西尾幹二全集第三巻『懐疑の精神』が刊行された。第四回配本である。なんのかんのと言っているうちに4冊もついに出たんだなァ、と感無量である。
最初に出た『光と断崖――最晩年のニーチェ』は別にして、第一巻から第三巻までが私の初期作品群ということになる。
今度の第三巻は次の3冊の過去の評論集から最も多く採り入れている。
情熱を喪った光景 河出書房新社 1972年
懐疑の精神 中央公論社 1974年
地図のない時代 讀賣新聞社 1976年
しかし、この3冊をそのまま収録したのではないし、この3冊にも他の何処にも今まで収録していなかった作品や、そもそも何処にも出さないでいた初期の未発表論文も収められている。目次をお見せするが、色替わりのところがそういう未知の文章で、今度はじめて世に問うている。
目次
Ⅰ懐疑のはじまり(ドイツ留学前)…7
私の「戦後」観…9
私のうけた戦後教育…25
国家否定のあとにくるもの…37
知性過信の弊(一)…42
私の保守主義観…45「雙面神」脱退の記…49
一夢想家の文明批評-堀田善衞『インドで考えたこと』について…52
民主教育への疑問…64
知識人と政治…66Ⅱ懐疑の展開(ドイツからの帰国直後)…69
ヒットラー後遺症…71
状況の責任か 個人の責任か-ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』…97
面白味のない「知性」-ハンス・M・エンツェンスベルガー『ハバナの審問』…107
大江健三郎の幻想風な自我…116知性過信の弊(二)…132
国鉄と大学…147
喪われた畏敬と羞恥…149
文化の原理 政治の原理…160
ことばの恐ろしさ…187
見物人の知性…190
見物人の知性(190)外観と内容(192)ネット裏の解説家(193)
二つの「否定」は終った…195
自由という悪魔…204
紙製の蝶々…210
高校生の「造反」は何に起因するか…214
生徒の自主性は育てるべきものか…217
大学知識人よ、幻想のなかへ逆もどりするな…220
安易な保守感情を疑う…223Ⅲ懐疑の精神(七〇年代に露呈した「現代」への批判)…233
老成した時代…235
現代において「笑い」は可能か…269
成り立たなくなった反語精神…274
現在の小説家の位置…279
生活人の文学…290
日本主義-この自信と不安の表現…293
実用外国語を教えざるの弁…300
わたしの理想とする国語教科書…305
帰国して日本を考える…311
「反近代」論への疑い(311)日本人論ブームへの疑問(314)読者の条件(317)比較文化論の功罪(318)節操ということ(321)
前向きという名の熱病(322)変化の中の同一(323)江戸の文化生活(324)物理的な衝突(325)現代のタブー(327)
土俗的歴史ブーム(328)
個人であることの苦渋…331Ⅳ情報化社会への懐疑…345
言葉を消毒する風潮…347
マスメディアが麻痺する瞬間…353
テレビの幻覚…361
権利主張の表と裏…373
ソルジェニーツィンの国外追放…378
韓非子を読む毛沢東…385
ノーベル平和賞雑感…392Ⅴ観客の名において-私の演劇時評…395
序にかえて-ヨーロッパの観客…397
第一章 文学に対する演劇人の姿勢…401
第二章 解体の時代における劇とはなにか…412
第三章 『抱擁家族』の劇化をめぐって…433
第四章 捨て石としての文化…449
第五章 ブレヒトと安部公房…463
第六章 情熱を喪った光景…480
第七章 シェイクスピアと現代…497Ⅵ比較文学・比較文化への懐疑…519
東京大学比較文学研究室シンポジウム発言
比較文学比較文化-その過去・現在・未来(司会芳賀徹氏)…521
東京工業大学比較文化研究会シンポジウム発言
比較文化とはなにか、それはなにをなし得るか、またなし得ないか?(司会江藤淳氏)…533追補 今道友信・西尾幹二対談-比較研究の陥穽…553
後記…585
私の本をよく読んで下さった方でも、標題を見たこともない、知らない文章に数多く出会うであろう。特にこの第三巻『懐疑の精神』はそうである。
1974年に中央公論社から『懐疑の精神』という一冊が出ていることは前に述べたが、全集第三巻は題名を借りているだけで、同一の内容の本ではない。私の今度の全集はどれも再編成されている。昔の本をそのままというのは少ない。
第三巻『懐疑の精神』の帯の文字は次の通りである。ご紹介しておきたい。
人間はつねに自分の心の主人公であるとは限らない。
「ヒットラー後遺症」「大江健三郎の幻想風な自我」「国家否定のあとにくるもの」「比較文学・比較文化への懐疑」・・・・・。私は自分の言論の自由にいつも飢餓感を覚えて生きてきた。もし本全集がなかったら、これらの論文は永遠に闇の中に消えてしまったであろう。(「後記」より)
解説の部分にあたる「後記」はこれまでも長かったが、今回はまた特に詳しく、28ページに及ぶ。20台後半からの私の評論活動の起ち上がりの物語りを回顧録風に綴っている。