日本のダイナミズム 放送日のお知らせ

■放送:スカイパーフェクTV! 262ch 「シアター・テレビジョン」

■配信:シアター・テレビジョンHP http://www.theatertv.co.jp/movie/
※上記頁内にて動画配信中

シアター・テレビジョンホームページのトップページ右端にございます

番組検索で「西尾幹二」と検索すると、全番組が出てきます。
■お問合せ:シアター・テレビジョン03-3552-6665(平日10時~18時)

■チャンネルURL:http://www.theatertv.co.jp
■番組名:西尾幹二監修「日本のダイナミズム」(各20分番組)

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り

#21 「日本国改正憲法」前文私案
#22 仏教と儒教にからめ取られる神道
#23 仏像となった天照大御神
#24 皇室への恐怖と原爆投下
#25 神聖化された「膨張するアメリカ」

●シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代

#26 和辻哲郎「アメリカの国民性」
#27 儒学から水戸光圀『大日本史』へ
#28 後期水戸学の確立
#29 ペリー来航と正氣の歌
#30 歴史の運命を知れ

●各話一挙放送

#21~#25 一挙放送

#26~#30 一挙放送

【放送日 放送時刻】

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#21 「日本国改正憲法」全文私案

放送日
放送時刻

11月02日
07:30  25:40 

11月04日
25:00 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#22仏教と儒教にからめ取られる神道

放送日
放送時刻

11月03日
07:30  25:40 

11月04日
25:20 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#23 仏像となった天照大御神

放送日
放送時刻

11月04日
07:30  25:40 

11月05日
25:20 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#24 皇室への恐怖と原爆投下

放送日
放送時刻

11月04日
27:30 

11月05日
07:30  25:40 

● シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#25 神聖化された「膨張するアメリカ」  

放送日
放送時刻

10月30日
07:30  25:40 

11月04日
27:50 

11月06日
07:30  25:40 

●シリーズ: か弱き日本の神の怒り/#21~#25 一挙放送

放送日
放送時刻

11月01日
17:00 

11月07日
10:20 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#26 和辻哲郎「アメリカの国民性」

放送日
放送時刻

11月09日
05:30 

11月16日
05:30 

11月23日
05:30 

11月30日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#27 儒学から水戸光圀『大日本史』へ

放送日
放送時刻

11月10日
05:30 

11月24日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#28 後期水戸学の確立

放送日
放送時刻

11月11日
05:30 

11月18日
05:30 

11月25日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#29 ペリー来航と正氣の歌

放送日
放送時刻

11月12日
05:30 

11月19日
05:30 

11月26日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#30 歴史の運命を知れ

放送日
放送時刻

11月13日
05:30 

11月20日
05:30 

11月27日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代

/#26~#31 一挙放送

放送日
放送時刻

11月14日
05:20 

11月21日
05:20 

11月28日
05:20 

『決定版 国民の歴史』の加筆された新稿から(二)

 出版後数年にもわたり歴史学者たちから反論や批判が相次いで、わざわざそのために誹謗本を書く人までが何人も現れたのには驚きましたが、それは『国民の歴史』にとって名誉なことであり、どうぞもっと激しくやってくださいという気持ちでした。私を当時落着かなくさせたのはむしろこの本の評価でした。心外に思ったことが二つほどあります。広告文面などに日本人の誇りを確立させるために書かれた本だ、というような文言が飛び交っていたことでした。

 日本人に誇りを与えるとか自虐史観に打ち克つとか、そんな言葉が当時流行っていて、一緒にされるのは迷惑だなと思いました。私でなくても誰であろうと、簡単な心理的動機で大きな本を書くことはできません。

 もうひとつ心外だったのは、戦後の歴史観に挑戦している本だというような言葉遣いです。これは広くこの本に与えられた通説でした。しかし違うのです。私の目的はもっと大きいのに、なぜ読み取れないのか、と不満に思いました。

