秋の嵐(五)

 いま保守とは何か?というテーマが関心を呼んでいる。安倍内閣がスタートして、「真正保守」と期待された新首相の予想外の姿勢の崩れ、ブレないはずの人がこんなにもブレた態度の甘さに失望が広がると共に、あらためて保守とは何であるかが問われている。

 いままで保守言論界は靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りで、反中国、反韓国、反北朝鮮の方向にだけ引っぱられて、それだけ言っていればよい一枚岩であった。しかし保守の言論はいま間違いなく二つに割れ始めている。

 相変わらずこの方向を重視する姿勢に変わりはないが、ただそれだけでは不十分だという新しい認識が生まれ始めていて、そのことに気づかない旧態然たる勢力と、気づき始めている勢力との二つに分れかけている。

 切っ掛けをなしたのはやはり昨夏の「小泉選挙」であった。前首相が叫んだ「改革!」は保守のことばではない。考えてみれば自民党はずっと改革路線を歩み、アメリカの市場競争原理に合わせるということでやって来た。前首相は突出して危険なまでにそれをやっただけである。そして、現首相はその路線を踏襲することで権力の座についた。保守らしからぬ姿勢の崩れをみせるのはじつに当然である。

 小泉氏の民営化の前に中曽根氏の民活があった。安倍首相の学校バウチャー制度や学校評価制度の導入の提案は、中曽根臨教審の「教育の自由化」の流れに沿うている。公教育に市場競争原理を導入するという方向である。

 私は「新しい歴史教科書をつくる会」に関与する前に、中曽根臨教審の「教育の自由化」、小学校中学校を互いに競争させるアイデアに最も激しく抵抗した論者である。臨教審に対抗して打ち出された第14期中教審の委員になったのもこの路線の修正のためだった。

 加えて私は中曽根内閣、竹下内閣のあとの海部内閣の時代の「日米構造協議」に、正面切って反対の論陣を張った数少ない論者の一人である。

 その頃は経済評論にも筆を染めていた。しかしそれから日本の論調は変わった。湾岸戦争とソ連の崩壊が起こった。と同時に、戦争が終わって半世紀たつのになぜか大東亜戦争をどう評価するかが、にわかにわが国の新しい重要課題になって立ち現れた。

 1995年(平成7年)の村山政権の登場と国会謝罪決議をめぐる保革の激しい争いが生じた頃である。私は自民党に乞われて、謝罪決議のナンセンスたる所以を述べる意見陳述の場に出たこともあった。

 1998年末に「新しい歴史教科書をつくる会」の必要が生じたのは歴史問題が国の内外でホットになったこの流れと合致している。中国と韓国が繰り返す「過去の反省」の要求に日本国民の怒りの感情が少しつづ高まった。従軍慰安婦、戦後補償、個人賠償、歴史認識が大きなタームとなった。

 日本の経済はその間低迷し、後に「失われた10年」と名づけられた最中にあった。初めのうちは日米貿易摩擦といわれていたが、やがてその時代は過去になり、知らぬうちに摩擦ということばさえ使われぬほど、日本経済はアメリカにしてやられて、「日米構造協議」の毒がしだいに全身に回わり始めた。

 「大店法」などというのを覚えておられるだろう。地方都市の郊外に大型スーパーが出現し、駅前商店街がシャッターを下ろしてびっくりする格差の露骨化は、アメリカ化の、目に具体的にはっきり見える症例の一つである。

 「失われた10年」といわれた経済の低迷期に私は経済をどう考えてよいか分らず、筆を押さえていた。靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りで、反中国、反韓国、反北朝鮮を論じていれば済む保守言論界の十年一日のごときマンネリズムに私もひたっていたが、これではいけないと気がついたのは昨年の「小泉選挙」だった。

 民活化路線、教育の自由化路線、レーガニズムとサッチャリズムに日本の行くべき方向を一方的に合わせた中曽根元首相の「改革」路線がはたして「保守」の歩むべき方向なのか、という疑問をもともと抱いていた私は、小泉選挙の少し後で、『Will』2005年12月号に「保守論壇を叱る」という自分には曲り角をなす重要な論文を書いた。これには「経済と政治は一体である」という副題をつけている。冷戦時代の遺物のような、リベラル左翼のイデオロギーを叩く日本の保守言論者の硬直ぶり、靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りの硬い姿勢ではもうやっていけないという警告をこめた評論だった。(この論文は『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』の巻頭に収め、近く別の人の注目するところとなり、ムック本に再録される。)

 「改革」は果たして「保守」のやることか。自民党はすでに保守政党ではないのではないか。共和主義的資本主義政党でしかないのではないか。日本の資本家に愛国心も国境意識もない。このまゝでは果てしなくアメリカ化の泥沼に足をとられ、併呑されていくばかりである。

 靖国、愛国、防衛、歴史問題といえども、日本がほんとうに日本であるためには、アメリカの指し示して来た方向と一致するはずがない。ことに歴史問題において、「アメリカの正義」は過去において「日本の正義」と正面衝突をした。

