東京は新型ウィルスに襲われている

 春らしからぬ春が過ぎ、夏らしからぬ夏が近づいています。三月末のある夕べ、近くの公園に入りました。満開の桜の通りを覗き見しました。驚いたことに人の姿がまったくありません。夕方の五時ごろでした。国民が素直に政府の要請通りに自宅に籠っていた証拠です。
 
 六月の中頃、友人と久し振りに、本当に久し振りにレストランに入りました。もともとスペースの広い店なのにさらに隣の机を空席にし、非能率の客対応に耐えていました。私と友人はその上さらにテーブルを三つ並べて両端に離れて坐りました。店内に若い男女がビールの杯を掲げて賑やかに叫び合うシーンは見られませんでした。
 
 人の姿のまったく見えない桜並木は何となく不気味なものでした。賑やかな声の聞こえない会食風景は、不気味ではありませんが、若葉の美しい時節にどことなくふさわしくないものに感じられました。

 このどことなく鬱陶しい、神経症的な雰囲気は、全国同じとは思えません。東京は特殊なのかもしれない。

 新型ウィルスの襲来以来、私はわが身にもとうとう来るものが来たのかな、などといったあらぬ思いが心中からどうしても拭えません。

 一人の喜劇タレントの死が切っ掛けでした。私は病気持ちの84歳で、彼よりずっと条件が悪い。感染したら万に一つ助かる見込みはありません。二、三週間で、片がつくでしょう。その間呼吸のできないどんな苦しみに襲われるのだろうか、と生物としての不安が急に想像力の中に入って来ました。テレビはかの喜劇タレントがひとつの骨壺になって遺族に抱かれて自宅に帰ってくるシーンを映し出しました。彼の兄らしい人物が、「恐ろしい病気です。皆さん、気を付けて下さい。」とだけ言った。病中の枕頭への見舞はもとより、遺体との接見も認められなかった事情を言葉少なに語りました。
 
 死後直ちに焼却炉に入れられたという意味でしょう。屍体の取り違えは起こらないのだろうか、などと私はあらぬ空想に走る自分が恐ろしかったのです。中世末期のやり方と同じだな、とも思いました。その後やはりテレビでブラジルやアメリカやイタリアやスペインの乱暴な遺体処理の現場の遠景を若干覗き見ました。やはり中世と変わらないな、と再び思いました。

 しかし考えてみれば、死は一つであって、自分の死は他の人からどう看取られ、社会的にどう見送られるかのいかんで変わるものではありません。やはり自分の身にも来るべきものがついに来たのだな、とむしろ納得しました。そして夜、秘かに考えました。万が一、高熱が三日つづいて、PCR検査で陽性ときまり、入院せよという指示が出されたとします。私はいよいよ家を出るときに妻にどういう言葉をかけたらいいのだろうか。戸口で永遠の別れになる可能性はきわめて高い。このことだけは考えの中に入れていなかった、と不図気がついて、ゾッと総身に寒気が走ったのです。

 あゝ、そうか、そこまでは考えていなかったなぁ・・・と思うと、さらに想像は次の想像を誘いました。老夫婦二人暮らしのわが家では一方が感染すれば他方もまた必ず感染するに違いありません。ウィルスが家庭中に乱入したら防ぎようがないのです。そして、その揚句、私の住む東京のある住宅地からとつぜん二人の姿が消え、そしてそのあと何事もなかったかのごとく、街はいつもの静けさと明るさに立ち還るだろう。あゝ、そうか、そういうことだったな、とあらためて思い至ったのです。

 そんなこと分かり切っているではないか。お前はこの七月で85歳となることを考えていなかったのか。そう呼びかける声も聞こえて来ました。そうです。考えていなかったのです。あるいは、考えてはいても、考えを継続することを止めていたのです。