 上巻付論「自画像を描けない日本人」に書いた通り、「日本から見た世界史のなかに置かれた日本史」が私の構想であり、私がそれを実現したと言っているつもりはなく、そのための試論、基礎的理念の提供の書であることが本書の狙いでした。

 戦後の歴史観の否定というのは大きな目的のうちの一部にほかなりません。自分にとって不本意な言葉が飛び交っていることに落着かない思いを抱くのはどの著者でも同じでしょう。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 

 地球上のありとあらゆる民族の興亡の歴史を念頭に置いた場合、この列島の住人の歴史は比較相対的にみて、一言語・一民族・一国家の特性を示していると言ってもさほど間違いではないのではないかと私は考えます。七世紀半ばという日本の国家的自覚は、ヨーロッパの各国より七百年ほど古く、ヨーロッパの「契約国家」とは異なり、いわば「自然発生国家」でした。長い未完成な国家以前の国家の経過を前提としています。もちろん厳密なことをいえば網野善彦氏が言う通り「列島全域をおおった国家」ではなかったでしょうが、だから「日本」はまるきり存在しなかったと目鯨を立てるのは、比較相対的にみて、大雑把にいってそう言えるという物事を判断する際の「常識」に反します。

 加えて、網野氏は『「日本」とは何か』の第三章で、「日本」という国号は中国から見て東の方向を指す意味であり、中国という「大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマトの支配者の姿勢をよくうかがうことができる」といい、「唐帝国にとらわれた国号であり、真の意味で自らの足で立った自立とはいい難い」と述べ、この国号を大嫌いと言った江戸の国家神道家の例を挙げて、「日本」という国号に思う存分に罵言誹謗を浴びせた気になっています。

 しかし何というわからず屋の無知蒙昧のご仁でしょう。古代のわが国が大陸の大文明にとらわれた時代から国の歩みを始めたことは自明であって、それは不幸でも敗北でもありません。大文明から少しずつ独立に向かった歴史の歩みこそが貴重であり、創造的です。独立への心をやれ空威張りだとか、やれ対抗心にとらわれているとかいって嘲ける網野氏のような人間の存在こそが不幸であり、敗北なのです。

 そもそも「真の意味で自らの足で立った自立」を達成した国など何処にもありません。中国の各王朝も治乱興亡の歴史の波間にあり、近代西洋の各国もまた同様です。しかし本書の読者にはもうこれ以上申し上げる必要はないでしょう。「日本」にとらわれているのはむしろ網野氏や同類の日本史学者たちであって、『国民の歴史』はこのうえもなく広大な視野で、文明の興亡を展望し、わが国の歩みをその中に位置づけるべきとした新しい歴史記述のための試論を心掛けたのでした。日本史学者の視野の狭さにはほとほと手を焼きました。通説となっている極西(ヨーロッパ)と極東(日本)の相似性と同時勃興の歴史に関する基礎知識さえ彼らは持っていません。世界史のことは何も知らないのです。言語学や哲学や神話学など他の学問分野のことも何も知らないのが日本史の学者たちです。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 さて、『国民の歴史』の方法論の一つが「比較」にあることは前に述べましたが、もう一つの特色として私が多少の自負をもっているのはどのテーマも可能な限り「根源」を目指していることです。縄文土器文明、日本語の起源、中国と日本の王権、中国の文書主義、古代専制国家、儒家と法家、世界史の概念、そして西欧の地球占有。最後のテーマは普通スペインとポルトガルを起源としますが、本書は十字軍、それも北の十字軍を示唆しています。北の十字軍からニュルンベルク裁判まで一直線につながるものがあると判断しています。

 縄文土器文明については、従来の考古学と異なり、地下層の花粉探査をはじめ数々の大規模科学調査に基づく安田喜憲氏の研究成果を知ったのは幸運でした。氏はその後も東アジア全域に調査を広げ、縄文文明の意味を確認しつづけています。