 そのことがだんだん分ってきて、反中国、反韓国だけでこと足れりとする保守言論界のマンネリズムに最近ようやく変化の萌しがみえかけている。安倍首相の煮え切らない心の迷いの正体が何であるかを考えると、この問題にぶつからざるを得ない。経済問題で小泉路線を引き継ぐ安倍氏は、アメリカに屈服するのは安全保障だけでなく、経済政策と二重になっている。事実上手足をもがれている。

 中国と北朝鮮が綱引きをしている核問題の現場外交に日本がみじめなほど無力なのは、防衛をアメリカに依存しているからだけではない。

 日本の保守政党は守ろうとする自分の文化価値を掲げない。持たないから掲げようがない。日本の伝統文化、国語と国史を守ろうとなぜしないのか。

 「改革」は経済にとどまらない。教育をも、医療をも、農業をもむしばむ。鉄道も郵便局もダメになる。地方は疲弊し、不公正が広がり、国民のモラルをどんどん低下させることとなろう。

 以上は「序説」である。ここから先は『諸君!』12月号の佐伯啓思、関岡英之の両氏と私による鼎談「『保守』を勘違いしていないか」にそのままつなげて読んでもらいたい。

 「勘違いしている」人は勿論安倍首相を指す。われわれ三人の討論を本日の「日録」につづけておよみいただき、考える内容は豊富なので、両方についてコメント欄で言及していたゞければ有難い。

お こ と わ り

 「秋の嵐」と題した「日録」の今の連載は、既報の通り9月末から10月6日までの身辺の出来事を綴って感懐を述べる内容を予定してきた。

 『諸君!』12月号の上記鼎談は出席者の日取りの事情で10月4日に行われた。安倍訪中以前だったので、後日加筆した。内容は本質論であるから討論者の基本の考えに変更はない。

 「北朝鮮核問題」の出現のおかげで「日録」にも急遽、掲載の順序に変更が生じた。そのため今日の分は雑誌発売日に追い抜かれてしまった。

 10月5日に路の会で上智大学教授鬼頭宏氏を迎えた。10月6日に直木賞作家の佐藤雅美氏、愛知教育大学の北村良和氏と始めた「徂徠『論語徴』を読む会」があった。この二つの出来事を書くつもりだった。秋の嵐に出会ったのは10月6日だった。

 しかし掲載の予定が狂ってまた月の上旬に入り、路の会も徂徠を読む会も次の11月例会が近づいている。

 「秋の嵐」と題した連載はここでいったん打ち切り、個別の話題に切り換えることにしたい。

お 知 ら せ

11月11日(土)に公開講演をいたします。

「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」

日本ショーペンハウアー協会第19回全国大会

場所:九州産業大学(1号館2階S201大教室)
    福岡市東区松香台2-3-1
問い合わせ先:日本ショーペンハウアー協会事務局
        (日本大学文理学部哲学研究室内)
         020-4624-9462

午前中は研究発表、午後私の公開講演、そしてシンポジウムがある。

13:40~14:40 公開講演
14:50~17:15 シンポジウムショーペンハウアーと日本の思想

公開講演は無料シンポジウムに私は参加しません

「秋の嵐(五)」への10件のフィードバック

  1. 本題からは離れますが…

    「戦争責任」という基準からは、ブッシュがイラク戦争の責任者です。
    ブッシュの罪は「東京裁判」の「共同謀議で侵略戦争を起こした」という基準にピタリと照合する。

    絞首台に行くべきはブッシュであって、フセイン大統領ではない。
    フセイン大統領を殺せば、これは公然たる殺人だ。

    少なくとも「歴史の証人」であるフセイン大統領の殺害に、私は反対する。
    (フセイン殺しも国際的な立派なリンチだ)
    http://www.sankei.co.jp/news/061105/kok008.htm

  2. 諸君」12月号を読んで

    以前に何かで拝見した佐伯氏の保守主義、自由主義、社会民主主義についての説明は、不勉強なわたしにとっては解り易くて参考になりました。今回の対談の話も大変参考になった。

    わたしは、リベラルという言葉を左寄りという意味で使っていたのですが、何か抵抗感がありました。というのはリベラルとは文字通り自由主義的のはずだから必ずしも左寄りとは限らないのではという気持ちがあったからです。

    それが、安倍首相の「美しい国へ」の著書の中で一部説明があってなるほどと思ったのですが、今回の対談ではさらに詳しい説明がありました。

    要は、リベラルという言葉だけでなく保守主義、自由主義という言葉においても欧州と米国では意味が全く違うという。

    そのことを理解した上で、わたしは言論界および政界で、ぜひこれらの言葉を欧州の定義に統一し、厳密な使い分けをして欲しいと思いました。

    そうして、各政治家や政党、言論人、マスコミ各社は、保守主義、自由主義、社会民主主義のどれを支持しているのかを自らおよびマスコミがぜひ明らかにして欲しいのです。

    というのは、たとえば、自民党は一応保守主義の政党ということになっていますが、わたしには欧州の定義では小泉前首相は自由主義者にしか見えないし、加藤紘一元幹事長は社会民主主義者にしか見えない。安倍首相については保守主義者と思うしそう信じたい。総じて自民党議員は保守主義者ではなくてむしろ自由主義者が大半のような気がします。

