小泉首相批判について (二)

小泉首相の靖国へのこだわりを私は必ずしも本心と思っていない。総裁選に際し橋本龍太郎氏が握っていた遺族会の票をいっきょに奪い取る彼らしい恫喝的パフォーマンスのやり方の一つだった。

 もし彼が国を思う心の篤い人で、それなりに歴史観もしっかりしているなら、15日参拝を13日に切りかえたあの姑息な手を弄した――それ自体は首相になったばかりの不安で迷いもあったかと同情できるが――その折に公開した文書の内容が村山謝罪談話そっくりであったことをどう理解したらよいのであろう。

 ブッシュ大統領を訪問中に、首相が日本はアメリカによって軍国主義から解放され、おかげさまで民主国家になったなどと小学生レベルの自国史理解、ありふれた東京裁判史観を平気で語ったのをどう理解したらよいだろう。

 この程度の歴史理解で、特攻隊にだけなぜか特殊な感情反応を示すというのはかえって頭脳の単純さ、知性の低さを物語る以外のなにものでもないのではないだろうか。小泉首相が特攻隊への感動を口にするのを聞くたびに最近私はむしろ鳥肌立つ思いがするのである。

 首相の靖国参拝をありがたいと思っている方に抵抗するようで悪いが、私は以上のように判断している。

 さらに、ジェンキンス氏の一件もついでに考えておこう。

 ジェンキンス氏は朝鮮戦争中の利敵行為、反米宣伝、国家反逆の罪を犯して、数知れぬ米国将兵を当時死地に追いやることに協力している。朝鮮戦争の苦しみを忘れていないアメリカ国民は今もなお多い。小泉首相がなぜ安請け合いしたのか私には分らない。

 もしアメリカとの間で司法取引があるとすれば、アメリカ政府がイラク派兵の日米関係を重視してのことである。したがってイラクで日本の自衛隊に死者が出る可能性への先手を打っての日本への貸しである。

 われわれは演技上手の米国元脱走兵のために、イラクの日本人をその分だけ危険にさらしていることになる。演技上手と言ったのは、ジェンキンス氏が元俳優で、ピョンヤン空港で足取りも軽く階段を昇る姿をみせていたのに、ジャカルタから東京に向かうときには杖をつき、よろけるように歩いた急変ぶりが不可解なのに、その変化の説明がなされないのもおかしいと思ったからだ。

 小泉首相はジェンキンス問題をつかまされる前に、10人あるいはそれ以上の拉致被害者の安否問題に立ち向かうべきだったという当時の観測はやはり正しかった。安倍晋三氏は首相に向かって訪朝前に、ジェンキンス氏に会ってはいけない、会えば罠にはまる、と忠告したそうなのだ。

 小泉首相は慎重さもないし、判断力もない。家族会から「子供の使い」といわれたのは当然である。家族会は最近、民主党の岡田代表を頼りにし始めている。小泉氏の人間としての冷酷さに横田夫妻はもはや耐えられないらしい。

 曽我さんは首相の選挙向け宣伝に利用され大いに損をした。家族会全体が傷手を負った。拉致問題はまだ未解決だという認識が国民の間に定着していることだけが唯一の救いである。

 小泉首相は日朝国交正常化をわけもなく急いでいる。これを何としても阻止しなくてはならない。今の金正日体制と国交正常化をする理由も必要もなく、首相の個人的事情にすぎないであろう。 
(8月3日午後加筆修正)

小泉首相批判について (一)

今西宏さんという恐らく実名で名乗られた方が、私の小泉首相批判を心配して応援掲示板に二度書きこみをして下さった。「つくる会会員の不安」と題された二度目のご文章が文意もはっきりし、私と中西輝政氏の論文の波及効果を憂慮しているので、およそ政治というものを考える材料になるとも判断し、さしあたりこの文章の全文をご紹介する。

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1388 つくる会会員の不安 今西宏 2004/07/22 13:14
男性 自営業 63歳 A型 大阪府
 
