晩春のひととき

永いあいだ、このブログに自筆の原稿を欠いてきました。近況報告をいたします。

「GHQ焚書図書開封」のTV放映を終了させました。第200回と第201回において、「最終講義」(その一)(その二)を録画し、終結篇としました。TV放映はこれで終りますが、現在11巻まで出ている書物のほうは、あと4巻くらいは出せるだろうと思います。

焚書図書は無尽蔵に存在すると思われるかもしれませんが、声を出して読み上げ、文字を追って読んでいたゞいて内容がすぐ分るタイプの本がもう見つからないのです。チャンネル桜所蔵本は2500冊くらいあります。随分さがしましたが、難しい本ばかりで、紹介しづらいのです。本さがしに疲れました。使い易い、いいテキストがあれば、放送はいくらでも続けられるのですが・・・・・・。

それでも200回はわれながらよくやったと思います。テレビ側も最終回にきれいな花を捧げてくれました。

雑誌『WiLL』が分裂するという騒ぎが起こりました。私はライターとして対応を迫られました。勿論、私は中立です。6月号としてはご承知のように『月刊WiLL』と『月刊Hanada』という、互いによく似た二誌が登場しました。私は

どちらにも協力しました。立林昭彦編集長も花田紀凱編集長も永いお付き合いで、ともに友人です。困ってしまいました。

当ブログ「日録」の筆を久しく絶っていた理由のひとつはこの件がどういう結果になるか分らなかったからで、知った情報は公開できなかったからです。

『WiLL』6月号では加地伸行氏との対談を行い、8年振りに皇室問題について発言しました。『月刊Hanada』6月号には「現代世界史放談」と題した約40枚のエッセー(16ページ)を出しました。「連作」と言われていますが、『正論』で連載をしていますので両方できるかどうか分りません。たゞ、この「放談」はいろいろ工夫がなされていて、読者の皆さんは40枚あってもあっという間に読み上げてしまうでしょう。そういう声もすでに聞こえています。

『正論』6月号には500年史の連載第16回目が出ます。前回までに取り上げた「北太平洋」の地政学的特異性と江戸の鎖国との関係を論じています。4月24日つくる会東京支部主催の講演会でお話しした「鎖国とヨーロッパ」はこれを踏まえたものでした。

当ブログに力作を寄せて下さいましたBruxellesさん、どうもありがとうございました。あなたのブログTel Quel Japonは素晴らしく面白い内容なので、リンクが張ってありますから、読者の皆さんは是非クリックして見て下さい。とても勉強になります。また今後とも過去のブログ内容の紹介をよろしくおねがいします。

3月末まで今年は寒さがこたえました。やっと今、暖かくなりホッとしています。私の健康はいろいろ問題がありますが、決定的で重大な問題はありません。ひきつづき仕事に精を出します。

全集は第13巻『日本の孤独』が刊行され、次の『少年記』をめざして整理が進められています。最近うれしいのは全集の途中から全巻購読の予約を申し込んで下さる方が少し増えて来たことです。大変ありがたいことだと思っています。感謝申し上げます。

「インターネット日録」の再出発にあたり

当ブログ「西尾幹二のインターネット日録」のヴァージョンアップの改築工事中ですが、面倒な作業を続行している高木薫さんにまず厚く御礼申上げます。

間もなく坦々塾新年会のシンポジウムと質疑応答を録画したYouTubeを開示いたします。再出発にふさわしい内容と存じます。

さて、私はといえば、全集第13巻『日本の孤独』の「後記」約50枚を一昨日完了し、これから『正論』の連載に取りかゝるのですが、その前に「確定申告」の計算を計理士に渡すという面倒な、一年でいちばん嫌な仕事を片づけねばなりません。

きっと気づいている方はいると思いますが、『正論』の連載は遅々として捗りません。いま新しい鎖国論を試み始めていて、その入り口で立ち停っております。鎖国に入ったわが国の前期鎖国時代(1630~1750)を日本の外から眺めるという視点が、今までの歴史書にほとんどありません。日本史研究家にありません。

イギリスの地球侵略史の全体構図の中で、なぜ日本列島と北太平洋は見逃されていたのか。日本の軍事的強さゆえなのか、ぼんやり見過ごした幕府の迂闊さなのか、恵まれた富(金、銀、銅の埋蔵)のゆえか、東側の海(北太平洋)が深く荒涼たる深淵であったがゆえか、そういうことを今までの歴史家は考えないのです。日本史の内側のことを詳しくほじくっているばかりです。

今このテーマにぶつかっていて、勉強の時間が足りなくて、立往生しています。連載は2回休みました。編集長に「あゝ書けない!今月も書けないですよ。時間が足りない!」と嘆いて、代りになんらかの『時局論』を書きます。かくて3月号は「日韓合意の悪夢の到来」を、4月号は「覚悟なき経済制裁の危険」を書いて、お茶を濁しました。これが真相です。

濁したお茶も、それぞれ味も良い、こくのある濃いお茶ですから、安心して飲んで下さい。水で薄めてなんかしていません。けれども歴史論より10分の1の時間で書けるのです。