    民主党もしかり。西村眞悟議員のような保守主義者もいれば横路議員のような社会民主主義者までいます。多くは自由主義者でしょう。

    社民党は、護憲原理主義政党であって社会民主主義の政党ではありません。それが、合理的に北欧型の高負担・高福祉国家(わたしが賛成するわけではありませんが)を主張する政党がない日本の不幸でもあると思うのです。

    だから、「諸君」の対談記事を拝見して、記事の本筋から離れるかもしれませんが、まずは各政党は欧州の定義で何主義の政党なのかをもういちど明らかにして欲しいと思いました。わたしの提案は、自民党は保守主義、民主党は自由主義、社民党は社会民主主義、共産党は共産主義、そして公明党は創価学会主義というものです。

    その上で、各議員も欧州の定義で何主義者なのかを明らかにし、各政党がこの指とまれを行って政党を再編しねじれ現象をぜひ解消して欲しいと思うのです。

    たぶん、かなわぬ夢でしょうが...

  3. 「諸君!」12月号の鼎談で西尾幹二氏は、次のように述べています。

    (引用開始)

    村山談話、河野談話、ご自身の祖父の戦争責任論の容認、これらはみな、これまでの安倍さんの持論に反したもので、絶対に言うはずのない発言ですね。

    では、なぜ安倍総理はこうした一連の国会発言をしなくてはならなかったのか。

    十月八日に訪中、九日に訪韓し、首脳会談を行ったために、中韓への配慮ではないかという説も囁かれましたが、私はそうではないと思います。

    前にも言いましたが、今回の歴史認識をめぐる圧力の出所は、どうもアメリカではないか。中韓とうまくやれという指令に過剰反応したのではないか。

    (引用止め)

    鼎談対手の関岡英之氏はこれを受けて、米議会の、遊就館展示説明書き替え要求事件や、日本の従軍慰安婦決議案可決と、平仄があっていると西尾説を肯定しています。

    そうであれば、日本政府が北の核実験直後から、その脅威に一番曝されているのは日本だと、素早く反応したのも、アメリカにそうしろと使嗾されたからではないでしょうか。

    北の核の脅威に、一番曝されているのは、日本ではありません。日本にミサイルを打ち込んでも仕方ないのです。北の第一攻撃対象は在韓米軍であり韓国民です。

    莫大な経済支援を期待できる日本、何の軍事的脅威のない日本を攻撃しても、北が獲るものは一切なく、得べかりしものを失うリスクのみがありです。

    三十八度線の向こう側に展開している米韓国連軍に、先制攻撃をしかければ、確実に激甚な損害・被害を与えられます。彼らからの反撃を封じることにもなります。

    何より休戦中の国連軍に戦端を再び開くことは、大義名分が立ちます。

    面子と建前がとても大切な朝鮮社会で、経済制裁は宣戦布告と見なすと、見得を切り、半島民をしっかり宣化しています。

    しかしこんな言い掛かりは国際社会に通じません。

    北が韓国を攻撃するようなバカなことはありえないと思うなら日本への攻撃は更にありえません。

    なのになぜ日本政府は失敗した北の核実験の脅威を日本国民に向かって煽るのでしょうか。不思議です。

    (節酒中のほうの)中川氏が核議論のイグナイター(火付け役)をしているのは米国の意図する範囲を逸脱したものでしょう。

    米の本音は日本の非核凍結で、日本を永く米の配下に繋ぎ留めようという底意があります。

    中川氏の動きは米の指示を逆手にとった高等戦術と推察します。

    ではなぜ米は北の核の対日脅威を安倍内閣を使って日本国民に刷り込もうとするのかです。

    これは拉致問題の希釈化と思われます。

    日本だけが拉致問題を核拡散問題に優先させていて、これでは六ヶ国協議はまとまりません。

    北もイライラしてそんな日本は参加しないでいいと言いだしました。

    日本政府は本音では核問題優先、拉致問題棚上げのシナリオが描かれた六ヶ国協議には参加したくありません。

    日本国民の総意は全拉致被害者の火急なる奪還にありますから、米の言いなりになる安倍政権なら短命に終わるでしょう。

  4. 保守とはなんだろうか
    やっと意識が明瞭になりましたので「諸君」12月号の『保守を勘違いしていないか』について私の雑念を書いてみます。

    安部政権下では最近、核武装論といい従軍慰安婦の河野談話といい大臣、3役などがアドバルーンをあげて安倍首相が一応「穏便に」というパターンが定着しつつありますが、この問題を民主党が追及すると自動的に「民主党の自爆フラグ」が立ってしまうのでそれを狙っている可能性はないでしょうか。こんな認識は甘ちゃんでしょうか。