私は、前稿(1340 小泉評は「否定」よりも「肯定的批判」で)を書く時点で、読み終わっていたのは「正論」8月号だけで、「Voice」8月号については、広告の見出しで先生の批判論文の存在を知っていただけでした。

 後ればせながら、昨日「Voice」8月号を購入し、西尾論文と中西輝政論文を読みました。読み終わって、これでつくる会は、このまま小泉政権が続けば、次の採択戦も茨の道にになるだろうと感じました。会の重鎮が二人、そろってここまで首相を否定するのは、現政権の協力は期待しないという意思表示と目されるからです。

 無頼教師さんは、
> どうも、勘違いなさっているようですが、「つくる会」の教科書を実際上葬ったのは小泉政権ですよ。もうお忘れですか?と書かれました。
 もちろん忘れてはいません。3年前の採択戦で、暗々裡に政府の意思が採択現場に伝えられ、扶桑社版教科書の不採択が慫慂されたという分析があったのを承知しています。それはおそらく事実でしょう。

 だから次回もまた小泉政権は邪魔をするだろうと読むのは、当然のようですが実は当然ではありません。前回には前回の事情があり、あの時点では、沸騰する歴史教科書問題を鎮めることが、政権の存続に必要と判断された可能性があるからです。
 どんな政権もその存続のためには「非情」も敢えてします。しかしその危険がなければ、政権本来の信条どおり動くはずです。

 小泉首相は、中国、韓国の執拗な反対にも屈せず、頑なに靖国参拝を続けています。知覧特攻平和会館では、展示の前で涙しました。扶桑社版教科書には特攻隊員の遺書が掲げられています。首相に、扶桑社版への理解がないとは思えません。
 「歴史教科書問題を考える超党派の会」の中川昭一氏、石破茂氏は、首相任命の現閣僚です。だから次回は、ひそかに政府の支持があるのではないかと、私は期待していました。

 しかし、両先生の論文は明瞭な「戦争宣言」です。小泉首相は、ひょっとしたら胸中持っていたかもしれない、つくる会への前回の「借り」を、もはや意識することないでしょう。
 制度上政府があからさまに協力や妨害をすることは不可能ですが、その意思が影響を及ぼすことは、常に念頭においておくべきです。

 つくる会にとって、小泉政権を敵に回すことが良策だったのか否か、私は会員として不安を感じます。
 それとも、現況は私などの想像もつかない、何らかの遠謀深慮の中にあるのでしょうか。

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 こまやかなご心配をおかけし申しわけない。こんな風にいつも「つくる会」の行方やわれわれの言動に注意を払って下さっている方がいるのは心強く、読んでいてありがたかった。最初にまず心から感謝申し上げる。

 以下私の考えを述べたい。

 今西宏さんの予想されている憂慮が的中する確率は必ずしもゼロとはいえない。相当ていどにあり得ることと考えている。けれども、「つくる会」のためにかりに私が自分の言論を犠牲にしても、そうすれば期待する通りに「つくる会」のためになるとも保証されない。それとこれとは別、と考えるべきである。

 私も中西氏も小泉首相の“正体見たり”という思いがしている。二人が打ち合わせしていたわけでもないのに、5月22日の再訪朝の日に、首相は金正日からなんらかの私的脅迫を受けていると予想している。わが国の首相が罠にはめられたのである。

 言論界でこのような予想に立って、理由なき日朝国交正常化の加速化に反対の声をあげられるような人材は今のところ私と中西氏くらいしかいない。

 政界でも心ある筋は、首相がすでに金正日の謀略にひっかかったと見ているようだ。誰とはいわない。想像なされるがよい。閣内にも必ずいる。日本の政治家はそんなに馬鹿ではない。ただし、誰もすぐには動き出せない。今は嵐の前の静けさである。

 福田康夫氏につづいて安倍晋三氏も小泉首相に既に見切りをつけたと私はみている。

 私と中西氏は言論界の立場から、はっきりと「倒閣運動」に動きだしたのだと理解していただきたい。そう言った方がきっと分かり易いだろう。

 小泉内閣は年内もちこたえるかどうか分からない。教科書の採択のときまで恐らくもつまい。かりにもつとしても、もし彼が金正日政権と国交正常化をしようとするなら、猛反対しなければならない。教科書の採択なんかどうでもよい。それよりもはるかに重大な国難である。