 日本語の起源問題は現代で最も信頼度の高い松本克己氏の論文に依拠しました。氏は世界言語を視野に収めた言語類型地理論の手法で、袋小路に陥った日本語系統論に、壮大で緻密な論考を展開して活路を見出してこられました。私が参考にしたのはまだ雑誌論文でしたが、平成十九年に氏の『世界言語のなかの日本語』(三省堂)が刊行され、新地平を拓きました。本書は安田喜憲氏の縄文と松本克己氏の日本語論が柱をなしたと言っても過言ではありません。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 最後の一文は、私がなぜ神武東征から書き始めなかったかの根拠を示しています。しかし、神武東征を含む神話と歴史をめぐるテーマの理論分析が本書の上巻で徹底的に扱われたことは周知に属します。第6章の「神話と歴史」、第7章「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」、第8章「王権の根拠―日本の天皇と中国の皇帝」の三つの章にわたる展開をご覧下さい。

 気になっていた第8章の文章の不分明や混迷を今度かなり修正し、整理しました。よみ易くなったはずです。

『決定版 国民の歴史』の加筆された新稿から(一)

 『決定版 国民の歴史』上巻には「まえがき 歴史とは何か」と付論「自画像を描けない日本人」、下巻には付論「『国民の歴史』という本の歴史」と「参考文献一覧」が新しい内容として追加加筆されました。全部で150枚を越える分量です。

 版元の許可を得たので、この中から面白そうな個所、大切な指摘と思われる個所を若干抜き出して二回に分けて掲示してみます。

 私たちは高い山を遠くに望みながら歩けば、角度により、近景のいかんにより、季節により、時刻により山が異なった印象を与えることを経験している。歴史はわれわれが歩くことによって異なって見える高い山の光景に似ている。

 日本史に起こった客観的な諸事実、その年代記的な諸事実は紛れもなく動かずに存在するものである。それが高い山であるとしたら、それが歴史なのではなく、歩くことで現在の私たちの目に新しい光景として映じている山の映像こそがまさに歴史である。

 本書には、葛飾北斎の富嶽三十六景の中から三枚の絵を掲示している。思い切った譬(たと)えを申し上げるなら、富士山は動かない存在、歴史上の客観的な事実である。しかしそれを知ることは誰にもできない。遠望できるだけである。北斎は現在の自分の置かれたポジションの条件を幾重にも組み替えることで、すなわち自分を相対化することで、富士の姿の絶対化を図ろうとした。それは数限りない冒険であり、知的実験であった。

 セザンヌも同様に何の変哲もない、ただの岩塊から成るサント・ヴィクトワール山を三十六枚も描いた。季節により、時刻により、山は絶え間なく変容して見えた。しかし山の形姿そのものが大きく動くわけではない。同一の山をくりかえし描くなどということは西洋美術の伝統になく、セザンヌは北斎からこの実験のヒントを得たに相違ないが、二人に共通するきわどい、執拗で大胆な試み、届き得ない不動の山に、自分をばらばらに解体させる視点の多様化で接近しようとした実験精神こそ、ほかでもない、歴史家が歴史に立ち向かう際のあるべき精神に相似した理想の比喩なのではないだろうか。

 歴史という定まった事実世界を把握することは誰にもできない。歴史に事実はない。事実に対する認識を認識することが歴史である。

 それは私たちが絶え間なく流動する現在の生をいったん遮断し、瞬間の決定を過去に投影する情熱の所産である。相対性の中での絶対の結晶化である。

 今私たちに必要なのは、日本文明を歴史の時間軸と世界の空間軸の上にのせ、全体を俯瞰し、多用な比較を介して新しく位置づけるための認識の決断である。

「まえがき 歴史とは何か」より  

 荻生徂徠という人物がいて、徹底した中国主義者でありますが、古文字に遡っていく徂徠と宣長の精神構造がよく似ているのです。宣長は徹底した日本主義者です。そして、徂徠が逆転して宣長になったとも言える。これは中国文化というものが入ってきたときの古代日本に起こった文字獲得の原初のドラマが江戸を舞台として再演されたことを意味するように思います。私が5「日本語確立への苦闘」の章で書いたあの古代史の戦い、古代日本人が中国語を学んで、さいごに中国語の文字だけを利用して日本語を確立したというドラマが江戸時代にもう一度繰り返されたのです。それがある意味で徂徠から宣長への逆転のドラマではなかったか。いわば言語文化ルネサンスです。