    憲法改定でも5年後というのは安部政権ではやるつもりはないという意見がありますが、何十年と放置してしたことに比べればまだ進歩でしょう。

    近代保守をどの時期を考えるとかいうとおそらく西尾先生は明治時代以降を考えているのでしょう。しかし明治時代以降敗戦前までを考えてみるとそこにおける先人の努力はまったく生かせれたいません。当時の人間がどのように考えていたかまったく暗黙のうちであり、そんな定着しなかった近代化=西洋化が日本人が伝統として自分を見直す鏡になるのでしょうか。

    日本の場合は日本が鏡にしてきた欧米文化とは根底が違いますからそんな簡単に近代保守になれるわけがない。繰り返しますが近代保守というのは明治以降の日本の伝統を言うのだと思うけれど、相手は何百年、いや何千年と相互に争ってきた文明でかつ技術文明による簒奪社会で成立した唯物論型文明です。身についていないものだからちょっと力がつくと空虚な論説を吐くようになるのではないでしょうか。それは敗戦後に比較的長い歴史を持つ営利企業が欧米の近代文明で発生した経営手法を導入して失敗を続けているのと同じでしょう。そういう失敗の例を日本人は喜ぶのでしょうか。まるで経営破綻した近代経営術を標榜する会社が競争に負けて近代経営術は正しかった、だからそれを経営の鏡にしてくれといわれているようで幾ら考えても納得できません。

    日本は西洋型の近代化に失敗をしたのです。その理由はいろいろとあって考えても仕方がないでしょうけど。そして結果として商人を除き多くの日本人は鎖国時代の江戸に戻ってしまったのです。

    安部首相の思想のブレを非難しますが、こうゆう戦場でそうなるかわからない環境では方針を状況にあわせて変化させることは決してわるいことじゃない。

    西洋でも米国でも長所はあります。学校教育一つみたった日本とドイツでは違うでしょう。日本のように均質の国民を作ろうとしているようには思えない。日本人は換骨奪還して自文化に新しい知を入れるのが得意です、それは当然に全面導入ではないですから西洋文明を標準とすれば歪んでいるのは当然です。これを忘れてしまったら日本は進歩を停止します。大いに歪んで誇りを持って導入しようじゃないですか。しかしそれは丸山真男形の西洋の文化を絶対の鏡とした導入なら同じ失敗を繰り返すだけじゃないのか。

    いま私はど素人の私が20世紀日本における最高の知性といわれている丸山真男を批判するなんてとんでもないことをやろうとしています。

    数年前に前に『戦後日本の論点』-山本七平の見た日本 高澤秀治 ちくま書房という本を読んでいるときにふと気になる文言がありました。正確な文言は忘れてしまったが戦後進歩派の代表格である丸山真男の『超国家主義の論理と心理』は占領軍による憲法が出てきてから書かれたものであって、丸山はそれまでは憲法改定は必要ないという立場であったという趣旨でありました。

    もともと新憲法に共感する部分はあったのだろうけど私が疑っているのは新憲法を土台にして創られた思想であったらそれは借り物でしかないじゃないかと独断と偏見で思うわけです。土台国民国家でさえ江戸末期以降に世間に普及してきた概念であって、その借り物を使う限り欠点も知らないし、やってみないとわからない部分ばかりだっただろう。それが本当に『超国家主義』と呼べるものであるかどうかは疑問を感じる。日本が西洋の近代化に沿って改革を行ったが不思議なのはどうして日露戦争やシベリヤ出兵を欧米は侵略と呼ばれないのだろう。そりゃそうだろう。日露戦争の陰の立役者は英国であり、シベリヤ出兵の影には米国まで存在している。彼らが自分たちの存在を無視してまで日本を非難する論理を作りえなかっただけなのだろう。そして日本が『超国家主義』ならドイツやソ連を含んだ欧米は『超々国家主義』なんだろう。

    私たちが日常判断しているのは何度も失敗を繰り返して頭の中にあるパターンが焼き付いているものを使って切れば血が出るものから判断していることが多いのじゃないだろうか。何がいいたいのかというと論理の初めに戻ってみると必ず何か前提を正しいとして考えている。無前提で考えていることは論理の構造から考えてありえない。これを幾何などでは公理と呼んでいる。この公理を基礎にして理論的には形式論理で考え推論するか、それとも一瞬に問題の構造を画像的に把握して補助線を見つけて答えを出す。前者は代数的思考であり、後者は幾何的思考になるのだろう。どちらにしろ問題があったときに何千ステップかわからないがどっちかの論理的思考を行うのだろう。もしも丸山真男が『超国家主義の論理と心理』を公開するときに四苦八苦してちょうど丸山が儒教のまねっこと批判した石田梅岩が自分の商人としての職業の経験と職業差別に対する問題意識をもとにノイローゼになるまで何年間も苦労した経験で得たものと丸山真男が敗戦をきっかけにして出てきた新憲法と進駐軍の存在する環境や空気で書いたものがどこでも切れば血の出るものだったのだろうかという疑問です。

    借り物はいつまでたっても借り物であって亜流でしかない。自ら創り上げたものはわずかな微小な部分でさえ魂が入っている。その魂は現実の社会を反映しているから空論にならない。石田梅岩やその弟子たちが作った思想は彼らが死んでから200年近くたっても日本人を規制している。丸山真男の思想が敗戦後200年後にまだ生きているのだろうか。

