初冬到来(三)

 11月17日夜私は武道館の自衛隊音楽まつりという催しを見に行った。いままで毎年いたゞくのにムダにしていた招待状を今年は何となく連れが出来て出かけてみる気になって、熱のこもった内容を堪能した。とりわけあの広い会場に何百という大太鼓小太鼓が集められた一斉演奏にはひたすら驚いた。太鼓だけであれほど規模の大きい、音響とどろく合奏ができるとは!

 自衛隊音楽祭だから当然私は耳に聞き慣れた楽しいマーチの数々を期待していた。かの大戦中の軍歌も心待ちにしていた。しかしそういうものはなかった。アイーダが頂点をなし、ラデッキー行進曲が結びをなしたのは少し残念だったが、まあ今の自衛隊はそういう性格のものなのだろう。あまり目鯨は立てないでおこう。

 18日は午後3時から「福田恆存を語る」講演会を聴きに行った。「日録」で欄外に私も案内した通り、毎年恒例で行われている催しで、今年は作家の高井有一氏のお話である。主催者から送られて来た葉書には、「高井氏は、福田先生の國語問題の繼承者の一人である、また『キティ颱風』をはじめとする福田演劇の熱心な觀客でもあります」と書かれてあったが、高井さんのお話も劇作家でかつ劇団主催者でもあった福田恆存をめぐるテーマが主であった。

 ご講演は話言葉に含みと微妙なニュアンスがあり、聞いているときは深くうなづかされるが、さて終って何が語られたか分り易い主題にまとめたり、要約したりできない。いい話とはそういうものである。録音でも手許にあればもう一度聴くが、何が語られたかははっきり覚えていないのに、氏の言葉に触発されてそれとは関係なしに自分の中に勝手にうごめいた想念だけは覚えている。

 福田さんは言葉を信じた人、あるいは激しく信じようとした人である。それだけに言葉の限界、言葉の空しさをもよく知った人であった。

 チェーホフの劇ではたいてい舞台上には何も起こらない。起こったことや起こり得ることが役者の台詞によって語られるだけである。しかもどの作品も上演すれば全部で大概3-4時間はかかる。長い時間役者の台詞が語られるのを、観客はたゞ耳を澄まして聴くだけであって、視覚的な面白さはほとんどない。福田さんはそういうチェーホフが好きだったし、創作劇『キティ颱風』もそういう芝居だった。

 高井さんは昭和23年に三越劇場でこれを見たのが福田文学とご縁の出来た始めらしい。私より六年は早い。チェーホフの『かもめ』のフィナーレが自殺で終わり、台本では舞台裏で一発のピストルの音がするだけで幕となる。ところが現代の演出家は舞台上にピストルを手にした役者を登場させ、血を吹いた胸をかゝえて用意された水槽の中へ身を投じる、というシーンまで演技させる。演劇におけるこのような視覚化に疑問を呈したのが日本では福田恆存だった、と高井さんは仰言った。

 私は覚えていないが、『私の演劇教室』で安倍公房が怪物を出したり山が動いて喋ったりするのを福田さんは批判していて、こういうことをやってはいけない、演劇のリアリズムはもっぱら台詞にある、台詞そのもののうちに演劇性をもりこむのが芝居というものだ、と仰言っていたらしい。福田訳・演出で芥川比呂志にやらせたハムレット、松本幸四郎が演じたご自身の創作劇の明智光秀が恐らく福田さんの求めた理想に近い舞台であったであろう、と高井さんは言っていた。

 言葉を信じていた、あるいは文学を信じていた。それゆえに言葉の安易な用法も、言葉が写実を可能にするというリアリズムへの素朴な信仰も許さなかった人だ、といってもいいだろう。高井さんが最初に聞いた講演は高校時代の、早大文芸講演会だったそうだ。一つ覚えているのは「リアリズムという言葉を安易に使うな」だったらしい。

 その頃早大は自然主義リアリズムの本拠地で、丹羽文雄のいわゆる「西鶴に学べ」が通り相場で、丁度40歳の福田さんは結果的に早大リアリズムに殴り込みをかけた形だった。講師は複数いたのに、福田さんの講演が終ったら公衆は7割がた帰ってしまったのを妙に覚えているという。福田さんは注目の的で、目玉だったのである。

 高井さんはこのあと『芸術とはなにか』(昭25年、初版)で福田評論に初めて接した。「演戯」ということがしきりに論じられているあの本だ。言葉で写すことがそのまま真実になるのではない。美に向かって演じて確かめるのが人間が真実に向かっていくことに外ならない、たしかそういうことだったが、人間は若い頃に接した片言一句にどれだけ影響を受けるか。短い鋭いことばから何を受けるか。高井さんは若い日々を思い出すように語っていた。

 教室風の会場に120人以上の人が一杯入って聴いていた。老人が多い。松本幸四郎といったって今は亡き先代の話である。リアリズムと反リアリズムの美学の対立で当時の人々は文学を越えて社会、政治、世界観を語っていた。昭和20年代は文芸講演会に人間の生き方を求めて人が集ったのだ。

 福田さんが「文学の言葉で政治を語るセンチメンタリズム」を戒め、「政治の言葉で文学を裁くイデオロギー」を排しつづけたとはいえ、それが言えたのは、文学が広く信じられ、文学用語で政治や社会を語ることが可能な時代を生きていたからである。

 福田さんは手ごたえのある時代を生きていた。自分の言葉が世間に反響する時代を生きることが可能だった。情報空間が限られ、一定の範囲内にあった。次のハムレットを誰が演じるかが週刊誌の関心事だった。芥川賞はつねに社会的事件だった。

 福田訳シェイクスピアは格調が高い。劇団「雲」の役者は良くあれを覚えられたものだと思う。早口でしゃべるのを聴き取るわれわれ観衆の方も大変だったが、しかし舞台の話言葉によく合ってもいた。to be or not to beを「生き長らうべきか生き長らうべきでないか」などという冗長な訳を排して、福田さんは「生か死か」と端的に訳した。耳で聞いてすぐ分ることが肝心だからだ。

 Whoではじまる英語で「そこにいるのは誰か」と訳したのでは行動と一致しない。日本語訳は「誰だ、そこにいるのは」としなければならない。

 私のニーチェやショーペンハウアーの訳に、事情は少し違うが、福田さんから学んだ同じ精神を生かそうとした苦心の跡のあることを知る人は知っていると思う。欧文脈と和文脈は異なるのだから、語順は目で追う時間の順序に従うのが当然である。必要なら、同じ文節を二度訳してもいい。二語を一語にしても、一語を二語にしてもいい。必要なのは和文にしたときのリズムと明晰さである。

 福田訳シェイクスピアは難しい言葉、高度な表現はあったが、耳で聞いて心地よく、分り易かった。デレデレしていない。小田島雄志訳という平俗低級な新訳が出現して、分り易い日本語だということで他の多くの劇団がデレデレした凡庸なこの新訳を採用するようになった趨勢を、福田さんはどんな思いで見ていたことであろう。

 勿論、他の劇団が左翼傾向で、福田さんの政治発言が演劇の縄張りにも悪い影響を及ぼしたということはあり得る。芥川比呂志は今でいうリベラル左翼で、高橋昌也その他を引きつれて退会し、「雲」は分裂した。

 高井さんは芝居をするのは血が荒れるといった久保田万太郎のことばを引いて、劇団だけでなく劇場までつくってお金の苦労や役者の身の振り方まで世話をした福田さんは、大才をあたら惜しいことに使ったのではないか、芝居好きはいいとして、劇団、劇場経営まで手を出す必要が果してあったか、つねづね疑問に思っていた事柄だったと言い添えるように語った。

 劇団主催者はおよそ人格的に怪しげな、ズボラでいい加減な人でないとつとまらない。千田是也がいい例である。それに対し、潔癖といっておよそ福田さんほどに世に潔癖な人はいなかった。そもそも芝居の世界は潔癖な人格をおよそ必要としない。煙たがって遠斥ける。ここに福田さんの悲劇があったのではないか、と語った。

