物)」
    と答える、笑うに笑えない状況が報告されているのを見たことがあります。

    さらに北京語がそのまま通じてしまう台湾はもちろんの事、「危機」は我が
    国だけではないでしょう。

    しかし一見「うまく行っている」ように見える我が国だからこそ、決して
    気を緩めてはいけないことを、今回改めて強く感じました。

  11. 私ごとき新参が余りこの場を長くお借りするのは憚られますので今日は短くコメントします。これで3度目になりますので管理人の方に採用されないことも覚悟して。

    馬場啓治様、このJoshua Blakeneyは東京裁判弁護人の所縁の人ではないでしょうか。西尾先生の所説も含め日本の弁明を英語で紹介することは大変有難いことでラジオ放送も聞いてみたいと思います。

    Tukiyomi様、黒ユリ様、私も、“我が国が凋落して危険水域にある”と思う一人ですし、“···今やもう、民が「日本をやる」しかありません”と観念し、“我々庶民は自分の心に嘘をつくべきではないし、庶民の言葉を失ってはならない”と信じてブログを始めたり、こうやってコメントしております。そして“どこの誰からも、もう二度と我が国には、核兵器を使おうとは思わせないようにする”ために我々に何が出来るかを考えています。
    「…もう化けちゃいられねぇ、兄貴、おいらぁ尻尾を出しちゃうぜ。べらぼうめ! UNさん、お察しの通り、わっちゃあ男さ。」この15代目羽左衛門の胸のすく啖呵を、「天声人語」のような作文を書いて点をかせぐペーパー秀才と思われる杉山新外務次官に切って貰いたいものですが無理でしょう。

    恐らく私を含め皆様60代70代の方々と推察します。若いうちは加藤周一や丸山真男やボリシェビズムの書生論にかぶれますが知識が蓄積し国際社会の現実を知り、考察を深めればみな日本の伝統に戻ると思います。回帰できない者は愚か者に過ぎず今我が国は愚か者の天下です。

    先日、国立能楽堂の「羽衣」を観てきましたが盛況でした。この能こそ、武道と併せ、日本人の精神文化、時空を超えて通用する普遍性、絶対性を体現するもので、日本の青少年に勧めたいと思います。占領軍が怖れ、日本人から奪ったものは士族的エートスであり、日本を取り戻すには、このエートスを取り返すだけのことと思います。

    いかに申し候。唯今は少し心にかゝる事の候ひて短慮を申して候ふ。一向御免あらうずるにて候。(景清)

  12. 小生、いま珍しくも、超多忙ですが、會心の記事に接すると、
    一言發したくなります。黒ユリさん、勇馬さん、すみません、
    お二人の名文の眼目には關係なく、枝葉だけ利用させていた
    だきます。

    ☆しかし我々が本當に憂慮するのは、あの演説は「ひよ
    つして本氣で言つてゐるのではないか」といふ疑念。

    これは安倍さんを買ひ被り過ぎてをられると思ひます。私は
    ほぼ間違ひなく「本氣」だと思ひます(あのふやけた顏や言
    葉の抑揚から、さう判斷します)。つまり、救ひやうなし、
    どんな藥も效かないといふ意味です。
    因に、坦々塾の新年會で、總理大臣の70年談話について、
    私が「ひょつとして、安倍さん本氣ではないか」と述べたと
    ころ、すかさず「本氣だよ」と西尾先生から野次が這入りま
    した。

    ☆Blakeneyについて、私も同じ想像をしました。東
    京裁判での活躍については、映像や書物でずゐぶん親しみま
    した。つい最近、Tel Quel Japonで、久しぶり
    に見ました。あの人は、裁判の後も日本に留まり、辯護士を
    してゐたのではないでせうか。のちに交通事故(多分)で亡
    くなつたことが報じられた際は感無量でした。