「GHQ焚書図書開封」をYouTubeでご覧下さっている熱心な愛読者の方もおられるので、これについてもひとことご報告しておきます。

この仕事は本当はもう止めたいのです。種本はいくらもありそうですが、使える本、テレビに向いている本、読みあげて分る本は尽きかけています。テーマは勿論まだたくさん残っています。「ユーラシア侵略国ロシア」「ノモンハン事件」「満州」など、きりがないほどテーマは残っています。今週からロシア史に取りかゝりました。3月末放送を皮切りにロシア史をつづけます。4月にいよいよついに200回目!の放送録画となります。順にYouTubeでも流布しています。

次回の刊行本は「GHQ焚書図書開封」第12巻「名著発見」で、和辻哲郎、真山青果、山中峯太郎、を取り上げます。わけても真山青果の戯曲『乃木将軍』が白眉です。この巻では、司馬遼太郎の『殉死』を集中的に批判しました。すでにYouTubeでご覧の方もいるでしょうが、本になったら「歴史とは何か?」をしかと考えて下さい。通俗作家は結局は通俗的なのだということもきっと分るでしょう。

では、読者の皆さま、今後も「インターネット日録」をご覧下さい。コメント欄もよろしくお願いします。

 

少し寒くなりましたね。

 少し寒くなりましたね。皆さんはいかがですか。

 9月26日の私の講演「昭和のダイナミズム」の内容を上手にまとめて下さり、加えて、ご自身の歴史の見方をご披露くださった阿由葉秀峰さん、ご苦労様でした。ことに最後に「歴史とは何か」に関する短文を拙著の各所から拾い出して並べて下さいましたこと――良く読み込んでいるなァ、と感服しました。どうもありがとうございました。

 さて、私の最近の心配は脚力の衰えてきたことです。犬の散歩ぐらいでは足りません。ことにうちの犬は怠け者で、事を済ますと、すぐ「帰る」と言ってきかないのです。

 私は毎日一、二時間早足で歩行することが必要なのですが、仕事の時間にくいこむので忙しくなるとつい外出歩行を止めてしまいます。雨など降って三日くらい外出しないでいると、自分の脚のようでなく、身体が前へ出て脚がついて来ないという状態になります。何とかして歩行の時間を確保しなくてはなりません。深刻な悩みです。

 三つの課題に責められています。(一)全集のための資料蒐集・整理・配列、校正、後記(自己解説)執筆。(二)『正論』連載(現在15回)。(三)『GHQ焚書図書開封』(現在11巻)のためのテレビ録画、そのための研究と準備。以上三つの課題のために他の一般の仕事が出来なくなっています。健康維持に回す時間をこの中でどう確保するかが今の私の毎日の「戦い」の内容です。

 全集第12巻『全体主義の呪い』(第13回配本)が間もなく刊行されます。目次をお目にかけます。

   目 次

序に代えて ドイツよ、日本の「戦後処理」を見習え

Ⅰ 全体主義の呪い―――東西ヨーロッパの最前線に見る

前編 罪と罰
 第一章 プラハのサロン「黒い馬」にて
 第二章 国立哲学研究所でのディベート
 第三章 「地下出版物」編集者の確信
 第四章 個人の責任はどこまで問えるか
 第五章 恐怖の遺産
 第六章 ドイツーー魔女狩りのページェント
 第七章 人間の罪は区別できるか
後編 自由の恐怖
 第八章 ワルシャワの自由の誇り
 第九章 埋められぬ断層
 第十章 病者の特権
 終 章 嗚呼いずこに行く薄明の未来
あとがき

Ⅱ 異なる悲劇 日本とドイツ

 ヴァイツゼッカ―前ドイツ大統領謝罪演説の欺瞞
 英米からみた日本の謝罪問題
 ヴァイツゼッカ―来日演説に見る新たなる欺瞞(その一)
 ヴァイツゼッカ―来日演説に見る新たなる欺瞞(その二)
 『異なる悲劇 日本とドイツ』がもたらした政治効果とマスコミへの影響―私の自己検証
 ドイツの終戦記念日
 「全体主義と戦争」再考―毎日新聞インタビュー
 欧州戦争と異なる日米戦争の背景

Ⅲ 旧共産主義地域への和解と支援が引き起こす地球上の亀裂

 コール独首相のしたたかさ
 日独共通課題論の誤り
 冷戦後の「戦争と平和」考
 統一ドイツの行方――われわれが初めて出合ったドイツの悪意

Ⅳ 『全体主義の呪い』の改訂版『壁の向こうの狂気』より

 前奏曲(プレリュード)――90年代の日本と世界
 間奏曲(インテルメツツオ)――北朝鮮、イラク、そして中国という新しい脅威
 終 曲(フィナーレ)――「拉致」と「核」で試される日本人の智恵と勇気

追補一 恐るべき真実を言葉にする運命 坂本多加雄
追補二 辻井喬・西尾幹二対談 歴史の終結 歴史の開始
追補三 江藤淳・西尾幹二対談 新・全体主義が日本を呪縛する

後記

夏の近況ひとこと

 夏風邪をこじらせたりして七月は少し困りましたが、さして大きな支障もなく、次々と仕事を発表しています。その中でご注目賜りたいのは『正論』9月号の私の連載の第三章⑥です。ヨーロッパ近世論のさいごで、折り返し点です。