 生きるということはそういうことではないでしょうか。迂闊なのですが、迂闊であることは正常の証拠なのです。

 三年前の致命的な大病の結果から脱出しつつある今の私は、日々仕事に明け暮れていた昔日の自分の日常を取り戻そうとしている最中でした。すぐ疲れ、呼吸は乱れがちで、万事をテキパキ手際よく処理して来たかつての能力も今や衰え、あゝこんな筈ではなかったと途中で手を休め溜息をつくことしきりでありますが、毎日何かを果たそうと前方へ向かって生きているのは動かぬ事実です。今は伏せておきますが、私の人生譜の中に出て来なかった新しい主題や研究対象にも少しずつ手を伸ばし始めています。しかし公開する文章はどうしても今までやって来た仕事上のスタイルやテーマに傾き易く、掲載を用意してくれる月刊誌が求めるのも今までの私の常道であった世界と日本の現状分析です。こうして新型ウィルスの出現に揺れる世界と今の私の関係について、二篇の論文を発表しました。周知の通り「中国は反転攻勢から鎖国へ向かう」(『正論』2020年六月号)と、「安倍晋三と国家の命運」(同誌七月号)です。

 この二篇は、自分で言うのも妙ですが、今のところ大変に評判が良く、世界や日本の現実を疑っている人々の心を的確に捉え得ている分析の一例に入るだろう、と秘かに自負を覚えています。しかし「死を思え」と夜半に私を襲った不安の概念と直接には何の関係もありません。私は私を直かに表現していません。自分の生活にも触れていません。自己表現は現代政治論の形態をとっています。だから私の心を揺さぶっている本当のテーマに読者はすぐには気がつかないでしょう。けれども、とつぜん国境を越えた疫病の浸透とその世界史的震撼の図は、日本の一市井人だけでなく、トランプや習近平の胸をもかきむしる根源的不安をも引き起こす「不安の概念」と無関係ではありません。自己の実存のテーマに思いをひそめている人の文章であるか否かは、読者ひとりびとりの判断によって異なるでしょうが、それは読者ひとりびとりの「死を思え」の自覚のいかんに関わってくることだろうと考えています。

 と、そのように私はいま平然と偉そうに語っていますが、万が一感染を疑われ、玄関口を出て入院用の車に乗るあの瞬間に私は妻に何というだろうか、その言葉はまだ用意されていません。それどころか、言葉が見つからず思い悩んだというこの一件を私は彼女にまだ敢えて洩らしていないのです。語らないで済めばそれが一番いい。それが日常生活というものだ、と考えているからでしょう。そして私は日常を失うのをいま何よりも最大に恐れているのです。

(令和二年(2020)六月十八日)

2018年末から2019年初にかけて思うこと

 何を言っても、何を仕掛けても、この国の国民はもう反応する動きを見せない。私は今年も幾つもの石を投げ入れてみたが、国民の心は小波ひとつ絶たない泥沼のように静まり返っている。

 私は沼のほとりに今立って、思い切ってもう一回大きな石を投げてみようかと思ったが、もう止めた。私の真似をして沼に石を投げ入れている人を最近はときどき見掛けるようになったが、彼らも物音の大きい割に、深い処に波浪を引き起こすことはできていない。

 この国の国民はもう過去のことも未来のことも気に掛けなくなった。いま現在が幸せであれば、すなわち平穏無事であればそれで良いのである。

 普通はそれに反発するのが若者というものである。しかしこの国の若者は冬に入ってもスキーに行かない。車に興味がない。外国に行きたがらない。留学とか外国体験とかはもう遠い昔の人の人生記録に出てくる死語と化している。外国に行ってみたい気はあるが、新婚旅行で行けばいいや、と思って、それ以上は考えない。

 けれども本心は結婚もしたくない。男も女もこれから何十年かにわたって見ず知らずの一人の異性の運命と向き合って生きて行くのかと思うと気が重く、そこまでしないでもいいだろう、と他人ごとのように冷淡である。

 この国の若者はこの国のことも考えない。この国の未来を考えていら立つ人を見かけると、何と愚かな人かと思うだけで、何の感興も持たない。

 自分たちの給与は世界的にレベル以下だといわれるけれど、親の家に行くと冷蔵庫に物はいっぱい入っているし、親のいない人でもコンビニという「親の家」があって、不平さえ言わなければ、生きて行くのに不足はない。

 彼らを働かせる方法を考え出すのが政府の責任だが、政府は教育無償化などと言って何もしない若者の何もしたくない感情をますます拡大することに手を貸そうとしている。

 この国の若者はこの国を良い国だと思っている。世界一かどうかは分らないが、ネット情報で伝え聞く外国はどこもこの国より暮らしにくそうである。行ってみる気にもならないし、学ぶことなどなさそうである。政府はこの国は良い国だとしきりに言っているので、そうだと思っている。