 会場は質疑応答に入ってから、このテーマに大きく傾いた。会場からある人が、福田さんが劇作家として生きることに満たされず、劇場経営までしたこと、つまり芝居の世界にまきこまれてしまったのはかえすがえすも残念で、そうでなかったら今の言論界はもう少しましであったろう、この会場には西尾さんの姿が見えるが、別に他意はないから誤解しないでほしい、といってみなを笑わせた。たゞ自分は、福田さんにもっと評論でがんばってほしかった、そうすれば現在もう少し言論界の情勢は変わっていたのではないかと思う、と。

 「芝居の世界にまきこまれた」という先のことばに高井さんは反応した。「まきこまれた」というような生易しいものではない、と少したしなめるように言った。

 言葉は少なかったが、高井さんの気持を忖度すると、たしかに福田さんが演劇にあまりに時間と才能を奪われたのは残念ではあるが、ならばそうしなければ良かったかというとそうではなく、「まきこまれた」といういやいやながらの受動的な状況ではない。やはり好きで入った道だ。自分の運命を承知で自分で選んだ。ことばの半分は「惜しかった」だが、もう半分は「これはこれで良かった」である。もし芝居の世界がなければ評論の世界も生動しなかったのかもしれない、と。

 高井さんは晩年の福田さんが「孤独の人、朴正熙」を書いて、今の韓国で、また当時の日本で評判の悪いあの大統領の孤独な生き方に共感を示した文章を残したことをことのほか重く見ていた。ここに会場からの質問への答を投影していたように思えてならない。

 「福田さんがチェーホフが好きだったのは、チェーホフの生き方の自由に憧れていただけではないのだろうか。あれだけ政治的に論陣を張ると何を書いても悪くいわれる。とてつもなく窮屈だったでしょう。レッテルを張るな。自分は自由だ、そう言いたかったのでしょう。」

 高井さんはまた次のようにも語っていた。

 「あれだけ立派な全集を遺し、翻訳全集まで出して、生前にやるべきことはあらかたなし遂げたはずなのに、全集製作者――田中健五・元文藝春秋社長――が言っていましたが、福田さんほど不遇の意識を強く抱いている人はいなかった、というのです。」

 私はこれを聴きながら思った。難しい時代を生きて福田さんは大変だったのではなく、枠があって、言論が反響する壁をもち、文学のことばだけで政治や世界を論じることが出来て、ある意味では羨ましい文学者としての完結性を誇ることが出来た最後の幸せな世代ではないかと思えてならない。

 私はかつて文学者のまゝ政治を語ることが出来た人は江藤淳をもって最後とすると言ったことがあるが、どうもそれは間違いである。江藤氏の『閉ざされた言語空間』は今なお政治評論として秀れたものだが、いま論じるに値するのはあれだけで、夏目漱石論をはじめとする文学的業績の方は今や見る影もない。

 福田恆存においては文学と政治が一体化していた。だから政治と文学を混同するなと言いつづけることも可能だったのである。ある意味で時代が一体化を許していたことは否めない。

 講演が終って会食の席で、高井さんに最近私は次々と現われるテレビタレントの名前が覚えられないのと同じように純文学の作家の名前も覚えられない、と言ったら、自分もまったく同様である、と言っていた。

 主催者団体「現代文化會議」の若いメンバーが同席していて、福田恆存を読む勉強会を恒例化しているとかで、近代日本の文学史や文学概念を駆使して議論を交しているのを聴いて、私はたゞひたすら懐かしさを感じた。彼らは文学研究の専門家では必ずしもないだけにかえって不審な印象をさえもった。

 いまの時代は精神の運動を仮託する「地図」がない。だから政権政党の動きや靖国や皇室問題や拉致や北朝鮮問題などの現実の直接的タームにストレートに反応するしかなくなっているのであろう。

 文学史や思想史で自己の位置を測り、現実に対し一歩距離を置いて思考を深めるということが精神の衛生のためにも、思考の自立のためにもむしろ必要であると私は日ましに強く感じるようになってきている。

初冬到来(二)

 私が福岡に出かけたその日に、文藝春秋出版局より『江戸のダイナミズム』の再校用の校正ゲラがどさっと届いた。月末までに全文を少なくとも二度は読みあげ、残った疑問点をことごとく解決しなければならない。

 しかしその前に渡すべき「参考文献一覧」の原稿がまだ出来上がっていなかった。人には知られることの少ない秘かな困難事なのである。参考文献の著者名・題名・出版社名は大体今までにノート一冊に書き並べてあるが、それを写すだけでよいと安易に考えていたら、とんでもないのである。多岐にわたるので頭が混乱して収拾がつかない。分類を工夫して、目次風の方針を立ててみたら次のようになった。

 Ⅰ.宗教、 Ⅱ.始源、 Ⅲ.学問、 Ⅳ.社会 Ⅴ.文字、 Ⅵ.全集の6つに大別したあとで、それぞれをさらに細かく分別した。

Ⅰ.宗教・・・・・神道、仏教、五経(六経)、四書、儒教、日本の儒教、キリスト教、テキストとしての聖書、ニヒリズム。

Ⅱ.始源・・・・・神話一般、日本の神話、中国の神話、ソクラテス以前、ホメロス、古事記、万葉集、ケルト神話。

Ⅲ.学問・・・・・アレクサンドリア、エラスムスとヴィーコ、西洋古典文献学、解釈学、清朝考証学、国学、国語学、仮名遣い、新井白石、荻生徂徠、富永仲基、契沖、本居宣長。

Ⅳ.社会・・・・・江戸一般、江戸の政治経済技術、中国史一般、中国の法と社会、東西交渉史、ヨーロッパ思想、歴史一般。

Ⅴ.文字・・・・・文字の歴史、文字と音、木簡とパピルス。

Ⅵ.全集・・・・・大系、個人全集。

 一項目で30冊に達するものもあれば、3冊だけというのもあるから、見掛けの大袈裟に比べ、そんなに膨大量になるわけではないが、分類してみて私自身やっと落着いた。担当編集者は読者の便宜に適うだろう、と言ってくれた。

 ⅠとⅡを区別したのがこの本の特徴である。Ⅱに到達するのを妨害するものが数知れずあり、Ⅰもひょっとするとその中に入るかもしれない。われわれはⅢの手段をもって何とかしてⅡに到達しようとする。宗教は阻害要因になり得る。

 こんな図式的説明は予めしない方がいいかもしれない。著者の意図どおりに結果が出ているとは限らないからである。

 福岡では11月12日の日曜日の午後、友人に案内され久山町の温泉で3時間ほど湯と酒をたのしんだ。田の中から突然湧き出した温泉だそうである。

 入口で九百円払ってタオルと浴衣の入った袋を渡され、手荷物をロッカーに預けて一風呂浴びる。近隣からひょいと気楽に車で立ち寄る人のために大型の湯場が用意されていた。

 湯をあがってビールを飲んで着換えて車で博多空港にかけつけて帰京した。件の「参考文献一覧」に漏れがないか機中でもくりかえし点検し、残務作業をつづけた。すべてを完了し、宅急便で文藝春秋に送ったのがその翌日の13日(月)夜だった。やっと山を越えたという思いだったが、私の毎日はこのように次から次へとやることに追われる。

 16年使用した自宅のファクスの器械がこわれて、同じく老廃化したコピー器と一緒に廃棄し、ゼロックスのフルカラーデジタル複合機C2100型のファクス=コピーの一体器械に取り替える契約をすでに10日前に結んでいて、搬入の約束日は15日(水)午後2時だった。

 器械の取り替え設置は業者がやってくれるので問題はないが、本と紙の山を片づけ、通路から室内までのスペースを作るのは私ひとりの仕事である。日頃書類の山に埋もれて暮らしているので、これが容易ではない。

 いま私は約束どおり日記風に出来事を綴っているのである。14日午後4時スイスに住む若い友人平井康弘君が、夜久し振りに一緒に一杯やろうや、という約束で現われた。彼は見るに見兼ねて階段にまでぎっしり積まれた雑誌と本の山を移動してくれた。