    新參者などと遠慮なさらず、存分に御發言下さい。

  13. えーーーっ、なんと申しましょうか、皆さまご立派な方々ばかりで、私みたいな無学でしかも才も乏しく、経験も乏しい人間は、たぶんこう言いだすしかないのです。

    「結局どうすればいいんですか、日本は」と。
    誰が依然こう言いました。かの有名な方がこう考えました。
    そうですか、では貴方はどうお考えなんですか。どうすべきだとお考えですか。

    でも、この聞き方は一種卑怯です。
    ですので私は私なりの意見をはっきり述べます。

    アメリカは今の時点、日本におびえている段階です。
    原爆投下が原因です。
    もちろん上層部を中心とした感情でしょう。
    ですから、日本は手元に置いておきたい、がそれと同時に活躍もしてほしい。
    特に科学分野においてはそれが認知されつつあります。
    そうした、政治的かかわりからほど遠い場所で、アメリカがなしえない役割を補足してくれれば、しっかり結びつきを示しますよ。
    これが戦後の主な日米の外交基本姿勢でしょう。

    しかし、そのアメリカ自体が揺れる歴史を積み重ねてきたと見る筋もありませんか。
    日本は健気に戦後一貫しています、特に対米外交は。
    にもかかわらず、アメリカはあの手この手で来るわけです。
    そのアメリカの体質を、理解したうえで更にはやむを得ず、アメリカという国に世界的レベルでの外交を鑑み、友好を維持しなければならないのが、今の日本の置かれた位置だと認識しなければならないのなら、今回のオバマ広島訪問は、「成功」だと思います。

    現実を作ったこの事実は、歴史上消え去りません。
    極端なことを言えば、何を言い、何を思ったのか、という前に、何を為したか、ですよ。

    間違いなく白人大統領ならば為しえませんでしたでしょう。
    どれほどの魂胆がオバマにあるのかは、さすがに他人にはわからないというのが現状ではないですか。だからそれは時間が過ぎてから検証すればいいことで、現時点ではこれをどう日本が有効利用できるか、という問題の方が大きいのではないかと私は考えたわけです。
    私も安倍総理がベストオブ総理大臣だと思い込んでいるわけではありません。
    ただ、時間が過ぎてみると、彼の行動が評価されてしかるべきだ・・・という、そんな過去歴が多かったりしませんか。
    今回のサミットも、本当に運がいいというか、日本以外はあまりにも問題を抱えすぎた首脳ばかりで、安部氏が議長国という立場ではあっても、参加国の中で、唯一経済見通しが明るい日本が、世界経済の主導権を握れるチャンスだったと見るべきです。

    せいぜい反論したのはドイツのメルケルくらいでしょう。日本式の財政出動は日本にとって世界にとっても財政負担の悪化を招く・・・みたいな発言でしたが、移民受け入れ積極財政は元より、東ドイツ政策で将来の多額の税負担を強いた元西ドイツの浮かれた財政出動を、よっぽどこの場で指摘したい思いでしたよ。メルケルはやっぱり危険な存在なのかもしれません。
    彼女がしっかり世界を見渡せる才能がある人間なら、極端な移民受け入れ策などの実行も、ドイツがどうにか為せる方向があるのかも・・・と、思ったりしますが、でも現実は完全に国内事情の理由からそれが改善されない坩堝にあると見るべきでしょう。
    今になって、ドイツがバリケードを張ろうとしても、内部にすでに移民の二世三世が存在しているわけですから、もう手遅れです。しかしドイツはなんとか維持を図りたいわけで、これ以上の悪化は避けたいのが現実の中、安部氏の財政出動政策をサミットで言わせざるを得なかったわけです。
    ここに至るまでの安部氏の外交政策が結局は成功したと見るべきでしょう。
    その裏にはもとろんアメリカが存在しているわけです。
    アメリカがドイツにそれを納得させる条件を安部氏に一任したと見るべきではないでしょうか。

