『WiLL』7月号より
跡を絶たない観念保守派
否、そんなことはない、と言う人にはあえて言っておくが、東日本復興のための財源がなくて、やれ増税とか、やれ国債の日銀買取りとか論じられている昨今だが、日本は世界の債権国で、アメリカには百兆円も貸しつけている。その金が動かせないと頭から信じこまされているのはなぜなのか。そのうち三十兆円をいま使えば、増税も国債発行も必要ないのに、口が裂けても誰もそれを言わないし、言わないのは当然という顔をしているのは──本当に不自然な話!──なぜなのか。日本はすでにして、完全な操り人形国家なのである。
この悪夢の轍から逃れる唯一の道は、日本の軍事的自立以外にないのである。商人国家像の否定以外にないのである。
原発に話を戻すが、中曽根以来の原発路線は、軍事的にはアメリカに封じられたIAEA体制下に置かれ、まさに商人国家路線にほかならず、これを否定することが独立への第一歩である。これは、戦争が終わるや否や戦前が悪だったと反省するたぐいの歴史否定の自己欺瞞とは、およそ原理を異とする別件にほかならない。戦争の歴史と原発の歴史を同一視する頭の硬い保守派のイデオローグは、どうしてそんな簡単なことが分からないのか。
新幹線に事故のなかった国鉄を省みて、日本の技術力をもってすれば原発にも事故なきを期待できる──事故が現に起きているのに!──と強弁する観念保守派が今なお跡を絶たないが、そういう人はおよそ現実というものを正確に見ていない。国鉄には山之内幸一郎というような伝説的な逸材、事故事例を追い求めて、二度と同じ事故は許されないという強い信念と哲学を持つ技術者が中心にいた。彼がもし東電にいたら、反原発派の主張にも膝を屈し、進んで謙虚に耳を傾けただろう。
ホンダでも、トヨタでも、一流の企業文化には必ずそういう人間力と技量と哲学を兼ねそなえた技術者たちに培われた時期というものがある。残念ながら、日本の原子力発電は、そういう歴史を持っていない。基本的にアメリカの模倣であり、加えられた日本の技術は改良技術にとどまっている。
原発最優先キャンペーン
福島第一原発において一号炉はGE製であり、二号炉から六号炉までは東芝や日立が製作しているが、アメリカが設計図を引いたもののコピーにすぎない。日本中の他の原子炉も沸騰水型、加圧水型を問わず、設計の基本はアメリカにある。構造の改良は不十分で、残念ながら、地震の多い国に適用できる構造にはなっていないようだ。武田邦彦氏がマグニチュード6・0の直下型地震で日本の原発はすべて必ず壊れるようになっていると言っているのも、むべなるかなである。
国鉄やトヨタやホンダのような国産の企業文化、技術文化のうえに立脚していないのがわが原子力産業の実態であり、その馬脚が露骨に現れたのが、今回の事故であったといわざるを得ないだろう。武器輸出さえできないこの国で、どうして核爆弾と隣り合わせる原発の技術において、国産の枠を競えるであろう。
「第二の敗戦」「失われた十年」といわれた中曽根から小泉に至るわが国の対米再従属・対中新屈辱の歴史と歩みをともにした原発の歴史は、あらためて「非核三原則」の廃止に踏み切り、政治を再生し、そこから再出発する覚悟を新たにするしか、復活の道はないであろう。そこまで覚悟するなら、国産にも期待できる。今のままの原発依存の道を進むべきではあるまい。
日本人は、江戸時代の貧しさに立ち還る覚悟がなければ、今の原発を止めることはできないなどと安易な言葉で威す人がいる。あるいは、原発を止めれば日本の人口は遠からず半減するだろう、などと言う人もいる。果たしてそうだろうか。
われわれは「計画停電」で脅迫されたが、夏の盛りは別として、原発を停止しても休止中の火力発電を復活すればそんな危機はすぐこないという数字上の証明も、すでに各方面でなされている。もちろん、残された原発を今直ちに止めることは不合理である。日本は当分の間、稼働中の原発を上手に、合理的に運転していかなければならない。何ごとでも急激な変化、過激な措置は慎まなければならない。
けれども、原発による発電の価格は安く、太陽光など自然エネルギーは高くつくので、前者を後者で代替することは到底できない、と広く今まで信じられてきた前提には、数多くの疑問符がつけられてもいるのである。
原発は順調に運転されている稼働中の単位コストは安いかもしれないが、大金で住民を買収する地域対策費、巨額にのぼる廃棄物処理コストを加えて計算されているだろうか。さらに、今度のような事故が起これば、被害補償費は天文学的数字になり、安いなどとは到底いえないだろう。
太陽光発電、風力発電、地熱発電などは、まだわが国では本格的に試みられていない。あんなものは役立たないと鼻先で笑う人が多いが、ドイツでは発電量の二五~三〇%を占めるまでになっている。それは、電力会社による各家庭からの買い取りシステムが確立されているからである。
