去る6月5日に第18回坦々塾が開かれたのに、いろいろな事情でいまだに第17回(3月6日)の坦々塾勉強会の報告が遅れがちに行われているのをお詫びしなければならない。
「ナホトカ日本人墓地墓参の余韻-抑留の思想戦と知識人の妄言」 (1)
粕谷哲夫
昨年(平成21年)8月、宮崎正弘さん、高山正之さん、鵜野幸一郎さんと極東ロシア(ウラジオストック、ナホトカ)の旅をした。 その余韻はなかなか消えないどころか、ますます膨れる。
■ナホトカの哀愁
極東ロシア、沿岸部の中心はウラジオストックである。ウラジオはソ連の極東艦隊の基地で長く外国人の立ち入りは禁止されていた。その時期には、ナホトカは極東ロシアの入口として、そして商港として重要な役割を果たしていた。日本からの旅行者はナホトカのお世話になった。
東西冷戦の終結で、1992年にウラジオストクが対外開放されると、ロシアの極東地域への投資や開発は、ウラジオストック地域に集中して行われるようになった。極東ロシアの最大のイベントAPEC2012もウラジオストックの先端にあるルースキー島で行われる。
韓国の現代グループのやっているウラジオストックの<ホテル現代>はまずまずの賑いを見せていたが、ナホトカの<遠東大飯店(ユンドァン)>は、建物は立派で、ナホトカ港を一望する素晴らしい立地にもかかわらず、泊り客はほぼゼロで、営業しているのかいないのかもわからない。
いまのナホトカにはほとんど見るべきものはほとんどない。うら寂しさだけが残されている。
ナホトカは狭い町で展望台に登ると港湾全体が見下ろせる。港には、材木輸出船が接岸していた。ナホトカはこの湾を囲む約15kmの湾岸道路が走り、そこから内陸に向かう道路に沿って住宅が展開する構造である。
湾岸道路から丘側にゴルヤナ通りを登っていくとナホトカの日本人墓地があるはずである。ガイドはこの辺に間違いないというが、墓地はなかなか確認できない。
在ウラジオストック日本領事館のHPによると、ナホトカの日本人墓地について、「ナホトカ市の日本人墓地(同市ナゴルナヤ通り)では、2004年6月から8月まで4回に亘り厚生労働省が同地にて遺骨収集作業を実施し、524柱が収集された。2004年8月、谷畑厚生労働副大臣(当時)がナホトカ市を訪問し、厚生労働省による遺骨収集作業現場等を視察した。区画内には日本国政府により石碑が建立されている」とある。
遺骨はすでに3年前に収拾を終わっていたためか、墓地は草ぼうぼうのまま放置され、しかもせっかく建てた石碑も台座も荒らされ、チェーンは切られ、信じられない荒廃ぶりだった。廃墟のようであった。これは一同にとって、大変なショックだった。このショックは長く尾を引いた。
ナホトカは、シベリアに抑留されていた60数万人の日本将兵が日本へダモイ(帰還)する最終関門である。すべての生存者はここに集められた。ここから舞鶴に帰還した。ナホトカにきてもなお帰国の保証はないが、ナホトカに来られなければ、帰国は絶望的である。ナホトカはいわばダモイという漏斗の先端のような港である。
岡崎渓子氏の 『シベリア決死行』 にはこうある。「・・・日本人捕虜たちが憧れ続けて果たせなかった夢、『ナホトカから船で日本に帰る!』。ナホトカは凍土に踏み込んだ日本人全員の希望の地であった。あのネーベルスカヤラ、ノボチェンカの墓場もなく草むらに無念の思いで眠る日本人の霊たちに私は約束したのだ。「私について来て! 必ずナホトカに行き、日本海を見せてあげる」と。死霊が相手でも約束は必ず守る・・・」。
彼らにとってナホトカは、地獄の出口にして天国への入口であった。ナホトカは世界中で最も重要な港であり、もっとも重要な地名なのである。シベリア抑留記を読めば読むほど、単なるナホトカではない。ナホトカの意味は膨らんで哀愁は強まるばかりである。
ナホトカの最終帰国審査で病気とされた兵士は強制的に入院させられる。ナホトカ日本人墓地はその病院で亡くなった兵士たちの墓地である。百里の道を九十九里まで来てあと一里が足りずに帰国が果たせなかった者たちの痛恨の墓である。目前に日本海を見ながら、船に乗れなかった無念の兵士たちの墓である。
■丸山国武氏のナホトカ590病院の追想
そういう地獄を生き抜いて日本に帰ることが出来た、丸山国武という、大正15年生まれの小学校出の当時22歳の若者のナホトカでの体験記録を偶然ネットで見つけた。ナホトカの事情をよく書いているのでエッセンスを引用する。
* ナホトカには日本人捕虜を集団帰国させるための業務を扱う四分所あり、帰国審査の第一分所から、週国体木の第四分所に移される。第四分所までくれば帰国は保証される。