 平井君はスイスの世界有数の農薬会社の社員で、バーゼル本社から韓国出張を命ぜられて短期間日本に滞在する時間の空隙を見ての拙宅訪問である。

 いつものように雑談しながら、私のパソコン指導を2時間たっぷりしてくれた。年賀状のシーズンが近づいている。まず何よりもその準備がなされた。今年は宛名だけでなく、裏面の挨拶文もパソコンでやることが可能になりそうだ。

 15日ゼロックスの業者が出入りしている最中に東京新聞から「教育基本法が衆議院を通過することになりますがどう考えますか」という質問の電話がきた。私から「大歓迎だ」のことばを記者は多分予想していたのではないかと思う。

 私はいつも考えている持論を述べた。

 「昭和22年制定の現行教育基本法には悪いことは何も書かれていませんよね。たゞ〈個人の尊厳〉〈個性の尊重〉〈自主的精神〉〈自発的精神を養う〉などの美辞麗句に満ちているわけですが、これらの言葉の影、裏側が書かれる必要があったのです。

 悪いことが何も書かれていないことが悪いのです。

 〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。

 その意味では教育は訓練であり、陶冶であって、そういう基盤を欠いた単なる〈個性〉や〈自主性〉は我侭や好き勝手を助長するだけです。教育基本法にはそういうことを書いて欲しい。それなのに〈愛国心〉がどうとかばかり言っている。

 〈愛国心〉も悪いことではありません。善いことです。善いことばかり言っているのではダメだと私は言っているのです。

 善いことばかり言って人をかり立てるのは政治です。〈個性〉や〈自主性〉ばかりを言い立てるのも政治であって、教育ではない。その逆も同様です。

 教育基本法の改正は教育の基本に立ち還ってもらいたいと思います。」

 新聞記者は私の反応が予想外だったらしく、あるいは理解を超えていたのか、要するに衆議院可決には賛成なのか反対なのか、と問うてきた。

「どちらでもありません。選挙法改正案とか郵政法案とかの是非ではなくて、教育の基本を正す法律案なら、教育の原理に立ち還ってもらいたいと言っているのです。」

 翌日の東京新聞に私のコメントは掲載されたのか否かは、確かめていない。記者はどう書いてよいか分らず多分採用しなかったのではないかと思う。

 11月中旬の私の生活をいま日記風に綴っている。二つの月刊誌の〆切りが残すところあっという間に2日間になり、シマッタと思ったが、時間的に押されて16日に『WiLL』に、17日に『諸君!』に約各10枚の、短文と思って不用意にも甘く見て、〆切りが目前に迫り蒼くなった。いつもの悪い癖である。

 『WiLL』は「核論議私はこう考える」で中川昭一自民党政調会長の核武装発言について私見を述べる。『諸君!』は特集「もしアメリカにあゝ言われたらこう言い返せ」の中の「オレンジ計画は単なるプランでしかなかった。太平洋戦争の真因は日本の膨張政策にあり、と言われたらこう言い返せ」である。

 『WiLL』は11月25日(土)に、『諸君!』は12月1日(金)に店頭に出るのでここで詳しくは書けないが、それぞれ小文ながら意を尽くしたつもりである。

 私は日本人がアメリカの行動や決断を「運命」のごとくに受け入れていることに疑問をもっている。核実験にまでついに至った北朝鮮の今日の事態はアメリカの失政にある。北を「悪の枢軸」呼ばわりして寝た子を起こした以上、アメリカは中国に頼るのではなく、しっかり自己責任を果すべきである。

 NPT体制は核保有の米露英仏中の5カ国の責任を前提としている。さもなければ不公平である。日本に核武装論議が起こるのは当然である。

 「中川昭一氏は核武装せよ、と言っているのでは決してない。核攻撃を受ける可能性を今目前に見て、自ら核武装の議論一つできないことなかれの怠惰な精神は、生命の法則に反すると言っているのである」と私は『WiLL』に書いた。

 20日ベトナムのAPECの会議後に安倍首相は日本政府は核保有論議をしないと記者団に語り、中川発言の鉾を収めようとした。アメリカの指示(あるいは暗示)に首相はここでも過剰に反応しているようにみえる。「日本政府は核武装する気はないが、与党内での自由な論議を禁じるつもりもない」くらいのことを言ってもいい局面であろう。

 中川氏は6カ国協議を前にこれ以上の発言を封じられていると私は見た。安倍外交は「主張する外交」を自称するが、決してそうではない。アメリカに完全に仕切られている。

 北朝鮮のではなく、日本の核保有の可能性を永久に封じ込めるのがそもそも6カ国協議の、他の5カ国の最大のテーマ、最終の目標であることは私がかねて指摘してきたことだが、いよいよはっきりしてきた。それが日本の同盟国の意志であることを他の4国はさんざんに利用するであろう。

つづく

読売新聞 11月24日付朝刊4面に以下の記事が掲載されています。

保守主義インタビュー
 「日本の良さ 競争主義によって崩壊する」 西尾幹二

 日本では「保守」といえば「反共」と思われがちだが、本来は違う。保守とは簡単に言えば「昨日までの暮らしを変えたくない」という「暮らしへの守り」のようなものだ。「保守的態度」というものはあるが、「保守主義」というものはない。「保守思想」というものがあっては逆にいけない。思想になった途端、保守は「反動」になる。

 保守的な暮らしは大事だ。日本には平等という観念はなかったが、公平という観念があった。小学校は公平でないといけないとか、医療体制が公平だとか、郵便局、鉄道が全国津々浦々に行き渡るというのも日本が持っている良さだ。

 公平の観念とマーケット至上主義は、完全に逆の位置にある。日本が地域の文化を大事にするのは欧州と似ている。米国のような極端な平等主義、観念的な競争主義がないのも欧州と似ていた。米国は保守ではない。

 ところが、米国は1980年代以降、民主主義の名の下で、極端な自由主義、平等主義、競争主義という自分の尺度をどんどん日本に持ち込んできた。防衛だけでなく経済まで抑え込みにかかっており、日本の良さがどんどん壊れている。終身雇用制、会社への忠誠心など日本が持っていたものが根こそぎつぶされている。

 日本の保守はこの十数年で崩れ、今後はもっと崩れてしまう恐れがある。私たちの文化、暮らし、歴史を守ることと「アメリカニズム」は両立しないのだが、安倍首相は分かっていないのではないか。

 首相は身内で固めた「党内党」のような内閣を作った。自分がやりやすいチーム編成で「真正保守」の政策を実行するのかと思っていたら逆で、おやおやと思っている。「村山談話」「河野談話」を容認し、祖父の岸信介・元首相の戦争責任を認める発言まであった。「憲法改正に5年かける」と言っているのも、「改正はやらない」と言っているのと同じだ。

 村山談話などをめぐる首相の発言には「本心は別だ」との見方もあるが、大きな間違いだ。政治家が一度発言したことは元に戻らない。政治家は自分の発言に縛られる。今やいわゆる平和主義者の方が、首相を買っているのではないか。

初冬到来(一)

 急に寒気が押し寄せて来た。東京に冬のシグナルが灯ったのは二日ほど前からである。

 今年の秋は長く、相当に気温が高かったので、11月に入ってもずっと初冬のイメージすらなかった。紅葉はテレビで知るが、公園の樹林の変化はまだ小さい。

 私がこのところ何をしているか、時局のテーマについて何を考えているか、「日録」で報告してほしいと読者の一人からいわれたが、これが案外にむつかしい。他人に見せる日記をつけるむつかしさは誰にでもあろう。問題はそれだけでなく、文章を書くことを仕事にしている人間にとって仕事以外の文章は、も抜けの殻の自分を外にさらすことなのである。

 かいつまんで報告をするのは不本意だが、やむなく文字通りかいつまんで11月中旬の出来事を語る。

 11月8日に荻生徂徠『論語徴』を読む研究会に午後いっぱい参加し、談論風発を楽しんだ。読み進めた分量は少いが、やはり徂徠は凄いと三人で感銘。三人とは直木賞作家の佐藤雅美氏と愛知教育大の北村良和氏である。北村氏は中国文学者で、師範格である。吉川幸次郎や貝塚茂樹ほかの現代の論語解釈にまるきり反映されていないことにあらためて疑問をもった。