わが国でなぜ自然エネルギーの開発が立ち遅れたのかは、原発を最優先にする政治上のキャンペーンに抑圧され、足踏み段階で抑え込まれてしまっているからである。
浜岡原発停止は正しい
東電による「オール電化」のキャンペーンは実際、各家庭を襲ってもの凄かった。東京ガスは気押されていた。わが家の門前にも、ガスを止めて台所を全電化せよの誘いがうるさいほど来たと聞く。事故以来、ピタッと来なくなった。電力不足時代がはじまったからである。これで初めて、太陽光などの各家庭からの買い取りシステムが活発に動き出す下地ができたともいえるだろう。
電力不足が自然エネルギーの多様な開発を可能にし、コストを下げる作用をするだろう。必要が開発を促進する。日本がドイツ並みに全電力の二五~三〇%を代替エネルギーで賄うのも、そう難しい道のりではないと思う。
原発の今後の存続の可能性は、地震国に適応した日本独自の技術開発のいかんにかかっているが、相当に難しいのは、使い終わった燃料棒の処理にある。
じつは、使用済核燃料の処理は世界でどこもまだ成功していないのだと聞いている。アメリカとフィンランドは、燃料の残りは全部土中深く埋めこむ計画だが、まだ計画の段階である。日本とフランスは再利用する方向で、高速増殖炉は日本特有の技術ではあるが、平成十四年四月に停止してしまって、成功していない。他方、六ヶ所村の再処理工場は別の方向だが、ここも最終試験段階でトラブルが発生している。かりに成功してもいっぺんに処理できないので、中間貯蔵施設に使用済を何千本と保存しなくてはならないが、その施設がまだ出来上がっていないとも聞く。
しかも、再処理ができても「高レベル放射性廃棄物」は最後にどうしても残るのである。これを地下三百メートルに埋めこむ計画のようだが、どの自治体も受け入れを拒否している。三百メートルといっても、日本列島は地震大国である。地殻変動で将来何が起こるか分からない。燃料の最終処理はフランスも成功していない。前にも述べたが、子孫に残すべき国土は民族の遺産であって、永久の汚辱の大地にすることはできない。保守といわれる知識人のなかに、どうして美しく保存されるべき豊葦原瑞穂の国を、何万年にもわたり汚染してもいいと考えている人が少なくないのか、私にはまったく理解できない。それに、いかなる人の故郷も奪われてはならない。エネルギー問題をイデオロギーに囚われて争っていてはならない。
尖閣を中国から「守る」ことをしようとしなかった菅総理は、「守る」ということを正しく知っているとは思えない人物だが、彼による浜岡原発の停止命令は、その動機のあいまいさや場当たり性は別として、事柄自体としては私は評価している。福島と静岡の事故の挟み撃ちが万が一起こったら、日本は亡んでしまうだろう。誰よりもホッとしたのは、中部電力の幹部たちであっただろう。
世界から見放される日本
私は大震災から二週間ほど経た頃、産経新聞「正論」欄(二〇一一・三・三〇)に書いたコラムの末尾を次のように結んだ。
今後、わが国の原発からの撤退とエネルギー政策の抜本的立て直しは避け難く、原発を外国に売る産業政策ももう終わりである。原発は東電という企業の中でも厄介者扱いされ、一種の「鬼っ子」になるだろう。それでいて電力の三分の一を賄う原発を今すぐに止めるわけにいかず、熱意が冷めた中で、残された全国四十八基の原子炉を維持管理しなくてはならない。そうでなくても電力会社に危険防止の意志が乏しいことはすでに見た通りだ。国全体が「鬼っ子」に冷たくなれば、企業は安全のための予算をさらに渋って、人材配置にも熱意を失うだろう。私はこのような事態が招く再度の原発事故を最も恐れている。日本という国そのものが、完全に世界から見放される日である。
手に負えぬ四十八個の「火の玉」をいやいやながら抱きかかえ、しかも上手に「火」を消していく責任は企業ではなく、国家の政治指導者の仕事でなくてはならない。
震災直後のこの考えは今もまったく変わっていない。
最近知ったが、ドイツ政府には放射線防護庁という役所があり、十六の原子炉のある周辺地域で、幼児がガンにかかる確率が高いことが分かった。放射線の量はきわめて低く、現在の科学のレベルでは関連は証明できない。けれども、すべての原発立地地区で同じ結果が出たという事実だけが明らかになった。
また、私が信頼している人から直接聞いた話であるが、東京のがんセンターにある子供の病棟に茨城出身者が多く、東海村事故のせいとの観測が関係者の間で囁かれている。ドイツでは政府が公表し、日本では隠匿されている。今後、こうした問題は公開の場で討議されるべきである。
私は四月十四日に、保守系のある討論会で福島の子供の学童集団疎開を提言したが、参加者数名から言下に否定された。子供と大人では受ける影響が著しく違うことをもっと真剣に考えるようでありたい。
了