    さらに言うと丸山真男の論説には日本になくて欧米にあるから正しいとでもいう論説がある。しかし個人主義の発生やその社会的背景を見ると日本とは180度違う世界であろう。年がら年中争いばかりしていて、進歩とは精神でなく唯物的進歩をいい、個人の欲望に火をつけてその欲望を抑えるのに苦労する世界で生まれた思想とで生じる戦争や平和の概念は明らかに違うだろう。日本の進歩主義者が信用できないのは日本をこういう欧米のような世界にしたいのだろうかという点である。平和主義者と進歩主義者は重なる部分があるが、日本の平和主義者じゃ日本を土台にして考えた日本的観念論の平和主義であって当然に戦争があるという前提で成立した平和主義ではないのだろう。

    ふとこんなことを思ったりしている。

    日本の場合は西洋化を是とするなら 会田 雄次が書いているように江戸時代を基準にするより戦国時代を基準にすべきではないでしょうか。近代化は弱肉強食の世界であり、国益ためには嘘は許容される世界であり、優れた文明とは物質文明をいうのでしょう。日本人は優れた文明は徳や倫理にも優れていると考えがちですが、むしろ欧米文明を見るとそのようには思えません。この点は米国も欧州も長い歴史から見れば同じでしょう。

    個人主義でも主軸は個人の欲望の抑制を取ってところ、一種の利己主義の面があり、日本はむしろ逆で私欲の抑制を行うことで成立して社会機構であり、安全保障は別にして教育や社会保障の面では国家の手厚い保護のもとに国民は一律にサービスをうけれられる。親は子どもの面倒を死ぬまで見る習慣が当たり前になり、ニートなども増えてゆくでしょう。

    欧米とむしろ日本と大きな違いは争うことは悪いことではないという点にあるのではないでしょうか。弱肉強食ですから弱いものは強いものに従うのは当然と考えるでしょうし、強いから生存競争に勝ったから優れていると彼らが考えてもおかしくはない。日本の場合は優れたものほど謙虚だと考えます。

    保守系の学者が商人よりお武家を尊重する論説をしばしばあげますが、個人主義一つとっても産業革命をきっかけにした欲の抑制破壊をベースしていたら、むしろ室町時代から大阪の商人なんかが個人主義の代表選手として推薦したっておかしくはない。

    江戸時代の武士の代表選手として会津藩の幼児教育は次のようです。

    教育の三本柱とは知育徳育体育であるが、知育は知識データベース作成だけでなく問題解決のアルゴリズムを自分の脳に作り上げる機能がある。徳育は個人を律する基準と人間の関係性で生じる正しい基準を教えることである。体育はいうまでもない。もしもキャサリン香りさんの論説を援用すれば江戸時代ではこれをやっていたところがある。会津藩と薩摩の教育がそれであり、会津で見ると藩の藩士や浪人の幼児少年教育がそれでまず小さな町内グループで徹底的に遊ぶ。これを什(じゅう)と呼ぶ。その什は単なる遊び友達で内部では親の地位は関係なく身分差別はない。

    子どもは毎日、当番の家に集まります。そして最年長の什長の指示にしたがって「什」の誓ひ(掟)」というのを大声で復唱します。「什の誓ひ」とは以下のとおり。

    一、年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
    一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
    一、虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
    一、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
    一、弱いものをいぢめてはなりませぬ。
    一、戸外でモノを食べてはなりませぬ。
    一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
    ならぬ事はならぬものです。

    その遊んだ結果を反省会を開いてリーダー少年のもとで「これだけはやってはいけないこと」を再度自得させることである。これは体育と徳育の両者を取得させる巧妙な手段なんだろう。そして大事なのは教わるより教える経験がリーダークラスの少年教育に強い影響があったといわれている。

    会津藩の教育では幼児段階から10歳になると日新館教育を受ける。 藩校の日新館には、幼少年に初等教育を施す「素読所」とその素読所を卒業した者達が進む「講釈所」という、二つの教育機関がある。素読所は、藩士達の通学地域によって四つの塾に分かれており、さらにそれらの塾は一番組と二番組に分かれ、さらにその一番組と二番組が、それぞれ10~14程度の小さな小組に細分化されていました。

    「素読」という言葉ができ来ましたがこれは儒教の言葉を丸のまま暗記することであって、意味など当初はわからんでしょう。しかし実社会に出て初めて儒教で言ってた考え方に気付き頭の中にサブルーチンとしてこういう問題の場合はこういう考え方で解いたらいいのだが論理思考をしなくてもF=A(x)、Fは結果、A(N)はサブルーチン、Xは所与の条件という論理式で得られるわけでなるほどお武家はえらいものだと町人に思わせるものがあったのでしょう。『知育は知識データベース作成だけでなく問題解決のアルゴリズムを自分の脳に作り上げる機能がある』と書いた部分がこれであり、ずっと前に読んだ日本人は儒教を信頼しすぎて中国を理想国家だと勘違いしているという西尾先生の儒教批判に対する反論でもある。日本の近代化で大失敗だったのは武士方の徳育教育を捨てて知育一辺倒になったことであり、これにより判断が私欲や周りの状況や関係性にまだわされたためなんだろう。明治20年以降に定着した近代化教育を受けた人間が指導層になった昭和初期段階から日本が苦労を重ねたのは世界環境だけが理由じゃない。