 東北アジアでアメリカの反対を押し切って北に大金を支払うようなことが起ったら――小泉氏がもし個人的脅迫を受けていたとしたらあり得ないことではない――日米関係は破局に陥る。

 最近アメリカは北朝鮮の人権問題を強行解決するための新しい法案を通した。日本の首相が北の人権抑圧と断固戦おうとしなければ、日米は危い。そして、そうなれば直前に首相は詰め腹を切らされる。日本のいつものやり方である。

 首相の個人的脅迫のネタも明るみに出るだろう。『週刊文春』7月29日号の32ページに、わが国の首相の人品がいかにレベル以下であるかを示す事例が数多く並べられている。(アメリカ在住の方は少し事情を知らないようだが、NHKや朝日・毎日・日経・共同配信地方紙より『週刊文春』『週刊新潮』の方が題材によってははるかに信憑性が高いのである。田中真紀子、山崎拓、鈴木宗男を追撃し、追い落としたのは上記の二誌である。だから週刊誌の口を封じようとする言論封鎖の法案さえ出されかかった。)

 もっと大きな事件が暴露されるXデーは近いかもしれない。インターネットで流されている若い頃の複数の婦女暴行事件は親告罪なので立証されないでいるが(7月15日に証拠不十分の東京地裁判決があった)。この件は不明としても、過去に女性がらみのきわどい噂は絶えない。勿論、恋愛は自由だが、相手がもし北朝鮮系の女性だったらどういうことになるか。首相はなぜにわかに朝鮮総連と通じるようになったのか。以上は勿論推論である。しかし何かとんでもないバカバカしいことで、日本の国家が危殆に瀕しかけているという悪夢が私にはある。今のところ証拠はなにも出ていない。単に悪夢であり、幻である。外国のマスコミが突然騒ぎ出すかもしれない。

 郵政の民営化も秋には壁にぶつかるだろう。「改革」と叫んでなんの成果もない。中味がないのだから、成果が出るわけがない。それで、改革をいうからには憲法のはずだと外野からしきりに言われて、最近にわかに憲法改正のことを言い出した。

 しかし国家哲学をきちんと持たない人間が憲法改正をするのはかえって危い。憲法9条2項の削除だけしてさっと退陣するくらいの潔さがあるなら、それは拍手されてよい。

 あまりいろいろなことを彼には期待しない方がよい。個人の運命にも国家にも無関心なあぶない宰相なのである。

 私も中西輝政氏も田久保忠衛氏も八木秀次氏も遠藤浩一氏も、「つくる会」メンバーは大半小泉首相の大衆だまし見掛けだおし政権維持パフォーマンスに反対している。曽我さんとジェンキンス氏をさんざんショーとして利用したのは、首相の外務省への指示があってのことにきまっている。選挙前の見せ物づくりのやり方はもう許せないという国民感情が高まっている。

 こういう首相に断固反対するのは「つくる会」の昔からの精神である。この精神を貫くことが採択を有利にする。今の小泉首相に尻尾を振っても採択の結果なんかになにひとつ有利に働かない。

 今西宏さんの心配して下さる気持ちは分らないではないが、「つくる会」はどこまでも正道を貫き通し、戦いつづけるのが筋である。それ以外に脱路はない。

 小泉政権が長つづきして、それが裏目に出たらそのときである。

(8月3日午後加筆修正)

私は今夜ひとり祝杯をあげています

昨夜応援掲示板に書いたものですが、こちらにも転載します。

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1408 私は今夜ひとり祝杯をあげています 西尾幹二 2004/07/23 01:54

 
 2004年7月22日、正確には23日午前1時、「江戸のダイナミズム」第20回完結稿の最後の数枚のゲラがファックスで諸君編集部に流れました。すぐに受領の電話が入りました。 

 今回は題して「転回点としての孔子とソクラテス」54枚でした。これで完結です。もう毎月、月の半分を苦しまなくて良くなったのです。

 ああ、なんという解放感!