 川口マーン恵美さんとの対談本『膨張するドイツの衝撃――日本は「ドイツ帝国」と中国で対決する――』ビジネス社¥1400が8月7日に刊行されました。

 当ブログで公開されている私の「夏の夜の自由談話」3はこれに符号を合わせ「EU全体が見えないドイツの暴走」です。8月12日放映、13日以後にここに転載されます。
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 その前になりますが、8月12日(水)BSテレビ・フジ系20:00「プライムニュース」に出演します。対話相手は曽野綾子さんで、テーマは戦争についてです。

 『GHQ焚書図書開封 11――維新の源流としての水戸学』は一昨日やっと校了になりました。8か月かかった面倒な仕事でした。刊行は8月末です。

 そんなわけで暑くても息が抜けません。近況の一端をとり急ぎお知らせしました。

春の近況報告

 4月29日、春の叙勲で瑞宝中綬章というのを頂きました。御祝辞、御激励に厚く御礼申し上げます。

 本年5月に予定されていることを以下に列記します。

 『人生について』と題した新潮文庫の5月新刊が出版されました。解説は伊藤悠可氏です。この本はすでに皆さまご存知の『人生の深淵について』の同一本です。「長寿について」という一文を新に書いて「あとがきに代えて」としました。

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 連載続行中の『正論』の6月号(5月1日発売)ではまたまた連載を休みました。代わりに「中国、この腐肉に群がるハイエナ」(30枚)を書きました。ハイエナは西欧諸国のことで、とりわけイギリスのことです。ロンドンのシティを論じました。

 5月4日(月)午後8:00~9:55(BSフジ生放送)の「プライムニュース」に出演します。テーマは「昭和を創った人たち――三島由紀夫」で、共演者は村松英子さんです。約2時間に及ぶ番組で、時間を気にせずかなり話せると思います。三島の自決と日本の核武装断念の関係について語ります。

 5月6日(水)の私の「GHQ焚書図書開封」(日本文化チャンネル桜)の時間帯に「GHQ日本人洗脳工作の原文発掘――関野通夫氏と語る(一)」を放送します。

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(二)は5月20日です。話題をよんだ「自由社ブックレット」の関野著「日本人を狂わせた洗脳工作――いまなお続く占領軍の心理作戦」をめぐって行われた対談番組です。翌日にはYou Tube になります。

 5月後半に私の全集第11巻『自由の悲劇』(第12回配本)が刊行されます。共産主義の終焉、ソ連の消滅という1989-91の劇的事件にそのつど私が心震わせ、歴史と未来を論じた一巻です。今の情勢はすでに予言されています。

 加藤康男著『昭和天皇、七つの謎』の書評を産経新聞に出します。

 私の全集の新しい内容見本が作成されます。全集はいま半分を越え、残りの11冊をどう読んでいたゞくかの大切な岐路に立たされています。

予定変更の報告と弁解

 結論から申し上げると、あと一週間ほどで刊行される『正論』4月号に、「ヨーロッパ流『正義の法』体制は神話だった」という私の新しい論文(14ページ、35枚)が掲載されます。「戦争史観の転換」と題した連載の13回目はまたまた休載となります。その代りこれは連載の「番外編」として扱われます。イスラム教とキリスト教の対立相剋を扱った論文なので時宜は適っていますが、連載の趣旨からははずれているからです。

 なぜこんなことになったのか。私に両論を書く体力と時間がなかったからです。講演を阿由葉秀峰さんに完璧に文字起こししてもらいました。それを手直ししてブログに載せ、一方連載はこれとは別に今月分を書く予定でした。ところが講演筆録は80枚分くらいになり、途中でこれをまとめるだけで十分に一か月かかると気がつきました。そう考えてウカウカしているうちに、連載の方の一回分を書くための準備も不十分だし、2月は〆切りが早いので、立往生しました。

 そこで編集長がブログの80枚を35枚に圧縮して、雑誌向きにまとめ直して、「番外編」として扱えるようなスタイルにすれば連載は休載しても許してやる、といわれたので、そのアイデアに乗っかることにしたのです。

 だいたい月に二篇を出すことは私にはもう無理と分りました。阿由葉さんに作成してもらった元原稿の約80枚の三分の二はもう使えません。終りの方の三分の一か四分の一かはまだ出せばリアリティがあります。どうしようか、迷っています。次の月の連載が迫ってきて、しかも今三冊の本の校正ゲラが襲いかかってきて、正直、何かをあらためて企て、実行する気力がありません。

 このブログにコメントして下さる方にお願いしたいのは、雑誌や本で刊行したものの感想を是非書いて下さい。さしあたり『正論』4月号が出たら、それを読んで、コメントしていただけたらとてもうれしいです。

 襲いかかってきているゲラ刷り三冊とは ①全集第11巻「自由の悲劇」 ②GHQ焚書図書第11巻「維新の源流としての水戸学」 ③新潮文庫「人生について」です。どれも3月20日ごろが〆切りです。

謹賀新年平成27年(2015年)元旦

 昨年は当ブログにおける私の文章の更新は少なく、このことに関する限り不本意でした。お詫び申し上げます。
 
 病気したわけでも海外旅行をしたわけでもなく、全集の刊行が難しい局面を迎え、編集校正に追われ、しかも昨年内刊行予定の第10巻が遅延して1月刊となる不始末でした。間もなく刊行されます。