 彼らは真面目で、小心で、信じ易い人々である。疑うことは恐ろしいことである。そんなことはしない方が良いと心底信じ込んでいて、自分の小さなねぐらにもぐり込む。

 そういう若者が中年にさしかかっている今、日本は寂として声のない深い沼に化している。私は沼のほとりに今立って、石を投げ入れようと思ったが、もう止めた。

 私はたくさんの石を投げ入れてきたのだ。すべてはブクブクといって沼の底に沈んだ。

        (二)

 年をとって仕事の能率が悪い。病気になって忙しさの種類が変わった。現象に目をやってそれを切って捨てる仕事はもう飽きた。私がWiLLにもHanadaにも手を出さなくなったことに気がついた人は多いだろう。本当は正論にも手を出すべきではないのだ。現象評論はもう止めたい。

 これが沼のほとりに立ちつくして石をもう投げたくない人間の正直な新しい心境なのである。

 けれども自分に対するこの戒律を自ら破り、スキを作ると、次々と病気以前の昔に立ち戻ってしまう。すべて産經系だが、『正論』に1月号、2月号、別冊正論33号とに顔を出した。新聞のコラム『正論』にも求められるままに何度か書いた。

 この間にインターネット・ジャーナリズムという名の新しい試みに誘われ、やめればよいのに旧知の仲間に引き込まれて、大きな時間を費やした。一応報告だけしておく。

 公開は1月末か2月にかけてで、「文春オンライン」というのに3回顔を出す。同じく2月にダイレクト社・リアルインサイト共同のネット何とか(?)という大型番組で、2回計8時間の「日本通史」を語る。後者は大企画である。

 沼に石を投げ入れ、この国を変えようなどという野心はもうさらさらない。ただこうした仕事をするのは今までの惰性であるのかもしれない。

       (三)

 石を投げ入れても効果のなかったこの国への絶望がいかに深いかは、年末に完成した西尾幹二全集第17巻「歴史教科書問題」の以下にお見せする目次を見ていただくときっと了解されるであろう。

 この一巻の編集業務に一年を要した。全集作成上の関門だった。

 ひとつ丁寧に見ていただきたい。1996‐2006年の間に何が起こったかを、これによりつぶさに思い起こしていただきたい。そしてぜひこの巻を手に取っていただきたい。あの時代に関するみなさまの自己検証のためにもきっとお役に立てる一巻ではないかと思う。

 そして、沼に石を投げる徒労の大きさを知ることで、この国の正体をあらためて本当に知ることにつながるよすがとなるのではないかと考えている。

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西尾幹二全集17巻『歴史教科書問題』

 目 次

序に代えて
めざしたのは常識の確立(二〇〇一年)

第一部
歴史のわからない歴史教科書
『歴史を裁く愚かさ』と『国民の油断』など
Ⅰ 背景と前提(一九九六年)
Ⅱ 問題提起のための藤岡信勝氏との対談本『国民の油断 歴史教科書が危ない !』( 一九九六年)
Ⅲ 起点と出発(一九九六~一九九七年)
Ⅳ 展開と抗議(一九九七年)
Ⅴ 公開討論『新しい日本の歴史が始まる』と『歴史教科書との15年戦争』(一九九七年)

第二部
理念の探究と拡大――『国民の歴史』と『地球日本史』
Ⅰ 理念の模索と探究(一九九〇〜二〇〇一年)
Ⅱ 理念の拡大――日本五百年史の必要(一九九〇~二〇〇五年)

第三部
検定と異常な騒音、『新しい歴史教科書』の誕生
Ⅰ『新しい歴史教科書』の検定(二〇〇〇年)
Ⅱ 市販本『新しい歴史教科書』のベストセラー化(二〇〇一~二〇〇二年)
Ⅲ 教科書採択と東アジアの政治情勢(二〇〇〇~二〇〇一年)

第四部
教科書採択と政治
1 匿名社会の出現と国家の漂流(二〇〇二~二〇〇三年)
Ⅱ 残された傷痕(二〇〇三~二〇〇五年)
Ⅲ 記録
Ⅳ 退任
追補1 西尾先生の努力は確実に実っている  渡辺惣樹
追補2 国民の歴史』を読んで  石 平
追補3 西尾幹二・ショーペンハウアー・ニーチェ  古田博司
後記