 同日夜、路の会例会で田久保忠衛氏の「北をめぐる日米中のせめぎ合いを考える」が開かれた。

 6カ国協議の協力を理由に2002年10月に江沢民が米国に台湾の武器売却を停止させた。米国の台湾政策がぐらついたのはあれ以来である。同時多発テロ後の米国のテロ優先政策も対中政策をぐらつかせている。米国はカードを次々に切っては捨てた。本年7月の北のミサイル発射と核実験で、こうした犠牲的な米国の努力もすべてフイになった。

 田久保氏はこう語り出して、北が時間稼ぎに成功、みんなコケにされ、米国の失敗があからさまになった、と語った。こうなると北に核廃棄を約束させるのは至難の技だろう。代償は高くつく。

 中国は何を考えているのか。北が民主主義国家になることは中国にとって悪夢である。台湾と朝鮮半島という二つの民主政権を目前に見ることは中国崩壊の起爆剤になる。これは何としても避けたい。人民解放軍の8万余が中朝国境に展開していて、いつでも介入可能な状態にある。

 北の自滅的崩壊はあり得ない。中国が鍵を握っている。金正日の息子たちへのバトンタッチは彼等にカリスマ性がないのでむつかしい。クーデターを日本人は期待しているが、内乱が起こると核がテロリストの手に渡るのを恐れて、米国も介入するだろう。中国、韓国の軍隊も踏みこむだろう。

 いま半島は日清戦争の直前の状態にあるが、日本はプレイヤーではない。米中どちらがリーダーシップを握るかだが、韓国に危機感がほとんどない。日清戦争の直前の朝鮮半島もそうだった。

 中韓両国にとっては今の侭が一番いい。両国一致して国連決議(制裁案)の空洞化をはかっている。海上臨検はいやだ、など。

 しかし中国も試されている。北をこのまゝ扶けつづけることができるか、それとも日米中心の半島政策に従うのか、ライスに短刀をつきつけられている。北は中国にとって生命線である。半島が民主化するか否かということは台湾の運命にも関わっている。

 そこで民主、共和のいずれかという米政権の行方の問題があらためて重要になる。ニクソンとキッシンジャーが中国と手を結んだように、民主党は悪魔とでも手を結ぶ。目的のためには手段を選ばぬ傾向がある。

 ブッシュは演説の中でfreedomを何回も唱えたように、イデオロギー、道義性を重んじる。民主主義を叫ぶモンゴルやインドとも呼応している。中国に追い討ちをかけている。

 東アジア共同体を唱える中国の政策に、麻生外相は豪州、ニュージーランド、インドを加えようと提案した。これは中国封じ込めの共和党政権の中長期的目的、民主主義国でかためて北朝鮮問題をも解決しようとする目的に沿うよう、日本から協力の意志を示したものである。

 田久保氏の以上の談話に数多くの質疑応答がつづいて、全体で討議は3時間以上をも要した。出席者は黄文雄、高山正之、木下博生、大塚海夫、萩野貞樹、入江隆則、田中英道、大島陽一、藤岡信勝、東中野修道、佐藤雅美、北村良和、山口洋一、中澤直樹(Voice)、湯原法史(筑摩)、力石幸一(徳間)の諸氏であった。

 11月10日から福岡に旅行した。私はほとんどすべての学会から退いているが、日本ショーペンハウアー協会だけはまだ参加している。独文科同級生のワーグナー研究家の高辻知義君が会長をつとめている。前会長もまた駒場同級生の哲学者山崎庸介君である。

 11日(土)に九州産業大学で第19回目の総会があり、一年も前から公開講演をたのまれていたのを果たした。公開だったが、一般からの参会者は少なかった。

 私はショーペンハウアーの研究をいまほとんどしていない。仕方がないので『江戸のダイナミズム』の第9章を利用して「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」と題する比較論を試みたが、同時代という以外に、両者の間に直接の関係はない。たゞ、両者ともに東と西の端から革命的なインド像を提出したという点で共通している。自分の置かれている宗教的前提をくつがえした二人だ。

 両者ともにそのラディカルな批判精神には魅力がある。ことに仲基が龍樹(ナーガールジュナ)の自己欺瞞、大乗経典をより上位に置くための詭弁に近い「教相判釈」のロジックを見破った論法はじつに面白い。空海の「十住心」の教えも間接的には否定してしまっている。

 仲基は鎖国時代を生きて、サンスクリットも何も知らなかった。漢訳仏典しか知らない。それなのに中国以北に伝来した数多くの仏典がすべて釈迦の直説であるとする既成宗門の安易な惰性を打ち破った。

 ショーペンハウアーも同様にサンスクリットを知らなかった。『ウプネカット』というウパニシャッドのペルシア語訳のそのまた重訳であるラテン語訳を眼光紙背を徹して読んで、インドの何たるかを掴んだ。ヨーロッパの東洋研究はショーペンハウアーの出現の前と後でくっきりと区別されている。

 思想の方向はむしろ逆だった。仲基は歴史を求めた。仏典の成立の納得のいく歴史的説明を求めた。その意味では18世紀前半に生きて、すでに西洋よりも100年も早く聖典の「原典批判」を実行した点で、彼の頭脳は西洋人よりも西洋的だった。

 それに対しショーペンハウアーは東洋の宗教の非歴史的性格に魅かれた。インドには歴史がない。いつ、どこで、何がという簡単な記録にさえインド人は関心をもたない。

 二人の知性のあり方は逆で、それだけにそれぞれが自己否定において徹底していた。仲基は東洋の不合理な曖昧さを嫌った。ショーペンハウアーは西洋の主我的な、歴史に文明の自己実現を見るたぐいの傲慢さを憎んだ。ショーペンハウアーのヘーゲル嫌いは衆知のことである。

 それでいて仲基とショーペンハウアーは互いに案外に近い地点に立っていたのではないか、というのが私の推理である。仲基は大乗非仏説論者では必ずしもない。ショーペンハウアーはキリスト教的隣人愛を最後まで手離さなかった。どちらも既成の宗教に対し破壊的ではない。思想的に中後半端だといわれればそれまでだが、彼らは破壊や否定それ自体を求めていたのではなかった。

 福岡では最初の晩は友人たちと、二日目は友人たちも含めて学会の懇親会をかねて楽しい夜をすごした。最初の晩はふぐ刺し、二日目の晩は鳥鍋だった。どちらも福岡の名物らしい。

 食べ終わって中洲のスナックでカラオケに興じた。二晩もつづけて同じスナックで唄った。折角なじみのつもりで二度目も同じ店に行ったのに、二度目は明らかに不自然な金額を求められた。

 中洲の名誉にならない思い出を残して去ったのは残念だが、旧友にめぐり合い、学ぶことも多い良い旅であった。

つづく

北朝鮮核問題(七)

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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北朝鮮問題(続3):究極の「日本の課題」とは何か

 北朝鮮問題の一番の難しさは、その底知れない問題の深刻さを、余り理解していない、あるいは、ピンときていない日本人に、どう理解してもらうかと言う点にある。日本人ばかりではない。関係国も、日本の状況が他に比べ格段に危険状態にあることを、理解していない。

 その意味で、中川昭一自民党政調会長が、訪米時に、今の状態を1962年のキューバ危機になぞらえ、米要人の理解を求めたことは、極めて適切であった。だが実は、日本の今の事態の方が、はるかに危険で深刻なのである。 何故なら、あの時は、ミサイルも核もキューバに到着していなかったが、今回は既に、日本を狙うノドン200基以上が北朝鮮に配備され、核も刻一刻と増産されているからである。

 加えて、国家指導者は金正日という人物である。

 仄聞するところでは、あの時と同じキューバの指導者カストロ議長は、同じ社会主義国北朝鮮が13歳の中学生を誘拐、拉致したという話を始め信じなかったという。その後それが、真実と知り唖然としたそうである。あの時のカストロさえ信じられない非道を行う指導者が、核ミサイルの発射ボタンを支配している。だから、危険度はカストロに比較にならぬほど高い。