 第10巻は『ヨーロッパとの対決』と題し、世界に中心軸は存在しないこと、西欧は閉鎖文明であること、西欧の地方性、周辺性、非普遍性を、ドイツやパリで言って歩いた記述を元に展開しています。

 たまたま『GHQ焚書図書開封』⑩は『地球侵略の主役イギリス』という題で年末に刊行されました。西欧の先端を走ったイギリスの閉ざされた闇を問いました。

 ただこの本はそれだけでなく、第1章「明治以来の欧米観を考え直す」に注目していたゞきたいのです。近年ウォラスティーンなどに依存し、再び西洋中心史観に溺れかかっている現代日本の歴史の学問、人文社会科学系の学問一般に疑問を突きつけています。

 もうひとつ『正論』連載の「戦争史観の転換」も第11回を迎え、スペインからイギリスに移動したヨーロッパのパワーが中世以来のカトリック政治体制の闇を背後に秘めてアジアに向かってくることを論じ始めています。

 以上三つの仕事がどれも手を抜けず、息もつけない有様で、昨年はあっという間に一年が過ぎました。三つの仕事が期せずしてバラバラでなく、一つの結論に向かって同一方向を目指していたことに自らやっと気がつき、計画外のことでしたので、吃驚しております。

 以上三つの歴史像が今私の中でひとつになって熱っぽく回転しています。今年もその駒を回しつづけることになるでしょう。

 皆さまのご健勝を祈ります。

(追記)『GHQ焚書図書開封』は①~⑤の徳間文庫化が始まりました。

GHQ焚書図書開封1: 米占領軍に消された戦前の日本 (徳間文庫カレッジ に 1-1) GHQ焚書図書開封1: 米占領軍に消された戦前の日本 (徳間文庫カレッジ に 1-1)
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GHQ焚書図書開封〈2〉バターン、蘭印・仏印、米本土空襲計画 (徳間文庫カレッジ) GHQ焚書図書開封〈2〉バターン、蘭印・仏印、米本土空襲計画 (徳間文庫カレッジ)
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GHQ焚書図書開封〈3〉戦場の生死と「銃後」の心 (徳間文庫カレッジ) GHQ焚書図書開封〈3〉戦場の生死と「銃後」の心 (徳間文庫カレッジ)
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GHQ焚書図書開封10: 地球侵略の主役イギリス GHQ焚書図書開封10: 地球侵略の主役イギリス
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「正論」連載「戦争史観の転換」について

 「週刊新潮掲示板」(2014年6月26日号)に次のようなおねがいを掲げた。多分、返事を言ってこられる方はいないだろう。

 ここは小さな簡単な探しものは効果をあげるのだが、そういう材料は今なにもないのに、何か出さないかと言われて仕方なくこんな掲示を作った。勿論、ご返事の期待は非常に少ないが、諦めてはいない。

 私はいま月刊誌『正論』に『戦争史観の転換』と題した30回予定の大型企画を連載中で、日米戦争の背後に西欧五百年史、中世・近世の歴史の暗部とのつながりを発掘し、近現代史観の克服を試みている。ペリー来航以後に米国の侵略意志を見る百年史観は今までにも多い。だが(一)五百年史観は戦前に大川周明、仲小路彰の例があるが、戦後に有力な論考があったら教えてほしい。(二)江戸の朝鮮通信使は朱子学の優位で日本人に教える立場であったのに荻生徂徠の出現で日本の学問が動いて立場が逆転した。この転換に詳しい適確な本を教えて欲しい。

 さて、その「正論」の連載だが、ようやく第二章「ヨーロッパ遡及500年史」の④が仕上り、7月1日号にのる。これで8回目である。前途多難である。

 第二章はスペイン中世のスコラ哲学とインディアスの関係が主たるテーマだった。次の第三章はまだ予定の段階だが、「近世ヨーロッパの新大陸幻想」と名づけるつもりだ。イギリス、フランス、オランダ等の17-18世紀が世界史を決めるのはアメリカ大陸への幻想からだった。第四章は「欧米の太平洋侵略と日本の江戸時代」、第五章は「『超ヨーロッパ』の旗を掲げたアメリカとロシア、そして日本の国体の自覚」・・・・・というような大よその方向を考えているだけで、その先はどうなるか分らない。各4節づつ全8章、全部で32回を計画している。

最近困っていること

 必要があって2010年から今日までの私の出版記録をまとめてみた。私がこのところ記録を失っていたので、長谷川さんに整理してもらったら次のようになった。「めちゃめちゃ忙しいはずですよネ」と書いてこられた。