    初期段階で幼児に徹底的に人間のあるべき姿を教えているわけです。日本人があの人はぶれがない人だという場合それは政策がぶれないという意味じゃない。責任を取る人であり人格がぶれないから政策は違っていても信用できるという意味であり、そうでなければ幕府側勝海舟と倒幕側の西郷隆盛が江戸城開城で信用の関係が成立しないわけがない。

    「什」の誓ひ(掟)」は初めに抑制の疑わざるべき項目を公理のようにして提言してそれによって武家社会を抑制したのでしょう。おそらく戦国時代の教育にはこんなものはなかったはずです。
    近代欧米文化とはこういう江戸型文化とは逆じゃないでしょうか。こういうもの一つ見たったあまりに日本との違いに嘆息してしまいます。おそらく背景には宗教の崩壊と法という書かれたものを絶対視しているように見える文化があって、それと同じにに日本をしようということ自体が日本人に希望をあてえるものでなく絶望を与えるものじゃないでしょうか。一番不得意な土俵で戦えというのと同じだからです。どうして連中のいう個人主義という普遍性が信じられるのでしょう。簒奪の思考がどうして正しいのでしょう。欲の抑制文化がどうして否定されるのでしょう。

    まるで諸君に書いてあることとは違うことを書きましたが日頃から考えていることを書いてみました。

  5. 知らないということ(無知)は人に恐怖の心を生じさせる。
    無知がもたらした恐怖の心は「そのことを聞きたくないし、話したくない」という現象を引き起こす。

    中川昭一氏が「核の議論をしてもいい」と言った。
    共産党・社民党、公明党は「よその国からどう見られるか分からない。議論するなんてとんでもない」と。 これはよく分かる。 議論して下々にもそのことを考えさせるなんて・・・。上からの支持通りに脳内を保つべきを信条としているから。

    民社党も議論の余地なしと言った。これは分からない。もし、2大政党をめざすのなら・・・。
    政局の節目で、きちんとコメントすべき時に、外国へ、硫黄島へ、と出かけなくてもいいのに出かける根性に、国民は責任を取れない男と見たのでは? 昔の社会党のように何でも反対の為の政党と同じなら、セピア色の言葉をパクパクは納得できる。

    まるで、戦中の敵性語の英語をしゃべるなと同じものを感じます。その間に敵は日本のことを研究し調べ上げていた。

    議論をするということは、そのことを知らずしては意見が言えない。知るためには勉強をしなければならない。知るということはその事柄に対して、深い洞察ができ、たくさんの戦略的思考を可能にする。「核」という言葉のアレルギーに代議士は時間かけて勉強する価値があるかないか、心の中の優先順位を探っているのか? 言った為に次の選挙の影響が怖いのか。

    政治のプロが代議士であれば、ちゃんと勉強すべきでないか。
    「いやや、あんなこわいもん、見たくないわ。聞きたくもないわ」という国民もいる。そんな国民に替わって、しかっと目を開け、耳をかっぽじって、「核」や「いろんな事柄」を勉強をするのが政治のプロでしょう。議論をするうちたくさんの問題点が見えてくるはずです。自由民主党も共産党公明党レベルで国民を扱おうとするのか? 議論を否定しないのが自由民主党の本来の姿ではないのか? 
    城内実氏は「郵政民営化について僕は全部読みました。だから反対しました」と。見習うべき立派な政治家です。

    議論をするなとは? 北朝鮮の核問題会議に「無知」な政治家で望めというのか。それこそ中共、北朝鮮がほくそえむ。そしてこれは日本国に最も切実な国際問題なのに。他の国々が「なんだよ、自分のことだろう! ちゃんと勉強して来いよ。」と愛想をつかし、次回からは恐怖心で固まった日本を食い物にすることを学ぶだろう。

    日本国は幸い、本当に幸い!! 麻生太郎外務大臣というご自分の考えをきちんと自信を持って話す政治家を持っている。自民党には麻生太郎氏しかいないのですか? 中川昭一氏を援護する政治家は。

    昔、福田総理大臣が米国の大統領とだったと思うが・・・、戦闘機の話に全くついていけなかったとか。日本は平和を目指す国ゆえ、戦闘機などは分かりません・・・ではねぇ・・・。 一国を代表する総理大臣も勉強不足というより、プロの政治家として恥をかいたのですね。

    中川昭一氏は日本国をいつも考えている勇気ある政治家です。
    農業水産大臣の時、外国へ出かけた折にはその国のスーパーマーケットを覗く。そこにはその国の偽らない姿があるからです。女性代議士さんも覗いてみたらいかがかしら・・・。