 そして、核ミサイル以上に深刻な、「拉致」の問題がある。キューバ危機のとき、拉致問題はなかった。それに、米国の強大な軍事力を考えれば、今の日本の状況の厳しさを、これと比較するのは所詮無理なのかもしれない。それだけではない。戦後の日本、日本人には、肝心の、気力が決定的に欠けており、規範意識は見る影もない。これが実は最も深刻な問題なのである。

 実は、アメリカも拉致事件で危機に見舞われた時期があった。だが、アメリカは、その危機を、国民の健全な規範意識と旺盛な気力、そして危機を乗り越えるにふさわしいリーダー選出で克服した。

<在イラン米大使館占拠、大使館員人質事件>

 アメリカの拉致事件は、1979 年、ホメイニ革命後のイランで起きた。同年11月、イランの過激派学生がテヘランのアメリカ大使館を占領し、大使館員全員を人質にしてしまったのである。

 当時、偶々ニューヨーク勤務時代で、郊外の町の住居から、マンハッタンへ、通勤列車で通う毎日であった。

 事件発生後、暫くした頃、日本の首相は、「アーウー首相」と揶揄された大平首相。当時の日本の石油備蓄は未だ不十分で、アメリカを支持すれば、イラン石油の輸入途絶による石油供給不足に陥る危険があった。その時「アーウー首相」がはっきりと、米国支持を表明したのである。翌朝、駅で、列車の同じボックスに同席するアメリカ人仲間全員が、「日本に石油を」の一面見出しの新聞を示しながら握手を求めてきたものである。

 人質事件発生以来、テレビのニュースは既に、毎回必ず、「今日で大使館員が人質になって何日目になります」との言葉から、その日のニュースを始める様になっていた。

 町の小学校に通う我が子によると、それまでの日課であった、国旗への敬礼と国歌斉唱の日課に、大使館員の無事帰国のお祈りが加えられたそうであった。

 特殊部隊による救出作戦が敢行されたが、砂嵐で失敗した。入院している重傷隊員を見舞ったカーター大統領は、「彼等が、もう一度やらせてくれ、と言った」と声を詰まらせ、涙を流した。事件は、膠着状態となった。

 事件が起きた翌年、1980年は、大統領選挙の年でもあり、最終段階では、民主党は現職のカーター大統領、共和党は、タカ派といわれるレーガン候補の一騎打ちになった。テレビに登場する、レーガン候補は、いつもリラックスした態度であった。タカ派との評判を問われると、首を少し右に傾けながら、「自分は当たり前のことを言っているだけなのに、何故そう言われるのか判らない」と、何時もと変わらぬ柔らかな口調で答えるのであった。選挙民の最大の焦点、大使館人質救出についても、具体的なことは言わず、ただ、「当たり前のことをする」と言っただけである。だが、それは、決意と確信に満ちた口調であった。

 日本のマスコミは現職のカーター有利を報じたが、米国民の反応は明らかに違った。毎朝の列車のボックス仲間との会話からそれが窺えた。果たして選挙結果は一つの州を除く全米総ての州での勝利という圧勝で、ロナルド・レーガンが大統領に選ばれた。TVは又も涙のカーター大統領を放映した。

 年が改まり、1981年1月、新大統領就任式の日が迫る、そんなある日、「イラン米大使館員全員の解放帰国」のニュースが伝わり全米は歓喜に包まれた。TVのニュース番組は、その日を限りに、「今日で大使館員が人質になって何日になります」との放送は終わった。学校の「お祈り」もその朝までだった。

 イランが何故、人質を解放したかは、よく判らなかった。

 ただ、ロナルド・レーガンは、「当たり前のことをする」即ち、「アメリカはこんな理不尽なことを放置してはおかない。あらゆる手段を行使して、それを排除するのだ」との決意を固めていたことは、選挙戦での彼の短い発言からも窺えた。米国民は、そんな決意のロナルド・レーガンに白紙委任状を与えた。イランは、この国民の白紙委任状を背景にした新大統領の就任前に、これ以上、人質をとり続ける危険を察知し、解放を決意したのであろう。

 ロナルド・レーガン、(その背後のアメリカ国民)は、特殊部隊の投入もなく、銃弾一発の発射もなく、就任前に、この難問を解決したのである。

 レーガン大統領の時代は米国復活の時代であるばかりでなく、米国による、東西冷戦勝利の時でもあった。(”冷戦終結”という言葉はギミックである)タカ派と非難された彼は、その非難とは正反対に、ここでも、一発の銃弾を発射することもなく、それを達成したのである。

<北朝鮮拉致事件:国家と国民は如何にあるべきか>

 当時日本は経済で、依然拡大期であり、米国を圧していた。然し、在イラン米大使館占拠・大使館員人質事件に見せた、アメリカの学校、マスコミの行動に象徴される、アメリカ国民の規範意識と気力には及ぶべくもなかった。その当時、もう北朝鮮による拉致事件は起きていたのである。日本の国家機関の一部はそれを察知していたという。然し、国家は動かなかった。国家が国民を守ると言う、最大の義務を怠る致命的な罪を犯していたのである。

(註:国がアベック失踪事件を北朝鮮による拉致と断定したのは、事件発生10年以上経過後の1988年3月梶山国家公安委員長の国会答弁が最初である。然し、政治もメディアも、国民も全く反応しなかった。拉致事件の総ては、検証され、総括されなければならない)

 横田めぐみさんが拉致されたのは、1977年11月15日、今年で29年になる。

 日本では、TVが、ニュースの前に、「横田めぐみさんが、拉致されて今日で何日になります」と全国民に継続放映することは、一度たりともなかった。学校も同じである。学校は、”こと”が起こるたびに「人の命を大切にする教育を心がける」と、言い訳をする。だが、日本全国何千何万の学校で、唯の一つとして、毎日「横田めぐみさん、他、拉致された日本人拉致被害者の一日も早い帰国」の祈願を、児童、生徒に指導する学校は存在しない。そんな状態の学校が「人の命を大切にする教育」の言辞を弄する。空々しさもここにきわまる。

 文部科学省は、最も重要な教育を忘れている。各地方の教育委員会は、どうなっているのか。

 カナダ人夫妻が横田めぐみさんの拉致事件のドキュメンタリー映画を作製し、評判になっている。文部科学省は、一方、映画の芸術作品には、文部大臣賞を与えている。文部大臣賞の前に、すべきことがあるではないか。それは、「人の命、人権、自由の大切さ」を教え、「それを蹂躙する、日本人拉致が行われている現実」を、総ての児童生徒に教え、「同胞の帰国を祈願させる」教育。それを通じ、「国と国民のあり方」を教えることではないだろうか。それは本来、文部行政の中核に据えられるべきものであろう。

 とりあえず、カナダ人夫妻の作ったドキュメンタリー映画を全国の児童、生徒全員に鑑賞させるべきである。このまま何もしなければ、国家機関(今回は文部科学省)は、二度目の不作為を犯すことになる。
国家は国民を守り、国民はその国家を支える。それがなければ国は滅びる。そんな当たり前のことを、教えないで、「人の命の大切さ」をどうやって守ろうというのか。拉致事件こそ、最も重要な教育材料ではないか。

<イラン人質事件のアメリカと戦後日本>

 ところで、先のイラン米大使館人質事件でのアメリカの学校、メディアの行動、国民の行動、指導者は、今の日本人にどう映るでのあろうか。多分、かなりの人は、否定的あるいは違和感を覚えるのではないだろうか。

 それは何故なのだろうか。

 実はこれら、アメリカ国民の行動の源泉、国民の規範意識の中身は、その殆んど総てが、戦前の日本に、違和感なしに存在していたのである。それが戦後、占領軍(アメリカ)により、「戦前日本の悪しき軍国主義に連なるもの」として、否定され、日本と日本国民から、奪われた。占領軍は、日本人インテリ、学者などを使い、戦前の規範の否定を、言論出版、教育を通じ、刷り込み、刷り込まれた世代は次の世代へと、子々孫々にまで浸透するメカニズムを埋め込んだのである。その60年後が、今日の日本の姿である。今日、日本人がアメリカ人の規範意識に感ずる違和感は、この60年に亘る「規範否定」の刷り込みによるものなのである。