 私の『江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋』の中心モチーフがまさにこれでした。古代の言語の再獲得は、民族の神の再認識のドラマでもあります。江戸時代の儒学というのは、学問や教養としては入ってきたけれども、儒教そのものは日本人の生活の中に入ってこなかった。朝鮮は、徹底した儒教の国です。しかし日本には儒教が生活基盤にまで入ってこないで、国学誕生の言語文化ルネサンスを引き起こし、神の国復活に役立ったことが最良の貢献であったと私は思っています。

 儒教が本当に入ってきたら、必ず科挙が入ってくるはずです。科挙が入ってきて、中国や朝鮮のような文民官僚国家が成立しているはずです。武士階級というものは成立しなかったはずです。そういうことを考えますと、江戸時代の儒学ブームというのは、民族の精神の復活劇として吟味し直す必要があると私は思っています。合理主義としての思考訓練と道徳の教本としての儒学の役割はたしかにありました。合理主義はやがて西洋のそれに取って代わられ、儒教の道徳は現代社会に生きていません。われわれは今どんどん中国文明から離れています。江戸時代の儒学の習得が生活に根ざして本物なら、こんなにかんたんに消え去ることはないでしょう。結局儒学は日本人の信仰に寄与するというまったく別の役割を補佐したのだと思います。

 大陸に対する対応は、べったりするか、距離を取るかしか方法がありませんでした。外から入って来るもう一つの足場がなかったわけですから、日本に西洋が入ってきたときには、一転して中国に対して距離を持つことができるようになったのです。

 逆に言うと、この列島には何が訪れても自分の内部が壊れることはないという例の安心感があります。一見して原理のない、規範を持たない国ですが、すべてを包括し同化し、貯蔵する巨大なタンクのような文化は現代でもなお存続しています。それが結果として、独自文化としての自己主張を、もちろん言えば言えるものがあるのに、それをあえて言わないことをもって強さとする国になっていると言っていいかもしれません。そういう構造を生み出して今日に至っているのではないかという気がします。

上巻付論「自画像を描けない日本人」より

『決定版 国民の歴史』の刊行

 10月10日にようやく『決定版 国民の歴史』(上・下)が刊行されました。文春文庫の棚は全国のほとんどすべての書店にありますので、そこにご覧のような表紙絵の文庫本が二冊横積みに置いてあるはずです。もの凄い勢いで売れた今から10年前のフィーバーよもう一度甦れ、と期待していますが、さてどうなることやら分りません。

『決定版 国民の歴史』上
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『決定版 国民の歴史』下ketteikokumin2.jpg

 過去、当日録にこの本の紹介文章を記しました。もう一度みて下さい。

 ここには目次のみを再度掲示しておきます。新たに加筆した赤文字の個所にご注目下さい。何人かの友人がこの追加部分を早くも読んで、面白いと言ってくれました。

上巻目次

 まえがき 歴史とは何か
1・・・・一文明圏としての日本列島
2・・・・時代区分について
3・・・・世界最古の縄文土器文明
4・・・・稲作文化を担ったのは弥生人ではない
5・・・・日本語確立への苦闘
6・・・・神話と歴史
7・・・・魏志倭人伝は歴史資料に値しない
8・・・・王権の根拠―日本の天皇と中国の皇帝
9・・・・漢の時代におこっていた明治維新
10・・・奈良の都は長安に似ていなかった
11・・・平安京の落日と中世ヨーロッパ
12・・・中国から離れるタイミングのよさ―遣唐使の廃止
13・・・縄文火焔土器、運慶、葛飾北斎
14・・・「世界史」はモンゴル帝国から始まった