    こういう側面からも、今回のオバマ氏広島訪問は複雑に絡んだ政治の駆け引きの中に起こり得た歴史の事実だと私は思うのです。

    私はこの考えを、他人から聞いて思い立ったものではありません。
    すべて私の頭の中でそう思ったことを述べているだけです。

  14. あきんど様
    拙文を3度掲載して頂きましたので4度目も許されるのではと、池田様のお誘いもあり、書き始めましたが出来るだけ短い記述を心がけます。

    アメリカは日本になど怯えていないと思います。NPTで巧みに囲い込んだ上で、完全に日本を舐めています。これが悔しい、無念だというのが我々というか、私の、原点です。核で米国に復讐する権利が日本にだけはありますが、最早、日本人は核武装によって米国に復仇する、少なくも対等な独立国の立場になろうとする気概さえ亡くしています。

    米国は日本を手元に置き従属させ、管理し、搾取し、収奪したい、但しそれもあからさまではなくグローバリズムの巧みな言語表現で、日本国内のポチ親米保守勢力と結んで実現したいだけです。国際政治の現実はナショナリズムであって、国家間、民族間の資源(富)と市場を巡る争いが戦前と異なるのは(大国間では)武力ではなく言葉(外交)による争いに変わっただけで、そこに歴史戦が加わっています。この点は楽秋庵主殿のブログ分析が参考になると思います。

    米国は日本に「活躍してほしい」などと微塵も思っていません。トランプ発言(保守党)は米国の一般世論を代弁していますが正直に「日本などどうでもいい、金さえ払えば」と云っています。ヒラリー(民主党)も本音は同じです。民族的本能から英仏独に親近感を持つことはあっても日本には持たないと思った方がよく、2度の対日原爆投下もそのためでした。

    西尾先生の論述で知りましたが、米国は国債の巨額な利息を日本に払っていない、防衛装置品を米国からしか買えないそうです。石原慎太郎氏がよく指摘しますが、大型航空機、戦闘機の国産も許さず、広大な横田基地を占有したままです。これは私の意見ですが、福島原発事故で何故日本政府なり東電はGEのPL責任を問い賠償請求しなかったのでしょう?

    「アメリカがなしえない役割を補足してくれれば、しっかり結びつきを示します」と言われますが、米国が日本に期待するのは中国、北朝鮮、ロシア、韓国からの防波堤の役割と、属領国家としての役割だけで、これを抱きしめてきたのが戦後の日本の情けない「外交基本姿勢」です。

    「週間金曜日5/27」という左翼誌が「戦後憲法を敵視する保守統一戦線・日本会議」特集を組んでいるので読んでみました。能川元一という「どこかの大学非常勤講師」が、「現実政治では、対米追随によって米国の忠実な同盟国となることが日本の保守派にとって動かしがたい既定路線になっているのが実情」と指摘し、「安倍首相が先の戦争を侵略戦争ではなかったと公言できなかったことは歴史認識に関する右派の限界を示す」と述べ、「対米従属だから反米が出来る」としていますが、この指摘は日本の保守に本物と偽物の2つあることを故意に混同した彼ら一流の決め付けで、すり替えもあり、論理も破綻しています。

    もし間違っていたらご指摘頂きたいのですが西尾先生たちの真正保守派は「対米従属、隷属、追随を止め対等な立場での同盟。日本の軍備増強による米軍基地の随時撤退」の筈です。安倍首相一派の疑似保守は東京裁判史観を受け入れて片務的安保条約を維持する勢力です。これが今回の「謝罪しない米国を赦す」思想に結がったのです。

    優秀な通産官僚だった知人に、「なぜ米国の年次改革要求を受けるのか?」と糺したところ「米国は麻雀でいう親だ」という回答が返ってきました。30年以上前の昔話ですが日本の現政府、政権も似たようなものでしょう。

    能川非常勤講師の意見は左翼連中を代表すると見做していいかと思いますが、日本会議の代表的論客の高橋史朗氏の著作を批判して、「アメリカから見れば侵略戦争や戦争犯罪は事実に即した認識だから日本人がそうした認識をもつことが自虐であるはずがない」と無責任に宣っています。これも彼ら左翼特有の思考なのでしょうが、何故「アメリカから見る」ことに無邪気に同調するのでしょうか。アメリカの見方と自分らの見方が一致する?ならば自分が侵略戦争と断じる根拠を自主的、科学的に検証しているのか?