 それは、一種”洗脳”の究極の形なのかもしれない。

 一方、占領軍が、「悪し戦前の軍国主義に連なる」と断じた、同じものは、アメリカ本国に根付き、育っていたのである。それがイラン米大使館人質事件の際に発揮されたのであり、日本人の私の目に鮮明に映ったのである。

 占領軍は日本が、自分達アメリカと同じような国であることを、許さなかった、それが占領政策本当の基本政策だった。今日の日米の差はそこに求められる。何故彼等はそうしたか。当然であろう。日本の脅威を再現させないためである。

 尚、今日、米国では、占領時代の自らのこの政策についての言及は殆んどない。

 米国国民は、(多くの日本人同様)戦後のアメリカの日本占領を”日本の民主結実”の美しい「成功モデル、ストーリー、」と信じている。この点が、日米間には、事実についての大きな認識ギャップが生まれる素地がある。この問題は重要であり、日本は飽くまで、客観的な研究を進め、そのベースに立ち、主張し、米国の理解を得る努力を払う必要がある。

 何故ならば、それを通じて、今日、自らの善意と正義を信じる余り、犯しがちな、思い込みと独善の過ちからアメリカを解き、世界に絶えることの無いアメリカ、アメリカ人に対する敵意の原因が奈辺にあるかを、彼等に示唆することになるからである。

 イラクでの苦戦も、この占領政策の研究が十分行われていれば、避けられたかもしれないのである。勿論、日本に対して行ったような、他国民の規範(日本のそれは、米国のものと殆んど同じだったのであるが)を破壊することなど許されるべきことではない。

 話を元に戻したい。今日、日本が、拉致、核の北朝鮮危機に見舞われていることも、偶然ではない。それは、日本が、占領政策の呪縛に捕らわれていたことに起因している。過去の出来事を一つ一つ検証すれば、証明されよう。

 北朝鮮問題の克服、は占領政策との完全な訣別から始まる。

 それは学校教育から始められるべきである。カナダ人夫妻の映画の全児童生徒の鑑賞から始まる。
政府は逃げてはならない。国が国民を放置すれば、、国民は国を支えなくなり、国は滅びる。

(註:戦後、占領政策のお先棒を担いだ、学者、インテリは、占領軍に従い、「アメリカでは」を口実にそれまでの日本の教育を総て、「軍国主義に連なる教育」として、否定し、その正反対をあたかも先進国の教育であるかのように教えた。然し、それが全くの嘘であった。このことは、個人的乍ら、十数年の北米生活からの結論である。

 当然であろう。戦前の日本の教育は、明治維新以降、欧米先進国をモデルとし、営々と作り上げてきたものである。本来、モデルである欧米のものとそれほど差があるわけはないのである。そんな占領政策が何故可能であったのかの理由は、テーマから余りに外れるのでここでは、省略したい)

日本人の「上下」について――(2)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 本居宣長の古事記伝(四十三)に次のような一節がある。

 「君のしわざの甚だ悪きを、臣として議ることなくして、為し給ふままに見過ごすは、さしあたりては愚にして不忠(まめならざ)るに似たれども、然らず」。

 臣下のものが、君の悪いおこないを見きわめず、諫めもせず、なされるままにしておくということは、臣として愚かで不忠にも似ているけれど、そうではない、というのである。

 「君の悪行は其の生涯を過ざれば、世の人の苦しむも限りありて、なほ暫(しばらく)のほどなるを、君臣の道の乱れは、永き世までに、其の弊害かぎりなし」。

 君の悪い行いが生涯を通してということになると、人々は苦しみ続けるが、それでも限りのあるもので暫くの間である。しかし、君臣の道が乱れたなら、将来永きにわたって、弊害は限りなく続いてしまう。

 「御行為悪(に)くましまししによりて藤原基経大臣の、下し奉られしは、国のため世のため賢く忠(まめ)なる如くに聞ゆれども、古への道に非ず、外つ国のしわざにして、いとも可畏く此れより(中略)漸(ようやく)に衰へ坐(まし)て、臣の勢いよいよ強く盛りになれるに非ずや」

 君の行為が憎いからと、藤原基経がやったように、天皇を下し奉るというようなことは、世のため国のために、賢明な善きことをしたというふうに聞こえるが、古へのわが国ぶりからは外れていて、これは外国の考え方である。(こんなことをしていると)世を経てますます君の道は建てられず、臣の権勢が強く盛んにのさばる世の中になるのは分かりきったことではないか、と宣長は批判したのである。

 第五十七代の陽成天皇は貞観十八年(八百六十七年)、九歳で帝位に就かれたが、少年時代からしばしば乱暴をはたらき、十五歳のときに宮中でご自身の乳母の子、源益(みなもとのすすむ)を殴殺するという事件を起こし、摂政の藤原基経に退位を命じられたという。

 見方によってはやむを得ないことともみられ、北畠親房は『神皇正統記』でも「いとめでたし」と基経の見識を讃えている。後世の歴史家もこのことを理に適った措置として、鎌足が入鹿を誅したことと並べて、藤原氏の功績とする見方が多かった。 

 しかし、宣長はまったく基経の判断と行為をさかしらごととして、痛烈に批判したのである。天皇が乱暴をはたらく、穏やかならぬ行状が多い、その他の理由でも〈人間性〉を疑い奉るという朝廷側近の観察が漏れ伝わる、というようなことは、或いは歴史の上で幾度かあったかもしれない。

 もし、それが現代であったなら、さらに困難な状況を導いていくことだろう。臣民であるなどという意識は勿論、毛頭ない。国民は週刊誌の論評どおり「女でもいいじゃないか」といって平然としていられる世の中である。皇室らしからぬ、という事件があったなら日本は沸騰するに違いない。藤原基経というのは摂政ではあったが、陽成天皇の叔父にあたる。さしづめ今の日本人なら、叔父さんの言うことなら問題はないじゃないか、という声も上がるだろう。

 この宣長が「古への道に非ず」と批判した深意をみつめていると、大変な思想であることがわかってくる。万世一系の天皇が百二十五代も続いて来たのは、国民の幸福を常に祈って来られた「徳」があったからだという保守陣営の人々がいる。一方で、男系をつないで来たというその奇跡的事実が尊いので「徳」の問題ではないという人もある。

 宣長の耳はおそらく、そんな保守陣営の見解もふらついた意見にしか聞こえないだろう。もし、天皇に「徳」がおありにならなかったとしたら、どうするのか。御自ら「徳」を傷つけるような行いが続いたらどうするのか。宣長は「どうもしない」と言っているのである。

 近衛忠房卿が明治六年に書いた「神教綱領」には「天下ナルモノハ天皇ノ天下ニシテ天下ノ天下ニ非ズ」とある。当時の激烈な王政維新のイデオロギーが背景になって生まれた語句であり、明治初期の神道主義者の言葉をもって今を語ることはできないと、古書店に押しやられるような綱領だが、これと宣長の言っていることは寸分違っていない。

 同志社大学の加地伸行教授が先頃、産経新聞の「正論」欄で、「富田メモ」事件について他の有識者とは異なる角度から批評しておられた。メモの真贋を訴求したものではなく、天皇陛下がメモにあったようなご発言を実際になさったとしたなら、「なぜ、その場でお諫め申し上げなかったのか」と、側近である宮内庁長官の傍観的行為を叱ったもので、儒教が教える「臣」の責務を果たしていないと書かれていた。

 しかし、ここで儒教の教えを持ち出しても、宣長の言う「古への道」とはだいぶ懸け離れたものである。陽成天皇の場合などは、臣下がお諫めするという限度を越えていたかもしれない。平成の先入観を取り除いて言えば、わが国では天皇が統治者であらせられたから、本来いかなる御発令も上御一人の御自由であり、天下なるものは天皇の天下にして天下の天下に非ずということは、変動なく続いて来たのである。