 第一回は2001年7月号でした。3年間の断続連載でした。

 ついに終わったのです。嬉しくてたまらない。壮大なテーマで、
私には蟷螂に斧でした。 

 この5日、7時まで書いて、睡眠薬を呑んで、午後1時に起きだす
生活でした。一気に10枚くらい書くのは夜中でないと出来ないのです。昼間は文献調べです。

 いつまで出来るか分かりません。皆さん、せめて今夜だけ私のために
祝ってください。本は1000枚にもなるので急ぎません。

 いまひとりウィスキーの乾杯をしています。暑い日々、皆様もおげんきで。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(九)

男子、一生の問題』を一冊の本として、内容を広く伝える評文を書いて下さったのは「無頼教師」さんの次の文章である。とりあえず全文を紹介する。

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2004年06月26日
男子、一生の問題』と戦後の日本
 最近、といってももう10年以上は経つだろうが、めっきり年長者の小言というものを耳にしなくなった。私の父方も母方も祖父母ももう亡くなって久しい。テレビでみかけることも、ことさら少なくなった。昔の日本、そう昭和の日本であれば小言も聞けたものなのに、と思うのは私だけだろうか。

 『男子、一生の問題』の特徴は、そのタイトルにもあるように「男子」というものの生き様である。戦後が男性原理が徐々に浸食されてきた過程であるとすれば、この書物はそうした流れに対する雄弁な反論であるといえるだろう。女性という存在が無視されているわけではないが、戦後という時代の持つ喪失感に対する異議申し立てが、非常に個人的な視点から語られているという点が、この書物の第一の魅力であろう。

 たとえば、この書物の末尾において「右記二例、じつは今はしらふでいうのだが、私の言ったことは正当で、間違っていなかったとあらためて確認している。酔った口調の台詞であったとしても、台詞の内容は少しも酔っていない。/むしろ、四十年前の日本の世相の方が酔っていたのである」とあるが、時代との緊張関係を西尾氏が片時も忘れていなかったことを示していると言えるだろう。西尾氏の三つの戦い、すなわち(1)平成元年~平成四年「外国人単純労働者の受け入れ」に反対、(2)平成六年ごろ「戦後補償問題」のドイツ見習え論に反対、(3)平成八年「歴史教科書改善運動」へのとりくみは有名なところだが、日頃からの同時代との緊張関係がなければ、そもそもあり得なかった戦いであったことが、こうした発言から裏付けられる。

 こうした同時代との緊張関係が一番濃密に現れているのが、「嗚呼、茶髪の醜さよ!」の章ではないだろうか。ここに見られるようなストレートな拒絶は、最近では見られなくなったものであるだけに、より一層新鮮である。昔の日本であれば、当然聞こえたであろう声を耳にすることができる。これは西尾氏と同世代の人にとってだけでなく、それより若い中年もしくは青年の世代にとっても、改めて鮮烈に響くのではないだろうか。こうした本音の声を聞くことができなくなってしまった事が、日本人の活力の減退を想像させるだけに、貴重といえるだろう。

 次に、この第一の魅力に勝るとも劣らないのが、著者である西尾幹二氏の個人的な発想の核心のような部分が平明に述べられている点だろう。西尾氏が自らの過去の失敗も、そして成功もありのままを語っており、何よりも筆者が「行動の人」であることを告白しているのは、今回の書物が始めてではないが、その核心を結集したという意味では、鋭く切れ味の良い書物であるといえるだろう。(とはいえ、やはり「人前で話す前、もう一度「時と場所」を考えよ」の章に紹介されているような、結婚式でのスピーチは、された側はたまったものではないだろうと思われた。同じスピーチでも種子島氏のスピーチは、西尾幹二氏を背後からバックライトで暖かく映し出す優れたスピーチではあったのだが。)発想の核心とは、別の言葉で言い換えるならば、事物に対する評価ともいえるだろう。批判の視線は、小泉首相、外務官僚、文化勲章、出版界、学会へと縦横自在に向けられている。しかし、これらが単に批判されているのではない。「国際政治をあれこれ解釈するだけで終わるな」の章の「いざとなったら、解釈は必要ない。/求められているのは行為なのである」という発言にも現れているように、ひとえに行動を前提とした批判なのである。それだけに、これらの批判は、実質的な批判であるといえるだろう。