    高橋氏がどういう人物かは知りませんが、能川の引用した限りでは、我々の認識と一致しており、能川の反WGIP論の根拠は、①洗脳がGHQ占領終了後も呪縛し続けたというのは心理学的に無理がある、②GHQの提示した価値観を受け入れる歴史的土壌が日本にあり先の戦争を批判的に捉える自発的契機が日本の庶民にもあった、の2点です。

    この日録にアクセスする方であれば誰でも簡単に反論し論破できる議論であり、長くなるので止めますが、一言だけ付言するなら、彼ら左派に共通するのは、日本文化の教養、伝統と歴史の知識と敬意の欠如、日本の国民、庶民の安全、豊かな生活と幸福を確保するための国益の意識がないことです。

    昨年の安倍談話の折には西尾先生がプライムニュースに登場されましたがその後マスメディアで発言されないのは寂しい限りです。テレビご出演もさることながら、雑誌や新聞で正面から、エセ保守や左翼連中と正々堂々と論戦することを西尾先生や塾の方々に期待したいと思います。嘗て中村燦氏と林健太郎氏の間で戦わされた大東亜戦争の論戦は、保守陣営内でしたが、見事なもので、興味深く読んだ記憶があります。

    あきんど様は、「結局どうすればいいんですか、日本は」と問われていますが、私なりの答えは、ブログやメディアを通じて、論理的な対話や論戦を通じて、実証された事実の拡散を通じて、目覚めた者の「正論」を18歳以上の日本人全体に分かり易くあまねく普及させることではないかと考えます。

  15. >勇馬眞次郎様
    レスありがとうございます。

    >アメリカは日本になど怯えていないと思います。NPTで巧みに囲い込んだ上で、完全>に日本を舐めています。これが悔しい、無念だというのが我々というか、私の、原点で>す。核で米国に復讐する権利が日本にだけはありますが、最早、日本人は核武装によっ>て米国に復仇する、少なくも対等な独立国の立場になろうとする気概さえ亡くしていま>す。

    たしかに舐められている部分も数え切れないほどあります。しかし、いざ軍事に関する面では、基本姿勢は「危険な国の一つ」だと、アメリカは考えていると私は思います。
    それは単に舐めているという表現で収まりきらない、なにかアメリカ人にしか理解できないような『不安』を内包したものではないだろうかと推測します。
    名前は忘れましたが、昔日本の主要人が「日本は核武装も可能な国だ」と発言すると、慌ててアメリカの国務長官が日本にやってきて、それを否定するという一種の珍事がありましたね。これこそが、アメリカがいまだに日本を恐れているという一つの証拠なのです。
    本気になったら日本ほど手ごわい相手はいないという認識は、一応現時点でアメリカ上層部にはあるはずです。
    もともと日本封じ込め作戦を敷くアメリカの根拠はそこにあるのではないでしょうか。

    >米国は日本を手元に置き従属させ、管理し、搾取し、収奪したい、但しそれもあからさ>まではなくグローバリズムの巧みな言語表現で、日本国内のポチ親米保守勢力と結んで>実現したいだけです。国際政治の現実はナショナリズムであって、国家間、民族間の資>源(富)と市場を巡る争いが戦前と異なるのは(大国間では)武力ではなく言葉(外交)>による争いに変わっただけで、そこに歴史戦が加わっています。この点は楽秋庵主>殿のブログ分析が参考になると思います。

    この点は意見が一致します。

    >米国は日本に「活躍してほしい」などと微塵も思っていません。トランプ発言(保守党)>は米国の一般世論を代弁していますが正直に「日本などどうでもいい、金さえ払え>ば」と云っています。ヒラリー(民主党)も本音は同じです。民族的本能から英仏独に>親近感を持つことはあっても日本には持たないと思った方がよく、2度の対日原爆投下>もそのためでした。