    中川昭一氏の政治家としての原点は北海道の熊と言われたお父上から受け継いだDNAが、毅然とした行動と言葉に表れるのでしょう。お父上の死が「素晴らしい息子」を作ったと言えるような気がいたします。
    そして歴史教科書問題・拉致事件 という国の根本を守る問題とも闘ってこられました。ずっとぶれない政治家です。西村眞吾氏と同じ国士。私にはこのお二人は「命」を国民のために掛けてくれる政治家に見えてなりません。

    小泉全首相は頭がよく感の鋭い人だった。 
    じつに社会をじっくり観察した人。 長い間解決できない自虐的な歴史教科書問題が、拉致問題があった。
    民間が立ち上がって戦い、日本国民を目覚めさせてくれた。
    こんな素晴らしい民間の会! 官は責任を負わなくていい。民でできることは民で。こうして日本国の官から責任という文字を分散させた。誰も責任を取らなくていい。今まさに日本国中何事においても、誰も責任を取らなくてよくなっている。
    「新しい歴史教科書をつくる会」と「拉致被害者の家族と救う会」がすべての行動に責任もとり、闘ってきた。

    拉致問題の無知が前首相に・・・。北朝鮮へ出かける前にもっと勉強され熟知していれば、そして被害者家族と会い、悲しみ苦しみに耳を傾けていたなら、首相の心は百倍強いものになっていたでしょうに。頭のなかが真っ白にならなくてよかったものを。思いつきでなく、真に解決したい熱望があれば、彼自身が戦略をたてて望んだはず。熟知しているつもりの官僚に丸投げせずに。 
    ずっと被害者家族に会わないのは、会えないのはなぜ? 

    安倍総理大臣は、真っ先に被害者家族とお会いになりました。私はそのことに「真」を感じました。国民の命を考えておられる首相に期待しています。

    西尾幹二先生のお言葉
    【日本の保守党は守ろうとする自分の文化価値を揚げない。持たないから揚げようがない。日本の伝統文化、国語、国史を守ろうと何故しないのか?】

    西郷隆盛の言葉
    【生命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。このしまつに困る人ならでは艱難をともに国家の大業は成り得られぬなり】【万民の上に位する者、おのれを慎み、品行を正しく驕奢を戒め節倹を勉め職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思うようにならでは、政令は行われがたし】

    を城内実さんのブログで読んだ。城内さんは「私のめざす人生観と同じ」と。こんなカッコイイ男が日本にいた。「生命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり」私達はこんなことを考える男を真剣に応援しなくてはならない。「真正保守」ここにあり。

    「国を潰してなるものか!」
    麻生太郎、西村眞吾、中川昭一、代議士に続く若手代議士は? うん? みな若年寄りって?

    代議士はセピア色の言葉をパクパクしていてはいられないでしょ。
    世界の今を勉強し、闘い、国民を愛する人であって欲しい。

    西尾先生はこの日録(秋の嵐 5)と、諸君12月号合わせ、読んでのコメントを書いてもらうとありがたいと書いておられましたが、中川昭一氏応援を兼ねてコメントさせて頂きました。

  6. 『諸君』12月号鼎談「『保守』を勘違いしていないか」の感想(11月4日)

     思いつくままに記します。

     安倍内閣を「真正保守」を目指す内閣として評価し期待して論じるのは、認識を誤ることになるのではないか。

     安倍内閣は、その成立過程(自民党内外の政治力学)や支持基盤からみて、小泉継承内閣以上のものには容易になり得ないと思う。それは特に、安倍さんが市場原理至上主義に立脚した小泉「構造改革」を支持していることによって決定的である。そうみるならば、訪中・訪韓外交の評価、「村山談話容認・継承」に対する評価などは、安倍さんに対する過大な期待から来るやや見当はずれの批判なのではないか。

     もとより、「村山談話継承」を支持できることではないし、少なくとも、ものの言い方に工夫も見られなかったことは残念であるが、私は、ある程度やむを得なかったことと考える。

     「村山談話継承」というが、十年前の村山内閣のことが問題なのではなく、小泉氏の靖国参拝に対する不十分な説明、その代償として「村山談話」を下敷きにした反省の弁の繰返し、安倍さんの前にあったのは、これである。それを今日の時点で取り消すことはできなかった。緊急の訪中・訪韓を前に、野党の正面からの質問(攻撃)を受けて、敢えて「『村山談話』を否定しない」と言わざるを得なかった。(祖父の「開戦時署名は誤り」、などと答えたのは論外。)

     このたびの訪中・訪韓にアメリカの意図が働いていることは明らかであろうが、しかし、歴史認識について、安倍さんに直接的な圧力があり、安倍さんがそれに屈したかのように考えるのは、穿ち過ぎというより安倍さんに対する侮蔑が過ぎるというものではではないだろうか。(安倍さんがアメリカの意図に忠実であったとしても、それは安倍さんが全体的に「戦後的親米的」思想の枠内にいることによるものと考えるべきであろう。)