 上巻付論 自画像を描けない日本人
――「本来的自己」の回復のために――

下巻目次

15・・・西欧の野望・地球分割計画
16・・・秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
17・・・GODを「神」と訳した間違い
18・・・鎖国は本当にあったのか
19・・・優越していた東アジアとアヘン戦争
20・・・トルデシリャス条約、万国公法、国際連盟、ニュルンベルク裁判
21・・・西洋の革命より革命的であった明治維新
22・・・教育立国の背景
23・・・朝鮮はなぜ眠りつづけたのか
24・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その一)
25・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その二)
26・・・日本の戦争の孤独さ
27・・・終戦の日
28・・・日本が敗れたのは「戦後の戦争」である
29・・・大正教養主義と戦後進歩主義
30・・・冷戦の推移におどらされた自民党政治
31・・・現代日本における学問の危機
32・・・私はいま日韓問題をどう考えているか
33・・・ホロコーストと戦争犯罪
34・・・人は自由に耐えられるか
原著あとがき
参考文献一覧
下巻付論 『国民の歴史』という本の歴史

 今回「決定版」と名づけたのには幾つかの理由があります。余りにも短い時間に1700枚もの大著を書き上げたので、文章に粗い所や乱れがあり、若干の誤値もありました。それらの修正はもとより、古代史その他に研究上補説の必要な個所も生じ、かなりの書き加えも起こりました。徹底的に見直して、後顧の憂いをなくしたいと思ったのは、私の死後何十年かたってもう一回改版される可能性があるものと信じているからです。テキストの完成はそのためにどうしても必要です。

 テキストを正確にするには私の地の文の精査に心を尽くすのは当然ですが、引用文にも書き間違いや写し間違いがあってはなりません。今度文芸春秋の校閲部は数百点にのぼる多種多様な引用書の原書の引用個所にすべて当って、過ちを正し、正確を期することになりました。これには私も驚きました。約400点はある引用書の原本の8割はわが家の書庫にあります。しかし、10年たっているのでどこかの図書館を利用したり人から借りたりして、いま手元にない本も少くありません。

 日本の出版文化はなお校閲部を有する大手出版社に関する限りじつに頼りになるものだと思いました。新潮社や中央公論社で本を出したときにもほゞ同じ経験をしました。文藝春秋の編集担当者は校閲部を手助けするために、普通に手に入らない本や文献――私の自宅にはいま存在しない――をさがして図書館や他の出版社を走り回ってくれました。引用文の正誤を正すためにたった一冊も見逃すまいとしてです。それは血のにじむ努力で、しかも誰も気がつかない目立たぬ努力です。

 文藝春秋と扶桑社とでは出版に対する心がけがまるで違います。扶桑社には校閲部がありません。だから誤植の多い本を平気で出します。その他でも、校閲部のない出版社はざらにあります。「決定版」はやはり文芸春秋レベルでないと出版できないことを確認しました。

 もとより私の『江戸のダイナミズム』のときの同社の校閲班の努力はこの比ではありませんでした。今思うと、不景気の時代によくあんな規模の本を出してもらえたものと思います。

 『国民の歴史』に引用した本の8割は私の書庫に所在しますが、10年経って、どこの位置にあるか書庫は広いし混乱しているのですでに分らなくなっていました。かりに本を見つけても、引用個所がどのページだったか忘れていて、これまた捜すのに一苦労です。一日、担当編集者と共同で作業し、本の必要個所をみつけてコピーし、コピーを校閲部に運んでもらう準備をしましたが、一日では足りませんでした。

 そんなわけで書庫をかき回す作業が何日もつづきました。次第に10年前の熱闘の記憶が甦りました。忘れかけていた内容、読みかけのテーマ、追求途中で放棄した課題――古代から現代に及ぶ日本史・中国史・西洋史のさまざまな問題が心の中に復活し、そうだ、もう一度しっかり勉強し直そうという気にもなってきました。