    はい、確かにその通りでしょう。私の表現不足が原因で誤解を招いているのかもしれません。
    活躍してほしいという言葉の根底には、アメリカにとっては、日本がこの時点で唯一財政事情が安定しているということが暗黙の了解で、マスメディアが言うような日本の財政悪化説などは、はたして本当だろうかと思うこの頃です。
    例えば、日本の国債が、他国の買い入れが全くないことは、誰もがご存じでしょうが、それなのに国民の借金が数千兆円にも・・・及ぶとか及ばないとか・・・まぁ、どんな計算でそれをはじきだしたのかわかりませんが、そんな具合で国民は一種の洗脳をされています。
    G7が始まる前までは、メルケルはその日本の財政状態を、あたかも深刻な状態だともちかけ、自国の実情を棚上げ・・・とは申しませんが、ドイツが財政出動をかなり絞っていることを、安部氏にもちかけ単純な理解は示さなかったと聞きます。ドイツは財政出動を唯一拒否してきました。そんなメルケルの意固地な部分を打開できるのは、安部氏しかいないという日米でのやり取りがあったことはご存知でしょうか。
    NHKで放送していましたよ。様々な要因が絡んで、アメリカは日本の首相にドイツの参加を促したかったのでしょう。
    これはたしかに操られているという見方もできます。
    しかし、こうしたやりとりがあって、その意味でも日米の信頼が外交上成り立ち、その路線上に「オバマ氏広島訪問」という流れがあったのかもしれないのです。

    >西尾先生の論述で知りましたが、米国は国債の巨額な利息を日本に払っていない、防衛>装置品を米国からしか買えないそうです。石原慎太郎氏がよく指摘しますが、大型航空>機、戦闘機の国産も許さず、広大な横田基地を占有したままです。これは私の意見です>が、福島原発事故で何故日本政府なり東電はGEのPL責任を問い賠償請求しなかったの>でしょう?

    まったく同意見です。こういった点を拾い上げていくと、確かに日本は信頼されていないという前提が根拠づけられます。

    これ以降は勇馬様の貴重なご意見として重々認識いたします。
    貴重なご意見本当にありがとうございました。

  16. 西尾先生こんにちは。

    ネット等で目立つ、保守論壇の中の少なからぬ勢力である“安倍ファン”の先生方の
    「安倍総理は歴史的な快挙を成し遂げた!」式の言動をあまり目にしたくなく、
    保守論壇誌の購読を避けておりました。
    ですが、安倍談話の時と同じく「西尾先生ならどうおっしゃるだろう」と気になって、
    遅まきながら、月刊Hanadaの西尾先生の論考を拝読しました。
    まさに我が意を得たり、です。

    西尾先生は、日本人の「知覚の欠陥」「盲目性」「単純さ」と形容されましたが、
    思想の左右に関わらず、オバマの広島訪問に対するナイーブな意見には首を傾げざるを得ません。
    インターネット上でも、謝罪を求める事を中韓する行為のごとく非難したり、被害者がオバマを受け入れて
    許しているのだから赤の他人(!)がああだこうだ言うべきではないとか、
    日本も原爆開発を進めていたのだからアメリカの原爆投下を責める資格などないのだという発言を見掛け、
    終いには「オバマは日本の恩人だ」とまでいうものまで目にして鼻白む思いでした。

    『国家に真の友人はいない』という言葉は、ドゴールかキッシンジャーのものだったでしょうか。
    フィクションとして友好関係をアピールするのは良いかしれませんが、本気でそれを信じ込んでしまっている人がいる。アメリカ、台湾も日本の真の友人ではあり得ません。

    オバマの広島訪問の「成功」は、アメリカ人の「許されたい」、そして日本人の“恩讐を超えた”「許したい」という
    気持ちのバランスの賜物なのでしょう。でも、それ以上のものではないはずなのです。
    でも、いわゆる安倍信者だけが無邪気に信じ込んでいます。

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