 では、宣長の結論はどこにあるか、というと、まったく「神教綱領」と同じで、天皇がもし過たれたならば、国民もそのまま過つのである。天皇が間違いを犯されたならば、一緒に国民も犯された間違いを受け入れるのである。そんなことをしていたら、国の理性ははたらかないで亡んでしまう、という考えがある。宣長はおそらく言挙げしないが、そのときはただ一緒に亡ぶのである、という意味で「神のまにまに」と説くのだろう。

 日本には天皇のほかに「正義」などないという思想である。

 会社や組織の上下関係ということを何気なく考えていたら、古事記伝の一節を思い出して綴った。現代社会の人間の掟と、宣長の「古への道」の思想とはおのずと別に考えなくてはならない。けれど、宣長の答は常に簡素であり普遍におよび揺るぎない。ひょっとすると、事の次元によったら別のものではないかもしれない。

(了)

     「福田恆存を語る」講演會の御案内

 毎年いまごろに行なわれる恒例の福田恆存先生の人と業績を語る講演会が今年も下記の通り催されます。

 今年は芥川賞作家で、日本芸術院会員の高井有一さんがお話になります。高井さんは私(西尾)とは旧知の間柄で、1977年にソ連作家同盟の招待で、加賀乙彦さんと三人で一ヶ月に及ぶソ連旅行をした仲間です。私の旧著『ソ連知識人との対話』の登場人物です。

 集英社の文学全集に高井文学が集録されていて、私が解説を担当しています。

 当日はどんなお話をなさるか分りませんが、福田恆存先生を深く敬愛されていた文学者のお一人です。さぞかし懐かしい思い出をも含めて、素晴らしいお話をなさってくださることでしょう。多分言葉の問題が中心だと思います。

 会場には私も参ります。久し振りに高井さんにお目にかかり、お話を伺うのをたのしみにしています。皆さんもぜひお出かけ下さい。

「福田恆存を語る」講演會の御案内

日時  平成18年11月18日(土)午後三時開演(開場は30分前)
會場  科學技術館6階第三會議室(地下鐡東西線 竹橋驛下車歩7分)
講師  高井有一
演題  「福田恆存といふ人」
参加費 1500圓(※電話またはメールで事前にお申し込み下さい。)
    電話 03-5261-2753(午後5時~午後10時まで)
    E-mail bunkakaigi@u01.gate01.com
(氏名、住所、電話番號、年齡を明記)

現代文化會議
新宿區市谷砂土原町3-8-3-109

日本人の「上下」について――(1)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 早く会社組織から離れてしまった私は、家計の財政逼迫に苦しんだことはあるものの、日常、上下と横につながる人間葛藤に骨身をけずるという経験はほとんどなくなった。それでも、かつての同僚や後輩に会ったりすると、何とはなしに組織で平和に過ごすことのむずかしさ、具体的に言えば上司と反りが合わないという典型的な苦労話の聞き役になる。

 「何、そんなに気にすることはない。いずれ人事異動もあるじゃないか。台風が過ぎるまで待っていたら」と言ってやっても有効な助言にはならない。ゲーテを持ち出して「人を見るな、事柄を見よ」という話をしても無駄である。こんな格言めいたフレーズも昔、自分が七転八倒していたときに駅のホームで呟いていたもので、現実には職場の葛藤から解放されるほどの霊験はなかった。

 どういう形にしろ、会社(組織)を勤め上げられるような人は、忍耐があって偉いという気持ちが自分にはある。単純に尊敬してしまう。だから、有効打を出してあげられないが、時々、易にも聞いたりして話につきあう。

 どれほど悪い上司といっても悉くがそうであることはない、とある時、私の職場の大先輩は言った。「人間としてあやまちはあっても、人間である限り温情をもってする忠言にはしたがうことが多いものである。上司を裁こうとする気持ちは、些事を大事として我意を通そうとするものだ」。

 「また上司の心は全的には把握できないものである」とも彼は言った。その意味で、君、君たらずとも、臣は臣たれ、という言葉が生きてくる。そんな話であった。先輩が言うほど大時代的な問題ではなく、われわれは自分にとって都合のいいものを抱き、愛し、歓迎する。それが自分の邪魔になるときは憎しみ、怒り、足ずりをする。「それだけのことです」と親切な助言に対して、何だか捨て鉢な返事をしたことを覚えている。

 だが、振り返ってみると、先輩の言うことは適っていると思う。助言の中でも、「上司の悪いのは下の者の悪が反映していることが極めて多いのだ」という言葉が妙にこころに響いてくる。

 下の者の悪が最初で、その悪感情が無限のコンプレックス(複合)を描いて、上司に伝わる。届いた悪感情は上司の煩悶を呼ぶが、大概の場合、上司は部下よりも大きな義務を持っている。愛情の行使で返しきることもあるが、上司は会社を守ろうという「公心」に立てばこそ号令もかけなければならない。

 そして、これも大概の場合、下の者は「自分は正しい」という観念にとりつかれているものだ。正しさに二つはない、自分が正しいなら相手の上司がまちがっているに決まっているから、上司が折れたとしたら、さらに自分が正しかった、と部下の溜飲は下ることだろう。

 会社に限らない、組織で悪人がある如く見えるのは、多くの場合に下の者が反逆心を有する反応として起こることが少なくない。伝統的な年功序列を少しずつ壊していった組織では、単純な話、上司がバカに見えて仕方がない、といった風潮が起きただろうと思う。稼げない人間、稼ぐ頭やテクニックのない人間は要らない。合理的大小を最高の価値としたならば、そうなる。

 合理的大小だけを重んずる場合、ことごとに上司が悪と映りやすい。その結果、悪ならぬ上司も悪と見えるか、もしくは悪となるのである。

 善しも悪しくも上司の命ずるところにしたがう。何の変哲もないことだが、これも歴史が培って来た内面の約束ごとである。これを打ち立てておくことである。上司といえども悪なる時はこれを退けることを可とする、と組織が宣言したなら組織は自壊作用を起こすだろう。

性善だとか性悪だとか、それも閑葛藤にすぎない。人間に、本来悪人はいないことは自明である。それにもかかわらず、どこにも悪人があるとしてかかる。そこから煉獄がはじまる。

つづく

アンリ・ルソー

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1888年頃、油彩・キャンパス、46*55センチ、世田谷美術館蔵
「世田谷美術館開館20周年記念、ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」展は、12月10日(日)まで、東京・世田谷の世田谷美術館で開催中。休館日は毎週月曜日。お問い合わせはハローダイヤル=03-5777-8600へ。

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「サン=ニコラ河岸から見たサン=ルイ島」
孤独な人影 ここにも

 一瞬パッと見たとき童話の挿絵、子供が一番最初に描いたお父さんの顔、肖像はたいてい正面を向いていて、遠い家も近い家も同じ大きさで、色がきれいな塗り絵の世界、動きがピタッと静止した瞬間の絵、それでいて楽しくて悲しい不思議な物語が絵の奥に伏せられているような詩的世界――それがアンリ・ルソーの印象である。

 遠近法を欠いて基本的に二次元で描かれている。タヒチを描いたゴーガンの画法や装飾化したクリムトの世界も二次元。北斎も火や水をそこだけわざと装飾化している例がある。でも彼らはみな遠近法を承知で壊したのである。ルソーは遠近法を知らなかったのか学ぼうとして学べなかったのかそこが微妙に分らない。

 この絵はパリを描いた風景画だが、彼の風景画には必ず孤独な人影がある。この絵にもある。あたかも近代絵画の流れから無縁な位置にいたルソーの孤独が写されているようにも思える。(西尾幹二・ドイツ文学者)

東京新聞11月2日掲載

お 知 ら せ

11月11日(土)に公開講演をいたします。

「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」

日本ショーペンハウアー協会第19回全国大会

場所:九州産業大学(1号館2階S201大教室)
    福岡市東区松香台2-3-1
問い合わせ先:日本ショーペンハウアー協会事務局
        (日本大学文理学部哲学研究室内)
         020-4624-9462

午前中は研究発表、午後私の公開講演、そしてシンポジウムがある。

13:40~14:40 公開講演
14:50~17:15 シンポジウムショーペンハウアーと日本の思想

公開講演は無料シンポジウムに私は参加しません

秋の嵐(五)