     このたびの訪中・訪韓は、基本的に安倍さんはよくやったものと思う。(従来の日本外交と対比して、という意味になるが。)北朝鮮の核実験が小泉内閣のときに行われていたら、と考えるとゾッとする。

     

     日録「秋の嵐(五)」と、この鼎談を合わせ読むと、西尾先生の危機感が伝わってくるようで、共感します。

     関岡さんはもとより、西尾先生・佐伯啓思氏の米国批判の立場がよく理解できます。

     ただ、アメリカとヨーロッパの「保守」の違い、日本・ヨーロッパ対中国・アメリカ、それぞれの共通性とその対立性、といった指摘は明快かつ刺激的ですが、それだけに、「保守」思想を「文明分類的・地政学的?」に単純化することに(というより、単純化して受け取るのは、というべきかも知れませんが、)やや懸念を感じます。「正論」十二月号で、伊藤貫氏がロバート・ボーク氏と対談し、その保守思想を紹介しているのを読み、アメリカにおける「真正保守」の研究やそれとの連携の重要性も感じたので一言申し上げる次第です。

     

     「自由や民主主義とは、あくまでも先進国がある程度満たすべき〝共通の制度や枠組み〟ではあっても、〝共有すべき価値観〟ではありません。」という佐伯氏の指摘は当然のことですが、日米同盟が中華帝国との長期にわたる対峙のために不可欠である以上、自由・民主主義を共通の「スローガン」として掲げることは必要且つ有効であり、それが本来の根本的価値観とは異なることを承知しながらも、極めて便宜的・プラグマティックな立場から、それを「共通の価値観」と呼ぶことも容認すべきではないか、と考えます。

     イラク戦争などに対する批判は、一般的な文明論的・思想的な観点からだけではなく、同盟国としての選択の問題として論じて欲しい。(佐伯氏に対する要望。日米同盟と日本の自主防衛との関係の問題についても同様。)

     再び、安倍内閣が小泉後継内閣であること、について。

     安倍内閣自身のことよりも、単なる後継内閣に過ぎないにもかかわらず、恰も「真正保守」内閣であるかのように考える保守派の一部の認識に危うさを感じます。特に、安倍さんが小泉氏の後を継ぐことを「真正保守」の達成と勘違いしてそれを推進した人たちの安易さに対して。

     小泉内閣のあげた「成果・功績」(それは主として「結果として」のものであると思う。)と反面における「野蛮さ・破壊」の全貌をまとめ、小泉批判を徹底させなければ、「真正保守」の方向が明らかにならないと痛感します。

    =============

    場所がこちらが適当と思いましたので、勝手ながら転載しました。(管理人)

  7. 長谷川様

     私が投稿場所を間違えていました。転載して頂き、ありがとうございます。

  8. 『諸君』を読みました。なかなか読み応えのある鼎談です。

    ①あらためて確認・認識したこと
    ・自民党、小泉、安倍政権にいたる政策がきわめて危険であること。
      アメリカニズムに傾斜しすぎること。
    ・殊に小泉の危険さがよく認識されていない。別のかたちのヒットラーでもあった。
     彼のワンフレーズに酔いしれた国民は、かつてのドイツ人と同じ。西尾先生は
     昨年すでにそれを看取していた。さすが・・である。
    ・我が国の伝統文化が根こそぎ剥離されるおそれがあること(すでにかなり
     深耕している)
    ・日本人が蓄えた富の流出 ⇒誰が潤うのか 誰が漁夫の利を売るのか
    ・アメリカの「保守」は、「“特殊な”保守」、伝統とは無縁な保守、人工的
      所産の保守思想であること。
    ・日本の資本家はアメリカの資本化のコピーに成り下がっている。
      愛国心の欠如、伝統を保守する人種ではないこと。
    ・市場万能主義は危険、すでに危険水域をはるかに超えていること
    ・教育再生機構に名前を連ねる学者たちも、上記の根本認識がないこと。
      理由: 世の中の「陥穽」を見破る感性がないこと二不安を感じる。
        集っている人たちが、どうも「旧い保守人」ではないかとも思えること。

    つまり「マモン」思想の影響を受けながら、自らその影響に気付かない、影響を受けている
    のではないか・・という疑問すら抱こうとしない知的怠惰、危うさが気になります。

    ②これからの努力・・・集中的に、国民に訴え、働きかける方法論を急いでつくる。
       いくつかのメディアが配慮しているが、パワーが分散しており、まだ国民への影響力
       が小さい。
    ・良識マスコミをつかって、上記警告を発する一大運動を起こすこと。

    これはひょっとして、第二の「維新」にも匹敵する活動になるかもしれない。
    明治維新は、列強の侵食を防ぐ意味があった。
    今は、日本が思想的、精神的に溶解しようという危機である。日本人が営々と勤勉さで
    蓄えてきた冨が見えないスキームで吸い取られる危機である。
    前者と後者の危機の差は、前者はある意味 分かりやすい。
    後者は、内側に胚胎する危険な思想が見えにくい、なぜならば日本人の脳がすでに東京
    裁判史観の洗脳を受けて、正常な思考をできないレベルに達しているから。

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