牛久大佛を訪れて

 東京からさほど遠くないところに途方もない巨きさの石の大佛像が建っていると聞いて、一度近寄ってみたいと思っていた。私の住む街区からでもマンションの高い階からならば見えるのかもしれない。

 友人たちを誘って出かけることになり、たまたま一年で一番暑い日といわれた梅雨あけの7月14日が選ばれた。このところ盛んに吹いていた風もなく、朝からジリジリ照りつける熱暑の日だった。友人の一人が十数人乗れる大型のレンタカーを用意してくれた。朝8時に友人たちは約束どおり杉並の西荻窪の駅近くに集合した。

 私がこの巨大石像を見たいと思ったのは多少の童心からと多少の美学的動機からだった。車に乗り込んでからすぐに一座の仲間に後者の動機について話をした。「葛飾北斎ですよ。遠近法で見慣れた通例の景色を意図的に壊すために北斎は寸尺の合わないものを並べることをよくやりました。富士山を遠景にして、手前にバカでかい舟や木樽を置いて近景をクローズアップさせ、思い切って中景を省いたショッキング画法はよく知られていますよね。あれですよ。」といささか怪しげな美学の講釈をした。

 私の目論見ではこの現代にピラミッド級の巨大な佛像が建立されれば、近隣に住む人にはえらく目障りに違いないアンバランスな光景が至る処に出現しているだろう、私はそれを見たいと思った。山中湖や河口湖の富士山にはこの驚きはない。甲府の町から見る富士山にはこの視覚上のショッキングがある。私は同じ驚きをカナディアン・ロッキーやドロミーテで経験した。私は牛久にもそれを期待した。だから石像そのものに興味はない。周辺の光景との不釣り合いを見たいのだ、と行きがけの車中で一息にしゃべった。同乗の友人たちは狐につままれたような不可解な顔をしていた。

 近寄って分ったのは石像の周りの環境は森林に覆われた地形が多く、現代的な建造物と重ね合わせるシーンが少ない。写真撮影の機会にも乏しい。それでも何度かシャッターチャンスはあった。皆さんが工夫して撮った数々の面白い映像とそれに伴うこの日の感想の言葉が今日から当ブログを賑わすことになるだろう。同じような似た画像が繰り返されてもよいことにしていただきたい。

 参加したのは次の方々である。
 阿由葉秀峰、伊藤悠可、岡田敦夫、岡田道重、佐藤春生、松山久幸、行澤俊治(現地参加)、吉田圭介の各氏である。

 なお私は病後にもめげず熱暑の中を歩きつづけ、一晩寝ただけで疲れも取れ、体力の自信を回復したことをご報告する。テレビの天気予報は「高齢者は安静にしていても熱中症になる恐れのある日だ」と警告していたので心配していた。

 天気予報は言い過ぎだ。ここまで言うのはかえって不安になるだけで良くない。

平成30年の年賀状

賀正

 現代世界の諸問題に囚われ過ぎて生きることは人間の弱点かもしれないと思うようになった。私は現代を研究する二つの勉強会を主宰し、月刊言論誌九冊の寄贈を受け、新聞やネットの方面も気懸かりで、家の中は到来する本を山積みにした気の利かない古書店のように乱雑である。

 耳がまだ聞こえるうちに少しでも良い音楽を聴いて死にたいと名演奏家を世界の涯てまで追いかけていた法律家の友人が四月死亡した。私は眼がまだ見えるうちに入るので、何とかパウル・ドイセンの『ヴェーダ・ウパニシャッド60篇』を読み込みたいと祈願している。これは金沢大で宗教哲学を教えていた友人が、ショーペンハウアーとニーチェを結んだドイセンの大業に直接に触れずしてどうして君は死ねるのか、とオランダで入手したドイツ語原本(第二版1905年)を私に寄贈してくれたものだ。一年前にその友も亡くなった。吉祥寺で二人で食事をした店の前を昨日も私は漫然と歩いていた。

平成30年 元旦  西尾幹二

晩春のひととき

永いあいだ、このブログに自筆の原稿を欠いてきました。近況報告をいたします。

「GHQ焚書図書開封」のTV放映を終了させました。第200回と第201回において、「最終講義」(その一)(その二)を録画し、終結篇としました。TV放映はこれで終りますが、現在11巻まで出ている書物のほうは、あと4巻くらいは出せるだろうと思います。