 いま保守とは何か?というテーマが関心を呼んでいる。安倍内閣がスタートして、「真正保守」と期待された新首相の予想外の姿勢の崩れ、ブレないはずの人がこんなにもブレた態度の甘さに失望が広がると共に、あらためて保守とは何であるかが問われている。

 いままで保守言論界は靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りで、反中国、反韓国、反北朝鮮の方向にだけ引っぱられて、それだけ言っていればよい一枚岩であった。しかし保守の言論はいま間違いなく二つに割れ始めている。

 相変わらずこの方向を重視する姿勢に変わりはないが、ただそれだけでは不十分だという新しい認識が生まれ始めていて、そのことに気づかない旧態然たる勢力と、気づき始めている勢力との二つに分れかけている。

 切っ掛けをなしたのはやはり昨夏の「小泉選挙」であった。前首相が叫んだ「改革!」は保守のことばではない。考えてみれば自民党はずっと改革路線を歩み、アメリカの市場競争原理に合わせるということでやって来た。前首相は突出して危険なまでにそれをやっただけである。そして、現首相はその路線を踏襲することで権力の座についた。保守らしからぬ姿勢の崩れをみせるのはじつに当然である。

 小泉氏の民営化の前に中曽根氏の民活があった。安倍首相の学校バウチャー制度や学校評価制度の導入の提案は、中曽根臨教審の「教育の自由化」の流れに沿うている。公教育に市場競争原理を導入するという方向である。

 私は「新しい歴史教科書をつくる会」に関与する前に、中曽根臨教審の「教育の自由化」、小学校中学校を互いに競争させるアイデアに最も激しく抵抗した論者である。臨教審に対抗して打ち出された第14期中教審の委員になったのもこの路線の修正のためだった。

 加えて私は中曽根内閣、竹下内閣のあとの海部内閣の時代の「日米構造協議」に、正面切って反対の論陣を張った数少ない論者の一人である。

 その頃は経済評論にも筆を染めていた。しかしそれから日本の論調は変わった。湾岸戦争とソ連の崩壊が起こった。と同時に、戦争が終わって半世紀たつのになぜか大東亜戦争をどう評価するかが、にわかにわが国の新しい重要課題になって立ち現れた。

 1995年(平成7年)の村山政権の登場と国会謝罪決議をめぐる保革の激しい争いが生じた頃である。私は自民党に乞われて、謝罪決議のナンセンスたる所以を述べる意見陳述の場に出たこともあった。

 1998年末に「新しい歴史教科書をつくる会」の必要が生じたのは歴史問題が国の内外でホットになったこの流れと合致している。中国と韓国が繰り返す「過去の反省」の要求に日本国民の怒りの感情が少しつづ高まった。従軍慰安婦、戦後補償、個人賠償、歴史認識が大きなタームとなった。

 日本の経済はその間低迷し、後に「失われた10年」と名づけられた最中にあった。初めのうちは日米貿易摩擦といわれていたが、やがてその時代は過去になり、知らぬうちに摩擦ということばさえ使われぬほど、日本経済はアメリカにしてやられて、「日米構造協議」の毒がしだいに全身に回わり始めた。

 「大店法」などというのを覚えておられるだろう。地方都市の郊外に大型スーパーが出現し、駅前商店街がシャッターを下ろしてびっくりする格差の露骨化は、アメリカ化の、目に具体的にはっきり見える症例の一つである。

 「失われた10年」といわれた経済の低迷期に私は経済をどう考えてよいか分らず、筆を押さえていた。靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りで、反中国、反韓国、反北朝鮮を論じていれば済む保守言論界の十年一日のごときマンネリズムに私もひたっていたが、これではいけないと気がついたのは昨年の「小泉選挙」だった。

 民活化路線、教育の自由化路線、レーガニズムとサッチャリズムに日本の行くべき方向を一方的に合わせた中曽根元首相の「改革」路線がはたして「保守」の歩むべき方向なのか、という疑問をもともと抱いていた私は、小泉選挙の少し後で、『Will』2005年12月号に「保守論壇を叱る」という自分には曲り角をなす重要な論文を書いた。これには「経済と政治は一体である」という副題をつけている。冷戦時代の遺物のような、リベラル左翼のイデオロギーを叩く日本の保守言論者の硬直ぶり、靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りの硬い姿勢ではもうやっていけないという警告をこめた評論だった。(この論文は『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』の巻頭に収め、近く別の人の注目するところとなり、ムック本に再録される。)

 「改革」は果たして「保守」のやることか。自民党はすでに保守政党ではないのではないか。共和主義的資本主義政党でしかないのではないか。日本の資本家に愛国心も国境意識もない。このまゝでは果てしなくアメリカ化の泥沼に足をとられ、併呑されていくばかりである。

 靖国、愛国、防衛、歴史問題といえども、日本がほんとうに日本であるためには、アメリカの指し示して来た方向と一致するはずがない。ことに歴史問題において、「アメリカの正義」は過去において「日本の正義」と正面衝突をした。

 そのことがだんだん分ってきて、反中国、反韓国だけでこと足れりとする保守言論界のマンネリズムに最近ようやく変化の萌しがみえかけている。安倍首相の煮え切らない心の迷いの正体が何であるかを考えると、この問題にぶつからざるを得ない。経済問題で小泉路線を引き継ぐ安倍氏は、アメリカに屈服するのは安全保障だけでなく、経済政策と二重になっている。事実上手足をもがれている。

 中国と北朝鮮が綱引きをしている核問題の現場外交に日本がみじめなほど無力なのは、防衛をアメリカに依存しているからだけではない。

 日本の保守政党は守ろうとする自分の文化価値を掲げない。持たないから掲げようがない。日本の伝統文化、国語と国史を守ろうとなぜしないのか。

 「改革」は経済にとどまらない。教育をも、医療をも、農業をもむしばむ。鉄道も郵便局もダメになる。地方は疲弊し、不公正が広がり、国民のモラルをどんどん低下させることとなろう。

 以上は「序説」である。ここから先は『諸君!』12月号の佐伯啓思、関岡英之の両氏と私による鼎談「『保守』を勘違いしていないか」にそのままつなげて読んでもらいたい。

 「勘違いしている」人は勿論安倍首相を指す。われわれ三人の討論を本日の「日録」につづけておよみいただき、考える内容は豊富なので、両方についてコメント欄で言及していたゞければ有難い。

お こ と わ り

 「秋の嵐」と題した「日録」の今の連載は、既報の通り9月末から10月6日までの身辺の出来事を綴って感懐を述べる内容を予定してきた。

 『諸君!』12月号の上記鼎談は出席者の日取りの事情で10月4日に行われた。安倍訪中以前だったので、後日加筆した。内容は本質論であるから討論者の基本の考えに変更はない。

 「北朝鮮核問題」の出現のおかげで「日録」にも急遽、掲載の順序に変更が生じた。そのため今日の分は雑誌発売日に追い抜かれてしまった。

 10月5日に路の会で上智大学教授鬼頭宏氏を迎えた。10月6日に直木賞作家の佐藤雅美氏、愛知教育大学の北村良和氏と始めた「徂徠『論語徴』を読む会」があった。この二つの出来事を書くつもりだった。秋の嵐に出会ったのは10月6日だった。

 しかし掲載の予定が狂ってまた月の上旬に入り、路の会も徂徠を読む会も次の11月例会が近づいている。

 「秋の嵐」と題した連載はここでいったん打ち切り、個別の話題に切り換えることにしたい。

お 知 ら せ

11月11日(土)に公開講演をいたします。

「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」

日本ショーペンハウアー協会第19回全国大会

場所:九州産業大学(1号館2階S201大教室)
    福岡市東区松香台2-3-1
問い合わせ先:日本ショーペンハウアー協会事務局
        (日本大学文理学部哲学研究室内)
         020-4624-9462

午前中は研究発表、午後私の公開講演、そしてシンポジウムがある。

13:40~14:40 公開講演
14:50~17:15 シンポジウムショーペンハウアーと日本の思想

公開講演は無料シンポジウムに私は参加しません