2010年 6月  草思社 日本をここまで壊したのは誰か
2010年 7月 徳間書店 GHQ焚書図書開封4
2010年 11月 祥伝社新書 尖閣戦争 (青木共著)
2010年 12月 総和社 西尾幹二のブログ論壇
2011年 7月 徳間書店 GHQ焚書図書開封5
2011年 10月 国書刊行会 全集第五巻『光と断崖』
2011年 11月 徳間書店 GHQ焚書図書開封6
2011年 11月 文芸春秋 平和主義ではない脱原発
2012年 1月 新潮社 天皇と原爆
2012年 1月 国書刊行会 全集第一巻『ヨーロッパの個人主義』
2012年 4月 国書刊行会 全集第二巻『悲劇人の姿勢』
2012年 7月 国書刊行会 全集第三巻『懐疑の精神』
2012年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封7
2012年 10月 国書刊行会 全集第四巻『ニーチェ』
2012年 12月 飛鳥新社 女系天皇問題と脱原発 (竹田共著)
2012年 12月 祥伝社新書 第二次尖閣戦争 (青木共著)
2012年 12月 徳間書店 自ら歴史を貶める日本人(四人の共著)
2013年 2月 国書刊行会 全集第六巻『ショーペンハウアーとドイツ思想』
2013年 4月 飛鳥新社 中国人に対する「労働鎖国」のすすめ
2013年 5月 国書刊行会 全集第七巻『ソ連知識人との対話/ドイツ再発見の旅』
2013年 7月 ビジネス社 憂国のリアリズム
2013年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封8
2013年 9月 国書刊行会 全集第八巻『教育文明論』
2013年 12月 ビジネス社 同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた
2014年 2月 国書刊行会 全集第九巻『文学評論』
2014年 3月 徳間書店 GHQ焚書図書開封9
2014年 6月 国書刊行会 全集第十四巻『人生論集』
2014年 8月 新潮社 天皇と原爆(文庫)
2014年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封10 予定

 最後の一冊は「維新の源流としての水戸学」かまたは「イギリスの地球侵略」のいずれかとなる。

 こうやって一覧してみると、全集が始まってから以後、私はろくな仕事をしていない。全集の刊行に良質の部分のエネルギーをほゞ吸い取られている。新生面を開くような企てがなされていない。このほかに『正論』連載があるからもう仕方がないともいえるが、人生最後の局面に新味の出せないこんなことでは情けないと思う。

 全集はたしかに容易ではない。精力の6~7割はこれに注がれている。しかもここへ来て編集上の困難とぶつかって立ち往生している。1980年代から以後の自分については「年譜」を先に作らないと、前へ進めないことが判明した。

 「年譜」とは各年・各月の寄稿記録・活動記録のことである。大学教師時代の最後の8年間は大学紀要に詳細な報告がなされている。国立国会図書館に約800篇の拙文が貯蔵されていて、うち166篇がある方の協力を得てすでにプリントアウトされている。各単行本の巻末にある初出誌一覧表を参考にする必要もある。現代日本執筆者大事典というのもある。それも利用する。新聞寄稿文は切り抜きスクラップが存在する、等々、いろいろ手はあるが、簡単ではない。

 はじめ私は大学ノートに書きだしていくか、もしくはカードを作成しようかと思ったが、これは古い世代のくせで、今ならパソコンを用いるのが最善であろう。ところがこれが私はまた苦手で、難関である。

 どうしてよいか分らないで昨日今日、呆然として手を拱いている。

 今までは私の若い時代が対象だったので自分の過去の仕事はよく把握されていた。巻が進み、1980年代より以後、そうは行かなくなってきた。

 今まで「教育」とか「文学」とか「人生論」とか、ブロック化できるものはまとめ易いので10回配本まで何とか乗り越えてきたが、いよいよそうは行かなくなって、途方に暮れている。

 とにかく「年譜」を先に作ってそれからでないと作品の読みと選択を行えないのが本当に頭が痛くなるほど辛いのである。

平成26年坦々塾新年会

 2月も雑誌論文で苦労しました。

 『WiLL』4月号に、「アメリカの『慎重さ』を理解してあげよう」を書きました。ただし、これは副題にまわり、「『反米』を超えて」が本題になったようです。本題をつけたのは花田編集長です。

 『正論』4月号は3回の連載が終りました。「『天皇』と『人類』の対決―大東亜戦争の文明論的動因 後篇」です。やっと終りました。3回で100枚論文になりました。

 ところで、1月の坦々塾の新年会の報告分を渡辺望さんに書いてもらいました。以下の通りです。

渡辺 望

 1月25日午後4時より、坦々塾新年会が水道橋の居酒屋「日本海庄屋」でおこなわれました。新年会の進行は前半は西尾先生の新年に際してのお話、そして坦々塾新会員の紹介、そして後半は懇親会という順序でした。

 参加者は10名の新入会員の方を含め48名を数えました。新入会員のお名前を挙げさせていただきますと、赤塚公生さん、伊藤賢さん、片岡紫翠さん、竹内利行さん、田中卓郎さん、恒岡英治さん、松原康昭さん、村島明さん、藪下義文さん、渡辺有さんです。皆様、坦々塾の参加に至る経緯をお話くださいましたが、それぞれ多様な形での西尾先生・坦々塾へのアプローチを経ての参加でした。

 新年会の始まりに際して、西尾先生の本筋でのお話とは別に、2月9日に迫っている東京都知事選への先生の田母神俊雄候補への強い支持期待が表明されました。また西尾先生の著作『真贋の洞察』(文藝春秋社)が、会員の今後の思想考察の深化に役立つよう、会員に一冊ずつ無償で先生より提供されました。懇親会は三時間以上に及ぶ大議論の席となりました。 