 この書物の魅力は、それだけにとどまらない。この書物の読者は、世代も職業もそれぞれさまざまであろうと予想できるが、どのような世代、どのような職業の人間が読んでも、それなりに益するところが多いのも、この書物の第三の特徴である。たとえば親や教師、あるいは人を指導する立場の人間であれば、「有能な教師は~」「人をほめることの~」などは、必読であろうし、子を持つ人であれば、「父性の欠落は、家庭内の順位の混乱を招く」「今の子供は、大人になる困難を知らない」などの章はやはり利するところが多いだろう。とはいえ、この書物の潜在的な最大の受益者は、作家もしくは批評家志望の青年ではないだろうか。というのも、西尾幹二氏の物書きとしての戦術が、余すところなく、明かされているからである。「論争はすべからく相手の神を撃て!」を筆頭に、「世の中の真ん中」を気にしないで行け」「「公論で闘っている人」はまずのびない」など、非常に耳の痛い、それでいて核心をとらえた発言が目白押しである。これを利用しない手はない、と部外者である私には思えるのだが。

 魅力の多いこの書物だが、物議を醸すであろうと予想される章も見受けられる。たとえば、インターネットやハンドルネームに関する議論がそれだ。実名で書かなければ、自己欺瞞なのか?これは議論が分かれるところだろう。「ハンドルネームで論争までして思想サークルを作り、一定の範囲で仲間を囲い込み、思想信条の違う者を囲い込み、思想信条の違う者をはじき出す」といった表現に、その通りだという人と、鼻白む人がいるだろう。こうした異なる評価が生まれる理由は、インターネットにも、歴史があり、その歴史からくみ取る教訓の違いに求められるのではという気がする。

 改めて振り返ってみれば、年長者の小言という表現も適切さを欠いているように思える。年長者に見られがちな、関心の閉塞はまったく見られず、年老いてなお盛んな好奇心の発露が至るところに見いだせるからだ。しかし、西尾氏の世代の発言は、たとえ個人的な視点からであろうと、もう少し世に出される必要があると私は考える。日本が国家としての岐路にさしかかっている現在、読者がこうした直言に謙虚に耳を傾けることは、決して意味のないことではないだろう。

(無頼教師)
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『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(八)

佐藤和代さんという若い女性のかたから分析的論考が寄せられた。いろいろな会合でお目にかかっている人である。

 「『男子、一生の問題』は女子にとっても一生の問題となります。女子はいずれ一人の男子に一生を賭けるのですから。」というもの言いも清々しい。

 彼女の論理的分析は以下の通りである。

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 先生は『男子、一生の問題』51頁で「私の書いた本は、~本の題材や内容は違っていても、結果的にはたった一つのことを言ってきている」「この『一つのこと』とは何か、それを語ることがほかでもない、本書の課題であるといっていい」とお書きになっていました。私はその「一つのこと」とは何かを突き止めたいと思いながら、読み進めました。

 先生は「考えるよりも前に~走り出していた」「何かをやるときには、行動が先にある」と述べられ、人間一般についても「人間は言葉や思想を通して生きているのではない。行動を通して世界を知るのである。」と断言されています。
 
 「一つのこと」とは、つまり「全てに先んじて行動があり、言葉や思想はその後からついて出てくるもの」「私はそれを実践してきて確かであると自信を持って言える」「(加えて)言葉を弄ぶだけの言論活動に、苦言を呈したい」ということでしょうか。
 