 『決定版 国民の歴史』の下巻に、「参考文献一覧」が小さい字で12ページにわたりびっしり、各章ごとに分けて提示されています。これはこの新版の新しい特徴です。私はこの文献一覧を作成するために大学ノートを用意し、混乱した書庫を整理してから各種各様の本を読んだり、閉じたり、思案したりしつつ、新しい分類表をつくりました。これは楽しい作業でした。また次への新しい仕事のプランが湧き出てくる心躍る充実した時間でもありました。

 いかに世界には私の思い及ばない知らないことが多いか。この歳までいかに学ぼうとして学び得ないできたか。文章を書くよりも、もっとたくさん読まなければいけない。書くことには時間を要し、つい学ぶことが疎かになる。いつもその反省が私を苦しめます。あまりたくさん書く仕事をしない学者は、私よりもよく勉強し、多くをよく知っている。その事実もたしかにあって、私を焦らせてきました。

 今年の6月と7月は書庫をかき回して必死でした。心に惑いが生じ、不安が芽生え、勇気も湧いてきました。「参考文献一覧」はとても思いの多い仕事となりました。読者の利便に供しただけでなく、読者の興味をも十分にそそる書名と著者名の開示になっているように思えます。ぜひ注目して読んでいたゞきたい。

 しかも普通の参考文献表と違って、ところどころに私の自由なコメントが入っていて、型破りであり、担当編集者をこの点でも面白がらせました。

 上下巻についている各付論とまえがきは併せて150枚はあり、当然語るべきことはたくさんありますが、これは読んで頂くしかありません。今日は普通には目立たない「参考文献一覧」について、あえて一言しました。

SAPIO9/30号より

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以下はSAPIO9/30号からの抜粋です。

私の理想だった「深窓の令嬢」が目の前に現れた

東大の学生たちがみなボーッとしてしまった ミッチーブームとは?

「世紀の御成婚」から50年――民間出身の初の皇太子妃となった美智子妃への熱狂と現象は、いまも語り草となっている。そのミッチーブームを、同時代人はどう見ていたのか。舌鋒鋭い評論で知られる西尾幹二氏が、当時を語る。
              
 ※

 私が「正田美智子」という名前を知ったのは、実に半世紀ほど前、東京大学文学部独文科を卒業し、独文専攻の大学院修士1年に在籍していたころであった。

 昭和33年11月27日、皇太子明仁親王とのご婚約記者会見が行なわれた。以後、新聞はもちろんのこと、創刊ラッシュに沸いていた週刊誌や、グラフ誌、あるいはモノクロのテレビなどで、皇后陛下の「画像」が世に溢れかえることになる。

 それを見て、私は正直大変に驚いた。「本当にこんな人がいたんだ」と。

 それはまさに「深窓の令嬢」を絵に描いたようなお姿であった。ちなみに、私は昭和10年生まれで当時23歳。美智子妃は昭和9年、明仁親王は昭和8年のお生まれだから、まさに同世代の出来事であった。

 現代と違って男女の付き合いは簡単ではなかったし、文学青年というのは幻想肥大で、頭の中だけで「ノーブルな女性」に憧れる傾向がある。当時の東大でも多少は女子大との交流もあったものだが、出会った女性を仲間内で品定めをして騒ぐといった程度で、その意味では私もこの時代の平均的な若くて普通の男児であった。とはいえ、現実には、正真正銘の「深窓の令嬢」などなかなか存在せず、結婚相手として頭の中で想像するだけで、憧れは憧れに留まっていた。

 そんなとき、若かりし美智子妃を見たのである。私は東京出身であるが、まず聖心女子大学なるものが存在することを知らなかった。日本はまだ貧しく、戦後の混乱の只中にあり、食糧不足はつづいていた。何より、軽井沢の別荘や「テニス」など、自分の人生に関わることなどと想像したことすらなかった。