 さて、当日の新年会報告を西尾先生のお話を中心に以下記したいと考えますが、当日の先生のお話の主要内容だった、アメリカ論を中核にした近年の日本を巡る国際関係論については、先生の近著の『憂国のリアリズム』『同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説くときがきた』と内容が重なるように感じられます。そこで、両著作と先生のお話を行き来しながら、先生のアメリカ論をまとめることで、新年会報告の大枠にいたしたく思います。

 「反米」と「親米」、あるいは「親米保守」と「反米保守」という言葉が、西尾先生に限らず、最近の論壇人の論考に多く出てくるようになってきているように思います。それについて自分は色々な感想を持つのですが、これは今回の新年会ではなく、前回の年末の全集記念講演会でのことなのですが、先生が「自分は反米ではないんですよ」と言った途端、「意外だな・・・」というニュアンスのような苦笑の集まりの笑い声が聴衆の皆さんから起きたことを思い出します。

 ところがしばらくして先生が「自分は反米ではなく離米だ」といったときには、聴衆の感情的な反応は何もありませんでした。おやおや・・・と私は思いました。聴衆の皆さんは西尾先生の最近のアメリカ論の本当がわかっているのだろうか?と自分は感じました。「自分は反米でも嫌米でもなく離米」、この言葉は新年会の西尾先生のお話でも再び登場しました。それだけではない、私があげた先生の近著でもある言葉です。

 「反米論」というのはそもそも、たいへん雑多な立場を意味します。反米論と親米論、親米保守論と反米保守論という区分がとりあえず可能だとして、現在、最も先鋭に親米保守論の位置にいる(と思われる)論客の一人に田久保忠衛さんがいます。その田久保さんとやはり親米保守論に位置する古森義久さんとの『反米論を撃つ』という対談本があるのですが、この本を読むと、戦後日本の反米論の系譜がよく整理されていて面白い。両者の主張を一言で言えば、戦後日本の反米論の大半が、全くくだらないものだったということです。

 言うまでもなくまず左翼的な反米主義という「伝統的」な反米主義があります。この流れはかなり弱体化したとはいえ、依然として朝日新聞その他に相当数存続している。西尾先生も著書で言われていますが、1970年代くらいまでの日本の言論界はまったくの左翼主導、ソビエト、中国、北朝鮮礼賛で、それらの共産国家に対峙するアメリカを支持すること自体が「保守」である証しでした。福田恆存ですら「日本はアメリカの「妾」でなく「正妻」になれ」と言っていた時代です。この時期におおっぴらにアメリカ批判とナショナリズム的姿勢を一体させていたのは、三島由紀夫と、先生が著書で引かれているような赤尾敏の銀座辻説法くらいのものだったのではないでしょうか。

 「伝統的」な左翼的な反米主義は要するに、アメリカの軍事攻勢を受けている各地域でおこなわれている残酷な情景や管理統制をとりあげて、「反」を突きつける、というやり口なわけですが、当然なことに、アメリカの軍事攻勢の対象になっている勢力の残酷については無視を決め込む、という稚拙なものです。ベトナム戦争でアメリカに対峙する「正義」なる北ベトナム政権がベトナム人民におこなった大量虐殺をベトナム反戦運動が問題にすることは決してなかった。この反米左翼の思潮の相当部分が、(時折、親中国・親韓国化する)アメリカという虎の衣を借る狐になって親米左翼化し生き残ろうとしている由々しき現状も進行しています。

 しかし、以下は田久保さんの本に書かれていることではないのですが、こうした伝統的な反米左翼はもっと根本のところで大きな欺瞞をもっていると考えられます。それは戦後アメリカの軍事攻勢や政治攻勢をラディカルに否定するのなら、大東亜戦争の最終期において、日本は本土決戦を継続すべきではなかったか、という避けて通ることのできない問題を避けてしまっていることです。

 もし本土決戦を続ければ、日本国家は物理的には壊滅し、凄惨な殺戮の中、国土の少なくとも半分は東側陣営に組み込まれ、皇室の存続もあやうくなっていたでしょう。少なくとも今日のような日米安全保障体制はなかったに違いない。しかしそのことはまさに、「アメリカの傘下に入ることを拒否しつくした日本」「アメリカに徹底的に抗戦を続けて壊滅した日本」という、反米主義の実現の極地に至ることを意味したのではないか。日本の破滅と引き換えに、日本が「反米の聖地」になったかもしれないのです。しかし「甘え」に浸っている大半の反米左翼はこの苦しい問題を考えることをしない。

 だから戦後の日本の時間はすべて「虚妄の時間」であるという後ろめたさが本来、反米主義には圧し掛からなければならないことになります。けれど「虚妄の時間」を拒否して、「本土決戦=日本の破滅」を受け入れれば、こうして語っている自分たちも消滅するのかもしれないのですから、それは簡単に拒否できるものではない。「虚妄」はさらに重くのしかかってくる。「反米」は決してやさしい思想ではないのですね。それどころか、戦後最大の難問なのかもしれない。少なくともその難問の重さを、「伝統的」な反米左翼は何ら認識していないといえます。