焚書図書は無尽蔵に存在すると思われるかもしれませんが、声を出して読み上げ、文字を追って読んでいたゞいて内容がすぐ分るタイプの本がもう見つからないのです。チャンネル桜所蔵本は2500冊くらいあります。随分さがしましたが、難しい本ばかりで、紹介しづらいのです。本さがしに疲れました。使い易い、いいテキストがあれば、放送はいくらでも続けられるのですが・・・・・・。

それでも200回はわれながらよくやったと思います。テレビ側も最終回にきれいな花を捧げてくれました。

雑誌『WiLL』が分裂するという騒ぎが起こりました。私はライターとして対応を迫られました。勿論、私は中立です。6月号としてはご承知のように『月刊WiLL』と『月刊Hanada』という、互いによく似た二誌が登場しました。私は

どちらにも協力しました。立林昭彦編集長も花田紀凱編集長も永いお付き合いで、ともに友人です。困ってしまいました。

当ブログ「日録」の筆を久しく絶っていた理由のひとつはこの件がどういう結果になるか分らなかったからで、知った情報は公開できなかったからです。

『WiLL』6月号では加地伸行氏との対談を行い、8年振りに皇室問題について発言しました。『月刊Hanada』6月号には「現代世界史放談」と題した約40枚のエッセー(16ページ)を出しました。「連作」と言われていますが、『正論』で連載をしていますので両方できるかどうか分りません。たゞ、この「放談」はいろいろ工夫がなされていて、読者の皆さんは40枚あってもあっという間に読み上げてしまうでしょう。そういう声もすでに聞こえています。

『正論』6月号には500年史の連載第16回目が出ます。前回までに取り上げた「北太平洋」の地政学的特異性と江戸の鎖国との関係を論じています。4月24日つくる会東京支部主催の講演会でお話しした「鎖国とヨーロッパ」はこれを踏まえたものでした。

当ブログに力作を寄せて下さいましたBruxellesさん、どうもありがとうございました。あなたのブログTel Quel Japonは素晴らしく面白い内容なので、リンクが張ってありますから、読者の皆さんは是非クリックして見て下さい。とても勉強になります。また今後とも過去のブログ内容の紹介をよろしくおねがいします。

3月末まで今年は寒さがこたえました。やっと今、暖かくなりホッとしています。私の健康はいろいろ問題がありますが、決定的で重大な問題はありません。ひきつづき仕事に精を出します。

全集は第13巻『日本の孤独』が刊行され、次の『少年記』をめざして整理が進められています。最近うれしいのは全集の途中から全巻購読の予約を申し込んで下さる方が少し増えて来たことです。大変ありがたいことだと思っています。感謝申し上げます。

「インターネット日録」の再出発にあたり

当ブログ「西尾幹二のインターネット日録」のヴァージョンアップの改築工事中ですが、面倒な作業を続行している高木薫さんにまず厚く御礼申上げます。

間もなく坦々塾新年会のシンポジウムと質疑応答を録画したYouTubeを開示いたします。再出発にふさわしい内容と存じます。

さて、私はといえば、全集第13巻『日本の孤独』の「後記」約50枚を一昨日完了し、これから『正論』の連載に取りかゝるのですが、その前に「確定申告」の計算を計理士に渡すという面倒な、一年でいちばん嫌な仕事を片づけねばなりません。

きっと気づいている方はいると思いますが、『正論』の連載は遅々として捗りません。いま新しい鎖国論を試み始めていて、その入り口で立ち停っております。鎖国に入ったわが国の前期鎖国時代(1630~1750)を日本の外から眺めるという視点が、今までの歴史書にほとんどありません。日本史研究家にありません。

イギリスの地球侵略史の全体構図の中で、なぜ日本列島と北太平洋は見逃されていたのか。日本の軍事的強さゆえなのか、ぼんやり見過ごした幕府の迂闊さなのか、恵まれた富(金、銀、銅の埋蔵)のゆえか、東側の海(北太平洋)が深く荒涼たる深淵であったがゆえか、そういうことを今までの歴史家は考えないのです。日本史の内側のことを詳しくほじくっているばかりです。

今このテーマにぶつかっていて、勉強の時間が足りなくて、立往生しています。連載は2回休みました。編集長に「あゝ書けない!今月も書けないですよ。時間が足りない!」と嘆いて、代りになんらかの『時局論』を書きます。かくて3月号は「日韓合意の悪夢の到来」を、4月号は「覚悟なき経済制裁の危険」を書いて、お茶を濁しました。これが真相です。