 この時代、大半の学生は貧しいのが当たり前であった。昼飯は生協で買ったコッペパンと牛乳があれば上等という「コッペパンの青春」なのだ。

 ゆえに皇太子殿下と美智子妃殿下のラブロマンスは、当時の若者たちにとって夢物語のようであり、美智子妃殿下が記者会見で語った「ご誠実でご立派な」という発言は流行語にもなった。

 この報道の後、私だけでなく、いつも一緒にいた生意気な文学青年たちも美智子妃のことを話題にしては、みながみな、ボーッとしていたことをよく覚えている。大学院には年上の同僚や結婚していた者もいたが、みな、同じような憧れの目で見ていた。

 私はといえば、美智子妃殿下とご結婚なされる明仁親王に「負けた」と思いつつ「皇室なら仕方ないな」と思ったものである。

 昭和33年末からご成婚のあった昭和34年は、60年安保を控え、左翼学生が幅を利かし、学内は殺伐とした空気に満ちていた。共産党は当時、「天皇制打倒」を謳っていたはずだが、考えてみれば、学内で「ご成婚」に反対する動きは不思議とまったくなかった。

 左翼学生も同じ気持ちだったのだろうか。

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ブームの背景にあった美智子妃の「覚悟」

 ともあれ、婚約記者会見から以後、世に言う「ミッチー・ブーム」が巻き起こった。次々と創刊された週刊誌により、やれファッションがどうだ、どこで何をしたといった情報が巷間に氾濫し、一般家庭ではご成婚パレードを見たさにテレビが売れに売れ、200万台を突破した。そのご成婚のパレード当日、皇居から渋谷までの8.18kmの沿道に53万人が集ったというのだが、私はさすがに見に行っていない。

 こうした熱狂は、天皇と国民の距離が最も近かった良き時代だったことも要因の一つであろう。昭和天皇に気さくな「天チャン」という愛称が奉られ、みんながなれなれしく天皇について語り、批判も含めた皇室への言論は今よりはるかに自由で、のびのびしていた。そうした空気が一変するのはご成婚の2年後(昭和36年)に起こった「*風流夢譚」事件以後のことである。

 だが、あれほど国民が熱狂したのは、メディアのいうところの「昭和のシンデレラ」的な甘い夢物語とは違う。ブームの最中、皇后陛下の楚々とした態度のなかにお見せになられる、大変な緊張というか、「覚悟」のようなものを、どこかで国民が感じていたからであろう。

 ちょうど60年代は、「革命」が現実味を帯びていた時代だった。私のような保守学生は、左翼学生から「お前をいつか人民裁判で死刑にしてやるぞ」などといわれていたものだ。革命が起きれば皇室がどうなるかは天皇陛下も十分ご理解していたはずである。婚約前の昭和33年7月、イラク国王ファイサル二世が軍部のクーデターと民衆蜂起により暗殺されたその日、学友の橋本明氏に「きっと、これが僕の運命だね」とこぼされたという。陛下自身、革命が起こりうるかもしれない時代の空気を察していたであろうし、その皇室に嫁ぐことがどういう意味を持つか、この時代を生きてきた皇后陛下も十分にご承知なされていたと思う。

 もちろん、それも一端であったとして、それだけが皇后陛下の「ご覚悟」のすべてであったということはあるまい。

 もっと別な理由があった。それを私が理解する契機になったのが、ご母堂の冨美(のちに富美子に改名)夫人の記者会見であった。

正田家と皇后が理解していた「カミ」という概念

 ミッチー・ブームの最中、「深窓の令嬢」としての皇后陛下の優雅さに惹かれる一方で、冨美夫人の皇后陛下とはまた別な明治の貴婦人のごとく凛とした美しさに感嘆した記憶がある。