* 民主化されていないと判定されれば、ここには入れず、反動としてシベリア再送になる。
* この収容所の勤務員は、いわゆる日本人積極分子(アクチーブ)でソ連の虎の威を借りる狐で、威張り散らしていた。
* ナホトカに来る直前のウオロショフの零下20度以下の作業で両手両足が凍傷にかかった。シベリアでの凍傷は手足を切断しないと助からないケースもあった。それでも日本に帰りたい一心で凍傷そのものは恐れなかった。ソ連兵の監視を逃れるために戦友と戦友の間に肩を借りながら十一文半の大型編み上げ靴をはいて各分所をごまかして通過できた。
* 第一分所、第二分所と通過して第三分所に移されたとき、ソ連憲兵の調査が入った。「凍傷患者がここに紛れ込んでいる」「そんな患者を帰国させたら米国にいい口実を与えてしまう」「早く患者を探せ」「見つからなければ全員帰国取りやめだ」と拳銃をかざしながらわめきたてた。
*自分の問題で、隊全体の帰国が遅れてはいけないと思って、「凍傷患者は自分だ」と丸山は名乗った。戦友たち全員は乗船帰国が出来た。
* 自分は第一分所に逆送され、そこで診察の結果、即刻、市内の第五九〇病院に入院させられた。病院はナホトカ港から10キロ離れた丘陵地帯のふもとにある。病院といっても建物も古く、医療施設というより収容所の一種であった。
* 戦勝国である旧ソ連は何をするか、わかったものではない。国際条約を無視して殺されることもある。
* ここで死んではならない。 「死んではならない。何としても生きて祖国の土を踏まねばならない、何とか生きよう」
* 病院は人手不足で、病人にも使役が命じられた。足が痛く作業に出されたらたまらない。両足腐敗で切断の可能性もある。軍医の診察のたびに「イタイ イタイ」と大声をあげて使役や作業は回避することができた。
* その甲斐もあって、退院できた。退院後ハラを決めて、この病院で働くことを決心する。どんなに嫌な仕事でも積極的に先頭に立った。おもに死体運搬埋葬に従事した。
* 同病院では開院以来約500人の日本人捕虜が死亡したそうだが、ほとんどが栄養失調、赤痢、下痢、肺結核などで、作業中の転落事故死体もあった。
* 墓地は、病院から2キロの丘の中腹にあり、ナホトカ港がよく見えた。海が見えれば望郷の念が募るが、戦友の供養にもなると困難な埋葬作業にがんばった。
* 墓は、死んだ同僚が安らかに眠れるように、自分が実際に横になって苦しくないか試しながら、掘っていった。
* 病院で死者が出ると、かならず解剖が行われた。午前中の墓掘りを終わって、待機している自分に埋葬指示がくる。
* 死者は丸裸のまま埋葬するが、これはソ連という国の習慣なのか、捕虜だからなのか?病院長と交渉して、旧軍隊の軍衣袴を分けてもらって着せて埋葬することが出来るようになった。遺体を担架で墓地まで運ぶ途中で、よくソ連の市民と出逢ったが、われわれが泣きながら担架を担ぐのを不思議そうに見ていた。なぜ泣くのか?と聞かれた。こちらの説明には納得いかないふうだった。「死んでしまえば強制労働から解放されるので泣くことはないではないか、なにも君たちが泣くことはないではないか」ということだった。何事もなかったように彼らは知らぬ顔で通り過ぎて行くだけだった。
* 「たとえ肉体は滅びても、魂だけは日本に飛んで帰って肉親のもとに傍に行ってください」と祈るのである。
* ソ連兵にも信頼されるようになり、港まで生活物資の受け取りに行くこともできた。監視も緩んだ。「お前は若いのでソ連の女性と結婚してはどうか」と勧められたりもした。ナホトカ港には多数の日本人捕虜が岸壁や道路で作業をしていた。
* 平和なこの病院にも民主グループの一団が乗り込んできて共産主義の学習が始まったことにも嫌気がさし、許可を得て病院船・高砂丸で帰国した。昭和23年9月11日に舞鶴に到着した。
ナホトカの哀しさは、ウラジオストックに「繁華」を奪われただけではない。60万人のあってはならない苦しみは凝結しているからである。
丸山国武さんが遺体を運んだという日本人墓地は、われわれが墓参に訪れた、ナホトカ港を見下ろす丘の中腹にある、ナゴルナヤ通りのもののことであろう。
ナホトカの日本人墓地はたとえ遺骨が回収された後でも、スターリンの暴虐と日本人の受けた史上最大級の不条理な恥辱を、そしてシベリアの極限状況で起きた日本人による日本人いじめを、そして日本海の身に危険のまったくない、安全な此岸で抑留者たちを当然の報いといって冷淡な視線を浴びせた、今は亡き学者や進歩的文化人の無知と誤謬を忘れてはならないのである。
極東ロシアの旅から帰って、ナホトカを考えることは、いつの間にかシベリア抑留を考えることと同義になってしまっていた。
(つづく)