濁したお茶も、それぞれ味も良い、こくのある濃いお茶ですから、安心して飲んで下さい。水で薄めてなんかしていません。けれども歴史論より10分の1の時間で書けるのです。

「GHQ焚書図書開封」をYouTubeでご覧下さっている熱心な愛読者の方もおられるので、これについてもひとことご報告しておきます。

この仕事は本当はもう止めたいのです。種本はいくらもありそうですが、使える本、テレビに向いている本、読みあげて分る本は尽きかけています。テーマは勿論まだたくさん残っています。「ユーラシア侵略国ロシア」「ノモンハン事件」「満州」など、きりがないほどテーマは残っています。今週からロシア史に取りかゝりました。3月末放送を皮切りにロシア史をつづけます。4月にいよいよついに200回目!の放送録画となります。順にYouTubeでも流布しています。

次回の刊行本は「GHQ焚書図書開封」第12巻「名著発見」で、和辻哲郎、真山青果、山中峯太郎、を取り上げます。わけても真山青果の戯曲『乃木将軍』が白眉です。この巻では、司馬遼太郎の『殉死』を集中的に批判しました。すでにYouTubeでご覧の方もいるでしょうが、本になったら「歴史とは何か?」をしかと考えて下さい。通俗作家は結局は通俗的なのだということもきっと分るでしょう。

では、読者の皆さま、今後も「インターネット日録」をご覧下さい。コメント欄もよろしくお願いします。

 

少し寒くなりましたね。

 少し寒くなりましたね。皆さんはいかがですか。

 9月26日の私の講演「昭和のダイナミズム」の内容を上手にまとめて下さり、加えて、ご自身の歴史の見方をご披露くださった阿由葉秀峰さん、ご苦労様でした。ことに最後に「歴史とは何か」に関する短文を拙著の各所から拾い出して並べて下さいましたこと――良く読み込んでいるなァ、と感服しました。どうもありがとうございました。

 さて、私の最近の心配は脚力の衰えてきたことです。犬の散歩ぐらいでは足りません。ことにうちの犬は怠け者で、事を済ますと、すぐ「帰る」と言ってきかないのです。

 私は毎日一、二時間早足で歩行することが必要なのですが、仕事の時間にくいこむので忙しくなるとつい外出歩行を止めてしまいます。雨など降って三日くらい外出しないでいると、自分の脚のようでなく、身体が前へ出て脚がついて来ないという状態になります。何とかして歩行の時間を確保しなくてはなりません。深刻な悩みです。

 三つの課題に責められています。(一)全集のための資料蒐集・整理・配列、校正、後記(自己解説)執筆。(二)『正論』連載(現在15回)。(三)『GHQ焚書図書開封』(現在11巻)のためのテレビ録画、そのための研究と準備。以上三つの課題のために他の一般の仕事が出来なくなっています。健康維持に回す時間をこの中でどう確保するかが今の私の毎日の「戦い」の内容です。

 全集第12巻『全体主義の呪い』(第13回配本)が間もなく刊行されます。目次をお目にかけます。

   目 次

序に代えて ドイツよ、日本の「戦後処理」を見習え

Ⅰ 全体主義の呪い―――東西ヨーロッパの最前線に見る

前編 罪と罰
 第一章 プラハのサロン「黒い馬」にて
 第二章 国立哲学研究所でのディベート
 第三章 「地下出版物」編集者の確信
 第四章 個人の責任はどこまで問えるか
 第五章 恐怖の遺産
 第六章 ドイツーー魔女狩りのページェント
 第七章 人間の罪は区別できるか
後編 自由の恐怖
 第八章 ワルシャワの自由の誇り
 第九章 埋められぬ断層
 第十章 病者の特権
 終 章 嗚呼いずこに行く薄明の未来
あとがき

Ⅱ 異なる悲劇 日本とドイツ

 ヴァイツゼッカ―前ドイツ大統領謝罪演説の欺瞞
 英米からみた日本の謝罪問題
 ヴァイツゼッカ―来日演説に見る新たなる欺瞞(その一)
 ヴァイツゼッカ―来日演説に見る新たなる欺瞞(その二)
 『異なる悲劇 日本とドイツ』がもたらした政治効果とマスコミへの影響―私の自己検証
 ドイツの終戦記念日
 「全体主義と戦争」再考―毎日新聞インタビュー
 欧州戦争と異なる日米戦争の背景