 田久保さん古森さんの本に戻りましょう。この本は後半に至り、「反米保守」の旗をかかげた西部邁さん小林よしのりさんへの激しい批判を展開します。これは小林さんたちが田久保さんたちを批判したことの再批判という面もあるようですが、つまり保守主義的立場からの「反米」が可能か、という問題になります。西部さんはかつては湾岸戦争でアメリカの軍事介入を前面支持したように、一面的な反米主義者ではなかったのですが、ここ10年間くらいに、猛烈な反米主義に転じました。その西部さんに私淑している小林さんがそれに追随して反米主義のアジテーションをあちらこちらでしているということは、案外よく知られていることです。

 西部さん小林さんの幾つかの反米主義の本(『反米の作法』など)田久保さん古森さんの批判本を読み比べる限り、両者の対立は田久保さん側の「完勝」です。田久保さん古森さんはこれでもかこれでもかと西部さん小林さんを言葉遣いの間違いのレベルからこきおろしているのですが、残酷なくらい全部あたっているんですね(笑)

 言葉遣いの面はともかくとして、全体的にみて、西部さん小林さんが掲げている「反米」は、反米の「反」だけしかわからないのは、私のようにアメリカ論の専門家でない人間にもよくわかります。批判対象のアメリカの実体がぜんぜん見えてこない。たとえば西部さんは「アメリカ=WASP」論を振りかざしますが、田久保さんが批判するように、アメリカの主導権を握っているのは相当がユダヤ人であるという常識的な視野がゼロ。またあるいは英米可分論と英米不可分論という、近代史で時期をわけて慎重に論じなければならない重要テーマについても西部さんはイギリスは伝統主義の国だといい、「アメリカはヨーロッパという故郷を喪失している」というふうに断じているだけで、アメリカ=反伝統、ヨーロ
ッパ=伝統主義というブツ切りにしているだけです。

 アメリカが嫌いで仕方ないのは個人的趣向としていいとして、西部さんたちにはアメリカという国への「驚き」がないのではないか、と私は思います。史上かつて存在したことのない国家であるアメリカという国への「驚き」がない。驚きがないから、アメリカを既存の歴史の概念の枠組みに強引に単純に当てはめる。西部さんはアメリカを「ソビエトと同列の左翼国家」なんていっているんですね。そんなふうにいうならフランス革命の思想を輸出してきた近代フランスだって立派な「左翼国家」ではないでしょうか(笑)

 この「アメリカ嫌い」にはリアルポリティックスへの考察もないですから、北朝鮮をどうするか、ベトナム戦争はどちらが正しかったのかどうかという言及もない。もしアメリカが不在だったら、北朝鮮に「戦後日本」が独力で対峙し、ベトナム戦争にだって「戦後日本」は介入しなくてはならなかったでしょう。イラクの問題と違い、これらは近隣の東アジアでの日本にかかわる出来事です。言及したっていいのですが、そこまでの想像力はなく、結局、西部さんがやっていることはイラク擁護みたいなことに陥り、これはベトナム戦争のべ平連の思想と何も変わらず、つまり伝統的な反米左翼と同じになっていく。
 
 言うまでもなく、西尾先生のアメリカ論は西部さんのような乱暴なアメリカ論とは無限の距離があります。新年会のお話で「日本はアメリカに依存して生きている。安全防衛だけでなく食料や水までも依存している。この依存しているという事実から離れられないことは認識しなければならない」と先生は言われました。このお話を私なりに解釈すると、日本がアメリカに依存してきたこと、そして戦後世界でアメリカがしてきたことは全部が全部、間違いだったということではない、それは厳然たる事実で見つめないと話が観念的になってしまうよ、ということになると思います。

 たとえばベトナム戦争でのアメリカの介入自体は間違いではなかった。北ベトナムに正義なんてなかったのです。もちろん、イラクにも北朝鮮にも正義はない。これは親米保守だろうが反米保守だろうが、「保守」の面から揺り動かすことのできない点であって、この点は田久保さんたち親米保守派と西尾先生は見解を一にされると思います。

 問題は、アメリカの「正義」が、短期間的な戦後のリアルポリティックスからみれば妥当なのだが、長期的に考察すればだんだんといかがわしい面が見えてきて、リアルポリティックスから本質論に向いて考えざるを得なくなるという点です。たとえば、なるほど、ベトナム戦争や朝鮮戦争はアメリカの正義であり、西側自由主義の聖戦だった。しかしそのことと、20世紀前のアラスカやハワイ、フィリッピンの侵略は軌を一にしないものなのかどうか。中国と組んで日本に包囲網をつくったアメリカと、冷戦終了後も世界に軍事基地を維持しているアメリカは、同一のものなのではないか。同じ根源から同じように起きていることが、時代によって正義に見え、時代によって侵略そのものに見えるとしたら、そ
の根源とは何なのか。

 親米保守論が依拠しているリアルポリティックスの「リアル」は、せいぜい1950年から1990年くらいまでの現実でありアメリカの歴史です。それを崩すような反米論がありうるとすれば当然、もっと長いスパンでのアメリカの歴史になるのですが、戦後の反米論は米西戦争や南北戦争を何も問題にしてきませんでした。西部・小林のコンビも然り。そうした長いスパンでの歴史論が田久保さんたち親米保守論の最大の弱味であるにもかかわらず、です。

 比べて西尾先生の親米論への反駁が強力であるのは、歴史論で武装している幾重にも面があるからに他なりません。西部さん小林さんのアメリカへの悪罵を何十並べても、「南北戦争の北軍に20世紀のジェノサイドの起源があった」という西尾先生の反アメリカ論の重みに適うことは決してないでしょう。常に「歴史論からリアルポリティックス論へ」、この順序が反米論のあるべき方法論ではないかと思います。