 それにもまして興味深かったのは、冨美夫人が記者会見で「娘には天皇は神であるとは教えてこなかった」といった趣旨の発言をされたことだ。

 当時の私は、それを言葉通りに受け取った。戦前の時代背景を考えれば、随分としっかりした考えを持った家族なのだな、という程度の認識である。

 しかし、その後、正田家は、この発言とは正反対の行動を取り続けることになる。ご夫君正田英三郎氏は日清製粉の社長であったが、ご成婚後、会社の代表を退かれ、極力、表舞台には出ないようにしてきた。皇室の外戚に当る会社で何かあれば迷惑がかかるというのが理由であったという。また、よほどのことがなければ皇后陛下の里帰りさえ許さず、常に遠くから見守るだけであった。英三郎氏が逝去した時、皇后陛下は将来天皇になられる方であるという理由で、わが子浩宮殿下の弔問をお避けになったのは語り草である。正田家は、娘を皇室に嫁がせた瞬間、一切の私的な交流を絶ってきたのである。

 ここにあるのは、平等であるとか人権であるとか民主主義であるといった近代の理念がまったく立ち入ることのできない「界域」としての「皇室」である。天皇家に嫁することは、同時に俗世間との境を超越することを意味していることを皇后陛下はご理解なされていた。

 巨樹にしめ縄を張って、それをカミとして祈るように、日本人は、自然の中に我々とつながる命をみて、そこにカミが宿るという宗教観念を持っている。天皇が「カミ」であるとは、そんな日本人の信仰世界、神道の祭祀役という意味においてのことであり、西洋的な絶対神とは明らかに違うご存在としてである。それゆえ天皇は、あらゆる「俗世間」から切り離される。その境を越えて「カミ」になる覚悟、いや、畏怖の念といっていいお気持ちを皇后陛下は持たれていた。それを肌で感じたからこそ私を含めて国民が、「ご成婚」に熱狂したのだと、今では思う次第なのである。

 私は、昭和50年ごろ、中軽井沢の駅のホームで、当時は皇太子であった天皇ご一家のお振舞いをそば近くで目撃する幸運に恵まれたことがあった。

 まだ新幹線ができる前で、同じ車輌に偶然、乗り合わせたのだ。天皇皇后両陛下に、秋篠宮殿下、紀宮内親王の4人が歩いておられた(皇太子殿下は留学中だったのであろう)。ちょうど、そのところに私たち家族も車輌を降りて、一緒に駅のホームを歩くことになったのだ。格別の警備も警護も見当たらず、一家は自由に一般市民と立ち交じっておられた。私は天皇陛下の斜め横2mの位置で後ろをついて行った。

 階段の下には、地元の女子高生が数名、居合わせて黄色い声をあげて固まって座っていると、陛下は彼女たちの前で、身を屈めて、一人一人に握手をなさった。少し後ろにいらっしゃった皇后陛下は、やはり少し腰を屈め、優しい、そして静かな笑顔を彼女たちに投げかけられていた。

 実に自然なお姿と仕草で、私はきっと天皇ご一家は日ごろ、国民とこんな風に接しておられるのだな、と想像することができたし、事実、今現在でも全国いたるところで似たような光景が繰り返されていることであろう。

 だからこそ私は、こう思うのだ。

 ここに至るまで、皇后陛下が、どれだけのご苦労を、強い意志で乗り越えられてきたのかということを。戦後間もないあの時代に、ごく普通の女性が、皇室に入り「カミ」となるのだ。並大抵のご苦労ではなかったことであろう。皇后陛下は、一生をかけてその答えを出そうと、すべてを捧げてこられてきたに違いない、と。

 若かりし頃に憧れた「深窓の令嬢」の面影ではなく、また、ご母堂の冨美夫人のような貴婦人のような美しさでもなく、そこに私が見たのは、国民の中心として平成という時代を天皇陛下と共に支え「国家の魂」となられたご存在だった。

 それを昔の人は「神」と呼んだのである。

*「中央公論」1960年12月号に掲載された作家・深沢七郎氏の小説「風流無譚」の中で、天皇ご一家が革命家らに襲われる描写が不敬であるとして右翼が抗議。61年2月には右翼団体に所属する少年が中央公論社社長宅に押しかけ、社長夫人が重傷を負い、家政婦が射殺された。