 先生はいつでも行動をもって主張される。先生の行動と思想は、一致している、―先生の支持者は、そこに先生の魅力を感じ、信頼をおいているのだと思います。
 
 さらに読み進み、4章になりますと、そこに次なる課題が出てきました(116頁)。
 
 「行為がすべてで、言葉は後からついてくると前に言った」が、
 「言葉(地図)は必ず行為(旅行)と同時についてこなくてはならない。そして思想がそれに伴ってこないと、それは行為にもならない」
 「新しい思想が必要になる」「とは言え、言葉や思想が先にあるのではない。行動が先にある。~言葉や思想は後からついていく。けれどもそれはなくてはならないものなのである」
 そして先生は「そこが不思議なのだ」とおっしゃっています。私は、そこで先生が“不思議”という言葉を出されたことの方が不思議でした。それは当然のことではないか、と私は思います。先生がおっしゃるのは、先生は「直感」によって行動されていたことになると思います。
 
 すぐに言葉では説明できないが、そうせざるを得ない何かがあり、それと同時に、確証はないが、そう行動しても間違いないという自信もあったから行動されたのではないでしょうか。
 
 直感はほんの一瞬の出来事です。しかし人間の直感は、動物的本能や感性ばかりではない、と思われます。それは、人間は日常、動物の遠く及ばない複雑な精神活動をしており、直感はそれまでのその人の経験が一点に集中した状態ではないかと思います。
 
 凝縮された一瞬です。
 
 つまり、直感は、それまでの理性的思考過程(言葉による思考、思想)も感性も、動物的本能もみな、ひっくるめてのものだということです。直感は一瞬にして起こる。それは、言葉のない状態というより、超スピードで起こるので、言葉が追いつかない状態である(逆に言えば、後で何とか言葉に置き換え可能である。しかし、そのものズバリではないかもしれない)、と言えるのではないでしょうか。
 
 私がここでお伝えしたいのは、「直感による行動には、実は理性的思考も入っていた(特に先生の場合は行動と思想が共に在り、いつでも身体は臨戦態勢にあられるので、直感力が鋭く働くのではないでしょうか)」ということです。
 
 ですから、行動と言葉は少々のずれ(時間的、質的)があるが、現在において絡まりあって進行するものと私は考えます。

 
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 少し長い引用になったが、論理的なので切るわけにいかない。まだこの後つづくのだが、以下は割愛させていたヾく。

 佐藤さんの仰有る通りと思う。格別異論はない。行為と言葉を私は峻別しているが、そんなにくきり分けられるものではないだろう、というご批判とうけたまわった。

 行為の動的側面と言葉の静的側面を私は少し誇張したレトリックで区別して書いている。しかし勿論、行為と言葉はつねにほゞ同時的に出現する。

 人間は言葉でしか思考しない。行為は思考に先立つようにみえて、大抵思考を伴っている。しかしまったく思考とか反省とかを伴わない純粋な行為というものもあると私は思っている。自分の意志も介在していない行為。行為に見舞われるという意味の行為。――これは特定の劇的行動のようなものを指しているのではない。

 例えばある一つのことが心に懸ってじっと独りで鬱然としている。他人から声をかけられて振り向く。その瞬間にさっきまでの自分を忘れてしまう。対話を始める。すると自分は新しい別の世界に入って、今までの自分ではもうない。

 意識の自由な転換、自分へのこだわりをさっと捨てる気侭さ、無責任な非論理性――これなくしては人間は正常なバランス感覚を維持できない。そのとき思考や反省は役立たないのだ。言葉はその瞬間に存在しないのである。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(七)

 思想の読み方はどうあるべきか、書かれてある思想をできるだけ自分の血肉とし、実践内容とすべきか、それとも距離をもって読み、実践は程度問題とすべきか、というような二者択一のテーマを掲げて、幾人かの方々のご意見を紹介した。

 本当のところ私にも分らないのである。私自身が他の思想を読む立場になると、迷いのさ中に置かれる。前者は厳密には実現不可能だし、後者は距離のとり方がむつかしい。

 友人の粕谷君から「以下はきのう(7月10日付)の貴兄の日録を流した先の女性からのコメントです」と但し書きのついた某女の短文が送られてきた。どういう方か分らないし、彼から紹介も受けていない。旧知の人らしい。