Ⅲ 旧共産主義地域への和解と支援が引き起こす地球上の亀裂

 コール独首相のしたたかさ
 日独共通課題論の誤り
 冷戦後の「戦争と平和」考
 統一ドイツの行方――われわれが初めて出合ったドイツの悪意

Ⅳ 『全体主義の呪い』の改訂版『壁の向こうの狂気』より

 前奏曲(プレリュード)――90年代の日本と世界
 間奏曲(インテルメツツオ)――北朝鮮、イラク、そして中国という新しい脅威
 終 曲(フィナーレ)――「拉致」と「核」で試される日本人の智恵と勇気

追補一 恐るべき真実を言葉にする運命 坂本多加雄
追補二 辻井喬・西尾幹二対談 歴史の終結 歴史の開始
追補三 江藤淳・西尾幹二対談 新・全体主義が日本を呪縛する

後記

夏の近況ひとこと

 夏風邪をこじらせたりして七月は少し困りましたが、さして大きな支障もなく、次々と仕事を発表しています。その中でご注目賜りたいのは『正論』9月号の私の連載の第三章⑥です。ヨーロッパ近世論のさいごで、折り返し点です。

 川口マーン恵美さんとの対談本『膨張するドイツの衝撃――日本は「ドイツ帝国」と中国で対決する――』ビジネス社¥1400が8月7日に刊行されました。

 当ブログで公開されている私の「夏の夜の自由談話」3はこれに符号を合わせ「EU全体が見えないドイツの暴走」です。8月12日放映、13日以後にここに転載されます。
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 その前になりますが、8月12日(水)BSテレビ・フジ系20:00「プライムニュース」に出演します。対話相手は曽野綾子さんで、テーマは戦争についてです。

 『GHQ焚書図書開封 11――維新の源流としての水戸学』は一昨日やっと校了になりました。8か月かかった面倒な仕事でした。刊行は8月末です。

 そんなわけで暑くても息が抜けません。近況の一端をとり急ぎお知らせしました。

春の近況報告

 4月29日、春の叙勲で瑞宝中綬章というのを頂きました。御祝辞、御激励に厚く御礼申し上げます。

 本年5月に予定されていることを以下に列記します。

 『人生について』と題した新潮文庫の5月新刊が出版されました。解説は伊藤悠可氏です。この本はすでに皆さまご存知の『人生の深淵について』の同一本です。「長寿について」という一文を新に書いて「あとがきに代えて」としました。

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 連載続行中の『正論』の6月号(5月1日発売)ではまたまた連載を休みました。代わりに「中国、この腐肉に群がるハイエナ」(30枚)を書きました。ハイエナは西欧諸国のことで、とりわけイギリスのことです。ロンドンのシティを論じました。

 5月4日(月)午後8:00~9:55(BSフジ生放送)の「プライムニュース」に出演します。テーマは「昭和を創った人たち――三島由紀夫」で、共演者は村松英子さんです。約2時間に及ぶ番組で、時間を気にせずかなり話せると思います。三島の自決と日本の核武装断念の関係について語ります。

 5月6日(水)の私の「GHQ焚書図書開封」(日本文化チャンネル桜)の時間帯に「GHQ日本人洗脳工作の原文発掘――関野通夫氏と語る(一)」を放送します。

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(2015/03/11)
関野通夫

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(二)は5月20日です。話題をよんだ「自由社ブックレット」の関野著「日本人を狂わせた洗脳工作――いまなお続く占領軍の心理作戦」をめぐって行われた対談番組です。翌日にはYou Tube になります。

 5月後半に私の全集第11巻『自由の悲劇』(第12回配本)が刊行されます。共産主義の終焉、ソ連の消滅という1989-91の劇的事件にそのつど私が心震わせ、歴史と未来を論じた一巻です。今の情勢はすでに予言されています。

 加藤康男著『昭和天皇、七つの謎』の書評を産経新聞に出します。

 私の全集の新しい内容見本が作成されます。全集はいま半分を越え、残りの11冊をどう読んでいたゞくかの大切な岐路に立たされています。