 「アメリカは気まぐれである」というのも西尾先生がよく言われる歴史論です。これはアメリカが、世界中に果てしなくアメリカニズムを輸出する本能と、そうではなくて非介入の方に縮こまる本能の両極に揺れ動く不可思議な二面性をもっている国だ、ということです。この前者と後者の揺れ動きの気まぐれが、国際政治の現実にその都度、創造や破壊をもたらし続けてきている。西尾先生がよく引かれる例ですが、中国国民党と提携して日本を叩いたかと思えば、突然、中国国民党を見限って結果、中国大陸の共産化が生まれてしまった。二面性あるいは多面性がアメリカの本質で、一面的にしかアメリカを見ない西部さんたちの反米論はぜんぜん的外れだといえます。

 こんな「気まぐれな国」という性格もまた、世界史上、例がないのですが、その「気まぐれ」が新世紀に入ってきてだんだんひどくなってきて、米中提携論の強化に乗り出したり、日本の慰安婦問題に介入したりすることもしたりして、それはアメリカの国力の減退も大きくかかわってきている。西尾先生がお話の中で言われた「古臭い日本・ナチス同一論が再びアメリカの中にあらわれてきた」ということは、親米派のアメリカ像もまた古臭くなったということであって、こういう段階にさしかかったアメリカと離れる時期に来たと考えるのがまず妥当であろう。これが西尾先生の「離米論」であり、これはきわめて新しい「21世紀の反米保守論」なのです。

 このように親米論も古臭くなってきたのですが、同時に、従来の反米論の古臭さということもあるので、新しいアメリカ論は、今までの親米論・反米論の両方と対峙しなければならないでしょう。田久保さんが幾度も嘆くように、戦後日本にある反米論は保革問わず、西部さんのような「アメリカが嫌いだ」といいたいだけの乱暴な形の反米論、さらには伝統的な反米左翼論に先祖帰りしてしまう傾向がある。これは何度強調しても強調しすぎるということはない。日本が戦時下に受けた空襲その他のアメリカの戦争犯罪と、アメリカが世界各所でおこなってきた軍事的介入の現場での出来事を感情的に同一化してしまう。そこから先は思考停止しか待っていません。単純なる反米論の誘惑、といっていいのかもし
れません。

 西尾先生と福井義高さんの対談で「アメリカには別所毅彦のような直球で対決しては駄目で、関根潤三のような軟投でなければ駄目だ」という話が出たことが思い出されます。西部さん流の古い反米論は「直球」なのでしょう。だから親米保守派に簡単に打たれてしまう(笑)様々な顔=打法を持つアメリカだからこそ、西尾先生の著書には、「さようならアメリカ」という論題もあり、「不可解なアメリカ」もあり、「ありがとうアメリカ」もある。西尾先生のアメリカ論は「軟投」なのです。私はこの「軟投」の意味がよくわかるし、自分もこの「軟投」の立場に組したいと思います。

 一筋縄ではいかないアメリカは、たとえば文学にも現れるのであって、西部さんは小林さんとの対談(『反米の作法』)で、フォークナーとへミングウェイだけ出してアメリカ文学の浅さの個性(?)を語り尽くしている気になっているようですが、ラヴクラフトやエドガー・アラン・ポーのような作家についてはどうなのでしょうか。自分は高校生のときにはじめてポーの作品群を読んだとき、これはフランス象徴派の作家だとしばらく思い込んでしまった。ポーのあの重厚な恐怖の世界は、ヨーロッパとの伝統が切れているどころか、逆により徹底したヨーロッパが実現してしまっているわけで、アメリカ文学の世界はぜんぜん浅くありません。私はポーがアメリカの作家と知ったときの「驚き」は今でも忘れ
られない。以来、私がアメリカについて考えるときは「驚き」がどこかで伴うので、そういう点だけでも、「驚き」に乏しい西部さんたち反米論のアメリカ論に違和感を感じてしまいます(笑)

 西尾先生が「自分は反米ではない」といったときに皆さんに笑いが起きたのは、西尾先生のアメリカ論を、伝統的な反米論とどこかで同一視しているからなのではないか、と感じました。私たちの中には、旧来的な反米論が依然としてどこかにイメージされている。これは繰り返しになりますが、反米論とは、決してやさしい思想ではない。「アメリカ」はあまりにつかみどころのない存在なのです。だからこそ、従来の反米論の系譜とは完全に異質な21世紀の反米論、この西尾先生の試みを皆さんにも正しく理解していただきたいと新年会の西尾先生の話と皆様の反応から私は感じ、このテーマを今年の坦々塾の会で深めていければ幸いと思いました。

 懇親会の時間ののち、20名ほどの面々で二次会のカラオケを楽しむ時間となりました。いろいろな持ち歌の飛び交う場で、楽しい時間はまたたくまに過ぎていきました。

 西尾先生、ご苦労様でした。また幹事代表として最初から最後まで緻密に新年会を運営された小川揚司さん、たいへんお疲れさまでした。新入会員の方を含めた坦々塾の皆様、今年もよろしくお願いいたします。