『日本の希望』書評(3)

ゲストエッセイ
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)11月19日(金曜日)
通巻第7120号より

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「自由と民主主義は大切である。しかしそこから先が問題なのだ」
家族、民族、国民国家、ナショナリズムは自由と民主主義の敵ではない

西尾幹二『日本の希望』(徳間書店)

 約束の時間に間に合わないところだった。最初から引き込まれて半分まで読んだところで先約に気がつき、慌ただしく椅子を離れた。
 題名に「希望」とあって、一縷の望みが日本にはまだあると西尾氏は言う。
私たちが守ろうとしてきた祖国は、もはや存在しないのではないかと訝っている読者の脳幹を刺激するだろう。
現代日本は精神の曠野である。

 ものごとの本質を理解できない半藤某とかが皇室にご進講に及び、あろうことか内閣ごときが皇室典範にあれこれと口を挟む。
 日本に牙をむく中国の侵略には眼を瞑り、商売だけは続けたいと経団連につどう財界人はトランプの対中強硬策にたじろぎ、反発し、批判していた。なにしろ「人権」で中国制裁を緩めないとポーズだけは勇ましいバイデン政権だが、それを支えるウォール街とIT企業は、中国べったりでまだ儲け話があると踏んでいる。
世の中、先の読めない人だらけだ。

 「自由と民主主義は大切である。そこまでは大方の人の意見が一致する共通ラインからもしれない。しかしそこから先が問題なのだ。家族、民族、国民国家、ナショナリズムーーこれらが自由と民主主義の敵ではなく、むしろ自由と民主主義の側にあり、自由と民主主義を守り育ててきた母胎である」。
こんな基本を忘れ、家族、民族、国民国家を破壊しようとしているのがグローバリズムである。
そうだ、共産主義者が姑息に仮面としているのがグローバリズム、メディアは「新市場主義」などと持て囃す。新市場主義なるものは、左翼陰謀の隠れ蓑である。

 さて、民主主義は全知の神ではなく、次善の政治制度であり、ましてや「文化の概念ではない」。
西尾氏はこう言われる。
「日本国憲法は文化の原理である天皇の役割を冒頭に掲げ、上位概念として政治の原理を支配する文化の原理の優位を明白にしている。ならば文化の原理としての天皇の優位は何を根拠にしているのか。神話である。天孫降臨神話である。三種の神器の継承権である」。

 後鳥羽天皇は正統を求め、承久の乱を起こした。後醍醐天皇は最後まで正統を求め、戦い続けた。
ところが現代日本で教えられている歴史教科書は「縄文弥生の一万数千年を日本の歴史の始まりと定めていて、神話の格別の意味を持たせない。今なおつづく敗戦後遺症である」(17p)。
ならば中国の歴史観なるものはいったい何か。

 「唐代の韓愈は『夫れ史を為る者、人禍あらざれば、すなわち天刑あり』と言っている。歴史を書くものの身にはろくなことはおこらない」のだが、それでも史家は命がけで歴史を書いた。
孔子は魯の正史をまとめた(『春秋』)が辱められ、不遇の死を遂げた。齋の太史は殺され、司馬遷は『史記』の著して処罰を受け、『漢書』を書いた斑固も獄死している。『晋史』の王隠は誹謗されて失脚した。
 以下同様に

「北魏の国史を編纂した崔浩、『後漢書』を書いた氾華は、誅せられて一族皆殺しにされた。『魏書』の魏収は、嗣子なくして家が絶えた。齋史、梁史、陳史など多くの史書の書き手も、その身が栄達し、子孫も栄えている例があるとは聞いていない」(170p)

 歴史を叙するとはいったい何か。その行為が何を意味するかを追求したところが、本書の肯綮である。
 大病を克服中の西尾氏の最新論文集、刺激されること夥しい書物だ。
               (註「氾華」の「氾」は草冠。「華」は口篇)