 関連テーマなので考えるよすがになると思いあえて掲げさせていたゞく。

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きょうの「西尾日録から」は私にとって誠に重要な内容を含んでいました。実は私も西尾さんの「男子、・・・・」を読んだとき、西尾さんの凄さに重ねて驚く反面「もし西尾さんのような人ばかりになったら「世の中が息苦しくなるのではないか」と何となくそう考えいるところがありました。

しかし今日の「西尾日録から」を読んで、何となく考えていたそのことが間違っていると分かりました。西尾さんが書いておられるように、思想の読み方を知らなかったのです。これまでも私は『「思想」とはどのような事を指すのだろう』と漠然と考えてはいましたが、はっきり分からなくてずっと気になっている問題でした。

「人間に生き方を問う本は 同一の実践を求めているのではなく、ある決意を求めている」と西尾さんは書かれています。それを感じ取るのが思想の読み方だということが解りました。

これもまた「目か鱗・・・」で私の大きい収穫でした。こんな事があるので粕谷さんから送って頂く様々なメールは私の活性剤です。

「西尾日録」に関わる反響から広がる今日のような問題で多くの読者の目が開かれることと思います。

今日はいい日でした。有難うございました。

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 さて、もとよりこのように理解していたゞいて有難いのだが、私の本の中のどんな言葉も心に響かなくっていい、と言っているわけではない。

 読んでいて心にときおり抵抗が生じ、危険な内容を孕んでいる本だなァとほんの少しでもドキッと感じていたゞけたら、むしろその方が有難いのである。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(六)

 
 今の会社では年代を越えて会話ができない。若者は年寄りの話題のグループに入りたがらない。社会や家族のあり方はどうあるべきか、という年配者の好むテーマを口にするのを若い人は好まない。ましてや政治、ことに国際政治の話はさらにもしない。親米も反米も関心がない。

 「そういう話は出版社の編集者からも聞きました。」と、私は応じた。「インテリの集団のはずの編集者同士が会社で話すことといえば、銀座のどの店のフランス料理はうまかったとか、そんなことばかりらしい。それで私が、シリアスな話題を交すときもあって、平生はバカ話なのだろう、と問うたら、否、そうではない、シリアスな話題を交すときは絶無である、と言っていました。」

 お二人の勤務する会社はエネルギーという、国家の背骨を支える企業である。そんなことは社員の誰もが分っているらしい。国家のために必要な重要企業、国策として行われている仕事だということは勿論社員の中で知らない人はいない。けれども今のこの国がどうなっているのか、世界の中でいかにきわどい位置にあるのかについて、誰ひとり雑談中に口にする者はいない。国際問題なんぞ誰も決して論じない。

 そういう重要な問題は誰かが教えてくれるに違いないと思っている。誰かから情報が届けられる。自分は考えなくてもいい、というスタンスである。私の前にいるお二人はそのことが不安でならなかった。長い間に二人だけでヒソヒソ声で何となく話し合うようになり、近づき合った。ほとんど例外らしい。

 小池さんはこんな話をした。

 「日本の空港の多く、三沢、厚木、那覇などでは民間航空機は恐ろしく狭い空路しか飛べないんです。米軍基地があり、軍事レーダーが優先していて、民間航空機は制限されています。霧が濃くなると降りられないんですよ。こんなこと、東京に住んでいると気がつかないでしょう。自分で自分の国を守ろうとしないから、こういう不自由を耐え忍んでいる。私が会社でこういう話題を持ち出すと、若い人はまったく反応しないんですよ。」

 柏崎出身の小池さんはまたこんな印象的な発言もした。

 「柏崎近辺では、蓮池さんのような若い人ではなく、非常に数多くの年配者が25年前のあのころ行方不明になっています。拉致だろうとみんな噂しているんですが、口をつぐんでいる。今も黙っている。誰も自分は拉致されなくて良かった、とそれだけで終りです。気が狂ったように騒ぎ立てる人なんか誰もいなかったし、今もいません。自分にさえ害が及ばなければそれでいいんです。」

 すべてはまさにこの通りだと私は思った。これが現代の日本の精神風景である。