「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(三)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 講義で感じたこと気付かされたこと
 
 歴史家・歴史学者の多くはいつも列島内で重箱をつつくような詮索主義である。先生が講義で触れられたが「俯瞰の眼識」が欠けている。狭く近視眼的で細かい事蹟や国内のせめぎ合いなどの足跡だけは調べあげるが、時代の意志が見えてこない。生きた人間が出てこない。先生の『半鎖国状態で深呼吸している』という表現で、初めて臍落ちするようなことが歴史にはもっとあるはずです。

 それにしても、平安宮の元旦「朝儀」の荘厳な絵巻物のような光景がすばらしい。しかし「礼」がまつりごとそのものであると教えられれば、儀式の見方は一変する。限りなく格式は高く、規模は盛大でかつ雅びで、式次第は一寸の狂いもない厳粛等をもって「王」の極大の権威を内外にとどろかせる。その頃(特に遡って天武帝の頃など)心地のよい緊張感はこの列島にあったのだろう。現代はその意味でもっとも不幸な時代に相当するという気さえする。日本人は息の詰まる平成を生かされている。当時はさぞ初日の晴れやかな空気が列島に満ち満ちていたという感じがしてきます。

 歴史というものは「他」に対する「我」が深く考えられるようになってはじめて湧いてくる。編纂しようという意識がめばえる。朝儀に最澄や空海までも参列していることを想い合わせると圧巻であります。そこで思い出しますが、帰朝した空海がなぜ二年間も筑紫の地で足止めさせられたのか、最澄はさっさと上京が許されたが、なぜ空海は警戒されたのだろうか、と考えたことがありました。

 推古朝あたりから、朝鮮との軍事的交渉がおもくるしいものになっている。この朝儀の頃(もう少し前の時代でしょうか)、唐が侵攻してくるという切迫感は相当なもので、九州、四国、近畿まで要塞が築かれていたことでわかります。最澄は官製的秀才だが空海は異端的鬼才で、唐から何を持ち込んでくるかわからない。

 得たいが知れないという評価があって信任されなかったのではないか。最澄は秀才だったが警戒される人ではなかった。空海は密教の奥義を授けられ帰朝したが、反面怪しい。国を根本から揺さぶる「宗教」の怖さは骨身に滲みている。その後の空海の超人的伝説的な活躍は知られている通りですが、いずれにしろ対外緊張度の高さという点からこの話を思い出します。

 “赤ちゃんの即位”のところでは自問自答させられます。無理やりにでも必死に、どんなことをしても皇統護持をなさしめる。このことを考えると、『保守の怒り』で主張された平田文昭さんの持論「統帥権をもつ国家元首」としての天皇。それは排除される。平田さんは明治大帝をイメージされているかもしれない。二百年、三百年後、さらに五百年後を思ったとき困難である。方今直下の危機はそんな間延びした話ではないと言われるだろう。が、先生の言われた「京都へのお帰り」が正しい道筋ではないだろうか、と思ったりする。

 王がなくなると民族はなくなる――日本国民の所業を見ていると、日本民族など真っ先に地上から消え失せてしまう。“赤ちゃんの即位”ほどのぎりぎりの切迫感をどれだけの今の日本人が感じられるだろう。

 「道鏡」「将門」「尊氏」「義満」など、いずれも皇位を脅かし皇位を奪ってしまうというところまでいった危機である。だが、現代のような「皇室そのもの」を無くしてしまえ、というような強制的水平化の空気はなかった。今なおかまびすしい“女帝”容認論議を押し進める保守の人たちがいる。風潮に乗じて道鏡的なものが生まれるスキはないのか、その油断はないのか、物言う人はもっとまじめに考えてもらいたいと思うことがある。

文責:伊藤 悠可

つづく

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