『天皇と原爆』の刊行(十三)

『撃論』(4月28日刊)
書行無情 GEKILON-PLUS ブック・レビューより

 杉原志啓・評
『天皇と原爆』

センセーショナルなタイトルの真意とは

 西尾幹二氏がとびきりの多作家なのはひとしなみに了解のことだろう(そのあらわれの一端が、つい最近公刊開始の全22巻の全集となる)。で、どんな量産タイプのライターであっても、いつしか老いの影とか衰えの兆しをみせるものなんだが、かれには不思議なほどそれがうかがえない。それどころかむしろ、どんどん読者の知的好奇心をわしづかみにしてくるというか、美しい狂気――といって悪ければ、滾るような精神的なマグマとでもいうべき迫力噴出のフレッシュな著作頽廃みたいなのだ。

 評者のみるところ、本書もまた、ビブリオと付論をプラスの比較的近著の新版『国民の歴史』(上下巻の文春文庫)や『江戸のダイナミズム』、さらに一連の『GHQ焚書図書開封』シリーズ同様、その種の熱気と新鮮な問題意識のみなぎる好著となっている。たとえばなんだが、そのポイントにつき、西尾氏はいう。明治以来日本ではクリスチャンの数がいまでも百万をちょい超えるくらいで、けっしてキリスト教化されない。なぜか?これは「面白い、根の深いテーマ」なんだと。というのも、日本という国は、外からの文化をなんでも無差別に受け入れる国のように考えられているけれど、実はどうしても受け入れないものが幾つかあって、それがすなわち「原理主義的なもの」「一神教的なもの」なんだとか(ちなみに、この点は右の『国民の歴史』等でも言及されている)。

 つまり、いささかセンセーショナルな(とわたしはおもう)書題『天皇と原爆』の意味は、こういうことだ。この本は、さきの「日米開戦は宗教戦争であって、ピューリタニズムの国アメリカが、天皇を中心にしたもうひとつの神の国であるわが国に仕掛けた戦争の、原爆使用も辞さなかった破壊性から、われわれ日本人はどのようにして立ち直るべきか」を論じているということ。すなわち、一方の宗教国家アメリカは、建国以来西へ西へと勢力を伸ばし、やがてハワイ、サモア、ミッドウェー、ウェーク、フィリピンを取る。かくてついに中国に入ろうとしたところが、なんとそこに日本がいる。しかもこれが日露戦争直後で、「一等国の名乗りを上げたばかりか、なんと『神の国』を標榜する日本は、アメリカにとって憎むべきサタンであって、邪魔でしょうがない。だからこそマニフェスト・ディスティニーの最大の対象とならざるを得なかった」。別言するならこのマニフェスト・ディスティニーの最終的帰結が原子爆弾だったということだ。

 そして、このメイン・テーマにそって、この著者ならではの出来たての生ビールみたいに爽快なあと味の痛棒を、半藤一利、加藤陽子らの相変わらずのGHQ肯定史観に彩れた「歴史」へ振るっている。アメリカという国が、現在でもどんなに宗教的な国家かという内実を詳述している。わが国における仏教および儒教と神道の関連を――「時代の変化に合わせて変身した」日本独特の神の構造と姿を描いている。そうして、近代日本の「国体」観念(ナショナリズム)へダイレクトにつらなる国学や、ある種の「革命の狼煙をあげた」前・後期水戸学の果した役割を思想史的に説きつつ、これまた西尾氏ならではの促迫力をもって現今の日本人へ警鐘を鳴らしてくるのである。

 すなわち、幕末の会沢正志斉の『新論』における対外的危機感に当時の「幕閣をはじめ朝野」はあげて無関心。「何があったってケロッとして先に延ばす。そのうちとんでもないことが起こりますよ。最後にドーンと来るまで分らない」。それがまさしく今のわれわれの姿なんですよと!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です